わたしが熱烈に支持した日本共産党が議席を大幅に減らした。
8議席から21議席へと3倍近い議席増で一人勝ちした前回2014年の総選挙で、たった一人の日本共産党私設応援団を立ち上げ、ネットで奮闘した経験を持つわたしにとって(過去にその総括をブログで書いている)、信じがたい結果だった。残念でならない。
しかし、議席数こそ減らしたが、わたしは日本共産党は新しい未来の政治へと繋がる布石を打ったと確信している。
どういう布石をうったのか、そして総選挙後にTwitterを駆け巡る「共産党サポーター制度」の提案をどうみるか、その見解を述べる前に、民進党のドタバタ劇を中心にして、わたしがみた総選挙を総括したい。
小池百合子が吹かせた風で、都議会選挙で都民ファーストが圧勝したのを受けて、風よ再びと立ち上げた希望の党に、政治を生きるための方便であり、そのための生業としが思っていない政治屋たちが、目先の選挙で当選するために結集した。しかし、風は急激に衰え、風が去った後に炙り出されたのは政治屋たちのおぞましい心である。
この希望の党に二大政党制の醜悪な幻想を重ね合わせ、政界再編と政権交代を目的とした本末転倒の夢をみて暗躍した黒幕がいた。が、地下で胎動する次代の政治を動かすマグマの熱で、野望は粉々に打ち砕かれたといえる(この希望の党への合流という三文芝居についてはブログで、二大政党制と政権交代の悪夢に取り憑かれた小沢一郎に触れながら書いているので割愛する)。
どうして風はあっという間に衰えていったのか。
マスメディアが作り上げた何処にも存在しない虚像としての「小池百合子」が吹かせた風にすぎないからだ。元々が実体のない風だったのである。
今回もマスメディアは、虚像としての「小池百合子」を祭り上げようとした。おぞましい空中楼閣でしかない二大政党制という幻想と希望の党を結びつけ、小池百合子を安倍政治を終わらせる救世主とて印象操作し、風を起こそうと演出したのである。二大政党制の幻想から解放されずに、未だに二大政党制の幻想を彷徨っているリベラルの心(リベラルは一括りにできない)は、この印象操作によって、容易に希望の党に絡め取られてしまったのではないだろうか。
どうも朝日新聞と毎日新聞は二大政党制の熱烈な信者であるようだ。だから糞味噌一緒の野党を一括りにして、与党vs野党という対立構図の視点からしか政治が見えなくなっているのだろう。日本の新しい政治の幕開けを告げる地下で蠢くマグマの胎動に気づけないのである。
民進党も同罪である。両院総会で希望の党への合流を受け入れた枝野幸男も、辻元清美でさえもこの罪から逃れることはできない。二大政党制の幻想に雁字搦めになっていたからだ。
突然に、そして一方的に、野党共闘が袖にされた形での合流という茶番劇であり、裏切りだった。わたしはやり場のない憤怒を覚えたが、わたしと同じようにこの民進党の政治的茶番劇に憤り、痛烈に批判したリベラル派もいたのである。
わたしは市民連合のなかにも、未だに二大政党制の幻想から解放されていない人が多数いると思っている。二大政党制の幻想から解放されない限り、国民の声が公平に反映されず、政治が平板化して画一化へと向かい、独裁政治の温床となる小選挙区制の否定へとは向かえない。小選挙区制が日本に二大政党制を根付かせるために作られたものだからだ(二大政党制と小選挙区制については、それを作った小沢一郎に関連付けて過去にブログに書いているので深入りしない)。
二大政党制とそれによる政権交代の幻想を生きるリベラル派は、民進党の希望の党への合流に対して、本質的な批判はできなかったし、また合流に期待すらしていたと観察している。なんとなれば、リベラルを自認する民進党議員のすべてといっていい議員が幻想を生きていたからだ。両院総会であっさりと希望の党への合流が承認されたことをみても分かる。
希望の党の背中を強力に押すはずの風は急激に萎んでいったが、一時はメディアの思惑通り、風は吹いたのである。その風が萎える切っ掛けを作ったのが、小池百合子の失言だったというのは、風の本質をよく物語ってくれている。
