「北林あずみ」のblog

カテゴリ: 文学的エッセイ+電子書籍小説のPR

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 北林あずみは、Twitterとブログから逃走し、小説家としての野心まで投げ捨ててしまったのか。そう思った方が多かったのではないだろうか。
 それは見当違いだ。
 正直に告白しよう。Twitterとブログから姿を消し、沈黙していたのは、町内の老人会が懇意にしている地主から無料で借りている畑で耕作をしないかと誘われたのが発端だ。
 おそらく地主にとっては老人会が畑にしていることで、草刈りなどの維持管理費が節約でき、また税金問題の対策にもなるメリットがあるのだろう。だから無料で貸しているのだろうが、老人会も高齢化が進み、農作業ができなくなって耕作放棄した者が出てきたり、新たに老人会に入って畑をやる者もいなかったりで、草が伸び放題になった畑が増えたのだろう。地主からみたら、その状態を放置してはいられるはずがない。そうした地主の意を汲んで、老人会が新たに耕作する者を探していたというのが事実なのだろう。
 わたしは現在、有料の市営の貸し農園を借りている。そして、どうにかして野菜の自給自足ができないかと目論んでいる。が、猫の額ほどの市営の貸し農園では無理だ。一区画が6メートル×6メートルほどの農地で、市に支払うのは年間で一区画12250円になる。2区画借りているので25000円になるが、これ以上払える余裕はない。どうしたものかと思案していたのだった。
 そんなときに、老人会からやらないかと誘いが舞い込んできたのだ。わたしは今年5月で68才になった。65才以上の町内会員なら誰でも入れる老人会だから、当然にわたしにも資格はある。が、老人会なる組織に入る気持ちはさらさらない。老人会という組織に、胡散臭さいものを嗅ぎ取っていたからだ。老人会のような組織には、得てして、ボス猿的な存在がいる。そして、そのボスを中心として出来上がった諸々のルールに縛られ、自由な発想と行動を奪われるばかりか、目には見えないしがらみにがんじがらめになり、精神的に窮屈になるに違いない、と容易に想像がついた。
 しかし、猫の額ほどのお遊びの農業から、本格的な農業の世界へと一つ階段を上がれるという誘惑には勝てなかった。ブログで連載している長編小説『三月十一日の心』においても農業は重要なテーマの一つだ。小説で描く農業の世界をより深めるためにも、一歩階段を上がって、実際にその世界を体験しなければ、という思いも強くあった。
 老人会に入らなくてもかまわない、という条件付きで、わたしは耕作をすると決めてしまったのだった。今年の四月のことだ。
 妻はわたしの性格を知り抜いている。その妻から「老人会の人たちと一緒に農業などできるはずがないから、止めなさい」と諫められた。妻の忠告を無視したのが間違いだった。結果は、妻の忠告どおりになってしまった。
 これから、その顛末記のようなものを、わたしの農業観を中心にして、自戒をこめて書くことにする。そして、老人会という組織を垣間見ることで、自民党から日本共産党までの既存政党が、不思議なことに老人会という組織とオーバーラップして見えたのだった。それについても合わせて論じたい。
「れいわ新選組」が、いかに既存の政党と異質か、老人会という組織に直に触れたことで改めて知った思いがした。
 ウクライナ戦争によって、それまで戦略的に支持していた日本共産党の胡散臭さを突きつけられ、わたしは日本共産党と決別した。そして、日本共産党を含めた、いわゆるリベラルと左翼と知識人の限界と虚妄性を知ったのだった。それが引き金になって、わたしは「れいわ新選組」のオーナーになることにしたのだが、その選択が間違いではなかったと老人会なる胡散臭い組織に教えられた気がする。
 もちろん老人会なるものにもいろいろある。すべてが胡散臭いものだと決めつけるつもりはない。初めに断っておきたい。


 農業とは自然破壊だ。
 これが、わたしの農業に対する基本的な認識だ。
 が、何故にわたしが農業に憧れを抱き、また拘るのかというと、人は自然とどう向き合って生きていくべきかという、わたしにとっての生きる上での本質的な問題を投げかけてくれるからだ。そして、人は自然を破壊することで生存する運命を生きているという厳粛な事実を、否応なしに突きつけてくれるからだ。
 人間とは自然(=地球)が産み落としたものだ。その母なる自然を破壊することでしか生きていけない。思えば、人間が背負っている原罪ともいえるものではないだろうか。

 言葉を換えて農業を語ってみよう。
 人間の身体とは、人間を産み落とした母なる自然(=地球)と繋がっている。したがって、母なる自然が産み落とした地球上の生きとし生けるものの命とも結びついている。
 では人間の意識(=理性)はどうか?
 人間に特有のものであり、敢えて言えば、地球上の生きとし生けるものの命と切れている。
 農業とは、人間の身体を生かすための食物を作り出すための人の営みだ。そして重要なのは、その身体を生かすための食物は自然が作り出してくれるということだ。だから、どうしたって自然と関わらざるを得なくなる。その関わり方は、基本的には、自然に手を加えて自然を破壊し、自然から恵みを収奪するということになるのだろう。厳密に言えば、耕作それ自体が自然破壊でしかないからだ。
 基本的には自然破壊でしかない農業だが、人間はそれなしには生きていけない。母なる自然を破壊することでしか生きていけない人間の原罪とどう向き合って生きて行くのか。これは人間にとって重要な問題であるはずだ。いや、問題にしなければならないはずだ。人間の生き方と、人間が作り出す社会のあり方と、価値観と、倫理観とに大きく関わってくるものだからだ。
 わたしはキリスト教の精神土壌に根ざす西欧の心身二元論は、この自然破壊をすることでしか生きていけないという原罪を、キリスト教という宗教に矮小化してしまったことに端緒があると思っている。そして、神の似像だと意識(=理性)を絶対化することで、人間中心主義に陥り、自然と繋がっている身体を蔑視することで、本来の原罪を、キリスト教的な原罪に堕落させてしまったのではないのか。
 そして、西欧近代主義は、更にそれを加速化させてしまったのではないのか?
 いや、原罪を忘れさせられただけでなく、人間中心主義の傲慢さで、自然を人間に奉仕する物としてしかみられないようにされ、自然破壊を推し進めることが人間の社会に富と豊かさとを与え、果ては、自然破壊に「進歩」を重ね合わせてみるようになったのではないのか?
 そうなると農業のあり方も変わってくる。
 農業が否応なしに人間に突きつけていたはずの、人間を産み落とした母なる自然を破壊することでしか生きていけないという原罪など影も形もなくなり、どうやったら効率よく、そして大量に作物を作り出せるかという農業にまで堕落してしまったのだ。
 自然に対する原罪意識がなくなるのだから、積極的な自然からの収奪が始まる。理性と科学とを絶対化した人間中心主義の農業へと大きく舵を切ることになった。大量の農薬と化学肥料を使った自然収奪型の農業の始まりだ。アメリカの機械化された大規模農業がその典型だろう。その行き着いた果てに待っていたのはレーチェル・カーソンの『沈黙の春』だ。
 
 レーチェル・カーソンの『沈黙の春』と対照的なのは、里山を基本に置いた農業だ。
 自然破壊という基本に変わりはないが、常に原罪と向き合った農業だったのだろう。わたしは、自然から恵みを頂くという発想がその根底にあったのだと思っている。だから、自然から恵みを頂く代わりに、自然の営みを豊穣にする手助けにつながったのだろう。意識的か、偶然かは分からないが、間伐材を原木にした椎茸栽培や、堆肥に利用された、多目的の雑木林が、豊穣な生態系を生み出したことは注目すべきことだろう。絶滅危惧種に指定されている動植物の多くが里山と深く関わっているのは偶然ではないだろう。
 その里山は、大量の農薬と化学肥料を使った自然収奪型農業に代わって荒れ果て、昔の姿を留めてはいない。わたしは子供の頃から昆虫が大好きで、採集をしたり、虫と遊んだりしていたのだが、だから最近虫が激減したことに寂しさと、憤りを覚えている。葉の先に一滴でもかかれば、根っこまでも枯れ死する除草剤の使用が許されている日本という国だ。なるべくしてなったとしか言えない。
 人間中心主義と理性と科学万能主義が根底にある近代主義農業が、
心身二元論が精神土壌にある欧米型の農業だとすれば、里山主義農業は東洋的な身体論(身心一体)の発想が根底にあるのだろうか。

