「北林あずみ」のblog

2021年08月

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 カブールが陥落し、アフガニスタンがタリバンによって実効支配された。
 無血革命のような陥落で、正直にいうと驚いた。何らの抵抗もなかったからだ。
 当然にカブールから逃れようとする人々はいる。しかし、私がこれまで抱いてきたタリバンのイメージからすると、無血でカブールに入城するのなど考えられなかった。カブールから脱出しようとする人々にとっては、地獄のような喧噪なのだろうが、何故か、私はその喧噪までが「静寂」に想えてならなかった。
 どうして、私の中にこんな想いがやってきたのか、不思議に思っていたら、Twitterで中村哲医師のインタビュー記事に出逢った。6万字に及ぶ10回のインタビューである。URLは次の通りだ。
 https://www.rockinon.co.jp/sight/nakamura-tetsu/article_01.html

 すべてを読ませていただいた。
 私の感じた「静寂」がどこからやって来たものなのか、どうして「静寂」なのか、納得した。私はアフガニスタンとタリバンとを語るときには、この中村哲医師のインタビューを読むべきだと強く思う。これを読まずして、既存の知識と情報でアフガニスタンとタリバンを語るのは傲慢だと思う。
 私は自分を恥じた。これまで私が想い描いていたアフガニスタンとタリバンが、傲慢そのものだったからだ。
 これまでの私は、アフガニスタンとタリバンを広くイスラーム世界の中の構図でみていた。
 これまでにブログで、イスラームの世界と「イスラーム主義」と「イスラム原理主義」のテロリズムについて何度か語ってきた。
 タリバンを「イスラム原理主義」として一括りにしていたのだ。
 考えてみれば、イスラームの世界にも多様な顔がある。多様性を作っているのは、風土とその風土に適応しながら生きている人々の暮らしと文化と歴史の違いなのだろう。当たり前のことなのだが、その当たり前のことを除外してしまっていたようだ。
 私はイスラームについては何冊かの書物を読んできた。
 得るものが多かったのは

 大塚和夫『イスラーム主義とは何か』岩波新書
 宮田律『現代イスラムの潮流』集英社新書
 池内恵『現代アラブの社会思想』講談社現代新書

 などである。
 池内恵『現代アラブの社会思想』は、欧米人の視点からご都合主義でアラブの世界をみればこうなるという見本のような書物であり、批判的に読んだのだが、だから欧米人の視点がいかに眉唾物であり、そしておぞましいものか自分に戒めたつもりだ。が、あろうことかアフガニスタンとタリバンを、欧米人のご都合主義の視点で眺めていたのだから恥ずかしい限りだ。
「イスラーム主義」は、思想的には重要だと思う。何故ならば、「イスラーム主義」には、資本主義(=西欧近代主義)を乗り越えるための「イスラーム」という視点があるからだ。これはテロリズムでも報復主義でもない。注目すべきオリジナルな思想だ。
 そして重要なのは、「イスラーム主義」の担い手は、西欧近代主義の理念と「普遍的」と信じられている価値観と教育とをくぐり抜けてきた「エリート」による思想だということだ。資本主義社会の限界と、イスラーム世界の腐敗と堕落と荒廃の元凶を、西欧近代主義の価値観と世界観とにみている点に注目すべきだろう。西欧近代主義は政教分離が基本にあるが、「イスラーム主義」は政治に宗教を持ち込むことで、西欧近代主義の弊害からの乗越を企んでいるのだ。
 ISやアルカイーダに代表されるようなイスラム原理主義は、私は「イスラーム」の仮面をつけた新自由主義だと理解している。したがって、母親は西欧近代主義が隠し持っている、おぞましい本質としての貌だと思っている。イスラームが産み落としたのではない。イスラームは借り物であり、仮面でしかない。ウサマ・ビン・ラディンがアメリカが生んだ鬼子であるのはよく知られている。

