「鳥越俊太郎を擁立した市民連合と野党共闘の歴史的意味」と題して三回にわたって書いてきたが、己の能力を顧みずに風呂敷を広げすぎてしまったようだ。収拾がつきそうもなくなってきた(笑)。
二つの自由主義に焦点を当てて、「鳥越俊太郎を擁立した市民連合と野党共闘の歴史的意味」を明らかにしようとしたのだが、二つの自由主義という問題を深く抉りながらその核心的な意味を、論理的に、そして解りやすく、すっきりとした形で論述するには、現時点のわたしでは無理と悟った次第なのである。
言い訳になるが、二つの自由主義の問題の核心的意味を掴んでいたつもりだったのである。が、どうもまだ頭の中がすっきりとした状態にまで整理されていなかったようだ。
二つの自由主義の問題は、わたしの唱える里山主義とも密接に関連するものであり、里山主義という思想をより深化させるためにも不可欠である。わたしの中で、二つの自由主義の問題が未だに整理されていなかったとなれば、里山主義という思想もまだ未熟な状態だということになるのだろう。
そういうわけなので、申し訳ないが、このまま二つの自由主義の問題を論じることは断念しようと思う。もう少し思索を重ねてから改めて書くつもりだ。
わたしの拙いブログを読んでくださる、絶滅危惧種ともいうべき貴重な読者の方々には、心からお詫びしたい。
しかし、手前味噌になってしまうが、二つの自由主義という問題設定は、現状の政治的混迷から抜け出し、あるべき日本の未来を展望するためには必要不可欠だと断言したい。
戦前のファシズム国家体制へと突き進もうとしている安倍晋三と自民党の政治的な意味とその目的は、二つの自由主義という視点からしか正しく捉えられないと思っているからであり、また二つの自由主義という視点に立たなければ、安倍政権と自民党の唱える自由主義に足下を掬われてしまうと思っているからである。
安倍晋三と自民党が絶対的に護持しようとしているのは、日本における資本主義体制であり、資本主義のイデオロギーとしての自由主義(=民主主義)であるが、安倍政権と自民党の打倒を合い言葉に結集した市民連合が掲げているのも、自由主義(=民主主義)なのである。
同じ自由主義であるから厄介であり、問題なのである。
わたしは、資本主義のイデオロギーとしての自由主義と、根源的な価値としての自由主義とを明確に分け、本質的に対立するものとして認識している。
しかし、同じ言葉であるから、二つの自由主義を一括りにしてごちゃ混ぜにしまっているのが現状なのではないだろうか。だから政治的混迷と、あるべき未来の光がみえない時代的閉塞感と、そして黒々としたニヒリズムとが、社会を覆い尽くしているのだろう。
二つの自由主義の本質的な違いを認識し、二つの自由主義を明確に分けることをしないから、自分の立ち位置がふらついてしまうだけではなく、自分がどこに立っているのかさえ分からなくなり、イデオロギーとしての自由主義と、根源的な価値としての自由主義の間を右往左往する、政治的混迷を引き起こす要因になっていると思っている。
そして、どうして安倍晋三のような男が祭り上げられて政治の表舞台に立っていられるのか、またどうして安倍政権と自民党と本質的な違いがない政党が雨後の竹の子のように生まれてくるのか、その理由も二つの自由主義の混同にあると思っている。
わたしは、二つの自由主義をごちゃ混ぜにして曖昧にすることによって生じる弊害を、自由主義の陥穽と呼びたい。
この自由主義の陥穽から抜け出せない限り、安倍政権と自民党の急所へと矢を打ち込むことは永遠に不可能になるだろう。自由主義で自由主義を倒すという自己矛盾に陥るからだ。
