「北林あずみ」のblog

2016年04月

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 池田まきが敗れた。
 未だに、信じられない。
 信じられない、というと適切な表現ではないのだろう。信じたくないというべきなのかもしれない。
 これまで何度となくブログに書いたが、わたしは北海道5区の衆議院補欠選挙を歴史的転換点として位置づけてきた。その意味をブログで繰り返し述べている。
 この歴史的選挙において、わたしに何ができるのだろうか。そう思ったわたしは、たった一人の池田まき私設応援団を結成して、熱烈に応援することにしたのだ。
 応援するとしても、62才になる貧乏人のわたしにできることは限られている(笑)。
 わたしは自分を作家だと思っている。そして作家としての覚悟と矜恃をもっているつもりだ。貧乏人であり、作家であるわたしにできることといえば、文章によって池田まきを応援するしかない、という結論に至るまでに三秒とかからなかった(笑)
 わたしがブログに池田まき賛歌を矢継ぎ早に書いた理由である。新しいものから挙げると、





 
 の五つである。この五つ以外に下記の二つのブログを書いているが、わたしとしては池田まきの応援のつもりで書いている。以下の二つである。



 これまでにわたしはブログで政治家について何度か書いているが、一人の政治家についてこれほど書いたことはない。書かずにはいられないほど、わたしにとって北海道5区の衆議院補欠選挙が重大な意味を持つものだったのである。また書かずにはいられないほど、池田まきが魅惑的な政治家であり女性だったのである。
 わたしは北海道5区の衆議院補欠選挙を、新しい日本の未来を切り拓き、新しい日本の政治を生み落とすための陣痛と位置づけていた。換言すれば、次なる時代へと歩んでいくために、固く閉ざされていた扉を押し開けるための歴史的選挙と捉えていたのである。新しい時代へと入っていくための扉とは、歴史的転換点といえる。その扉を押し開けるために池田まきが歴史の舞台に立ったのだと信じていたのだ。

 残念なことに、惜敗してしまった。
 しかし敗れはしたが、わたしは池田まきは目的を果たしたと確信している。
 池田まきは、新しい日本の未来を切り拓き、新しい日本の政治を生み出すために、固く閉ざされていた時代の扉をこじ開けてくれたのだ。
 わたしにはこじ開けられた扉の向こうから吹いてくる新しい時代の風がみえる。
 見るがいい、池田まきが招き寄せた新しい時代の風が吹いている。
 若葉の季節に相応しい、清らかに透き通った風だ。
「この風がみえるか! この風を感じられるか!」と、わたしは厳粛に問いたい。

 中央のマスコミは、ジャーナリズムの気高い魂を失い、堕落の坂を転がり落ちている。当然に、中央のマスコミにはこの風がみえていない。
 だからこの選挙結果について的外れな見解と論評しか語れないのだ。
 中央のマスコミはこぞって、総力戦を制した安倍政権と自民党と公明党の勝利であるかのように報道している。
 どこに目がついているのかといいたい
 これほどまでに日本のジャーナリズムの質は地に落ちてしまったのかと愕然とする。
 これから、たった一人の池田まきの私設応援団を解団するに当たって、北海道5区の衆議院補欠選挙を、今後の展望を含めて、わたしなりに総括してみたい。

 北海道5区の衆議院補欠選挙が、対照的な二つの陣営の選挙戦だったということを、わたしはブログで論じている。
 和田よしあき陣営は従来型の政党主体の選挙戦を戦い、池田まき陣営は市民と野党共闘が連帯して選挙戦を戦った。
 北海道5区の衆議院補欠選挙の結果について、マスコミは奇妙な論評に終始している。自民・公明党と野党共闘という対立図式からの視点でしか論評していないのである。対立図式の中での二つの陣営の総力戦として論じているのだ。
 野党共闘統一候補としての池田まきを歴史の舞台へと押し上げたのは自覚する市民の力である。この自覚する市民の力がなかったら、野党共闘統一候補としての池田まきは存在していなかっただろう。野党共闘へと道を切り開いて実現させたのは市民なのである。
 したがって池田まき陣営の選挙戦においても市民が果たした役割は計り知れない。現にわたしはたった一人の池田まき私設応援団を設立したほどだ。全国にわたしのような人たちがどれほどいただろうか。SNSを主体とした選挙戦であるが、今や選挙戦においてSNSは無視できない影響力があるはずだ。
 池田まき陣営の選挙戦をみるとき、野党共闘の側面からだけでみて、市民連合の側面を切り捨てたとしたら、北海道5区の衆議院補欠選挙の本質を見失うことになる。
 中央のマスコミは、市民連合の側面をばっさりと切り捨ててしまっているのだ。その上で、野党共闘は善戦したが、自民党と公明党の組織力と底時からには及ばなかった。自民党と公明党が全勢力を傾けて総力戦を戦えば、野党共闘といえども叶わない、と結論づけているのである。
 日本のマスコミはここまで能天気になったのか、と嗤いたくなってしまう。
 ジャーナリストの眼ではない。ほとんど一般人と変わらない眼力である。昨今の作家の眼が一般人と変わらなくなったと思っていたら、ジャーナリストの眼も一般人と変わらなくなったといえる。嘆かわしいことであり、中央のマスコミは即刻ジャーナリズムの看板を下ろすべきだ。

 が、わたしと違って超一流の大学を出た中央のマスコミの社員なのだから、そこまで頭が空っぽとは思えない。安倍晋三の頭とは違うはずだ(笑)。
 そうだとすれば、意図的に中央のマスコミは市民連合の果たした役割と可能性を切り捨てて、野党共闘と自民・公明の総力をかけた一騎打ちとしてみているのだろう。

 どうして、安倍政権の下僕と化した中央のマスコミは、市民連合の果たした役割と可能性を切り捨てるのだろうか。
 視点を換えると、北海道5区の衆議院補欠選挙の結果の背後に隠れた本当の意味が浮かび上がってくるからだ。
 わたしは池田まき賛歌のブログで、北海道5区の衆議院補欠選挙は従来型の政党政治の終焉を告げる選挙であり、自民党を典型とする従来型の選挙戦のおぞましくも醜悪な末路の姿を露わにした選挙だと指摘した。
 NHKの19時のニュースが、北海道5区の衆議院補欠選挙で勝利したことを喜んでいる安倍晋三の姿を映し出していたが、お目出度い男だと思う。
 わたしが安倍晋三なら震え上がっているはずだ。なぜならば、従来型の政党政治に明日がないことを証明してみせた選挙結果だったからだ。

 では、明日がないことをわたしが解説しよう。
 北海道5区の選挙区は、自民党王国といっても過言ではない。衆議院議員であった町村信孝の死去にともなう補欠選挙であり、義父の弔い合戦という旗印を掲げた和田よしあきが立候補しているので、勝負は決しているとみなされていた選挙区である。
 誰がまったくの無名の池田まきがここまでの接戦に持ち込むと想像できただろうか。ある意味では選挙常識を覆したといえるだろう。
 この事実を前提にして話しを進めたい。
 和田よしあき陣営は死に物狂いで形振り構わぬ選挙戦を戦った。それだけ激戦になったからだが、組織力をフル回転させた総力戦だけではなく、えげつない情報戦まで行っている。反共宣伝とデマを流布させ、共産党の綱領を改竄したビラまで撒くというえげつなさだ。
 従来型の政党主体の選挙戦の断末魔といえないだろうか。
 注目すべきは、自民党王国の選挙区で、総力戦を戦い、えげつない情報戦までして、わずか12000票の差でしかない。仮に公明党がいなければ、この12000票の差などないに等しいだろう。
 立党の精神をかなぐり捨て、党是も蹴飛ばして国家権力にすがりついている惨めな公明党様々なのである。
 投票率が60%になっていたらどうなっていたか。池田まきが勝利していただろう。
 ここまで論じてくれば、わたしが言わんとすることは分かるはずだ。
 自民党王国の選挙区で、死に物狂いで形振り構わぬ総力戦を戦い、選挙違反であるデマや反共宣伝を行い、嘘八百のビラまでまかないと、現状の自民党では公明党の組織票がないと勝てないという事実である。
 それだけではない。自民王国の選挙区でも投票率が60%に達すると勝てないなのである。
 わたしが従来の政党政治の終焉と、従来の選挙戦の終焉をいうのはこうした現実を踏まえてのことだ。
 北海道5区の衆議院補欠選挙の結果が、自民党と公明党の限界を暴露したといえる。これ以上の選挙戦を戦うということが無理なのである。そこまでの選挙戦をしたのに、この僅差なのだ。
 中央のマスコミはこうしたことは論評するはずがない。安倍政権の末路をいうに等しいからだ。

 これに対して池田まき陣営は限界がない。
 池田まき陣営に限界があるとすれば、民進党と共産党の組織票という限界だろう。が、市民連合には元々が組織票などないのである。自覚する市民が手を繋ぎ合って横の連帯を広げていくものであり、組織票がないから、逆接的に限界がなく無限大の可能性があるのである。
 野党共闘が遅れ、池田まきの選挙運動は出遅れた観が強い。それにまったくの無名であり、町村信孝を義父にもつ和田よしあきとは知名度でも圧倒的に不利であった。
 それにも関わらず、どんどんと知名度を広げていったのは池田まきの人柄もあるだろうが、SNSをフル活用し、集会やデモによって池田まきの名を浸透させていったからだろう。
 池田まきの猛追は驚異的であったが、選挙戦の後半である。これは何を物語っているかというと、野党共闘議員による連日の応援演説にもよるが、市民のネットワークによって横の連帯が広がっていったからだろう。仮に選挙戦があと二日あったら、逆転していたかもしれない。
 市民連合に限界はない証拠は、無党派層の7割以上を池田まきが取り込んだという驚くべき事実だ。
 