 アフガニスタンのタリバンとは、「イスラーム主義」でもなければ、「イスラム原理主義」でもなかった。敢えて言えば、アフガニスタンの農村社会(村落共同体)に根ざした、生き方と暮らしと、そして文化と歴史と社会的慣習が産み落としたものになるのだろう。だから、思想というものではない。生き方と暮らしと文化そのものなのだ。土着性が強い。
 だから、タリバンを根絶やしにするには、アフガニスタンの90%以上を占める農村社会を根絶やしにする以外にはあり得ないのだろう。つまり、アフガニスタンに生きる人々の社会を全否定し、排除するしかあり得ないのだ。そうなれば、アフガニスタンではなくなってしまうに違いない。
 こうした視点が欧米人による視点にはない。欧米人の「普遍的」と信じられている価値観からしか眺めていないのだ。日本人も同様だ。そして、私もその傾向があった。
 が、アフガニスタンの農村社会で生きた中村哲医師の視点は、まったく違ったものだった。インタビューを読んで、自分のこれまでの立ち位置と視点を恥じたのだった。

 いつものことで、少し寄り道をしたい。
 私は、和辻哲郎の『風土』に強く影響を受けており、ダーウィンの進化論ではなく、今西錦司の進化論に影響を受けている。今西進化論は風土と密接に関係している。
 西洋の精神土壌には、空間(=風土)よりも、時間を重視する傾向があるようだ。ハイデガーの『存在と時間』は象徴的なのだろう。存在論を時間から導き出す精神土壌がある。キリスト教の精神土壌とも重なるのだろうが、時間というと流れていくものなのだから、当然に「進歩」という概念と結びつくのだろう。「空間」を存在論の中心におけば、「進歩」という概念は起こりにくい。「空間」は変わらずにあるからだ。
 進歩という概念が時間と結びついているとすると、進歩は真理(=普遍的価値)へと向かうという考えと結びつくのも容易なのだろう。
 西欧の思想は、どうも普遍性(普遍的価値)を追い求めているように思えてならない。ヘーゲル哲学を止揚したマルクス主義も普遍性を追い求めるものだ。そして、西欧近代主義は、正しく普遍的価値観を絶対化するものだ。
 空間(=風土)はさしずめ「個別性」になるのだろうか。空間が違えばそこで生きる人々の生き方と暮らし方と社会のあり方と文化が違ってくる。何故ならば、空間(=風土)に適応した生き方をするからだ。

 鶴見和子が、個別性と普遍性に触れて、丸山真男を批判していた論文を読んだことがあるが、題名を忘れた。本棚を探す気もない(笑)。
 要は、柳田国男の民俗学は「個別性」を追求したものだというのだ。丸山真男は西欧近代主義の「普遍的価値観」(=普遍性)をものさしにして、駄目なものを徹底的に批判して切り捨てるといっている。だったら、鶴見和子は「個別性」を認めるのかというと、良質な西欧近代主義者である鶴見和子がそんなことをするはずがない。
 鶴見和子は西欧近代主義の「普遍的価値観」は到達点(=ゴール)だというのだ。丸山真男との違いは、ゴールに到達する道は一つではなく、個別的だというのだ。その個別的な道を導き出すのに、柳田国男の民俗学の方法論が有効だという主張だ。なんてことはない。ゴールは変わらないのである。
 