わたしはブログで小池百合子は政治的俳優だと書いたことがあるが、優秀な俳優のはずが、脚本にない「排除」という台詞をアドリブで口にしたのが命取りになってしまったといえよう。この思わず口にしたアドリブである台詞こそが小池百合子の本音であり、小池百合子という政治家の本質であり、そして立ち位置である。この台詞によって、俳優として演じてきた虚像としての小池百合子の化けの皮がはがれ、権力に強欲で極右思想に毒された実像としての小池百合子の素顔をさらけ出してしまったのだ。こうなるとメディアがどんな印象操作をしても無駄である。
慌てふためいたのは排除の対象となった民進党である。
野党共闘を袖にした時点で民進党に怒りを覚えたリベラル派がいるといったが、一方で、小池百合子の排除の論理によって希望の党が自民党と公明党の補完勢力でしかないという事実を突きつけられて目を覚ましたリベラル派がいた。希望の党の本質が見抜けずに、安倍政権打倒が希望の党への結集で実現するという見果てぬ夢をみたリベラル派だ。民進党と同様に慌てふためき、小池百合子と前原誠司と希望の党へと怒りが向かったのは後者のリベラル派である。
総選挙を目前にして、二つのリベラル派が絶望のドン底に突き落とされたと言っていい。
言わずにおこうと思ったが、率直にいうと、市民連合も例外ではない。希望の党への幻想を共有していた人たちは多くいたのではないだろうか。先に述べたように、市民連合のなかには二大政党制による政権交代の幻想を生きている人たちが多数いるからだ。だから容易に騙されて希望の党に「希望」を見出すことになったのだろう。二大政党制による政権交代の幻想を生きている限り、第二第三の希望の党が生まれ、ころっと騙されてしまうことだろう。
忘れてはならないのは、絶望は二段階だったということだ。
一段階目の絶望は、民進党が野党共闘を袖にして希望の党へと合流しようとしたときに表出したものである。
怒りの対象は民進党であり、合流劇のシナリオを書いた二大政党制による政権交代という悪魔に取り憑かれ、政界再編を画策することが目的化した古い体質の政治的フィクサーに対してである。
重要なのは、この絶望はしかし、市民連合と野党共闘への絶望ではないことだ。民進党への絶望であり、総選挙に向けての市民連合と野党共闘の戦略が根底から崩れ、一からやり直さざるを得なくなり、総選挙に間に合うはずがないことに対する絶望である。そして、市民連合と野党共闘で倒せるはずの安倍政権を延命させてしまうことに対する絶望である。その意味では絶望ではない。失望というべきかもしれない。だから、一段階目で失望した人たちは、それでも市民連合と野党共闘の大義の旗を打ち立てて闘う決意をした人たちなのではないだろうか。
当然に市民連合と野党共闘の核になるのは、それでも市民連合と共に歩む野党共闘に大義の旗を高く掲げ続けている日本共産党しかない。この人たちの目には、日本共産党こそが希望に見えたのではないのか。この人たちのなかに、わたしは立っていたのである。
二段階目の絶望は、小池百合子が排除の論理を口にし、民進党が右往左往し出したときに生まれたものだ。
憤りは小池百合子と希望の党へと向かい、合流劇の立役者である前原誠司へと向かった。
絶望の虚妄なること、希望と相同じい、と言ったのは魯迅であるが、今回の民進党の希望の党への合流劇から民進党の分裂、そして立憲民主党の誕生をみていると、絶望が虚妄でしかないことをしみじみと感じた(笑)。
前原誠司と党首選を争ったのは枝野幸男である。
前原誠司が自称保守なら、枝野幸男にはリベラルのイメージがまとわりついている。前原誠司が絶望に突き落とした張本人であり、突き落とされて絶望の闇の海を漂っていた者たちが、前原誠司と党首選を争った枝野幸男に希望を見つけ出して縋り付きたくなるのは自然である。「枝野幸男よ立て!」という枝野幸男待望論が間欠泉となって吹き出し、やがて枝野幸男が救世主のような存在になり、新党結成の大合唱になったのはこうした理由なのではないだろうか。もちろん、放置していては市民連合と野党共闘が壊滅的な状況に追いやられ、憲法改悪ばかりか緊急事態条項までが立法化されてしまう。安倍晋三が独裁政治の完成へと猪突猛進するのは火を見るよりも明らかだ。それだけは回避したいという願いが、核にあることは否定しない。
