池田まきが敗れた。
未だに、信じられない。
信じられない、というと適切な表現ではないのだろう。信じたくないというべきなのかもしれない。
これまで何度となくブログに書いたが、わたしは北海道5区の衆議院補欠選挙を歴史的転換点として位置づけてきた。その意味をブログで繰り返し述べている。
この歴史的選挙において、わたしに何ができるのだろうか。そう思ったわたしは、たった一人の池田まき私設応援団を結成して、熱烈に応援することにしたのだ。
応援するとしても、62才になる貧乏人のわたしにできることは限られている(笑)。
わたしは自分を作家だと思っている。そして作家としての覚悟と矜恃をもっているつもりだ。貧乏人であり、作家であるわたしにできることといえば、文章によって池田まきを応援するしかない、という結論に至るまでに三秒とかからなかった(笑)。
わたしがブログに池田まき賛歌を矢継ぎ早に書いた理由である。新しいものから挙げると、
の五つである。この五つ以外に下記の二つのブログを書いているが、わたしとしては池田まきの応援のつもりで書いている。以下の二つである。
これまでにわたしはブログで政治家について何度か書いているが、一人の政治家についてこれほど書いたことはない。書かずにはいられないほど、わたしにとって北海道5区の衆議院補欠選挙が重大な意味を持つものだったのである。また書かずにはいられないほど、池田まきが魅惑的な政治家であり女性だったのである。
わたしは北海道5区の衆議院補欠選挙を、新しい日本の未来を切り拓き、新しい日本の政治を生み落とすための陣痛と位置づけていた。換言すれば、次なる時代へと歩んでいくために、固く閉ざされていた扉を押し開けるための歴史的選挙と捉えていたのである。新しい時代へと入っていくための扉とは、歴史的転換点といえる。その扉を押し開けるために池田まきが歴史の舞台に立ったのだと信じていたのだ。
残念なことに、惜敗してしまった。
しかし敗れはしたが、わたしは池田まきは目的を果たしたと確信している。
池田まきは、新しい日本の未来を切り拓き、新しい日本の政治を生み出すために、固く閉ざされていた時代の扉をこじ開けてくれたのだ。
わたしにはこじ開けられた扉の向こうから吹いてくる新しい時代の風がみえる。
見るがいい、池田まきが招き寄せた新しい時代の風が吹いている。
若葉の季節に相応しい、清らかに透き通った風だ。
「この風がみえるか! この風を感じられるか!」と、わたしは厳粛に問いたい。
中央のマスコミは、ジャーナリズムの気高い魂を失い、堕落の坂を転がり落ちている。当然に、中央のマスコミにはこの風がみえていない。
だからこの選挙結果について的外れな見解と論評しか語れないのだ。
中央のマスコミはこぞって、総力戦を制した安倍政権と自民党と公明党の勝利であるかのように報道している。
どこに目がついているのかといいたい。
これほどまでに日本のジャーナリズムの質は地に落ちてしまったのかと愕然とする。
これから、たった一人の池田まきの私設応援団を解団するに当たって、北海道5区の衆議院補欠選挙を、今後の展望を含めて、わたしなりに総括してみたい。
北海道5区の衆議院補欠選挙が、対照的な二つの陣営の選挙戦だったということを、わたしはブログで論じている。
和田よしあき陣営は従来型の政党主体の選挙戦を戦い、池田まき陣営は市民と野党共闘が連帯して選挙戦を戦った。
北海道5区の衆議院補欠選挙の結果について、マスコミは奇妙な論評に終始している。自民・公明党と野党共闘という対立図式からの視点でしか論評していないのである。対立図式の中での二つの陣営の総力戦として論じているのだ。
野党共闘統一候補としての池田まきを歴史の舞台へと押し上げたのは自覚する市民の力である。この自覚する市民の力がなかったら、野党共闘統一候補としての池田まきは存在していなかっただろう。野党共闘へと道を切り開いて実現させたのは市民なのである。
したがって池田まき陣営の選挙戦においても市民が果たした役割は計り知れない。現にわたしはたった一人の池田まき私設応援団を設立したほどだ。全国にわたしのような人たちがどれほどいただろうか。SNSを主体とした選挙戦であるが、今や選挙戦においてSNSは無視できない影響力があるはずだ。
池田まき陣営の選挙戦をみるとき、野党共闘の側面からだけでみて、市民連合の側面を切り捨てたとしたら、北海道5区の衆議院補欠選挙の本質を見失うことになる。