 アフガニスタンとタリバンに戻ろう。
 欧米人と日本人の視点は、さしずめ丸山真男になるのだろう。だから、タリバンは全否定される。全否定されれば、そもそもが空間(=風土)はそのままなのだから、アフガニスタンの人々は生きてはいけない。風土に適応して生きてきた結果が、タリバンと同じ価値観と世界観とを生きているのであり、生き方を変えろという押しつけは、風土は変わりようがないのだから、死ねというのに等しい。そんな生き方をしたのでは、アフガニスタンの過酷な風土で自給自足をして生きていけないからだ。そうなれば、食料を永久に、そして全面的に援助してもらわなければならなくなる。
 物乞いして生きろと言うに等しいのだろう。
 原風景とは、風土とそこで暮らす人々の生き方を映す鏡だ。原風景には、文化とそこで生きる人々の風土への愛着と、矜持と、そして生きる歓びとが染み込んでいる。原風景への愛着と幸福感は切り離せないのでは無いのか。
 物乞いして生きろとは、そうしたものを否定し、奪うことだ。
 中村哲医師のインタビュー記事を読めば、カブールに生きる人々と、90%以上の農村社会で生きる人々の暮らしと価値観に、大きな乖離があるのがみえてくる。
 カブールに生きる人々は、西欧近代主義の価値観を生きているのだろう。その西欧近代主義の価値観を生きる恩恵も受けているのだろう。カブールはアフガニスタンの中で特別な都市なのだと思う。そして、そこには欧米人も生きている。欧米から来た米兵と国連軍の兵士もまた、そこでいきているのだ。
 決してカブールから出て行かない。身の危険が及ぶからだ。
 中村哲医師はカブールで生きていない。アフガニスタンの農村社会で活動をしていたのだ。
 中村哲医師が、丸山真男のものさしと視点で、アフガニスタンの社会とタリバンを見ていたはずはない。では、鶴見和子の視点で見ていたのだろうか。
 いつかはアフガニスタンも、西欧近代主義の「普遍的」と信じられている価値観の世界へ収斂して行くのだと考えていたのだろうか。
 私はそうではないと思っている。
 西欧近代主義の価値観を「普遍的」だとは思っていなかったのではないか。そう想像している。
 私自身が、西欧近代主義の価値観を「普遍的」だと思っていないし、むしろ西欧近代主義の価値観と世界観を乗り越えないと、人類に未来はないと思っている。時間よりも空間を重視しているのだ。
「イスラーム主義」は、イスラームによって西欧近代主義を乗り越えようとしているが、その姿勢は評価するが、イスラームでは乗り越えられないと思っている。
 
 余談になるが、この際だから触れておくと、どうも一神教は、人の意識の世界を住処とする傾向が強いと思えてならない。ユングも指摘するように、キリスト教は、キリスト教の原初にあった無意識(=身体の闇)との対話を切り捨ててしまったといえると思う。明るい意識の世界で、どう人は生きるべきかを説いたのだ。同じ一神教のイスラーム教も同様ではないのか。報復主義はキリスト教の教えをひっくり返したものだ。それにどちらも性を否定している共通性がある。
 私が想い描く西欧近代主義を乗り越える方向性は、無意識の世界の奥深くにある原初の森だ。当然に性とも深く関わってくる世界だ。
 自由と平等、そして民主主義と人権……。これを西欧近代主義の「普遍的」だと信じられている価値観と世界観の中で絶対化する危険性を、私は思わずにはいられない。
 それらにも多様性があり得るのではないのか。そんなことを考えている。
 今、連載している小説『三月十一日の心』とは、その世界を探っていく旅路の物語だ。
 連載が滞っているが、来週中には『三月十一日の心 上』(第一部 逢生の里)を電子書籍として出版できると思う。定価はゼロにする。広く読んでもらいたいからだ。
 したがって、出版と同時に、これまでブログにアップしてきた№34までは未公開にする。
 今、№30まで推敲し終わったが、表現を直している。形容詞と副詞がやたらに多く、我ながら酷いものだと恥ずかしくなった。が、アップしたものはそのままにする(笑)。
 推敲が終わったら、一太郎の詠太くんを使って、音読してもらい、もう一度推敲しようと思っている。出版時にはTwitterで通知したい。

 中村哲医師のインタビュー記事から、いろいろなことを教えられた。そして、貴重なことを得た気がする。ここでお礼を述べたい。
 ありがとうございます。
 そして、謹んでご冥福をお祈りしたい。
 合掌

 これは、鮫島タイムスに投稿したものだが、大連立構想の危うさを考えてもらうためと、公論が巻き起こる一助になればと思い、加筆訂正して転載することにした。
 私はこの状況での大連立構想は危険極まりないと声を大にして警告したい。

 菅義偉は、国民の8割が東京五輪開催の中止か、延期を望んでいたが、その世論を無視して、あろうことか賭けとの暴言まで吐いて突貫した。自民党と公明党も東京五輪を総選挙に結びつけ、総選挙を有利に戦う目的のために開催を強行したと、自ら暴露している。

 新型コロナ対策と、そして国民の命と暮らしを守ることを放棄したと言える。
 東京五輪を強行したらどうなるか、心ある専門家からの警告もあった。それも無視したのだ。結果は、警告通りに、目を覆いたくなる惨状を惹起させたのだ。これが明白な事実だ。

