Twitterからしばらく遠ざかることを宣言した。
ブログから遠ざかることは宣言していない。物書きとして、そして作家として、ブログが生きていることの証であり、このブログで小説を連載の形で発表し、終了した時点でKindleから電子書籍として出版しているからだ。
正式な出版社から作家デビューし、紙の本として出版されるのを夢見ていたが、その寸前になって、出版社と喧嘩(自分では喧嘩のつもりは毛頭無い。大義を貫いたつもりなのだが、出版社の逆鱗に触れたようだ)して、夢はついえ去った。大手の出版社には、どうも約束事があるようだ。出版社と喧嘩したような者はブラックリストに入れられ、徹底的にパージされる。
Kindleから出版している小説『風よ、安曇野に吹け』は、情報が漏洩されネットで大騒ぎになって、「ぶっ飛び」と名付けられた小説だ。信じるか、信じないかは自由だ。妄想癖がある「北林あずみ」の妄想だと思われても一向に構わない。真実を知っているのは、当該する騒動に関わったポプラ社と講談社の編集者たちだ。その編集者に訊けば、嘘か誠かハッキリとするはずだ。が、良心があればの話だ。
その後に書いた小説『僕の夏よ、さようなら』も曰く付きの小説だ。が、こちらは自分でも確証はない。「文藝賞」の騒動を引き起こした小説に違いないと、わたし自身は思っているのだが、これが嘘か誠か知っているのは、河出書房新社の編集者と、当該する騒動の時に「文藝賞」の審査に当たった選者たちだ。覚えているのは、高橋源一郎、斉藤美奈子、田中康夫だ。こちらも良心があるとしたら、わたしの疑惑が嘘か誠か、証言してくれるだろう。が、何らかの形で大手出版社と関わって生きているのだから、大手出版社と喧嘩した不届き者の妄想だとして闇に葬るのは火を見るよりも明らかだ。永久に闇の中なのだろう。
わたし自身はもう出版社から小説を出してもらうのなど諦めている。Kindle作家として生を終えると覚悟を決めている。
だったら今更愚痴をこぼすのなど見苦しい。そう思われる読者がほとんどだろう。
愚痴をこぼしたくなる心境に追い込まれているのだ。
統一教会問題で、この国に嫌気がさしたのと、愚痴をこぼしたくなる心境とは繋がっているのは確かだ。
この心境が、物書きの心に火を点けた。
この国に嫌気がさした原因を書けとそそのかしている。その誘惑に負けて、筆を執っているというのが、正直なところだ。標題が、この国に嫌気をさした核となる原因だ。
それでは、思いのままを、嫌気に牽引されながら、怒りとともに、書き殴ろうと思う。
闇に隠れていた統一教会問題を白日の下に引きずり出したのは、安倍晋三の暗殺事件だ。
生々しい映像として事件の一部始終が残っており、テレビとネットで、その映像が流れ国民の目に焼き付いただけに、衝撃は計り知れない。この衝撃の大きさがなかったら、統一教会問題は浮上してこなかったに違いない。
事件直後の政府自民党の対応が象徴的だ。
民主主義への挑戦であり、言論の自由への圧殺行為であり、政治テロだ、という主張をNHKなどのテレビを使って拡散し、安倍晋三は政治テロに倒れた「英雄」として情報操作し、印象操作して、国民の意識に刷り込もうとしたのだ。
この目的は、テレビと新聞を使って国民の意識に植え付け、洗脳してきた、「安倍晋三の虚像」をそのまま生き続けさせ、日本の偉大な英雄的政治家として、国葬という名の祭りで国民の心を鷲づかみにし、悲劇の英雄・安倍晋三の遺志を実現させるという感情に火を点けて、一気に改憲へと雪崩れ込み、ナチスの全権委任法に当たる緊急事態条項の奪取へと突っ走ろうというシナリオを描いていたに違いない。
が、安倍晋三を暗殺した山上徹也の母親が統一教会の信者であり、統一教会に騙されて多額の献金をし、家庭崩壊に至っていたことが明るみになってくると、政府自民党が描いたシナリオが音を立てて崩れ去った。統一教会による家庭崩壊が、父親と兄との自殺までを引き起こしていたのが暴露されると、政府自民党の民主主義を圧殺する政治テロという主張は成り立たなくなった。
