「北林あずみ」のblog

2015年11月

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 商品の価値とは何だろうか。
 前回のブログで、わたしはこの問いを発したのであるが、その答えに肉迫しようとせずに、脇道に逸れて知性信仰と理性信仰を批判する形で終わってしまった。
 わたしが発した問いがあまりにも無謀だったから、意図的にその問いから逃げて、脇道に逸れたといえなくもない。
 その一方で、脇道に逸れたのは、答えに肉迫しようとするからこその回り道だった、という言い訳を発したくなる誘惑に駆られていたりもする。
 わたしは誘惑にはすこぶる弱い。特に女の誘惑にはひとたまりもない。ただ幸か不幸か、女から艶めかしい誘惑を仕掛けられた経験がほとんどなかったから、華々しい女遍歴をすることもなく、妻を愛おしむだけの平穏な性を生きて、老いぼれた齢にまで達したのである(笑)。
 また前回のように回り道をしろという艶めかしい誘惑の芽が頭をもたげている。しかし、いくらなんでも初っぱなである。いくらずうずうしいわたしでも気が引けるというものである。が、重ねて言うがわたしは誘惑に弱い性(さが)なのである。よって誘惑に引き摺られて回り道をしてしまうことにする。

 わたしは哲学には人並みの興味はある。が、だからといって熱心に哲学書を読み漁ったり研究したりした経験はない。かといって皆無かというとそうではない。大学時代に丸山真男の弟子である橋川文三に「日本政治思想史」の手ほどきを受けたので、思想と哲学は切っても切れない関係だから、いくら盆暗なわたしでも哲学のほんの端っこを囓ったりはしたのである。そうでないとゼミの連中の会話についていけなくなり、落ち零れになってしまうからだ。
 わたしには浪漫的資質がある。浪漫的資質を妄想癖と言い換えてもいいかもしれない。だから『日本浪漫派批判序説』を著した橋川文三のゼミに入室したのである。自分の浪漫的資質とはどういうものであり、どういう危険性と可能性があるのか、知りたかったことが入室の素朴な動機だった。文学と思想とに心が引き寄せられていたので、政治思想ばかりか文学的造詣が深い橋川文三に憧れたことも動機の一つではあった。
 浪漫的資質のわたしであるが、当時は新左翼的な思想の周辺を彷徨っていた。新左翼的な思想といっても、新左翼的思想そのものが曖昧模糊としたものであり、マルクス主義を中心にしているようで、アナーキズムから実存主義ばかりか、ニヒリズムまで内包しており、果てはアジア主義からナショナリズムとくっついた民族主義的な容貌をしていたりもするのだから、ほとんど思想的なカオス状態だったといえなくもない。だから新左翼の超過激派と右翼の民族派との思想が紙一重の状態にまでなったりしていたのだろう。
 橋川文三ゼミは新左翼活動家とそのシンパの巣窟だったので、思想的には混沌とした無秩序状態であり、それだけにまとまりには欠けていたが、思想的な刺激に満ち溢れていたといえる。
 この思想的無秩序状態とカオスを更に助長したのが、橋川文三なのである。
 日本浪漫派自体が得体の知れない化け物であったのだが、丸山学派のはずの橋川文三が、丸山真男の方法論と問題意識とは真逆の方向に歩き出していたからだ。わたしが尊敬する竹内好は橋川文三を通して知ったのである。そして橋川文三が評伝を書いている柳田国男の民俗学に興味を覚えたのも、橋川文三の影響である。
 実際に橋川文三の弟子の中には、当時専任講師として母校で教えていた後藤総一郎がおり、後藤の方法論は民俗学的なものだった。橋川文三の弟子であったのだが、後藤は色川大吉の影響が大きかったようだ。どうも橋川文三は色川大吉の独特な民俗学と合体した歴史学を快く思っていなかった節がある。わたしの得意な文学的直観からだ。従って、橋川文三は後藤総一郎を不肖の弟子と思っていたのだろう。思えば橋川文三が丸山真男の不肖の弟子なのだから、因果は巡る糸車というか因果応報というものである。
