「北林あずみ」のblog

2017年10月

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 わたしが熱烈に支持した日本共産党が議席を大幅に減らした。
 8議席から21議席へと3倍近い議席増で一人勝ちした前回2014年の総選挙で、たった一人の日本共産党私設応援団を立ち上げ、ネットで奮闘した経験を持つわたしにとって(過去にその総括をブログで書いている)、信じがたい結果だった。残念でならない。
 しかし、議席数こそ減らしたが、わたしは日本共産党は新しい未来の政治へと繋がる布石を打ったと確信している。
 どういう布石をうったのか、そして総選挙後にTwitterを駆け巡る「共産党サポーター制度」の提案をどうみるか、その見解を述べる前に、民進党のドタバタ劇を中心にして、わたしがみた総選挙を総括したい。

 小池百合子が吹かせた風で、都議会選挙で都民ファーストが圧勝したのを受けて、風よ再びと立ち上げた希望の党に、政治を生きるための方便であり、そのための生業としが思っていない政治屋たちが、目先の選挙で当選するために結集した。しかし、風は急激に衰え、風が去った後に炙り出されたのは政治屋たちのおぞましい心である。
 この希望の党に二大政党制の醜悪な幻想を重ね合わせ、政界再編と政権交代を目的とした本末転倒の夢をみて暗躍した黒幕がいた。が、地下で胎動する次代の政治を動かすマグマの熱で、野望は粉々に打ち砕かれたといえる(この希望の党への合流という三文芝居についてはブログで、二大政党制と政権交代の悪夢に取り憑かれた小沢一郎に触れながら書いているので割愛する)。

 どうして風はあっという間に衰えていったのか。
 マスメディアが作り上げた何処にも存在しない虚像としての「小池百合子」が吹かせた風にすぎないからだ。元々が実体のない風だったのである
 今回もマスメディアは、虚像としての「小池百合子」を祭り上げようとした。おぞましい空中楼閣でしかない二大政党制という幻想と希望の党を結びつけ、小池百合子を安倍政治を終わらせる救世主とて印象操作し、風を起こそうと演出したのである。二大政党制の幻想から解放されずに、未だに二大政党制の幻想を彷徨っているリベラルの心(リベラルは一括りにできない)は、この印象操作によって、容易に希望の党に絡め取られてしまったのではないだろうか。
 どうも朝日新聞と毎日新聞は二大政党制の熱烈な信者であるようだ。だから糞味噌一緒の野党を一括りにして、与党vs野党という対立構図の視点からしか政治が見えなくなっているのだろう。日本の新しい政治の幕開けを告げる地下で蠢くマグマの胎動に気づけないのである。
 民進党も同罪である。両院総会で希望の党への合流を受け入れた枝野幸男も、辻元清美でさえもこの罪から逃れることはできない。二大政党制の幻想に雁字搦めになっていたからだ。
 突然に、そして一方的に、野党共闘が袖にされた形での合流という茶番劇であり、裏切りだった。わたしはやり場のない憤怒を覚えたが、わたしと同じようにこの民進党の政治的茶番劇に憤り、痛烈に批判したリベラル派もいたのである。
 わたしは市民連合のなかにも、未だに二大政党制の幻想から解放されていない人が多数いると思っている。二大政党制の幻想から解放されない限り、国民の声が公平に反映されず、政治が平板化して画一化へと向かい、独裁政治の温床となる小選挙区制の否定へとは向かえない。小選挙区制が日本に二大政党制を根付かせるために作られたものだからだ(二大政党制と小選挙区制については、それを作った小沢一郎に関連付けて過去にブログに書いているので深入りしない)。
 二大政党制とそれによる政権交代の幻想を生きるリベラル派は、民進党の希望の党への合流に対して、本質的な批判はできなかったし、また合流に期待すらしていたと観察している。なんとなれば、リベラルを自認する民進党議員のすべてといっていい議員が幻想を生きていたからだ。両院総会であっさりと希望の党への合流が承認されたことをみても分かる。

 希望の党の背中を強力に押すはずの風は急激に萎んでいったが、一時はメディアの思惑通り、風は吹いたのである。その風が萎える切っ掛けを作ったのが、小池百合子の失言だったというのは、風の本質をよく物語ってくれている。
 わたしはブログで小池百合子は政治的俳優だと書いたことがあるが、優秀な俳優のはずが、脚本にない「排除」という台詞をアドリブで口にしたのが命取りになってしまったといえよう。この思わず口にしたアドリブである台詞こそが小池百合子の本音であり、小池百合子という政治家の本質であり、そして立ち位置である。この台詞によって、俳優として演じてきた虚像としての小池百合子の化けの皮がはがれ、権力に強欲で極右思想に毒された実像としての小池百合子の素顔をさらけ出してしまったのだ。こうなるとメディアがどんな印象操作をしても無駄である。
 慌てふためいたのは排除の対象となった民進党である。
 野党共闘を袖にした時点で民進党に怒りを覚えたリベラル派がいるといったが、一方で、小池百合子の排除の論理によって希望の党が自民党と公明党の補完勢力でしかないという事実を突きつけられて目を覚ましたリベラル派がいた。希望の党の本質が見抜けずに、安倍政権打倒が希望の党への結集で実現するという見果てぬ夢をみたリベラル派だ。民進党と同様に慌てふためき、小池百合子と前原誠司と希望の党へと怒りが向かったのは後者のリベラル派である。
 総選挙を目前にして、二つのリベラル派が絶望のドン底に突き落とされたと言っていい。
 言わずにおこうと思ったが、率直にいうと、市民連合も例外ではない。希望の党への幻想を共有していた人たちは多くいたのではないだろうか。先に述べたように、市民連合のなかには二大政党制による政権交代の幻想を生きている人たちが多数いるからだ。だから容易に騙されて希望の党に「希望」を見出すことになったのだろう。二大政党制による政権交代の幻想を生きている限り、第二第三の希望の党が生まれ、ころっと騙されてしまうことだろう。

 忘れてはならないのは、絶望は二段階だったということだ。
 一段階目の絶望は、民進党が野党共闘を袖にして希望の党へと合流しようとしたときに表出したものである。
 怒りの対象は民進党であり、合流劇のシナリオを書いた二大政党制による政権交代という悪魔に取り憑かれ、政界再編を画策することが目的化した古い体質の政治的フィクサーに対してである。
 重要なのは、この絶望はしかし、市民連合と野党共闘への絶望ではないことだ。民進党への絶望であり、総選挙に向けての市民連合と野党共闘の戦略が根底から崩れ、一からやり直さざるを得なくなり、総選挙に間に合うはずがないことに対する絶望である。そして、市民連合と野党共闘で倒せるはずの安倍政権を延命させてしまうことに対する絶望である。その意味では絶望ではない。失望というべきかもしれない。だから、一段階目で失望した人たちは、それでも市民連合と野党共闘の大義の旗を打ち立てて闘う決意をした人たちなのではないだろうか。
 当然に市民連合と野党共闘の核になるのは、それでも市民連合と共に歩む野党共闘に大義の旗を高く掲げ続けている日本共産党しかない。この人たちの目には、日本共産党こそが希望に見えたのではないのか。この人たちのなかに、わたしは立っていたのである。
 二段階目の絶望は、小池百合子が排除の論理を口にし、民進党が右往左往し出したときに生まれたものだ。
 憤りは小池百合子と希望の党へと向かい、合流劇の立役者である前原誠司へと向かった。
 絶望の虚妄なること、希望と相同じい、と言ったのは魯迅であるが、今回の民進党の希望の党への合流劇から民進党の分裂、そして立憲民主党の誕生をみていると、絶望が虚妄でしかないことをしみじみと感じた(笑)。
 前原誠司と党首選を争ったのは枝野幸男である。
 前原誠司が自称保守なら、枝野幸男にはリベラルのイメージがまとわりついている。前原誠司が絶望に突き落とした張本人であり、突き落とされて絶望の闇の海を漂っていた者たちが、前原誠司と党首選を争った枝野幸男に希望を見つけ出して縋り付きたくなるのは自然である。「枝野幸男よ立て!」という枝野幸男待望論が間欠泉となって吹き出し、やがて枝野幸男が救世主のような存在になり、新党結成の大合唱になったのはこうした理由なのではないだろうか。もちろん、放置していては市民連合と野党共闘が壊滅的な状況に追いやられ、憲法改悪ばかりか緊急事態条項までが立法化されてしまう。安倍晋三が独裁政治の完成へと猪突猛進するのは火を見るよりも明らかだ。それだけは回避したいという願いが、核にあることは否定しない。
 二段階目の絶望は、枝野幸男に希望を見出し、枝野幸男が立憲民主党を立ち上げると熱狂へと変わった。枝野幸男は絶望の淵を彷徨っていたリベラルを救い出す希望であり救世主になったのである。
 頑なにそして誠実に、大義の旗を掲げ続ける日本共産党に希望をみていたリベラル派までが、枝野幸男へと雪崩れていったのである。すべてではない。しかし、この時点で日本共産党の比例票が、枝野幸男へと流れていくことは推測できた。熱狂だからだ。
 またマスメディアによって作られた虚像の小池百合子への熱狂も、冷めたとはいえその残り火は消えずにあったのだろう。日本共産党はこの二つの熱狂に挟まれてしまい埋没してしまう恐れもあったのではないだろうか。
 その恐れがあったのにもかかわらず、日本共産党は市民連合と野党共闘の大義の旗を降ろそうとせず、党利党略をかなぐり捨てて、民主主義の死守を最優先したのだ。電光石火で候補者を次々と下ろし、立憲民主党と野党統一候補の勝利へと尽力したのである。

