「北林あずみ」のblog

2016年09月

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「鳥越俊太郎を擁立した市民連合と野党共闘の歴史的意味」と題して三回にわたって書いてきたが、己の能力を顧みずに風呂敷を広げすぎてしまったようだ。収拾がつきそうもなくなってきた(笑)。
 二つの自由主義に焦点を当てて、「鳥越俊太郎を擁立した市民連合と野党共闘の歴史的意味」を明らかにしようとしたのだが、二つの自由主義という問題を深く抉りながらその核心的な意味を、論理的に、そして解りやすく、すっきりとした形で論述するには、現時点のわたしでは無理と悟った次第なのである。
 言い訳になるが、二つの自由主義の問題の核心的意味を掴んでいたつもりだったのである。が、どうもまだ頭の中がすっきりとした状態にまで整理されていなかったようだ。
 二つの自由主義の問題は、わたしの唱える里山主義とも密接に関連するものであり、里山主義という思想をより深化させるためにも不可欠である。わたしの中で、二つの自由主義の問題が未だに整理されていなかったとなれば、里山主義という思想もまだ未熟な状態だということになるのだろう。
 そういうわけなので、申し訳ないが、このまま二つの自由主義の問題を論じることは断念しようと思う。もう少し思索を重ねてから改めて書くつもりだ。
 わたしの拙いブログを読んでくださる、絶滅危惧種ともいうべき貴重な読者の方々には、心からお詫びしたい。

 しかし、手前味噌になってしまうが、二つの自由主義という問題設定は、現状の政治的混迷から抜け出し、あるべき日本の未来を展望するためには必要不可欠だと断言したい。
 戦前のファシズム国家体制へと突き進もうとしている安倍晋三と自民党の政治的な意味とその目的は、二つの自由主義という視点からしか正しく捉えられないと思っているからであり、また二つの自由主義という視点に立たなければ、安倍政権と自民党の唱える自由主義に足下を掬われてしまうと思っているからである。
 安倍晋三と自民党が絶対的に護持しようとしているのは、日本における資本主義体制であり、資本主義のイデオロギーとしての自由主義(=民主主義)であるが、安倍政権と自民党の打倒を合い言葉に結集した市民連合が掲げているのも、自由主義(=民主主義)なのである。
 同じ自由主義であるから厄介であり、問題なのである。
 わたしは、資本主義のイデオロギーとしての自由主義と、根源的な価値としての自由主義とを明確に分け、本質的に対立するものとして認識している。
 しかし、同じ言葉であるから、二つの自由主義を一括りにしてごちゃ混ぜにしまっているのが現状なのではないだろうか。だから政治的混迷と、あるべき未来の光がみえない時代的閉塞感と、そして黒々としたニヒリズムとが、社会を覆い尽くしているのだろう。
 二つの自由主義の本質的な違いを認識し、二つの自由主義を明確に分けることをしないから、自分の立ち位置がふらついてしまうだけではなく、自分がどこに立っているのかさえ分からなくなり、イデオロギーとしての自由主義と、根源的な価値としての自由主義の間を右往左往する、政治的混迷を引き起こす要因になっていると思っている。
 そして、どうして安倍晋三のような男が祭り上げられて政治の表舞台に立っていられるのか、またどうして安倍政権と自民党と本質的な違いがない政党が雨後の竹の子のように生まれてくるのか、その理由も二つの自由主義の混同にあると思っている。
 
 わたしは、二つの自由主義をごちゃ混ぜにして曖昧にすることによって生じる弊害を、自由主義の陥穽と呼びたい。
 この自由主義の陥穽から抜け出せない限り、安倍政権と自民党の急所へと矢を打ち込むことは永遠に不可能になるだろう。自由主義で自由主義を倒すという自己矛盾に陥るからだ。
 資本主義のイデオロギーとしての自由主義は、民衆を欺くために、意図的に二つの自由主義をみえなくさせているといえないだろうか。そして、自由主義は資本主義の専売特許のように民衆の意識に刷り込まれており、社会主義は全体主義であり、資本主義は自由主義(=民主主義)である、と民衆は教育によって洗脳されているのである。
 ファシズムをみれば、資本主義もまた全体主義になり得ることを歴史が証明してくれている。現に安倍政権と自民党が回帰しようとしているのは、戦前のファシズム国家体制であり、紛れもない全体主義国家である。
 その全体主義国家への回帰を、自由主義と民主主義の名で行おうとしているのだから、資本主義のイデオロギーとしての自由主義の本質が解ろうというものである。
 安倍政権と自民党は中国と北朝鮮を、自由主義と民主主義に敵対する危険極まりない全体主義国家として名指し、そして仮想敵国として祭り上げて、国民の心に排他的で偏狭的なナショナリズムを煽っているが、安倍政権と自民党が目指す国家体制も全体主義国家だというのは笑い話にもならない。資本主義のイデオロギーとしての自由主義が、全体主義に変質し得るという本質を持っていることを、安倍政権と自民党が証明してくれているようなものである。
 社会主義が全体主義ならば、資本主義もまた容易に全体主義になり得るのである。資本主義のイデオロギーとしての自由主義は、全体主義の防波堤にはならないばかりか、全体主義を呼び込む牽引役を担うことになるという事実に気づくべきである。
 資本主義のイデオロギーとしての自由主義は、資本主義が危機になれば、意図的に隠していたおぞましいばかりの貌と牙を剥き出し、その自由主義の正体を晒すことになるのだろう。その正体こそがファシズムという全体主義だと、わたしはみている。
 日本の資本主義が末期症状に陥っているから、安倍政権と自民党は極右政党へと変身し、巨大資本の意を汲んで、露骨な全体主義へと舵を切ったのではないだろうか。末期症状だから、巨大資本のやりたい放題の何でもありの「自由主義」を全面に押し出したのだ。武器輸出を解禁し、活路を戦争に求めたのである。
 しかし、ファシズムへと至る過程は、二つの自由主義の混同を利用する形でなし崩し的に行われるから、民衆がその正体を見極めるのは困難になってくるのではないだろうか。民衆が気づいたときには既に手遅れになっているのである。
 全体主義の防波堤になり得るのは、根源的な価値としての自由主義なのであるが、意図的に資本主義のイデオロギーとしての自由主義とごちゃ混ぜにされてしまっているから、根源的な価値としての自由主義が有効に全体主義の防波堤として機能できないのである。
 政治的にみれば、二つの自由主義がごちゃ混ぜになった混迷の状態という様相になってしまい、ファシズムへと転がり出した全体主義勢力に対抗するための、根源的な価値としての自由主義勢力の結集を阻害することになっているのではないだろうか。

