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 政治か、それとも経済か、という問題の設定は、自由主義の本質と陥穽に肉迫するための近道だと思う。
 自由主義は、政治と経済とに引き裂かれていく宿命を背負っており、そして自由主義は、政治が経済の奴隷になるように不断的に働きかけている、とわたしは考えている。自由主義の本質が経済偏重にあると思っているからだ。
 政治か、それとも経済か、という問題の設定において忘れてはならないのは、政治と経済と密接に関わり、政治と経済から影響を受け続け、政治と経済に影響を与え続けている社会だ。
 自由主義の本質が経済偏重にあるとすると、当然に社会も経済偏重の色に染まり、経済重視の社会になる。自由主義においては経済とは資本主義だから、経済偏重とは資本の意志と論理に支配された社会だということになるのだろう。

 これに関連してあるアンケート調査の例を挙げたい。
 わたしが卒業した大学の在校生が参議院選挙でどの政党に投票したかのアンケート調査である。わたしは愕然とした。七割が自民党に投票しているというのである。何を重視して自民党を選んだかというと、経済政策だというから、安倍政権の経済政策の何をもって良しと判断しているのか頭を疑いたくなるが、どうも目先の大企業の求人数の好転のようなのである。
 年金基金を投入して株価操作を行い、日銀が湯水のごとく金をつぎ込んで為替操作をし円安へと誘導した詐欺行為で、円換算での大企業の利潤を無理矢理に釣り上げているだけにすぎないものを経済政策と呼ぶとしたら、何を大学で学んでいるというのだろうか。あまりにも短絡的であり、思慮が浅いとしかいいようがない。
 わたしが卒業した大学は大企業への就職率がいいことを売りにしている。受験生の人気もトップクラスのようだ。察するに、大企業に就職することを、受験生も含めた学生が目的化してしまっているのだろう。それだけではない。政治には見向きもせずに、大企業が儲けるための小手先だけの詐欺行為を経済政策だと信じて疑わず、アベノミクスの成果だと認識するに至っては、ものの本質に迫ろうとする意識もなければ、論理的思考を鍛えようとする意識もないのではないだろうか。
 わたしが学生の頃は、学生運動の拠点校の一つであった。隔世の感がする想いだ。生き方が大企業に就職することに収斂しているとすると、何と見窄らしい生き方なのか、とわたしは考えてしまう。それで人生一度の生を生きて幸福を感じられるとしたら、何とせせこましい幸福観なのだろうと思わずにはいられない。
 わたしの卒業した大学にはアナウンサーになったり、マスコミに就職している者も多いようなのだが、上述した延長でみれば、マスコミが劣化するのも肯ける気がする。
 わたしの卒業した大学だけが特別だというのではないだろう。一流大学ではないが、それなりの大学である。
 社会が経済偏重になり、その経済も大資本偏重であり、政治不在だということを垣間見せてくれる好例なのではないだろうか。

 自由主義が資本主義のイデオロギーでしかないとみなせば、政治が経済に隷属化する現象は、改めて語るまでもないことなのだろう。
 マルクスの理論でいえば、下部構造としての資本主義という経済的社会基盤が、上部構造としての政治としての国家の在り方と法体系ばかりか、社会的な風俗や文化まで決定するのであるから、わたしが上で述べたことは、至極当たり前のことでしかないのかもしれない。
 しかし、わたしは下部構造が上部構造を決定するというマルクス理論をそっくりそのまま信奉してはいない。そしてわたしは自由主義を、イデオロギーとしての自由主義と、根源的な価値としての「自由主義」とに分けてみている。
 こうしたわたしの視点は、政治を考える前提として、イデオロギーとしての自由主義に繋がった政治と、根源的な価値としての「自由主義」に繋がった政治とを分けて理解することへと導くことになる。
 イデオロギーとしての自由主義に繋がった政治とは、資本主義と一体となった政治であり、したがって経済の奴隷でしかない政治といえないだろうか。
 それでは、もう一方の根源的な価値としての「自由主義」に繋がった政治とは何なのだろうか。