資本主義のイデオロギーとしての自由主義は、民衆を欺くために、意図的に二つの自由主義をみえなくさせているといえないだろうか。そして、自由主義は資本主義の専売特許のように民衆の意識に刷り込まれており、社会主義は全体主義であり、資本主義は自由主義(=民主主義)である、と民衆は教育によって洗脳されているのである。
ファシズムをみれば、資本主義もまた全体主義になり得ることを歴史が証明してくれている。現に安倍政権と自民党が回帰しようとしているのは、戦前のファシズム国家体制であり、紛れもない全体主義国家である。
その全体主義国家への回帰を、自由主義と民主主義の名で行おうとしているのだから、資本主義のイデオロギーとしての自由主義の本質が解ろうというものである。
安倍政権と自民党は中国と北朝鮮を、自由主義と民主主義に敵対する危険極まりない全体主義国家として名指し、そして仮想敵国として祭り上げて、国民の心に排他的で偏狭的なナショナリズムを煽っているが、安倍政権と自民党が目指す国家体制も全体主義国家だというのは笑い話にもならない。資本主義のイデオロギーとしての自由主義が、全体主義に変質し得るという本質を持っていることを、安倍政権と自民党が証明してくれているようなものである。
社会主義が全体主義ならば、資本主義もまた容易に全体主義になり得るのである。資本主義のイデオロギーとしての自由主義は、全体主義の防波堤にはならないばかりか、全体主義を呼び込む牽引役を担うことになるという事実に気づくべきである。
資本主義のイデオロギーとしての自由主義は、資本主義が危機になれば、意図的に隠していたおぞましいばかりの貌と牙を剥き出し、その自由主義の正体を晒すことになるのだろう。その正体こそがファシズムという全体主義だと、わたしはみている。
日本の資本主義が末期症状に陥っているから、安倍政権と自民党は極右政党へと変身し、巨大資本の意を汲んで、露骨な全体主義へと舵を切ったのではないだろうか。末期症状だから、巨大資本のやりたい放題の何でもありの「自由主義」を全面に押し出したのだ。武器輸出を解禁し、活路を戦争に求めたのである。
しかし、ファシズムへと至る過程は、二つの自由主義の混同を利用する形でなし崩し的に行われるから、民衆がその正体を見極めるのは困難になってくるのではないだろうか。民衆が気づいたときには既に手遅れになっているのである。
全体主義の防波堤になり得るのは、根源的な価値としての自由主義なのであるが、意図的に資本主義のイデオロギーとしての自由主義とごちゃ混ぜにされてしまっているから、根源的な価値としての自由主義が有効に全体主義の防波堤として機能できないのである。 政治的にみれば、二つの自由主義がごちゃ混ぜになった混迷の状態という様相になってしまい、ファシズムへと転がり出した全体主義勢力に対抗するための、根源的な価値としての自由主義勢力の結集を阻害することになっているのではないだろうか。
政治的混迷の中にあっては、イデオロギーとしての自由主義が垂らした釣り針にいとも簡単に食いついてしまうという悲劇が起こる。
釣り針の先には餌がついているのだが、この餌は耳障りがいい政策という餌である。
宇都宮健児のように政策を最優先すべきだと主張する「リベラル」がいるが、こうした「リベラル」が故意か、故意でないかはともかく、政治的混迷を深めているのではないかと憂慮している。
確かに政策は重要である。しかし政策では、現状の政治的混迷と、あるべき未来の光がみえない時代的閉塞感と、黒々としたニヒリズムに覆われた社会を変革する根源的な力とはなり得ない。
時代は壁にぶち当たっているのである。