 政治的混迷の中にあっては、イデオロギーとしての自由主義が垂らした釣り針にいとも簡単に食いついてしまうという悲劇が起こる。
 釣り針の先には餌がついているのだが、この餌は耳障りがいい政策という餌である。
 宇都宮健児のように政策を最優先すべきだと主張する「リベラル」がいるが、こうした「リベラル」が故意か、故意でないかはともかく、政治的混迷を深めているのではないかと憂慮している。
 確かに政策は重要である。しかし政策では、現状の政治的混迷と、あるべき未来の光がみえない時代的閉塞感と、黒々としたニヒリズムに覆われた社会を変革する根源的な力とはなり得ない。
 時代は壁にぶち当たっているのである。
 その壁は、新しい可能性としての未来の社会へと歩いていくことを阻む壁である。わたしが歴史の転換期というのは、その壁の存在に気づき、その壁を壊して新しい可能性としての未来の社会へと踏み出すことができるかどうかの歴史的局面にあるという意味である。
 そして、わたしが日本が歴史的分岐点に立たされているというのは、安倍政権と自民党が、戦前のファシズム国家体制へと雪崩れていこうとしているのを阻止できるかどうかの瀬戸際に立たされている意味である。
 歴史の転換期は歴史的分岐点よりも、より本質的なものであり、これまでの社会を作っている土台としての価値観の転換を意味しているが、日本の現状においては、歴史の転換期と歴史的分岐点とが重なり合っているといえるのではないだろうか。
 歴史の転換期に立ち塞がる壁を破壊するには、新しい時代へと入っていくための土台としての価値観が必要不可欠だと思う。
 当然に、「資本主義か、それとも社会主義か」の選択の時代に終わりを告げなくてはならないはずだ。
 資本主義社会でもなく、社会主義社会でもない、新しい価値が息づく社会を求めない限り未来の扉は拓かれないはずだからだ。
「資本主義か、社会主義か」の選択の時代が終わりを告げるということは、「右翼か、左翼か」の選択の時代の終焉を意味すると同時に、「保守か、革新か」の選択の時代の終焉を意味するものである。

 市民連合の意味を突き詰めて考えていくと、二つの自由主義の問題に行き着くのではないだろうか。
 戦争法案反対を叫びながら産声を上げた市民連合が、いつしか沖縄の辺野古新基地建設の反対運動と結び着き、そして反原発と反TPPの運動と連動した意味を、わたしは重視している。
 特に沖縄の辺野古新基地建設の反対運動と一体となったことで、市民連合の意味がよりはっきりとしたと思う。
 沖縄においては既に、保守と革新の色分けは意味をなさなくなっている。辺野古新基地建設の反対運動は保守と革新を超えたものだからだ。
 では辺野古新基地建設の反対運動が立っている大地はどこなのだろうか。
 わたしは根源的な価値としての自由主義の大地だと確信している。
 沖縄の人々は、二つの自由主義をはっきりと分けたから、あるべき未来の姿を視界にとらえられたのではないだろうか。そして、安倍政権と自民党が信奉し体現している、資本主義のイデオロギーとしての自由主義ときっぱりと決別したのではないだろうか。
 わたしは沖縄の辺野古で行われているのは、二つの自由主義の対立と闘争だと思っている。
 市民連合に結集しているのは都市部の市民だけではない。
 幟を立てた軽トラックを連ねて安保法制反対のデモを行った農民がおり、国会議事堂前にムシロ旗を掲げた農民もいた。600人に満たない山村で、安保法制反対のデモがあったという事実は、市民連合の意味を知る上で重要だろう。
 そして、忘れてはならないのは、こうして立ち上がった人々の心が、沖縄の人々の心と繋がり合ったということである。
 おそらく無自覚であるだろう。が、こうした人々の心を熱く燃え上がらせて、一つに繋ぎ合わせたのは根源的な価値としての自由主義ではないだろうか。
 祖先が大切にしてきた美しい辺野古の海を守ろうと立ち上がった沖縄の人々の価値観と生き方は、資本主義のイデオロギーとしての自由主義の価値観と生き方と、大きな隔たりがないだろうか。
 その沖縄の人々は、自由主義と民主主義を掲げているのだ。沖縄の人々が掲げる自由主義と民主主義と、安倍政権と自民党が掲げる資本主義のイデオロギーとしての自由主義と民主主義が同じもののはずはないのである。
 同じものではなく本質的に違っていることを沖縄の人々が気づいているから、安倍政権と自民党は恐れているのだろう。本土にまで波及し、本土の人々が二つの自由主義をはっきりと分離して、根源的な価値としての自由主義を自覚的に掲げたら、安倍政権と自民党の命取りになるばかりか、巨大資本の意志と論理に貫かれた日本の資本主義の終わりに繋がるからだ。だから徹底的に弾圧しているのだろう。
 
 民進党と市民連合の関係性を観察すると、二つの自由主義という視点が如何に重要かがみえてくる。
 民進党が立っている自由主義の大地と、市民連合が立っている自由主義の大地は本質的に違っている、とわたしはみている。民進党の掲げる自由主義は、資本主義のイデオロギーとしての自由主義であり、市民連合が掲げる自由主義は、根源的な価値としての自由主義である。
 本質的には違うのだが、西欧近代主義の黎明期に同じに生まれて、別の道を歩き出しただけに、自由主義が内包する共通の概念を共有している。だから一見すると同じに見えてしまうのだが、共通の概念であっても、本質的な意味と目的は違うものだ。
 民進党には野党共闘に消極的であるばかりか、否定的な勢力が存在するが、その理由は基本的に民進党が、根源的な価値としての自由主義ではなく、資本主義のイデオロギーとしての自由主義に軸足をおいているからである。安倍政権と自民党との違いは、資本主義のイデオロギーとしての自由主義の範囲の中での立ち位置の違いだけでしかない。つまりは程度の差でしかなく、また党派の違いでしかない。
 だから、資本主義のイデオロギーとしての自由主義と本質的に対立する、根源的な価値としての自由主義を本能的に拒絶するのである。
 蓮舫代表が沖縄の辺野古新基地建設に前のめりであり、原発再稼働とTPPに前向きなのも納得できるはずだ。
 資本主義のイデオロギーとしての自由主義と、根源的な価値としての自由主義の決定的な違いは、資本主義のイデオロギーとしての自由主義は、経済成長を何よりも最優先することであり、経済成長によってしか人間の幸福はあり得ないという妄信に取り憑かれていることだろう。つまりは資本の意志と論理を妄信しているということになる。だから経済成長の代償なら、何を失ってもいいのである。資本主義のイデオロギーとしての自由主義とは、極論すれば、資本の意志と論理が社会の隅々にまで貫徹される自由主義なのである。その自由とは、美しい海を破壊し、伝統と文化を破壊する自由であり、武器輸出を行い、戦争によって金儲けをする自由なのである。
 そしてその自由は、論理的な整合性も脈絡性もないばかりか、人の命を救う薬品を作りもすれば、大量殺人のための化学兵器を同時並行的に生み出して平然としているニヒリズムに塗り潰された自由なのである。