 わたしはこの枝野幸男への熱狂のなかにはいなかった。
 今も懐疑的だ(笑)。だから選挙中にTwitterで、市民連合と野党共闘の向かうべき道を導く羅針盤は日本共産党だと呟いたのだ。そして日本共産党が飛躍しなければ、立憲民進党は何処にすっ飛んでいくか分からないと呟いたのである。
 党首選で前原誠司の推薦人に名を連ねた阿部知子をみてみよう。
 阿部知子は変幻自在である(笑)。
 小池百合子に排除される恐れがあると知り、枝野幸男が風を作り出したとみるや、立憲民主党からの出馬を決めたのである。わたしは呆れて物も言えなかった。阿部知子は推薦する際に、前原誠司は多様性を許容する政治を産み出すというようなことを言っていたからだ。前原誠司に騙されたではすまない。ドタバタ劇を演出し、市民連合と野党共闘を破壊しようとし、可能だったはずの安倍政治の打倒が泡と消えた事実と真摯に向き合うべきだろう。そして政治家として自分がしたことを省みるべきだ。前原誠司を推薦した事実を総括することから始めるのが政治家としての務めであり責任だろう。
 立憲民主党にはこうした阿部知子のような議員が潜り込んでいるのである。

 直前のブログで書いたが、わたしは枝野幸男が立憲民主党を誕生させた政治的決断を賞賛するし、政治的胆力と勇気を絶賛している。そして、枝野幸男が政治家として秀でているのは、日本の新しい政治を動かす原動力である地下のマグマの胎動に気づいたことだ。マグマの胎動とは、自覚する市民が結集し、市民が主体となってこれからの政治を導いていくという強い意志の塊が熱を帯びドロドロに溶け出したものだ。この灼熱したマグマの破壊力と可能性とを、枝野幸男は感得したのである。だから、政治家主導のこれまでの政治から方向転換し、これまでの政界再編という永田町の三文政治劇からきっぱりとおさらばする覚悟ができたのだろう。そして、二大政党制による政権交代の幻想からさよならできたのだろう。
 沸騰し灼熱するマグマの存在がなかったら、枝野幸男は起ち上がることはしなかったはずだ。また立憲民主党は誕生しなかっただろう。その意味では立憲民主党は市民連合が誕生させたといえる。
 日本共産党は誰よりもそれを熟知していたはずだ。そうでなかったら、電光石火で候補者を下ろしたりしない。立憲民主党が誕生した時点で、自己犠牲を覚悟の上で、最悪のシナリオを回避したのだろう。上辺をみれば自民公明が圧勝したが、安倍晋三が臨んだ結果とはなっていない。崖っぷちでどうにか持ちこたえたのである。これからが市民連合と野党共闘の本当の闘いとなるだろう。
 その闘いのなかで羅針盤となるのは、絶望に突き落とされても、市民連合と野党共闘の大義の旗を掲げ続けた日本共産党だということは揺るぎない事実だろう。その権利と資格が日本共産党にあることは、今度の総選挙で市民連合に結集した市民の胸に刻み込まれたはずだ。
 これから歩んでいく立憲民主党の方向が、正しいものかどうかの見極めは、大義の旗と羅針盤が教えてくれるだろう。わたしたちは、常に大義の旗の位置を基準にして、立憲民主党の歩んでいく方向を注視していかなければならない。
 枝野幸男への熱狂が、枝野幸男への信仰となってはならない。
 それでは羅針盤を見失うことになる。信仰は諸刃の剣である。裏切られたときに政治的絶望を産み落とす。政治的絶望はニヒリズムを抱きかかえ、絶望からの救いの手をヒトラーのような悪魔に見出してしまうものだ。悪魔が差し伸べた手に嬉々として縋り付いてしまうということを、歴史は厳粛に教えてくれている。

  では本題に入りたい(笑)。
新しい未来の政治へと繋がる布石を打った」とは何か。
 実はこの布石を打ったことを、Twitterを駆け巡る「共産党サポーター制度」の提案が立証してくれている。
 仮に日本共産党が2014年の総選挙と同じように全選挙区に候補者を立てたとしたら結果はどうだっただろうか。
 わたしは30議席くらいはとれたように思う。が、従来の全選挙区に候補者を立てるという戦略では30議席が限界ではないだろうか。
 今回は自己犠牲を覚悟の上で、市民連合と野党共闘の大義に旗を掲げ、立憲民主党と野党統一候補を献身的に支えたのであるが、その上で、比例票が伸びれば20議席は確保できるか、という期待があったのだろう。結果的には、安倍晋三と安倍政治の批判票が希望の党と立憲民主党へと流れ、日本共産党の比例票が伸び悩んだことは否定できないと思う。相変わらずマスメディアは小池百合子の希望の党を連日取り上げていたし、立憲民主党を立ち上げた枝野幸男への市民の熱狂が沸騰した影響が大きいのではないだろうか。
 しかし、市民連合と野党共闘の大義の旗を頑なに守り、高く掲げ続けた日本共産党の孤高ともいうべき姿に、深い感銘を受けた市民が多数いたということは注目すべきことだ。日本共産党の一貫した信念と誠実さに胸を打たれたのだろう。
 日本共産党がしたことは大義の旗を掲げ続けただけではない。野党統一候補の選挙戦を、愚直なまでに一途に支えたのである。その涙ぐましい姿が、野党統一候補の陣営の目に焼き付いているはずだ。感謝の言葉だけではない。涙を流して縋り付いた人までいたという。日本共産党が平和憲法と民主主義を死守する覚悟が半端ではないことを如実に物語ってくれている。
 こうした思いが、「共産党サポーター制度」の提案に繋がったのではないだろうか。
 明らかに日本共産党のイメージが変わった証左であり、日本共産党に親近感を覚え始めた現れだろう。特筆すべきことであり、日本共産党にとって今度の総選挙が持つ意味の重さが、これまでの総選挙とは本質的に違っていると、わたしは直感している。本質的に違うとは、これからの日本共産党が歩んでいく方向性に影響を及ぶすという意味である。無視することも可能だ。が、無視すれば日本共産党の歩むべき道を誤らせ、日本の新しい政治と未来を切り開く核としての存在となり得たのに、その権利を自らで放棄してしまうことに繋がると思う。
 