 因みにわたしは、色川大吉の書物は何冊か読んでいる。中でも『新編 明治精神史』(中央公論社)には影響を受けている。
 こうした思想的なカオス状態の渦に飲み込まれ、思想的ごった煮状態を生きていたので、様々な思想に触れたりしたのである。が、触れたといってもその思想を正しく理解したことには繋がらない。女の柔肌に触れただけでは、その女を知ったことにならないのと一緒である。中には女の柔肌に触れただけでその女の本質から、女の身体の隅々まで感得してしまう性的達人がいるのかもしれないが、わたしは即物的な意味での性的盆暗なので、そうした才能は残念ながら持ち合わせてはいなかったようだ。即物的な意味での性的盆暗と書いたのには理由がある。即物的な意味では性的盆暗であるが、妄想的意味では性的天才だと信じている。わたしの書く小説は妄想的な意味での性的天才でないと生み出しようがない小説世界だからだ。この妄想は鋭い感性と想像力に負うところが大きい。
 嘘だと思ったら、電子書籍で出版している小説を読んでいただきたい。『室生古道』と『ゆさぶれ青い梢を』と『むらさきの匂へる』をお勧めする。
 即物的な意味での性的天才ではないから、即物的な描写で性を描いてはいない。妄想としての感性と想像を駆使した性的世界を描いているのだ。即物的な性描写などアダルトビデオに任せればいいのだ。任せればいいと言ったが、アダルトビデオに叶うはずはないのだ。より即物的であり、より技術的であり、より客観的だからだ。私小説はじめじめとした黴臭い性をおきまりで扱う。フランス自然主義文学を曲解した中で成立した私小説であるが、本家本元の人間の本質を醜い獣性としてみていることは変わらないからだ。その上に、虚構を認めず事実=真実というお目出度くも安易な文学観にしがみついてしまったので、目の前の事実をありのままに写し取る平面描写(客観描写)をあるべき文学的技法としたのだから、考えてみればアダルトビデオに叶うはずはないのである(笑)。無修正のアダルトビデオがネットで無料で観られる時代に、私小説の性描写などお呼びでないのだ。私小説的な意味での性は、表現としては文学で扱う意味がなくなったといえる。
 しかし純文学は私小説の悪しき伝統を今なお引き摺っているのだから、純文学などに見向きもしなくなるのは道理だ。
 わたしは思春期に性の世界を垣間見たい欲求から、私小説を読んだり、官能小説といわれているものを読んだが、アダルトビデオが流通している時代に思春期を生きていたら、そんな小説など読みはしないと断言できる。親に隠れて、アダルトビデオを観るだろう。
 考えてみると、現代の青少年は哀れである。
 何が哀れかというと、女と男の性器が即物的になってしまったからだ。男の性器はともかく、女の性器は常に神秘的でなければならない。そして、艶めかしい色と匂いと触感を秘めた妄想と一体となっていなければならない。何故ならば、新たな生命を生み出す魔性を秘めているからだ。女の魔性とは神々しいものなのである。
 私小説ならば即物的といってもまだ想像が入る余地はある。ビラビラしたものを舐めただとか、啜ったとか、噛んだとか書いても、いくら平面描写だといっても限界はある。が、アダルトビデオには平面描写としての限界がないのだ。
 当然に反論はあるだろう。私小説には心理描写があるが、アダルトビデオには性行為があるだけで、心理描写がないという反論である。心理描写といっても心理学的に、そして解剖学的に、暴露的に心理を暴いていくものだ。らっきょの皮を一枚一枚剥いでいくのと同じで、ついに核心に触れることはできないだろう。私小説とは人間の獣性を描き切ることが目的だからだ。であれば、アダルトビデオの方がはるかに人間の獣性を暴いて見せてくれているだろう。性が完全に商品と化して、考えられる性的技工と、性的倒錯の限りを尽くして、これでもかというくらいに性を堕落させ、人間の醜さを見せつけているからだ。性が飽くなき快楽を得るための単なる道具であり、単なる商品となってしまったのだ。これは人間が単なる欲望を消費するための道具となり、単なる商品となったことを意味する。