 資本主義の頸木から開放され、資本主義を相対化して、根源的な価値としての「自由主義」が息づく社会を追い求め、またそうした社会を築こうとする、何ものからも独立した政治なのではないだろうか。
 保守と革新という対立軸があり、右翼と左翼という対立軸がある。
 こうした対立軸は、イデオロギーとしての自由主義を基準とした対立軸なのだろうか。それとも、根源的な価値としての「自由主義」を基準とした対立軸なのだろうか。
 わたしはごちゃ混ぜになっていると思う。ごちゃ混ぜになっているから、リベラリズム、若しくはリベラルという言葉が曖昧模糊としたものとなってしまっているのではないだろうか。イデオロギーとしての自由主義をリベラルといい、根源的な価値としての「自由主義」をリベラルといっているとしたら、リベラルという言葉に意味はないと思う。二つは全く違うものだからだ。

 わたしは里山主義という思想を掲げる保守主義者である。わたしはイデオロギーとしての自由主義を否定するが、根源的な価値としての「自由主義」を熱烈に信奉している。
 沖縄の辺野古新基地反対運動を考えてみよう。
 沖縄の人たちが守ろうとしているのは、祖先が愛しみ、祖先が大切に守り育て、祖先の暮らしととともにあった、だからこそ祖先の命と魂が今も息づいている美ら海である。そして、沖縄の人たちの心には、地獄の沖縄戦の記憶が生々しく刻み込まれている。その沖縄の人たちが、戦争をする米軍の基地にするために、共に生きてきた美ら海を壊されてしまうことを許せるはずはない。
 沖縄の人たちは、平和共存を前面に掲げ、そして民主主義と基本的人権と立憲主義の旗を高く掲げて闘っている。
 祖先の命と魂が今も息づいている美ら海を必死で守ろうとしている沖縄の人たちの心は保守の心だといえないだろうか。その保守の心で、根源的な価値としての「自由主義」の旗を翻して闘っているのだ。
 この沖縄の闘争を、従来の保守と革新という対立軸で捉えられるだろうか。また、右翼と左翼の対立軸で捉えてもいいのだろうか。
 わたしはイデオロギーとしての自由主義と、本源的な価値としての「自由主義」との闘いだとしてみた方が、沖縄の辺野古新基地反対運動の本質がみえてくると思えてならないのである。
 自由主義と「自由主義」の対立というと奇怪に思うかもしれない。が、わたしにとっては何ら怪しむことではない。リベラルという言葉の曖昧さと、胡散臭さと、欺瞞性と、無意味さとを、暴露してしまっているのが、沖縄の辺野古新基地反対運動なのではないだろうか。
 沖縄の人たちが目指している社会は、社会主義社会であろうはずはない。本源的な価値としての「自由主義」とは、資本主義も社会主義も相対化してしまうものだからだ。マルクス理論では、社会主義とは資本主義の矛盾が発展的に止揚されたものとして位置づけられている。資本主義が社会主義の母胎なのである。
 誤解を恐れずにいえば、資本主義のイデオロギーである自由主義が、違った姿に化けて生き続けているのが社会主義だといえないだろうか。
 本源的な価値としての「自由主義」は、資本主義の呪縛からも、社会主義の呪縛からも切れて独立したものとしてある、とわたしは信じている。だから、本源的な価値としての「自由主義」へと向かう政治も独立性を保てるのである。
 
 本源的な価値としての「自由主義」へと向かう政治は、どんな社会を理想とするのだろうか。
 残念ながら、歴史はまだ明確な答えを見つけ出すまでに至ってはいない。はるかに遠い道のりのような気もする。いや問題はもっと深刻である。本源的な価値としての「自由主義」と、イデオロギーとしての自由主義とを明確に線引きできずに、ごちゃ混ぜになっている段階を未だに生きているのではないだろうか。
 わたしは日本共産党が、本源的な価値としての「自由主義」の地点にすっくと立って、その地点から切り拓かれるだろう、あるべき新しい日本の社会の姿を必死で視界にとらえようとしているのではないか、と妄想している。
 そうでないと、平和憲法の護持を高く掲げ、辺野古新基地建設に断固反対し、原発の全面廃炉とTPP反対を貫き、リニア建設に反対などできはしない。そればかりか、日本農業を国の礎と見なしているのだ。