 わたしは農民の投票動向に興味があったが、農民票の分析はまだ目にしていない。ただ、年齢が50代以上では池田まきが優勢だったので、わたしは農民票の相当数が池田まきに回ったのではないかと想像している。農業の就労年齢が高いからだ。
 和田よしあきは20代から40代までの有権者に優勢であったが、投票理由が経済政策優先だということだ。しかし、安倍政権の経済政策は実質的には破綻している。中央のマスコミの情報操作によって、まだ認知されていないだけなのである。そして、経済成長が幸福に繋がるという神話が未だに信仰されていることを物語っているのだと思う。作られた情報と神話がこの年代層を、辛うじて自民党に繋ぎ止めているといえないだろうか。

 NHKのニュースで民進党の蓮舫議員が、選挙に負けたのだから戦術を見直さなくてはならないという的外れな談話を発表しているが、戦術は間違っていない。間違っていないことを、選挙戦の後半戦の猛追が証明してくれている。
 わたしは池田まき賛歌のブログで、安倍政権と自民党が死に物狂いで形振り構わぬ選挙戦をしているのに、野党共闘は暢気だと批判したが、わたしからみると野党共闘の本気度が足りなかったことが敗因の一つだと思っている。選挙戦最終日の歴史的街宣の絵が選挙戦の序盤から実現していたら、もっと選挙への関心が高まったのではないだろうか。
 蓮舫議員の発想は、従来型の選挙戦の籠の中に閉じ込められているのではないだろうか。籠の鳥の発想なのである。
 戦術とは従来型の選挙戦の延長の単なる技術でしかない。
 日本共産党の志位和夫委員長が、どうして国民連合政府構想をいち早く提示したのか、蓮舫議員は少しは考えるべきだろう。
 蓮舫議員の技術としての戦術は単なる1+1=2でしかない発想なのだ。志位和夫委員長の発想は、どうしたら1+1が5にも7にもなるかという地点から導き出されるものなのだ。
 1+1が5にも7にもなるためには、社会的な風を吹かせなければならないのである。社会的雰囲気と置き換えてもいい。
 小泉純一郎が郵政民営化を問う総選挙を行い、圧倒的な勝利を収めている。また、小沢一郎に率いられた民主党が二大政党制を掲げて総選挙を戦い、まさかの圧倒的な勝利を手にした。そして、安倍晋三が消費税を据え置くことを問うという自己矛盾の理由で解散総選挙を行い圧勝している。
 これらは小手先の戦術ではない。社会的な風と雰囲気を作ったから圧勝できたのである。忘れてはならないのは、この社会的な風と雰囲気をつくったのはマスコミである。
 小泉と小沢のときはマスコミは投票率を上げるように国民を煽った。が、反対に安倍のときは選挙の前に自民圧勝を宣伝し、国民の心に諦めと終戦ムードを注ぎ込んで投票率を極端に落とした。マスコミの力は選挙にとって侮れない影響力があるという証左だろう。
 重要なのは、北海道5区の衆議院補欠選挙の結果で、安倍政権にとって投票率を如何に下げるかが明暗を分かつことが、これまで以上に鮮明になったといえる。マスコミを使って投票率を下げる工作をしかけてくるはずです。内閣支持率を70%などという破廉恥な数値をNHKと産経と読売なら出してくるかもしれない。既に狂っているからだ(嗤)。

 そのマスコミは安倍政権の下僕にまで堕落している。
 安倍政権はどうにかしてマスコミを使って国民を騙し、社会的な風と雰囲気を作りたいのだろうが、今の状勢では無理がある。
 TPPの問題、パナマ文書、沖縄辺野古新基地問題、甘利明の斡旋利得処罰法違反、アベノミクスの破綻と円高・株安、高市総務大臣の言論の自由に抵触する問題発言、自民党議員の暴言と暴走、熊本地震対応など、安倍政権の政権基盤を揺るがすような問題が山積である。マスコミが健全に機能していたら、もう既に安倍政権はこの世から消えていたはずだ。マスコミは安倍政権を追究しようとせずに、安倍政権を延命させるために情報操作をしている体たらくである。

 わたしは池田まきは新しい日本の未来を切り拓く希望である……マスコミ報道を問うというブログの中で中央のマスコミを次のように批判した。

わたしはジャーナリストに警告しておく!
 歴史的転換点として位置づけられているこの選挙において、池田まきが負けたとしたら、すべては日本ジャーナリズムの罪だということを声を大にして言っておく。
 自覚する市民はジャーナリストの裏切りを心に刻み込むだろう。戦前の過ちを繰り返したマスコミを決して赦すことはない。
 選挙戦が始まるまでは、和田よしあきの楽勝という情勢分析があったが、今や大接戦で分からなくなった。ここまで劣勢の池田まき陣営が追い込んできたのだ。
 デマと反共宣伝があり、マスコミはそれすらも触れることはない。安部晋三が熊本地震で内閣総理大臣としての政治的決断ができず、国民の危急存亡の危機を政治目的に利用するという、国民の命と暮らしを守る使命を負った内閣総理大臣にあってはならない浅ましい行為を指弾することもなく、あろうことか安部晋三をヨイショする記事と報道を垂れ流していた中での、驚異的な追い上げなのである。
 マスコミとしての使命を全うしていたならば、池田まきは和田よしあきを大きく引き離していたはずだ。
 被災地に入った安部晋三をどう報道するか。
 それによって投票に大きく影響するだろう。
 NHKの影響は計り知れない。が、NHKの報道がどういうものになるか想像ができる。
 NHKと産経と読売はジャーナリズムの名を騙る安倍政権と一体となった国民洗脳機関でしかないからだ」

 わたしは北海道5区の衆議院補欠選挙における池田まき陣営の最大の敵はマスコミだったと思っている。
 安倍政権が安泰なのは、中央のマスコミの力が絶大なのだ。特に全国の津々浦々にまで放送されるNHKの影響は無視できない。中央のマスコミの発表する内閣支持率は信じていないが、NHKが内閣支持率を押し上げているのは確かだろう。

 安倍晋三の頭は単純だから勝利したことに有頂天のはずだが、安倍晋三の知能である取り巻き連中は狡猾だから、北海道5区の衆議院補欠選挙の結果を厳粛に受け止めているはずだ。そして対策を打ってくるだろう。
 当然にマスコミを使った市民連合と野党共闘の分断を図るだろう。
 この意味では、蓮舫議員の発想は危険である。北海道5区の衆議院補欠選挙の戦いは間違ってはいないのだ。要はもっと深化と進化をさせ、市民連合を国民連合のレベルにまで押し上げる必要があるということなのではないだろうか。このレベルまで押し上げれば、社会的な風と雰囲気という大きなうねりとなって、安倍政権と自民・公明を押し流してしまうことだろう。
 安倍政権の意を汲んで、これを必死になって阻止するのが中央のマスコミである。中央のマスコミは今や社会的害悪であり社会的癌細胞だといえる。
 新たな戦略を立てるとしたら、蓮舫議員の選挙戦術という発想ではなく、どうしたら社会的な風と社会的な雰囲気にまで持っていけるか、を練り上げるべきだろう。

 報道自由度世界ランキングが日本は72位だという。
 これは深刻な問題だ。
 能動的に真実を求めてSNSや書物などの情報に接している人々と、受動的に中央のマスコミから垂れ流される情報だけに接している人々の間には見えない大きな壁が作られているといえるのではないだろうか。
 二つの世界があるといえる。
 この壁が市民連合の政治的うねりを国民連合という強力な政治的うねりへと深化させられない要因なのではないだろうか。
 安倍政権が安泰なのは国民を受動的な世界へと閉じ込めているからだ。投票率が60%を越えてしまうと、安倍政権の命取りになる。この受動的な世界では政治に目覚めないように、そして間違っても投票所にだけはいかないように、マスコミを使って洗脳しているのである。
 この受動的な世界にどれだけ市民連合が割り込めるか、それが参議院選挙に勝利できるかどうかの鍵になるのではないだろうか。
 いわば安倍政権の下僕であるマスコミとの情報戦であるが、マスコミは電波を独占しているだけに一筋縄ではいかないだろう。
 しかし、一縷の希望は、北海道5区の衆議院補欠選挙で50代以上が、池田まきに投票していることだ。受動的な世界の人々が多いのではないだろうか。
 集会とデモで出来るだけ多くの人々に可視化することが重要であることは間違いないが、それ以外の方法も早急に考えなければならないのではないだろうか。
 もう一度言うと、従来型の政党政治は終焉した。
 革新と保守、左翼と右翼というこれまでの対立軸が意味をなさなくなったのだから当たり前である。これについても、ブログに書いている。歴史的転換点とはこうした従来の本質的な意味での価値観が崩壊したことが土台にあるから、従来の対立軸を前提にした政党政治がそのまま存続できるはずはないのである。歴史的過渡期にあるといえよう。詳しくは過去のブログを参照していただきたい。

 池田まきが時代の扉をこじ開けてくれた!
 池田まきが新しい時代の風を吹かせてくれた!
 この風を大きなうねりにすることが、池田まきへの恩返しだ!
 池田まきよ、希望をありがとう!