 国家権力から弾圧され地下に潜った戦前の日本共産党の歴史のなかで生まれた、福本和夫の有名な『分離結合論』がある(これについては過去にブログに書いているので参照してほしい)。
 結果的にはこの『分離結合論』が民衆を巻き込んだ政治闘争から、少数精鋭の前衛党としての理論武装の道へと後退することになるのだが、結果を抜きにして、純粋な組織論と戦略論としてみると面白い。立憲民主党の飛躍は、雑多な思想のごった煮状態からきっぱりと切れて、純粋な中核となる思想を鍛え上げた先にしか組織的な発展と、闘争の勝利はないという福本和夫の『分離結合論』を地で行っているからだ(笑)。こうしてみると、頭ごなしに否定すべきものではないということになるのだろう。
 日本共産党の歴史は重い。戦前は生きるか死ぬかの瀬戸際での国家権力との闘争の歴史である。
 戦前の日本においては共産党員になることは、並大抵の覚悟ではない。
 わたしはたった一度冬山の縦走を経験したが、大袈裟であるが、入山するときに死を覚悟したことを鮮明に覚えている。だからだろうか、雪山の景色が強烈に心にしみ、涙を流して感動に打ち震えたほどだ。末期の目で雪山の景色を見たからだろうか。
 戦前の日本共産党への入党と冬山の体験を同じに扱えるはずはない。そのつもりもない。わたしが言いたいのは、日本共産党へ入党しようという行為がそれほどの重みがあり、強い信念と覚悟がないと無理なのであり、その覚悟が自尊心と党への誇りと信仰にも似た感情を生み出すことになったのだろう。
 戦後も戦前ほどではないが、日本共産党に対する弾圧と差別は凄まじいものがあった。戦前の洗脳教育で日本共産党はアカであり、非国民であり、国賊だという教えを受けた国民の意識が、戦後になったからといってきれいさっぱりと消えるはずはない。未だにその残滓があるから驚く限りだ。
 巨大資本が資本主義を否定する日本共産党を恐れるのは分かる。が、労働者組織を騙る連合が日本共産党に拒絶反応を示し、自民党と公明党ばかりか、リベラルを自認する民進党議員にまで日本共産党アレルギーが蔓延しているのだから、明治維新から戦前までの洗脳教育とは罪深いものである。
 誤解を恐れずにいえば、日本共産党の党員はずっと冬の時代を生きてきたのである。それでも挫けることなく、真っ直ぐに前を向いて歩き続けてきたのだ。歩き続けてこられたのは日本共産党員であるという矜持であり、日本共産党の掲げる理念と理想への信念なのだろう。
 わたしのようないい加減で軟弱な人間からすると、とても日本共産党の党員になれる資格はないし、またなろうとも思わないのである(笑)。

 そうした党員からみたら、「共産党サポーター制度」など安易に映ることだろう。後援会も同様だろう。いわゆる「後援会」とは違い、日本共産党への熱き思い入れと、日本共産党の綱領に対する思想的な思い入れがあるのだろう。だから党員ではないにしろ覚悟はいる。
 綱領は日本共産党の核になる。
 学生時代に入室したゼミで、筑摩書房の近代日本思想体系35『昭和思想集Ⅰ』が教材だったこともあり、戦前の日本共産党史を思想の側面からかじり、誰かが持ってきた日本共産党による「日本共産党50年史」なども読んだりして、普通の人よりは理解をしているつもりが、正直に告白すると、日本共産党の綱領を読んだのは去年である。もちろん暴力革命は否定し、議会制民主主義によって日本共産党が描く社会を実現するというアウトラインはつかんではいた。
 どうして改めて綱領を読んだのかというと、里山主義という新しい保守主義を掲げるわたしが、どうして日本共産党へと心が吸い寄せられていくのか、その謎をつきとめようとしたからだ。
 読んでがっかりしたことを覚えている(ブログにも書いている)。
 謎を解明する手がかりが綱領になかったからだ。わたしが理解しているマルクス主義の影響が綱領には強く出ていた。資本主義発達史とそれから導かれる現状分析であり、マルクス主義のいう下部構造に偏重した、つまり土台としての経済的構造を踏み台にした展望のように思えたのである。
 わたしは下部構造を重視し、下部構造から社会の姿をみる視点を否定している。全否定ではない。が、経済的基盤を偏重しただけで未来は展望できないと確信している。わたしの思い描く理想社会は、資本主義発達史の先にはないからだ。どういうことかというと、マルクスは社会主義を、資本主義が宿命としてもつ内部矛盾を止揚して生まれる必然性と、そのメカニズムを科学的に解明したのだが、要は社会主義は資本主義が発展的に姿を変えたものなのである。だから資本主義発達史なのである。
 わたしは資本主義を否定している。その意味ではマルクス主義と同じ立ち位置であるが、わたしは思い描く理想社会は資本主義が発達した先にみていないのである。
 資本主義が土台としてもっている世界観と価値観を問題としているのだ。経済的基盤と構造もこの世界観と価値観を色濃く反映したものとして捉えている。つまり、極論すれば下部構造は世界観と価値観によって作られ、資本主義を生み出したその価値観と世界観こそが西欧近代主義だ、と考えている。そして、資本主義が発達した先に現れる社会主義も土台としての世界観と価値観は一緒のはずだ。
 こうした考えを持つわたしの心が、何故に日本共産党へと吸い寄せられていくのか、綱領を読んでも依然として謎なのである。綱領を読めば、あり得ないからだ(笑)。
 綱領を読んでも分からず、むしろがっかりしたわたしの頭は白くならずに、それを通り越して無残にも抜け落ちる始末である。「日本共産党よ、わたしの大切な黒髪を返してくれ!」と悪たれをついてみても、それでも、わたしの心は日本共産党に吸い寄せられていくから不思議である。謎は深まるばかりなのである。
 もしや、恋してしまった……。だから、あばたもえくぼで……。それはない(正直に告白すれば、日本共産党の高橋千鶴子には恋心のようなものを抱いているのかもしれない。女としてではない。元始の日本の母としてである)。いやしくも橋川文三の弟子である。盆暗なりに日本政治思想史を囓ってきたので、無節操に思想を信仰したり、思想を体現した者(思想家・政治家・政党等々)を神と崇めて心ごと雪崩れていくことは、頑なに戒めてきたつもりだ。だから恩師である橋川文三も平気で批判するし、橋川文三の師である丸山真男もけちょんけちょんに貶すのである。もちろん、わたしなど二人の爪の垢ほどの値打ちも価値もないことは承知である(笑)。