その壁は、新しい可能性としての未来の社会へと歩いていくことを阻む壁である。わたしが歴史の転換期というのは、その壁の存在に気づき、その壁を壊して新しい可能性としての未来の社会へと踏み出すことができるかどうかの歴史的局面にあるという意味である。
そして、わたしが日本が歴史的分岐点に立たされているというのは、安倍政権と自民党が、戦前のファシズム国家体制へと雪崩れていこうとしているのを阻止できるかどうかの瀬戸際に立たされている意味である。
歴史の転換期は歴史的分岐点よりも、より本質的なものであり、これまでの社会を作っている土台としての価値観の転換を意味しているが、日本の現状においては、歴史の転換期と歴史的分岐点とが重なり合っているといえるのではないだろうか。
歴史の転換期に立ち塞がる壁を破壊するには、新しい時代へと入っていくための土台としての価値観が必要不可欠だと思う。
当然に、「資本主義か、それとも社会主義か」の選択の時代に終わりを告げなくてはならないはずだ。
資本主義社会でもなく、社会主義社会でもない、新しい価値が息づく社会を求めない限り未来の扉は拓かれないはずだからだ。
「資本主義か、社会主義か」の選択の時代が終わりを告げるということは、「右翼か、左翼か」の選択の時代の終焉を意味すると同時に、「保守か、革新か」の選択の時代の終焉を意味するものである。
市民連合の意味を突き詰めて考えていくと、二つの自由主義の問題に行き着くのではないだろうか。
戦争法案反対を叫びながら産声を上げた市民連合が、いつしか沖縄の辺野古新基地建設の反対運動と結び着き、そして反原発と反TPPの運動と連動した意味を、わたしは重視している。
特に沖縄の辺野古新基地建設の反対運動と一体となったことで、市民連合の意味がよりはっきりとしたと思う。
沖縄においては既に、保守と革新の色分けは意味をなさなくなっている。辺野古新基地建設の反対運動は保守と革新を超えたものだからだ。
では辺野古新基地建設の反対運動が立っている大地はどこなのだろうか。
わたしは根源的な価値としての自由主義の大地だと確信している。
沖縄の人々は、二つの自由主義をはっきりと分けたから、あるべき未来の姿を視界にとらえられたのではないだろうか。そして、安倍政権と自民党が信奉し体現している、資本主義のイデオロギーとしての自由主義ときっぱりと決別したのではないだろうか。
わたしは沖縄の辺野古で行われているのは、二つの自由主義の対立と闘争だと思っている。
市民連合に結集しているのは都市部の市民だけではない。
幟を立てた軽トラックを連ねて安保法制反対のデモを行った農民がおり、国会議事堂前にムシロ旗を掲げた農民もいた。600人に満たない山村で、安保法制反対のデモがあったという事実は、市民連合の意味を知る上で重要だろう。
そして、忘れてはならないのは、こうして立ち上がった人々の心が、沖縄の人々の心と繋がり合ったということである。
おそらく無自覚であるだろう。が、こうした人々の心を熱く燃え上がらせて、一つに繋ぎ合わせたのは根源的な価値としての自由主義ではないだろうか。
祖先が大切にしてきた美しい辺野古の海を守ろうと立ち上がった沖縄の人々の価値観と生き方は、資本主義のイデオロギーとしての自由主義の価値観と生き方と、大きな隔たりがないだろうか。
その沖縄の人々は、自由主義と民主主義を掲げているのだ。沖縄の人々が掲げる自由主義と民主主義と、安倍政権と自民党が掲げる資本主義のイデオロギーとしての自由主義と民主主義が同じもののはずはないのである。