そして山上徹也が、家庭崩壊を招いた統一教会へのあからさまな殺意を、統一教会の広告塔的存在だった安倍晋三に向けたことを自白しては、「日本の偉大な英雄的政治家の悲劇」として安倍晋三の暗殺を飾り立てるという目論見も崩れ去ったのだった。
この過程で、政府自民党のシナリオを破壊することに貢献したのが、統一教会の霊感商法問題に携わり、被害者の救済に当たってきた紀藤正樹弁護士だった。
そしてもう一人、ジャーナリストの嗅覚で、統一教会と政治家の関係を追い続けてきた鈴木エイト氏だった。
紀藤弁護士と鈴木エイト氏の立ち位置は微妙に違う。
紀藤弁護士は弁護士であり、弁護士として統一教会の霊感商法被害者の救済を目的としてきたのであり、統一教会をカルト「宗教」として捉え、カルト「宗教」による霊感商法被害を問題にしている。従って紀藤弁護士が目的とするのは、統一教会による霊感商法をこの国から一掃するだけでなく、統一教会のようなカルト「宗教」による被害を日本社会から一掃するための、フランスのカルト規制法のような法的縛りを作ることと、実際問題として、統一教会に騙されて多額の献金をしたり、それによって家庭崩壊をおこしたり、路頭に迷っていたり、拉致被害者に等しい合同結婚式によって行方不明になっていたり、見知らぬ外国で不幸を背負わされていたりする被害者を、どうやって具体的に救済するか、その対策と立法化なのだ。
紀藤弁護士にも統一教会問題を「政治問題」として捉える側面があると、わたしを批判することも可能だろう。実際に、統一教会と政治家との癒着を問題にする発言をしている。が、その発言の意図するものは、政治家が広告塔の役割をして、統一教会の霊感商法を正当化し、霊感商法をこの国に根付かせ、霊感商法被害と、人権侵害である合同結婚式の被害を拡大させていることだ。広告塔の役割だけでなく、統一教会の「政策」に加担しているという点も指摘している。
政策を「」で括ったのは、これは言葉の厳密な意味としての「政治」としてのものではないのを強調したかったからだ。
整理すれば、紀藤弁護士の視点と目的は、統一教会を宗教としてみるか、みないかは別にして、統一教会のカルト性と、そのカルト性が引き起こす社会的問題と被害という視点であり、それをどうやって社会から取り除いていくか、そのためのあるべき法律と法整備とはどのようなものか、という目的意識なのだ。
優れて法律的視点と目的であり、政治的視点ではない。客観的に、紀藤弁護士がテレビに出演しての発言によって国民の意識に与える影響をみていくときに、この前提は重要になる。
紀藤弁護士が主張し始めた、国会議員の統一教会との関わり合い方の濃淡で線引きするという「線引き論」を考える上でも、この前提を通してみることは重要だろう。そうでないと「線引き論」の危険性と、欺瞞性がみえてはこない。
余談になるが、わたしは作家なので「正義」という言葉を使うときには、ためらいがあり、恥ずかしさというか、後ろめたいというか、そんな感情を抱く。「正義」という言葉が抱え込む、胡散臭さと欺瞞性と作為性と自己正当化のようなものを感じてしまうからだ。わたしが統一教会問題で、Twitterで「大義」とか「義」とか「誠」とか使っているが、この言葉には政治的戦略性と政治的作為とが込められている。ストレートにそんなものを信じてはいない。信じたいとは思うが、人の心の不可解さと闇をさまよい歩く作家ならば、そんな言葉を信じたくとも信じられるはずがない。それが哀しい作家の性(さが)だ。