 ウクライナ戦争は、これまで影に隠れてみえなかったものを、わたしに余すことなくみせてくれた。
 日本共産党の志位和夫に代表される、いわゆるリベラルと左翼と知識人といわれている西欧近代主義亡者のおぞましさと、幼稚さとが、これでもかと暴露された。正直なところ驚いた。
 西欧近代主義は自由と平等と友愛を高々と掲げ、基本的人権とヒューマニズムと民主主義とを崇高な中心的な価値とするものであり、理性と科学とを絶対視するものだが、それらすべてが、如何にいかがわしいものであり、欧米中心主義に貫かれたものであるか、ウクライナ戦争は、わたしにこれでもかと突きつけてくれた。
 アフガニスタンの土に還っていった中村哲医師のインタビュー記事を読んで、分かってはいたが、ウクライナ戦争は日本のいわゆるリベラルと左翼と知識人の危うさと欺瞞性とを決定づけるものとなった。
 ウクライナ戦争は、それまでの政党の立ち位置を分ける境界線が虚偽であったことを暴露してしまった。ゼレンスキーの演説に熱く感情移入して、涙を流さんばかりに拍手喝采し、スタンディングオベーションをした日本共産党の志位和夫の姿とコメントは象徴的なものだった。
 自民党と公明党と維新と国民民主党が基本的には同じ立ち位置だとは認識していたが、立憲民主党ばかりか社民党と日本共産党までが同じ立ち位置だと宣言したのが、ゼレンスキーの演説へのスタンディングオベーションではなかったのか?
 志位和夫は、ゼレンスキーが国民に呼びかけた国民総動員による徹底抗戦を「正義の戦争」だと言い切ったのだ。志位和夫だけではない。れいわ新選組以外の国会議員と、いわゆるリベラルと左翼と知識人といわれている者たちも同様だ。
 そこに浮かび上がってきたものは何か?
 影に隠れてみえなかった大政翼賛体制ではなかったのか?
 日本の政治の本質と、そのおぞましい姿をウクライナ戦争が暴露してしまったのだ。そして、政党を隔てる境界線は本質的にはなかったと暴露してしまったのだ。
 本質的には境界線がない大政翼賛体制の政治に日本の未来があるとは思えない。このまま腐敗し、凋落し、破滅の坂道を転がっていくだけだろう。
 が、ウクライナ戦争は新たな境界線を浮かび上がらせてもくれた。既存政党と「れいわ新選組」との間に横たわる境界線だ。
 欧米以外の国々のウクライナ戦争への見方は違っている。「れいわ新選組」はこうした欧米以外の国々がもっている目を共有している。明治時代に「脱亜入欧」が唱えられ、アジア蔑視へと転がり出した日本だったが、そのおぞましい歴史の魂が生きていたとしか思えない。
 理性と科学を、わたしは全否定するのではない。理性と科学を絶対視する姿勢を否定しているのだ。
 志位和夫の幼稚さは、それが分からないところからきている。
 理性と科学とが絶対ではないのは、農業が教えてくれている。
 農業は、自然破壊をすることでしか生きていけない人間の原罪を人間に突きつけてくれている。その原罪とどう向き合うのか、その分岐点からどういう生き方の道へと歩き出すのか、と問うてくれている。志位和夫にはその声は聞こえるはずはない。が、仮に聞こえたとして、その分岐点からどちらの方向への道を歩み出すかで、理性と科学のあり方は根本的に変わってくる。
 志位和夫の考えだと、理性と科学は絶対であり、理性と科学は一つの真理に向かって突き進むもので、その真理こそ人間の社会に富と豊かさとを与えるものであり、真理へと向かう理性に導かれていく者に過ちはないという妄想を生きているのだから、こう言っても分からないだろう。
 葉先に一滴でもかかれば根までが枯れ死する除草剤を作り出したのは理性であり科学だ。その除草剤を作り出す化学式は真理になる。化学肥料もまた理性と科学の産物であり、有機肥料よりも手っ取り早く、速効性があり、大量に農産物が作り出せると信じて疑わなかった。
 ランドアップとかの猛毒の除草剤や、あまたの化学肥料を生み出したのは理性と科学であり、ある意味この化学式は真理だ。こうしたものを平然と生み出したのは、先に指摘した分岐点から、心身二元論が精神土壌にあり、心(=意識=理性)を絶対化した西欧近代主義の科学万能主義の道を歩き出した結果なのではないか。
 
 老人会が借りている無料の畑で農業をしたことが切っ掛けで、これまで知らなかったいろいろな農法を研究(それほど大袈裟ではない)したのだが、新しい農業の潮流ができているのを知った。
 明らかに西欧近代主義の農法ではない。面白いというか、感慨深いというか、母なる自然が産み落とした、生きとし生けるものの命の関係性と循環と生態系の中に組み入れた農業のあり方とでもいうべきものの模索だ。如何にこれまでの近代主義農業が歪であり、短絡的であり、表層的であり、傲慢なものであったか、改めて思い知った気がした。正しく、自然から恵みを頂くという発想であり、心と身体とを分離することなく一体として見た先に描き出された、農業的な世界観だ。
 土の世界の複雑さと豊穣さにビックリした。土そのものが一つの世界を作っているのだ。その世界を理解し、その世界に農業を一体化することなしに未来はないとも思えた。自然破壊の原罪としっかりと向き合い、その原罪を可能な限り極小化する方向性があり、里山的な豊穣な生態系を生み出す可能性をも秘めている。
 この土の世界を解明したのも理性と科学ではないのか?
 西欧近代主義の科学万能主義の道を暴走する理性と科学があり、この土の世界を解明し、この世界の関係性に農業を一体化させようとする発想を持ち込んだ理性と科学とがある。どちらも理性と科学であり、「真理なるもの」を追究するものだが、進んでいく方向性と道とが違う。方向性と道とが違えば、まったく代わったものになる。それによって人間社会にもたらすものもまったく違ったものになる。
 それが、無邪気な志位和夫には分からない。分からないのは志位和夫だけではないから絶望的なのだ。だから原発を生み出し、戦争をする兵器を生み出して喜んでいる。

 わたしが老人会の借りている無料の畑から今年限りでおさらばすることにしたのは、老人会のボス的な存在の者が、農薬と化学肥料の信奉者であり、化学肥料さえ大量に投与すれば農作物が取れるという発想が根強くあるからだ。化学肥料と農薬を大量に投与すれば土が死ぬという発想が皆無なのだ。
 そればかりではない。市が主催の環境美化週間なるものがあり、町内会と老人会も積極的に参加して、道路や空き地に捨てられたゴミや空き缶を拾い集めたりしているのに、あろうことか、借りている畑の隅に穴を掘って、要らなくなったビニールマルチや肥料袋、ネット、ブルーシート等々を捨て燃やすというのには驚くしかなかった。
 持ち帰って市指定の分別用のゴミ袋に入れて処理するのが当たり前の行為のはずだ。無料で借りているのに、その土地にゴミなど捨てるなどあっていいはずがない。オマケに畑の周囲には、不法投棄禁止の看板が掲げられているのにだ。ダイオキシン問題もある。市がゴミ処理場の建設するにあたって、住民から反対運動が上がり、火力を上げることで落ち着いたいきさつもある。昔の話ではない。それが、枯れた竹と一緒に燃やすから火力が高くなるからダイオキシン問題はない、というに及んでは唖然とした。
 ウクライナ戦争で、反戦と平和を掲げていたはずの日本共産党が、ウクライナのゼレンスキー大統領が国民総動員での徹底抗戦を呼びかけ、祖国防衛を国民に義務づけたことに感情移入し、祖国防衛を正義の戦争だと絶賛したことを想い出してしまった。まったく同じ矛盾した論理だ。日本共産党だけではない。れいわ新選組以外の既存の政党はどこも同じだ。
 老人会は保守的だ、というのは誤りだろう。
 自然破壊を率先して行う西欧近代主義農業を絶賛している。自民党も同様であり、公明党も、維新も、国民民主党も、立憲民主党も、社民党も同様だ。日本共産党は大規模農業から家族農業への転換を掲げてはいるが、理性と科学万能主義の志位和夫の発想が基本にあるから、「本質的には」同様だろう。
 こうしてみると、保守とリベラルとの境界線がないに等しい。先に述べたとおり、ウクライナ戦争が、リベラルと左翼と知識人の欺瞞性を暴露し、本質的には自民党と同じ西欧近代主義の価値観と世界観にがんじがらめになっている姿が浮かび上がってきた。
 既存の政党(大政翼賛政治)という組織では未来はない。わたしにそう実感させたのはウクライナ戦争だ。
 わたしが「れいわ新選組」のオーナーになったのは、「れいわ新選組」がウクライナ戦争でとった行動に賛同したからもあるが、何よりも既存の政党の「組織」につきものの胡散臭さとしがらみがないことだ。その証拠が「大石あきこ」の存在だ。既存の政党では「大石あきこ」は生まれようがない。組織の胡散臭さとしがらみが、「大石あきこ」的なるものを排除していまうからだ。山本太郎が党首であり、「れいわ新選組」が既存の政党のような体質と本質がないからこそ、「大石あきこ」という政治家が産み落とされたのだと確信する。
 どの政党も恥ずかしくもなく多様性などと口にしているが、極論すれば、党が背後から操るおニャン子人形の生稲晃子と五十歩百歩だとまでは言わないが、政党という組織の鋳型に嵌まり、政党という組織のしがらみとルールにがんじがらめになってしまっているのではないのか。金太郎飴とかわらないだろう。
 言葉の厳密な意味での多様性をいうなら「れいわ新選組」しか当てはまらない。しかし、しっかりとしたベクトル(方向性)はもっている。その上での多様性だ。
 農業で言えば、新しい農業の潮流が「れいわ新選組」になるのだろう。新しい潮流の農業でしか、農業の未来は拓けないだろうし、そうでなければ人間社会が破滅するだろう。
 政治も同じにみえてならない。れいわ新選組以外の既存の政党では未来は拓けないのではないだろうか。日本は破滅しかない。そんなことを考えさせられた老人会とそれにまつわる農業騒動だった。

