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 安倍政権は強固で一枚岩の権力基盤を有していると信じられている。
 それは間違いではない。
 が、強固で一枚岩的な権力基盤だからこそ、そして独裁的な権力基盤だからこそ、逆説的に、二重の権力構造が不可避だった。そう思っている。
 二重の権力構造とは、安倍晋三と、影の総理と言われる官邸官僚である今井尚哉を指している。
 これから、権力の二重構造の本質、及びその危険性と破滅性について論じてみたい。
 そして、権力の二重構造が新型コロナウィルスのような国家存亡の危機において、如何に無力であり、破滅的であるか、合わせて論じたい。

 今井尚哉は官僚であり政治家ではない。
 この事実は重要だ。
 今井は自らが全面に立って権力を奪取するのは不可能なのである。だから権力を奪取するとしたら、政治家に寄生して宿主を乗っ取り、操る以外にはない。そのために今井は、安倍晋三の信頼を勝ち取り、寵愛され、安倍晋三に運命共同体的な存在であると信じ込ませることで、寄生に成功したのだろう。
 ここで留意しなくてはならないのは、一足飛びに今井尚哉が安倍晋三に寄生し、宿主としての安倍晋三を乗っ取り、操るまでになったのではなく、徐々に寄生が進行したという点だ。
 当然に寄生できるには、宿主である安倍晋三にとっても見返りがなければ不可能であり、宿主である安倍晋三に、今井尚哉との関係を運命共同体とまで信じ込ませられないと、乗っ取りなどあり得ない。
 しかし、寄生しようとする宿主に、最初は寄生されているなど露ほどにも疑われることなく、徐々に寄生を深めてゆき、ある時点で宿主に寄生を気づかれたとしても、共生関係だから仕方ないとまで宿主に信じ込ませ、更には主導権を逆転させて、寄生者がいないと自分の権力基盤ばかりか、自分の身の安全も脅かされるという精神的な崖っぷちにまで宿主を追い込んでいって、最終的には、宿主を乗っ取って操るという地点にまで至るのは至難の業だろう。
 今井尚哉に、国家権力を欲しいままにしたいという野望があったのだろうか。
 わたしは今井尚哉の研究者でもなく、取材したわけでもないので、今井尚哉にそうした野望があったかどうかは知らない。また、知りたくもない。わたしは作家であり、政治評論家でもなければ、政治研究者でもなく、ジャーナリストでもない。作家として安倍晋三と今井尚哉の二重の権力構造に興味をそそられているだけだ。
 だから頼りにすべきは、作家としての直観と想像力だけなのである(笑)。

 結果的にみれば、今井尚哉が国家権力を欲しいままにしている事実は動かしようがない。それが可能となったのは、宿主である安倍晋三に強大な権力が集中していたからだ。寄生者として生きるとは、宿主の限界をしか生きられないという宿命がある(笑)。
 だから今井尚哉は、安倍晋三を独裁的な権力者の地位にまで押し上げたのだろう。宿主である安倍晋三を独裁的な権力者として祭り上げ、強固な権力基盤を作り上げなくては、寄生者としての今井尚哉が国家権力を掌握するのなど不可能だからだ。

 宿主である安倍晋三はどうやって独裁的な権力者として上り詰めたのだろうか。
 今井尚哉は、安倍晋三が政権を放り投げた直後から安倍に接近し、次の政権奪取を助言し、また画策してきたようだ。その時点で、今井尚哉が安倍晋三に寄生し、いつかは宿主である安倍晋三を乗っ取るという野望があったとは思えない。が、安倍晋三を側近として支えてきたのは間違いない。
 何故に安倍晋三は独裁的な権力者として上り詰められたのか、その理由を、わたしは菅野完著『日本会議の研究』(扶桑社新書)から得ている。
 菅野完著『日本会議の研究』については、過去にブログで何回かに分けて書いている。興味のある方はそちらを読んでほしい。
 閣僚経験に乏しく、何の実績もなければ、自民党内に権力基盤を持たない安倍晋三が、どうして自民党総裁になり、内閣総理大臣になれたのか、その絡繰りを解き明かした菅野完の眼力を、わたしは高く評価しているし、何よりも正鵠を射ている。
 詳細は割愛するが、核心部を辿ってみよう。