 民進党を引き合いに出したが、日本のマスメディアも同様である。日本のマスメディアのいう自由主義とは、資本主義のイデオロギーとしての自由主義でしかない。マスメディアの背後に巨大資本がいるのだから言わずもがなである。
 ただ日本のマスメディアの劣化は眼を覆うものがある。戦前のマスメディアの姿を彷彿とさせるものだ。
 だからといって、民進党に三行半を叩きつけるのは政治的な戦略からみれば得策ではない。
 戦前のファシズム国家体制へと転がり出した安倍政権と自民党を打倒するには、哀しいことに、民進党の存在を無視できないからだ。
 民進党の本質をわきまえた上で、民進党の力を活用するしかないのである。民進党も、その支持母体である連合も一枚岩ではない。中には、根源的な価値としての自由主義を信奉している者がいることも事実だろう。

 自由主義を一括りにする時代は終わった!
 そして、「資本主義か、社会主義か」の選択の時代は終わり、「保守か、革新か」の時代が終わり、「右翼か、左翼か」の時代は終わった!
 根源的な価値としての自由主義を受け入れるか、それとも拒絶するか、この選択肢こそがあるべき喫緊の対立軸なのだろう。
 その対立軸の先に、新しい可能性としての未来の社会像が問われることになるのだろう。
 従来の対立軸が無意味になったのだから、従来の色分けは通じない。
 日本共産党だから自由主義ではありえない、などという誤った通念は泡と消えなくてはならないはずだ。
 日本共産党が否定しているのは、資本主義のイデオロギーとしての自由主義であって、本源的な価値としての自由主義ではないはずだからだ。
 わたしは言葉の厳密な意味での保守主義者であるが、根源的な価値としての自由主義を受け入れている。そのわたしの眼には、日本共産党が根源的な価値としての自由主義を誰よりも尊重している政党と映るから、日本共産党を支持しているのである。
 しかし、わたしは社会主義を否定している。社会主義と資本主義は双子だと思っているからである。
 根源的な価値としての自由主義が息づく社会とはどのような社会なのだろうか。
 資本主義の社会でも、社会主義の社会でもないだろう。どういう社会なのかは、これから構想していくべきものなのだろう。
 日本共産党が想い描く社会がどのような社会なのかは知らない。が、日本共産党が現時点で立っているのは、根源的な価値としての自由主義の地点であることだけは間違いはないだろう。
 だから、護憲・安保法制反対・辺野古新基地建設反対・反原発・反TPP・反リニア建設等々で一貫しているのだろう。
 日本共産党はマルクス主義を堅持し、社会主義を掲げているが、日本共産党の想い描く社会主義は未だ地球上に存在しない社会であるようだ。したがって、既存の社会主義とは違うものなのだろう。
 わたしの想い描く社会とは違っているのだろうが、それぞれの想い描く社会へと通じている扉を開けるために絶対に必要な、根源的な価値としての自由主義という鍵を求めていることだけは一緒であると確信している。だから熱烈に支持しているのだ。
 日本共産党アレルギーは、国家権力が洗脳教育によって意図的に作り出されたものだが、そのアレルギーの核となっているのは、「社会主義は全体主義であり、資本主義は自由主義である」という念仏ではないだろうか。
 日本共産党は二つの自由主義を明確化すべきだろう。
 そして日本共産党こそが、根源的な価値としての自由主義を「一貫して掲げてブレない」政党であることを宣伝する必要性があるのではないだろうか。それをせずに「マルクス主義」と「社会主義」をいうから誤解を招くのだと思う。
 誤解を恐れずに敢えていえば、日本共産党が政権を奪取するためには、日本共産党が想い描く未来の社会を、「社会主義社会」と規定することをやめるべきであり、どの時点のマルクスかを問わずに、ただ単に「マルクス主義」と一括りにして、すべて継承しているかのような印象から脱すべきだろう。

 最後に、二つの自由主義について、現時点でのわたしの考えを素描して終わりにしたい。
 二つの自由主義については、思索を深めてから改めて書くつもりだ。そして、書きかけの連載小説『三月十一日の心』の展開の中で、二つの自由主義と里山主義とを扱うつもりだ。
 以下は、二つの自由主義の問題に関する殴り書きのような素描である。

 素描を始めるに当たって、先ずは西欧近代主義の基本的スタンスを、大塚正之『場所の哲学―近代法思想の限界を超えて』(晃洋社)から引用したい。

「近代を特徴づけるものは、この共同体の中に埋もれていた個というものが、次第に全面に出て、実在するのは、個であり、この個がまずあって、その個が共同体を創るのであるという考え方である。
 先に共同体があって個物はそこで生成死滅するというような従たる存在ではないと考える。まず個が『自我』として実在するという考え方こそ近代を特徴づけるものである。(中略)近代の最も本質的なところに、『我』の自覚があり、『我』を自覚することによって、個人というものが成立し、近代社会が成立したのである。(中略)
 実在するのは、自由な意志を持った主観であり、これは身体や環境などの客観的存在とは全く別のものである。人間とは、理性による自律性と自由意思を持った主体であると位置づけられたのである。この主観と客観の二元論によって、一方で主観の自由性が確保され、他方で客観=自然は、人間の支配の対象として位置づけられた。主観が客観から自由であるが故に自由意思が実在するのである。客観は、客観的法則により、必然的に動いて行くものであるから、その法則性が分かれば、これを支配することが可能となる

 引用した西欧近代主義の基本的スタンスを下敷きにして二つの自由主義を考えると、二つの方向性がみえてくる。
 少し乱暴だが単純化すれば、一つは人間の主観の中に自由主義の正当性をみる方向性と、もう一つは人間の主観の外に自由主義の正当性をみるという方向性だろう。そして更に極論すれば、人間の主観の中に自由主義の正当性をみる方向性は、資本主義のイデオロギーとしての自由主義の本質へと繋がり、人間の主観の外に自由主義の正当性をみる方向性は、根源的な価値としての自由主義の本質へと繋がっていると考えている。
 天賦人権論や基本的人権、そして社会契約説と立憲主義などは、人間の主観の外にある普遍的な価値としてとらえる視点の先に生まれた思想であり、根源的な価値としての自由主義の根幹をなしている。自然法の思想もこうした視点の延長にあるのだろうが、二つの自由主義という観点からみるとどっちつかずといえるのだろうか。
 