 耕作放棄された畑の開墾には苦労した。
 鎌で草の根っこまで取り除き、それが終わったらスコップで耕したので、右膝を痛めてしまった。開墾したのは耕作放棄地だけではない。欲張って荒れ地にまで手を出したから、Twitterをやっている暇はなくなるし、ブログの更新など出来るはずがない。それでなくても遅々として進まない連載小説『三月十一日の心』など書けるはずがない。その上に、市営の貸し農園がある。
 老人会の畑は今年いっぱい続けることにした。直ぐにでも止めたいのだが、大玉トマトが85本植えてあり(売るのではない。前からトマト栽培がどんなものか知りたかったのだ。ほとんど遊び感覚だが……笑)、サツマイモの苗が90本、スイカが5株、メロンが2株、カボチャが8株、そして里芋とヤーコンとネギがある。それを収穫しないで止められるはずがない。これまでの苦闘が水泡に帰すからだ。
 からし菜、大根、ニンジン、カブ、春菊、ソラマメの収穫は終わった。インゲンの収穫も終わりに近い。後は草取りをしたりして、残りのものを収穫するだけになった。といっても、スイカとメロンの人工授粉の作業は終えたが、カボチャの人工授粉に早朝に畑に出かけなければならない。それと、85本のトマトの脇芽かきなどの作業がある。
 市営の貸し農園では、枝豆とキュウリとナス、そしてピーマンとシソ、石川県の里芋、唐辛子などを栽培している。この猛暑で、時折水やりもしなくてはならない。農作業はこれからも続くが、一段落ついた。
 これからはまた通常運転に戻る。
 Twitterとブログで積極的に「れいわ新選組」を熱烈に応援したい。
 わたしが開墾した畑がどんなものか、市営の貸し農園を含めて以下写真で紹介する。早朝に撮ったものがほとんど。
 いつものように、疲れたので推敲しない。誤字脱字はご容赦願いたい。

 開墾した畑1(ジャガイモ・トマト・インゲンその他)
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      収穫し終わったジャガイモ畑
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 開墾した畑2(トマトとサツマイモ)
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 ※草も混じっているが、サツマイモの間にみえるのはリビングマルチ(オオムギ)。赤ジソも植えてあるのだが、隠れてみえない。

      ヤーコンと里芋
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       熟してきたトマト

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 開墾した畑3(黒枝豆とトマト)
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 開墾した畑4(スイカ・メロン・カボチャ)カラスとハクビシン対策の苦心作
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 開墾した畑5(カボチャ)
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 【市営の貸し農園】
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 ※草ではない。リビングマルチ(オオムギ)赤ジソはコンパニオンプランツ

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        石川県の里芋と枝豆

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        ピーマン・唐辛子

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        ナス2

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            キュウリ
 
 これらの写真をみれば、Twitterとブログがおろそかになるのが納得できるのではないでしょうか?

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 無料キャンペーン中のKindle電子書籍として出版している、小説『故郷』の反響がまったくない。覚悟はしていたが落胆が激しい。
 総選挙の結果の落胆と重なって、落胆が増幅し、その落胆が憎悪に姿を変えて爆発し、昨夜はTwitterで、日本共産党が若者を巻き込んで力を入れている気候変動問題の欺瞞姓に襲いかかり、日頃から思っていることを、Twitterで際限なくつぶやいてしまった。酒が入っていたので、本音が出てしまった。
 本気で気候変動問題を考えたら、マルクス主義は捨てざるを得ない。これが、わたしの結論なのだが、そう言ってしまうとJCPサポーターとして立つ瀬がないのだが、致し方ないとも思う。
 今回は、昨夜のしょうもねえ飲んべえ爺さんのツイートを、辿る形で、気候変動問題の運動の何にいらついているのか、気候変動問題の本質は何処にあるのか、またマルクス主義では、その本質には迫れない理由は何か、その本質に真剣に迫ろうとすれば、マルクス主義を捨て去るしかないとはどういう意味か、思いついたままに述懐したい。
 そして、気候変動問題を真剣に考えるならば、無料キャンペーンをしている小説『故郷』が描いている世界観と、真正面から向き合う必要があると思う。ちゃっかり、小説『故郷』を宣伝してしまったが、これは冗談でも、大袈裟でもなく、そういう心づもりで書いた小説だ。
 では、昨夜の連続したツイートを辿ることにする。酔っ払っていたので、そのままではなく、修正して辿ることになる。
 その前に、気候変動問題運動に対する批判の理解を手助けするために、保守主義という定義について論じたい。これも酔っ払ってはいなかったが、Twitterで連続してツイートしたものがあるので、それを辿ることにしたい。もちろん、修正が入る。その後で本題に入るという二段階方式になる。悪しからず。