 わたしは日本共産党の綱領には、正直がっかりした。が、わたしが観ているのは綱領ではない。日本共産党の政策であり、政治的選択であり、政治的行動であり、政治的心情である。だからわたしの心が日本共産党へと吸い寄せられていくのだろう。
 わたしは現実としての日本共産党を観ているのであり、その現実としての日本共産党へと心が吸い寄せられているのである。例えば、綱領を反映しただけの日本共産党だったならば、わたしの心が吸い寄せられていくことはなかったと断言できる。
 日本共産党は資本主義を否定している。
 その否定は下部構造を土台として見なし、その下部構造の反映した形として捉えた資本主義の社会を否定するのか、それとも、わたしのように資本主義の社会の土台を作っている世界観と価値観を否定するのか、では意味が違っている。
 どうして日本共産党は「大浦湾には龍神様が住んでいる」という純朴な信仰が息づいている沖縄の辺野古新基地反対運動を我が物としているのか、どうして経済至上主義と経済成長神話と科学万能神話と人間中心主義を否定する3・11の心と寄り添い、反原発を掲げ、反リニアを掲げているのか、そして日本農業へと熱い眼差しを向け、日本の伝統と文化への愛着を隠そうともしないのか。
 こうしたことは、資本主義を下部構造からみて否定する論理では説明ができないはずだ。無理に説明しようとすれば、論理的破綻を来すものである。
 わたしの妄想は、日本共産党は資本主義を、世界観と価値観の転換のレベルでの変革を射程に眺めていると告げている。
 その答えは今は要らない。その時ではないからだ。日本共産党の内部に激震が走ることだろう。この歴史的瀬戸際にあってそれだけは避けなければならない。何故ならば、日本共産党が市民連合と野党共闘を繋ぐ紐帯であり、核であり、そして何処へと向かうべきかを指し示す羅針盤だからだ。
 その上で提唱したいのは、日本共産党は小難しい綱領と別に、あるべき理想の未来社会を具体的に描くべきだと思う。これは2014年の総選挙の後でも提唱している。具体的な理想社会を描くことで、日本共産党へと安心して国民の心が向かうだろう。作られた悪しき日本共産党のイメージは、具体的な理想社会によって根底から払拭されるはずだ。特に日本農業と漁業、酪農と共存した社会を描き、日本の伝統と文化に根ざした暮らし方がどうその社会に反映されるのか、具体的に描くべきだ。純粋な保守の心はそれなくしては吸引出来ないし、それができれば日本共産党へと間違いなく雪崩れてくることだろう。
 循環型の社会とか、自然との共生とか、文化と価値観の共存共栄とか多様性とかが盛んに言われているが、どれも空疎な言葉でしかない。経済的な意味(新自由主義)でのグローバリズムは、これらの言葉と真逆でしかなく、経済的な意味(新自由主義)での構造改革と規制緩和も真逆でしかない。民進党ばかりか、あろうことか自民党までがこれらの空疎な言葉を乱射している。裏を返せば、こうした言葉が民衆の心に芽生えてきた証なのだろう。
 こうした空疎な言葉に本来の魂を入れられるとしたら、わたしは資本主義の土台を流れる世界観と価値観を転倒させない限りあり得ないと確信している。
 循環型の社会というが、拡大再生産を是とし、経済成長=幸福の源泉という強迫観念にとらわれ、進歩史観を宿命としてもつ資本主義の社会では、空中楼閣でしかない。土台としての世界観であり価値観である西欧近代主義を乗り越えなくては実現できない社会だ。
 保守か、リベラルか、などという従来の対立軸は無意味になった。根底からの変革が必要となるまでに、資本主義社会が病んできたからだ。末期症状なのである。その証拠が資本主義の祖先返りである新自由主義の台頭である。
 日本共産党は、具体的な理想社会を描いて国民に提示するとともに、その理想社会の扉を開くための新たな対立軸を提示すべきだろう。
 社会ダーウィニズムと棲み分けの思想、競争と共生、拡大と循環、排除と受容、普遍性的な統一と多神教的な個別性の尊重……などを包含したものになるのだろうか。わたしには分からない(笑)。
 
 こうした展望をすると、「共産党サポーター制度」の意味がみえてくるのではないだろうか。
 新たな対立軸を構想する上でも、直截に国民に問うことは無理があるし、またそれでは尚更みえなくなってしまう。自主的に日本共産党へと寄り添ってきたのがサポーターだ。どうして日本共産党に寄り添おうという気持ちになったのか。日本共産党に何を期待し、どういう社会を望んでいるのか、率直な意見を聞くことも可能だろう。
 だからといって、サポーターの意見を鵜呑みにし、すべて反映しろなどというつもりは毛頭ない。浮き草では駄目である。サポーターには浮き草的な要素もある(笑)。そこが党員と後援会との重要な違いだ。
 飽くまでも参考であり、どういう考えと心情をもつ人たちが日本共産党に親近感を抱いているのか、把握するのは政治戦略を立てる上でも不可欠となるだろう。
 忘れてはならないのは、サポーターは一般的な国民と重なり合うということだ。党員と後援会は、一般的な国民とは重なり合わない。サポーターが日本共産党と一般的な国民を繋ぐ架け橋となり、日本共産党への負のイメージの払拭は元より、国民一般が日本共産党を身近に感じ始める切っ掛けになるし、親近感の拡散に繋がることだろう。

 マスメディアがジャーナリズムとして機能せずに、大政翼賛報道機関にまで堕落している現状からみると、国民は事実を情報として知らされていない側面がある。情報操作によって国家権力から囲われた世界に閉じ込められているといえる。
 選挙は情報戦である。小池百合子の虚像を作り上げたマスメディアの情報操作を観れば明白だし、北朝鮮の危機を煽り、株価操作でアベノミクスの成功と好景気を演出した安倍政権の情報操作でも明らかである。
 こうした状況を打開するのは難しいが、SNSなどを活用した情報戦は不可欠であり、サポーターの果たす力は絶大だといえる。党員と後援会では発想できない新しいSNSの活用方法が飛び出す可能性だって否定はできない。サポーターは根無し草の要素もあるが、それだけに発想は柔軟であり、風を掴めば爆発的な威力を発揮する。
 自民党のネット・サポーターは金で雇われており、それだけに受動的であり指示されたことしかしないが、日本共産党のサポーターは能動的だから、自らで工夫した情報発信を始めるだろうし、効果は計り知れない。
 
 以上、駆け足で論じてきたが、「共産党サポーター制度」はこれからの日本共産党にとって不可欠であり、是非とも実現すべきだろう。
 根無し草の要素を完全否定してはならないだろう。根無し草の要素が皆無な日本共産党だからこそ、逆説的に根無し草の要素をもった緩やかな組織が、党と後援会の外に必要なのだ!

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 前回の続きであるが、思った通り反響がよくない。
 わたしのブログの反響などどうでもいいのだが、衆議院選挙の日本共産党の支持が伸び悩んでいるという。
 戦争法の成立を阻止するために、自然発生的に起ち上がった多くの自覚する市民が結集した市民連合と一貫して寄り添い、決して裏切ることなく、市民の願いである野党共闘の大義の旗を高く掲げ続けてきたのは日本共産党である。党利党略を脇に置いて、野党共闘を死守するために孤軍奮闘し、そして野党統一候補を当選させるために涙ぐましいほどの選挙協力をしてきたのも日本共産党である。
 その日本共産党よりも、野党共闘を袖にし希望の党への合流騒動を起こした民進党が分裂して生まれた立憲民主党へと、市民の支持が雪崩れて行っている現象を、どうみたらいいのだろうか。
 野党共闘の大義の旗を今も高く掲げているのは日本共産党なのである。その大義の旗には目もくれず、諸手を挙げて立憲民進党へと雪崩れていくリベラルと呼ばれ、また自らリベラルと自認する市民の姿を、わたしは快くうけいれることはできない。
 敢えていうと、こうした光景に、リベラルが宿命としてもつ浮遊する心を感じ取ってしまうのである。
 もちろん、安倍晋三と安倍政治を打倒するためには、立憲民主党の大躍進が不可欠であり、歓迎すべきことなのだが、野党共闘の大義の旗を、頑なに、決してブレることなく、高く掲げ続けている日本共産党の孤高ともいえる姿に、心が引き寄せられていくのを阻んでいる、リベラルの信じる悪しき宗教が、わたしの目には見えるのだ。

 昨日Twitterで、この悪しき宗教について連続して呟いたのだが、反響はほとんどなかった。わたしが何を言おうとしているのか、その主旨を掴めないのだろう。その責任はわたしにある。理解できるように説明できていないし、またわたしの主張が突飛であり、常識を逸脱しているからだろう。そして、わたしの主張は直感を核としているものであるから、俄には納得できないのだろう。
 そのツイートが下記になる。

衆議院選挙で安倍晋三と安倍政治に引導を渡さなければならない。リベラル陣営の躍進は不可欠だ。が、リベラル(=自由主義)とは資本主義社会を前提とするものだから、資本の論理と経済成長=幸福という宗教に足下を掬われ、右往左往する宿命をもつ。自由主義は資本主義のイデオロギーでもあるからだ。

資本主義のイデオロギーとしての自由主義を体現しているから、連合は根無し草となって右往左往するのだ。私は資本主義のイデオロギーと切れた、本源的価値としての自由主義を自由・平等・基本的人権の尊重・民主主義・平和主義、そして自然との共生、共存共栄の棲み分けの思想としてみている。

重要なのは、私のいう本源的価値としての自由主義は、西欧近代主義の人間至上主義・科学万能主義・経済至上主義を超えた思想だということだ。この根源的価値の前にあっては、保守とリベラルの境界はない。西欧近代主義を超えているからだ。オール沖縄はこの地点に立ち、そして日本共産党が立っている!