 菅野完は安倍晋三を小選挙区制の申し子だと言い切った。
 何の実績も無い若造の安倍晋三を幹事長に抜擢したのは小泉純一郎だ。派閥力学からいって安倍晋三の幹事長などあり得ないし、容認されるはずもない。当然に自民党内から反乱が起きるが、それを制圧できたのは「公認権をはじめとする党内の人事権を執行部が独占する、小選挙区制特有の仕組みがあればこそだ」(『日本会議の研究』扶桑社新書)と菅野完は指摘している。
 そして安倍晋三は、「この大抜擢のわずか2年後、小泉のあとを引き継ぎ、安倍は総理総裁にまで上り詰める」(同上)のである。
 菅野完の眼力が射貫いたのはこれだけではない。長くなるが『日本会議の研究』より当該箇所をそのまま引用する。

「自分の派閥の中にさえ、中川秀直や町村信孝など、安倍よりもはるかに当選回数も閣僚経験も豊富な人材がひしめいていた。派閥の領袖としてさえ権力基盤を構築しえないまま、安倍は総理総裁になったのだ。それまでの総理総裁と比べ、安倍の党内権力基盤は驚くほどに脆弱だ。日本会議や『生長の家原理主義者ネットワーク』をはじめとする『一群の人々』が安倍の周りに群がり、影響力を行使できるのも、この権力基盤の脆弱性に由来するのではないか。安倍は他の総理総裁よりつけこみやすく、右翼団体の常套手段である『上部工作』が効きやすい」

 更に菅野完は、安倍晋三を神輿に担ぎ上げた「日本会議と『生長の家原理主義者ネットワーク』をはじめとする『一群の人々』」を論じた先に、安倍晋三の筆頭ブレーンである伊藤哲夫だけでなく、「生長の家学生運動」に焦点を当てて、花島有三とモンスターである安東巌の存在を浮かび上がらせている。
 わたしが今回論じたいのは今井尚哉と安倍晋三の権力の二重構造についてなので、寄り道は避けたい。菅野完著『日本会議の研究』(扶桑新書)を読むことを勧める。

 さて、ここまで読んできた読者は奇異に思われかもしれない。
 安倍晋三と今井尚哉の権力の二重構造ではなく、安倍晋三と、日本会議をはじめとする狂信的な右翼的勢力との権力の二重構造ではないか、と反論するに違いない。
 安倍晋三を総理総裁に祭り上げたのは、間違いなく、菅野完が指摘した狂信的な右翼的勢力である。そしてこの時点では、安倍晋三と狂信的な右翼勢力とは一心同体だったと想像する。
 何故なら、安倍晋三の権力基盤が脆弱だったから、権力を維持するには狂信的な右翼的勢力に頼るほかなかっただろうからだ。
 その意味では、安倍晋三は狂信的な右翼的勢力の傀儡的な存在だったといえるのかもしれない。
 が、安倍晋三を侮ってはならない。
 安倍晋三の論理的な思考回路はどうしようもないほど破壊されているのは事実だ。しかし、安倍晋三には希代な資質がある。
 わたしはその類い希な資質を「天然のファシスト」と呼んでいる。
 ファシストになるには、先ずはニヒリストにならなければならない。
 ヒトラーは天然のファシストではない。だから天然のニヒリストでもない。天然でないからヒトラーの中には思想としてのファシズムが存在し、ヒトラーのファシズムには思想としてのニヒリズムが存在する。
 が、天然のファシストであり、ニヒリストである、安倍晋三には思想と呼べるものがない。思想がない無自覚なファシストでありニヒリストであるからこそ、ある意味で安倍晋三は無敵なのかもしれない。思想がなく無自覚とは、内面での葛藤もなければ、思想という制約もない。心のおもむくままに何でもできてしまうのである。
 ヒトラーの思想に関する書物は多い。ヒトラーが人生を賭けてのたうち回った末に掴んだニヒリズムという思想と、その先に辿り着いたファシズムであれば当然である。
 が、安倍晋三を思想という側面から解剖しても何も出てはこないだろう。安倍晋三には思想と呼べるものが皆無だからだ。
 こう書くと、安倍晋三には日本会議のいう思想があるではないかと反論するかもしれない。そもそも日本会議に思想などという大層なものがあると、わたしは思っていないが、仮に狂信的な思い込みを思想としたとしても、安倍晋三にはそれすら無いと断言してもいい。安倍晋三には何もないのだ。自分は何者であり、何を目的に生きており、何処へ行こうとしているのか、という哲学的自問などとは無縁なのである。空っぽな人間なのだ。
 が、自己顕示欲は異常なほど強く、自己愛の権現のような男だから、日本会議の目的に乗っかり、その目的を果たすことで自分を英雄視したいだけなのである。
 安倍晋三の自己顕示欲と自己愛が、祖父である岸信介への信仰にも似た敬愛と神格化に向かうのは自然だ。岸信介の血を受け継いでいることでしか、勉強が出来なかった自分を慰められなかったのだろう。安倍晋三の岸信介への信仰は、コンプレックスの裏返しでもある。そのコンプレックスが、岸信介がなし得なかった改憲への執着を生んでいるのだろう。岸信介を超える唯一の証しだからである。