 日本共産党が描く社会は社会主義社会ではあり得ない。社会主義社会ではあり得ないから、本源的な価値としての「自由主義」の地点に立って、目を凝らして、必死に、そして真摯に、あるべき社会の姿を視界にとらえようとしているのだろう。
 日本共産党は戦前のファシズム国家体制へと変貌しようとしている安倍政権と自民党の暴走を阻止するために、反ファシズム統一戦線として「国民連合政府構想」を提唱し、それが無理と判断すると市民連合主導の野党連合へと舵を切ったが、市民連合と野党連合がもつ真の歴史的意味とは、本源的な価値としての「自由主義」の旗の下に市民と政党が結集し、これまでの保守と革新、右翼と左翼、そしてリベラルか、反リベラル(リベラルという言葉自体が曖昧であり基準にならない)か、という無意味になってしまった対立軸を超えて、あるべき新しい日本の未来の社会へと至る道を切り拓いていくことにあるといえないだろうか。その道を切り開いていく本源的な力は、自覚する市民主導の政治でしかあり得ないはずだ。何故ならば基本的人権と民主主義と立憲主義を旗として高らかに掲げているからだ。
 わたしの妄想ではあるがと断りを入れた上でいうと、日本共産党はそんな構想に立っているように思えてならないのである。そうでないと、共産党に不利になるにもかかわらず、自らの候補者を取り下げて、民進党候補を初めとする他党候補を必死で応援するなど考えられないことだ。
 無所属で立候補した生活の党の森裕子が示唆的なことをいっている。森裕子だからこそ感じ取れたものなのだろう。参議院選挙において共産党のぐいぐいと引っ張っていく一途さとその熱気と力を語っているのだ。
 戦前のファシズム国家体制へと転がり落ちていくのを阻止することを最優先にしなければならないという歴史的判断と危機感が根底にあるのだろうが、わたしにはそれだけはないように思えてならない。
 里山主義という思想(原初の里山主義=『風となれ、里山主義』に書かれた内容から、現在は発展的に変質している)を掲げるわたしが、日本共産党に可能性をみて熱烈に応援しているのは、根源的な価値としての「自由主義」の地点にすっくと立って、あるべき新しい日本の未来の姿をみようとしている真摯な姿に心が吸い寄せられていくからだ。
 いずれにせよ、あるべき新しい日本の未来へとつながる道を切り拓いていくには、根源的な価値としての「自由主義」の地点に、市民と政党が結集する以外にないのは動かしようがない事実だろう。

 結集するからといって、イデオロギーとしての自由主義と、根源的な価値としての「自由主義」とを明確に分けて理解し、イデオロギーとしての自由主義の問題と陥穽を理解している市民と政党ばかりが結集すればいいということではない。
 イデオロギーとしての自由主義と繋がった政治と、資本主義を貫徹する資本の意志と論理と一体となった政治と、そして何よりもイデオロギーとしての自由主義と資本の意志と論理の網の目が張り巡らされた大衆社会と、闘って行かなくてはならないのである。公共の電波を独占し、あらゆる媒体を使って広く社会に情報を発信しているマスメディアは、イデオロギーとしての自由主義と資本の意志と論理から自由ではあり得ない。そればかりか現状の日本のマスメディアは権力の走狗にまで成り果てた。参議院選挙と都知事選挙をみれば説明するまでもないだろう。

 イデオロギーとしての自由主義を語るときに詳述するが、大衆社会とは化け物である。やりようによってはどうとでも転び、どんな色にも染まる。方向性もなければ、一貫性もなく、論理性も整合性もない。
 その大衆社会をいいように動かせるのはマスメディアであり、そのマスメディアを操っているのが大資本の意志と論理の番犬である国家権力なのだから、市民連合と野党連合が結集したとしても、一朝一夕でそれを覆せると思うのは非現実的だろう。
 化け物である大衆社会をも動かす風を作る必要性があり、自覚する市民を核にした広範な国民の結集が必要になるのはいうまでもない。
 以前のブログで福本和夫の『分離結合論』を例に挙げて書いたが、運動が壁にぶち当たったり、成果が出なかったり、また体制側からの弾圧と分断工作があったりすると、得てして、広範な結集を烏合の衆的な大衆化として蔑み、原理原則を主張して、先鋭的な組織へと純化することを唱えて対立したり、中には敢えて組織を内部から破壊したり、運動自体を四分五裂させたりすることがみられるものだ。