 こうした勢力と救国内閣を組閣したとして、何ができるのか。大いに疑問だ。
 野党は新型コロナが問題になった時点で、救国内閣を呼びかけていた。一度や二度でない。が、安倍政権と政府自民党は、徹底的に無視してきたのだ。そして、コロナ対策と逆行することばかりを率先してやって来たのだ。
 私は10年近く続いた安倍政治が招いた負の遺産を、新型コロナによって徹底的に暴かれているのだと思っている。安倍政治の本質は、政治と呼ぶにはほど遠いものだ。この10年間が政治的空白の時代だったと言っても過言ではない。
 コロナ禍が悲惨を極める現状にあって、対策をないがしろにしたままで、総選挙までの政治的空白があってはならないという懸念は理解できる。が、だからといって、この政治的状況で大連立構想など自殺行為でしかないだろう。

 安倍政治の本質こそが「政治的空白」であり、政治という名の「政治破壊」だと、私は確信している。だから、党派を超えた救国内閣を組閣しろ、と言っても不可能なのだ。何故なら、安倍政治そのものが「政治的空白」だからだ。
 政治的空白を本質とする勢力と手を結んでも、政治的空白は回避できるはずがないではないか。
 政治的空白を回避するには、このおぞまし勢力を駆逐する以外にあり得ない。その証拠に、この惨状を前にして、パラリンピックをやろうとしているのだ。狂気としか言えない。

 それに、永田町の論理では日本に未来はないだろう。
 大連立をするとなれば、この百年に一度の国難に、相も変わらずに、永田町の論理で立ち向かうということになる。いい加減にしろと言いたい。
 それでは元の木阿弥だし、安倍政治はそのままの形で温存されるばかりか、安倍政治に飲み込まれてしまう可能性が大きいだろう。愚行でしかなく、永田町の論理と、永田町の政治からの決別を叫んできた自覚する市民への裏切り行為だ。
 私は、心ある、そして自覚する市民が立ち上がり、党派を超えて連帯し、眠っている国民を覚醒させて政治を動かすことしか、この状況では残された道はないと確信している。
 では、以下に何故に大連立構想が過ちだと考えるのか、思いつくままにいくつかの理由を列挙したい。

 ①安倍政治は国民の暮らしの基盤と日本社会と国会を破壊したが、忘れてはならないのは、自民党が徹底的に破壊されたことだ。今や自民党は、国民政党としては機能していない。その証拠に、この惨状にあっても、自民党の内部から良心の声を上げ、起ち上がる者が誰一人としていない。実質的に、菅義偉と政権は国民を見捨てる宣言までしているのにだ。この破滅的な状況でやっているのは、醜悪で、みみっちい党内の権力闘争なのだ。
 このおぞましい自民党の姿を直視すれば、大連立などあり得ない。自民党議員には、百年に一度の国難に立ち向かい、国民の命と暮らしを死守するという意識が、決定的に欠落している。あるのは如何に国民を騙して政権を維持するか、責任から逃れるかだ。そして、総選挙に向けた保身だけだ。
 これで大連立しても何ができるというのか。
 これ幸いと利用され、共犯者にされ、安倍政治に飲み込まれるだけではないのか。そうなれば、国民は完全に政治を見限るだろう。

②枝野幸男は、「希望の党事件」にあって覚悟の旗揚げをしたときに、「永田町の論理」にさよならすると宣言し、自覚する市民と新しい政治を作っていくと約束したはずだ。だから、新しい政治の流れを作ろうと自覚する市民が結集したのだろう。
 が、その約束は反故にされてしまった。連合との腐れ縁を断ち切れなかったからだ。
 私は連合とは「永田町の論理」と「永田町の政治」の世界でしか力を発揮できず、存在価値がなく、生き残れない、腐敗し切った組織だと思っている。何故なら、国民不在で、組織の利益で動いているのであり、本質的な利害は大企業と共有しているからだ。永田町の世界という鳥籠の中に政治を封じ込んでおきたいのだ。鳥籠に安住するなら餌はやるが、鳥籠の外の世界にいる者は徹底的に排除する意思がある。
 枝野幸男は、東京五輪開催を受け入れてしまった。東京五輪には連合も関わっている。枝野幸男を動かしたものは誰か、言わずもがなだ。
 野党第一党がこうした体たらくなのに、大連立なんて組んで、何ができるというのか。飛んで火に入る夏の虫であり、「永田町の論理」と「永田町の政治」という鳥籠の中での大連立という茶番劇にしか、成り立ちようがない。