『わたしなりの保守主義の定義』
 保守主義そのものの定義が曖昧だ。識者によって違う。わたしは保守主義とは西欧近代主義の揺籃期の啓蒙主義批判にあると解釈している。
 カール・マンハイムに有名な『保守主義的思考』(ちくま学芸文庫)がある。詳しくは述べないが、人間が古来からもっている「伝統主義」と区別して、「保守主義」的思考様式について、「近代思考史における一つの統一的潮流としてはじめて語りうるものである。『保守主義』がはっきりと政治的・精神的潮流として刻印されて、現実的に存在するにいたるのは近代以降においてのことであり、それはまさしく近代的起源をもっている」と論じている。
 わたしはマンハイムが『保守主義的思考』で論じていることをそのまま首肯してはいないが、保守主義の起源については、反論の余地がない。
 わたしは、啓蒙主義の衝撃と、啓蒙主義のもつ抽象的で理念的な世界観に対する反発的な心情が、保守主義の起源だと理解している。
 そして、理性を絶対化した価値観と、だからこその機械論的世界観への懐疑が土台としてあったと思っている。当然に、科学至上主義にも懐疑的だったのはいうまでもない。機械論的世界観に対してロマン的色彩の反抗になるのは自然的な成り行きだ。反理性主義と反論理主義への傾斜もまた必然性がある。
 西欧近代社会とそれ以前の社会では、価値観と世界観がひっくり返ったような様相を呈していた。  早い話が労働観だ。現在の労働観とは、西欧近代主義の前の労働観とは逆だった。西欧近代社会になる以前の社会では、労働とは基本的に悪という労働観だった。資本主義が労働観を変えたと言ってもいいのだろう。労働が悪では資本主義はなり立たない。資本主義を否定したマルクス主義はどうか。まったく同じだ。労働を神聖視までした。労働が人間を人間らしくする本源だとしている。だから神聖だという論理だ。
 マルクス主義も資本主義もその土台には、西欧近代主義の価値観と世界観がある。西欧近代主義が生み落とした双生児といえるのだろう。どちらも西欧近代主義の申し子なのだ。そして、根っこに機械論的世界観があるから、どちらも全体主義になり易くなる。資本主義が「国家」を主張して全体主義になるのに対して、マルクス主義は「社会」を主張して全体主義になる。根っこに機械論的世界観があるのだから、どちらも全体主義になる資質が充分にある。それを避けるには民主主義の徹底しかない。
 北一輝は「国家社会主義」革命を目指したが、「国家」と「社会」の二つの看板を掲げた全体主義を目指したことになるのだろう。如何に西欧近代主義が全体主義になる危険性をもっているか、象徴的なネーミングだといえないか。詐欺師集団のナチスだと看板に何でもくっつけて飾り付けてしまう。大阪で乱暴狼藉をしている狂気の集団の維新そのままだ。ナチスの正式名称は、国家社会主義ドイツ労働者党だ。革命前夜のドイツにあって、労働者を解放する救世主の仮面をかぶって登場したのだ。
 わたしは小川淳也に、自分に溺れるナルシストの涙をみたが、小川淳也がファシストとは言わないが、ファシストになる資質が充分にある。小川淳也は、わたしの身体は、わたしだけのものではない、と言ったらしいが、こうしたことを臆面もなく言える資質は危険だろう。
 もう既に総理大臣にでもなったつもりなのだろうか。そのつもりがなくとも、少なくとも総理大臣になって日本国民を救うために生まれてきた、くらいの自己陶酔状態に陥っているに違いない。
 話しが逸れた。
 労働観に戻ると、
現代の労働観がどううやって完成したかというと、初期段階は街にあふれた浮浪者たちを矯正するための手段だった、と言ったら驚くだろうか。宗教施設でも労働による矯正が行われていたようだ。規則正しい生活をさせることで矯正が可能だと考えたのだろう。
 資本主義は、労働者を規則正しい時間的縛りで働かせなくてはならない。その前提がないとそもそもが成立しない。
 人間は本来は自然的時間感覚をもって生きている。起きたいときに起き、寝たいときに寝る。が、これでは資本主義はなり立たない。だから、機械的時間感覚へと変えなくてはならなかった。そうでないと工場で働けない。
 学校教育には目的がいろいろあるが、自然的時間感覚をもって生まれた子供に、機械的時間感覚を身につけさせるのと、時間に縛られた規則的生き方を身体に叩き込むためだ。だから、わたしのような自然児は、それを本能的に回避しようとするからずる休みの常習犯になるのだろう(笑)  そうして、労働の神聖化が始まる。労働それ自体に歓びも幸福もないのに、あるかのように洗脳されてきたのだ。マルクス主義の労働価値説も、こうした労働観と無縁ではないのだろう。もっとも、識者によっては、マルクスはそう思っていなかったという人もいる。マルクスとマルクス主義は当然に違う。わたしと、わたしが書いた『小説』が違うように……。  西欧近代主義とはそれ以前の社会の価値観が転倒されてしまったから、当然に反発はあった。その反発が保守主義なのだ、とわたしは理解している。だからマルキストは、保守主義を歴史の歯車を逆回転させようとする保守=反動と捉え、罵るのだろう(笑)  そうなると理性バンザイ、科学バンザイ、論理バンザイになる。おまけに労働は人間に特有の人間を人間たらしめる根源的もので、神聖にして絶対なものだとなる。わたしのような怠け者は、直ぐに嘘吐け、と見破ってしまったりする。わたしは市営の貸し農園で野菜を作っているが、これは労働かというと、レクレーションでもある。労働かレクレーションかは判然とはしない。茸狩りや蕨取りも同じだろう。労働なのかレクレーションか、境が曖昧だ。西欧近代主義以前の労働はこうした姿をしていた。
 奴隷として働かされるのは悪としての労働だし、年貢を収めるために百姓が朝から晩まで働かされる労働も悪でしかない。仕方ないからやりたくない労働をやっているだけだ。その労働が神聖などであろうはずがない。
 わたしの提唱する「里山主義」は、強いて区分けすれば「保守主義」になるのだろが、わたしの場合のアプローチは東洋的な発想なので、厳密にいうと、カール・マンハイムのいう「保守主義的思考」には当たらないのだろうと思う。
 現在の日本共産党は、保守主義を思わせる政策を打ち出している。純粋なマルクス主義ではないはずだ。が、理性と科学と論理にはうるさいくらいに拘っている。理性信仰と科学信仰と論理信仰までは酷くないのだろうが、ひねくれ者のわたしからみると無邪気な所が多々ある。