以上が、私の直感(妄想?)である。どうして共産主義を掲げる日本共産党がこの地点に立てたのか。日本共産党は未だかつて存在しない「日本」独自の共産主義を掲げて理想社会を頑なに追い求めた結果だろう。普遍性のはずが個別性へと歩き出し、辿り着いた地点であり、だから伝統と文化へ眼差しを向ける

いわゆるリベラル政党と違って、日本共産党がブレないのは、資本主義のイデオロギーとしての自由主義を超えた、本源的価値としての自由主義の地点にたっているからではないのか。だから野党共闘の羅針盤になれるのだ。日本の未来を切り開きたいなら、保守もリベラルも日本共産党に投票すべきだ

 いわゆる「リベラル」は、日本「共産党」という名称から、日本共産党に全体主義のイメージを重ね合わせてみている傾向があるのではないだろうか。だから自称「リベラル」は日本共産党に拒絶反応を起こしてしまうのだろう。
 リベラルを日本語に置き換えれば自由になるのだろうが、政治的な意味でいうリベラルとは自由主義になるのだろう。
 全体主義と自由主義は相容れない概念だから、日本共産党を拒絶するのは当たり前だというのは早計である。「自由主義」も全体主義になり得るのである。
 そんなバカなことはない、と嘲笑されることは覚悟の上である(笑)。
 自由主義とは前回のブログで書いた保守主義と負けず劣らず曲者なのである。一筋縄ではいかない。おそらく自称「リベラル」こそが、この「自由主義」の陥穽に嵌まってしまっているのだろう。分かっているつもりが、自由主義を分かってはいないのではないだろうか。
 
 では政治的な意味での自由主義とは何か、と問えば一言では語れない(笑)。
 自由主義についてのわたしの理解は、藤原保信著『自由主義の再検討』(岩波新書)に負うところが大きい。藤原保信が『自由主義の再検討』のなかで定義している。引用してみよう。

「さしあたってそれは(自由主義…引用者注)、経済的には資本主義を、政治的には議会制民主主義を基本とする社会であるといえる。すなわち、それはまず経済的には、生産手段の私的所有を前提とし、労働生産物は商品という形をとって市場を通じて交換されつつ、利潤の最大化を生産の目的としている社会である。そしてそれはさらに、政治的には、思想、言論、出版、結社、等々の自由を前提としつつ、複数の政党が存在し、選挙を通じて政権が交替される社会である。このような意味での自由主義は、明らかに近代ヨーロッパに生まれ、やがて他の地域にまで拡大しつつある社会であり、それを支える思想であるといえる。そしてそのように考えたとき、さきにあげた今日人類がかかえるさまざまの問題は、自由主義によって解決されるどころか、むしろ自由主義の所産であるように思われるのである。逆にいうならば、自由主義を通じてそれらの問題を解決しうるためには、自由主義そのものが自己修正し、自己克服を遂げていかなければならないのである。自由主義はそのような自己克服を遂げていくことができるだろうか。またその基本的な方向はどのようなものであろうか」

 長くなってしまったが、藤原保信の定義は自由主義を考える上で、優れて示唆的だと思う。
 自由主義の経済的な側面と、政治的な側面を指摘しているが、自由主義を生みだした啓蒙思想には、資本主義のイデオロギーとしての役割が強い。が、歴史とは皮肉である。資本主義のイデオロギーのはずが、資本主義と相矛盾する天賦人権論や、立憲主義などが付随物として生まれるのだ。自由主義にはその核に西欧的自我の解放があるからだろう(西欧的自我と主観と客観については重要な問題を含むが、冗長になるので割愛する)。

 安倍晋三は保守を名乗っているが、自由放任主義(レッセフェール)を魂として受け継ぐ新自由主義の信奉者でもある。当然に資本主義を露ほども疑ったことなどない。安倍晋三は経済的には正真正銘の自由主義者である(笑)。
 では政治的にはどうか。立憲主義を破壊し、憲法を踏みにじり、議会制民主主義をも無視し、果ては国民の基本的人権すら蹴飛ばし、戦前のファシズム国家体制へと雪崩れていこうとしている。
 ファシズム国家とは全体主義である。そして安倍晋三は資本主義の信奉者であり、その意味では自由主義者である。わたしが自由主義が全体主義になり得るといった意味がお分かりいただけただろうか。
 経済的な意味での自由主義と、政治的な意味での自由主義と分離できるものなのだろうか。分離できるはずはない。政治的な意味においても、資本主義社会を前提として暗黙の内に受け入れてしまっているからだ。だからリベラルを自認する蓮舫は、構造改革と規制改革を絶賛するのである。蓮舫だけでなく、民進党も同様であり、いわゆるリベラルが基本的にそういう立ち位置なのである。だから、あっちにいったり、こっちにきたりと、根無し草となって浮遊するのである。それがリベラル(=自由主義)の宿命なのである。何となれば、安倍晋三も自由主義の信奉者でもあるからだ。
 安倍晋三は保守主義の看板を掲げ、経済的には自由主義の熱烈な信奉者でもある。枝野幸男が「リベラルは保守の対立概念ではない」ということは、安倍晋三を観れば頷けよう。だから、枝野幸男が言っていることは正しい。
 が、この地点に立って安穏としているのでは、何の進展もない。考えてみれば、リベラルの経済的な側面と政治的な側面という二面性と、リベラルが宿命として抱える根無し草の浮遊性を、枝野幸男自身が告白したにすぎないのである。枝野幸男はリベラルにして保守だと口にしたが、安倍晋三だってリベラルにして保守なのである(笑)。

 日本共産党はどうか。
 日本共産党はマルクス主義を基本として堅持している。だから資本主義に懐疑的である。
 しかし、暴力革命はもちろんのこと、一党独裁もきれいさっぱりと捨て去っている。議会制民主主義と立憲主義を掲げ、平和憲法護持を高らかに掲げている。平和憲法とは人類が向うべき理想を指し示す羅針盤のようなものだ。だから安倍晋三のような国家主義者は、夢物語だと揶揄するのだろう。
 日本共産党は、何故に「日本」を党名に掲げるのだろうか。
 里山主義という新しい形の保守主義を掲げるわたしにとって、これは重要な問題である。
 共産党はこれまで地球上の何処にもない、日本だからこそ可能な理想社会の追及に果敢に挑んでいるのではないか、とわたしは好意的に捉えているのだ。その理想社会を「共産社会」と呼んでいるにすぎないのではないだろうか。
 わたしは日本共産党は、マルクス理論にごりごりに拘っているとは思っていない。マルクスの資本主義批判の側面を受け継いでいると、勝手に解釈している。こういうと、日本共産党の党員にいるごりごりのマルキストに唾を吐かれるかもしれない(笑)。

 藤原保信の自由主義の定義を思い起こしてほしい。「さきにあげた今日人類がかかえるさまざまの問題は、自由主義によって解決されるどころか、むしろ自由主義の所産であるように思われるのである。逆にいうならば、自由主義を通じてそれらの問題を解決しうるためには、自由主義そのものが自己修正し、自己克服を遂げていかなければならないのである。自由主義はそのような自己克服を遂げていくことができるだろうか。またその基本的な方向はどのようなものであろうか」という箇所である。
 わたしは自由主義に自己克服を遂げる期待をしていない。根無し草の浮遊性を宿命的に抱えているからであり、資本主義社会を前提として受け入れているから「経済成長=幸福」という信仰に毒されきっているからである。
 日本共産党は、資本主義の問題と真摯に対峙し、その克服を追及し続けていると確信している。そのために理想の社会を展望しているのだろう。
 