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 池田まきの姿に何を感じ取るか。
 池田まきの姿に何を思うか。
 厳粛な時代の声が、日本のジャーナリズムに問うている。
 日本のジャーナリストにその声が聞こえているのだろうか。
 ジャーナリストには独特の嗅覚と直観があるはずだ。
 その嗅覚と直観には、目に見える事実の背後に隠れて見えない真実の姿を、身命を賭して追い求めようとし、頑ななまでに肉迫しようとするジャーナリズム魂が乗り移っている、とわたしは思っている。だから一般人には決して見えない真実を暴くために、表層的な出来事でしかない事実の皮を一枚一枚剥いでいくのだろう。皮を剥いでいけば真実に辿り着ける、ということをジャーナリストの嗅覚と直観が教えてくれているのだ。
 わたしは誰よりもジャーナリストに敬意を表すつもりだ。誰でもジャーナリストになれはしない。妥協なく飽くまでも真実に肉迫しようとする気高い覚悟と矜恃がなければ、ジャーナリストにはなれないからだ。

 ジャーナリストの嗅覚と直観は、北海道5区の衆議院補欠選挙をどう捉えているのだろうか。
 わたしはジャーナリストと自任する人たちに真摯に問いたい!
 池田まきの選挙戦と、和田よしあきの選挙戦とは真逆である。
 従来型の政党を土台とした選挙戦の末路を、和田よしあき陣営の選挙戦が如実に物語ってくれているのではないだろうか。
 デマを流し、反共宣伝に明け暮れ、池田まきを貶めるゴシップがないか血眼になって嗅ぎ回っている。浅ましい限りの餓鬼の選挙戦である。
 そればかりか、安保法制の問題とTPPの問題と社会保障と福祉の問題を争点としないように、意図的に有権者の目をくらまそうと誘導しているのだ。選挙戦をただのイメージにまで堕落させているといえる。タレントを動員し、耳障りのいいことだけを唱え、オレオレ詐欺に等しい行為をしている。騙すが勝ち、という醜い選挙戦である。騙すが勝ちの論理で、組織力をフルに活用し、金を選挙戦に湯水のごとくつぎ込んでいる。
 一方の池田まきだが、こちらは従来の政党主体の選挙戦ではなく、市民主導の選挙戦である。組織力はなく、金もない。あるのは市民の連帯の力だけである。組織力と金がないから、逆接的に市民の連帯は日増しに膨らんでいく。まったく新しい選挙戦であるばかりでなく、従来の党利党略を優先する政党政治とは違った、まったく新しい政治の流れを作ったといえないだろうか。

 北海道5区の衆議院補欠選挙は単なる一地方区の選挙ではない。
 日本に新しい政治の夜明けを告げる選挙であり、日本の新しい未来を切り拓くための選挙である。
 それを絶対に阻止しようと形振り構わず死に物狂いで醜悪な選挙戦を繰り広げているのが安倍政権であり、自民党と公明党なのである。
 ジャーナリストと自任する人たちの嗅覚と直観は、この選挙が日本の未来を左右する歴史的転換点にあるものだと捉えているのだろうか。
 報道自由度世界ランキングは日本は72位である。
 この順位は国家権力だけの罪ではない。日本のジャーナリズムの罪である。
 ジャーナリストの魂をもっていれば屈辱的な順位であり、恥ずかしい限りの順位であるはずだ。ジャーナリストとしての自責の思いに囚われないとしたら嘘であり、似非ジャーナリストと言わざるを得ないだろう。名ばかりのジャーナリストであり、生きるための方便としてジャーナリストになったと指弾されても返す言葉がないはずだ。

 72位とは世界が客観的に判断したものである。
 この順位が何を物語っているか、ジャーナリストならば胸に手を当てて真摯に考えるべきだろう。
 国民に真実が伝わらずに、安倍政権の意に沿った情報だけが国民に一方的に垂れ流されていることを示している。
 しかし、72位とはこの段階をもはるかに超えた日本ジャーナリズムの堕落を物語ってくれている。
 安倍政権をジャーナリズムが神輿として担ぎ始めたということを意味してはいないか。
 安倍政権に都合がいい情報だけを切り取って国民に垂れ流し、安部晋三の発言を意図的に編集し脚色して、国民を洗脳しているという段階を示ているのが世界で72位という屈辱的な順位なのであろう。
 72位という順位は戦前の日本ジャーナリズムが犯した大罪である大政翼賛報道に等しいことをやり始めたと警鐘を鳴らしているのではないか!
 国民の耳目を奪い、口を封じるように仕向けて、国民を泥沼の戦争という地獄に駆り立てていったのが戦前の日本ジャーナリズムではなかったのか!
 いつか来た道をまた再び歩き始めたといえる。
 戦前には良心的ジャーナリストの抵抗があったが、中央のマスメディアには内部での良心的抵抗がまったく感じられない。良心的ジャーナリストがいるのは分かっているが、その抵抗が表面化し可視化しなければ、いないというのと変わりはないだろう。抵抗しているのは良心的な地方新聞と個人ジャーナリストだけだ。

 熊本地震という大災害を前にして、被災者の命と暮らしを優先することなど忖度もせず、政治目的に利用しようとしか考えていない安部晋三とその取り巻きは、大接戦の北海道5区の衆議院補欠選挙に利用しようと、安部晋三が選挙戦最終日の23日に現地入りすることを決めた。早々にマスコミは安部晋三の心ないパフォーマンスを大々的に宣伝を始めている。
 本来なら安部晋三にとって熊本地震の対応の稚拙さと杜撰さは命取りになっていたはずだ。それを防いでいるのがマスコミの情報操作なのである。

 わたしはジャーナリストに警告しておく!
 歴史的転換点として位置づけられているこの選挙において、池田まきが負けたとしたら、すべては日本ジャーナリズムの罪だということを声を大にして言っておく。
 自覚する市民はジャーナリストの裏切りを心に刻み込むだろう。戦前の過ちを繰り返したマスコミを決して赦すことはない。
 選挙戦が始まるまでは、和田よしあきの楽勝という情勢分析があったが、今や大接戦で分からなくなった。ここまで劣勢の池田まき陣営が追い込んできたのだ。
 デマと反共宣伝があり、マスコミはそれすらも触れることはない。安部晋三が熊本地震で内閣総理大臣としての政治的決断ができず、国民の危急存亡の危機を政治目的に利用するという、国民の命と暮らしを守る使命を負った内閣総理大臣にあってはならない浅ましい行為を指弾することもなく、あろうことか安部晋三をヨイショする記事と報道を垂れ流していた中での、驚異的な追い上げなのである。
 マスコミとしての使命を全うしていたならば、池田まきは和田よしあきを大きく引き離していたはずだ。
 被災地に入った安部晋三をどう報道するか。
 それによって投票に大きく影響するだろう。
 NHKの影響は計り知れない。が、NHKの報道がどういうものになるか想像ができる。
 NHKと産経と読売はジャーナリズムの名を騙る安倍政権と一体となった国民洗脳機関でしかないからだ。

 もう一度言いたい。
 この選挙は日本の未来を決する選挙だといえる。
 池田まきは、新しい政治の到来と新しい日本の未来を告げるために歴史的舞台に立っているのだ!

 池田まきが清らかに透き通った世直しの風を吹かせている!
 その風を感じられないとしたら、ジャーナリスト失格である。
 良心的なジャーナリストよ立て!
 日本ジャーナリズムの魂を燃え上がらせよ!
 ジャーナリストとしての意地と心意気と矜恃をみせてくれ!
 安部晋三の奴隷となった上層部に抵抗せよ!

 時代は池田まきを求めている!

 時代よ、池田まきに勝利を!



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 時代が池田まきを作った!
 時代が池田まきを求めている!
 だから時代は、池田まきを歴史の表舞台へと立たせた!
 国民は時代に試されている!

 池田まきを勝利させて、新しい日本の政治へと転換させ、新しい日本の未来の扉を自らの手で押し開けることができるかどうかの試練を、時代が国民に与えたといえる。
 新しい日本の政治へと転換させ、新しい日本の未来の扉を自らの手で押し開けるのは政治家ではなく、国民自身だということを時代は突きつけている。
 そのことに気づけずに、この歴史的転換点という舞台で、国民が立ち上がらなければ、日本という国は戦前のおぞましい貌をもつファシズム国家へと雪崩れていき、国民を地獄へと突き落とすだろう。
 残された選挙戦はあと二日!
 この二日で、新しい日本の未来の扉を、池田まきと手と手を握り合って押し開けるために、わたしたちは何ができるのだろうか!
 この二日で決まる!
 今、私たちに何ができるか!
 時代は問うている!

 安倍晋三は虚偽を生きる人間だ。
 そのことに躊躇いもなければ良心の呵責もない。
 あるはずはない。
 安倍晋三の人格そのものが虚偽だからだ。虚偽は安倍晋三にとっては自分そのものなのだから、安倍晋三にとっては虚偽こそがあるべき自分の姿なのである。
 安倍晋三の政治には一貫性がなく、整合性もなく、そしてそれぞれの発言に脈絡性もない。言っていることは矛盾に満ちており、「白だから黒なのである」という驚くべき論理学が安倍晋三の中に生きている。詭弁術というのではない。「技術」としての詭弁ではなく、人格的な詭弁なのである。
 一貫性がなく整合性も脈絡もない安倍晋三だが、私利私欲と幼児性自己愛と祖父である岸信介への妄執と、異常な権力欲と自己顕示欲はブレることはない。一貫している。そして、人におだてられ、持ち上げられることを異常な程に欲し、神輿として担がれることを無常の歓びとしている。
 岸信介への妄執が根強くあるから、国民に向けられる目がどういうものか想像がつくだろう。国民蔑視が基本にあり、国民を臣民としかみていない。だから国民を臣民と規定した明治維新によって成立した一神教的神道に心を奪われているのであり、一神教的天皇制と教育勅語と靖国神社への妄執があるのだ。
 国民を臣民としてみる安倍晋三に、庶民の命と暮らしに注がれる視線はない。弱者に寄り添おうとする感情は皆無である。

 熊本地震への対応をみれば、安倍晋三という人間の本質が分かるはずだ。
 被災者へと寄りそう心がなく、被災者の命と暮らしを何よりも優先させるという人として当たり前の情がない。
 そんな人間が政治家であっていいのだろうか!
 そんな人間が日本という国の舵取りをする内閣総理大臣であっていいのだろうか!
 このおぞましくも狂った事実を、国民が恐ろしいと感じられなくなっているのが日本の現実である。
 おぞましくも狂った事実を国民に知らせるべき使命をもつマスコミが、安倍晋三の走狗となってしまっているからだ。あろうことか、マスコミは国民の心が安倍晋三へとなびくように情報操作をし、安倍晋三への熱狂的な信仰を作り出す洗脳機関にまで堕落しているのである。
 世界からみたら、日本には言論の自由はないと映っている。世界報道自由度のランキングが日本は72位である。マスコミはそれを意に介さない。恐ろしい現実だといえる。