 わたしが指摘している安倍晋三の資質であり、本質である、天然のファシストとはどういうものか、分からないと思う。これからその輪郭だけでも描いてみよう。
 ナチズムとヒトラーに関する書物は数限りなくあるが、わたしにとって赤間剛著『ヒトラーの世界』(三一新書)は印象的だった。
 その中で赤間剛は、M・ピカートの現代ファシズム論を紹介している。
 わたしには、M・ピカートの現代ファシズム論こそが、安倍晋三の資質であり、本質である天然のファシスト像を考える上で、重要なヒントになると思えてならない。引用してみよう。

「彼(=M・ピカート……ブロガー注)はヒトラー個人よりも〈ヒトラー的なるもの〉すなわちファシスト的性格を、現代人一般の特性としてえぐる。ヒトラーが決して異常なのではなく、現代人としては逆に正常なのだという。現代人は空虚な存在形式をしており、このファシスト性は歴史からの『非連続人間』として『内的連関喪失者』となっていると説く。要するに現代人は解体され、機械化されている、と」

 これだけでは釈然としないだろう。
 引用した箇所のキイタームとなっている『非連続人間』と『内的連関喪失者』をより詳しくみてみよう。赤間剛は、M・ピカートの説明をそのまま紹介している。次のような説明だ。

「あらゆる雑多な記事を無関係に満載した新聞。つぎからつぎへ脈絡のない番組を流すラジオ放送の内的連関秩序の欠如」

「第一次世界大戦後、ドイツの医薬メーカーは人命を守る薬品をつくると同時に、人命を殺傷する毒ガスを製造した。これがファシスト性だ」

 映像主体のテレビが出現する前の映像無きラジオ全盛期でさえ、脈絡性と整合性のない細切れになった番組の時間の中を、次々に乗り移っていく生を生きる過程で、個人主義的自我と心とが破壊されて、現代人は「内的連関秩序の欠如」を生きることになるのだろう。
 テレビはラジオよりも深刻だ。CMを見れば明らかだろう。
 AというCMの直後に現れるBというCMと、数秒前に見ていたAというCMとの間には、何の脈絡性も整合性もない。それだけではない。AのCMの訴えていることの真逆をBのCMで訴えることさえ普通である。
 数秒間Aの世界を生きていたかと思えば、次の瞬間にはまったく違うBの世界を生き、Aの世界とBの世界に論理的な脈絡性と整合性がないにも関わらず、それが当たり前になってしまったらどうだろうか。
 日常的にそうした細切れになった時間と、細切れになった脈絡性と整合性の破壊された論理の世界を次々と乗り移っているとしたら、「内的連関秩序の欠如」は防ぎようがないだろう。
 論理的な脈絡性と整合性を指摘したが、脈絡性と整合性は論理だけではない。感情もまた細切れにされて脈絡性と整合性を失ってしまうのである。CというCMを見て涙を流したかと思うと、数秒後に流れてきたDというCMを見て大笑いするのである。こうした現象はジキルとハイドの二重人格など超えてしまっている。人格破壊と言うべきだろう。
 脈絡性と整合性を失っているのは思考的回路だけでなく、感情的回路も同様である。

