躊躇なく、れいわ新選組への「挽歌」と標題にした。
わたしの中では、れいわ新選組は終わった。
山本太郎と大石晃子が離脱した政党など蝉の抜け殻同然だ。その抜け殻をめぐって、どうしたら有効な形で存続させていけるか、議論することに意味など見出せない。中身のない抜け殻でしかないからだ。
山本太郎と大石晃子は、永田町の世界を茶番政治の場だと看破したが、看破したのはそれだけではない。永田町の世界の政治を「貴族」政治と見抜いた。
当然に、目で見えたのではない。永田町の世界を生きて「感性」でつかんだのだ。
わたしは丸山真男が切り拓いた、独自の学問的視点と方法論をもつ日本政治思想史を恩師の橋川文三から手ほどきを受け、橋川文三の誘惑に導かれるようにして小説家となった。
橋川文三の学問的アプローチの起点となるのは「直観」だ。突如としてどこからかやってきた直観が起爆剤となる。その「直観」の意味を説き明かすべく歴史の奥深くへと足を踏み入れることになる。かつてわたしがブログで恩師の橋川文三を「直観の人」と断定的にいうと、わたしが所属していた橋川文三ゼミの敬愛する先輩たちから批判をされたことがある。橋川文三こそ切れ味鋭い「論理の人」だと反論された。
わたしは、橋川文三が切れ味鋭い論理的な思考力をもっているのを否定するつもりはない。その意味では論理の人といえるのだろう。わたしが言っているのは、橋川文三の日本政治思想史という学問における本質的姿勢と方法論を言っているのだ。橋川文三の学問的方法論とアプローチの仕方は優れて文学的だ。文学的な直観が核にある。それだけに難解であり、理解するのは厄介になる。
わたしは文学を志している。だから、政治の見方は恩師譲りにならざるを得ない。感性=直感で先ずはつかむ。それからその直感の意味を論理的に思考することになる。
山本太郎は「直観の人」だ。わたしはそう確信している。
最近では、大石晃子も「直観の人」であると気づかされた。
こう書くと当然に反論が嵐となってやって来ることになるのだろう。山本太郎は論理的な人だ、ましてや大石晃子は論理の人だと。
山本太郎と大石晃子は、永田町の政治が茶番政治だと指弾した。それよりもより本質的であり決定的なのは、永田町の世界の政治が「貴族」政治だという指弾だ。茶番政治については理解できても、貴族政治の意味をつかんでいる、れいわ新選組の議員と党員と支持者は少ないのではないだろうか。が、この貴族政治という直観こそが、れいわ新選組とは何かを考える上で本質的だ。だからといって、文学的であり、鋭い感性の介在が要求されるから、真の意味にまで到達するのは難しい。
言葉では永田町の茶番政治の意味を理解できても、その奥に隠れたより本質的で、決定的な意味としての貴族政治にまでは辿り着けない。山本太郎と大石晃子が離れた、れいわ新選組に巻き起こっているゴタゴタの源は、れいわ新選組とは何か、という原点における理解の齟齬から生じている、とわたしは確信している。
れいわ新選組を語るときに顕著なのは、議員にしても、党員にしても、支持者にしても、積極財政論と消費税廃止などの経済政策を一丁目一番地として語り、そして基幹となる諸々の政策から語られる。それを何ら怪しんでいない。
わたしからみたら、そんな政策は二次的なものでしかない。何故に二次的かといえば、れいわ新選組の本質ではないからだ。政策は真似ができても、本質は真似ができない。れいわ新選組の本質とは、他党が真似ができないものであり、永田町の世界を生きる政党にとって命取りになるものだからだ。だから、れいわ新選組は二次的な政策を真似され(選挙の口先だけの公約)、永田町の世界を生きる政党にとって致命的になる「れいわ新選組の本質」が国民に露呈する前に、徹底的に総攻撃されたのだ。
誤解を避けるために断っておくが、二次的な政策はどうでもいいと言っているのではない。本質的土台を抜きにした政策など砂上の楼閣でしかないと言っている。参政党の選挙公約と政策を挙げるまでもない。