 共産党はリベラルか、それとも保守か。
 わたしは西欧近代主義を超えた本源的な価値としての「自由主義」をみている。当然に資本主義のイデオロギーとしての自由主義を乗り越えたものだ。だから、経済至上主義と経済成長神話から解放され、人間中心主義と科学万能主義をも乗り越えることになる。
 当然に、自由・平等・基本的人権の尊重・議会制民主主義・立憲主義は堅持され、その上で自然との共生と、共存共栄の棲み分けの思想などによって色濃く彩られることになる。藤原保信のいう自由主義の克服と方向ということになるのだろうか。
 日本共産党が何故にブレないのか。
 リベラルの二面性と根無し草の浮遊性を産み出す地点を通り越して、より高みへと上っているからだ。その高みからは、あるべき新しい政治と、あるべき新しい未来社会が展望できるのである。
 したがって枝野幸男のいう「リベラルは保守の対立概念ではない」など、お呼びでないのである(笑)。
 日本共産党は本源的な価値としての自由主義の地点に立っており、その上で西欧近代主義をも乗り越えて未来を展望しているから、沖縄の心(保守主義の精神)と3・11の心を生きているのである。
 以上を踏まえて、昨日のわたしのツイートをみてほしい。わたしがいいたいことが見えてくるのではないだろうか。
 高橋千鶴子前議員をみてほしい。
 わたしは高橋千鶴子前議員に、懐かしくも優しく、そして温かな、日本の元始としての母である縄文土偶の面影をみている。この高橋千鶴子前議員と全体主義とは真逆である。

 最後に、わたしの恩師である橋川文三を再評価している中島岳志の気になるツイートを目にした。これまでわたしが論じてきたことと関連するものである。
 
約1年前に書いた論壇時評。なぜ保守の西部邁氏と共産党の小池晃氏の意見が合致するのかを論じています。いまなぜ保守と共産党が政策的に接近するのかという問いは、重要な思想問題だと思っています。→東京新聞:論壇時評(TOKYO Web)
 
私はこれまで一度も共産党に投票したことがありません。しかし、私が考えてきた「保守」の論理は、いま共産党の政策(特に内政)と重なります。そのこと意味をいま真剣に考えています。→ 週刊金曜日ニュース

その通り。→枝野氏「保守とリベラルがなんで対立するんですか。保守とリベラルは対立概念ではありません。  

 わたしが日本共産党を熱烈に支持するようになったのは、2014年の総選挙からである。池内さおり前議員と藤野保史前議員の演説に虜になり、それから二人の選挙活動を通して日本共産党を考えるようになったからだ。その考えの核になったのは、どうして里山主義という新しい保守主義を掲げるわたしが日本共産党に、心を鷲づかみにされたか、ということである。その謎を追い求めた次第だ。
 わたしは日本農業の再建は日本共産党しかできないし、日本農民の惨状は日本共産党しか救えないと確信している。
 どうして日本共産党が保守主義の精神をも抱え込めたのか、その答えはわたしなりに掴んだつもりだ。その答えはこれまでに述べてきた。
 が、重要なのは、日本共産党はリベラルでもなく、保守でもないということだ。そして真の意味でのリベラルであり、真の意味での保守だということだ。「リベラルvs
保守」の不毛な対立軸は乗り越えており、リベラルと保守の垣根など、今の日本共産党にはないのである。だから新しい対立軸を指し示すべきなのであり、その権利は日本共産党にあると断言したい。そうでないと、いつまでたっても日本の政治は停滞し、堕落し続けるだろう。

 立憲民主党と社民党と自由党の躍進を祈る!
 安倍晋三と安倍政治は一刻も早く葬り去らなければならない!
 その上で、声を大にして叫ぶ。
 日本の未来を切り開くためには、日本共産党を大飛躍させる以外にないのだ。日本共産党の飛躍がなければ、リベラル陣営は何処にすっ飛んでいくか分からないのである。根無し草の浮遊性を本質としてもっているからだ。
 比例は日本共産党、一択!

※自由主義とリベラルにおける根無し草の浮遊性、そして「経済成長=幸福」という宗教について、以前のブログに書いているので、その一部を紹介したい。鼻も引っかけられなかったブログである(笑)。

リベラルといえどもこの宗教と無縁ではない。いや、雁字搦めになっているのである(笑)。どうしてかというと、幸福になりたいからだ。
 リベラルは賢いはずなのだが、思考回路がおかしいとしか思えない。おかしくしているのは経済成長=幸福という信仰なのだろう。マルクスは宗教はアヘンだといったが、リベラルの信じる宗教もアヘンに違いない。中毒症状を起こしているのだろう、「もう、どうにもとまらないー♪」と山本リンダの唄を口ずさむほどなのである。
 リベラルほどの頭があれば、「幸福とは何ぞや?」と自問自答し、経済成長=幸福という信仰を疑ってみてもいいはずなのだが、アヘンとは恐ろしいもので、そんな兆候は一向にみえない。むしろ悪化しているのだ。
 このアヘンが、リベラルの心を自由貿易に吸い寄せているのだろう。経済成長=幸福というアヘンが、賢いはずのリベラルの思考回路を狂わしている本質的な理由なのだろう。
 重要なのは、このアヘンである宗教を資本も共有していることだ。
 更に重要なのは、このアヘンによって、資本の論理としての自由主義と、賢いはずのリベラルの自由主義の境が曖昧になり、ほとんど境界線がなくなるということなのである。リベラルを自認する蓮舫の自由主義が、限りなく資本の論理の自由主義と変わらないという現象があるが、それは蓮舫のアヘン中毒が重度だからだろう。
 国会中継などをみていて思うのは、GDPの成長が絶対的な善という前提で議論されているのだが、これは明らかに経済成長=幸福というアヘンに蝕まれている証左である。

 賢いはずのリベラルの思考回路を狂わしている本質的な理由を踏まえて、先ほどわたしがリベラルに向けて発した問いに対して、想定されるリベラルの回答を書いたが、思い出してほしい。もう一度書こう。アジアと中東とアフリカを戦場に変えてきた論理は、多国籍企業の論理であって、西欧近代主義の理念と自由主義とは無関係だ」というものだ。
 仮に「西欧近代主義の理念と自由主義とは無関係だ」としよう。しかし、「多国籍企業の論理」には経済成長神話があり、経済成長=幸福という信仰があり、それを共有しているとすれば、「多国籍企業の論理だ」と言ってリベラルが責任を逃れることはできないはずだ。「アジアと中東とアフリカを戦場に変えてきた」多国籍企業(巨大資本)と同じ加害者だといえないだろうか。
 その加害者であることに思いを馳せないで平気の平左でいることが、リベラルの欺瞞性であり限界なのである。
 更に追及すると、西欧近代主義の理念と自由主義」を体現していたはずのリベラルが、アジアと中東とアフリカを戦場に変えてきた」巨大資本の論理に疑問をもつことがなく、それを許してきたのだとすると、西欧近代主義の理念と自由主義」はそうした巨大資本の論理に通じた性格があるのではないか、という疑問が湧き上がってこないだろうか。わたしのいう西欧近代主義の理念と自由主義」の欺瞞性と限界は、ここに尽きる。
 考えてみれば不思議ではない。リベラルは資本主義社会を根底から疑い、根底から否定していないからだ。資本の論理が立っている大地にリベラルも同じように立ち、同じ方向を目指して歩いているのではないだろうか。資本主義社会で生きていくということはそうしたものだろう。
 その資本主義社会が抱えている本質的なものをそのままにして、リベラルの「西欧近代主義の理念と自由主義」では、本質的な意味で、巨大資本の暴走の防波堤にはなり得ないのではないか。巨大資本もリベラルも共にアヘン中毒なのだから、リベラルが体現しているはずの西欧近代主義の理念と自由主義」が心もとないばかりか、西欧近代主義の理念と自由主義」にはアヘン中毒にかかる本質的な性質があるのではないか、とわたしは疑ってしまうのである。