中央のマスコミは、市民連合の側面をばっさりと切り捨ててしまっているのだ。その上で、野党共闘は善戦したが、自民党と公明党の組織力と底時からには及ばなかった。自民党と公明党が全勢力を傾けて総力戦を戦えば、野党共闘といえども叶わない、と結論づけているのである。
日本のマスコミはここまで能天気になったのか、と嗤いたくなってしまう。
ジャーナリストの眼ではない。ほとんど一般人と変わらない眼力である。昨今の作家の眼が一般人と変わらなくなったと思っていたら、ジャーナリストの眼も一般人と変わらなくなったといえる。嘆かわしいことであり、中央のマスコミは即刻ジャーナリズムの看板を下ろすべきだ。
が、わたしと違って超一流の大学を出た中央のマスコミの社員なのだから、そこまで頭が空っぽとは思えない。安倍晋三の頭とは違うはずだ(笑)。
そうだとすれば、意図的に中央のマスコミは市民連合の果たした役割と可能性を切り捨てて、野党共闘と自民・公明の総力をかけた一騎打ちとしてみているのだろう。
どうして、安倍政権の下僕と化した中央のマスコミは、市民連合の果たした役割と可能性を切り捨てるのだろうか。
視点を換えると、北海道5区の衆議院補欠選挙の結果の背後に隠れた本当の意味が浮かび上がってくるからだ。
わたしは池田まき賛歌のブログで、北海道5区の衆議院補欠選挙は従来型の政党政治の終焉を告げる選挙であり、自民党を典型とする従来型の選挙戦のおぞましくも醜悪な末路の姿を露わにした選挙だと指摘した。
NHKの19時のニュースが、北海道5区の衆議院補欠選挙で勝利したことを喜んでいる安倍晋三の姿を映し出していたが、お目出度い男だと思う。
わたしが安倍晋三なら震え上がっているはずだ。なぜならば、従来型の政党政治に明日がないことを証明してみせた選挙結果だったからだ。
では、明日がないことをわたしが解説しよう。
北海道5区の選挙区は、自民党王国といっても過言ではない。衆議院議員であった町村信孝の死去にともなう補欠選挙であり、義父の弔い合戦という旗印を掲げた和田よしあきが立候補しているので、勝負は決しているとみなされていた選挙区である。
誰がまったくの無名の池田まきがここまでの接戦に持ち込むと想像できただろうか。ある意味では選挙常識を覆したといえるだろう。
この事実を前提にして話しを進めたい。
和田よしあき陣営は死に物狂いで形振り構わぬ選挙戦を戦った。それだけ激戦になったからだが、組織力をフル回転させた総力戦だけではなく、えげつない情報戦まで行っている。反共宣伝とデマを流布させ、共産党の綱領を改竄したビラまで撒くというえげつなさだ。
従来型の政党主体の選挙戦の断末魔といえないだろうか。
注目すべきは、自民党王国の選挙区で、総力戦を戦い、えげつない情報戦までして、わずか12000票の差でしかない。仮に公明党がいなければ、この12000票の差などないに等しいだろう。
立党の精神をかなぐり捨て、党是も蹴飛ばして国家権力にすがりついている惨めな公明党様々なのである。
投票率が60%になっていたらどうなっていたか。池田まきが勝利していただろう。
ここまで論じてくれば、わたしが言わんとすることは分かるはずだ。
自民党王国の選挙区で、死に物狂いで形振り構わぬ総力戦を戦い、選挙違反であるデマや反共宣伝を行い、嘘八百のビラまでまかないと、現状の自民党では公明党の組織票がないと勝てないという事実である。
それだけではない。自民王国の選挙区でも投票率が60%に達すると勝てないなのである。
わたしが従来の政党政治の終焉と、従来の選挙戦の終焉をいうのはこうした現実を踏まえてのことだ。
北海道5区の衆議院補欠選挙の結果が、自民党と公明党の限界を暴露したといえる。これ以上の選挙戦を戦うということが無理なのである。そこまでの選挙戦をしたのに、この僅差なのだ。
中央のマスコミはこうしたことは論評するはずがない。安倍政権の末路をいうに等しいからだ。
これに対して池田まき陣営は限界がない。
池田まき陣営に限界があるとすれば、民進党と共産党の組織票という限界だろう。が、市民連合には元々が組織票などないのである。自覚する市民が手を繋ぎ合って横の連帯を広げていくものであり、組織票がないから、逆接的に限界がなく無限大の可能性があるのである。
野党共闘が遅れ、池田まきの選挙運動は出遅れた観が強い。それにまったくの無名であり、町村信孝を義父にもつ和田よしあきとは知名度でも圧倒的に不利であった。