紀藤弁護士は、テレビで橋下徹に向かって、弁護士になったのは社会「正義」を実現するためだと即答で言い切ったらしい。Twitterの動画でみた。本物の弁護士だから言える言葉なのだろう。作家のわたしには言えない。何をもって「正義」といえるのか。何が正義で、何が正義でないのか。自分の心に降りてきて、わたしの心は正義か、正義でないか、などと問うても意味がない。正義に向かおうとするときもあれば、敢えて正義に刃向かおうとする露悪な心もある。正義を口にしながら、正義を方便にしている自分をみている、もう一人の自分がおり、悪事をなしているときに、それを押さえ込もうとする、もう一人の自分がいたりする。押さえ込もうとするのは理性だ、などというのは幼稚園児と、日本共産党の志位和夫が考えることだ。ナチスが医学的治験を得るために、ユダヤ人を生体実験に使ったが、そこに働いていたのは紛れもなく理性だ。理性の恐ろしさと、理性の底にあるニヒリズムを分かっていない。ニーチェは、理性が神として君臨してしまったニヒリズムを暴いたのだ。
紀藤弁護士は社会「正義」を掲げる。法律の専門家であり、法律家であるから、法律で社会「正義」を実現できるという信念があるのだろう。
いってみれば、法律とは「線引き」である。特に民法や刑法はそうしたものだろう。人の心は曖昧模糊としたものだが、法律とは敢えてその心に「線引き」を設けるものだ。そして、どうとでも転び得る人の心を「線引き」で縛り付けるものだ。しかし、法律は必要だ。そうでないと社会秩序は保たれない。
心を丸ごと乗っ取る洗脳と、それと繋がる道徳観と倫理観については、とりあえずここでは論じない。標題を論じる上では邪魔になるからだ。
わたしが強調したいのは、国会議員の統一教会との関わりの「濃淡」を見分け、白と黒との境を設けて「線引き」できるという発想は、法律家の発想であって、人の心に大きく関わる政治を考える場合に、大きな社会的悪影響を与え、政治を混乱させ、政治的な社会悪を法律の「線引き」で有耶無耶にすることに繋がると強く断罪したい。この点については、後で詳しく論じる。
さて、鈴木エイト氏だが、こちらは統一教会と政治家の繋がりと癒着とを、ジャーナリストとして執拗に追いかけてきた。頭が下がる。鈴木エイト氏のこれまでの苦労がなければ、政府自民党と統一教会の闇はここまで暴けなかったことだろう。鈴木エイト氏が存在がなかったらと思うと、恐ろしさを覚える。
鈴木エイト氏は、政治家と統一教会の癒着の問題を追いかけてきただけに、鈴木エイト氏が投げかける統一教会問題は、優れて「政治的」なものであり、統一教会の政治的問題の急所を捉えたものかといえば、わたしは違うと思う。
鈴木エイト氏は、紀藤弁護士とは違って、政治的視点に軸足を置いてはいるが、カルト「宗教」としての統一教会の霊感商法被害と、この国のあり方と未来とを左右する統一教会問題の核となるべき、政治的問題とがごちゃ混ぜになっている。
反論する読者が多いだろうが、わたしからみると有田芳生氏も鈴木エイト氏と五十歩百歩だ。
どうしてこうしたごちゃ混ぜの現象を起こすのかというと、ほとんど日本だけで、統一教会の霊感商法被害が深刻化しているからだ。
外国では、統一教会は「宗教」か、「宗教」でないかの問いが成り立たないほどに、統一教会の政治的野望と目的とが暴露されてしまっている。そして、政治的野望と目的とが、経済活動としっかりとリンクしていることも暴露されてしまっている。だから「宗教」として成り立ちようがないのだ。あまりにも政治的だからだ。
統一教会の教義から読み取れるのは、宗教の装いをした、政治的組織だと明確に分かる。それだけではない。教祖の文鮮明が政治的野望を明言している。宗教は隠れ蓑に過ぎない。そして、政治的野望を実現するための資金集めのための仮面でしかない。それが揺るがしようがない事実だ。
統一教会が設立した「世界勝共連合」とは「反共」を旗印に掲げた、優れて政治的な組織だ。ここに、この国の右翼と保守と極右がすべて飲み込まれていることから、目を逸らすのなど許されはしないはずだ。
統一教会が作り上げた「世界勝共連合」がこの国をどれほど蝕んでいるのか、統一教会がこの国の政治にどれほどの影響を与えているのか、という視点は重要なはずなのに、紀藤弁護士にはこうした視点はない。