『気候変動問題の本質とは何か』

  気候変動ばかり目が行きがちだが、レーチェル・カーソンの『沈黙の春』問題には目をつぶっている。根っこは同じだ。気候変動問題がファッションになっていないか。そんな気がしてならない。
 若者が声を上げるのはいいことだ。が、本質を見誤ると意味がないばかりか、永久に本質に気づけなくなる。いつまで経っても、気候変動と「沈黙の春」が同じ根っこだと分からなくなってしまう。そうなると、本質的問題はより深刻化してしまう。このまま行けば、間違いなく手遅れになるだろう。
 JCPサポーターだから黙っていた(笑)
 この際だから言ってしまおう。日本共産党の都市政党化の印象が顕著になっているからだ。北海道で議席がとれず、北陸信越ブロックでも日本の宝ともいうべき、藤野保史の重要な議席を落とし、北関東ブロックでも、またもや一議席しかとれなかった。何が問題なのか、わたしがいうべきことでもないのだろう。
 日本共産党が気候変動の問題を積極的に取り上げている。が、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」と根っこで通じているという認識があるのか。はなはだ疑問だ。  突っ込んで言うと、科学の問題にもなるし、経済成長神話とも関わってくる。最終的には「生き方」と
価値観にまで行き着くはずだ。本気で考え、真剣に気候変動の問題を考えると、そこまで行き着かなければ嘘であり、まやかしだと思う。ほんの上っ面を撫でただけで、本質的な問題解決にはならない。単に石炭火力を減らせばいい、CO2を減らせばいい、というような単純な問題ではあり得ない。それが分からないとしたら、あまりにもお粗末だし、脳天気だ  問題の発端は、産業革命にまで遡る。つまり資本主義の黎明期であり、資本主義を生んだ西欧近代主義にまで行き着く。資本主義の問題だから、社会主義も共産主義は無関係だとは言えない。どれもが西欧近代主義の産物でしかないからだ。西欧近代主義の土台としての価値観と世界観は共有している。
 地球破壊の歴史は人類が道具を使い、火を使ってから始まったのだろうが、産業革命以降は、破壊スピードと深刻さがそれ以前とまったくといっていいほど様相が違う。
 ハンナ・アレントがいうように、資本主義そのものが地球破壊をする意思を明確に打ち出しているのだ。破壊なしに資本主義は存続できないのだ。だったら、マルクス主義の社会主義と共産主義で、資本主義の地球破壊から逃れられるかといえば、それも不可能だ。土台としての価値観と世界観が一緒だからだ。マルクス主義で資本主義が乗り越えられるというのは神話だ。幸福観と労働観と機械的世界観を共有しているのだから不可能だと分からないとしたら致命的だろう。神話だというのはそうした意味だ。
 資本主義もマルクス主義も生産主義であり、資本主義は経済成長至上主義でもある。マルクス主義のいう、資本主義が発展的に止揚されるのは、生産主義の考えが土台にあるからだ。生産を高度化し、その生産品を消費することが幸福の源泉とする考えだ。
 そうした価値観と幸福観と紐付いた「生き方」を求め、その「生き方」で突っ走ってきた先に、地球環境問題が必然的に現れたに過ぎない。そうした「生き方」をしてきた当然の報いだ。
 こうした地点にまで降りてこなかったら嘘だろう。欺瞞であり、いい加減だ。
 この地点にまで降りてきて、この地点に立ったなら、
このままこうした「生き方」を人間は続けるのか、それとも「生き方」を変えるのか、という根本的な問題の立て方に成らざるを得ない。
 気候変動に限定などして済ますなどもっての外だ。喫緊の対応が必要だから優先するというのならまだ分かるが、それは最終的な目的ではなし、応急処置でしかない。その認識が欠けているとしたら、呆れ果てる。わたしがファッションだという意味だ。  産業革命以降に、この地球上から姿を消した夥しい数の種がいる。
 人間中心主義の「生き方」が招いたものだ。そして遂に、愚かにも人間自身が生きるか死ぬかの瀬戸際にまで
追い詰められた。気候変動はその一つの現象に過ぎない。気候変動問題に矮小化してはならないはずだ。もっと事は深刻だ。このままでは間違いなく人類は破滅だ。地球は終わらない。愚かな人間に破壊され尽くした無惨な姿で残るだろう。  理性と科学で問題が解決されると思っていたら大間違いで、解決出来たら既にこうはなっていない。 科学は「真理」とやらに向かって暴走するが、元々が科学には倫理はない。倫理から独立した「真理」を追求することで、自己正当化し、何物の干渉も受け付けない姿になったからだ。
 だから科学が地球滅亡へと繋がろうが
知ったこっちゃないのが本質だ。
 この事実から目を背け、科学が人類を幸福にするという神話に生きているからお目出度いのであり、どうしようもないアホだ。「真理」の追求が、人類の幸福へとつながるという思い込みを生きている。「真理」が人類の幸福になるという補償などない。曲り間違えれば破滅をすら導く。理性を神と崇めるに至ってしまったから、理性が生み出した科学の導く先には夢のような未来が待っていると信じている。理性バカと科学バカの破滅的姿だ。ニーチェはこうした理性を神の地位に上げた先にあるのはニヒリズムだと看破したが、理性信仰と科学信仰は、正しくニヒリズムだろう。  科学というものの怖ろしい側面をみせたのが、広島と長崎の原爆投下であり、3・11の原発事故だ。科学が生み出したものだが、人類を一瞬で滅亡へと導くこともする証左だ。  誤解を怖れずに言うと、ヨーロッパ発祥の自然環境関連の思想は駄目だ。  意識の世界の発想であり、人間中心主義の発想だからだ。動物愛護とか、緑の党とか、上っ面を
なぞったに過ぎない。これは西洋の精神土壌には身心二元論が基本にあり、心=意識を絶対化するから、意識の世界に閉じられているからだ。
 意識の中心的な悟性=理性・論理の世界なのであり、意識とは人間特有で、その意識=悟性は人間が神から与えられた、と傲慢をかましているが、人間以外の生命からの視点でみたら、とんでもねえ話しになる。
 人間にも動物と共通のものがある。身体だ。この身体は地球上の他の生命と繋がっている。その繋がりを教えてくれているのが無意識の世界だ。  東洋の考え方には西洋の身心二元論はない。元々が身体と心は一体と捉えていた。そして身体を重視する方向性があった。
 ユングの深層心理学は、優れて東洋的だ。
深層心理の奥深くには集合的無意識があり、これは地球上の他の生命と繋がっているという。  地球環境とか、気候変動とか、本気になって考えるなら、この地点まで降りてこないと嘘だと確信する。基本的人権よりももっと本質的な次元の視点だ。
 わたしは平塚らいてうの
元始女性は太陽だったを素朴に信じている。
 ジェンダー平等が叫ばれているが、この地点にまで降りてこないジェンダー平等なんて、敢えて言うと胡散臭い。  何故なら、人間の女と男の平等は、その底に地球上の生命の平等がなかったら、その考え自体が差別になる。人間至上主義による地球上の生命への冒涜であり、差別だ。差別の本源はここにないのか?  差別の本源は
人間中心主義にあると思っている。
 人間とは何か、という定義で、五体満足じゃないものは人間じゃない、となる。ナチスの民族主義もそうだ。平家にあらざるもの人にあらずと同じ発想だ。  ジェンダー平等を否定しているのではない。わたしの持論は、人間社会は女中心にならないと破滅すると信じている。生物学的にいうと、基本的に男は未完成品であり、どうでもいい生き物なのだ。男を必要としないで、生殖する生物は多いし、女が基本だが、生殖が必要になれば男に変態できたりもする。スズメバチなど、晩秋になると生殖のためにオスを作る。が、翌年の女王バチと交尾すると、それで一生を終える。女王バチはひとりで越冬する。オスなどそんな存在だ。そんな存在のオスでしかないのに、人間社会はオスが威張り腐っているから、不要な戦争が起きるのだ。不完全な生物だからだ。
 人間社会の女にも戦争好きがいる。櫻井よしことか、高市早苗とか、稲田朋美とか、杉田水脈とかだが、どうみたって不完全な女だと思う。平塚らいてうがいう「元始女性は太陽だった」と真逆だ。
 それほど女性は尊い。だから女性は元始、神だったのだ。縄文土偶の神々しさには心が引き寄られて、無我にされてしまう。わたしの神だと言ってもいい。
 また脱線した。
 そういうことで、ジェンダー平等をいうなら、もっと根源的な、地球上の生命の平等を言ってほしい。 
 ついでだから言うと、動物保護も人間至上主義の発想だ。動物世界では食物連鎖がある。
 本当の動物への愛をいうのなら、アイヌとマタギの命に向き合う姿勢だろう。この姿勢こそが、薄っぺらな動物愛護など寄せ付けず、超越している。命の尊厳を知っている。だから血の一滴も無駄にしない。アイヌとマタギの精神は、地球の生きとし生けるものの生命と自らを等しくみているからだ。  とまあ、
酔いの勢いで、今まで心にため込んでいたことをぶちまけてみた。
 最後にこれだけは言って置きたい。耳の穴をかっぽじって、よく聞くように!
 無料キャンペーン中のKindle電子書籍の小説『故郷』とは、3・11を扱っているが、今まで述べてきた世界観の中を旅する物語なのだ。
 明治以降の日本の文学は、西欧近代文学だ。わたしはこれに反逆を試みている。西欧近代文学ではなく、里山主義文学で対抗しようという野心がある。
 この小説『故郷』とはそうした小説だ。
 日本文学は衰退を越えて消滅寸前だ。純文学というものは、明治以降の遺産を食い潰していたが、もう食い潰せなくなった。
 大口を叩くと、出版社から出版される純文学小説の99%はゴミだ(笑)
 SNSの時代になった。出版社の奴隷になって書物を出版しなくても、いい時代が到来したのだ。
 名前と権威で判断する時代が終わったのだ。大学教授の肩書きで崇めたてられていたが、「何、言ってんだこいつ、アホか」という時代なのだ。
 まったくの無名であり、飲んだくれてTwitterで喚いている糞じじいの書いた小説が、世紀の名作だってあり得る時代なのだ。
 大口を叩くと、この小説『故郷』は人類に向けて書いている、エヘン!
 こいつ大丈夫か、正気じゃねえな、と思われてもへっちゃら。
 狂人の書いた小説『故郷』を読んでみてほしい。
 9日までしか、世紀の名作を無料では読めないぞ!
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 Twitterとは面白いものだ。
 昨日、ブログで連載している小説『三月十一日の心』の下巻の舞台になる、大分県の紫草の里に当たる人と知り合いになれた。写真をアップされているので覗いたのだが、わたしの想い描く風景そのままの写真に感動した。小説を描くときの参考にさせてもらおうと決めた。
 こうした出逢いもあるのだ。
https://twitter.com/AHori16

※ 疲れたし、面倒なので、読み返さないでこのままアップしてしまう。どうせ、Twitterで誤字脱字、「てにをは」の間違いをこれでもかとやってるので、怖い物なし。


故郷

故郷

 世の中、思ったようにはいかない。
 総選挙もそうだが、文学の話しだ。
 総選挙については、今週中にブログに書くつもりだったが、枝野幸男の辞任騒動に巻き込まれ、ゴタゴタが続いているし、ここで軽率なことは言いたくないし、既に軽率な発言をTwitterでやってしまったし、発言撤回はするし、謝罪はするしで疲れた。
 わたしなりの総括と感想は、冷却期間をおいて書きたい。が、既にそれらしいものはTwitterで連続して発信してはいる。
 すこし頭を冷やしたい。
 そんなわけで今回は、興味はないだろうが、頭を冷やす意味でも小説の話しをしたい。


 過去のブログで、電子書籍『風よ、安曇野に吹け』の無料キャンペーンの宣伝を書いた。読んだ方は「ぶっ飛び」騒動について少しは理解したと思う。
 わたしが「ぶっ飛び」だと信じたかどうかはどうでもいいのだが、「ぶっ飛び」騒動で、出版社からパージされてからも、何回か公募新人賞に応募していた。
 まさか、出版社は本気じゃねえだろうな、という淡い期待があったからだ。
 電子書籍『故郷』は、初めて純文学と呼ばれている範疇の公募新人賞に応募した小説だ。騒動があってから4年か、5年後に講談社の「群像新人賞」に応募したのだが、見事に一次ではねられた。
 わたしの小説には、元々が純文学とエンタメとの垣根はなかった。が、この小説を書いているときには、純文学を意識しなかったかといえば嘘になる。
 わたしは傑作、いや名作だと疑わなかったのだが、一次落ちという惨憺たる結果だった(笑)
 負け惜しみではないが、文学なんて、基準があってないようなものだ。人によって好みも違う。手前味噌になるが、わたしは「里山主義文学」を目指しているので、いわゆる西欧近代文学をどうにかして凌駕してやろうという野心がある。
 こういう野心は、得てして空回りするものだ。自己満足と、自己陶酔に陥ることが圧倒的に多い。
 『故郷』は、単なる自己満足と自己陶酔の小説か、それとも名作かは、読者の判断に委ねる以外にない。
 仮に、自己満足と自己陶酔とを免れたとしても、既存の文学の価値基準で判定されるから、「何じゃ、これは」と、審査をした者に壁に叩きつけられる運命までもが待っていたりする。
 どんな理由かは分からないが、小説『故郷』は一次落ちだった。
 出版社のパージがあったかどうかは定かではない。