 だから安倍晋三や巨大資本といった国家権力者の国民を見る眼が、需要と一体となった欲望を消費し利益を生み出すための道具と見なしているのだ。需要と一体となった欲望を作り出しているのはマスコミである。マスコミは宣伝という情報によって国民を洗脳し、国家権力と資本の要求する欲望と社会的雰囲気(社会的欲望)を生み出しているのである。マスコミにとっての国民とは、国家権力と資本に売り込む商品なのである。

 人間性の復権と開放とは、性の復権と開放に繋がっているのである。
 性の復権が可能としたら文学以外にはないだろう。
 が、これまでの文学では駄目だと断言できる(笑)。
 もっとオオボラを吹くと、西欧近代主義と一体となった西欧的文学では無理だということになる。何故ならば、上記に書いたような性までを商品化してしまう社会構造が西欧近代主義は宿命的にもっているからだ。その西欧近代主義を土台とした文学に、性の復権と開放は無理だろう。
 わたしの文学観は「妄想」の世界に可能性を見出すものだ。妄想を「」で括ったのはいわゆる妄想とは違うからだ。西欧的認識が主体と客体という関係性で実を結ぶのに対して、わたしは「日本的なるもの」の核心である感覚的認識が作り出す「交感の場」に可能性をみているのである。
「交感の場」とは「神さびる」という表現にみられるような主体と客体という関係性を超えた、自然と人とが共鳴し交感し合う領域のことである。わたしの文学的意味での性とは、この「交感の場」なのである。この「交感の場」を指して「妄想」と言っているのだ。
 在野の民俗学者として生を全うした吉野祐子は、古代の祭りの核に「性」を見ている。古代の祭りの核心を稲作と繋げてみる柳田国男と折口信夫の民俗学に対立するものであるが、言葉を換えていうと、日本の古代人の原点を縄文人にみるか弥生人にみるかという本質的な問題に突き当たる。柳田国男と折口信夫は国学が辿り着いた「やまと心」としての源流である『古事記』の神代記に雁字搦めになっているのだ。だから古代の祭りを弥生人が日本に持ち込んだ稲作にみるという過ちを犯すことになる。稲作を通して古代の祭りをみると、どうしても解けない矛盾に突き当たることになるのだ。
 古代神道とは弥生人が日本列島に大量に移住してくる以前のものだ。その古代神道とは稲作農業の世界観ではなく、日本という風土性そのままを生きる姿勢であるといえる。自然と一体とか共生という西欧的言葉を超えて自然のありくるままに自然として生きる姿勢なのだろう。その生きる姿勢と生き方としての思想が古代神道に反映されているものだ。
 その古代神道を稲作文化を携えて来た弥生人の世界観に置き換えたのである。第一次神道革命といわれるものであるが、それが律令国家体制を正当化するためのイデオロギーである『古事記』の神代記なのである。
 古代人の祭りの核に「性」をみている吉野祐子は、「性」とは生と死との循環を繋げるものとして捉えている。生と死を繋げるものが「性」であるとすれば、この世に新たな生命を生み出し得るのは女しかいない。古代人の祭りの中心であった巫女は、生と死の循環を体現した女でなければならなかった所以であり、祭りにおける「性」とは巫女が神々と交わることで新たなる命を宿すという意味があったようだ。ふくよかであり、迸る命の躍動そのものであり、神々しくもある、女性を象った縄文土偶とは、正にそうしたものの証しである。
 巫女の生理期間に祭りが行えないのは、巫女が不浄であるからではなく、生理では新たな命を宿せないからだとしている。穢れと祓いという思想は、古代神道にあったように思われているが、穢れと祓いの思想が生まれたのも第一次神道革命においてであったことが立証されてもいる。