 こうしたことが起こるのは、自分が属する組織を中心としてしか世界が見えないからだろう。問題は組織の前に、何を目的とし、何を優先するかだろう。それが政治というものである。政治で社会を変えようとするのに、組織を優先する発想では、とても化け物である大衆社会を揺り動かすことなどできはしない。
 わたしは宇都宮健児という人間のことも、またどういう思想の持ち主かも知らない。興味もない。だから、宇都宮健児という人間の人格を否定するつもりもないし、宇都宮健児の思想を否定するつもりもない。が、結果としての政治という視点からみると、あまりにも稚拙だとしかいいようがない。
 先ず疑問なのは、どうして参議院選の最中に立候補をしなければならなかったかだ。過去に二度ほど都知事選を戦い、今回も当然に立候補しようと予め準備していたのは分かる。しかし、過去二回とは政治的状況がまったく違っている。
 北海道5区の衆議院補欠選挙を、宇都宮健児はどうみていたのだろうか。政治的眼力があれば、画期的な選挙であったことが分からないはずはない。勝負にならない選挙だと思われていたのだ。池田まきはまったくの無名な新人である。その新人が、安倍政権と自民・公明党をデマと誹謗中傷が乱れ飛ぶ、形振り構わぬ醜悪な選挙をしなければ勝てないほどの僅差にまで追い詰めたのだ。市民連合と野党連合の政治的力をまざまざと示したといえる。
 だから、参議院選挙でも一人区すべてで市民連合と野党連合の共闘が実現したのである。一人区の激戦区ではほとんど勝利している。が、数としては参議院選に勝利した、安倍政権と自民党は憲法改悪を具体化するに及んでいる。衆議院選挙も視野に入れている。そして、迎えた都知事選である。
 国政と都政は別だ、などという馬鹿げた論理がこの政治的状況の中で通用しないのは、子供でも分かることだろう。当然に衆議院選挙と無関係ではあり得ない。重要なのは、市民連合と野党連合へと結集する流れを断ち切ることなく、より強固にしなければならないということだ。
 都知事選挙で野党が分裂すればどうなるか。市民連合もまた分裂し、その後遺症を衆議院選に引き摺っていくことになる。何よりも、民進党は一枚岩ではない。市民連合と野党連合の流れが切れてしまえば、再び修復するというのは困難になってくるだろう。
 この状況で何をなすべきか。
 根源的な価値としての「自由主義」の地点に立ち、根源的な価値としての「自由主義」が息づく社会を作ろうという政治的情熱と志があれば、市民連合と野党連合の流れを継続し、より強固にする選択しかないはずだ。
 宇都宮健児では民進党が首を縦には振らないことが明白だ。それでも宇都宮健児を共産党がごり押しすれば、野党連合が実現しないばかりか、民進党内部で野党連合に否定的な勢力がこのときとばかりに共産党批判を強め、野党連合の実現を阻んだ元凶として共産党を糾弾し、共産党と野党連合の欺瞞を責め立てることだろう。幼稚園児でも分かることだ。
 幼稚園児でも分かることだから、小池百合子を見習って、先手を打って宇都宮健児は、参議院選挙中というあり得ないときに立候補を表明したのだろう。宇都宮健児と小池百合子との決定的違いは、小池百合子には大衆社会を揺り動かすあざとく、そしてしたたかな戦略と脚本ができていたということだろう。小池百合子はその脚本に沿って忠実に演技をし、大衆を扇動的に魅了してしまう政治的俳優としての才能をもっていたということだ。
 宇都宮健児には練りに練られた具体的政策がある、と宇都宮陣営は自画自賛するが、現状の日本の政治的状況と選挙は、政策で大衆社会を動かせると本気で考えているとすれば、余程の政治音痴であり、浅はかでしかない。
 ナチスの歴史をみれば明らかだろう。
 ナチスの掲げる政策が、ドイツ共産党が掲げる政策と似通っていることを肝に銘じるべきだ。どうしてそうなったかというと、当時のドイツにおいて共産党が急激に大衆の支持を得てきていたからだ。明らかにパクリである。それも大衆を騙すための一次しのぎの政策でしかない。選挙が終われば、ゴミと同じでゴミ箱に投げ捨てられてしまう政策だといえる。ナチスの正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」である。社会主義を名乗り、徹底的にドイツ共産党を弾圧したナチスの手法は、ありとあらゆるものを総動員して、いかに大衆を騙し、そして煽動し、思うがままに操るか、に徹していたといえる。