同じものではなく本質的に違っていることを沖縄の人々が気づいているから、安倍政権と自民党は恐れているのだろう。本土にまで波及し、本土の人々が二つの自由主義をはっきりと分離して、根源的な価値としての自由主義を自覚的に掲げたら、安倍政権と自民党の命取りになるばかりか、巨大資本の意志と論理に貫かれた日本の資本主義の終わりに繋がるからだ。だから徹底的に弾圧しているのだろう。
民進党と市民連合の関係性を観察すると、二つの自由主義という視点が如何に重要かがみえてくる。
民進党が立っている自由主義の大地と、市民連合が立っている自由主義の大地は本質的に違っている、とわたしはみている。民進党の掲げる自由主義は、資本主義のイデオロギーとしての自由主義であり、市民連合が掲げる自由主義は、根源的な価値としての自由主義である。
本質的には違うのだが、西欧近代主義の黎明期に同じに生まれて、別の道を歩き出しただけに、自由主義が内包する共通の概念を共有している。だから一見すると同じに見えてしまうのだが、共通の概念であっても、本質的な意味と目的は違うものだ。
民進党には野党共闘に消極的であるばかりか、否定的な勢力が存在するが、その理由は基本的に民進党が、根源的な価値としての自由主義ではなく、資本主義のイデオロギーとしての自由主義に軸足をおいているからである。安倍政権と自民党との違いは、資本主義のイデオロギーとしての自由主義の範囲の中での立ち位置の違いだけでしかない。つまりは程度の差でしかなく、また党派の違いでしかない。
だから、資本主義のイデオロギーとしての自由主義と本質的に対立する、根源的な価値としての自由主義を本能的に拒絶するのである。
蓮舫代表が沖縄の辺野古新基地建設に前のめりであり、原発再稼働とTPPに前向きなのも納得できるはずだ。
資本主義のイデオロギーとしての自由主義と、根源的な価値としての自由主義の決定的な違いは、資本主義のイデオロギーとしての自由主義は、経済成長を何よりも最優先することであり、経済成長によってしか人間の幸福はあり得ないという妄信に取り憑かれていることだろう。つまりは資本の意志と論理を妄信しているということになる。だから経済成長の代償なら、何を失ってもいいのである。資本主義のイデオロギーとしての自由主義とは、極論すれば、資本の意志と論理が社会の隅々にまで貫徹される自由主義なのである。その自由とは、美しい海を破壊し、伝統と文化を破壊する自由であり、武器輸出を行い、戦争によって金儲けをする自由なのである。
そしてその自由は、論理的な整合性も脈絡性もないばかりか、人の命を救う薬品を作りもすれば、大量殺人のための化学兵器を同時並行的に生み出して平然としているニヒリズムに塗り潰された自由なのである。
民進党を引き合いに出したが、日本のマスメディアも同様である。日本のマスメディアのいう自由主義とは、資本主義のイデオロギーとしての自由主義でしかない。マスメディアの背後に巨大資本がいるのだから言わずもがなである。
ただ日本のマスメディアの劣化は眼を覆うものがある。戦前のマスメディアの姿を彷彿とさせるものだ。
だからといって、民進党に三行半を叩きつけるのは政治的な戦略からみれば得策ではない。
戦前のファシズム国家体制へと転がり出した安倍政権と自民党を打倒するには、哀しいことに、民進党の存在を無視できないからだ。
民進党の本質をわきまえた上で、民進党の力を活用するしかないのである。民進党も、その支持母体である連合も一枚岩ではない。中には、根源的な価値としての自由主義を信奉している者がいることも事実だろう。
自由主義を一括りにする時代は終わった!
そして、「資本主義か、社会主義か」の選択の時代は終わり、「保守か、革新か」の時代が終わり、「右翼か、左翼か」の時代は終わった!