二段階目の絶望は、枝野幸男に希望を見出し、枝野幸男が立憲民主党を立ち上げると熱狂へと変わった。枝野幸男は絶望の淵を彷徨っていたリベラルを救い出す希望であり救世主になったのである。
頑なにそして誠実に、大義の旗を掲げ続ける日本共産党に希望をみていたリベラル派までが、枝野幸男へと雪崩れていったのである。すべてではない。しかし、この時点で日本共産党の比例票が、枝野幸男へと流れていくことは推測できた。熱狂だからだ。
またマスメディアによって作られた虚像の小池百合子への熱狂も、冷めたとはいえその残り火は消えずにあったのだろう。日本共産党はこの二つの熱狂に挟まれてしまい埋没してしまう恐れもあったのではないだろうか。
その恐れがあったのにもかかわらず、日本共産党は市民連合と野党共闘の大義の旗を降ろそうとせず、党利党略をかなぐり捨てて、民主主義の死守を最優先したのだ。電光石火で候補者を次々と下ろし、立憲民主党と野党統一候補の勝利へと尽力したのである。
わたしはこの枝野幸男への熱狂のなかにはいなかった。
今も懐疑的だ(笑)。だから選挙中にTwitterで、市民連合と野党共闘の向かうべき道を導く羅針盤は日本共産党だと呟いたのだ。そして日本共産党が飛躍しなければ、立憲民進党は何処にすっ飛んでいくか分からないと呟いたのである。
党首選で前原誠司の推薦人に名を連ねた阿部知子をみてみよう。
阿部知子は変幻自在である(笑)。
小池百合子に排除される恐れがあると知り、枝野幸男が風を作り出したとみるや、立憲民主党からの出馬を決めたのである。わたしは呆れて物も言えなかった。阿部知子は推薦する際に、前原誠司は多様性を許容する政治を産み出すというようなことを言っていたからだ。前原誠司に騙されたではすまない。ドタバタ劇を演出し、市民連合と野党共闘を破壊しようとし、可能だったはずの安倍政治の打倒が泡と消えた事実と真摯に向き合うべきだろう。そして政治家として自分がしたことを省みるべきだ。前原誠司を推薦した事実を総括することから始めるのが政治家としての務めであり責任だろう。
立憲民主党にはこうした阿部知子のような議員が潜り込んでいるのである。
直前のブログで書いたが、わたしは枝野幸男が立憲民主党を誕生させた政治的決断を賞賛するし、政治的胆力と勇気を絶賛している。そして、枝野幸男が政治家として秀でているのは、日本の新しい政治を動かす原動力である地下のマグマの胎動に気づいたことだ。マグマの胎動とは、自覚する市民が結集し、市民が主体となってこれからの政治を導いていくという強い意志の塊が熱を帯びドロドロに溶け出したものだ。この灼熱したマグマの破壊力と可能性とを、枝野幸男は感得したのである。だから、政治家主導のこれまでの政治から方向転換し、これまでの政界再編という永田町の三文政治劇からきっぱりとおさらばする覚悟ができたのだろう。そして、二大政党制による政権交代の幻想からさよならできたのだろう。
沸騰し灼熱するマグマの存在がなかったら、枝野幸男は起ち上がることはしなかったはずだ。また立憲民主党は誕生しなかっただろう。その意味では立憲民主党は市民連合が誕生させたといえる。
日本共産党は誰よりもそれを熟知していたはずだ。そうでなかったら、電光石火で候補者を下ろしたりしない。立憲民主党が誕生した時点で、自己犠牲を覚悟の上で、最悪のシナリオを回避したのだろう。上辺をみれば自民公明が圧勝したが、安倍晋三が臨んだ結果とはなっていない。崖っぷちでどうにか持ちこたえたのである。これからが市民連合と野党共闘の本当の闘いとなるだろう。
その闘いのなかで羅針盤となるのは、絶望に突き落とされても、市民連合と野党共闘の大義の旗を掲げ続けた日本共産党だということは揺るぎない事実だろう。その権利と資格が日本共産党にあることは、今度の総選挙で市民連合に結集した市民の胸に刻み込まれたはずだ。