③枝野幸男と関連するが、大連立が「永田町の論理」と「永田町の政治」の鳥籠の中に収まってしまえば、大連立なんて言葉だけで、真っ先に排除されるのは日本共産党だろう。
 立憲民主党の中でさえ、日本共産党を排除する動きがあるのに、自民党が日本共産党との大連立を受け入れるのなどあり得ない。国民の命と暮らしを守るという意識など端からないからだ。
 このコロナ禍を振り返れば、言葉の厳密な意味で「国民の命と暮らしを死守」しようとした政党は、日本共産党だと思う。だから、東京五輪中止を訴え、最後まで貫き通した。パラリンピックもそうだ。そして、あるべきコロナ対策を模索し、提言もし、その対策を実現すべく必死になって奔走した。
 こうした政党を排除する大連立など犯罪行為に等しい。

④大連立構想とは、政党に限定されるべきものではないはずだ。限定したとしたら、国を挙げてのコロナ対策という目的は絵に描いた餅になってしまう。
 大連立をいうのなら、政党だけでは、「国民の命と暮らしの死守」はできない。
 厚労省が如何にあるべきコロナ対策を破壊してきたか、思い出すべきだ。この惨状を招いたのは、もちろん安倍政権と菅政権の呆れ果てる無能さと無為無策にあるが、厚労省に巣くう似非専門家集団の保身と利益誘導も大きな原因の一つだ。
 大連立とは、こうした元凶を排除しないと、あるべき対策は不可能のはずだ。
 私は排除できるとは思えない。
 SNSで、心ある真の専門家や科学者、そして医者や看護師が声を上げ、警告を鳴らし、あるべき対策を提言してくれている。その警告どおりになってしまった。
 そうした日本の良心を圧殺してきたのが、厚労省であり、安倍政治なのだ。
 大連立とは、こうした日本の専門家、科学者、医者、看護師などの知識と技術と、そして良心の大連立でなくてはならないはずだ。それなくして、日本に未来はあり得ないだろう。
 もう一度言いたい。そうしたものを率先して圧殺してきた自民党と厚労省と、どうやったら大連立などできるのか。可能と思えるとしたら、未だに「永田町の論理」で政治を考えているからだと思う。

⑤大連立は、ジャーナリズムの問題にも関わってくる。
 日本のジャーナリズムは腐敗し切っているが、鮫島さんのようなジャーナリストはいる。ジャーナリストの良心は死んではいない。そこが自民党との決定的違いだ。
 鮫島さんは、腐敗し切った日本のジャーナリズムを変えない限り未来はないと起ち上がった。鮫島さんだけではない。起ち上がるジャーナリストが現れ出した。希望だといえる。
 が、テレビと大手新聞社が大連立したならどうなるか。
大政翼賛報道に堕落してしまう危険性が大きい。
 日本のジャーナリストの良心の結集は始まったばかりだ。大政翼賛報道に雪崩れて行くのを食い止めるにはまだ力は無い。

 以上、思いつくままに列挙したが、腐りきった政党と組織が中心となった大連立は、日本の未来を閉ざす行為だと思う。
 腐敗し切った勢力の一掃なくして、国民の命と暮らしは守れない。そう強く思う。そして、政治を動かすのは、「永田町の論理」であってはならないし、「永田町の政治」を破壊するしかないはずだ。
 そのためには、自覚する市民と、党派を超えた日本の良心が結集するしかあり得ない、と強く思う。
 「永田町の論理」と「永田町の政治」では、日本の未来は切り拓けない!

三月十一日の心(上)