 何故に、今頃になって電子書籍『故郷』の無料キャンペーンをするのかというと、3・11から十年の節目の年であり、ブログで連載している『三月十一日の心』が、『故郷』のいわば長編バージョンだからだ。
 長編バージョンだから、単なる『故郷』の焼き直しかといえば違う。思想的にも深化しているし、描いているテーマも長編だから一つではない。ただいえるのは、『故郷』が、3・11に向き合う、私の立ち位置としての原点であり、そこから更に発展的に深化させたのが長編小説『三月十一日の心』ということになる。

 3・11とは日本人に何を突きつけたのか。
 わたしが3・11から受け取ったメッセージは、西欧近代主義の乗り越えというものだった。
 メッセージとは、わたしの文学的直観を意味する。
 その直観に導かれるようにして紡いだ物語がこの小説『故郷』だ。
 したがって、西欧近代主義の土台としての価値観と世界観、そして西欧近代主義を体現した「生き方」を問う物語になっている。
 3・11で被災し、夫と娘と父母を失った詩織が、不思議な夢に導かれて祖母の故郷へと旅立つ物語なのだが、旅そのものを、詩織の無意識の世界に重ね合わせている。
 夢はその世界への入り口になる。
 正直にいうと、この小説を書いた当時は、ユングのいう集合的無意識と共時性を知らなかった。改めて読み返してみると、知らず知らずに、ユングの世界観を描いていたのだと気づいた。正直、びっくりした。
 但し、私淑している川端康成を意識して書いていたので、感覚と無意識の世界の境界線が曖昧になってしまっていた。
 どういうことかというと、川端康成と横光利一が旗揚げした「新感覚派」には、思想性はない。
 川端康成の天才的なところは、思想を意識しないで、描写によって思想性を生み出したところにあるのだが、わたしは「新感覚派」のいう感覚に、描写技法を超えて明確な思想を持たせようとしたのだ。
 正直に言ってしまうと、感覚を無意識の世界への通路としてではなく、感覚を無意識の世界と重ね合わせてしまった誤謬があった。
 承知のように、人の意識は、悟性(理性・論理)と感覚によるものだ。自分の外にある対象を認識するのが感覚ということになる。当然に無意識の世界とは境がある。だから、感覚と無意識の世界を重ね合わせるにには無理がある。その誤謬を犯していたということになる。が、弁解的に述懐すれば、感覚が、また感覚的記憶が、無意識の世界へと入っていく通路になっているとは考えている。
 今回はその誤謬を中心に書き直した。だから、よりはっきりと無意識の世界が描けたと思う。
 無意識の世界と夢の世界と、そして現実の世界とが、時間を超え、空間を超えて絡み合う物語だから、幻想的であり、詩的になっているが、それだけに単なる物語の展開を追いかけるだけに興味がある読者は、とまどい、「なんだ、こりゃ」となり、「こんな小説読んでられっかい」となるに違いない。想像と感性で、物語の中の時間と空間とがよじれた世界を飛翔する愉しみを知っている読者には、面白いと思う。そうして読後に、西欧近代主義を超えるとはどういう意味なのか、見えてくるのだと思う。そういう企みと、仕掛けをちりばめたつもりだ。


 Twitterで、わたしは「右」とか「左」とかの対立軸は、どちらも西欧近代主義を同心円とした右と左でしかなく、西欧近代主義そのものが壁にぶち当たって、袋小路に陥っているときに、そんな対立軸は意味をなさなくなった、と何度となくいっているが、この小説を読めば、わたしが何を言おうとしているか、分かるだろう。
 この小説『故郷』が描いてる世界を、従来の「左翼」と「右翼」の範疇で括れるのだろうか。中道だとかに括れるだろうか。それは、読んでみて判断していただきたい。


 真っ向から、西欧近代主義の乗越をテーマにして描いた野心作だ、と自分では自負している。
 わたしが言っているのがはったりかどうか、試しに読んでみてほしい。中編小説なので直ぐ読み切れると思う。
 読むかどうかは、ともかく、ダウンロードしておくことをお勧めしたい。

 小説の中に童謡の「月の沙漠」を挿入したのだが、それには理由がある。
 3・11から数日後に、偶々「月の沙漠」を聞いたのだが、涙が止まらずに号泣した経験があるからだ。童謡には不思議な力があるのを知ったのだった。3・11がわたしに「月の沙漠」を聞かせたのだと、今でも想っている。だから、わたしにとっての3・11のテーマ曲は『月の沙漠』なのだ。

 小鳩くるみ『月の沙漠』
https://www.youtube.com/watch?v=0D0dm-0lux4

 もう一つ小説の中で、挿入した歌。


 塩田美那子『津軽のふるさと』
https://www.youtube.com/watch?v=9aBEXNjHDdQ

 
 無料キャンペーンは、11月5日(金)~9日(火)の5日間だ。
 尚、アメリカ時間なので、半日くらい後ろにズレる。

https://www.amazon.co.jp/%E6%95%85%E9%83%B7-%EF%BC%93%E3%83%BB11%E3%81%AE%E5%BF%83%E3%81%8C%E5%B0%8E%E3%81%8F%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E4%B8%96%E7%95%8C-%E5%8C%97%E6%9E%97%E3%81%82%E3%81%9A%E3%81%BF-ebook/dp/B00JCN2VD0/ref=sr_1_3?dchild=1&qid=1635935450&s=digital-text&sr=1-3

風よ、安曇野に吹け 
 TBS「ひるおび」で八代英輝が、日本共産党に関するデマを公然と垂れ流したのには、正直ぶったまげた。日本共産党の綱領のどこにも「暴力革命」は明記されていない。それを綱領に書いてあるというのだから、明らかなデマだ。公共の電波を使ってのデマの拡散なのだから、政権交代が射程に入ったといっても過言ではない総選挙を前にして、日本共産党と野党共闘への悪影響は計り知れない。射程に入り、野党共闘と市民連合が脅威になったから、こうした分断を画策する意図的なデマが仕掛けられたのだろう。明らかに、公共の電波を使った意図的デマだ。テレビ局の良識を疑う。
 が、こうしたテレビを使った意図的なデマの発信は日常的になってきている。安倍政治で確立したものだが、情報操作と印象操作によって国民を騙す国民洗脳装置にまでテレビが堕落しているのが現実なのだろう。
 テレビが意図的にデマを発信するようになったら要注意だ。ファシズム前夜だと思った方がいい。
 さて、表題の「ぶっ飛び」に移る。
 何故にテレビの意図的デマの垂れ流し批判をしたかというと、「ぶっ飛び」を名乗るとなると、デマ野郎の汚名を着せられる恐れがあるのと、デマではない証拠を証明する覚悟とがいるからだ。
 そうでないと、八代英輝の二の舞になり、批判できる資格がなくなるばかりか、ブーメランとなって八代英輝を批判した言葉が舞い戻ってきて、自爆することにもなるからだ。自分への戒めのつもりで冒頭に書いたのだ。