 ハンナ・アレントは『人間の条件』(ちくま学芸文庫)で、資本主義の本質は破壊にあると言っているが、ハンナ・アレントのいう破壊と、M・ピカートのいう「内的連関秩序の欠如」は関連していると思う。
 資本主義における資本の意志とは、自己増殖と拡大再生産になるのだろうが、拡大再生産をするには、破壊無くしてはあり得ないだろう。こう指摘すると違和感を覚えるだろうが、破壊を進歩と置き換えたら納得するのではないだろうか。
 進歩と破壊とは違うと思うかもしれないが、資本主義における進歩とは、時間的境界線を意味する。境界線を隔てたあちら側の物は、時代遅れの遺物同然になってしまうのである。だから遺物は捨てるか壊すかして、こちら側の新しい物に買い換えることになる。進歩は善であり、古くさい遺物は悪であるという暗黙の価値観に支配されている世界が資本主義なのである。だから絶えず作っては破壊し、作っては破壊しないと拡大再生産などあり得ない。
 進歩というと科学と技術革新に結びつけて理解してしまいがちだが、モードとしての流行もまた進歩なのである。
 進歩というと真っ直ぐに直線的に進むと思い込んでいるが、流行を進歩としてみれば、必ずしも真っ直ぐに直線的に進むものではなく、優れて意図的だと分かる。つまり、進歩とは資本の意志によって意図的に作られるものであって、方向性はない。
 科学の進歩には真理へと向かう方向性があるというのも資本主義によって作られた幻想だろう。科学にも色々な方向性がある。が、資本主義社会においては資本の意志が意図的に、資本の自己増殖と拡大再生産するのに都合が良い方向へと導いているのである。
 科学的進歩には基礎研究が必要であり、膨大な費用がいる。その費用をどの基礎研究に投下するかで、科学的進歩の方向性は自ずと決まってくるはずだ。

 破壊と「内的連関秩序の欠如」との関係性に立ち返ると、テレビのCMを考えればわかる。CMは流行を発信もすれば、技術的進歩による利便性を発信しもするが、基本的には意識の中に時間的境界線を引いて、境界線のあちら側の世界の物を色褪せた無価値な物とし、境界線のこちら側の世界の物へと心を引き寄せて購買意欲をそそるのである。
 では境界線のこちら側の世界に脈絡性と整合性があるかというと、前述したように支離滅裂で矛盾したものである。
 ハンナ・アレントは資本主義の本質を破壊と見抜いたが、その破壊とは物質的な破壊だけではなく、論理と感情の破壊であり、方向性と目的性の破壊であり、脈絡性と整合性の破壊である。そして、忘れてならないのは歴史の破壊である。

 これまで素描してきた現代人の特徴であり、病理でもある、「内的連関秩序の欠如」とは、ファシズムとしての特性でもある。
 現代社会を蝕む病理であるから、現代社会は常にファシズムなるものを裡に抱きかかえているといえるはずだ。
 安倍晋三は保守か、それとも保守でないか、という馬鹿げた議論があるが、安倍晋三が保守かどうかを問う前に、ハンナ・アレントが資本主義の本質を破壊と看破したのをみれば、資本主義を是とする者が保守であるはずがない。資本主義の本質を見抜けずにいる者たちが、資本主義社会の中での保守などと寝ぼけたことを言っているのだ。
 破壊者であり、「内的連関秩序の欠如」者であり、だからこそ細切れになった脈絡と整合性のない時間を飛び跳ねている安倍晋三が保守などであるはずはない。当然に時間の継続を前提とする歴史も破壊する。安倍を歴史修正主義者などと言っている学者は何処に目をつけているのか。安倍は歴史を修正するのではなく破壊するのだ。

 安倍晋三における天然のファシストとしての資質を語る前に少し脱線しよう。
 脱線はわたしの得意とするものだ。だからわたしの人生は至る所で脱線を生んできた(笑)。
 わたしの大学時代の恩師である橋川文三が著した不朽の名作に『日本浪曼派批判序説』(未来社)がある。
 戦前の日本ファシズムを思想的な側面から考える時に避けて通れない、日本浪曼派の思想を解明したものだ。橋川は、日本浪曼派を代表する保田與重郎の思想を形成する、マルクス主義とドイツロマン派と国学との三つの核を暴き出した。
 詳細は割愛するが、M・ピカートのいう「内的連関秩序の欠如」と関連するので、ドイツロマン派と国学に触れておきたい。