 では、資本主義のイデオロギーとしての自由主義の本質へと繋がる思想を辿るとどうなるのだろうか。
 人間の主観の中に正当性を見出すといったが、驚くべきことに、快楽と苦痛へと収斂していくのである。快楽と苦痛が善悪を判断する基準となり、また幸福か不幸かを分かつ基準になり、道徳的基準にもなっていくのだ。
 快楽と苦痛が道徳的基準になるということは、道徳と倫理の存在しない道徳的自然主義といえる。何故ならば、快楽と苦痛は人によって異なるものであり、普遍性がないからだ。
 藤原保信が『自由主義の再検討』(岩波新書)で、ホッブズとロックとアダム・スミスとベンサムの思想を辿りながら、どういう形で快楽と苦痛が価値基準となるか説明しているが、わたしがまとめるよりも、長くなるがそのまま引用した方が間違いないだろう。
 
(ロックの思想…ブロガー注)感覚によるにせよ内省によるにせよ、すべての観念には快楽と苦痛がともなう。いわば人間は、快楽と苦痛にしたがって、あるものを追求したり回避したりしながら、その生存を維持していくというのである。そしてここでも、かかる快楽と苦痛がそのまま善・悪と等置される。(中略)
 快楽ないし快楽をもたらすものが善であり、苦痛ないし苦痛をもたらすものが悪なのであり、より大いなる快楽が幸福、より大いなる苦痛が不幸となるであろう。そしてそうであるかぎり、何が善であり何が悪であるかは人によって異なり、また同一の人物においても時と所によって異なることになる。およそ善悪は主観化され、他者と共有する善、共通善の観念は成立しえないことになる。人間は自分自身の判断にしたがって、自己保存をはかっていく存在でしかない。だがそのばあい道徳規範はどのようにして認識され、どのように作用することになるであろうか。(中略)
 ロックが人間を、快楽を追求し、苦痛を回避しつつ自己保存をはかっていく存在としてとらえたとき、そこではホッブズと同じく、欲求的生を是とする価値のヒエラルヒーの転倒がみられる。そのかぎりにおいてそこに欲求の開放をみるのも間違いではないであろう。しかし同時に、欲求の実現にあたっての理性の判断と選択能力が拡大し、欲求充足への自然法的制約が働いていることもたしかである。それゆえに倫理的自然主義の成立をみることはできない。ロックが自然状態論に示したように、自然状態はすでにある種の調和がみられるとしても、それはあくまでも自然法にささえられた調和なのである。そしてそれはまた神の造った秩序への確信に支えられていたともいえる。しかしその神をも可能なかぎり人間の自然理性の解釈に委ねようとするかぎり、ロック自身の意図にかかわらず、世俗化への道をさらに進めるという性格をもっていたことは否めない。(中略)
 ホッブズとロックのばあいには、たとえ価値のヒエラルヒーの転倒がもたらされ、欲求が開放されたとしても、なおもそれを外的に規制するものとしての自然法の存在が厳然として信じられていた。自然法は、たとえその認識は人間の自然的能力の正しい行使によって可能であるとしても、なおもそれは神の造った客観的掟として存在していたのである。したがって欲求と嫌悪、快楽と苦痛がそのまま社会規範となっていたわけではなかった。それが個人の行動や社会を判断する唯一の基準となっていったのは、のちの功利主義においてであった。(中略)
 スミスはもはや、アリストテレス=アクィナス的であれ、ホッブズ=ロック的であれ、およそ道徳的規範が自然の秩序のうちに客観的に内在し、人間の正しい認識を通じて知りうるとは考えない。むしろそれはあくまでも、個人相互間の交通の原理としての同感を通じて得られるものである。(中略)
 このような立場の相互交換による道徳世界の成立が、互換性向に基づく市場社会の論理と密接につながっていることはいうまでもないであろう。市場価格が公正価格として成立するように、かかる立場の相互交換のなかで、道徳規則が客観的なものとして成立していくともいえる。(中略)
 スミスのばあいには、人間の意志に先立つ客観的な道徳的規範としての自然法の存在を認めなかった。にもかかわらず、同感という人間の自然的能力を通じてある種の道徳規則が成立し、それが人間を拘束していくことを認めたのである。神の与えた自然的能力を正しく駆使することを通じて、人間は調和的な秩序へと到達することができる。これにたいして、おおよそそのような道徳的規則を認めないのが、功利主義者ベンサムである。ベンサムにおいては、快楽と苦痛という自然的事実がそのまま肯定され、それが唯一の価値の基準となっていくのである。われわれはそこに、近代思想において開放されてきた欲求の全面的開花をみるであろう。それを道徳的自然主義とよぶこともできよう。(中略)
 おおよそわれわれがなすすべてのこと、われわれが考え言うすべてのことにおいて、この快楽と苦痛が支配しているのであって、それを払いのけようとしても、それを確認するだけであるという。そしてそれは自然的事実であるのみならず、唯一の善悪の基準であるというのである。ベンサムが功利性の原理とよぶのは、まさにこのような快楽と苦痛という二つのものへの従属を認めつつ、それを思想体系の基礎とするものである。(中略)
 快楽と苦痛は、人間を支配する自然的事実であるのみならず、善悪を判断する道徳的基準でもある。それに適合した行為は正しい行為であり、それに適合しない行為は正しくない行為である。その意味ではそれは人びとの道徳的行為原則であるが、同時にそれは立法の原理であり、政府の政策を判断する基準でもある。いわば立法の目的は快楽を増大させ苦痛を減少させること以外にはない。立法の善し悪しはこれによって判断される」

 長くなってしまったので、終わりにしたい。
 改めて二つの自由主義を論じるときに、快楽と苦痛が価値基準となっている社会について書きたいと思う。
 ただ言えることは、快楽という欲求は、商品へと向かう欲望と容易に結び着くということだ。そして、商品へと向かう欲望は、意図的に社会によって作り出されるものである。資本主義社会とは、正しくそうした社会である。快楽までが社会的に操られている中で、快楽を価値基準にするという危うさはいうまでもない。
 商品へと向かう欲望と一体化した快楽とは、方向性もなければ整合性も脈絡性もなく、目的もない。倫理的自然主義の状態であり、ニヒリズムを宿しているといえるだろう。
 ポケモンGOの現象は象徴的である。
 ゲームに打ち興じることが快楽となり、その快楽を求めて、群衆が車道にまで溢れかえる社会である。
 ゲームをして遊んでいるのか、ゲームに遊ばされているのか、どちらなのだろうか。商品としてのゲームの世界に快楽を見出す生とは、主体的な生なのか、それとも資本に弄ばれている受動的な生なのか、果たしてどちらの生なのだろうか。
 論理的な整合性もなく、脈絡性もなく、方向性もなく、倫理性もなく、目的もない快楽が価値基準となり、そして政治までを動かしていく社会を、どうみればいいのだろうか。
 蛇足になるが、わたしの唱える里山主義は、西欧近代主義の主観と客観の二元論を否定するものである。