それにも関わらず、どんどんと知名度を広げていったのは池田まきの人柄もあるだろうが、SNSをフル活用し、集会やデモによって池田まきの名を浸透させていったからだろう。
池田まきの猛追は驚異的であったが、選挙戦の後半である。これは何を物語っているかというと、野党共闘議員による連日の応援演説にもよるが、市民のネットワークによって横の連帯が広がっていったからだろう。仮に選挙戦があと二日あったら、逆転していたかもしれない。
市民連合に限界はない証拠は、無党派層の7割以上を池田まきが取り込んだという驚くべき事実だ。
わたしは農民の投票動向に興味があったが、農民票の分析はまだ目にしていない。ただ、年齢が50代以上では池田まきが優勢だったので、わたしは農民票の相当数が池田まきに回ったのではないかと想像している。農業の就労年齢が高いからだ。
和田よしあきは20代から40代までの有権者に優勢であったが、投票理由が経済政策優先だということだ。しかし、安倍政権の経済政策は実質的には破綻している。中央のマスコミの情報操作によって、まだ認知されていないだけなのである。そして、経済成長が幸福に繋がるという神話が未だに信仰されていることを物語っているのだと思う。作られた情報と神話がこの年代層を、辛うじて自民党に繋ぎ止めているといえないだろうか。
NHKのニュースで民進党の蓮舫議員が、選挙に負けたのだから戦術を見直さなくてはならないという的外れな談話を発表しているが、戦術は間違っていない。間違っていないことを、選挙戦の後半戦の猛追が証明してくれている。
わたしは池田まき賛歌のブログで、安倍政権と自民党が死に物狂いで形振り構わぬ選挙戦をしているのに、野党共闘は暢気だと批判したが、わたしからみると野党共闘の本気度が足りなかったことが敗因の一つだと思っている。選挙戦最終日の歴史的街宣の絵が選挙戦の序盤から実現していたら、もっと選挙への関心が高まったのではないだろうか。
蓮舫議員の発想は、従来型の選挙戦の籠の中に閉じ込められているのではないだろうか。籠の鳥の発想なのである。
戦術とは従来型の選挙戦の延長の単なる技術でしかない。
日本共産党の志位和夫委員長が、どうして国民連合政府構想をいち早く提示したのか、蓮舫議員は少しは考えるべきだろう。
蓮舫議員の技術としての戦術は単なる1+1=2でしかない発想なのだ。志位和夫委員長の発想は、どうしたら1+1が5にも7にもなるかという地点から導き出されるものなのだ。
1+1が5にも7にもなるためには、社会的な風を吹かせなければならないのである。社会的雰囲気と置き換えてもいい。
小泉純一郎が郵政民営化を問う総選挙を行い、圧倒的な勝利を収めている。また、小沢一郎に率いられた民主党が二大政党制を掲げて総選挙を戦い、まさかの圧倒的な勝利を手にした。そして、安倍晋三が消費税を据え置くことを問うという自己矛盾の理由で解散総選挙を行い圧勝している。
これらは小手先の戦術ではない。社会的な風と雰囲気を作ったから圧勝できたのである。忘れてはならないのは、この社会的な風と雰囲気をつくったのはマスコミである。
小泉と小沢のときはマスコミは投票率を上げるように国民を煽った。が、反対に安倍のときは選挙の前に自民圧勝を宣伝し、国民の心に諦めと終戦ムードを注ぎ込んで投票率を極端に落とした。マスコミの力は選挙にとって侮れない影響力があるという証左だろう。
重要なのは、北海道5区の衆議院補欠選挙の結果で、安倍政権にとって投票率を如何に下げるかが明暗を分かつことが、これまで以上に鮮明になったといえる。マスコミを使って投票率を下げる工作をしかけてくるはずです。内閣支持率を70%などという破廉恥な数値をNHKと産経と読売なら出してくるかもしれない。既に狂っているからだ(嗤)。
そのマスコミは安倍政権の下僕にまで堕落している。
安倍政権はどうにかしてマスコミを使って国民を騙し、社会的な風と雰囲気を作りたいのだろうが、今の状勢では無理がある。
TPPの問題、パナマ文書、沖縄辺野古新基地問題、甘利明の斡旋利得処罰法違反、アベノミクスの破綻と円高・株安、高市総務大臣の言論の自由に抵触する問題発言、自民党議員の暴言と暴走、熊本地震対応など、安倍政権の政権基盤を揺るがすような問題が山積である。マスコミが健全に機能していたら、もう既に安倍政権はこの世から消えていたはずだ。マスコミは安倍政権を追究しようとせずに、安倍政権を延命させるために情報操作をしている体たらくである。
「わたしはジャーナリストに警告しておく!
