カブールが陥落し、アフガニスタンがタリバンによって実効支配された。
無血革命のような陥落で、正直にいうと驚いた。何らの抵抗もなかったからだ。
当然にカブールから逃れようとする人々はいる。しかし、私がこれまで抱いてきたタリバンのイメージからすると、無血でカブールに入城するのなど考えられなかった。カブールから脱出しようとする人々にとっては、地獄のような喧噪なのだろうが、何故か、私はその喧噪までが「静寂」に想えてならなかった。
どうして、私の中にこんな想いがやってきたのか、不思議に思っていたら、Twitterで中村哲医師のインタビュー記事に出逢った。6万字に及ぶ10回のインタビューである。URLは次の通りだ。
https://www.rockinon.co.jp/sight/nakamura-tetsu/article_01.html
すべてを読ませていただいた。
私の感じた「静寂」がどこからやって来たものなのか、どうして「静寂」なのか、納得した。私はアフガニスタンとタリバンとを語るときには、この中村哲医師のインタビューを読むべきだと強く思う。これを読まずして、既存の知識と情報でアフガニスタンとタリバンを語るのは傲慢だと思う。
私は自分を恥じた。これまで私が想い描いていたアフガニスタンとタリバンが、傲慢そのものだったからだ。
これまでの私は、アフガニスタンとタリバンを広くイスラーム世界の中の構図でみていた。
これまでにブログで、イスラームの世界と「イスラーム主義」と「イスラム原理主義」のテロリズムについて何度か語ってきた。
タリバンを「イスラム原理主義」として一括りにしていたのだ。
考えてみれば、イスラームの世界にも多様な顔がある。多様性を作っているのは、風土とその風土に適応しながら生きている人々の暮らしと文化と歴史の違いなのだろう。当たり前のことなのだが、その当たり前のことを除外してしまっていたようだ。
私はイスラームについては何冊かの書物を読んできた。
得るものが多かったのは
大塚和夫『イスラーム主義とは何か』岩波新書
宮田律『現代イスラムの潮流』集英社新書
池内恵『現代アラブの社会思想』講談社現代新書
などである。
池内恵『現代アラブの社会思想』は、欧米人の視点からご都合主義でアラブの世界をみればこうなるという見本のような書物であり、批判的に読んだのだが、だから欧米人の視点がいかに眉唾物であり、そしておぞましいものか自分に戒めたつもりだ。が、あろうことかアフガニスタンとタリバンを、欧米人のご都合主義の視点で眺めていたのだから恥ずかしい限りだ。
「イスラーム主義」は、思想的には重要だと思う。何故ならば、「イスラーム主義」には、資本主義(=西欧近代主義)を乗り越えるための「イスラーム」という視点があるからだ。これはテロリズムでも報復主義でもない。注目すべきオリジナルな思想だ。
そして重要なのは、「イスラーム主義」の担い手は、西欧近代主義の理念と「普遍的」と信じられている価値観と教育とをくぐり抜けてきた「エリート」による思想だということだ。資本主義社会の限界と、イスラーム世界の腐敗と堕落と荒廃の元凶を、西欧近代主義の価値観と世界観とにみている点に注目すべきだろう。西欧近代主義は政教分離が基本にあるが、「イスラーム主義」は政治に宗教を持ち込むことで、西欧近代主義の弊害からの乗越を企んでいるのだ。
ISやアルカイーダに代表されるようなイスラム原理主義は、私は「イスラーム」の仮面をつけた新自由主義だと理解している。したがって、母親は西欧近代主義が隠し持っている、おぞましい本質としての貌だと思っている。イスラームが産み落としたのではない。イスラームは借り物であり、仮面でしかない。ウサマ・ビン・ラディンがアメリカが生んだ鬼子であるのはよく知られている。
アフガニスタンのタリバンとは、「イスラーム主義」でもなければ、「イスラム原理主義」でもなかった。敢えて言えば、アフガニスタンの農村社会(村落共同体)に根ざした、生き方と暮らしと、そして文化と歴史と社会的慣習が産み落としたものになるのだろう。だから、思想というものではない。生き方と暮らしと文化そのものなのだ。土着性が強い。
だから、タリバンを根絶やしにするには、アフガニスタンの90%以上を占める農村社会を根絶やしにする以外にはあり得ないのだろう。つまり、アフガニスタンに生きる人々の社会を全否定し、排除するしかあり得ないのだ。そうなれば、アフガニスタンではなくなってしまうに違いない。
こうした視点が欧米人による視点にはない。欧米人の「普遍的」と信じられている価値観からしか眺めていないのだ。日本人も同様だ。そして、私もその傾向があった。
が、アフガニスタンの農村社会で生きた中村哲医師の視点は、まったく違ったものだった。インタビューを読んで、自分のこれまでの立ち位置と視点を恥じたのだった。
いつものことで、少し寄り道をしたい。
私は、和辻哲郎の『風土』に強く影響を受けており、ダーウィンの進化論ではなく、今西錦司の進化論に影響を受けている。今西進化論は風土と密接に関係している。
西洋の精神土壌には、空間(=風土)よりも、時間を重視する傾向があるようだ。ハイデガーの『存在と時間』は象徴的なのだろう。存在論を時間から導き出す精神土壌がある。キリスト教の精神土壌とも重なるのだろうが、時間というと流れていくものなのだから、当然に「進歩」という概念と結びつくのだろう。「空間」を存在論の中心におけば、「進歩」という概念は起こりにくい。「空間」は変わらずにあるからだ。
進歩という概念が時間と結びついているとすると、進歩は真理(=普遍的価値)へと向かうという考えと結びつくのも容易なのだろう。