 安倍晋三がどうして内閣総理大臣でいられるのか。
 人間として破壊された人格の安倍晋三を神輿として担いでいる勢力がいるからだ。
 最早自民党と公明党は安倍晋三の破壊された人格と一体化している。だから信じられないような暴言を吐き、信じられないような行動をするのだ。国会答弁をみれば、自民党と公明党の政治が詭弁と嘘で成り立っているのが分かる。
 経団連は大企業優先の税制と経済政策を安倍晋三に求め、安倍晋三は社会保障と福祉を破壊しながら、経団連の意向のままに次々と強権的に実行に移している。
 武器輸出を解禁し、憲法違反の安保法制を強行採決し、国民と国会をを欺いてTPP参加を決めてしまった。
 昨日のブログで指摘したが、こうした面をみると安倍晋三には決断力があるようにみえるが、自分を神輿として担いでくれている勢力に操られたに過ぎない。いわば必然的なもので決断とはほど遠い。自分の保身であり、自分の権力基盤がより強固になるための単なる必然的選択なのだ。
 一方では、熊本地震の対応にみられるように、被災者に対しての決断は一切ない。自分に責任が降りかかってくるから、意図的に決断から回避しているのである。安倍晋三は幼児性自己愛者であり、性根の腐りきった臆病者である。それが見事なまでに露見したといえる。
 社会的弱者切り捨て、社会保障と福祉の切り捨て、そして1%大企業と富裕層を優遇するために、国民から税金を搾り取れるだけ搾ろうという魂胆なのである。国民から搾り取って、1%の大企業と富裕層に集中した富はどこへいくのか、パナマ文書が暴いてみせてくれた。
 安倍晋三と自民党と公明党のいう愛国と国益と国防とが、いかに嘘八百であるか、国民は気づくべきだ。
 原発事故がおきれば1%の大企業と富裕層は、真っ先に日本を捨てて逃げ出すことは火を見るよりも明らかだ。
 安倍晋三を擁護し、安倍晋三を信仰し、安倍晋三に盲目な者達に訊きたい!
 安倍晋三のいう愛国と国益と国防のどこに誠があるのか!

 安倍晋三と自民党と公明党は、北海道5区の衆議院補欠選挙の渦中にあって、焦りに焦っている。
 安倍晋三と自民党と公明党ばかりではない。安倍晋三を神輿として担いで影で操っている1%の大企業と富裕層と、それに寄生したマスコミといわゆる商売右翼である。商売右翼の典型が櫻井よしこである。思想があるようでない。思想は商売のための方便でしかない。櫻井よしこを飼っているご主人様が、黒といえば黒と言い、白と言えば白と言うのであり、その矛盾を詭弁を弄して誤魔化す思想的良心の欠如した非倫理的人間である。
 どうして焦っているかといえば、楽勝と思った北海道5区の衆議院補欠選挙で、池田まきに急追されているからだ。
 安倍晋三は溺愛性自愛者であり臆病者だから、誰よりも自分を脅かすものに対する嗅覚が発達している。
 安倍晋三ほど北海道5区の衆議院補欠選挙の意味に気づいているものはいないのではないだろうか。
 北海道5区の衆議院補欠選挙に敗れると、安倍政権の政治的基盤がガラガラと音を立てて崩れ始めることを知っているからだ。
 安倍晋三が海道5区の衆議院補欠選挙に勝てばどうなるか。
 綻びが見えた政治的基盤を盤石にするために、より強権的な政策を矢継ぎ早に打ち出してくるだろう。そして、国民の目を欺くために一次しのぎの見せかけだけのアメを与え、マスコミを使って国民の心を洗脳してくるはずだ。
 安倍晋三と自民党と公明党の政治の歪みが隠しようがなくなってきており、安倍晋三と自民党と公明党は、それを押しとどめるられるか破滅するかの鍵を握る瀬戸際の選挙であると位置づけているのである。
 ここまで追い込んだのは、自覚する市民の力と、政治家である前に一人の人間としての池田まきの魅力である。
 池田まきでなかったら、ここまで安倍晋三と自民党と公明党を窮地におきこめなかっただろうし、海道5区の衆議院補欠選挙が歴史的意味をもつこともなかったはずだ。
 わたしが「時代が池田まきを作った! 時代が池田まきを求めている!」というのは、こうした認識が核にあるからだ。
 海道5区の衆議院補欠選挙に負けても参議院選挙があると思うのは誤りである。
 ここで勝つか、負けるか、では天と地ほどの差がある。
 池田まきが勝てば、安倍政権の終わりが決まるのだ。
 ここで負ければ、安倍政権は息を吹き返し、より強権的になり、言論を弾圧し、ファシズム化を加速させるだろう。そうなれば、野党共闘があっても参議院選挙は不利な戦いとなる。
 海道5区の衆議院補欠選挙をみれば、安倍晋三は形振り構っていない。
 安倍晋三そのものであるデマと嘘を撒き散らして、選挙戦を戦っているのだ。有権者を騙そうとしているのである。騙してしまえば、後は強権によって言論を弾圧し、批判を徹底的に押さえ込めると踏んでいるのだ。

 わたしは野党は暢気だと思う。
 特に野党共闘候補の政治的感性の鈍さにははがゆい思いがする。
 自らの地盤に貼り付いて選挙運動に勤しむのを否定しないが、海道5区の衆議院補欠選挙は参議院選挙の前哨戦ではなく、参議院選挙そのものだという政治的嗅覚がないのだ。
 海道5区の衆議院補欠選挙の池田まきが勝利すれば、安倍政権はガタガタになる。ガタガタになった安倍政権ほど弱いものはない。安倍晋三は臆病者だからだ。
行け行けドンドンの攻めには強いが守りには弱い。政治的な度量と胆力と決断力がなければ、守りはできない。
 野党共闘統一候補は今からでも遅くないから、池田まきの下に馳せ参じて、熱烈な応援運動をすべきだ! 
 それが参議院選挙で自らが圧勝する必要不可欠の政治的条件である!
 野党議員も同様だ。
 熊本地震のあるべき復興を考えれば、安倍政権はあってはならない社会悪である。
 安倍政権のアキレス腱は池田まきの存在である!
 ここで死に物狂いで池田まきを勝利させないで、何が安倍政権の打倒だ!
 残り二日で、打倒安倍政権の心意気をみせてくれ!

 池田まきは劣勢である。
 自覚する一人一人の市民が立ち上がり、手を繋ぎ合って連帯し、新しい政治的潮流を生み出すまでの力となって、北海道から日本の新しい政治と、日本のあるべき未来を作っていくという心で池田まきを歴史的舞台に立たせたが、自覚する市民だけでは限界がある。
 いかにしたら自覚せずに眠っている市民を揺り起こし、また新しい政治的潮流を国民的なうねりに変えるかが、勝利するための重要な要素となるのだろう。
 そのためには農民と漁師の心をも、この新しい政治的うねりへと引き寄せることが必要絶対条件である。
 農民と漁師の方達は、日本共産党は農業の敵であるかのような印象をもっているのではないだろうか。
 正直にいうと、公式的な解釈をするマルクス主義陣営の一部では農民と漁師は歴史の進歩の歯車を逆回転させる反動勢力に位置づけられていた。
 労働者こそが資本主義社会から社会主義社会へと変革する歴史的必然性を担う階級だとされているからだが、こうした側面を過大に宣伝し、農民の心を国家権力に繋ぎ止めようとしてきたのが、明治維新以降の歴史である。
 明治維新によって成立した一神教的天皇制国家は、村落共同体を支配的基盤としてきたのであり、村落共同体を離れた都会的生活者の社会にもこの村落共同体的な幻想(第二のムラ)を支配原理として利用している(神島二郎『近代日本の精神構造』岩波書店)。
 したがって支配層にとっては、教育勅語によって国民に臣民としての心構え(御上に従順な奴隷根性)を植え付けることと、国民に反共意識を植え付けることに腐心してきたといえる。特に、国家が戦争に突入する以前には反共宣伝と狂信的ナショナリズムの高揚がセットになっていることが、明治維新以降の歴史をみれば分かる。
 支配基盤であった農村部で徹底的に反共宣伝が行われたことはいうまでもない。日本軍の兵士の供給源は北海道や東北の農民であったことも忘れてはならない。軍隊の中に共産党の思想に染まった者が侵入すれば戦地での指揮に関わるし、万一皇軍が反乱軍になったりしたら、国家そのものが危うくなり、それだけは絶対に回避しなければならなかったからだ。
 反共宣伝と狂信的ナショナリズムの高揚が頂点に達したのが昭和の初めであり、日本がファシズム国家へと脱皮し、泥沼の戦争と国民を駆り立てていった戦前の歴史であるが、反共宣伝は国民の言論を圧殺させる手始めとして利用されている。共産党を赤とし、非国民として社会から排除したのだ。
 社会から共産党を排除し終わったら、次は民主主義者である。そして、次は宗教者であり、最後には国家を批判する者の排除になる。非国民という言葉が排除の合い言葉だ。軍国の母は壁に耳を当てて隣人の言動を盗聴し、憲兵に通報して非国民として隣人を監獄にぶち込むことが当たり前になる恐怖社会の出現である。
 海道5区の衆議院補欠選挙で喧しいほどの反共宣伝とデマを流している和田よしあき陣営が目指す社会とは、戦前の恐怖社会であることが分かろうというものである。

 戦後になっても、自民党は支持基盤を農村部においた。
 反共と臣民の心が農村部に徹底されていたからだ。農村部を自民党が政権与党であるために利用したといえる。
 しかし、自民党がしてきたことは大資本のための政治である。
 表向きは日本の農業を重視するような顔をみせていたが、基本的には農業を切り捨てて大資本を優遇する政治姿勢を貫き、大資本のための経済政策に終始したといえる。経済成長至上主義をひた走ったのである。が、露骨に農業を切り捨てると支持基盤が危うくなるので、目先だけの農業対策をしアメを与えてきたのだ。その毒入りのアメに騙されてきたのが農民であり、毒入りのアメが日本農業を破壊させるための農業政策だったのではないだろうか。
 騙されても、騙されても、騙され続けても、農民達は目先の毒入りのアメにしがみつくしかなかったのである。なぜならば、御上の政治には口出しせずに、黙って御上のいうことに従っていれば間違いはない、と頭に叩き込まれてきたからだ。臣民の奴隷根性なのであるが、この奴隷根性には御上がくれるアメ玉にころっと騙されてしまう素直さが息づいているから救いようがないのだ。
 しかし、これは農民の罪ではない。そういう洗脳教育をしてきた国家権力の罪である。