 このほかには下記のブログ。
 

アメリカ大統領選がみせる現代社会の限界と退廃……西欧近代主義と二つの自由主義 №1~№8


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 わたしの思考は直感から始まる。
 そして思想となって結実する。
 恩師である橋川文三の方法論を踏襲しているからだ。
 稲妻となってやってきた直感が、どこからやってきたものなのか。そして、どんな意味を抱きかかえているのか。その答えを求めて彷徨い歩くのである。
 この方法論は優れて文学的である。日本政治思想史と対峙する橋川文三の本質が、文学的魂を宿した鋭い直観にあると、わたしは看破している。
 直観が核にあるから、橋川文三の著作は色褪せないのだ。直観に対する明確な答えを橋川文三は自らでは出していない、とわたしは思う。わたしにとっての橋川文三の直観は、歴史を鋭く抉り出す視点であり、問題提起なのである。橋川文三は視点と方向性とを指し示したにすぎない。その地点からどう歩いていくかは、わたし自身の問題になってくるのだ。だから色褪せないのである。歴史が優れて今日的問題となってくるからだ。

 前置きはこのくらいにして、わたしの直感を披瀝したい。
 リベラルと保守という言葉の不毛性が、日本の政治を混乱と停滞と堕落へと導いている最大の要因だ、というのがわたしの直感である。
 いや日本に限ったことではない。世界規模で、政治を混乱と停滞と堕落へと導いている元凶だ、とわたしの直感が叫んでいる。
 直観ではなく直感としたのは、いくら恥知らずのわたしでも気が引けたからだ。本質をつかんでいるつもりなのだが、それでも、思想に対する謙虚さはまだ持っているつもりだ(笑)。

 アメリカには民主党と共和党の二大政党制があるが、民主党がリベラルで、共和党が保守だと区分けすることに、何の意味があるのだろうか。むしろ本質を覆い隠すだけなのではないか。本質を覆い隠すことで誰が得をするのか。民衆でないことだけは確かだろう。
 わたしからいわせると、リベラルと保守という対立軸は、民衆にとって思考停止を強いる牢獄でしかない。リベラルと保守という対立軸からの発想しかできなくなるからだ。だから、新しい未来の政治へと展望ができなくなるのであり、檻に入れられたままの政治が混乱し、停滞し、ついには堕落するのである。
 この件に関しては、過去に何度となくブログに書いている。

 立憲民主党を立ち上げた枝野幸男の英断は賞賛すべきものである。
 枝野幸男の英断を産み出したのは、自覚する市民が起ち上がり結集した市民連合だと断言できる。枝野幸男自身が口にしている。政治家としての枝野幸男の感性が優れているのは、これからの政治を主導していく力が、既存の政党や政治家から、自覚して結集した市民へと移りつつあると感得したことだ。そして、戦前回帰へと雪崩れていこうとする勢力の暴走を食い止められるか、それとも押し切られるかの切羽詰まった歴史的瀬戸際であり、歴史的分岐点にあって、一人の政治家として何をなすべきかと思い悩んだ末に、雄々しく起ち上がったことだ。
 最初に断っておくが、わたしは枝野幸男の英断と行動力を絶賛こそすれ否定するつもりは毛頭ない。当然に、立憲民主党の躍進が安倍政権の打倒と安倍政治を終わりにするためには必要不可欠であることも自覚しており、声援は惜しまない。
 その上で、枝野幸男の「リベラルは保守の対立概念ではない」という発言を「批判的に」考えてみたいのだ。
 誤解してほしくはないのは、「リベラルは保守の対立概念ではない」ということは基本的には正しい。そして、これまでの「リベラルvs保守」という対立軸を、何の疑問もなく受け入れていたことを踏まえれば、一歩前進したといえる。が、一歩を踏み出した地点で立ち止まってそれで良しとしている限りは、リベラルと保守の対立軸という檻を破壊することはできないし、従ってそれに付随する形で惹起した政治の混乱と停滞と堕落を打ち破ることはできない。枝野幸男の発言は「リベラルvs保守」という対立軸を否定しただけで、そもそもがリベラルとはどういう政治的姿勢であり政治的勢力なのか、保守とはどういう政治的姿勢であり政治的勢力なのか、判然とはしない。そして、どうして「リベラルvs保守」という対立軸が不毛なのであり、本質を見えなくしてしまっているばかりか、未来の政治と社会のあり方への視点と展望をも奪ってしまっているのか、という問題意識がまったく欠落していると指摘したい。

 「リベラルvs保守」という対立軸の不毛性の核心を、どうしたら炙り出せるか、沖縄の辺野古新基地反対運動という炎にかざせば、その姿が浮き上がってくることだろう。この件についても、何度となくブログで書いている。
 沖縄の辺野古新基地反対運動はオール沖縄を産み落とした。わたしは歴史的快挙だと思っている。それまで対立していた保守とリベラルが共闘したからというのではない。「リベラルvs保守」という不毛な対立軸を無意味なものとし、政治をより高みへと押し上げたからだ。その地点から見える風景は、「リベラルvs保守」という対立軸の地点から見える風景とはまったく違う。麓からみた風景と、山の高みからみえる風景とが違っているのは当然である。そして高みへと上ったから、新しい政治と新しい社会のあり方と、あるべき未来が見えてくるのだ。

 沖縄の辺野古新基地反対運動を生きる人々の心に息づいているのは、純朴な「信仰」と願いである。大浦湾には神様が住んでいると信じているのだ。その神様が住んでいる海を大切に守り育て、そして愛し、海を汚すことは神様を汚すことであり、だから美しいままの海であれかしと願い、海を汚すことを自らに戒めてきたのだろう。民衆は大浦湾の神様と共に生き、神様のいる海から恩恵を受けてきたのである。この美しい海は子や孫へと受け継いでいかなくてはならない。それが祖先から受け継いできた自分たちの務めでもあると、頑なに自分自身に言い聞かせてきたのだろう。わたしはこの純朴な「信仰」を本質的な意味での「倫理」の発露とみている。この「倫理」があるから、人間至上主義と経済至上主義を超えられたのである。
 人間の都合で美しい海に生きる数多の命を奪うことは許されないし、経済のために美しい海を犠牲にできる心とは無縁なのだ。
 経済成長神話がある。経済成長こそが人として生きていく上での豊かさの源泉であり、幸福をもたらしてくれる源泉だという神話に、日本人はどっぷりと浸っている。だから原発を受け入れ、あろうことか3・11を生きても、経済成長のためには原発は不可欠だと再稼働を容認する日本人は多い。
 大浦湾に住む神と共にある「倫理」を生きる沖縄の人々には、経済成長による豊かさよりも、美しい海と共に生きていくことに豊かさを見出しているのではないだろうか。
 この沖縄の辺野古新基地反対運動を生きる人々の心に息づいているものは、紛れもない保守主義の精神だろう。
 紛れもない保守主義の精神だとして、この精神には祈りにも似た平和への思いが溶け込んでいないだろうか。地獄絵さながらの沖縄戦を潜り抜けてきた保守主義の精神である。平和への思いが強いはずだ。
 戦争は人間の悪行の最たるものだ。人間だけの命を奪うだけではない。数知れぬ生きとし生けるものの命を奪い去るものである。美しい大浦湾の海に生きる生き物たちも例外ではない。そして、昨日までの暮らしが根底から破壊され、故郷の姿が徹底的に破壊されるのだ。
 本来なら保守の精神とは、平和が核になければ嘘だろう。何故ならば、平和が壊れれば、守るべきものが忽ちにして破壊されてしまうからだ。
 わたしは、平和憲法こそ純粋な意味での保守の心だと思っている。
 わたしは里山主義を掲げる保守主義者だが、平和憲法は世界の宝だと確信しているし、自由と平等と基本的人権と民主主義をこよなく愛している。
 沖縄の辺野古新基地反対運動を生きる人々も、わたしと同じ思いなのではないだろうか。