 吉野祐子は縄文土器を蛇がとぐろを巻いている姿だとし、更に女性器だとしている。火炎土器は煮炊きにも使われたのだろうが、古代の祭りにも使われたのだろう。
 わたしの描く性的世界とは、吉野祐子の民俗学を下敷きにしたものだ。そして「交感の場」としてある。生と死とを繋ぎ合わせ循環させる「場」であり、新しい命を生み出す艶めかしくも妖しげであり、神々しくもある、めくるめく神秘の世界なのであるが、この世界に人としての倫理の再生をみてもいる。欲に汚れた人としての自分が「性」という「交感の場」を生きることで、新しい命としての自分を甦らせる力を宿していると考えている。わたしは里山という世界を、こうした「交感の場」として捉えている。わたしの唱える里山主義とはこうしたものであり、里山主義文学の核にあるものはこうした思想である。詳しくは電子書籍『風となれ、里山主義』を読んでいただきたい。
 脇道に逸れた上に、更に脇道へと逸れてしまったようだ(笑)。標題との乖離は甚だしいものがある。安倍晋三に繋がる詐欺行為だと、数少ない絶滅危惧種でもあるわたしの読者に愛想を尽かされそうである。路地から抜けて、脇道に戻ることにする。
 ついでだから書くが、どうもわたしのブログの読者は圧倒的に男が多い。本来ならむさ苦しい男などではなく女性に読んでいただきたいものと切に思っているが、アクセス解析によれば女性読者がほとんど存在しないのである。昨日などは35件のアクセスがあったが哀しいことに女性はゼロという惨憺たる結果なのである。女性読者がいないということは致命的である。何故ならば、わたしはむさ苦しい男のために小説を書いているのではなく、女性のために小説を書いているからである。女性の神々しいまでの艶めかしい魔性に取り憑かれ、女性の魔性を崇拝し、女性器を生と死を抱きかかえて輪廻する倫理の再生として信仰しているからだ。即物的な女性器ではない。どこまでもふくよかで、どこまでも神秘的であり、どこまでも神々しく、どこまでも優しげで、どこまでも柔和であり、そして平和な祈りの匂いを発している縄文土偶として信仰しているのである。
 そういえば、余談になるが、日本共産党の衆議院議員である高橋千鶴子さんをTwitterで、日本の崇高な母の面影を宿す縄文土偶だと呟いたことがあった。高橋千鶴子さんはそうした匂いを発しているのだが、高橋千鶴子さんは青森の生まれである。
 縄文人の血を色濃く受け継いでいるのは、日本では沖縄と東北であると遺伝子学的に言われている。

 さて、こうした新左翼的な思想的カオスの中にいたわたしであるが、最終的に辿り着いた思想が、あろうことか、新しい保守主義としての『里山主義』なのである。
 新左翼が左端の立ち位置だとすれば、右端へと移動したと思うかもしれないが、保守主義とは本来は右翼(国家主義)とは異質なものである。どういうことかというと、左翼と右翼とは西欧近代主義と不可分な近代国家における立ち位置なのである(国家主権を重視するか、国民主権を重視するかによって右翼と左翼に別れるのだろうが、左翼の超過激派が独裁的な軍事的国家像を引き摺っていたりすることを考えると、西欧近代主義はどこまでいっても国家の影を背負っているといえないだろうか)が、本来の保守主義とは西欧近代主義と近代国家とを準備した啓蒙思想と対立するものだったからだ。それが国家主義と同義語として使われていることに、保守主義という概念の混乱が生じているのである。アメリカの保守は近代以前の歴史がないので、啓蒙思想とは対立しようがない。生まれ故郷の西欧から持ち込んだキリスト教原理主義を別にすれば、アメリカの保守とは星条旗に縋り付くしかないのだろう。
『里山主義』とは、大学を卒業して不覚にも会社人間となったわたしが挫折を経験して、それを転機に思索を重ねつつ、小説を書いたりしながら生きてきた過程で辿り着いた思想である。