これから歩んでいく立憲民主党の方向が、正しいものかどうかの見極めは、大義の旗と羅針盤が教えてくれるだろう。わたしたちは、常に大義の旗の位置を基準にして、立憲民主党の歩んでいく方向を注視していかなければならない。
枝野幸男への熱狂が、枝野幸男への信仰となってはならない。
それでは羅針盤を見失うことになる。信仰は諸刃の剣である。裏切られたときに政治的絶望を産み落とす。政治的絶望はニヒリズムを抱きかかえ、絶望からの救いの手をヒトラーのような悪魔に見出してしまうものだ。悪魔が差し伸べた手に嬉々として縋り付いてしまうということを、歴史は厳粛に教えてくれている。
では本題に入りたい(笑)。
「新しい未来の政治へと繋がる布石を打った」とは何か。
実はこの布石を打ったことを、Twitterを駆け巡る「共産党サポーター制度」の提案が立証してくれている。
仮に日本共産党が2014年の総選挙と同じように全選挙区に候補者を立てたとしたら結果はどうだっただろうか。
わたしは30議席くらいはとれたように思う。が、従来の全選挙区に候補者を立てるという戦略では30議席が限界ではないだろうか。
今回は自己犠牲を覚悟の上で、市民連合と野党共闘の大義に旗を掲げ、立憲民主党と野党統一候補を献身的に支えたのであるが、その上で、比例票が伸びれば20議席は確保できるか、という期待があったのだろう。結果的には、安倍晋三と安倍政治の批判票が希望の党と立憲民主党へと流れ、日本共産党の比例票が伸び悩んだことは否定できないと思う。相変わらずマスメディアは小池百合子の希望の党を連日取り上げていたし、立憲民主党を立ち上げた枝野幸男への市民の熱狂が沸騰した影響が大きいのではないだろうか。
しかし、市民連合と野党共闘の大義の旗を頑なに守り、高く掲げ続けた日本共産党の孤高ともいうべき姿に、深い感銘を受けた市民が多数いたということは注目すべきことだ。日本共産党の一貫した信念と誠実さに胸を打たれたのだろう。
日本共産党がしたことは大義の旗を掲げ続けただけではない。野党統一候補の選挙戦を、愚直なまでに一途に支えたのである。その涙ぐましい姿が、野党統一候補の陣営の目に焼き付いているはずだ。感謝の言葉だけではない。涙を流して縋り付いた人までいたという。日本共産党が平和憲法と民主主義を死守する覚悟が半端ではないことを如実に物語ってくれている。
こうした思いが、「共産党サポーター制度」の提案に繋がったのではないだろうか。
明らかに日本共産党のイメージが変わった証左であり、日本共産党に親近感を覚え始めた現れだろう。特筆すべきことであり、日本共産党にとって今度の総選挙が持つ意味の重さが、これまでの総選挙とは本質的に違っていると、わたしは直感している。本質的に違うとは、これからの日本共産党が歩んでいく方向性に影響を及ぶすという意味である。無視することも可能だ。が、無視すれば日本共産党の歩むべき道を誤らせ、日本の新しい政治と未来を切り開く核としての存在となり得たのに、その権利を自らで放棄してしまうことに繋がると思う。
国家権力から弾圧され地下に潜った戦前の日本共産党の歴史のなかで生まれた、福本和夫の有名な『分離結合論』がある(これについては過去にブログに書いているので参照してほしい)。
結果的にはこの『分離結合論』が民衆を巻き込んだ政治闘争から、少数精鋭の前衛党としての理論武装の道へと後退することになるのだが、結果を抜きにして、純粋な組織論と戦略論としてみると面白い。立憲民主党の飛躍は、雑多な思想のごった煮状態からきっぱりと切れて、純粋な中核となる思想を鍛え上げた先にしか組織的な発展と、闘争の勝利はないという福本和夫の『分離結合論』を地で行っているからだ(笑)。こうしてみると、頭ごなしに否定すべきものではないということになるのだろう。
日本共産党の歴史は重い。戦前は生きるか死ぬかの瀬戸際での国家権力との闘争の歴史である。
戦前の日本においては共産党員になることは、並大抵の覚悟ではない。