 自民党は下野してからの選挙で、TPP断固反対を公約に掲げ、全国の農村部に「TPP断固反対! 絶対にブレない! 嘘つかない!」というポスターを所構わずべたべたと貼りまくった。が、まんまと農民を騙して政権に返り咲くと、今度はTPP断固推進に転向した。安倍晋三は先の国会で「私は一度もTPP反対を言った覚えはない」と断言したと言う。わたしは驚かない。安倍晋三の人格そのものが虚偽だからだ。
 安倍晋三は国会決議を守るといってTPP参加を決めたが、国会決議を無視していたことが明らかになった。
 そして、海道5区の衆議院補欠選挙を迎えている。
 安倍晋三のとった選挙戦術は、池田まきに関するゴシップを利用し、反共宣伝と共産党に関するデマを徹底的に拡散するというのだから、安倍晋三の目指す政治がいかに嘘塗れのおぞましいものかが分かろうというものである。
 北海道の農民と漁師の頭に叩き込まれているはずの臣民としての奴隷根性と「共産党は赤だ! 非国民だ!」という明治維新から戦前までの国民洗脳教育にすがりついているといえる。これこそが、安倍晋三がどういう社会を理想とするかが暴露されている。戦前の奴隷としての臣民に国民を変えて、戦争へと突き進むファシズム国家の再来である。
 
 北海道の農民と漁師に訴えたい!
 わたしは正真正銘の保守主義者である。
 そのわたしが日本共産党を熱烈に支持している。
 写真をみてほしい!
 日本共産党の北信越ブロックから衆議院議員となった藤野保史が選挙戦で掲げた旗印だ。
「農業は国の礎」という言葉に嘘の匂いがするだろうか!
 保守主義であるから、わたしは「農業は国の礎」の言葉を信じられた。この写真を撮ったのは誰あろう、藤野保史自身である。
 写真とは風景の一部を、それも一瞬を切り取ったものだ。この写真に藤野保史の日本農業を愛する心がみえないとすれば、それをみるひとの心は曇っていると断言できる。
 嘘とデマをまき散らす安倍晋三の心と、藤野保史の心とは真逆である。
 北海道の農民は安倍晋三と藤野保史のどちらの心を信じるつもりなのか!
 北信越の農民と保守主義者は、手弁当で藤野保史の応援に駆けつけた。藤野保史の心が党派の垣根を取っ払ってしまったのだ。
 共産党か自民党かと色眼鏡で見る前に、日本農業を本当に愛しているのは誰か、と無の心でみるべきであり、みるときが今なのである。
 和田よしあきは安倍晋三と同じ顔をしている。
 北海道の農民は、池田まきと和田よしあきの二人を真っ直ぐにみて、どちらが日本農業を愛してしるのか、思うべきである。
 既成の観念をすべて捨て去るべきだ。自民党は日本農業を破壊してきた張本人である。その張本人が農民の鼻先にぶら下げるアメ玉は毒入りだということに気づくべきだ!
 青い空と、雄大な北海道の大地に向かって
 自民党よ、永年にさようなら!
 と三度さけぼうではないか!

 わたしの好きな日本共産党の議員に、高橋千鶴子衆議院議員がいる。
 秋田生まれで、弘前大学出身からだろう青森から立候補した高橋千鶴子からは、柔らかな土の匂いがしないだろうか。
 わたしは高橋千鶴子から柔らかで温かな土の匂いを嗅ぎ取っている。
 北海道の農民なら、土の匂いに敏感のはずだ。
 日本共産党には高橋千鶴子だけではない。
 日本農業を誰よりも愛する真心と心意気がある。
 悪質な反共宣伝とデマに惑わされてはならない。
 日本の農業にとって、海道5区の衆議院補欠選挙は重要な意味をもつ。それだけではない。日本の未来にとっても海道5区の衆議院補欠選挙は重要な意味をもっている。
 選挙戦は大接戦だ! 
 選挙の行方は北海道の農民の一票にかかっているといっても過言ではない。
 北海道の農民は誇り高いはずだ!
 大地にすっくと立って天を指し示すポプラの魂が北海道農民の尊い魂のはずだ!
 池田まきは酷寒の大地にすっくと立つポプラではないのか!
 ポプラの梢となった池田まきの指さす真っ青な空に、日本農業の希望と、日本の未来の希望がみえるはずだ!
 誇り高い北海道の農民と漁師に訴える!
 池田まきの下へ! 
 北の大地にすっくと立つポプラの下へ!
 さあ、ムシロ旗を掲げよう!
 大漁旗を掲げよう!


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 新しい日本の歴史と未来を切り拓くための一里塚となれるか。
 北海道5区の衆議院補欠選挙の投票日まで今日を含めて5日になった。
 この選挙が、日本の未来を左右する重要なものであることを、どれほどの国民が認識しているのだろうか。

 北海道5区の衆議院補欠選挙のもつ歴史的な意味を、安倍政権の意向を汲んだ中央のマスコミが意図的に国民に伏せている。そして、この選挙へと国民の関心が向かうことを意図的に妨げている。
 国家権力を監視するという社会的使命を担うジャーナリズムの精神を忘れ、戦前の大罪を忘却して、いつか来た道を辿っている中央のマスコミに、悔しいが、わたしは期待していない。
 公共放送のはずのNHKを筆頭に、テレビは既に戦前の大政翼賛報道そのものにまで堕落した。
 中央のマスコミは国家権力の走狗となって情報操作を行い、国家権力の意のままに国民を操るための洗脳機関となっている。中央のマスコミは今や社会に害毒を蔓延させる社会悪でしかなない、とわたしは思っている。
 北海道5区の衆議院補欠選挙を戦う池田まき陣営は、中央のマスコミの情報戦とも戦わなければならないという大きなハンデをもっているといえるのだろう。

 どうして北海道5区の衆議院補欠選挙が、新しい日本の歴史と未来を切り拓くための一里塚と位置づけられるのか、その理由を、わたしはこれまでにTwitterやブログで触れてきたが、改めてもう一度訴えたい。
 これから、わたしが北海道5区の衆議院補欠選挙を、新しい日本の歴史と未来を切り拓くための一里塚と位置づける理由を、従来型の政党政治の終焉、新しい潮流としての市民運動、既存の対立軸の崩壊、市民主体の政治への転換という言葉を軸にして語っていきたい。
 理由が分かってくれば、時代が池田まきを求めていることもまた明らかになることだろう。
 これから書くことは池田まきへの賛歌である。
 そして衆議院議員・池田まきの実現を希い願う池田まき待望論である。
 わたしからみれば北海道5区の有権者は、日本の未来を託されているといえる。それだけ重要な選挙なのだ。全国から池田まきへの熱烈な応援の輪が広がっているのは、今回の選挙がそれだけの重みを持つ選挙だからだからであり、全国の市民の心を魅了し惹き付ける不思議な力を池田まきは持っているからだ。池田まきは、新しい日本の歴史と未来を切り拓くための一里塚を築くために生まれてきた、とわたしは本気で信じている。 

 自覚して立ち上がった市民たちが繋がり合って結集し、一つの政治的勢力にまで成長し、新しい政治的な潮流となった。その新しい潮流が池田まきを華々しい歴史の舞台へと立たせたのだ。
 新しい潮流は、日本の政治史の中で歴史的な意味をもつものだ。
 その潮流が擁立した池田まきを国政へと押し上げることは、当然に歴史的な意味を持つ。
 この新しい潮流の特徴は、主義主張の違いを乗り越え、党派の違いの垣根を乗り越え、宗教的な反目を乗り越えて、手を繋いだことにある。だから、この新しい潮流が一つの党派を形成するということはあり得ない。
 一つの党派を形成できないから、ただの烏合の集団であり、政党政治を前提として制度化された現行の議会制民主主義の下では政治を牽引していく強力な力とはなり得ないという批判的な見方があるだろう。現に無党派の池田まきは、自民党と公明党が担いだ和田よしあき候補に比べて、様々な法的規制に縛られて窮屈な選挙戦を強いられている。
 が、わたしは一つの党派を形成しないからこそ凄まじい破壊力を秘めていると確信している。
 新しい潮流の前では、従来の革新と保守、左翼と右翼などの既存の対立軸は陳腐なものとなり、意味をなさない。既存の対立軸に立ってみたときと、既存の対立軸を乗り越えた地点に立ってみたときとでは、みえる風景がまったく違ったものとなるだろう。わたしはあるべき日本の未来と、日本人の進むべき道は、既存の対立軸を乗り越えた地点からみえる風景の中にしかないと確信している。
 オール沖縄をわたしは沖縄の心と名付けているが、沖縄の心とは既存の対立軸を乗り越えた地点に立ったからこそ見えた風景なのではないだろうか。その風景の中に息づくかけがえのない心を、沖縄の人たちは目にしたのだ。

 既存の対立軸にしがみつくことで存続を保障されている従来型の政党にとっては、新しい潮流は脅威でしかないだろう。政党そのものの存続が危うくなるからだ。
 自民党は正しく既存の対立軸に寄りかかって存続しているのではないだろうか。既存の対立軸が生きているから、農民と漁師の票を得られているのだろう。既存の対立軸を基準にして物を考え、また既存の対立軸によって分けられたどちらかを選択するように習慣づけられているからだ。農民と漁師だけではない。多くの国民がこうした思考と選択をするように意識の中に叩き込まれているから、騙され続けても条件反射的に自民党に投票してしまうのだろう。