 ドイツロマン派の思想の中心には、ロマンティック・イロニーがある。
 ロマン派とは、西欧近代主義の世界像の土台をなしている機械論と理性(=科学)至上主義への反逆なのだろうが、反逆の仕方が優れて西欧近代主義的なのだ。
 西欧近代主義は個人主義的自我を前提とする。面白いもので、個人主義的自我を前提にしているのに機械論と科学至上主義が土台にあるのだ。ロマン的に自我の絶対的な自由を希求すれば、機械論と科学至上主義とぶつかるだろうことは首肯できる。
 西欧近代主義は資本主義と一心同体だ。社会主義もまた資本主義の亜種でしかない。しかし、西欧近代主義は個人主義的自我なくして成立しない。個人主義的自我の権利と自由と資本主義とは矛盾した関係にある。
 ドイツロマン派は、絶対的自我を希求して、機械論に唾を吐く。絶対的自我を希求する方法がロマンティック・イロニーなのだ。
 要は機械論的な論理の破壊である。論理のしがらみに雁字搦めになれば絶対的自我は望めない。だから脈絡性と整合性の檻を突き破り、Aの地点からまったく無関係なBという地点に、目にはみえない橋を架けてひょいっと乗り移ってしまう。Aの地点にいたときの自分はもう自分ではない。だから責任も発生しない。何ものにも捕らわれることなく、絶対的自我の自由の赴くままにあっちにぶっ飛んだり、こっちにぶっ飛んだりするのだが、そのぶっ飛び方に論理的整合性も脈絡性もなく、責任も蹴飛ばしてしまうのだ。
 ドイツロマン派の悪魔性といわれる所以だが、重要なのは、政治的には機会主義に陥り、現状肯定になるという点だ。
 ドイツロマン派のナチズムへの影響は指摘されているし、ヒトラーも接近した過去を持っているようだ。
 ドイツロマン派を貶してばかりでは申し訳ないので書き添えておくと、芸術的には優れた作品を残した作家や芸術家が多くいる。

 次に国学に触れたい。
 本居宣長の「もののあはれ」は有名だが、「もののあはれ」はドイツロマン派に通じているといったら失笑を買うだろうか。
 国学というと優れて文学的だと勘違いしている人がほとんどだが、国学ほど政治的なものはない。文学の衣装を着た政治なのだ(笑)。
 江戸時代の儒学は武士階級の心を支配するための道徳だったのだが、では百姓と商人たちを縛る道徳はあるのかというと法律はあってもないに等しい。道徳と法律とは違う。法律はみつからなければ罰せられないが、道徳は人が見ていない所でも自分の心を縛るものだ。本居宣長が恐怖したのは、多発する百姓一揆だったようだ。
 百姓の心を何とか縛れないものか。本居宣長が辿り着いたのが「もののあはれ」なのである。
 ドイツロマン派が意識的に機械論に反逆したのとは違って、「もののあはれ」とは政は御上に任せておけばよく、そんなものに捕らわれないで、感情の赴くままに面白おかしく生きることが本来の生のあり方だと説くのである。Aという感情からまったく違ったBという感情へとひょいっと乗り移るのだ。それが日本的心のあり方だとしたらどうだろうか。ドイツロマン派と同じく、政治的には機会主義であり現状肯定である。
 因みに、国学の政治的側面を極端に強めて神秘主義的な色彩を施したのが平田篤胤の平田神学であり、明治政府が虚構した一神教的国家神道に色濃く影を落としている。国民の臣民化とは、国民の心の洗脳術でもある。
 現代の日本人の心のあり方を考える時に、わたしはいつも本居宣長の「もののあはれ」に行き着き、ドイツロマン派に辿り着くのである。
 ファシズムの温床が存在しているのだ。