※『里山主義文学』という名のブログに、連載小説『三月十一日の心』を転載しました。読んでいただければ幸いです。連載1回目です。

※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます。

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 中途で放り投げてあった標題の続きを一ヶ月ぶりに書くことにします。
 猛暑の中での肉体労働(草刈り)は辛いものがあります。正直、62の齢を重ねた身にはこたえます(笑)。
 続きを書こうと思ってはみても、パソコンに向かっても疲れからか、筆が一向に進まず、直ぐに眠くなってしまったりする体たらくぶりでした。また借りている畑の世話もしなくてはならず、最近はTwitterもしておりません。
 ブログで連載している小説『三月十一日の心』も滞っています。かれこれ一年近くになります。一日中、小説とブログを書いていられる生活が理想ですが、兎角にこの世はままなりません。できれば、美しい山並みが望める田舎にでも移住して執筆三昧に明け暮れたいものだ、としみじみ思う今日この頃……。
 雨が降り続いています。季節の移ろいを教えてくれるかのように、しとしとと降っています。雨のおかげで肉体労働は休みです。ブログを書く気になったのも、秋を告げる雨の所為かもしれません。
 愚痴はこの辺りにして、それでは本題へと移ります。


 前回のブログに引き続き、政治か、それとも経済か」という問題設定に沿って、更に突っ込んで考察してみたい。この考察が自由主義の本質と陥穽に肉迫するための近道だと思っているからだ。
 恥ずかしいことに、わたしはまだハンナ・アレントを深く読み込んでいない。西欧近代主義を乗り越える可能性を探っていたわたしの問題意識からみると、西欧近代主義が全体主義に陥る必然性を内包していることを剔抉するアレントの論理に、真新しい独創性を感じられなかったからだが、それはわたしの読みが浅かった何よりの証左であるのだろう。今になって恥じている。
 しかし誤解を恐れずにいうと、資本の意志と論理を突き詰めていけば、資本主義は絶えざる政治の破壊と、社会構造の破壊と、そして社会秩序の破壊によらなければ成立し得ないという本質まで辿り着くのに、それほどの労苦はいらないのではないか、と思っている。現にわたしのような盆暗でもその本質にまで辿り着けたからだ。
 資本は貪欲に成長する意志をもっている。その成長は、商品の拡大再生産と、商品の需要を喚起するための欲望を社会が拡大再生産していくことなしには不可能である。そしてもう一つの道は、商品の販路の拡大を求めて新たな市場を貪欲に開拓していくことに繋がってくる。

 次から次へ拡大再生産的に欲望を生み出していく社会とは、どんな社会なのだろうか。
 欲望を押さえ込むような社会であるはずがない。
 欲望を満足させることを肯定的にみる社会であり、欲望を満足させることに価値を見出し、また幸福を見出す社会なのではないだろうか。
 そうなると当然に欲望というものが問題となってくる。
 欲望とは何だろうか。
 資本主義社会における欲望とは、商品を消費することと同義になってしまっているのではないだろうか。
 欲望が商品に向かうように方向付けられている社会だと、わたしは思っている。資本の意志と論理によって、欲望がそうしたものとしてしかあり得ない社会に意図的に変えられてしまっているのである。幸福観も同様である。欲望の対象である商品をどれだけ消費し、その消費にどれだけの満足を得るかが幸福のバロメーターになってしまっているのだ。欲望と商品と消費と幸福観とが一体となっているといえないだろうか。だから、あらゆるものが商品化される。恋愛も性までも商品とされてしまう社会なのである。

 消費を考える場合に、バタイユの視点は重要である。
 バタイユのいう消費とは、資本主義社会における商品へと向かう消費とは本質的に違うからだ。したがって欲望の意味も違えば、幸福観も違ってくることになる。
 バタイユの消費については、過去にブログで何度か書いたので、興味がある方はそちらを読んでいただきたいのだが、一点だけ触れておくと、欲望が生み出される本源的な所在が違っているという点である。
 資本主義社会においては商品の持続的な拡大再生産を可能とする目的で、商品を消費しようとする欲望が社会的に創出されるのに対して、バタイユのいう欲望は自由人としての個人の存在を源泉として創出されるという違いがある。資本主義社会における欲望が受動的だとすれば、バタイユのいう欲望は能動的だといえるのだろう。だから受動的に欲望を消費することに幸福を見出し得ないのである。欲望が社会的に創り出された単なる商品の消費で満足させられるように飼い慣らされているにすぎないからだ。
 
 資本主義社会が作り出す欲望を考えてみたい。
 欲望に飽和があっては、商品の拡大再生産は覚束ない。そして、欲望が一つの商品を消費することで満足されてしまっても商品の拡大再生産は不可能である。また同じ商品の消費は、直ぐに飽きられてしまう。
 そうしたことを回避するには、新しい商品を次々と生み出し、その商品へと欲望を誘導していかなくてはならなくなる。新しい商品は技術革新による画期的な機能的違いによるものもあれば、単なるデザインの違いのレベルのものまで多種多様である。多種多様な商品に合ったような欲望の誘導術が必要となるのだろう。その役目を担っているのがマスメディアである。
 スーツを例に挙げれば、買い換えを喚起するために、目まぐるしいデザイン変更があり、流行を意図的に作りあげている。襟の形と大きさを変えたり、ボタンの数を変えたり、身体にぴったりしたデザインが流行ったかと思えば、身体にゆったりとしたデザインが主流となったりするのだが、その流行に逆らっていると、何となく自分が時代に取り残された見窄らしい存在に思えてくるから不思議である(笑)。
 欲望自体に能動性があるとは到底思えない。社会によって意図的に作られ、意図的に煽られた欲望を、あたかも自分自身の欲望であるかのように思い込まされて消費しているだけなのではないだろうか。
 もう一度、資本主義社会が次々と欲望を意図的に作り出す目的を確認しておこう。
 商品を拡大再生産し、経済成長を続けていくことが目的である。そして、それが資本の意志であり論理なのである。
 そうだとすると、その目的のために創出される欲望それ自体に方向性があり、目的があるのだろうか。欲望それ自体には方向性もなく、目的もないといえるのではないだろうか。瞬時に欲望が消費されていき、直ぐに新たな欲望に心変わりしていくように仕向けられているのではないだろうか。欲望と欲望との間に整合性もなければ脈絡性もないのである。細切れになった欲望だといえるだろうし、その細切れになった欲望の消費も、細切れになった消費だといえないだろうか。
 細切れになった欲望に整合性もなく、脈絡性もなく、方向性もなく、目的もないとすれば、そうした欲望を生み出す資本主義社会もまた、整合性もなく、脈絡性もなく、方向性がなく、目的(=理想としての社会像)もないといえると思う。
 根無し草となって、欲望の海原を当て所なく漂っていくだけなのである。根があってはならないのだ。その根が欲望を抑制するように作用するからである。資本主義が絶えざる政治の破壊と、社会構造の破壊と、そして社会秩序の破壊によらなければ成立し得ないという本質をもっているというのは、こうした理由からだ。
 確かに、資本主義社会には商品を拡大再生産し、永続的に経済成長を続けていくという本質的な目的がある。しかし、この本質的な目的は、社会における整合性と、脈絡性と、方向性とを無視する性向があるといえないだろうか。整合性と脈絡性と方向性があっては、欲望を創出する上で足かせになってしまうからだ。無秩序だからこそ無限の欲望を作り出すことができるのである。