 連載小説『三月十一日の心』が滞り、更新できないでいる。
 理由はいろいろとあるが、大きな理由としては二つある。
 一つは、№34までを「第一部 逢生の里」として電子書籍として出版しようと思い、最初から推敲しているからだ。表現はもちろん、加筆があったり、展開を変えたりしている。何せ、プロットもなく、綿密な構想もなく、ぶっつけ本番で筆の赴くままに書き進めているので、微妙に辻褄が合わくなった箇所が出てくるのは致し方ないのだろう。また、表現がおかしかったり、拙かったりする箇所も多々ある。得意の誤字脱字、「てにをは」の間違いは数知れない(笑)
 しかし、ぶっつけ本番にしては、よく描けていると自画自賛している。筆の勢いに任せて書いているので、それが良かったのかもしれない。
 二つ目の理由としては、第二部の中心になる文造の小説『青時雨』の時代背景と、登場人物との関係性に四苦八苦しているからだ。
 文造と佐由理まではどうにかなるが、佐由理の祖父母となると、生まれが明治初期か、慶応(幕末)になり、時代と生まれた家(敢えて階級としておこう)の制約は大きく、人物造形をする上で度外視することもできない。
 佐由理の祖父母は、小説の上では重要になる。何故ならば、佐由理に及ぼした影響が大きいからだ。
 どうしようかと考えていると、学生の頃に読んだ色川大吉『新編明治精神史』(中央公論社)を思い出した。
 幕末から自由民権運動の激動期を生きた民衆の精神を追って、多摩地方を集中的に踏査し(土蔵に眠っていた歴史的資料を漁る)、埋もれていた貴重な民衆を発掘している。その情熱たるや、敬服するに値する。
 が、私の恩師である橋川文三は、色川大吉を歴史思想史家とも精神史家とも認めていない。色川史学と蔑んでいたところがある。これは橋川文三に限らない。橋川文三だって丸山学派の異端児的な存在だったのだが、色川大吉は歴史学会からみて、方法論的に受け入れられない異端児だったようだ(笑)
 民衆という視点を絶対化しているような所はないでもない。そして、土着性というか、独自性というか、そうしたものに拘っている所がある。
 丸山学派にも、神島二郎の労作である『近代日本の精神構造』(岩波書店)のように、柳田国男の民俗学の方法論を取り入れたものがあるのだが、色川大吉の色川史学は、精神構造を解明するための方法論を借りるというのではなくて、民俗学的な方法論をそのまま歴史学にしてしまったような所があるのだろうか。ともあれ、橋川文三の前では、色川大吉の書物を口にするのは禁句なのだった。
 私は禁句だと理解していたのだが、ゼミ仲間には結構な数で色川史学にかぶれている者がおり、ゼミの中で平気で色川大吉を持ち上げたりしたので、橋川文三に顰蹙をかっていた者がいた(笑)
 橋川文三の弟子の中では、後藤総一郎が学者として後を継いだ形になるのだろうが、笑い話では無いが、後藤総一郎は色川史学の信奉者であり、色川大吉の方法論を忠実に踏襲していたのだから、橋川文三にとっては面白くなかったはずだ。後藤総一郎は若くして逝ってしまった。
 詳しくは割愛する(笑)
 では私はどうかといえば、色川大吉の『新編明治精神史』を買って読んでいたのだから、無視はしていなかったし、色川大吉が提唱していた、明治精神史(自由民権運動)に伏流水として流れていた「四つの地下水」には得るものが多かった。
 そんなわけで、色川大吉が発掘した多摩地方の民衆に、佐由理の祖父母になり得るような人物がいないか、と改めて『新編明治精神史』を読み直したという訳だ。
 北村透谷では有名過ぎるし、夭逝したし、極端だし、と思ったり、豪農だと階級的(私は階級史観はもっていない)限界もみえてきたり、誰かいないものかと読み進めていたら、好都合の男がいた(笑)
 北村透谷に、婚約者だった石坂美那子を奪いとられた平野友輔だ。
 平野友輔は明治16年に、東京大学医学部別課を出た医者でもある。キリスト教の信者であったようだ。自由民権運動もくぐり抜けている。
 これで佐由理の祖父の人物像は固まったが、祖母はどうするか、と悩んだ末に、相馬黒光と同じ生まれにして、独自に創造することに決めた。
 舞台は京都府の宵待の里になるので、里に佐由理の祖父母がどう流れ着いたか、と考えていたのだが、武者小路実篤の「新しき村」運動に思い至った。個人主義者だけに集団ではなく、独自の自給自足の生き方を模索していたことにしようと思う。
 相馬黒光に関するものがないか本棚を物色していたら、筑摩書房の現代日本文学大系Ⅱ『国木田独歩 田山花袋 集』が目についた。手に取って開いてみると、巻末の付録の中に、相馬黒光の『国木田独歩と信子』があるではないか。当然に、改めて読むことにした。
 どうも、自由民権運動の周辺にいた人々と、女性解放運動の周辺にいた人々には、キリスト教信者が多い。西欧的自我の萌芽がキリスト教と結びつき易いのは当然だし、それが自由と平等と人権意識に発展するのも頷ける。