西欧の思想は、どうも普遍性(普遍的価値)を追い求めているように思えてならない。ヘーゲル哲学を止揚したマルクス主義も普遍性を追い求めるものだ。そして、西欧近代主義は、正しく普遍的価値観を絶対化するものだ。
空間(=風土)はさしずめ「個別性」になるのだろうか。空間が違えばそこで生きる人々の生き方と暮らし方と社会のあり方と文化が違ってくる。何故ならば、空間(=風土)に適応した生き方をするからだ。
鶴見和子が、個別性と普遍性に触れて、丸山真男を批判していた論文を読んだことがあるが、題名を忘れた。本棚を探す気もない(笑)。
要は、柳田国男の民俗学は「個別性」を追求したものだというのだ。丸山真男は西欧近代主義の「普遍的価値観」(=普遍性)をものさしにして、駄目なものを徹底的に批判して切り捨てるといっている。だったら、鶴見和子は「個別性」を認めるのかというと、良質な西欧近代主義者である鶴見和子がそんなことをするはずがない。
鶴見和子は西欧近代主義の「普遍的価値観」は到達点(=ゴール)だというのだ。丸山真男との違いは、ゴールに到達する道は一つではなく、個別的だというのだ。その個別的な道を導き出すのに、柳田国男の民俗学の方法論が有効だという主張だ。なんてことはない。ゴールは変わらないのである。
アフガニスタンとタリバンに戻ろう。
欧米人と日本人の視点は、さしずめ丸山真男になるのだろう。だから、タリバンは全否定される。全否定されれば、そもそもが空間(=風土)はそのままなのだから、アフガニスタンの人々は生きてはいけない。風土に適応して生きてきた結果が、タリバンと同じ価値観と世界観とを生きているのであり、生き方を変えろという押しつけは、風土は変わりようがないのだから、死ねというのに等しい。そんな生き方をしたのでは、アフガニスタンの過酷な風土で自給自足をして生きていけないからだ。そうなれば、食料を永久に、そして全面的に援助してもらわなければならなくなる。
物乞いして生きろと言うに等しいのだろう。
原風景とは、風土とそこで暮らす人々の生き方を映す鏡だ。原風景には、文化とそこで生きる人々の風土への愛着と、矜持と、そして生きる歓びとが染み込んでいる。原風景への愛着と幸福感は切り離せないのでは無いのか。
物乞いして生きろとは、そうしたものを否定し、奪うことだ。
中村哲医師のインタビュー記事を読めば、カブールに生きる人々と、90%以上の農村社会で生きる人々の暮らしと価値観に、大きな乖離があるのがみえてくる。
カブールに生きる人々は、西欧近代主義の価値観を生きているのだろう。その西欧近代主義の価値観を生きる恩恵も受けているのだろう。カブールはアフガニスタンの中で特別な都市なのだと思う。そして、そこには欧米人も生きている。欧米から来た米兵と国連軍の兵士もまた、そこでいきているのだ。
決してカブールから出て行かない。身の危険が及ぶからだ。
中村哲医師はカブールで生きていない。アフガニスタンの農村社会で活動をしていたのだ。
中村哲医師が、丸山真男のものさしと視点で、アフガニスタンの社会とタリバンを見ていたはずはない。では、鶴見和子の視点で見ていたのだろうか。
いつかはアフガニスタンも、西欧近代主義の「普遍的」と信じられている価値観の世界へ収斂して行くのだと考えていたのだろうか。
私はそうではないと思っている。
西欧近代主義の価値観を「普遍的」だとは思っていなかったのではないか。そう想像している。
私自身が、西欧近代主義の価値観を「普遍的」だと思っていないし、むしろ西欧近代主義の価値観と世界観を乗り越えないと、人類に未来はないと思っている。時間よりも空間を重視しているのだ。
「イスラーム主義」は、イスラームによって西欧近代主義を乗り越えようとしているが、その姿勢は評価するが、イスラームでは乗り越えられないと思っている。
余談になるが、この際だから触れておくと、どうも一神教は、人の意識の世界を住処とする傾向が強いと思えてならない。ユングも指摘するように、キリスト教は、キリスト教の原初にあった無意識(=身体の闇)との対話を切り捨ててしまったといえると思う。明るい意識の世界で、どう人は生きるべきかを説いたのだ。同じ一神教のイスラーム教も同様ではないのか。報復主義はキリスト教の教えをひっくり返したものだ。それにどちらも性を否定している共通性がある。
私が想い描く西欧近代主義を乗り越える方向性は、無意識の世界の奥深くにある原初の森だ。当然に性とも深く関わってくる世界だ。
自由と平等、そして民主主義と人権……。これを西欧近代主義の「普遍的」だと信じられている価値観と世界観の中で絶対化する危険性を、私は思わずにはいられない。
それらにも多様性があり得るのではないのか。そんなことを考えている。
今、連載している小説『三月十一日の心』とは、その世界を探っていく旅路の物語だ。
連載が滞っているが、来週中には『三月十一日の心 上』(第一部 逢生の里)を電子書籍として出版できると思う。定価はゼロにする。広く読んでもらいたいからだ。
したがって、出版と同時に、これまでブログにアップしてきた№34までは未公開にする。
今、№30まで推敲し終わったが、表現を直している。形容詞と副詞がやたらに多く、我ながら酷いものだと恥ずかしくなった。が、アップしたものはそのままにする(笑)。
推敲が終わったら、一太郎の詠太くんを使って、音読してもらい、もう一度推敲しようと思っている。出版時にはTwitterで通知したい。
中村哲医師のインタビュー記事から、いろいろなことを教えられた。そして、貴重なことを得た気がする。ここでお礼を述べたい。
ありがとうございます。
そして、謹んでご冥福をお祈りしたい。
合掌