統一教会問題の核心は、優れて政治的なものであり、この国の根幹に関わるものだという主張は早くからあった。
Twitterで精力的に発信してくれている海外在住の知識人がいた。
統一教会を宗教としてみるという視点を持たず、統一教会の政治的野望と目的とを知っているだけに、日本の統一教会問題の核心が余すことなく見えるのだろう。
海外からの発信だけではない。国内からも心ある知識人が精力的に発信していた。一人や二人ではない。
統一教会問題の核心部分がみえているから、核心から逸れている紀藤弁護士の方向へと世論が誘導されていくことに警鐘を鳴らしていたのだ。わたしはそうした知識人に触発されて、Twitterで執拗に連続ツイートを始めたのだ。
その過程で、紀藤弁護士と江川紹子氏と有田芳生氏あたりが、国会議員が統一教会と関わっていた濃淡で線引きする必要性を口にし始め、濃淡による「線引き論」がテレビで前面に出てきたのだった。世論に強い影響を与え始めたのだ。
わたしは唖然とした。
本人は無自覚なのだろうが、わたしからみると紀藤弁護士は、世論を取り返しが付かない方向へと誘導しているようにみえる。
その結果、濃淡による「線引き論」で、政府自民党は少しの傷を負っただけで逃げ延びてしまうだろう。紀藤弁護士の愚かさは、統一教会問題は、議員それぞれの関わりの濃淡などを判定するレベルを超えて、自民党ごとが乗っ取られているという視点がないことだ。自民党組織が乗っ取られているのに、その組織を構成する議員一人一人の濃淡を調べ挙げて、白か黒か判定することにどれほどの意味があるというのか。
調べるべきは、どうして閣僚のほとんどが統一教会と関係があり、総理である岸田文雄までが統一教会と関係しているのか、どうしてほとんどの自民党議員が何らかの形で統一教会と関わりがあるのか、という点だろう。
この事実を踏まえれば、自民党ごと統一教会に乗っ取られていると考えるのが自然であり、それを前提にして、何をなすべきか考えるのが当たり前だ。
紀藤弁護士が政府機関の諮問委員に選ばれたのは、政府自民党にとって、紀藤弁護士が強く主張する濃淡による「線引き論」が好都合だからではないか、と疑っている。つまり、濃淡による「線引き論」が政府自民党の逃げ道を作ることになるからだ。
政府自民党が統一教会に乗っ取られているという事実からみると、政府自民党を逃すということは、統一教会を逃すことを意味している。野党第一党の立憲民主党にとっても、濃淡による「線引き論」は格好の逃げ道だ。
紀藤弁護士が統一教会の霊感商法問題に命を賭け、霊感商法被害を日本社会から撲滅する法律を作り、被害者を救済するための対策を諮問し、また立法化することに尽力するのに異論はない。統一教会による殺害を匂わせた脅しに屈せずに、奮闘してきた姿には頭が下がるし、敬服する。が、統一教会問題を、カルト「宗教」による霊感商法被害の側面と、日本乗っ取り計画を実行していた政治的野望と目的をもったカルト組織という側面と、この二つを分離することを強く求める。
紀藤弁護士がすべきは一つ目の側面であり、無自覚のまま二つをごちゃ混ぜにして、二つ目の側面まで取り仕切るような発言には注意すべきではないのか。
この国のあり方と未来をも左右する重大な問題だからだ。この問題は、弁護士の発想でどうこうできる問題ではなく、またできると考えることの傲慢さに思い至るべきだ。
関係の濃淡で「線引き」するなどという傲慢な考えを即刻捨てて欲しい。
統一教会による霊感商法被害に携わってきた第一人者であり、社会悪と命を賭して闘う弁護士姿勢は、誰が見ても一級品だし、わたしも敬服しているが、だからこそ紀藤弁護士の発言が世論に与える影響は計り知れない。濃淡による「線引き論」が、テレビの態勢を占めるようになっている気がする。