根源的な価値としての自由主義を受け入れるか、それとも拒絶するか、この選択肢こそがあるべき喫緊の対立軸なのだろう。
その対立軸の先に、新しい可能性としての未来の社会像が問われることになるのだろう。
従来の対立軸が無意味になったのだから、従来の色分けは通じない。
日本共産党だから自由主義ではありえない、などという誤った通念は泡と消えなくてはならないはずだ。
日本共産党が否定しているのは、資本主義のイデオロギーとしての自由主義であって、本源的な価値としての自由主義ではないはずだからだ。
わたしは言葉の厳密な意味での保守主義者であるが、根源的な価値としての自由主義を受け入れている。そのわたしの眼には、日本共産党が根源的な価値としての自由主義を誰よりも尊重している政党と映るから、日本共産党を支持しているのである。
しかし、わたしは社会主義を否定している。社会主義と資本主義は双子だと思っているからである。
根源的な価値としての自由主義が息づく社会とはどのような社会なのだろうか。
資本主義の社会でも、社会主義の社会でもないだろう。どういう社会なのかは、これから構想していくべきものなのだろう。
日本共産党が想い描く社会がどのような社会なのかは知らない。が、日本共産党が現時点で立っているのは、根源的な価値としての自由主義の地点であることだけは間違いはないだろう。
だから、護憲・安保法制反対・辺野古新基地建設反対・反原発・反TPP・反リニア建設等々で一貫しているのだろう。
日本共産党はマルクス主義を堅持し、社会主義を掲げているが、日本共産党の想い描く社会主義は未だ地球上に存在しない社会であるようだ。したがって、既存の社会主義とは違うものなのだろう。
わたしの想い描く社会とは違っているのだろうが、それぞれの想い描く社会へと通じている扉を開けるために絶対に必要な、根源的な価値としての自由主義という鍵を求めていることだけは一緒であると確信している。だから熱烈に支持しているのだ。
日本共産党アレルギーは、国家権力が洗脳教育によって意図的に作り出されたものだが、そのアレルギーの核となっているのは、「社会主義は全体主義であり、資本主義は自由主義である」という念仏ではないだろうか。
日本共産党は二つの自由主義を明確化すべきだろう。
そして日本共産党こそが、根源的な価値としての自由主義を「一貫して掲げてブレない」政党であることを宣伝する必要性があるのではないだろうか。それをせずに「マルクス主義」と「社会主義」をいうから誤解を招くのだと思う。
誤解を恐れずに敢えていえば、日本共産党が政権を奪取するためには、日本共産党が想い描く未来の社会を、「社会主義社会」と規定することをやめるべきであり、どの時点のマルクスかを問わずに、ただ単に「マルクス主義」と一括りにして、すべて継承しているかのような印象から脱すべきだろう。
最後に、二つの自由主義について、現時点でのわたしの考えを素描して終わりにしたい。
二つの自由主義については、思索を深めてから改めて書くつもりだ。そして、書きかけの連載小説『三月十一日の心』の展開の中で、二つの自由主義と里山主義とを扱うつもりだ。
以下は、二つの自由主義の問題に関する殴り書きのような素描である。
素描を始めるに当たって、先ずは西欧近代主義の基本的スタンスを、大塚正之『場所の哲学―近代法思想の限界を超えて』(晃洋社)から引用したい。
「近代を特徴づけるものは、この共同体の中に埋もれていた個というものが、次第に全面に出て、実在するのは、個であり、この個がまずあって、その個が共同体を創るのであるという考え方である。
先に共同体があって個物はそこで生成死滅するというような従たる存在ではないと考える。まず個が『自我』として実在するという考え方こそ近代を特徴づけるものである。(中略)近代の最も本質的なところに、『我』の自覚があり、『我』を自覚することによって、個人というものが成立し、近代社会が成立したのである。(中略)
実在するのは、自由な意志を持った主観であり、これは身体や環境などの客観的存在とは全く別のものである。人間とは、理性による自律性と自由意思を持った主体であると位置づけられたのである。この主観と客観の二元論によって、一方で主観の自由性が確保され、他方で客観=自然は、人間の支配の対象として位置づけられた。主観が客観から自由であるが故に自由意思が実在するのである。客観は、客観的法則により、必然的に動いて行くものであるから、その法則性が分かれば、これを支配することが可能となる」