 民進党の歴史は離合集散の歴史だとわたしは思っている。
 離合集散を繰り返している要因は、既存の対立軸が徐々に壊れつつあり、意味をなさなくなったからではないだろうか。
 しかし、その事実が意味する本質を掴み切れずに、未だに既存の対立軸から自由になれていないから、方向性が定まらずに、右往左往している結果が離合集散なのではないだろうか。
 自民党と民進党の違いは、自民党が飽くまで政党主体の政治姿勢を貫き、国民は政党によって受動的に導かれて行く対象として見ているのに対して、民進党は政党主体の政治姿勢と国民に寄り添っていこうという政治姿勢とが中途半端に混在していることにあるのではないだろうか。
 民進党は二大政党制の幻想に未だに囚われている。
 わたしは二大政党制とは政党政治を基本としたものであり、新しい潮流の流れとは逆行するものだと思っている。
 作為的に二大政党制にするために小選挙区制を導入したから、制度的に新しい潮流の声が国政へと反映でき難くなっているのは確かだ。二大政党制とは政治を既存の対立軸(=価値観)の中に固定化するもので、いわば大きな鳥籠の中を二つに区切り、右にいったり左にいったりすることで、鳥籠の中にいるということから国民の目を逸らし、国民を永久に鳥籠の中に捕らえておく制度でしかない、とわたしは思う。
 二大政党制のもう一つの弊害は、同じ政党の看板を掲げていながら、異質な政党へと変質していくことを覆い隠してしまうことだ。変質していく方向が危険極まりないものでも、看板が同じだからを気づくことができないのである。
 自民党はいつの間にか、まったく異質な極右政党へと脱皮している。
 それでも国民は従来の自民党としてみている。日本共産党の前議長であった不破哲三が看破し、かつての自民党の重鎮が口を揃えていうように、自民党は極右勢力に乗っ取られ、まったく異質な極右政党へと脱皮してしまったのである。しかし、依然として看板は同じだから、この事実を国民が認知できていないのである。
 本来ならマスコミがいち早く警鐘を鳴らし、国民に広く認知させるべきなのだが、逆にマスコミは国民が気づかないようにと情報操作をしている始末である。ファシズム前夜の危機的な政治状況は、こうして生まれたのだろう。
 西欧におけるファシズムは極右政党のファシズム革命によって成立したものだが、戦前の日本ファシズムは既存の国家体制がずるずるべったりとした形で変質していった経緯がある。
 自民党のずるずるべったりの極右化は、戦前の日本ファシズムの過程と酷似している。自民党は既に、安倍晋三の独裁的色彩が強い。安倍晋三に逆らうことはできない空気が出来上がっているのであり、安倍晋三に忠実なイエスマンだけになってしまったののである。
 
 日本共産党はどうだろうか。
 参議院選挙に向けた野党連合に絶大な貢献をしたのは共産党である。昨年の安保法案の反対運動の渦中にあって、志位和夫委員長の類い希な政治的感性が、新しい潮流の歴史的可能性と歴史的意味とを掴んだと確信している。そして、新しい潮流に寄り添いながら歩んで行くという政治的決断をしたのだろう。だからいち早く国民連合政府構想を提示できたのではないだろうか。
 日本共産党は不思議な政党である。
 マルクス主義を掲げているのに、沖縄の心にしっかりと寄り添い、また国会議事堂正門前にムシロ旗を掲げ、幟を立てた軽トラを連ねて反安保法案のデモを起こした信濃の国の心にも寄り添っている。
 日本共産党は護憲と反TPPと反原発を掲げてブレることがない。一貫している。新しい潮流は既存の対立軸を超えて生まれたものであるが、超えたからこそ展望できる新しい風景の中に、護憲と反TPPと反原発の心が息づいているのは確かだ。だから日本共産党は、新しい潮流と共に歩いていけるのだと、わたしは思っている。
 言葉の厳密な意味での保守主義のわたしは、既存の対立軸を超えた地点に立っているつもりだ。その地点から日本のあるべき未来をみているから、日本共産党を熱烈に支持しているのである。

 これからの日本の政治は政党主体から、市民主体の政治へと移っていくのだろう。その過渡期にあるから、現在の混迷する政治的状況を生み出しているのだろう。
 政党政治が終わろうとする過渡期にあって、それでも政党にしがみつき、無理矢理に政党を存続させようとする力が、自民党を右傾化させる要因になっているのではないだろうか。政党政治が終わりに近づいているから、逆接的に政党を一枚岩にして盤石にしなければならなくなる。そして自民党を、狂犬……ではなく、強権へと駆り立てているのだろう。
 強権的な体質へと変わり、徐々に右傾化していった自民党を、更に極右にまで追い込んだものは何だろうか。わたしは資本主義の終焉だと思っている。資本主義の終焉だから、大資本は経済成長により即効性のある安易な道へとシフトしていくのだろう。軍産複合体とはそうした象徴であるが、そのためには強力な国家権力と軍事力が必要となり、その軍事力を背景に、国家と一体となって強欲な利潤拡大へと突き進むつもりなのだろう。安倍政権の武器輸出解禁と、形振り構わぬTPPの推進とはそうした文脈から理解されるべきなのではないだろうか。
 政党政治の終焉と資本主義の終焉が同時に起こっているから、自民党の右傾化とファシズム化に繋がった、とわたしは考える。それに相応しい男が安倍晋三だったのであり、安倍晋三を神輿として担ぎ上げたのだろう。

 公明党も政党政治にしがみつく以外に生き残りはできない。
 元々が創価学会を支持母体として出来た政党であり、ほとんど創価学会と一体と捉えていい政党なのであるが、政党政治が崩壊すれば存続意味を失ってしまうのではないだろうか。
 何故ならば、政党政治が基本としてあるから公明党はキャスチングボートを握れるのである。公明党は自身の存在価値をよくわきまえているといえる。公明党の堕落は、創価学会と一体となった政党政治に自らを縛り付けた時点で決まったといえないだろうか。その果てに、国家権力に擦り寄っていってお零れに預かるしか道がなくなったのだ。
 公明党は右傾化していると思う。
 コバンザメとなって自民党にへばりついているからばかりでないだろう。既存の対立軸と政党政治にしがみつくしか道がなくなったから、必然的に新しい潮流と対立することになり、右傾化せざるを得ないのではないか。そして、公明党の右傾化とは、創価学会の右傾化を意味するのだろう。
 
 既存の対立軸が壊れると死活問題になる勢力があるということを忘れてはならない
 革新と保守、左翼と右翼という対立軸があるから存在価値を認められている勢力である。商売右翼とか、商売保守とか呼ばれる勢力であり、右翼的な言動と保守主義的な言動を生業にしている勢力である。商売だから真正の右翼思想と保守思想とは無関係である。思想を生きているのではなく、したがって思想に殉ずるなどという精神とは無縁である。要は、国家権力が白といえば白を叫び、黒といえば黒と叫ぶという核としての信念も立ち位置もなく、国家権力に金で心を売った醜悪な貌をもつ亡者たちである。
 歴史は、こうした勢力が表舞台に登場してくると、政治的危機が迫っていることを教えてくれている。
 国家権力が極右化し始めると、決まってこうした勢力が表舞台に立ち現れるようになる。どういう役割を担っているかというと、体制を極右化するための社会的雰囲気作りと、言論の自由と体制批判の声を圧殺するための露払いなのである。
 旭日旗を掲げ戦闘服を着てヘイトスピーチをしなが街宣したり、大音響で軍歌をかけながら街宣車を走らせる似非右翼は、民衆の恐怖心を煽り、民衆から声を奪う役割を担っているのである。新聞と謳っているが、産経と読売は情報操作によって国民を洗脳するだけではなく、こうした威嚇的な色彩を強めているのではないだろうか。もう一度言っておくが、これは思想の表明ではない。商売であり生業なのである。
 昨今ではネットにまでこうした勢力が進出している。ネトウヨと呼ばれたり工作員と呼ばれたりする者達だ。こうした勢力の背後に自民党がいることが暴かれている。自民党はこうした輩を使って世論形成を図り、また言論封じを行っているのだ。これだけをみても、自民党が恐ろしい方向へと国民を導いて行こうとしているのが分かる。
 北海道5区の衆議院補欠選挙においても、池田まき陣営に対してネット上でデマを拡散したり、嫌がらせをしたり、池田まきを応援するネット上の声を圧殺しようとしている。
 こうした手法は、戦前の歴史を振り返るまでもなく使い古されたものであり、手垢に塗れた薄汚い手法だといえる。既存の対立軸にしがみつき、従来型の政党政治を存続させるために自民党が選択した手法が、おぞましくも薄汚い旧態依然のものだというのは象徴的でもある。新しい政治の方向性を示す潮流による新しい選挙と、従来型の政党政治を死守しようとする古い体質の醜悪な選挙とがぶつかり合っているといえる。

 わたしは昨日のブログで安倍晋三の政治的決断について書いた。
 熊本地震が安倍晋三の政治的決断の本質を暴いてくれたのであるが、結論をいうと、安倍晋三には政治的決断をする政治家としての資質も度量も胆力もないということが暴露された。安倍晋三は熊本地震という国家を揺るがす大災害を前にして、総理大臣としての決断から逃げているのだ。臆病にも決断をできないのである。
 どうしてかというと、決断をした安倍晋三は責任から逃れられないなるからだ。が、決断から逃れようとする行為は、総理大臣として赦されるものではない。だからわたしは安倍晋三は総理大臣失格であり、即刻退陣するように訴えたのである。
 政治に求められるのは、国民の命と暮らしと財産を守ることであり、これが政治の神髄のはずであり、西欧近代主義の理念を体現した国民国家における政治の使命である。
 国家の舵取りを任され、自ら総理大臣になることを切望してなったのだから、国家を揺るがす大災害を前にして、責任を回避するために担当大臣に丸投げしたりすることはあっては成らない行為だ。
 安倍晋三は一刻の猶予もならない緊急の事態にあって、国民の命と暮らしと財産を守る総理大臣としての使命を放り投げたといえるのではないだろうか。
 激甚災害の指定も未だかつてなされていない。来週に閣議決定をするというのだが、国民の命と暮らしと財産を守ることを優先的に思っているのだったら、総理大臣の権限で激甚災害の指定などできないはずはない。憲法まで踏みにじった男が、法律を盾に指定をしないことを正当化しているのだから、この男の性根はどこまでも腐っているとしかいえないではないか。
 川内原発も同様である。
 国民の命と暮らしと財産を守る使命をもつ総理大臣ならば、安倍晋三という個人的な思想と信念を曲げてでも、川内原発を停止させるのが当たり前の行為だろう。危機管理の以前の常識的な行為のはずだ。福島原発事故を体験していないならばまだしも、福島原発事故から何も学んでいないことが暴露されたといえる。
 安倍晋三には元より政治家としての信念も思想もない。あるのは私利私欲と祖父である岸信介への妄執だけである。安倍晋三は総理大臣の使命を捨てて、個人としての私利私欲と妄執を優先させたことにならないのだろうか。