わたしはたった一度冬山の縦走を経験したが、大袈裟であるが、入山するときに死を覚悟したことを鮮明に覚えている。だからだろうか、雪山の景色が強烈に心にしみ、涙を流して感動に打ち震えたほどだ。末期の目で雪山の景色を見たからだろうか。
戦前の日本共産党への入党と冬山の体験を同じに扱えるはずはない。そのつもりもない。わたしが言いたいのは、日本共産党へ入党しようという行為がそれほどの重みがあり、強い信念と覚悟がないと無理なのであり、その覚悟が自尊心と党への誇りと信仰にも似た感情を生み出すことになったのだろう。
戦後も戦前ほどではないが、日本共産党に対する弾圧と差別は凄まじいものがあった。戦前の洗脳教育で日本共産党はアカであり、非国民であり、国賊だという教えを受けた国民の意識が、戦後になったからといってきれいさっぱりと消えるはずはない。未だにその残滓があるから驚く限りだ。
巨大資本が資本主義を否定する日本共産党を恐れるのは分かる。が、労働者組織を騙る連合が日本共産党に拒絶反応を示し、自民党と公明党ばかりか、リベラルを自認する民進党議員にまで日本共産党アレルギーが蔓延しているのだから、明治維新から戦前までの洗脳教育とは罪深いものである。
誤解を恐れずにいえば、日本共産党の党員はずっと冬の時代を生きてきたのである。それでも挫けることなく、真っ直ぐに前を向いて歩き続けてきたのだ。歩き続けてこられたのは日本共産党員であるという矜持であり、日本共産党の掲げる理念と理想への信念なのだろう。
わたしのようないい加減で軟弱な人間からすると、とても日本共産党の党員になれる資格はないし、またなろうとも思わないのである(笑)。
そうした党員からみたら、「共産党サポーター制度」など安易に映ることだろう。後援会も同様だろう。いわゆる「後援会」とは違い、日本共産党への熱き思い入れと、日本共産党の綱領に対する思想的な思い入れがあるのだろう。だから党員ではないにしろ覚悟はいる。
綱領は日本共産党の核になる。
学生時代に入室したゼミで、筑摩書房の近代日本思想体系35『昭和思想集Ⅰ』が教材だったこともあり、戦前の日本共産党史を思想の側面からかじり、誰かが持ってきた日本共産党による「日本共産党50年史」なども読んだりして、普通の人よりは理解をしているつもりが、正直に告白すると、日本共産党の綱領を読んだのは去年である。もちろん暴力革命は否定し、議会制民主主義によって日本共産党が描く社会を実現するというアウトラインはつかんではいた。
どうして改めて綱領を読んだのかというと、里山主義という新しい保守主義を掲げるわたしが、どうして日本共産党へと心が吸い寄せられていくのか、その謎をつきとめようとしたからだ。
読んでがっかりしたことを覚えている(ブログにも書いている)。
謎を解明する手がかりが綱領になかったからだ。わたしが理解しているマルクス主義の影響が綱領には強く出ていた。資本主義発達史とそれから導かれる現状分析であり、マルクス主義のいう下部構造に偏重した、つまり土台としての経済的構造を踏み台にした展望のように思えたのである。
わたしは下部構造を重視し、下部構造から社会の姿をみる視点を否定している。全否定ではない。が、経済的基盤を偏重しただけで未来は展望できないと確信している。わたしの思い描く理想社会は、資本主義発達史の先にはないからだ。どういうことかというと、マルクスは社会主義を、資本主義が宿命としてもつ内部矛盾を止揚して生まれる必然性と、そのメカニズムを科学的に解明したのだが、要は社会主義は資本主義が発展的に姿を変えたものなのである。だから資本主義発達史なのである。
わたしは資本主義を否定している。その意味ではマルクス主義と同じ立ち位置であるが、わたしは思い描く理想社会は資本主義が発達した先にみていないのである。
資本主義が土台としてもっている世界観と価値観を問題としているのだ。経済的基盤と構造もこの世界観と価値観を色濃く反映したものとして捉えている。つまり、極論すれば下部構造は世界観と価値観によって作られ、資本主義を生み出したその価値観と世界観こそが西欧近代主義だ、と考えている。そして、資本主義が発達した先に現れる社会主義も土台としての世界観と価値観は一緒のはずだ。
こうした考えを持つわたしの心が、何故に日本共産党へと吸い寄せられていくのか、綱領を読んでも依然として謎なのである。綱領を読めば、あり得ないからだ(笑)。
綱領を読んでも分からず、むしろがっかりしたわたしの頭は白くならずに、それを通り越して無残にも抜け落ちる始末である。「日本共産党よ、わたしの大切な黒髪を返してくれ!」と悪たれをついてみても、それでも、わたしの心は日本共産党に吸い寄せられていくから不思議である。謎は深まるばかりなのである。
もしや、恋してしまった……。だから、あばたもえくぼで……。それはない(正直に告白すれば、日本共産党の高橋千鶴子には恋心のようなものを抱いているのかもしれない。女としてではない。元始の日本の母としてである)。いやしくも橋川文三の弟子である。盆暗なりに日本政治思想史を囓ってきたので、無節操に思想を信仰したり、思想を体現した者(思想家・政治家・政党等々)を神と崇めて心ごと雪崩れていくことは、頑なに戒めてきたつもりだ。だから恩師である橋川文三も平気で批判するし、橋川文三の師である丸山真男もけちょんけちょんに貶すのである。もちろん、わたしなど二人の爪の垢ほどの値打ちも価値もないことは承知である(笑)。
わたしは日本共産党の綱領には、正直がっかりした。が、わたしが観ているのは綱領ではない。日本共産党の政策であり、政治的選択であり、政治的行動であり、政治的心情である。だからわたしの心が日本共産党へと吸い寄せられていくのだろう。
わたしは現実としての日本共産党を観ているのであり、その現実としての日本共産党へと心が吸い寄せられているのである。例えば、綱領を反映しただけの日本共産党だったならば、わたしの心が吸い寄せられていくことはなかったと断言できる。
日本共産党は資本主義を否定している。
その否定は下部構造を土台として見なし、その下部構造の反映した形として捉えた資本主義の社会を否定するのか、それとも、わたしのように資本主義の社会の土台を作っている世界観と価値観を否定するのか、では意味が違っている。
どうして日本共産党は「大浦湾には龍神様が住んでいる」という純朴な信仰が息づいている沖縄の辺野古新基地反対運動を我が物としているのか、どうして経済至上主義と経済成長神話と科学万能神話と人間中心主義を否定する3・11の心と寄り添い、反原発を掲げ、反リニアを掲げているのか、そして日本農業へと熱い眼差しを向け、日本の伝統と文化への愛着を隠そうともしないのか。
こうしたことは、資本主義を下部構造からみて否定する論理では説明ができないはずだ。無理に説明しようとすれば、論理的破綻を来すものである。
わたしの妄想は、日本共産党は資本主義を、世界観と価値観の転換のレベルでの変革を射程に眺めていると告げている。
その答えは今は要らない。その時ではないからだ。日本共産党の内部に激震が走ることだろう。この歴史的瀬戸際にあってそれだけは避けなければならない。何故ならば、日本共産党が市民連合と野党共闘を繋ぐ紐帯であり、核であり、そして何処へと向かうべきかを指し示す羅針盤だからだ。
その上で提唱したいのは、日本共産党は小難しい綱領と別に、あるべき理想の未来社会を具体的に描くべきだと思う。これは2014年の総選挙の後でも提唱している。具体的な理想社会を描くことで、日本共産党へと安心して国民の心が向かうだろう。作られた悪しき日本共産党のイメージは、具体的な理想社会によって根底から払拭されるはずだ。特に日本農業と漁業、酪農と共存した社会を描き、日本の伝統と文化に根ざした暮らし方がどうその社会に反映されるのか、具体的に描くべきだ。純粋な保守の心はそれなくしては吸引出来ないし、それができれば日本共産党へと間違いなく雪崩れてくることだろう。
循環型の社会とか、自然との共生とか、文化と価値観の共存共栄とか多様性とかが盛んに言われているが、どれも空疎な言葉でしかない。経済的な意味(新自由主義)でのグローバリズムは、これらの言葉と真逆でしかなく、経済的な意味(新自由主義)での構造改革と規制緩和も真逆でしかない。民進党ばかりか、あろうことか自民党までがこれらの空疎な言葉を乱射している。裏を返せば、こうした言葉が民衆の心に芽生えてきた証なのだろう。
こうした空疎な言葉に本来の魂を入れられるとしたら、わたしは資本主義の土台を流れる世界観と価値観を転倒させない限りあり得ないと確信している。
循環型の社会というが、拡大再生産を是とし、経済成長=幸福の源泉という強迫観念にとらわれ、進歩史観を宿命としてもつ資本主義の社会では、空中楼閣でしかない。土台としての世界観であり価値観である西欧近代主義を乗り越えなくては実現できない社会だ。
保守か、リベラルか、などという従来の対立軸は無意味になった。根底からの変革が必要となるまでに、資本主義社会が病んできたからだ。末期症状なのである。その証拠が資本主義の祖先返りである新自由主義の台頭である。
日本共産党は、具体的な理想社会を描いて国民に提示するとともに、その理想社会の扉を開くための新たな対立軸を提示すべきだろう。
社会ダーウィニズムと棲み分けの思想、競争と共生、拡大と循環、排除と受容、普遍性的な統一と多神教的な個別性の尊重……などを包含したものになるのだろうか。わたしには分からない(笑)。
こうした展望をすると、「共産党サポーター制度」の意味がみえてくるのではないだろうか。
新たな対立軸を構想する上でも、直截に国民に問うことは無理があるし、またそれでは尚更みえなくなってしまう。自主的に日本共産党へと寄り添ってきたのがサポーターだ。どうして日本共産党に寄り添おうという気持ちになったのか。日本共産党に何を期待し、どういう社会を望んでいるのか、率直な意見を聞くことも可能だろう。
だからといって、サポーターの意見を鵜呑みにし、すべて反映しろなどというつもりは毛頭ない。浮き草では駄目である。サポーターには浮き草的な要素もある(笑)。そこが党員と後援会との重要な違いだ。
飽くまでも参考であり、どういう考えと心情をもつ人たちが日本共産党に親近感を抱いているのか、把握するのは政治戦略を立てる上でも不可欠となるだろう。
忘れてはならないのは、サポーターは一般的な国民と重なり合うということだ。党員と後援会は、一般的な国民とは重なり合わない。サポーターが日本共産党と一般的な国民を繋ぐ架け橋となり、日本共産党への負のイメージの払拭は元より、国民一般が日本共産党を身近に感じ始める切っ掛けになるし、親近感の拡散に繋がることだろう。
マスメディアがジャーナリズムとして機能せずに、大政翼賛報道機関にまで堕落している現状からみると、国民は事実を情報として知らされていない側面がある。情報操作によって国家権力から囲われた世界に閉じ込められているといえる。
選挙は情報戦である。小池百合子の虚像を作り上げたマスメディアの情報操作を観れば明白だし、北朝鮮の危機を煽り、株価操作でアベノミクスの成功と好景気を演出した安倍政権の情報操作でも明らかである。
こうした状況を打開するのは難しいが、SNSなどを活用した情報戦は不可欠であり、サポーターの果たす力は絶大だといえる。党員と後援会では発想できない新しいSNSの活用方法が飛び出す可能性だって否定はできない。サポーターは根無し草の要素もあるが、それだけに発想は柔軟であり、風を掴めば爆発的な威力を発揮する。
自民党のネット・サポーターは金で雇われており、それだけに受動的であり指示されたことしかしないが、日本共産党のサポーターは能動的だから、自らで工夫した情報発信を始めるだろうし、効果は計り知れない。
以上、駆け足で論じてきたが、「共産党サポーター制度」はこれからの日本共産党にとって不可欠であり、是非とも実現すべきだろう。
根無し草の要素を完全否定してはならないだろう。根無し草の要素が皆無な日本共産党だからこそ、逆説的に根無し草の要素をもった緩やかな組織が、党と後援会の外に必要なのだ!
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