わたしの焦りと苛立ちは、そこからきている。政府自民党が崖っぷちに追い込まれているのに、本人の意志とは無関係に、政府自民党の援護射撃をしているとしか思えない。あってはならない方向へと、世論誘導をしていることに気づいてほしい。
もっと悪し様に言えば、濃淡による「線引き論」を主張する紀藤弁護士は、政府自民党に利用され、だからテレビに引っ張りだこなのではないのか。言いたくはなかったが、この亡国的危機にあっては、言わざるを得ない。
もう一度念を押す。
二つの問題を明確に分けずに一緒くたにしては、本質を見誤る。
二つ目の政治的側面は、紀藤弁護士の視点では百害あって一利もない。政治音痴としかいえない。
以下、何故に二つ目の統一教会問題がこの国のあり方と未来とを左右するほどの大問題なのか、論じて終わりにしたい。
紀藤弁護士の最大の欠点は、白と黒を分ける法律は、「政治的力」によって生み出されるという視点が皆無なことだ。
安保法制は、政府自民党による強行採決で成立したものだ。正しくこれは数の暴力で、審議もままならない状況で強引に成立させられたものだ。重要なのは、それまでの自民党の政府見解と違うものであり、いわば憲法の抜け穴を見つけて、奇想天外な解釈をして正当化した、明らかな憲法違反によって成立したものだ。安倍晋三の政権でないとここまでの強引さはなかったはずだ。「政治的力」で反対する国民の声をねじ伏せたといえる。
この強引さはどこからきたものか。
安倍晋三と統一教会との親密さと一体化とが暴かれたからには、この強引さに統一教会の意志が潜んでいなかったと言い切れるだろうか。
議員の統一教会との関係の濃淡で線引きするという「線引き論」が、いかにいい加減なのもであり、事の本質から逸れているばかりか、本質的問題を解決せずに、そのまま延命させるのを手助けすることになるという危険性に気づけなくするものだ。
何を言いたいかというと、統一教会によって作られたこの国の未来をも左右しかねない法律が、そのままになるということだ。
政治的側面からみたら、統一教会問題がいかに重大か分かろうというものだ。これを問題にしないで、何を問題にするのか。
安倍晋三の長期政権になってから、この国のあり方は大きく様変わりした。安保法制はその変化の一つに過ぎない。
国の基幹統計までが、改竄、捏造、隠蔽、破棄される先進国などどこにもない。前代未聞だ。こうした手法に、統一教会の権謀術数のノウハウが入り込んではいなかったのか。それを疑う必要性があり、また検証する必要があるのではないのか。
NHKが政府広報化し、国民を洗脳する情報操作機関にまで堕落しているが、そこに統一教会の意志が働いていないか。
政治的に重要な疑問を挙げていけば切りがない。それほどに安倍晋三が長期政権でやってきたことは、それまでの自民党からは逸脱したものであり、それだけに、安倍晋三の長期政権でこの国のあり方が根底から変えられたといるだろう。それに反論はないはずだ。安倍晋三が自らでこの国のあり方を根本的に変えると明言しているのだから間違いはない。
その安倍晋三が統一教会と一心同体に近い関係が発覚しているのだから、この国を変えたのは、統一教会の意志でもあったといえないか。
陰謀論だとは言えないはずだ。
何故ならば、統一教会の主張と安倍晋三のやってきたこととが見事なほどに符合しているからだ。
天に向かって両腕を広げて演説する姿までが、文鮮明の真似なのではないかと、わたしは本気で思っている。
安倍晋三の長期政権で、この国のあり方を変えたことは確かだが、変えたことに統一教会の意志と力とが関係はしていないのか、という疑問は成り立つものだろう。仮に、統一教会の意志だったなら、大問題だろう。これは過去と現在の問題だ。
未来の問題もある。