引用した西欧近代主義の基本的スタンスを下敷きにして二つの自由主義を考えると、二つの方向性がみえてくる。
少し乱暴だが単純化すれば、一つは人間の主観の中に自由主義の正当性をみる方向性と、もう一つは人間の主観の外に自由主義の正当性をみるという方向性だろう。そして更に極論すれば、人間の主観の中に自由主義の正当性をみる方向性は、資本主義のイデオロギーとしての自由主義の本質へと繋がり、人間の主観の外に自由主義の正当性をみる方向性は、根源的な価値としての自由主義の本質へと繋がっていると考えている。
天賦人権論や基本的人権、そして社会契約説と立憲主義などは、人間の主観の外にある普遍的な価値としてとらえる視点の先に生まれた思想であり、根源的な価値としての自由主義の根幹をなしている。自然法の思想もこうした視点の延長にあるのだろうが、二つの自由主義という観点からみるとどっちつかずといえるのだろうか。
では、資本主義のイデオロギーとしての自由主義の本質へと繋がる思想を辿るとどうなるのだろうか。
人間の主観の中に正当性を見出すといったが、驚くべきことに、快楽と苦痛へと収斂していくのである。快楽と苦痛が善悪を判断する基準となり、また幸福か不幸かを分かつ基準になり、道徳的基準にもなっていくのだ。
快楽と苦痛が道徳的基準になるということは、道徳と倫理の存在しない道徳的自然主義といえる。何故ならば、快楽と苦痛は人によって異なるものであり、普遍性がないからだ。
藤原保信が『自由主義の再検討』(岩波新書)で、ホッブズとロックとアダム・スミスとベンサムの思想を辿りながら、どういう形で快楽と苦痛が価値基準となるか説明しているが、わたしがまとめるよりも、長くなるがそのまま引用した方が間違いないだろう。
「(ロックの思想…ブロガー注)感覚によるにせよ内省によるにせよ、すべての観念には快楽と苦痛がともなう。いわば人間は、快楽と苦痛にしたがって、あるものを追求したり回避したりしながら、その生存を維持していくというのである。そしてここでも、かかる快楽と苦痛がそのまま善・悪と等置される。(中略)
快楽ないし快楽をもたらすものが善であり、苦痛ないし苦痛をもたらすものが悪なのであり、より大いなる快楽が幸福、より大いなる苦痛が不幸となるであろう。そしてそうであるかぎり、何が善であり何が悪であるかは人によって異なり、また同一の人物においても時と所によって異なることになる。およそ善悪は主観化され、他者と共有する善、共通善の観念は成立しえないことになる。人間は自分自身の判断にしたがって、自己保存をはかっていく存在でしかない。だがそのばあい道徳規範はどのようにして認識され、どのように作用することになるであろうか。(中略)
ロックが人間を、快楽を追求し、苦痛を回避しつつ自己保存をはかっていく存在としてとらえたとき、そこではホッブズと同じく、欲求的生を是とする価値のヒエラルヒーの転倒がみられる。そのかぎりにおいてそこに欲求の開放をみるのも間違いではないであろう。しかし同時に、欲求の実現にあたっての理性の判断と選択能力が拡大し、欲求充足への自然法的制約が働いていることもたしかである。それゆえに倫理的自然主義の成立をみることはできない。ロックが自然状態論に示したように、自然状態はすでにある種の調和がみられるとしても、それはあくまでも自然法にささえられた調和なのである。そしてそれはまた神の造った秩序への確信に支えられていたともいえる。しかしその神をも可能なかぎり人間の自然理性の解釈に委ねようとするかぎり、ロック自身の意図にかかわらず、世俗化への道をさらに進めるという性格をもっていたことは否めない。(中略)
ホッブズとロックのばあいには、たとえ価値のヒエラルヒーの転倒がもたらされ、欲求が開放されたとしても、なおもそれを外的に規制するものとしての自然法の存在が厳然として信じられていた。自然法は、たとえその認識は人間の自然的能力の正しい行使によって可能であるとしても、なおもそれは神の造った客観的掟として存在していたのである。したがって欲求と嫌悪、快楽と苦痛がそのまま社会規範となっていたわけではなかった。それが個人の行動や社会を判断する唯一の基準となっていったのは、のちの功利主義においてであった。(中略)