 この本質があるから、資本主義は全体主義へと吸い寄せられる必然性がある、とわたしは考えている。
 政治の破壊と、社会構造の破壊と、そして社会秩序の破壊という資本主義の本質的な性向と、全体主義へと吸い寄せられていく性向とは、一見すると相反するもののように思えるかもしれないが、ドラスティックに、そして効率的に、政治構造の破壊と社会構造の破壊と社会秩序の破壊を推し進めようとすれば、全体主義という暴力的で強権的な政治システムこそが最適だからだ。
 全体主義は一枚岩的な社会ではあるが、その社会を貫いているのはニヒリズムである。
 理想とする社会像はない。また言葉の厳密な意味での倫理観も道徳観もない。政策に整合性もなければ、脈絡性もなく、方向性もない。欲望の在り方と一緒なのである。何故ならば、欲望の在り方こそが資本の意志と論理が本質的に目的するものの投影だからだ。
 欲望の在り方こそが資本の意志と論理が本質的に目的するものの投影だといったが、言葉を換えて言えば、絶え間なく、そして急激に、政治構造の破壊と社会構造の破壊と社会秩序の破壊を続けていく社会だということがいえるのではないだろうか。つまりニヒリズムが核にある社会なのである。憲法を頂点とする法律と倫理と道徳とは、その目的のための単なる手段であり方便でしかない。

 後ほど詳しく述べるつもりだが、資本主義はその黎明期には「政治」を志向していなかった、とわたしは思っている。
 資本主義が成立するために足かせとなっている古い共同体秩序と価値観とキリスト教の倫理観から開放されて、資本の意志と論理を飛翔させる「自由」が何よりも必要だったのだろう。極論すれば、黎明期の資本主義にとっての「政治」とは、「自由」を阻害するものとしてあった、といえないだろうか。資本主義にとっての「国家」もまた同じである。
 ルソーの夢想した「国家」とは、資本主義にとって足かせになる「国家」であったように思う。ルソーの夢想した「国家」とは、根源的な価値としての「自由主義」が貫徹される理想社会としてあったからだ。ルソーにおけるナショナリズムの問題も、こうした文脈の中で理解すべきなのかもしれない。
 余談になるが、わたしの恩師である橋川文三は、ルソーのナショナリズムについて言及しているが、この文脈の中で語られているとは思えない。一般的な意味でのナショナリズムとして語られてしまっているのではないだろうか。ナショナリズムについては、丸山真男も竹内好も処女としてのナショナリズムを肯定的にみているが、処女としてのナショナリズムとは、ルソーの夢想した「国家」を背負ったナショナリズムであり、つまり根源的な価値としての「自由主義」が貫徹される理想社会と一体となったものであり、処女性を失ったナショナリズムとは、イデオロギーとしての自由主義と一体となったものなのではないか、とわたしは妄想している(笑)。

 前回のブログで指摘した、イデオロギーとしての自由主義と、根源的な価値としての「自由主義」との二面性の問題とは、黎明期の資本主義が産み落とした自己矛盾に起因しているのではないだろうか。
 黎明期の資本主義にとっては、資本の意志と論理を飛翔させるための手段としての自由主義(=イデオロギーとしての自由主義)だったはずが、意に反して、根源的な価値としての「自由主義」をも産み落としてしまった、とわたしは理解している。
 根源的な価値としての「自由主義」は、資本主義にとっては命取りにも繋がるものである。資本の意志と論理を放縦に行使できる「自由」を手に入れたはずが、あろうことか、根源的な価値としての「自由主義」が新たな足かせとなって立ち現れたからだ。
 資本主義の歴史とは、イデオロギーとしての自由主義と、根源的な価値としての「自由主義」との闘争の歴史ではなかったのではないだろうか。
 この闘争の歴史の過程で、資本主義は「政治」と「国家」の利用価値を学んだのである。「政治」と「国家」によって、根源的な価値としての「自由主義」を圧殺するためである。全体主義とは、根源的な価値としての「自由主義」の圧殺装置だといえる。
 資本主義の狡猾性は、イデオロギーとしての自由主義と、根源的な価値としての「自由主義」との違いを意図的に曖昧化し、イデオロギーとしての自由主義のおぞましい化け物の貌と牙を、根源的な価値としての「自由主義」の仮面によって隠し、民衆を欺いていることだ。

 話しは逸れるが、イデオロギーとしての自由主義と、根源的な価値としての「自由主義」という認識を下敷きにして、保守と革新の違いについて考えてみたい。
 安倍晋三と自民党のいう自由主義とは、資本主義を正当化するイデオロギーとしての自由主義である。
 上述したように、資本主義とは政治構造の破壊と、社会構造の破壊と、そして社会秩序の破壊を永続的に続けていかなければ成り立たない本質を持っている。そうだとすれば、資本主義を保守主義だと見なすことほど愚かなことはないだろう。こうした発想をする限り、資本主義の本質には永遠に辿り着けない、と断言してもいい。
 したがって、新自由主義の権化である安倍晋三と自民党を保守主義だというのは、明らかな誤りであり、愚の骨頂である。