 連載小説『三月十一日の心』は、西欧近代主義の乗り越えと克服とが大きなテーマだが、あるべき性の世界の追求も結びついてくる。
 第一部を推敲している中で、西欧近代主義の理性が支配する明るい意識の世界が作った牢獄で、飼い慣らされ、歪められた性の姿がみえてきた気がした。
 そして、無意識の世界の奥深くにある、原初の森にこそあるべき性の姿がみえてきた。理性と科学の名で作られた機械論という牢獄では、感性もまた無味乾燥の機械的なものになるのは当然だ。機械論とは突き詰めれば二分法と効率至上主義の世界観だ。性がみすぼらしくなるのは道理だ。

 ジェンダー平等論に異議を差し挟むつもりは毛頭ない。が、どうも男と女という二分法に、ある種の危険性と限界を感じてならない。
 ジェンダー平等論が理性崇拝と科学至上主義と結びついたら、機械論から抜け出せない。つまりは、性は歪みきったままであり、人間だけに与えられた豊穣な性の世界と、性の可能性を閉ざしてしまうことになるはずだ。
 ジェンダー平等論では、西欧近代主義を乗り越えられるどころか、西欧近代主義の価値観と世界観の袋小路へと行き着くだけだと思う。詳しくは割愛するが、人間至上主義こそが、すべての差別の始まりであり、根源だと思う。人間の定義で、その定義からこぼれ落ちたものは人間でなくなるからだ。そして、人間以外の他の生命を対象としての物とみなすからだ。ジェンダー平等論は、人間中心主義と結びついている。人権を土台としたものだからだ。
 理性が人間だけに与えられたものだとすれば、生殖から切り離された性の世界もまた人間だけに与えられたもののはずだ。それを忘れてしまっている。そして、理性が神の似像として絶対化されるとき、性は徹底的に排除された。キリスト教は性を邪悪なものとする精神風土を産み落とした。
 それを裏返した性の絶対的肯定もまた、そうした精神風土の産物でしかない。
 敢えていえば、そうした視点が欠落したジェンダー平等論に胡散臭いものと、うすっぺらいものとを感じている。行き着く先は、機械論的な性になり、それは性の否定であり、理性の奴隷でしかない性となる。そんな社会は無味乾燥な社会であり、理性による性の奴隷化とは、形を変えた性の商品化でしかない。
 機械論的な世界観を乗り越え、克服できない限り、言葉の厳密な意味での多様性など絵に描いた餅でしかなく、気候変動が暗示するように、地球の破滅へと加速をつけて転がり落ちていくだけだ。
 多様性とは、頭で、つまり理性と言葉で認めることではない。そんなものは上辺だけで、根本的には変わりはしない。言葉の厳密な意味での多様性をいうのなら、価値観と世界観を変え、それによって生き方そのものが変わらない限り不可能だ。
 東京五輪をみよ。
 頭で理念としてぶち上げたって、13万食の弁当が廃棄されるのだ。
 言っておくが、私は平塚らいてうの「元始女性は太陽だった」を素朴に信じており、女性の元始に、西欧近代主義を乗り越える可能性を見ている。

 最後に、連載小説『三月十一日の心』は、上・中・下の三冊になる。
 新しい試みで、上巻は無料にしようと思う(笑)
 できるだけ多くの人に読んでもらいたいからだ。
 3・11については多くの小説が書かれてきた。が、私が向き合う3・11とは違っている。もっと、奥が深い問題意識がある。
 3・11は、「このまま歩いていくと、地球は破滅する。それでよければ、このまま歩いて行くがいい」と人類に突きつけたのだと思っている。歩いてきた方向は、西欧近代主義の価値観と世界観だ。
 何を突きつけ、どうしろと言うのか、それを探る旅路がこの小説の世界であり、この小説のテーマだ。性のあり方とも密接に関わってくる。
 上巻が出版される時には、改めて案内します。
 また、続きも近いうちにブログにアップします。
 

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