わたしからみて滑稽なのは、れいわ新選組の存続をめぐるゴタゴタが二次的なもののレベルで行われていることだ。本質的なレベルで行われていれば、たがや亮と大島九州男、そして阪口直人などがいかに、れいわ新選組の本質から乖離しているか、永田町の世界の貴族政治の根性丸出しか分かろうというものだ。それが、本質的意味を脇に追いやってゴタゴタ劇が繰り広げられている。わたしが「れいわ新選組への挽歌」をこうして書いている理由だ。
これから「貴族」政治の本質的な意味を説き明かすことによって、れいわ新選組とは何かという原点における理解の齟齬について語っていきたい。その際の貴族政治の意味だが、立憲民主党の国民投票法成立の過程における小西博之の言動と、副首都法案の成立に反応した辻元清美の言動を検証することで、貴族政治の本質的意味がもつ政治的堕落とその深刻さを浮かび上がらせたい。
先ずは、2026年7月25日の辻元清美のTwitter(X)に上げたポストからみてみよう。
「副首都法案の付帯決議について、与野党の議員が長時間にわたって調整し、深夜まで国会を開いて全ての議員が待機した。 たった2票差、ぎりぎりで可決された。 その直後、維新の吉村代表が、国会での答弁や決議を覆すような発言を大阪でしたのだ。 私はこの発言を聞いて、『この人、国会議員でないから、こんな無責任な発言ができるんだ』と思った。 立法府に身を置く議員が代表だったら、立法府で決議をした直後にインタビューでそれを覆すような発言は、さすがにできないだろう。 大阪府知事と維新の代表を兼ねた吉村という人物のこの発言で、やはり副首都法は『維新の維新による維新のため大阪ありきの法案だった』と明らかになった」
辻元清美のような人でも長年の間、永田町の世界に生きていると「無自覚に」特権的な貴族社会の毒に魂までがやられてしまうのだ。付帯決議を有り難がり、効力と縛りがあると考える辻元清美をお目出度い甘ちゃんだというのではない。国会議員が棲息している立法府という社会を特別の社会として暗黙に思っていないと出てこない文言がちりばめてある。「この人、国会議員でないから、こんな無責任な発言ができるんだ」という文言には、正直、大笑いしてしまった。国会議員くらい無責任な人間はいないだろう。責任感も、羞恥心も、倫理感も、矜持も、誠もないから、裏金議員たちが胸を張って跋扈しているのが立法府という国会であり、そこの最高権力者の髙市早苗に至っては嘘で塗り固められた生を生きている。今や、立法府という国会と行政府という永田町の世界が無法地帯であり、私利私欲の亡者たちが跋扈し酒池肉林のやり放題をしているのが永田町という世界なのだ。それだけではない。永田町の世界を特別な世界、つまり貴族社会だと無意識に信じ込んでいるのだ。辻元清美は「立法府に身を置く議員が代表だったら、立法府で決議をした直後にインタビューでそれを覆すような発言は、さすがにできない」とのたまうが、わたしからみたら「立法府に身を置く議員」だから舌の根も乾かないうちに約束を反故にできるのだ。
が、辻元清美にはそうは見えない。永田町の世界という貴族社会への妄想を生きている。だから政治が永田町という貴族社会を生きる貴族=国会議員の独占物になる。そして、貴族社会特有の暗黙の道徳と仕種と約束事を生きることになる。そこから逸脱するものは下品であり、貴族社会を生きるに値しないクズと言われて懲罰動議という排除の論理が働くことになる。
まだ永田町の世界に良識と良心と、そして政治家としての矜持と使命感と責任感があった時代ならば、辻元清美の発想と論理も許せるが、安倍晋三によって公文書までが書き換えられ、嘘で国会が塗りつぶされ、立法府が腐敗と非倫理の巣窟となってしまったのを現場で体験したはずの辻元清美の政治的眼力と政治的感性は完全にぶっ壊れてしまったのではないのか。