歴史的転換点として位置づけられているこの選挙において、池田まきが負けたとしたら、すべては日本ジャーナリズムの罪だということを声を大にして言っておく。
自覚する市民はジャーナリストの裏切りを心に刻み込むだろう。戦前の過ちを繰り返したマスコミを決して赦すことはない。
選挙戦が始まるまでは、和田よしあきの楽勝という情勢分析があったが、今や大接戦で分からなくなった。ここまで劣勢の池田まき陣営が追い込んできたのだ。
デマと反共宣伝があり、マスコミはそれすらも触れることはない。安部晋三が熊本地震で内閣総理大臣としての政治的決断ができず、国民の危急存亡の危機を政治目的に利用するという、国民の命と暮らしを守る使命を負った内閣総理大臣にあってはならない浅ましい行為を指弾することもなく、あろうことか安部晋三をヨイショする記事と報道を垂れ流していた中での、驚異的な追い上げなのである。
マスコミとしての使命を全うしていたならば、池田まきは和田よしあきを大きく引き離していたはずだ。
被災地に入った安部晋三をどう報道するか。
それによって投票に大きく影響するだろう。
NHKの影響は計り知れない。が、NHKの報道がどういうものになるか想像ができる。
NHKと産経と読売はジャーナリズムの名を騙る安倍政権と一体となった国民洗脳機関でしかないからだ」
わたしは北海道5区の衆議院補欠選挙における池田まき陣営の最大の敵はマスコミだったと思っている。
安倍政権が安泰なのは、中央のマスコミの力が絶大なのだ。特に全国の津々浦々にまで放送されるNHKの影響は無視できない。中央のマスコミの発表する内閣支持率は信じていないが、NHKが内閣支持率を押し上げているのは確かだろう。
安倍晋三の頭は単純だから勝利したことに有頂天のはずだが、安倍晋三の知能である取り巻き連中は狡猾だから、北海道5区の衆議院補欠選挙の結果を厳粛に受け止めているはずだ。そして対策を打ってくるだろう。
当然にマスコミを使った市民連合と野党共闘の分断を図るだろう。
この意味では、蓮舫議員の発想は危険である。北海道5区の衆議院補欠選挙の戦いは間違ってはいないのだ。要はもっと深化と進化をさせ、市民連合を国民連合のレベルにまで押し上げる必要があるということなのではないだろうか。このレベルまで押し上げれば、社会的な風と雰囲気という大きなうねりとなって、安倍政権と自民・公明を押し流してしまうことだろう。
安倍政権の意を汲んで、これを必死になって阻止するのが中央のマスコミである。中央のマスコミは今や社会的害悪であり社会的癌細胞だといえる。
新たな戦略を立てるとしたら、蓮舫議員の選挙戦術という発想ではなく、どうしたら社会的な風と社会的な雰囲気にまで持っていけるか、を練り上げるべきだろう。
報道自由度世界ランキングが日本は72位だという。
これは深刻な問題だ。
能動的に真実を求めてSNSや書物などの情報に接している人々と、受動的に中央のマスコミから垂れ流される情報だけに接している人々の間には見えない大きな壁が作られているといえるのではないだろうか。
二つの世界があるといえる。
この壁が市民連合の政治的うねりを国民連合という強力な政治的うねりへと深化させられない要因なのではないだろうか。
安倍政権が安泰なのは国民を受動的な世界へと閉じ込めているからだ。投票率が60%を越えてしまうと、安倍政権の命取りになる。この受動的な世界では政治に目覚めないように、そして間違っても投票所にだけはいかないように、マスコミを使って洗脳しているのである。
この受動的な世界にどれだけ市民連合が割り込めるか、それが参議院選挙に勝利できるかどうかの鍵になるのではないだろうか。
いわば安倍政権の下僕であるマスコミとの情報戦であるが、マスコミは電波を独占しているだけに一筋縄ではいかないだろう。
しかし、一縷の希望は、北海道5区の衆議院補欠選挙で50代以上が、池田まきに投票していることだ。受動的な世界の人々が多いのではないだろうか。
集会とデモで出来るだけ多くの人々に可視化することが重要であることは間違いないが、それ以外の方法も早急に考えなければならないのではないだろうか。
もう一度言うと、従来型の政党政治は終焉した。
革新と保守、左翼と右翼というこれまでの対立軸が意味をなさなくなったのだから当たり前である。これについても、ブログに書いている。歴史的転換点とはこうした従来の本質的な意味での価値観が崩壊したことが土台にあるから、従来の対立軸を前提にした政党政治がそのまま存続できるはずはないのである。歴史的過渡期にあるといえよう。詳しくは過去のブログを参照していただきたい。
池田まきが時代の扉をこじ開けてくれた!
池田まきが新しい時代の風を吹かせてくれた!
この風を大きなうねりにすることが、池田まきへの恩返しだ!
池田まきよ、希望をありがとう!
※小説はキンドル版の電子書籍として出版しています。
※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます。