北林あずみは、Twitterとブログから逃走し、小説家としての野心まで投げ捨ててしまったのか。そう思った方が多かったのではないだろうか。
それは見当違いだ。
正直に告白しよう。Twitterとブログから姿を消し、沈黙していたのは、町内の老人会が懇意にしている地主から無料で借りている畑で耕作をしないかと誘われたのが発端だ。
おそらく地主にとっては老人会が畑にしていることで、草刈りなどの維持管理費が節約でき、また税金問題の対策にもなるメリットがあるのだろう。だから無料で貸しているのだろうが、老人会も高齢化が進み、農作業ができなくなって耕作放棄した者が出てきたり、新たに老人会に入って畑をやる者もいなかったりで、草が伸び放題になった畑が増えたのだろう。地主からみたら、その状態を放置してはいられるはずがない。そうした地主の意を汲んで、老人会が新たに耕作する者を探していたというのが事実なのだろう。
わたしは現在、有料の市営の貸し農園を借りている。そして、どうにかして野菜の自給自足ができないかと目論んでいる。が、猫の額ほどの市営の貸し農園では無理だ。一区画が6メートル×6メートルほどの農地で、市に支払うのは年間で一区画12250円になる。2区画借りているので25000円になるが、これ以上払える余裕はない。どうしたものかと思案していたのだった。
そんなときに、老人会からやらないかと誘いが舞い込んできたのだ。わたしは今年5月で68才になった。65才以上の町内会員なら誰でも入れる老人会だから、当然にわたしにも資格はある。が、老人会なる組織に入る気持ちはさらさらない。老人会という組織に、胡散臭さいものを嗅ぎ取っていたからだ。老人会のような組織には、得てして、ボス猿的な存在がいる。そして、そのボスを中心として出来上がった諸々のルールに縛られ、自由な発想と行動を奪われるばかりか、目には見えないしがらみにがんじがらめになり、精神的に窮屈になるに違いない、と容易に想像がついた。
しかし、猫の額ほどのお遊びの農業から、本格的な農業の世界へと一つ階段を上がれるという誘惑には勝てなかった。ブログで連載している長編小説『三月十一日の心』においても農業は重要なテーマの一つだ。小説で描く農業の世界をより深めるためにも、一歩階段を上がって、実際にその世界を体験しなければ、という思いも強くあった。
老人会に入らなくてもかまわない、という条件付きで、わたしは耕作をすると決めてしまったのだった。今年の四月のことだ。
妻はわたしの性格を知り抜いている。その妻から「老人会の人たちと一緒に農業などできるはずがないから、止めなさい」と諫められた。妻の忠告を無視したのが間違いだった。結果は、妻の忠告どおりになってしまった。
これから、その顛末記のようなものを、わたしの農業観を中心にして、自戒をこめて書くことにする。そして、老人会という組織を垣間見ることで、自民党から日本共産党までの既存政党が、不思議なことに老人会という組織とオーバーラップして見えたのだった。それについても合わせて論じたい。
「れいわ新選組」が、いかに既存の政党と異質か、老人会という組織に直に触れたことで改めて知った思いがした。
ウクライナ戦争によって、それまで戦略的に支持していた日本共産党の胡散臭さを突きつけられ、わたしは日本共産党と決別した。そして、日本共産党を含めた、いわゆるリベラルと左翼と知識人の限界と虚妄性を知ったのだった。それが引き金になって、わたしは「れいわ新選組」のオーナーになることにしたのだが、その選択が間違いではなかったと老人会なる胡散臭い組織に教えられた気がする。
もちろん老人会なるものにもいろいろある。すべてが胡散臭いものだと決めつけるつもりはない。初めに断っておきたい。
農業とは自然破壊だ。
これが、わたしの農業に対する基本的な認識だ。
が、何故にわたしが農業に憧れを抱き、また拘るのかというと、人は自然とどう向き合って生きていくべきかという、わたしにとっての生きる上での本質的な問題を投げかけてくれるからだ。そして、人は自然を破壊することで生存する運命を生きているという厳粛な事実を、否応なしに突きつけてくれるからだ。
人間とは自然(=地球)が産み落としたものだ。その母なる自然を破壊することでしか生きていけない。思えば、人間が背負っている原罪ともいえるものではないだろうか。
言葉を換えて農業を語ってみよう。
人間の身体とは、人間を産み落とした母なる自然(=地球)と繋がっている。したがって、母なる自然が産み落とした地球上の生きとし生けるものの命とも結びついている。
では人間の意識(=理性)はどうか?
人間に特有のものであり、敢えて言えば、地球上の生きとし生けるものの命と切れている。
農業とは、人間の身体を生かすための食物を作り出すための人の営みだ。そして重要なのは、その身体を生かすための食物は自然が作り出してくれるということだ。だから、どうしたって自然と関わらざるを得なくなる。その関わり方は、基本的には、自然に手を加えて自然を破壊し、自然から恵みを収奪するということになるのだろう。厳密に言えば、耕作それ自体が自然破壊でしかないからだ。
基本的には自然破壊でしかない農業だが、人間はそれなしには生きていけない。母なる自然を破壊することでしか生きていけない人間の原罪とどう向き合って生きて行くのか。これは人間にとって重要な問題であるはずだ。いや、問題にしなければならないはずだ。人間の生き方と、人間が作り出す社会のあり方と、価値観と、倫理観とに大きく関わってくるものだからだ。
わたしはキリスト教の精神土壌に根ざす西欧の心身二元論は、この自然破壊をすることでしか生きていけないという原罪を、キリスト教という宗教に矮小化してしまったことに端緒があると思っている。そして、神の似像だと意識(=理性)を絶対化することで、人間中心主義に陥り、自然と繋がっている身体を蔑視することで、本来の原罪を、キリスト教的な原罪に堕落させてしまったのではないのか。
そして、西欧近代主義は、更にそれを加速化させてしまったのではないのか?
いや、原罪を忘れさせられただけでなく、人間中心主義の傲慢さで、自然を人間に奉仕する物としてしかみられないようにされ、自然破壊を推し進めることが人間の社会に富と豊かさとを与え、果ては、自然破壊に「進歩」を重ね合わせてみるようになったのではないのか?
そうなると農業のあり方も変わってくる。
農業が否応なしに人間に突きつけていたはずの、人間を産み落とした母なる自然を破壊することでしか生きていけないという原罪など影も形もなくなり、どうやったら効率よく、そして大量に作物を作り出せるかという農業にまで堕落してしまったのだ。
自然に対する原罪意識がなくなるのだから、積極的な自然からの収奪が始まる。理性と科学とを絶対化した人間中心主義の農業へと大きく舵を切ることになった。大量の農薬と化学肥料を使った自然収奪型の農業の始まりだ。アメリカの機械化された大規模農業がその典型だろう。その行き着いた果てに待っていたのはレーチェル・カーソンの『沈黙の春』だ。
レーチェル・カーソンの『沈黙の春』と対照的なのは、里山を基本に置いた農業だ。
自然破壊という基本に変わりはないが、常に原罪と向き合った農業だったのだろう。わたしは、自然から恵みを頂くという発想がその根底にあったのだと思っている。だから、自然から恵みを頂く代わりに、自然の営みを豊穣にする手助けにつながったのだろう。意識的か、偶然かは分からないが、間伐材を原木にした椎茸栽培や、堆肥に利用された、多目的の雑木林が、豊穣な生態系を生み出したことは注目すべきことだろう。絶滅危惧種に指定されている動植物の多くが里山と深く関わっているのは偶然ではないだろう。
その里山は、大量の農薬と化学肥料を使った自然収奪型農業に代わって荒れ果て、昔の姿を留めてはいない。わたしは子供の頃から昆虫が大好きで、採集をしたり、虫と遊んだりしていたのだが、だから最近虫が激減したことに寂しさと、憤りを覚えている。葉の先に一滴でもかかれば、根っこまでも枯れ死する除草剤の使用が許されている日本という国だ。なるべくしてなったとしか言えない。
人間中心主義と理性と科学万能主義が根底にある近代主義農業が、心身二元論が精神土壌にある欧米型の農業だとすれば、里山主義農業は東洋的な身体論(身心一体)の発想が根底にあるのだろうか。
ウクライナ戦争は、これまで影に隠れてみえなかったものを、わたしに余すことなくみせてくれた。
日本共産党の志位和夫に代表される、いわゆるリベラルと左翼と知識人といわれている西欧近代主義亡者のおぞましさと、幼稚さとが、これでもかと暴露された。正直なところ驚いた。
西欧近代主義は自由と平等と友愛を高々と掲げ、基本的人権とヒューマニズムと民主主義とを崇高な中心的な価値とするものであり、理性と科学とを絶対視するものだが、それらすべてが、如何にいかがわしいものであり、欧米中心主義に貫かれたものであるか、ウクライナ戦争は、わたしにこれでもかと突きつけてくれた。
アフガニスタンの土に還っていった中村哲医師のインタビュー記事を読んで、分かってはいたが、ウクライナ戦争は日本のいわゆるリベラルと左翼と知識人の危うさと欺瞞性とを決定づけるものとなった。
ウクライナ戦争は、それまでの政党の立ち位置を分ける境界線が虚偽であったことを暴露してしまった。ゼレンスキーの演説に熱く感情移入して、涙を流さんばかりに拍手喝采し、スタンディングオベーションをした日本共産党の志位和夫の姿とコメントは象徴的なものだった。
自民党と公明党と維新と国民民主党が基本的には同じ立ち位置だとは認識していたが、立憲民主党ばかりか社民党と日本共産党までが同じ立ち位置だと宣言したのが、ゼレンスキーの演説へのスタンディングオベーションではなかったのか?
志位和夫は、ゼレンスキーが国民に呼びかけた国民総動員による徹底抗戦を「正義の戦争」だと言い切ったのだ。志位和夫だけではない。れいわ新選組以外の国会議員と、いわゆるリベラルと左翼と知識人といわれている者たちも同様だ。
そこに浮かび上がってきたものは何か?
影に隠れてみえなかった大政翼賛体制ではなかったのか?
日本の政治の本質と、そのおぞましい姿をウクライナ戦争が暴露してしまったのだ。そして、政党を隔てる境界線は本質的にはなかったと暴露してしまったのだ。
本質的には境界線がない大政翼賛体制の政治に日本の未来があるとは思えない。このまま腐敗し、凋落し、破滅の坂道を転がっていくだけだろう。
が、ウクライナ戦争は新たな境界線を浮かび上がらせてもくれた。既存政党と「れいわ新選組」との間に横たわる境界線だ。
欧米以外の国々のウクライナ戦争への見方は違っている。「れいわ新選組」はこうした欧米以外の国々がもっている目を共有している。明治時代に「脱亜入欧」が唱えられ、アジア蔑視へと転がり出した日本だったが、そのおぞましい歴史の魂が生きていたとしか思えない。
理性と科学を、わたしは全否定するのではない。理性と科学を絶対視する姿勢を否定しているのだ。
志位和夫の幼稚さは、それが分からないところからきている。
理性と科学とが絶対ではないのは、農業が教えてくれている。
農業は、自然破壊をすることでしか生きていけない人間の原罪を人間に突きつけてくれている。その原罪とどう向き合うのか、その分岐点からどういう生き方の道へと歩き出すのか、と問うてくれている。志位和夫にはその声は聞こえるはずはない。が、仮に聞こえたとして、その分岐点からどちらの方向への道を歩み出すかで、理性と科学のあり方は根本的に変わってくる。
志位和夫の考えだと、理性と科学は絶対であり、理性と科学は一つの真理に向かって突き進むもので、その真理こそ人間の社会に富と豊かさとを与えるものであり、真理へと向かう理性に導かれていく者に過ちはないという妄想を生きているのだから、こう言っても分からないだろう。
葉先に一滴でもかかれば根までが枯れ死する除草剤を作り出したのは理性であり科学だ。その除草剤を作り出す化学式は真理になる。化学肥料もまた理性と科学の産物であり、有機肥料よりも手っ取り早く、速効性があり、大量に農産物が作り出せると信じて疑わなかった。
ランドアップとかの猛毒の除草剤や、あまたの化学肥料を生み出したのは理性と科学であり、ある意味この化学式は真理だ。こうしたものを平然と生み出したのは、先に指摘した分岐点から、心身二元論が精神土壌にあり、心(=意識=理性)を絶対化した西欧近代主義の科学万能主義の道を歩き出した結果なのではないか。
老人会が借りている無料の畑で農業をしたことが切っ掛けで、これまで知らなかったいろいろな農法を研究(それほど大袈裟ではない)したのだが、新しい農業の潮流ができているのを知った。
明らかに西欧近代主義の農法ではない。面白いというか、感慨深いというか、母なる自然が産み落とした、生きとし生けるものの命の関係性と循環と生態系の中に組み入れた農業のあり方とでもいうべきものの模索だ。如何にこれまでの近代主義農業が歪であり、短絡的であり、表層的であり、傲慢なものであったか、改めて思い知った気がした。正しく、自然から恵みを頂くという発想であり、心と身体とを分離することなく一体として見た先に描き出された、農業的な世界観だ。
土の世界の複雑さと豊穣さにビックリした。土そのものが一つの世界を作っているのだ。その世界を理解し、その世界に農業を一体化することなしに未来はないとも思えた。自然破壊の原罪としっかりと向き合い、その原罪を可能な限り極小化する方向性があり、里山的な豊穣な生態系を生み出す可能性をも秘めている。
この土の世界を解明したのも理性と科学ではないのか?
西欧近代主義の科学万能主義の道を暴走する理性と科学があり、この土の世界を解明し、この世界の関係性に農業を一体化させようとする発想を持ち込んだ理性と科学とがある。どちらも理性と科学であり、「真理なるもの」を追究するものだが、進んでいく方向性と道とが違う。方向性と道とが違えば、まったく代わったものになる。それによって人間社会にもたらすものもまったく違ったものになる。
それが、無邪気な志位和夫には分からない。分からないのは志位和夫だけではないから絶望的なのだ。だから原発を生み出し、戦争をする兵器を生み出して喜んでいる。
わたしが老人会の借りている無料の畑から今年限りでおさらばすることにしたのは、老人会のボス的な存在の者が、農薬と化学肥料の信奉者であり、化学肥料さえ大量に投与すれば農作物が取れるという発想が根強くあるからだ。化学肥料と農薬を大量に投与すれば土が死ぬという発想が皆無なのだ。
そればかりではない。市が主催の環境美化週間なるものがあり、町内会と老人会も積極的に参加して、道路や空き地に捨てられたゴミや空き缶を拾い集めたりしているのに、あろうことか、借りている畑の隅に穴を掘って、要らなくなったビニールマルチや肥料袋、ネット、ブルーシート等々を捨て燃やすというのには驚くしかなかった。
持ち帰って市指定の分別用のゴミ袋に入れて処理するのが当たり前の行為のはずだ。無料で借りているのに、その土地にゴミなど捨てるなどあっていいはずがない。オマケに畑の周囲には、不法投棄禁止の看板が掲げられているのにだ。ダイオキシン問題もある。市がゴミ処理場の建設するにあたって、住民から反対運動が上がり、火力を上げることで落ち着いたいきさつもある。昔の話ではない。それが、枯れた竹と一緒に燃やすから火力が高くなるからダイオキシン問題はない、というに及んでは唖然とした。
ウクライナ戦争で、反戦と平和を掲げていたはずの日本共産党が、ウクライナのゼレンスキー大統領が国民総動員での徹底抗戦を呼びかけ、祖国防衛を国民に義務づけたことに感情移入し、祖国防衛を正義の戦争だと絶賛したことを想い出してしまった。まったく同じ矛盾した論理だ。日本共産党だけではない。れいわ新選組以外の既存の政党はどこも同じだ。
老人会は保守的だ、というのは誤りだろう。
自然破壊を率先して行う西欧近代主義農業を絶賛している。自民党も同様であり、公明党も、維新も、国民民主党も、立憲民主党も、社民党も同様だ。日本共産党は大規模農業から家族農業への転換を掲げてはいるが、理性と科学万能主義の志位和夫の発想が基本にあるから、「本質的には」同様だろう。
こうしてみると、保守とリベラルとの境界線がないに等しい。先に述べたとおり、ウクライナ戦争が、リベラルと左翼と知識人の欺瞞性を暴露し、本質的には自民党と同じ西欧近代主義の価値観と世界観にがんじがらめになっている姿が浮かび上がってきた。
既存の政党(大政翼賛政治)という組織では未来はない。わたしにそう実感させたのはウクライナ戦争だ。
わたしが「れいわ新選組」のオーナーになったのは、「れいわ新選組」がウクライナ戦争でとった行動に賛同したからもあるが、何よりも既存の政党の「組織」につきものの胡散臭さとしがらみがないことだ。その証拠が「大石あきこ」の存在だ。既存の政党では「大石あきこ」は生まれようがない。組織の胡散臭さとしがらみが、「大石あきこ」的なるものを排除していまうからだ。山本太郎が党首であり、「れいわ新選組」が既存の政党のような体質と本質がないからこそ、「大石あきこ」という政治家が産み落とされたのだと確信する。
どの政党も恥ずかしくもなく多様性などと口にしているが、極論すれば、党が背後から操るおニャン子人形の生稲晃子と五十歩百歩だとまでは言わないが、政党という組織の鋳型に嵌まり、政党という組織のしがらみとルールにがんじがらめになってしまっているのではないのか。金太郎飴とかわらないだろう。
言葉の厳密な意味での多様性をいうなら「れいわ新選組」しか当てはまらない。しかし、しっかりとしたベクトル(方向性)はもっている。その上での多様性だ。
農業で言えば、新しい農業の潮流が「れいわ新選組」になるのだろう。新しい潮流の農業でしか、農業の未来は拓けないだろうし、そうでなければ人間社会が破滅するだろう。
政治も同じにみえてならない。れいわ新選組以外の既存の政党では未来は拓けないのではないだろうか。日本は破滅しかない。そんなことを考えさせられた老人会とそれにまつわる農業騒動だった。
耕作放棄された畑の開墾には苦労した。
鎌で草の根っこまで取り除き、それが終わったらスコップで耕したので、右膝を痛めてしまった。開墾したのは耕作放棄地だけではない。欲張って荒れ地にまで手を出したから、Twitterをやっている暇はなくなるし、ブログの更新など出来るはずがない。それでなくても遅々として進まない連載小説『三月十一日の心』など書けるはずがない。その上に、市営の貸し農園がある。
老人会の畑は今年いっぱい続けることにした。直ぐにでも止めたいのだが、大玉トマトが85本植えてあり(売るのではない。前からトマト栽培がどんなものか知りたかったのだ。ほとんど遊び感覚だが……笑)、サツマイモの苗が90本、スイカが5株、メロンが2株、カボチャが8株、そして里芋とヤーコンとネギがある。それを収穫しないで止められるはずがない。これまでの苦闘が水泡に帰すからだ。
からし菜、大根、ニンジン、カブ、春菊、ソラマメの収穫は終わった。インゲンの収穫も終わりに近い。後は草取りをしたりして、残りのものを収穫するだけになった。といっても、スイカとメロンの人工授粉の作業は終えたが、カボチャの人工授粉に早朝に畑に出かけなければならない。それと、85本のトマトの脇芽かきなどの作業がある。
市営の貸し農園では、枝豆とキュウリとナス、そしてピーマンとシソ、石川県の里芋、唐辛子などを栽培している。この猛暑で、時折水やりもしなくてはならない。農作業はこれからも続くが、一段落ついた。
これからはまた通常運転に戻る。
Twitterとブログで積極的に「れいわ新選組」を熱烈に応援したい。
わたしが開墾した畑がどんなものか、市営の貸し農園を含めて以下写真で紹介する。早朝に撮ったものがほとんど。
いつものように、疲れたので推敲しない。誤字脱字はご容赦願いたい。
開墾した畑1(ジャガイモ・トマト・インゲンその他)
収穫し終わったジャガイモ畑
開墾した畑2(トマトとサツマイモ)
※草も混じっているが、サツマイモの間にみえるのはリビングマルチ(オオムギ)。赤ジソも植えてあるのだが、隠れてみえない。
ヤーコンと里芋
熟してきたトマト
開墾した畑3(黒枝豆とトマト)
開墾した畑4(スイカ・メロン・カボチャ)カラスとハクビシン対策の苦心作
開墾した畑5(カボチャ)
【市営の貸し農園】
※草ではない。リビングマルチ(オオムギ)赤ジソはコンパニオンプランツ
石川県の里芋と枝豆
ピーマン・唐辛子
ナス2
キュウリ
これらの写真をみれば、Twitterとブログがおろそかになるのが納得できるのではないでしょうか?