 民進党の中には、徹底的な構造改革と行政改革による経済成長戦略を掲げて、正統保守を自任している者達がいるが、驚くべき盆暗である。わたしを遥かに凌ぐ盆暗としかいいようがない。そして、論理的な思考能力が著しく欠けているとしか思えない。政治構造の破壊と、社会構造の破壊と、そして社会秩序の破壊を永続的に続けていく保守主義などあり得ないからだ。
 民進党のいう自由主義も欺瞞的であり曖昧模糊としている。
 民進党の議員の中に、イデオロギーとしての自由主義と、根源的な価値としての「自由主義」との違いに想いを馳せたことがある者がどれほどいるだろうか。
 民進党の代表選挙があるようだが、立候補している三人とも、根源的な価値としての「自由主義」に軸足を置いているとは到底思えない(笑)。
 蓮舫議員はイデオロギーとしての自由主義に毒されているといえる。そして愚の骨頂は、イデオロギーとしての自由主義を正真正銘の「リベラル」だと信じて疑っていないことだ。
 元々が「リベラル」という言葉自体が胡散臭いものではあり、糞味噌一緒状態なのであるが、構造改革と規制改革と経済成長至上主義を信奉している段階で、根源的な価値としての「自由主義」に軸足を置いているはずはないのである。
 前原誠司議員は保守主義を自認しているが、何度もいうように、イデオロギーとしての自由主義に毒されきっている保守主義などあり得ないのである。
 民進党が野党共闘に消極的なのは、民進党の本質が、イデオロギーとしての自由主義に軸足を置いているからだ。
 連合は正しくイデオロギーとしての自由主義を体現している。とはいえ、民進党にも根源的な価値としての「自由主義」に軸足を置いている者がいることを否定はしない。
 市民連合はどうだろうか。
 根源的な価値としての「自由主義」に立っている、とわたしは確信している。
 民進党にはこの認識がないから、市民連合が主導する野党共闘の真の意味が解っていないのだろう。
 イデオロギーとしての自由主義と明確に切れた、根源的な価値としての「自由主義」に目覚めた市民たちが結集したのが市民連合なのである。
 イデオロギーとしての自由主義と、根源的な価値としての「自由主義」との違いを意図的に曖昧化し、イデオロギーとしての自由主義のおぞましい化け物の貌と牙を、根源的な価値としての「自由主義」の仮面によって隠して欺いていた資本主義の狡猾性を、目覚めた市民がはっきりと見分けたのだ
 二つの自由主義をはっきりと線引きしたから、安保法制の反対運動が辺野古新基地建設反対運動と連動し、反原発と反TPPの運動と連動したのである。
 根源的な価値としての「自由主義」の立ち位置にあっては、従来の保守と革新という色分けは意味をなさなくなったといえないだろうか。
 根源的な価値としての「自由主義」は、保守主義をも内包してしまっているからだ。いや、根源的な価値としての「自由主義」は、保守と革新という従来の対立軸に代わるべきものを要求している、とわたしは思っている。
 日本共産党は市民連合に寄り添い、ブレることがない。野党共闘が実現したのも共産党の存在があったからだろう。そうだとすれば、日本共産党は根源的な価値としての「自由主義」に軸足を置いているといえるのではないだろうか。
 日本共産党が「自由主義」のはずがない、というのは浅はかな思い込みでしかない。イデオロギーとしての自由主義と、根源的な価値としての「自由主義」とをごちゃ混ぜにして理解していた弊害である。

 話しを元に戻したい。
 アレントの思想は保守主義だといわれている。
 拙いながらも、わたしが掲げている里山主義という思想もまた保守主義である。アレントの思想も、里山主義という思想も、西欧近代主義を乗り越えようとしている点で共通している(里山主義については電子書籍の『風となれ、里山主義』に書いているが、未だ明確に思想化されたものではなくおぼろげな輪郭を綴ったという稚拙なレベルのものだ。里山主義については改めて書くつもりだ)。
 西欧近代主義の核には資本主義があり、資本主義のイデオロギーである自由主義と一体となっている。したがって、西欧近代主義を乗り越えるとは、資本主義と、資本主義と一体となったイデオロギーとしての自由主義を乗り越えることだともいえる。
 その上でアレントの思想と里山主義という思想の違いをいえば、アレントの思想が西欧的な風土に彩られた精神性と論理的発想を引き摺っているのに対して、里山主義という思想は西欧的な風土と切り離すことができない精神性と論理的発想そのものを否定していることだ。
 わたしがアレントを敬遠していたのは、当座のわたしの関心が、アレントの思想との違いの方に重きをおいていたからだ。が、西欧近代主義を乗り越えるとしたら、資本主義の本質と、そのイデオロギーである自由主義の本質とを徹底的に暴く必要性があるのはいうまでもない。
 前回のブログにも書いたが、わたしの資本主義批判はマルクス主義とその理論の体験を踏んでいる。わたしがアレントを敬遠していたもう一つの理由は、アレントがマルクス主義とその理論とを全否定しているような「印象をもっていた」ことによる。しかし、その印象は的外れだったようである。アレントの思想に深く分け入れば、マルクス理論からの影響を見つけ出すことは容易いからだ。要は、食わず嫌いだったということになるのだろうか(笑)。

 わたしの前に、川崎修著『ハンナ・アレント』(講談社学術文庫)がある。
 2014年に買ってあったものだが、ざっと読んだだけで放り投げてしまったのである。自由主義と民主主義という視点から、市民連合と野党連合が鳥越俊太郎を擁立した歴史的意味を探るに当たって、突然に、この本の存在を思い出したから不思議である。思い出したというよりは直観というべきものなのだろう。
 自画自賛になるが、わたしの嗅覚と直観は鋭いものがある(笑)。自分の嗅覚と直観を信じて、改めてこの本を読んでみることにしたのだ。
 直接、アレントの思想に分け入ることなしに、手っ取り早く他人の解釈で済まそうというのは意地汚い魂胆であるが、アレントの著作は、じっくりと腰を据えて渉猟する必要性を痛切に感じている。今回だけは許していただくしかない(笑)。
 川崎修著『ハンナ・アレント』(講談社学術文庫)に沿って、政治か、それとも経済か」という問題設定を考えることにしたい。
 近代以前において経済とはどのような位置づけにあったのか、川崎はアレントの論理を次のように辿っている。

「アレントによれば、古典的自由主義からマルクスにいたるまで、近代の政治概念の本質をなしている考え方は、政治を社会の上部構造としてとらえること、つまり、政治を社会経済的な利害関心によって規定されるものとして見ることである。(中略)
 アレントによれば、私的でもなく公的でもない社会的領域は、近代になってはじめて現れたものである。(中略)彼女は、特殊近代的な意味における『社会』を国民大に拡大された家として理解している。(中略)
 この社会の勃興によって、かつては家という私的領域の中に閉ざされていた経済的な諸問題が、全共同体の関心事になり、その結果、本来私的な事柄であった経済的なるものが公的領域に侵入し、『公的』・『私的』という古典的な区別は失われてしまった。そして、このことの政治的表現が、先に示したような社会の上部構造としての政治という政治像にほかならない。つまり政治は、国民大に拡大した家の家政となったのである」