 ずいぶんと回り道をしたが、安倍晋三の天然のファシストとしての希代の資質に移ろう。
 ある意味ではヒトラーは求道者だった。ストレートにニヒリズムを血肉化し、ファシストへと上り詰めたのではない。紆余曲折をへ、七転八倒した末にニヒリズムの世界へと足を踏み入れ、自覚するファシストとして自分を鍛え上げたのだ。ドイツロマン派への接近もその過程だったのだろう。
 一方の安倍晋三は求道などとは無縁だし、読書などには唾を吐きかけていたはずだ。天然のファシストだから、自分がファシストであるのを自覚していない。当然にニヒリストであるのを知らない。
 おそらく祖父の岸信介を見て育ち、ファザコンの母親の洋子の影響で岸信介を神格化するようになっていたのだろう。わたしは安倍晋三がニヒリズムの世界を生きるようになったのは岸信介と無関係とは思わない。
 安倍晋三は「政治とは結果だ」が口癖になっている。
 が、結果の責任を果たしたことがなければ、果たそうともしない。安倍晋三が言う結果とは「力」の意味だろう。したがって、安倍の口癖の「政治とは結果だ」は、「政治とは力だ」と解釈すべきだ。
 結果が黒でも力で白にする、それが安倍にとっての政治なのだろう。自己愛と自己顕示欲と権力志向が異常な安倍らしい。安倍のいう政治に国家と国民は含まれない。国家と国民の私物化には必然性があるのである。
 安倍にとっての政治とは、力で黒という事実をねじ曲げて白にすることなのだから、そこに倫理と良心は元より存在しない。
 安倍の知識ではドイツロマン派など知るはずはないが、だからといってドイツロマン派のロマンティック・イロニーと無縁ということにはならない。
 安倍の国会答弁を観察していると、天然だから無自覚なのだろうが、答弁している内容に論理的脈絡がなく、整合性がない。まるで次々と細切れに現れるテレビのCMを見ているかのようだ。
 安倍はどうして嘘ばかり吐くのだろうか。嘘を吐くことに良心の呵責もなければ、倫理的な心の痛みもないのは間違いない。更に羞恥心の欠片もない。ファシストの資質としては完璧だ(笑)。
 ドイツロマン派は、Aの地点からまったく無関係なBの地点へと飛び移るが、安倍は空中を飛ぶのではなく、嘘という橋を架けてA地点からB地点へと乗り移っているのではないだろうか。AとBとは論理的脈絡もなければ整合性もない。その架け橋となっているのが、安倍にとっての嘘なのかもしれないと思えてならない。
 ドイツロマン派にとってはA地点にいた自分の責任を蹴飛ばしているし、B地点に移った自分の責任をとるつもりなど露程もない。元より責任などないのだ。安倍の論理と似ている。違いはドイツロマン派が絶対的自我なのに対して、自我の確立などという大層なものがない空っぽの安倍は、自己愛と自己顕示欲と権力欲なのだろう。
 安倍に目的地はない。自己愛と自己顕示欲と権力欲を満足させればそれでいいのだ。そのためには黒を白にできる政治としての力が絶対的に必要なのである。
 わたしのいう天然のファシストとしての資質がどういうものかお分かりいただけただろうか。
 安倍晋三の天然のファシストとしての資質はこれだけではない。
 思考回路が単純だから、敵と味方に分ける二分法に貫かれている。その上に冷酷非道だから、敵とみればどんな手を使っても容赦なく排除する。そして、猜疑心が強い。安倍政権になって内調と公安が強化されたのは、安倍の猜疑心の強さと敵味方に分離する思考回路からくるものだろう。

 こうした天然のファシストの安倍晋三であるから、自らを総理総裁に祭り上げてくれた狂信的な右翼的勢力との蜜月関係が、そのままの形で続くはずはない。自己愛と自己顕示欲と権力欲が異常だからだ。
 狂信的な右翼勢力が安倍の脆弱な権力基盤を支えていたとして、安倍の権力基盤が徐々に強固になってくれば、蜜月関係が変質してくるのは当然だ。
 安倍には岸信介がなし得なかった改憲を自らの手でやり遂げるということ以外には目的がないと言ったが、権力基盤を支えてくれている狂信的な右翼勢力の掲げる政治的目標を掲げることに、安倍が異を唱えるはずはない。
 が、脆弱だったはずの安倍の権力基盤が徐々に変質し強固となっていけば、権力基盤そのものも変質してくるはずだ。
 官邸を安倍のシンパで固め、「公認権をはじめとする党内の人事権を執行部が独占」(菅野完「日本会議の研究」扶桑社新書)できる小選挙区制を利用して、選挙の度に安倍チルドレンを担ぎ上げて当選させ、内閣人事局によって官僚組織を掌握し、人事権を利用してNHKを広報機関に変え、検察と司法までも操り人形にまで堕落させ、飴と鞭でマスコミの上層部を下僕としたとなれば、脆弱だった権力基盤の面影は何処にもなく、独裁政権に限りなく近づいたといえる。
 その過程で尽力したのが、管官房長官であり、今井尚哉を初めとする官邸官僚なのだ。
 権力基盤が強固になればなるほど、それに尽力した管官房長官と官邸官僚の発言力が増すのは必然だろう。逆にいえば、狂信的な右翼的勢力との蜜月関係が崩れ始め、政策が狂信的な右翼勢力の掲げる政治的目標とズレてくることになる。
 安倍晋三は右翼か、それとも新自由主義か、という問いが生まれる理由はこの辺りにある。
 新自由主義の政策と経団連と要求に沿った政策が全面に出てきたのは、経産省出身の今井尚哉の影響だろう。

 思っていたよりも長くなってしまった。さすがに疲れた。この続きは明日にしたい。