 熊本地震を前にして、安倍晋三は驚くべき言動をしている。
 二三の例を挙げよう。
 安倍晋三は熊本県知事からの自衛隊の増員要請を拒絶している。また、自衛隊機で充分に対応が可能であり、その方が迅速であり効率的で小回りが利くのであるが、わざわざ米軍にオスプレイの援助を求めて、あろうことかそのために被災地に届ける物資の輸送を一日遅らしているのだから開いた口が塞がらない。
 これは明らかな政治目的のために大災害を利用したとしかいえない。オスプレイが災害で大活躍したと宣伝してオスプレイへの拒絶反応を払拭し、オスプレイが日本中を飛行することが可能となるように既成事実化することにあるとしか思えないではないか。
 菅官房長官は地震に襲われて早々に緊急事態条項の必要性を口にしたが、大災害を政治目的に利用しようとする魂胆以外の何ものでもないだろう。
 総理大臣である安倍晋三自らが陣頭指揮をとり、被災者の救援と援助を最優先することは幼稚園児でも分かるはずだが、安倍晋三はTPPに関する国会の審議を強行している。そればかりか、消費税率の引き上げを延期しないと発言するかと思えば、ゴールデンウィークを利用して欧州を訪問する計画だという。大災害が起こった時点で、そうした計画はすべてご破算にするべきことは論を待たないことだ。

 こうしてみると、安倍晋三が如何に国民の命と暮らしを蔑ろにし、総理大臣として国民の命と暮らしと財産を守る意志がないということが分かろうというものである。
 その一方で、己の私利私欲と妄執のためなら大災害だろうとなんだろうと、見境もなく利用しようとする。熊本地震は、安倍晋三が人としての情がなく、幼児性分裂症の人格であることを暴露したといえよう。
 わたしは昨日のブログで、安倍晋三が安保法案を強行採決する決断をし、また明らかに選挙公約違反であるTPP参加の決断をしたが、その決断は言葉の厳密な意味での決断ではないといった。
 すべて安倍晋三の私利私欲と妄執から出たものであり、安倍晋三を神輿として担いでいる1%の大資本と富裕層との利害に合致しているものである。その1%が国家権力を握っているという安全地帯からしか、安倍晋三は決断でしない。何かがあっても安倍晋三は責任から逃れられ、また責任を問われないという暗黙の了解があるからだ。そんな決断を、決断といえるのだろうか。
 だから、この方向での決断に歯止めはかからない。武器輸出を解禁し、原発輸出を画策し、大資本の法人税率を大幅に引き下げ、年金の株式運用比率を引き上げることに、何の躊躇いもないのである。

 安倍晋三の政治とは1%のための政治であることは疑いようはない。
 そして、国民不在であり、自民党という従来型の政党による強権的な政治だといえないだろうか。おぞましい極右勢力に乗っ取られた自民党という政党主体の政治なのである。
 池田まきの目指す政治は対照的だ。
 市民の、市民による、市民のため市民の政治なのであり、市民主導の政治である。従来型の政党主体の政治か、市民主体の政治か、のせめぎ合いが北海道5区の衆議院補欠選挙なのである。
 
 池田まきを是が非でも勝たせなければならない。
 そして池田まきを国政へと送り出さなくてはならない。
 この選挙は歴史的な意味をもち、歴史的な転換点にある選挙である。
 選挙戦はあと3日だ。死に物狂いで池田まきを応援するしかない。北海道5区の有権者でなくとも、全国から池田まきの下に心を結集しよう!
 わたしはこの3日で、市民連合を国民連合にできないものかと、訴えたい。
 農民と漁師の方達が、池田まきの下に結集できないものかと思っているのだ。
 和田よしあき陣営は反共宣伝をしているが、これは既存の対立軸に国民を縛り付ける戦術である。国民が既存の対立軸から自由になったら、選挙ばかりでなく自民党の存続が危うくなるからだ。
 農民と漁師は既存の対立軸に雁字搦めにされているのではないだろうか。そして明治維新政府によって国家宗教として国民を洗脳してきた一神教的国家神道と教育勅語の弊害を引き摺っているのではないだろうか。
 農民と漁師は臣民としての心構えを叩き込まれてきた。政治は御上のもので、臣民は政治に口出しせず、御上の言うことに逆らわずに従順に従っていればいい、という奴隷根性である。
 戦前はこの奴隷根性に社会主義者は非国民であり、共産党は赤であり日本を破壊する極悪人だと教え込まれてきたのだ。
 自民党は農業を犠牲にして経済成長至を常に優先してきた。自民党の農政の歴史は、農民への裏切りの歴史である。が、裏切られても、裏切られても、裏切られても、裏切られても、そして今度こそ大丈夫と言われて信じたが、またしても騙されて、騙されて、騙され続けたのに、日本農業にトドメを刺すTPPでもまた裏切られ、今度の選挙が日本農業にとって最後のチャンスなのである。
 このチャンスにまたしても自民党に騙されるとしたら、筆舌に尽くしがたい辛酸を重ねて、酷寒の大地を開拓した祖先様に何と申し開きするつもりなのだろうか。
 北海道の農民と漁師よ、そろそろ自民党を蹴飛ばすときではないのか?
 反共宣伝しかできない、薄汚い自民党の言葉など信用できるはずはない。TPPのための対策費など鼻先にぶら下げた人参でしかない。こんなもので騙そうとする、安倍晋三の魂胆はどこにあるか、胸に手を当てて考えるべきだ。そして、これまでに自民党に何度騙されたか指を折って数えるべきだ。足の指を使っても折る指が足りなくなるだろう。
 北海道の農民よ、ムシロ旗を掲げて、池田まきの下に結集しよう!
 北海道の漁師よ、大漁旗を掲げて、池田まきの下に結集しよう!
 その光景をみた安倍晋三と自民党は恐怖に震え、発狂することだろう!
 北海道の農民と漁師の手で、日本の政治を変えてみせてくれ!
 北海道から日本の新しい歴史と未来が始まる!
 いざ、池田まきの下へ! 


※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます。

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 妖しくも艶やかな桜の花の季節が駆け足で通り過ぎていった。
 これから初夏にかけて、季節は目まぐるしく装いを変えていく。
 一日毎に目にする街の風景が姿を変える。冬枯れた木々の枝先に、ほんのりと黄緑の色が滲み出したと思ったら、数日もしないうちに瑞々しい若葉の衣装をまとっている。若葉の季節もまた忙しない。たっぷりと水を含んだ絵筆の先から水彩絵の具を垂らしたような黄緑色が、日増しに濃くなっていく。
 若葉の季節が巡ってくると、決まってわたしは和辻哲郎の名著『風土』(岩波文庫)を思い出す。
 刻々と目まぐるしく姿を変えていく日本の特異な風土を、若葉の季節にみるからだ。昨日と今日とでは姿が違う。そして明日になったら、思いもしない姿で立ち現れてくる。
 日本にははっきりとした四季という変化がある。しかし、その春夏秋冬の中でも目まぐるしく姿を変えていくのが日本の独特な風土なのである。砂漠の広がる中東の風景とは対照的であり、また西欧の風景とも違う。そして中国とも違い北米大陸と南米大陸とも違い、アフリカ大陸とも違っている。
 火山と地震によって作られた、南北に細長い島国であり、また湿潤なモンスーン気候であって大量の降雨がある。そして、夏から秋にかけてやってくる台風がもたらす大雨によって山が浸食され、洪水を繰り返した気の遠くなるような長い年月の中で、変化に富んだ地形と特異な風景を生み出してきたのだろう。
 一昨年に妻と九州の大分県を旅したが、この旅はわたしが私淑している川端康成の小説『千羽鶴』と『波千鳥』に描かれた文子の旅路をなぞったものだ。
 大分空港から別府を抜けて由布院へと入り、九重山地にある筋湯温泉を経由して、豊後竹田へと至る旅だった。
 わたしは若い頃に山をやっていたので、山というものに対する固定化されたイメージを持っていた。南アルプスと北アルプスを核として、飯豊連峰と朝日連峰の東北の山によって形成されたイメージである。
 が、文子の旅路をなぞっていった中で、それまでの山のイメージが脆くも崩れ去った。
 別府から曲がりくねった山道へと入り、いくつかの山を越えると、目の前に由布岳の偉容な姿が飛び込んできた。はっと息を飲んだのを今でも鮮やかに覚えている。
 由布岳は生きている火山である。わたしは火山を何度もみている。初めての登山は福島の安達太良山連峰の縦走だったし、高峰高原を歩いたときには浅間山を直ぐ間近にみている。上高地の焼岳も目にしている。が、由布岳はそのどれとも印象が違った。当然に由布岳の偉容によるところが大きいのだろうが、それだけとは思えなかったのである。
 由布院に一泊して、翌日やまなみハイウェイで九重の山懐へと入っていくと、目にした風景によって、どうして由布岳にそれまでの山のイメージとは違ったものをみたのかが分かったのである。
 北アルプスや南アルプスと比べるとスケールは小さいが、起伏と変化に富んでおり、どれ一つとして同じ顔と表情をしていない。わたしは八ヶ岳連峰を想い浮かべたが、似ているようで明らかに違っていた。九州を南北に貫く背骨を形づくり、至る所から噴煙を上げている山並みの風景に、火山と地震が作り出した特異な姿を見つけ出したのだった。そして魅了されてしまったのだ。九州ならではの美しい風景だった。