「ぶっ飛び」騒動があったのは2008年だ。13年も前になる。記憶も風化してしまっているはずだ。
 それに元々が、作家の登竜門である出版社が主催する小説新人賞に投稿したり、関心がある人ならいざ知らず、一般の人は「ぶっ飛び」騒動など聞いたこともないだろう。
「ぶっ飛び」について詳しく書くと、困る人もいるので避けるが、ざっと「ぶっ飛び」騒動をおさらいしておこう。
 私は学生時代に、丸山真男の異端的弟子の橋川文三のゼミにいた。日本政治思想史が専門だが、橋川文三には作家を目指した過去がある。だから、文学に造詣が深い。その橋川文三に「40才を過ぎたら小説を書け」と言われたのだ。酔っ払って言ったのだから、橋川文三がどこまで本気であり、どこまで私の文学的才能を見抜いていたかは定かではない。が、酔っ払っていても尊敬する橋川文三の助言だ。私は忠実に橋川文三の言いつけを守って、45才で小説を書き始めたのだ。
 当然に作家になるべく、登竜門である出版社が公募する小説新人賞に投稿するようになったのだった。
「風よ、安曇野に吹け」は四作目だった。舞台は安曇野で酒造りをする女杜氏なので、下調べが大変だった。半年以上かかった。それまで書いた小説も下調べをしなかったのではないが、ここまで大がかりに、そして真剣にやったのは初めてだった。
 金と暇があれば、実際に安曇野に出向いて酒造会社を訪ねるのが最善なのだろう。が、金も暇もない。だからネットと図書館になった。致し方ない。が、安曇野の酒造会社に限定せずに、広く日本の酒造会社と有名な杜氏を知ることに繋がり、酒造会社の置かれている厳しい現実に触れられたのは良かったと思っている。
 しかし、『風よ、安曇野に吹け』を書く切っ掛けは、女杜氏ありきではない。まったくと言っていいほど違う。
 私が住んでいる市内に城址公園があり、偶々公園を散歩しているとウワミズザクラの花と出くわしたのだ。根がスケベなので、先が丸くなった円筒形の花房が男のペニスに見えたから驚くではないか。驚くというよりも衝撃といった方が適切かもしれない。
 そうなると妄想癖がある私だ。かってに妄想が走り出したのだ。あれよ、あれよという間に、妄想はとんでもない地点にまで達したのだった。この小説は名作になる。そう直観したのだった。
 物語の骨格は妄想で出来上がった。舞台は大好きな安曇野に決めた。そしてその頃には、和辻哲郎の『風土』を読み直したりしていて、多大な影響を受け始めていた。安曇野の風土に根ざした生き方を描きたかった。
 そんなこんなで、安曇野を調べていたら、北アルプスの水の恵みをいただく酒造業に行き着いたのだ。わさび栽培も有名だが、こちらは『矢車そう恋歌』(上・下があるのだが、電子書籍で出版しているのは下だけ。上のヒロイン、杏子の実家をわさび農家にしている)で扱っていた。だからヒロインを女杜氏にするのは直ぐに決まった。ヒロインの恋人だが、当時私は農業回帰を想っていたので、酒造業にとって命である米の栽培をさせることにした。若者の農業回帰を描きたかったからだ。
 今連載中の『三月十一日の心』だが、『風よ、安曇野に吹け』と深いところで繋がっている。和辻哲郎の『風土』と、西欧近代主義批判というテーマが核にあるからだ。
 私は里山主義を提唱し、里山主義を文学に反映した「里山主義文学」を確立するという野心がある。『風よ、安曇野に吹け』を書いている時点では、こうした明確な意図はまだなかったのだが、図らずも『風よ、安曇野に吹け』にその精神が息づいているのを後で知った次第だ。だから、『風よ、安曇野に吹け』を里山主義文学の原点としている。
 里山主義と「里山主義文学」についてはここでは触れない。連載小説『三月十一日の心』の中で展開するつもりだ。連載小説『三月十一日の心』は上中下の三巻になる。既に『三月十一日の心(上)』として一巻を電子書籍で出版している。
「ぶっ飛び」騒動を巻き起こした『風よ、安曇野に吹け』の着想は、風に揺れるウワミズザクラの真っ白な花房との邂逅と、その花房が男のペニスの幻影を連れてきたということになる。
 何とも詩的な邂逅なのだが、その詩的な邂逅がどうして男のペニスへと飛んで行ったりするのか。普通なら誰もがそう思うはずだ。が、私の妄想は性的な性格がある。だから、詩的邂逅が性的邂逅へと変質することが多い。「ぶっ飛び」という命名は、あながち的外れではない。普通ならあり得ない詩的邂逅が、性的邂逅へとぶっ飛んだからだ。だから、小説世界も詩的であり、性的であり、感覚的になってくる。
 私は正直、『風よ、安曇野に吹け』を書き上げた時に、これで作家は間違いないと思った。手応えを感じたばかりか、名作だと確信した(笑)。
 小説を書いている途中で、ヒロインの菜穂子の母親の暁子が一人歩きを始めた辺りで、これはとんでもない小説になると直観したのだ。
 最初の構想では、暁子はちょい役だった。が、書き進めるうちに、暁子をどうしても書きたくなり、自分の妄想が作り上げたのに暁子に恋してしまっていたのだ。そうなると止められない。最初から構想を変えた。だから、暁子の存在が『風よ、安曇野に吹け』のもう一つの骨格になっている。
 二人の女を描くことで、二人の女を重ね合わせて描け、より重層的な女の生き方と心理とを浮かび上がらせられたのだと自画自賛している。
 読者の中にも、暁子という女に心を寄せる人もいる。暁子を描き切ることができた時点で、受賞を確信していたのだ。
 が、世の中は上手く行かない。
『風よ、安曇野に吹け』は、私の直観どおり下読みの段階から注目され、関係者の中では話題になっていた。応募した小説賞の出版社の編集者の中にも『風よ、安曇野に吹け』のファンまでいた。
 普通ならすんなりと受賞して作家デビューになるはずだった。が、卑劣な者はどこにでもいる。作家を目指す者は必死だ。作家になるためなら手段を選ばない不届き者がわんさかいる。
 コネを使ったり、有力な作家に接近したり、ありとあらゆる手段を使う。だから出版社からの情報も入ってくるようになる。『風よ、安曇野に吹け』が受賞で間違いなし、という情報にぶち当たったのだろう。何をしたかというと、当該する小説賞の2チャンネルに情報漏洩したのだ。2チャンネルは大騒動になった。そして、あろうことかその情報漏洩を私の工作のように仕向け、失格をたくらんだというのだからぶったまげる。
 当時私は2チャンネルの存在を知ったばかりだった。応募した小説賞に行き着いた私は書き込むことはせずに、情報収集のつもりでみていた。衝撃と驚きは半端ではなかった。
 明らかに『風よ、安曇野に吹け』だったからだ。が、確信はなかった。
『風よ、安曇野に吹け』はミステリー仕立てであり、謎解きで物語が展開していく。そんな小説を書くのだから、当然に確証を得ようとする。そうして初めて2チャンネルに書き込むことになった。
 信じられないだろうが、明らかに編集者が書き込んでいる。途中からは他社の編集者もいた。直接的に書き込んだのでは確証は得られるはずがない。編集者と私しか知り得ないことを書き込んで確かめたのだ。食いついてきたのは当然だ。それだけではない。今は止めてしまったが、私はmixiをやっていた。私がmixiでアップした記事を明らかに読んでいる形跡まであった。そうなると、意図的にmixiを使ったやりとりができることになる。反応は早かった(笑)。確証を得たのだ。
 結論からいうと、そんなこんなで大騒ぎになっていたのだが、出版社の中の権力闘争というか、ゴタゴタに嫌気がさして、当該する2チャンネルにいた他社の編集者の誘いに乗って、『風よ、安曇野に吹け』を他社の小説賞に投稿したのだ。
 失格扱いされて一次選考で落ちていたから、この時点で他社に投稿しても二重投稿にはならない。
 投稿したら、間もなく読んだ感想を当該する2チャンネルに書き込まれているではないか。それも何人も読んでいるのは明らかだった。
 他社の小説賞は年に何回かの締め切りがあるのだが、誘ったのだから直近の回で授賞されると信じて疑わなかった。が、律儀な出版社で規定通りに、私が投稿した『風よ、安曇野に吹け』は次回に持ち越しになった。頭は真っ白だった。早く受賞して作家に専念したいという焦りがあった。誘っておきながら、この仕打ちはないだろう。そう憤った私は衝動的に、メールを送って『風よ、安曇野に吹け』を引き上げてしまったのだ。
 出版界というものに私は無知だった。狭いしがらみの世界などとはこれっぽっちも思っていなかった。良い小説ならどこかの出版社が拾ってくれると思っていた。そうした自由と、文学に対する矜持と信念があると信じて疑わなかった。バカと言われればそれまでだが、出版社が生殺与奪権を握っており、出版界にはそれなりの仁義と掟があるのを、この年になって身にしみて知ったのだった。