辻元清美の国会での質疑は論理的であり、的確に急所を突いたものであり、権力者を追い詰めるテレビ中継の追求劇としてみると圧巻だが、残念ながら、腐敗と非倫理と嘘の巣窟でしかない立法府では、そして政府にとっては痛くも痒くもない。辻元清美にとっては国民に勇姿をみせる晴れ舞台なのだろう。わたしは辻元清美の国会質疑が一級品であるのは認める。が、見世物でしかないのだ。
小西博之の国会質疑も一級品だ。論理の切れ味と着眼点と、そして理詰めで追い詰めていく国会質疑は昨今のテレビドラマよりも見応えがある。が、それだけでしかない。
わたしは安保法制反対闘争のときに、ブログで小西博之の国会質疑を取り上げ絶賛したことがある。興味があれば読んでみてほしい。
絶賛したわたしだが、国民投票法の小西博之の言動には幼稚さしか感じられない。質疑と論理は一級品だ。が、論理と、その論理で勝ち取った付帯決議が歯止めになると、未だに思い込めているその現実認識が幼稚だというのだ。論理がすべての人だからだろう。
敵は国会を放火して全権委任法を勝ち取ったナチスを手本にしているのだ。目的のためには手段を選ばないだけでなく、嘘が人格にまでなっている髙市早苗を神輿に担いでいる勢力が敵なのだ。
辻元清美も小西博之も、立法府への幻想を生きている。貴族根性に犯されてしまっている。だから、政治が貴族社会を前提にし、貴族社会の檻の中で完結してしまっているのだ。永田町の世界の貴族政治の本質がここになる。必然的に翼賛化するし、暗黙のシナリオが出来上がり、そのシナリオに沿って茶番劇を繰り広げることになる。その茶番劇において、辻元清美と小西博之が演技する一級品の質疑は華やかな色と盛り上がりを作り出すが、飽くまでも茶番劇でしかない。国民はどこまでいっても見物人であり、参加者ではない。
一級品といっても何回も同じものを見せつけられていると、絡繰りに気づき、ないはずのシナリオまでが想像できてしまう。そして、想像通りの結末を迎え興ざめすることになる。
国民を見物人にしたまま、圧倒的多数の政府与党に何ができるというのか?
国会質疑でどんなに理詰めで追い詰めたとしたって、誹謗中傷動画で総選挙を乗っ取って居直っている髙市早苗と政府自民党はビクともしない。マスコミと司法まで牛耳ってしまっているのだ。
戦略的で、論理的で、理詰めの質疑で、どうにか付帯決議を勝ち取った、これで歯止めがかかった、などと寝言を言っても、自己顕示と自己満足でしかないことは、真っ当な頭があれば分かる。副首都法案が可決した直後に、付帯決議を維新の党首が反故にしてみせたが、分かり切ったことだ。永田町の世界の政治に倫理を求めることが非現実的だ。髙市早苗と政府自民党と維新の暴走を止められるとすれば、いかに国民の心を巻き込むか、そしてどうやったら巻き込めるかという発想の先にしかない。
れいわ新選組とは何か?
本質にあるのは永田町の貴族政治とキッパリと切れたところにあり、立ち位置を庶民の命と暮らしの中に置いて、庶民の命と暮らしを守る草の根政党だということだ。命と暮らしをどう守っていくか、諸々の政策とはその手段だ。
命と暮らしを守るという原点には、山本太郎が政治家を志した原点である3・11がある。貴族政治の乗り越えと3・11という原点が置き去りにされて、脇に押しやられれば、どんなに政策を論じても空しいだけだ。永田町の貴族社会にあって政策論議をしているのと変わりがないからだ。そうなれば何も、れいわ新選組である必要性はない。
ゴタゴタに付き合ってはいられない。
わたしの中で、れいわ新選組は終わった。
が、ここからが出発点だ。
山本太郎と大石晃子の新たなる再出発を夢見ている。そのときは、当然に草の根の象徴である「襤褸の旗」を掲げるに違いない。わたしは、間違いなくその襤褸の旗に結集する。