 拙い思想ではあるが、わたしは自己流の思想のつもりでいた。正直にいうと梅原猛の思想には影響は受けている。これは自覚している。が、『里山主義』という思想を生み出す上で、西欧哲学の「直接的」な影響はないと思っていたのである。
「直接的」というのは、間接的には影響を受けたことを否定はしていないからだ。学生時代に数冊の西欧哲学史(高坂正顕『西欧哲学史』創文社、等々)を読んだり、マルクスやニーチェ、キルケゴール、サルトルの思想に触れたり、フッサールとハイデッガーを読み囓ったり、バタイユの思想に感銘を受けたりしたのだから、影響がないわけはないのである。が、恥ずかしいことに、構造主義を代表するソシュール、レヴィ=ストロース、ラカンの著書を直接に読んではいないし、ポスト構造主義を代表するアルチュセール、デリダ、フーコー、ドウルーズといった哲学者の著書を直接読んではいない。竹田青嗣の『意味とエロス』『現代思想の冒険』『自分を知るための哲学入門』(いずれもちくま学芸文庫)などを通じて、「間接的」に触れただけである。
 前回のブログでヴェブレンの『有閑階級の論理』(岩波文庫)について書いたが、その中の文章を引用しようと本棚を探していたら、今村仁司著『現代思想の系譜学』(ちくま学術文庫)が眼に飛び込んできたのである。今村仁司には『近代の労働観』(岩波新書)で多大な影響を受けている。だから『現代思想の系譜学』を購入したのだろうが、『現代思想の系譜学』があるということさえ忘れていたくらいだ。忘れていたのだから読んだ記憶もない。実際に手に取ってページを捲っていくと読んだ形跡は皆無だった。色褪せてはいるが、購入したときのままの姿をしていた。
 わたしは書物との出逢いには運命的なものを感じている。もちろんすべての書物がそうだというのではない。自分が思索を重ねる上で決定的な影響を及ぼす書物がある。その書物との出逢いを偶然とは思えないのだ。必然というか運命のようなものをみてしまうのである。
 わたしは生来の読書嫌いだから(笑)、乱読家ではない。できるだけ自分にとって不必要な書物は避けようとする傾向がある。自分にとってといったが、生き方と言い換えてもいいだろう。が、誤解をするといけないので書いておくが、人生における乱読期は当然にある。わたしにとっての読書は生き方の模索のようなものと結び着いたものなので、生き方が皆目分からない時期には、必然的に無方向の乱読とならざるを得ない。それでも次第におぼろげに目差したい生き方の姿が見えてくるものなのである。そうなるとその生き方の方向性に関連する書物を読むということになってくる。読書に方向性ができてくるというのだろう。大学時代のわたしは乱読期にあったといえる。
 従ってわたしの読書傾向は生き方と関わるものだけに、流行とは無縁である。いや無縁であるはずはないが、流行からは一歩離れて、自分の生き方の模索の方に軸足を置いたものである。書物との出逢いに運命的なものを感じるというのは、生き方の方向性が見えてきたからこそ、出逢わずにはいられない運命にあった、というような意味なのである。必然性も同様である。
 今村仁司著『現代思想の系譜学』(ちくま学芸文庫)は、出逢うべくして出逢う運命にあったのだが、どうしたわけか本棚の奥でほこりを被ってしまっていたのだ。購入していたのだから運命を嗅ぎ取る嗅覚は作用していたに違いないのだが、不覚だったと嘆いている。
 わたしは優れて西欧的な意味での理性と知性に懐疑的である。懐疑的だというのは全否定するということではない。理性と知性を信じる危うさを感じているのだ。理性と知性を信じるあまり、理性と知性に拐かされて、もっと核心的なものに触れられなくなってしまうのではないかと危惧しているのだ。
 わたしが理性と知性を疑うのは素朴で単純な理由からだ。