 経済は「かつては家という私的領域の中に閉ざされていた諸問題」の一つに過ぎなかったということになるのだろうアレントの論旨を踏まえれば、私的領域に封じ込められていた経済が開放されるには、私的領域が開放されることが不可欠ということになる。経済の開放をみていく前に、先ずは近代以前において公的領域と私的領域とがどう位置づけられ、また二つの領域の力関係がどうであったのか、みていきたい。
 アレントは古代ギリシアのポリスにあるべき政治の姿を重ね合わせているが、古代ギリシアのポリスを眺めることで、私的領域と公的領域の関係性と、そして更に政治というものの位置づけが明らかになってくる。
 アレントがみている古代ギリシアのポリスに息づく政治とはどのようなものだったのか、藤原保信が『自由主義の再検討』(岩波新書)で分かりやすく論じている。
 藤原によれば、「ポリスはまさにそこにおいて人間が人間たる至高の包括的な共同体であった。ポリスにおいて初めて何が善であり何が悪であるか、何が正であり何が邪であるかが示されうるのであり、人が最高善を実現し、真の幸福を享受しうるのは、ポリスの一員としてその政治的実践に参加することによってであった。(中略)
 すでにH・アレントなどがつとに指摘しているようにギリシア人やローマ人にとっては、公的、政治的空間から切り離されたたんなる私的生活は、人間として何ものかが欠如した(privative)生活であり、何ものか、人間にとってもっとも高貴なものが奪われている(being deprived)状態であった。いわば私的生活しか送らない人間は人間ではないとされた。もちろん、古代ギリシアやローマにおいても私的生活、あるいは労働や生産が行われなかったわけではない。しかしそれは、ポリスから区別されたオイコス(家)の領域において営まれながら、なおも最終的にはポリスのなかに包摂され、その目的にしたがい倫理的規制に服すべきものとされていた」となる。

 古代ギリシアとローマにおいては、「何が善であり何が悪であるか、何が正であり何が邪であるかが示されうる」ポリスの秩序と倫理が絶対であり、また政治とは、ポリスの秩序と倫理という「最高善」を実践することであって、その実践の中にこそ人としての「真の幸福」があるということになるのだろうか。私的領域は公的領域に完全に隷属していたといえる。
 こうした古代ギリシアの価値観と世界観の反映がプラトンやアリストテレスの哲学だといえるのだろう。そして中世ヨーロッパのキリスト教の法解釈を、アリストテレスの思想を取り入れて再構築したのが、トマス・アクィナスだったといえるのだろう。
 トマス・アクィナスの法解釈と、古代から中世に至る西欧の公的領域=共同体と私的領域の関係性を、大塚正之『場所の哲学―近代法思想の限界を超えて』(晃洋社)から拝借して俯瞰したい。

「彼(トマス・アクィナス…ブロガー注)は、法とは宇宙全体の秩序を支配している神の摂理であり、共同体の善へと向かわせるものであり、これを永遠法と名付ける。そして自然法とは、この永遠法を人間という被造物が分有し、人間社会を秩序づけるものに他ならない。個々の人間は、共同体の一部であって、共同善に服するべき存在である。個物というのは、あくまで普遍が個別化された存在でしかないのである。
 すなわち、西洋における古代から中世への法思想を概観するとき、そこには、常にプラトニズムに裏打ちされたイデアとしての普遍=神があり、全体としての共同体があり、この共同体からすべてが流出し、個別化されると理解されていたのである。つまり、個々の人間は、共同体の一部であり、自立した存在としては理解されておらず、法の概念も、共同善にどのように奉仕するかという視点しか持っていなかったのである」

 古代から中世にいたる西欧においては、キリスト教の倫理と秩序が絶対であり、またキリスト教と一体となった権力と、その権力が敷く身分制が絶対的なものとして貫徹してしていた、ということが分かる。
 この世界に私的領域の自由はあり得ない。私的領域がキリスト教の倫理と秩序によって縛られているからだ。私的領域の中に封じ込められていた経済もまた同様である。
 経済が自らの自由を勝ち取るにはどうすればいいのだろうか。私的領域の開放なくしては不可能であることはいうまでもない。
 つまり、キリスト教の倫理と秩序からの自由であり、キリスト教と一体となった権力と身分制からの自由である。
 しかし、「私的所有権」と「富の無限の蓄積」と「交換の自由=交換の正義」が絶対条件となる資本主義経済が成立するためには、公的領域からの私的領域の開放と、キリスト教の倫理と秩序からの開放というレベルに留まってはいられない。「古典的な生に関する価値のヒエラルヒーの完全な転倒」(藤原保信『自由主義の再検討』岩波新書)をも引き起こさずには、資本主義経済は成立し得ないのである。そしてその転倒は、私的領域の質的な転換に直結することになる。

『鳥越俊太郎を擁立した市民連合と野党連合の歴史的意味』という標題で書くのは今回が3回目になるが、初回の冒頭で、わたしは自らの読書の意味と目的について書いた。
 わたしにとっての読書とは、拙いものではあったが、「いかに生きるべきか」という自らの生の在り方、つまり自らの生き方を求めるものだったのである。わたしにとっての読書の意味と目的は、不思議なことに、「古典的な生に関するヒエラルヒー」と無縁ではない。盆暗なわたしであるから、「古典的な生に関するヒエラルヒー」との共通性を意識していたのではない。学生時代のわたしが、「古典的な生に関するヒエラルヒー」を明確に理解していたはずはないからだ。
 それにも関わらず、「古典的な生に関するヒエラルヒー」と共通性があるのは、古代のギリシアにおいては、人としてのあるべき生の在り方を追い求めようとする意識が息づいていたからではないだろうか。もちろん盆暗なわたしと、古代ギリシアの思想家とは天と地ほどの隔たりがあるのだが、人としてのあるべき生の在り方を追い求めようとする姿勢があったという点からみれば、共通していたといえるのではないだろうか。
 わたしが強調したいのは、盆暗なわたしが、古代ギリシアの思想家と同じ志をもっていたということではない。古代ギリシアの世界には、人としてのあるべき生の在り方を追求させるような空気が支配していたということである。人としてのあるべき生の在り方とは、幸福観と人間観に密接に関わっているはずだ。そして上述した欲望と消費とも無関係ではない。
 人にとっての幸福とは何か、人にとっての欲望とは何か。自分にとっての幸福とは何だろうか、自分にとっての欲望とは何だろうか、という根源的な意味での生き方への眼差しを生み出す世界だったと思うのである。
 現代社会はどうだろうか。
 わたしは現代社会が、人としてのあるべき生の在り方を追い求めることを、構造的に意識から排除させる社会だと思っている。そして、人にとっての幸福と欲望とは何か、自分にとっての幸福と欲望とは何だろうか、という根源的な意味での生き方への眼差しを生み出さないように強いる社会だと思っている。現代社会が優れて世俗的で画一的な幸福観に支配され、その幸福観を疑うことを、人々の意識から巧妙に排除させている構造を持っているからだ。そして、資本の意志と論理によって作り出された欲望を消費する生と性に、疑問を投げかけることを忘れさせられている社会だからだ。

 藤原のいう「古典的な生に関する価値のヒエラルヒーの完全な転倒」を、わたしは重視している。資本主義と自由主義の本質に関わるものだからだ。また「政治とは何か」とも深く関わっているだけではなく、「政治か、それとも経済か」という問題とも直結している、と思っている。
 したがって次回は、「古典的な生に関する価値のヒエラルヒーの完全な転倒」を辿っていきたい。


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