 そのナチスの手法を、安倍政権と自民党は踏襲している。参議院選と都知事選をみれば明白だ。野党の政策を、ちゃっかりと自民党が拝借したではないか。細部にまで目をやれば、違いがでてくるが、そんな細部まで大衆の眼はいかないし、マスメディアは意図的に細部の違いを覆い隠してしまうだろう。
 マスメディアは政策を優先すべきだなどというが、そんなことは建前であり、心の中では舌を出し、政策などで愚かな大衆を動かせるものかとほくそ笑んでいるのだ。実際に都知事選でマスメディアがやったことは、政治的俳優である小池百合子の演劇に観客である大衆が酔い痴れるように、拍手喝采でもり立てたではないか。
 宇都宮健児とその陣営は、大衆社会の恐ろしさを少しも分かってはいないようだ。その大衆社会は日増しに悪い方向へと押し流されていっている。イデオロギーとしての自由主義と末期症状の資本主義が、そうしたおぞましい大衆社会を作り出しているからだ。
 宇都宮健児とその陣営がしたことは、結果的には、小池百合子の演劇をより華やかにもり立てるために、自ら舞台に上がり、道化師となって踊り狂ったことだけだ。自分の意志とは関係無く、政治的結果とはそうした恐ろしさを持っている。
 都知事選が終わっても、宇都宮健児とその陣営は未だに道化師をやめていない。どう言い繕うとも、政治的結果としては、市民連合と野党連合の分断と破壊工作でしかないだろう。
 選挙の供託金と選挙カーやポスターを準備した金をどうするんだ、と宇都宮陣営はいうが、政治的状況を分析し、何をすべきかを真摯に問うていたならば、供託金も選挙カーやポスターも不必要と判断できたはずだ。
 宇都宮健児が大局に立って立候補を取りやめたと思いたいが、その後の言動を観察した上で敢えて悪く解釈すると、立候補を強行すれば政治生命が絶たれてしまう恐れがあるという打算が働いて取りやめたが、どうも政治生命が危ういことには変わりがないようだから、恨み辛みを市民連合と野党連合に叩きつけてやるという破れかぶれの戦術に打って出た、と解釈できなくもない。そうなると今度は、小池百合子が演じる演劇の舞台ではなく、安倍晋三が演じる演劇の舞台で道化師役に徹することになるということが分からないのだろうか。
 わたしの恩師である橋川文三は丸山真男の弟子であるが、丸山は橋川の口癖の「どうもよく分からない」という言葉を使って、「橋川君は、どうもよく分からない」と評したが、わたしも丸山を真似ていうと、「宇都宮健児とその陣営は、どうもよく分からない」としかいえないのである。

 宇都宮健児には熱烈な信者がいるようなので、後が怖い(笑)。
 宇都宮健児の批判をする気などさらさらなかったのだが、いつの間にか筆が逸れてしまったのである。繰り返して弁明すると、わたしは宇都宮健児の人格を否定しているのではない。宇都宮健児の言動が及ぼす結果としての政治的なるものを批判しているのである。

 では先を急ごう。
 イデオロギーとしての自由主義と、本源的な価値としての「自由主義」を、政治と経済と社会という視点から具体的に論じたいと思う。そして、政治へのアプローチは、イデオロギーとしての自由主義に繋がった政治と、根源的な価値としての「自由主義」に繋がった政治とを分けたものになるだろう。
 資本主義が成立するためには「私的所有権」と「富の無限の蓄積」と「交換の自由=交換の正義」が正当化されることが絶対条件となる。
 厳格で敬虔なムスリムの社会を想定してみよう。イスラーム革命があったイランでは、資本主義的な経済活動に様々な制限が設けられている。コーランとハディースを反映したイスラーム法(シャーリア)が最高法規であり、世俗的法の上に立つからだ。したがって、政治と経済とがイスラーム法と倫理の中に包摂されており、国家も社会もまたイスラーム法と倫理の中に包摂されることになる。