 西欧的な意味での理性と知性は、どうして20世紀を戦争の世紀にしたのかという疑問である。戦争の世紀にしたのは、理性と知性を専売特許とする西欧の植民地政策と無関係ではない。西欧の理性と知性が、中東とアジアとアフリカの野蛮な反理性と反知性と闘ったとでもいうのだろうか。
 一方で、日本にははるか一万年もの永きに亘って平和な社会を築いてきた縄文人の歴史がある。
 わたしが西欧的な意味での理性と知性を信じられない理由は、この素朴で単純な対比からだ。辿り着いたのは、西欧的な意味での理性と知性では戦争は避けられない。戦争を避けようとすれば、一万年もの永きに亘って平和な社会を維持してきた縄文人の社会と心に思いを馳せるしかないのではないか、という答えだった。
 安倍晋三を反知性主義の代名詞にして、日本がファシズム化しているのは反知性主義が蔓延しているからだ、というようなことが著名な知識人だけでなくマスコミでも言われたりしているが、わたしはだったら20世紀は反知性主義の世紀だったのかと言いたくなるのである。
 西欧近代主義における理性と知性といえば、デカルトを生んだフランスはその故郷のようなものだろう。そのフランスが「イスラム国」による同時多発的テロに対してとった行動は、シリアへの無差別空爆という報復なのであるが、フランスの理性と知性はこの無差別空爆を受け入れているのだろうか。
 当然に反対する知識人はいる。が、わたしが問題にしたいのはフランスという社会的な意味での理性と知性である。反対する知識人の理性と知性こそが本来のあるべき良質な理性と知性であり、無差別的な空爆による報復を支持する気運を醸成している社会に蠢くのは、理性と知性ではなく、憎しみと恐怖に突き動かされた感情だとでもいうのだろうか。
 20世紀に手前勝手に植民地政策を推し進め、そのためにあろうことか無差別的な空爆をしたのは西欧列強である。が、その引き金が「イスラム国」による同時多発テロではなかったのである。それでも西欧列強の社会はそれを是としてきたのではないのか。その社会に理性と知性がなかったとでもいうのだろうか。
 ナチスという狂気を生んだのも西欧社会である。この狂気に理性と知性が関わっていないと断言できるのだろうか。それではあまりにも理性と知性を買い被りし過ぎ(盲目的な理性信仰と知性信仰)というものだろう。わたしはナチスの狂気に、西欧的な意味での理性と知性の狂気をみている。
 長々と理性と知性について書いてきたが、わたしの素朴で単純な疑問が、今西仁司著『現代思想の系譜学』により明確な形で書いてあるのには驚いた。
 今村仁司が語っているのではない。西欧の哲学者が語っているのだ。不覚だったというのは、こうしたことを知らずにいたということを指している(笑)。わたしの自己流の思索だとばかり思っていたが、西欧的な意味での理性と知性の本質をより深く、より核心を抉るようにして暴いているのである。
 西欧的な意味での理性と知性が標題のTPPの本質と深く関わるものと、わたしは考えている。だから翻って、三内丸山遺跡と日本的なるものと深く関わってくるとも思っている。
 商品の価値とは何だろうか、という問いを考える前に、西欧的な意味での理性と知性を批判しようとしたのは、こうした思いがあるからだ。
 あまりにも長くなってしまったので、次回のブログで、今村仁司著『現代思想の系譜学』に沿って理性と知性批判を書くつもりだが、印象的な箇所を最後に抜き出しておきたい。
 それでは皆様、ごきげんよう。