 熊本地震の震源域は大分にも移り、わたしと妻が旅した由布院と豊後竹田にも被害が出ている。わたしと妻が、そして川端康成が描いた文子が愛した筋湯温泉は大丈夫なのだろうか、とそればかりを案じている。親切だった旅館の女将と従業員、そして筋湯温泉で生きる人々の無事を祈りたい。
 九州の美しい風景は、冒頭に書いた目まぐるしく姿を変える日本の風土が生み出したものである。しかし、日本の風土は目まぐるしく変わるからこそ凶暴な牙も持っている。熊本地震とは牙を剥いた日本の風土そのものだろう。

 一瞬たりとも同じ姿で留まってはいない、目まぐるしく変わる日本の風土に原発ほど不似合いなものはないだろう。原発とは目まぐるしく姿を変える日本の風土とは真逆の発想で作られたものだからだ。日本の風土と真逆だから、作った時点で、日本の風土から手痛いしっぺ返しを食う運命なのである。壊れるだけならまだしも、夥しい人の命を奪い、二度と住めない大地に変えてしまうのだから、これほど愚かなものはないだろう。
 原発は、自然は人の手でどうとでも操れ、どうとでも変えられるという西欧近代主義の発想から生まれたものなのである。西欧の風土に比べ、日本の風土は生易しいものではない、と和辻哲郎は『風土』で書いている。生易しいものではないから、変化に富んだ美しい風景があるのだ。
 わたしは日本の風土を愛している。
 日本の風土は美しい風景を生み出し、豊穣な恵みを与えてくれる。しかし、無慈悲に命を奪い、一瞬にして何もかもを破壊してしまう牙を隠し持っている。それが日本という風土なのだ。

 わたしの愛する日本の風土が恐ろしい牙を剥いた。
 そして、日本の風土はその牙によって、安倍晋三という男の本性を炙り出したといえる。
 気象庁も地震学者もこれまでの地震学的常識と、統計データでは予測困難な地震だといっている。群発化し、連鎖的に誘発しながら移動しているような様相すらみせている。
 活断層が解明されているのはほんの一部である。日本列島を取り囲むようにして複雑に絡み合ったプレートの力によって、いくつもの構造帯ができ、更にその構造帯とは異質の活断層が日本列島の隅々まで縦横に走っているのだろう。厄介なのはそうしたものが独立したものではなく、相互に作用し合っているのだろう。だから複雑な動きになるのだろうし、それだけに予測は困難になってくるのだろう。遠くで起こっている地震が、いつ直下で起こるとも限らないのが日本という風土なのであろう。
 
 熊本地震は国家を揺るがす大災害である。
 国家を揺るがす大災害だから、国家の舵取りを託されている安倍晋三という男の本質を容赦なく炙り出さずにはおかないのである。わたしが安倍晋三を男というのは、政治家として認めていないからだ(笑)。
 では、国家を揺るがす大災害が炙り出した安倍晋三の本質を描いてみよう。

 安倍晋三は実行力と決断力があると言われ、またそう思われている。
 その安倍晋三の大災害を前にしての決断をみてみよう。
 14日に発生した大地震を、19日の今になっても激甚災害の指定をしていない。3・11のときの民主党政権は2日後に早々に指定している。今日のニュースでは来週にも閣議決定で激甚災害の指定をするというが、驚くべき対応の遅さである。
 昨日の衆議院の質疑の中で激甚災害の指定が遅れているのは、必要な書類を当該する自治体が提出していないからだ、と河野担当大臣が答弁したが、これほど無能な内閣はないだろう。法律に縛られて、身動きができないのだ。
 安保法制の強行採決は国家の基本である憲法を無視したものだが、その張本人である安倍晋三が、今度は法律を盾に言い訳するのだから笑止千万である。
 地震は群発的に続いている。災害は規模を広げ、救助と救援で地元は大混乱している。優先すべきは人命である。そのための救援であり、また命を繋ぐための水や食糧の確保と配給である。そうした状況でどうしたら必要書類が作成できるのか。安倍晋三と安倍政権の本質的な発想が、これ一つみても分かろうというものである。
 ここに国家を揺るがす大災害の対応を指揮する総理大臣としての政治的決断はない。
 決断ができないのだ。
 臆病者の安倍晋三の性格が垣間見える。責任を自分一人で背負うことが怖いから、自ら決断を下すことなく、担当大臣に丸投げするのである。が、担当大臣が激甚災害の指定を判断する権限はない。だから窮余の策として、法律を持ち出したのだろう。お粗末極まりないし、政治家としての矜恃と覚悟がない。
 激甚災害の指定を受ければ、当該する自治体の長はどれほど心強いことだろう。心置きなく先手を打って救援活動ができ、臨機応変の対応が可能となるのだ。予算に縛られることから開放されるからだ。一番重要な現場の政治的決断を後押しし、大胆な政治的決断を生み出す力となるのである。現場のその政治的決断が、何よりも被災者にとって必要なのである。

 川内原発はどうか。
 誰がみても、停止させることが急務のはずだ。危機管理以前の話しである。
 安倍晋三は停止する決断ができない。
 丸川担当大臣に丸投げし、その丸川担当大臣は原子力安全委員会の田中委員長に丸投げする。この田中委員長のこれまでの言動をみれば、無責任極まりない男だということは分かっているはずだ。この男は巧妙に逃げ道を作っている。恐らく事故があったら、九電が安全だと言っていたからだと言い逃れするのだろうが、その九電は国から停止命令を受けていなかったからだと言い訳し、永遠の堂々巡りで結局は誰も責任を負わないのは火を見るよりも明らかだ。
 非倫理的であるばかりか、政治家としての覚悟も矜恃もなく、また科学者としての自覚も矜恃もなく、そして経営者としての社会的責任の自覚も矜恃も皆無なのである。
 安倍晋三は原発を再稼働させて、このまま原発政策を続けていくことを何よりも優先させているのだろう。
 そのために停止の決断ができないのだろうが、しかし安倍晋三は国民の命と暮らしを守るべき内閣総理大臣である。安倍晋三としての決断ではなく、内閣総理大臣としての決断がなければならない。
 が、安倍晋三は名ばかりの内閣総理大臣であって、内閣総理大臣の使命と覚悟と矜恃を捨てて、安倍晋三という醜い男の私慾と妄執にしがみついているのである。そればかりか、責任が自分に降りかからないように、都合がいい法律を持ち出して責任逃れをし、更に担当大臣に丸投げしているのである。

 熊本災害における安倍晋三の決断の不在は挙げれば切りがない。
 決断がないのに、この大災害という緊急時に、安倍晋三は考えられないことをしている。
 TPPを審議する衆議院の委員会を野党の反対と、自民党幹部の躊躇を押しのけて、安倍晋三は強行している。開いた口が塞がらないが、安倍晋三とその取り巻きの思惑があるのだろう。
 安倍政権はナチスに学んでいるようだが、安倍晋三の取り巻きは特にその意識が高いように思う。大災害をこれ幸いに、国民の洗脳と宣伝に利用しようとしているのである。
 米軍のオスプレイを救援活動のために出動要請をしたのはその典型である。自衛隊機が有り余るほどあり、緊急を要する事態にもかかわらず、米軍のオスプレイが
くるのを待機してまっているという信じられないことをしている。住民の命よりも政治的目的を優先させたのである。
 Twitterで、熊本地震を反原発という政治的目的に利用するな、という自民党の工作員らしきものの宣伝が拡散されているが、政治的目的に利用しているのは安倍政権であり、あろうことか政治的目的に縛られて、正常な状勢判断を損ねてしまっているように思える。
 菅官房長官の緊急事態条項に触れた発言など、一人の政治家としての良心と覚悟と矜恃があれば、この大災害を前にして口になどできるはずはない。

 では最後に、安倍晋三の安保法制を強行採決した決断と、TPPへの参加を決めた決断についてみてみたい。
 上述した決断力のない臆病者であり政治家失格の安倍晋三とは真逆のようにみえる。
 方向性は真逆である。が、安倍晋三にとっては安全であり保身的な決断なのである。いや、決断というのではなく、必然的な選択なのだ。
 この方向性には1%の大資本と富裕層がおり、安倍晋三を守ってくれるからであり、安倍晋三が生きて行くための糧であり、安倍晋三の味方だからだ。味方というよりも、安倍晋三を神輿として担ぎ、安倍晋三を守ってくれているのである。
 それに対して、大災害でみせた決断の不在は、99%の貧しい民衆の命と暮らしを守るためのものであるから、そんなもののために決断などしようともしないし、責任を背負いたくはないのである。
 初動時に熊本県知事が自衛隊の増員を政府に要請しているが、安倍晋三はつっぱねている。安倍晋三の父親である安倍晋太郎の「安倍晋三には政治家として最も大切な他人を思い遣る情がない」という言葉が思い出される。

 こんな男を内閣総理大臣にもつ日本人は不幸だ!
 この事実を、大政翼賛報道にまで堕落した中央のマスコミは一切触れることはなく、安倍晋三をヨイショする宣伝をしている。
 日本の風土に唾をする醜い男が、安倍晋三なのではないだろうか。
 一刻も早く安倍政権を粉砕しなければ、日本に未来はないだろう。
 そのためにも、北海道5区の衆議院補欠選挙の池田まきをどうしても勝利させなくてはならない。



※豊後竹田と由布院、九重山の長者原についてはブログで連載している小説『三月十一日の心』に描いています。
 
 また、豊後竹田と由布院についてもブログで書いております。よろしければ読んでください。


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