 イスラーム主義とは、西欧的な自由主義の問題と陥穽を、イスラームへの回帰で克服しようとする運動なのだろう。つまり、公的領域と私的領域を分離し、宗教を私的領域に閉じ込め、社会と政治を世俗化することによって、イスラーム世界の資本主義化を推し進めることで、欲望と快楽の歯止めを失い、マルクスがユダヤ人問題を論じたように、物質主義と利己主義の虜になり、貨幣を神と崇めるまでになって、格差と貧困と不正と暴力とがはびこる社会へと変貌してしまったムスリムの社会と政治を、変革しようとする運動なのである。その変革をイスラームによってなそうとするからイスラーム主義なのである。
 キリスト教が支配した西欧も自由主義にとって変わる前は敬虔なムスリムの社会と同じである。キリスト教の法体系と倫理が政治と国家に貫徹し、キリスト教と封建的なヒエラルキーと共同体秩序を形づくっていたといえる。したがって、資本主義が成立するための絶対条件である「私的所有権」と「富の無限の蓄積」と「交換の自由=交換の正義」は、倫理的にも道徳的にも、制度としての法体系としても、厳しい制限を受けている世界だったのである。
 ここで注目しなければならないのは私的領域の開放である。その私的領域の開放は、キリスト教と封建的なヒエラルキーと共同体秩序からの開放を意味していることはいうまでもない。どうして私的領域の開放が必要なのか。資本主義が成立するための絶対条件である「私的所有権」と「富の無限の蓄積」と「交換の自由=交換の正義」を正当化し、制度としての資本主義を開花させるために不可欠だからだ。
 ある日突然に、下部構造が資本主義へと変質するはずはない。明治維新革命によって上からの資本主義化を急激に推し進めた日本ではなく、本家本元の西欧においては、緩やかに進行していったのはいうまでもない。
 そして下部構造が資本主義へと緩やかに変質していく過程は、資本主義を担うブルジョアジーが徐々に力を持ってくる過程でもある。
 そうなると当然に、キリスト教と封建的なヒエラルキーと共同体秩序が足かせとなり、それを反映したイデオロギーとしての思想が邪魔になってくる。そして、資本主義への流れを押しとどめようとする勢力とのせめぎ合いが顕在化してくるのである。
 西欧における啓蒙思想とは、資本主義を花開かせるための新たなイデオロギーとしての使命を担っていたと同時に、資本主義化を押しとどめようとする反動勢力と闘うための思想的な拠り所という使命を担っていたのだろう。


 いい加減に疲れてきた(笑)。
 終わりそうもない。続きは次回にしたい。
 最後に、都知事選を闘った鳥越俊太郎にお礼をいいたい。
 鳥越俊太郎が立候補しなければ、市民連合と野党連合が一つにまとまれてはいなかっただろう。
 北海道5区の衆議院補欠選挙、参議院選、そして都知事選を経て市民連合と野党連合は深化していると実感している。それだけに、安倍政権と自民・公明党の選挙戦が形振り構わぬものになり、マスコミを総動員して情報操作を行い、人海戦術でデマと誹謗中傷をするまでにえげつないものにエスカレートしてきている。
 市民連合と野党連合が脅威だからなのである。が、これまでの戦略では、とてもこのえげつない選挙に勝つことはできないだろう。正しく情報戦であり、総力戦である。
 2014年暮れの総選挙は、共産党のネット戦略が脚光を浴びた。
 色々なキャラクターを作ってネットでの情報戦を繰り広げたが、真新しい戦術だっただけに効果的だったと思う。しかし、敵は指を咥えながら眺めてはいない。早々にえげつないネット戦術を立てて、情報戦を繰り広げ始めている。そのやり方も汚い。倫理観と道徳観の欠片もない。手段を選ばないのだ。市民連合を装って分断と分裂を工作するのなど日常茶飯事である。宇都宮健児とその陣営の言動は、敵陣営にとっては恰好の材料となっている。だからダボハゼのように、食いついたら離さないのだ。
 市民連合としてはいつまでも宇都宮健児とその陣営の言動に関わっていてもいいことはないのだろう。敵陣営の思う壺だからだ。前を向いて歩き出す方が得策なのだろう。
 わたしも宇都宮健児とその陣営の批判は控えたいと思っている。が、自由主義を語ろうとすると、どうしても語らずに通り過ぎることができないから厄介なのである。
 次回は必ず、語りきりたいと思う(笑)。

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