スミスはもはや、アリストテレス=アクィナス的であれ、ホッブズ=ロック的であれ、およそ道徳的規範が自然の秩序のうちに客観的に内在し、人間の正しい認識を通じて知りうるとは考えない。むしろそれはあくまでも、個人相互間の交通の原理としての同感を通じて得られるものである。(中略)
このような立場の相互交換による道徳世界の成立が、互換性向に基づく市場社会の論理と密接につながっていることはいうまでもないであろう。市場価格が公正価格として成立するように、かかる立場の相互交換のなかで、道徳規則が客観的なものとして成立していくともいえる。(中略)
スミスのばあいには、人間の意志に先立つ客観的な道徳的規範としての自然法の存在を認めなかった。にもかかわらず、同感という人間の自然的能力を通じてある種の道徳規則が成立し、それが人間を拘束していくことを認めたのである。神の与えた自然的能力を正しく駆使することを通じて、人間は調和的な秩序へと到達することができる。これにたいして、おおよそそのような道徳的規則を認めないのが、功利主義者ベンサムである。ベンサムにおいては、快楽と苦痛という自然的事実がそのまま肯定され、それが唯一の価値の基準となっていくのである。われわれはそこに、近代思想において開放されてきた欲求の全面的開花をみるであろう。それを道徳的自然主義とよぶこともできよう。(中略)
おおよそわれわれがなすすべてのこと、われわれが考え言うすべてのことにおいて、この快楽と苦痛が支配しているのであって、それを払いのけようとしても、それを確認するだけであるという。そしてそれは自然的事実であるのみならず、唯一の善悪の基準であるというのである。ベンサムが功利性の原理とよぶのは、まさにこのような快楽と苦痛という二つのものへの従属を認めつつ、それを思想体系の基礎とするものである。(中略)
快楽と苦痛は、人間を支配する自然的事実であるのみならず、善悪を判断する道徳的基準でもある。それに適合した行為は正しい行為であり、それに適合しない行為は正しくない行為である。その意味ではそれは人びとの道徳的行為原則であるが、同時にそれは立法の原理であり、政府の政策を判断する基準でもある。いわば立法の目的は快楽を増大させ苦痛を減少させること以外にはない。立法の善し悪しはこれによって判断される」
長くなってしまったので、終わりにしたい。
改めて二つの自由主義を論じるときに、快楽と苦痛が価値基準となっている社会について書きたいと思う。
ただ言えることは、快楽という欲求は、商品へと向かう欲望と容易に結び着くということだ。そして、商品へと向かう欲望は、意図的に社会によって作り出されるものである。資本主義社会とは、正しくそうした社会である。快楽までが社会的に操られている中で、快楽を価値基準にするという危うさはいうまでもない。
商品へと向かう欲望と一体化した快楽とは、方向性もなければ整合性も脈絡性もなく、目的もない。倫理的自然主義の状態であり、ニヒリズムを宿しているといえるだろう。
ポケモンGOの現象は象徴的である。
ゲームに打ち興じることが快楽となり、その快楽を求めて、群衆が車道にまで溢れかえる社会である。
ゲームをして遊んでいるのか、ゲームに遊ばされているのか、どちらなのだろうか。商品としてのゲームの世界に快楽を見出す生とは、主体的な生なのか、それとも資本に弄ばれている受動的な生なのか、果たしてどちらの生なのだろうか。
論理的な整合性もなく、脈絡性もなく、方向性もなく、倫理性もなく、目的もない快楽が価値基準となり、そして政治までを動かしていく社会を、どうみればいいのだろうか。
蛇足になるが、わたしの唱える里山主義は、西欧近代主義の主観と客観の二元論を否定するものである。
※『里山主義文学』という名のブログに、連載小説『三月十一日の心』を転載しました。読んでいただければ幸いです。連載1回目です。
※小説はキンドル版の電子書籍として出版しています。
※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます。 |
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