 私には『風よ、安曇野に吹け』の他にも、『僕の夏よ、さようなら』でも悔しい思い出がある。ネットにというか、mixiで知り合った海外に在住する日本人女性が読んだ感想をくれるというので、その女性に『僕の夏よ、さようなら』を読んでもらった。が、突然に音沙汰だなくなり不審に思っていると、某出版社の小説新人賞で盗作騒動が起こった。
 選考委員の感想を読むと、『僕の夏よ、さようなら』だと私は思っている。妄想だと言われればそれまでだが、普通なら盗作された小説が世に出るはずだ。話題性からみれば売れるのは間違いない。それにどの選考委員も絶賛していたからだ。が、不思議なことにその小説は未だに世に出てこない。闇の中であり、風化してしまったといえる。
 こちらは確証まではつかめていないので詳しくは書かないが、当該する出版社と選考委員に確認すれば、白黒ははっきりする。選考委員も何も語らない。見上げた根性だ。出版業界で生きているのだから仕方ないと言えばそれまでだ。偉そうに文学を語る資格はない。情けない。
 私は『風よ、安曇野に吹け』で、出版界の仁義と掟を破ったろくでもない男になってしまったのだ。出版社から鼻もかけられない存在なのだろう。つまりパージされているのだ。

 何故に今になってこんなことを書くのかというと、どこかの出版社が『風よ、安曇野に吹け』を出版してくれるという淡い期待を、捨て切れていない自分に気づいたからだ。まだ甘い幻想を抱き続けていたといえる。
 だから、Kindleの電子書籍として出版しても、どこか『風よ、安曇野に吹け』の推敲がいい加減だったのだと思い至った次第だ。
 もう67才だ。覚悟は定まった。電子書籍作家として生を全うすることに決めた。
 そして、金を稼ぐのではなく、多くの人に読んでもらうことを最優先することに決めた。新たな気持ちで里山主義文学を切り拓く道を突き進むことにした。
 そこで、『風よ、安曇野に吹け』を納得するまで推敲し直した。「改訂版」としてKindle電子書籍で出版する。
 無料キャンペーンを今日から22日まで行う。できるだけ多くの方に読んでいただきたい。
 なお、アメリカの日にちと時間なので、今日からといってもずれ込み、22日もまた翌日にずれ込むことになるので注意していただきたい。

 私の小説には純文学とエンタメの垣根はない。『風よ、安曇野に吹け』を読んでいただければ分かるはずだ。ミステリー仕立てなので面白いとも思う。
 物語の幕はゆっくりと上がるが、途中から加速して走り出し、驚きのラストへと疾駆する。この小説が「ぶっ飛び」か、「ぶっ飛び」を騙る偽物かの判断は、読者に委ねたい。

 当面は、連載小説『三月十一日の心』の完成に全力をあげるが、気晴らしに『矢車そう恋歌』の原型になる『杏子』を手直しして電子書籍で出版したいとも思っている。
 連載小説『三月十一日の心』が完成したら、これまで電子書籍として出版してきた小説を徹底的に、そして真摯に、推敲して改訂版として出したい。

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 始まりと終わりだけを想定して、その過程は思考の赴くままにまかせて書き始めた小説『三月十一日の心』であるが、どうもよくない。このまま続けていってもいい作品にはならないという直感がある(笑)。
 思想を前面に出して語ろうとしているから勢い説明口調になり、登場人物が思想を語るための単なる傀儡になってしまうということになる気配が濃厚である。それでは、生きた人間を描くことにはならなし、生きた世界を描き出すことはできないだろう。また、生きた人間の裏付けがなく、したがって生きた世界の裏付けがない思想を語ったところで、小説としては薄っぺらいものになってしまうはずだ。小説である必要性もない。生きた人間と生きた人間とが絡み合い織りなす人間模様と、その人間模様が自然とどう関わり、自然が人の内面とどう結びつき、人と自然とがどういう相互的関係性があるのかを描くことで、背後に「里山主義」という思想を浮かび上がらせることが本来の小説のあり方なのだろう。
 小説の中心的な舞台である逢生の里は、ハンナ・アレントが『人間の条件』(志水速雄訳・ちくま学芸文庫)でいう世界性なのであるが、わたしの唱える里山主義は、人が仕事によって生み出す人工物としての世界性だけを意味しない。自然と人間の共同作業で生み出された里山に象徴されるものを含めた世界性を包含している。
 原風景とは原始のままの自然ではない。人が自然と関わりながら生きてきた暮らしがしみ込んだ風景である。だから心を揺さぶられ、懐かしがるのだろうが、この原風景を作り上げたのは、ハンナ・アレントのいう労働ではなく、明らかに仕事に分類されるべきものだろうが、問題は、ハンナ・アレントが指摘する仕事に特有の自然への暴力には当たらないのではないかということだろう。
 ハンナ・アレントは他者との共通感覚なるものを指摘しているが、原風景を考えたときに、例えば小説の舞台である逢生の里で暮らす人々のなかに、逢生の里の風景を愛するという感情を生み出す共通感覚があることは確かだが、人と人との間ではなく、逢生の里という風景は人と自然との共同作業で生み出されたものであるのだから、共通感覚は人と人との関係性に限定しては成り立たず、自然を含めた共通感覚を考えずにはあり得ないと思う。
 日本人の特徴としていわれる感覚的認識とは、こうした人と自然との共通感覚が息づくなかで結ぶものなのではないか、などと考えたりしている(笑)。
 
 ブログで何度となく書いているが、わたしはハンナ・アレントを知るよりもずっと前に、今村仁司著『近代の労働観』(岩波新書)に衝撃を受けた。わたしがマルクスの呪縛から完全に解放されたのは、この書物と出逢ったからだ。そして、西欧近代主義の根源的な病理に気づかされたのである。
 ハンナ・アレントの『人間の条件』は、より哲学的に、そして本質的に、病理としての労働のもつ意味を剔抉しているといえる。人と社会は何処へいくのか、おぞましい闇の中心で不気味に口を開けた淵を覗き込んでしまったような、暗澹たる気分を味わったのである。
 わたしの提唱する里山主義とは、わたしの拙い思索の果てに浮かび上がってきたものであるが、自己流でつかみ取ったつもりが、今村仁司の『近代の労働観』やハンナ・アレントの『人間の条件』を読むと、はるかに深遠な核心部分にまで肉薄し、そればかりかしっかりと体系づけられていることに驚かされ、自分の思考の拙さを改めて思い知らされるのであるが、それでも里山主義は、わたしのあるべき生き方を反映したオリジナルな思想だと思い込んでいる(笑)。
 わたしは思想家ではなく、思索家ですらなく、作家のつもりなのであるから、里山主義とは作家としての世界観に近いものなのだろう。その世界観とはあるべき生き方を投影したものである。
 小説『三月十一日の心』ではその世界と、その世界で繰り広げられる人間模様と、その世界だからあり得る人としての生き方を描き切りたいという野心があるのだが、難しいことを改めて思い知らされた気がする。
 ハンナ・アレントは労働によって席巻された社会における、無世界性へと結びついた生産物と消費との無限循環という病理を暴いており、深い感銘を覚えたが、今村仁司の『近代の労働観』にヒントを得た、労働のあり方の転換と、ジョルジュ・バタイユのいう消費のあり方から、ハンナ・アレントの病理からの解放を考えてみたい誘惑に囚われている。
 
 ともあれ、小説『三月十一日の心』は、やり直しすることに決めた(笑)。
 構想を練り直すつもりだ。そのために、とりあえず以下の書物を読み直し、小説の舞台である架空の「逢生の里」という世界に息づく意味を強固にするつもりである。したがって、小説の再開は少し遅れることを宣言したい。
 書き出しは、「逢生の里」の世界に息づく意味を象徴させて、「霧の世界」という神秘的風景を彷徨うところから書き出すつもりだ。何故に神秘的なのか。目には見えない共通感覚なるものが息づく世界を描くからだ(笑)。
 この共通感覚は、西欧近代主義の必然的な発露である心理学が照射する人の深層心理ではなく、仏教が問題とした心の闇であり、日本的な風土と密接に繋がっていると考える心の闇である。そして、日本的な風土と密接に繋がっているから、心の闇は、人の心の闇であると同時に、自然に抱きかかえられたものとして、わたしは考えている。

ハンナ・アレント
 『人間の条件』志水速雄訳(ちくま学芸文庫)
 『責任と判断』中山元訳 (ちくま学芸文庫)
 『ハンナ・アレント』川崎修(講談社学術文庫)
 「精読 アレント『全体主義の起源』」牧野雅彦(講談社選書メチエ)
今村仁司
 『近代の労働観』(岩波新書)
 『現代思想の系譜学』(ちくま学芸文庫)
ジョルジュ・バタイユ
 『エロティシズム』(ちくま学芸文庫)

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