 ここで立ち止まって考えてほしい。
 安倍晋三と櫻井よしこ、そして自民党を筆頭とした自称「保守」とは何なのだろうか。
 上述した沖縄の辺野古新基地反対運動に息づく保守の精神(以下、沖縄の心と呼ぶ)とは真逆である。だから徹底的に弾圧しているのだろう。
 奇妙な対立構図である。「保守vs自称・保守」という摩訶不思議な対立といえる。
 沖縄の心の守るべきものは明確である。
 大浦湾に住む神様と共に暮らし、神様を大切に守り、神様から豊かな海の恵みを受け、また神様が住む美しい海と生きているという尊い喜びを実感できる、「実体としての」平和な故郷そのものである。

 では、自称「保守」の守るべきものとは何なのだろうか。
 自称「保守」が好んで使う言葉は愛国と国防と国益である。
 つまり、自称「保守」が守るべきものは国家なのだ。
 国家とは実体があるようで、実体がないのではないだろうか。戦前の日本ファシズム国家体制が最後まで死守したのは国体である。
 その国体を死守するために、本土の盾として、沖縄の人々は生き地獄と化した沖縄戦を生きることを強いられ、本土は焦土と化し、広島と長崎に原子爆弾が投下されたのである。
 国家とは共同幻想のようなものだろう。
 共同幻想でしかないから、人によって国家の捉え方とイメージが違ってくるのは当然である。
 安倍晋三における国家とは何だろうか。
 森友と加計疑獄が教えてくれている。安倍晋三にとっての国家とは私利私欲を追及するための便利な隠れ蓑でしかない。国家という言葉が、嘘と詐欺を正当化する道具にまで貶められたのである。安倍晋三ほど国家を土足で踏みにじった政治屋はいないだろう。
 故郷は五感で実感できる。そして、生きていく暮らしを成り立たせる社会基盤である。
 国家は故郷を守ってくれる。だから国家の危急存亡のときには、率先して国家のために命を捧げよ、というのは大嘘である。明治維新以降の歴史をみれば一目瞭然である。国家は常に故郷を破壊し、犠牲にしてきたのである。戦争こそが破壊の最たるものだ。明治維新以降の歴史は戦争の歴史であった。故郷を破壊し汚したのは戦争だけではない。足尾鉱毒、水俣病……枚挙に暇がない。そして、3・11である。愛する故郷を二度と住めない地に変えたばかりか、国土全体を放射能で汚染させたのである。国土とは国家の基盤ではないのか。その基盤を汚染して、愛国と国防と国益が成り立つとしたら、その国とは何をもって国家というのか。自称「保守」の思考回路は、相当に支離滅裂としかいいようがないではないか。
 私利私欲を正当化として国家という言葉を用いる安倍晋三は、大企業を筆頭とする1%の国民を優遇した政策をしつこいくらいにしているが、そうした1%の富裕層にとっては、安倍晋三のいう国家は有り難い存在だろう。
 
 沖縄の心に息づく保守の精神と、安倍晋三のいう自称「保守」の違いは、郷土愛(パトリオティズム)と国家主義だと思う。
 国家主義だから、国家主権を絶対化し、国民主権を押さえこみ、自由と平等と基本的人権を忌み嫌うのである。国家主義がウルトラ化すると、ファシズムになる。
 恩師である橋川文三は、戦前の日本ファシズムを、国家主義が軍部の暴走を現実追随する形でずるずるべったりの移行だと論じた師である丸山真男を批判して、国家主義が「超=ウルトラ」国家主義になるには、革命的な変質が必要だといったが、国会議事堂を砲火して共産党を弾圧し、全権委任法を手にするまでのナチスがその変質期になるのだろう。
 幼児性分裂症の安倍晋三に緊急事態条項を与えたら、名実共にファシズムの完成になるのだろう。衆議院選挙で自民・公明が大勝するか、改憲勢力が三分の二以上の議席をとれれば、幼児性分裂症である安倍晋三はファシズムへと突っ走っていくことだろう。NHKを筆頭とする日本のジャーナリズムは脳天気であり、危機感の欠片もないようだ。おそらく、歴史と真摯に向き合った経験がないのではないだろうか。

 沖縄の心が言葉の厳密な意味での保守主義であり、安倍晋三のいう保守は似非保守主義だといっても無意味だろう。保守主義という概念が恣意的に使われ、多様な意味を含むようになってしまったからだ。ヌエのような言葉なのである。
 しかし、重要な問題がある。
 沖縄の心があるのに対して、どうして東北の心がなく、どうして北海道の心がないのだという問題である。更にいうとどうして四国の心がなく、九州の心がなく、瀬戸内と山陰と北陸の心がないのか、という問題である。オール沖縄があるのに、オール東北がみえず、オール北海道がみえないのだ。オール沖縄とは保守とリベラルの境界線を越えたものだ。単なる野党共闘とは違う。
 なぜに重要な問題かというと、保守の心が、沖縄以外の地方では未だに自民党が放つ蜘蛛の糸に絡め取られているからだ。その自民党は国家主義どころか、超国家主義へと脱皮しているのにだ。
 日本のマスメディアが安倍晋三が向かおうとしているのがファシズム国家体制であり、自民党は極右政党だという事実を国民に伝えていないことが原因であるが、市民連合と野党共闘がバカの一つ覚えのように「リベラル、リベラル」と叫んでいるからだ。
 保守の心をもった地方の農民にとっては、「リベラル」などという外国語には拒絶反応を起こすだろうし、胡散臭い匂いを嗅ぎ取るだけだ。
 「リベラルvs保守」という対立軸は「都会vs地方」と重なるイメージが作られてきたという事実に目を向けるべきだろう。
 だから、騙されても、騙されても、騙され続けても、それでも自民党に投票してしまうのではないだろうか。愚か者といって切り捨ててしまったら、永遠に東北の心(オール東北)は形作られることはないだろう。
 日本農業の未来を真剣に考えている党は、わたしの観察では日本共産党である。
 目覚めた農民の一部は共産党支持になっているが、自民党支持者がほとんどだろう。極右政党であり、日本農業の破壊者でしかない自民党の牢獄に繋がれたままのこうした農民に、日本共産党は救いの手を差し伸べるべきだ。「農業は国の礎」と大書したムシロ旗を掲げるべきだ。日本農業の未来を切り開き、日本農業と寄り添っていくという意志を示すべきだ。ムシロ旗は自民党に騙され続けた農民の目を覚ますことだろう。

 沖縄の心はヌエでしかない保守主義という概念の無意味性を炙り出したが、沖縄の心はリベラルという概念の無意味性と不毛性をも炙り出してくれる。
 沖縄の辺野古新基地建設を所謂「リベラル」はどうみているのだろうか。
 リベラルも保守と同様に、反対派と賛成派の二つに割れるのではないだろうか。
 では、原発の問題はどうだろうか。
 リベラルはこの問題でも反対派と賛成派の二つに割れるのである。
 更にいうと、構造改革と規制緩和はどうだろうか。
 ついでだから、グローバル経済(世界市場=市場の一元化)の是非と、保護貿易と自由貿易のどちらを選ぶかという問いを発したならどうだろうか。
 真っ二つに割れるのである(笑)。
 リベラルを自認する人たちも一枚岩ではない。上の5つの問いだけでも、是と非の組み合わせは千差万別である。リベラルという概念も複雑怪奇ということになるのではないだろうか。

(次回へつづく)

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