統一教会の憲法草案と自民党の改憲案とが、驚く程の符合を見せている。防衛費の急激な増大も統一教会が表明している考えと、自民党の動きとが連動しているようにもみえる。教育行政と政策に至っては、統一教会が指示しているのではないかと思えるほど、統一教会の教育観に沿ったものになっている。
憲法の改悪を急いでいるのも統一教会だ。自民党が改憲に前のめりなのも統一教会の意志が入り込んでいるとみた方が打倒だろう。何故ならば、これまでに自民党と統一教会の癒着と一体化を通してみれば、そうみるのが打倒だからだ。
かつて自民党の重鎮で、引退した政治家たちが口をそろえていうのは、安倍晋三の長期政権で自民党はかつての自民党ではなくなったということだ。これをとっても、自民党が統一教会に乗っ取られたとみるのが自然ではないか。
紀藤弁護士の関係の濃淡で線引きするという「線引き論」の視点には、こうしたことがまったく無視されている。個々の議員が、統一教会とどういう関わりをしてきたか、その濃淡はどれほどのもので、どこまでが許されるものなのか、その線引きをして、白と黒の議員を分けて、白の議員は無罪放免にするという驚くべき発想のものだ。上に述べたことを踏まえれば、あまりにも幼稚な発想であり、あなた頭大丈夫ですかという発想なのだ。
個々の議員を白と黒に分けたとして、上述した本質的な問題の解決にはならない。何故ならば、統一教会によってこの国が根本的に変えられたという疑惑に蓋をし、それを無視して、黒になった議員をトカゲの尻尾切りして、変えられたまま同じようにして歩いて行こうとしているのだ。
変えられたままで、変えられる前に戻さないで、このまま歩いて行けば、その先には統一教会の憲法草案とそっくりにこの国の憲法が改悪され、ナチスの全権委任法にあたる緊急事態条項を与えてしまうというのにだ。
わたしからみると、紀藤弁護士は法律家としてみれば一流かもしれないが、政治に関しては丸っきりの素人で、だから統一教会問題の核心である政治的側面の重大性に気づけないのだろう。
今や、紀藤弁護士の「濃淡論」、もしくは「線引き論」が勢いを増しつつある。当然の成り行きだ。「濃淡論」は政府自民党の逃げ道を与えるものであり、政府自民党は統一教会に乗っ取られているに等しいのだから、政府自民党がマンマと逃げるのに成功したなら、それはつまり統一教会を逃がしたことになる。それが紀藤弁護士にはまったく分かっていない。
紀藤弁護士は反論するはずだ。
政府自民党を逃がしたとしても、統一教会が生き延びられないような法律的縛りを作ると。
これもお目出度い発想だ。
政府自民党が逃げ切れば、改憲へと突っ込んで行き、ナチスの全権委任法にあたる緊急事態条項を手にするだろう。そうなれば、統一教会を縛り付ける法律など意味をなさなくなる。政府自民党と一体の統一教会なのだから、そんな法律などあってないに等しくなる。
政府自民党を逃がせば、統一教会を逃がすという意味が分かったと思う。それだけでなく、この国が改憲によって息の根を止められるのだ。
立憲民主党が木っ端微塵になろうが、真っ先にやらねばならないのは、改憲阻止であり、緊急事態条項の成立阻止のはずだ。その改憲が目前に迫っていたが、統一教会問題でそれを阻止できる千載一遇のチャンスだというのに、バカ野郎の立憲民主党は国会議員という利権にしがみついて、「濃淡論」に喜んでいる始末だ。
今の立憲民主党には、何の力も無い。憲法改悪を止める力がないばかりか。その気も無い。そんな名ばかりの野党第一党の立憲民主党を援護する、これまたバカな政治学者がいたり、思考能力を失った立憲民主党信者と支持者がいるのだから、この国は救いようがないではないか!
わたしは「濃淡論」を「ノータリン論」と呼んでいる。
この国ごと乗っ取られようとしているのに、何を寝言を言っているのか。寝言は布団の中でしろ。公共の電波を使ったテレビで寝言を言うな!
また時間を無駄にした。
不朽の名作になるはずの長編小説『三月十一日の心』の執筆の時間を返せ!
無自覚で、この国の破壊に加担する者ほど怖い者はいない。