「『野蛮から文明へ』あるいは『神話から啓蒙へ』という提唱は、ヨーロッパの合理主義と進歩思想の中心的な前提であった。文明化の最も大きな担い手は理性であるとみなされてきた。カントの『啓蒙』概念は、近代ヨーロッパ思想の本質の要約であり、カント以降の根本前提でもある。ところが二十世紀の危機の時代に、最も鋭い思想家たちは、ハイデッガーにせよ、ホルクハイマーやアドルノにせよ、何よりも『技術』の問題と取り組まねばならなかった。理性の『技術化』とは、単に科学的知識が経済的生産に『応用』されるといったものではない。理性の技術化は、社会的な諸制度という具体的な形態をとって、『権力』と化することである。理性の権力化は、狭義の国家装置のレベルをはるかにこえ出て、市民社会の隅々にまで侵入する。フランクフルト学派は、国家と市民社会そして家族のレベルにまで、複雑に入り組んだ形で作用を及ぼす権力の効果を、『抑圧』『支配』『管理』の相において分析した。
 人間の成長と発展の武器であるべき理性が、その正反対のものに変質する事態は、単に非合理主義の台頭といって批判するのではすまない。非合理主義どころか、最高度に発展した科学的技術的体制によって、権力の全体化的支配が人類史上最も盛大に展開される以上、そうした事態は、合理主義的な野蛮という逆説的な形態をとる。『技術体制』が『野蛮』が上演される舞台であるとすれば、『技術』論こそ現代の最大の思想問題となる。理性(知)の技術化、そして技術の社会化は、個人の自由と自律を『抑圧』し狭め、閉塞状態をつくりだす。個人は、猫にとってのネズミのごとく、殺されるまでの束の間の猶予を『自由』として享受できるにすぎない。啓蒙の理想であった『自律』と『自由』は没落し、全体的権力にとっていつでも取り換えのきく『なしくずしの死』としての『自由』にまでおちこんでしまうのである。権力の全体化への思想的抵抗を暗い希望の下でかすかに実践したフランクフルト学派の仕事の中に、後にフーコーがもう少し明るい希望の下に展開する思想的課題が用意されていたといえよう。(中略)
 権力は抑圧し禁止する。しかし抑圧と禁止ばかりが権力の効果なのではない。フランクフルト学派は、技術化した知を有力な媒体とする権力の全体化的な抑圧・禁止・管理の側面をとくに協調した。これも権力論のひとつの中心である。もうひとつの中心は、フーコーがみつけ出した『権力の生産過程』である。一方に知があり、他方に権力があって、しかる後に両者が共犯関係に入るというのではなく、権力はその効果が拡大するにつれて管理に適合的な諸々の知を生産する。そればかりでなく、近代哲学の理想型であった『自律した実体』としての『主体』をも、『権力の主体』つまり権力の手先になり権力の効果を自他に及ぼす『隷属した主体』にすら変形=加工してしまう。経済的な生産技術が資本の支配力(権力)を効果的に産出するように、さまざまの技術的知は社会全体にわたって伝播させる。権力は、抑圧・禁止の軸と生産の軸との両中心をめぐって可視と不可視の効果の網の目を張りめぐらす。フーコーは、フランクフルト学派が提出した『知と権力』と『知の技術化』を、権力の生産性論を付加しつつ拡大したのである」


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 草刈りの肉体労働が終わりにさしかかってきた。
 あと四、五日を残すだけになった。
 今日は雨で休みである。
 四月まで自由な時間がもてる。妻には承諾を受けている。出来た妻だとしみじみと思う。
 悪性腫瘍と診断された妻は、進行性が遅く早期の発見だったので、半年の抗癌剤治療で完治すると言われた。半年にわたって6回の抗癌剤を投与することになったのだが、1回目の投与を行った。副作用で熱と発疹がでたが、抗癌剤の副作用を抑えるための薬がいたずらをしたことが判明し、その薬を飲むのをやめてしばらくすると熱と発疹が消え、以前とまったく変わらない生活ができるようになった。
 わたしと娘が心配したのは当然だが、本人は肉体的、そして精神的に相当に苦しんだことだろう。幸いなことに妻は仕事に復帰している。辞職することを薦めたが本人の希望でもある。
 妻が働いているので、わたしが四月まで遊んでいるわけにはいかないだろうから、短期間のアルバイトでもみつけるつもりだが、それでも時間的な余裕はできるはずだ。有り難いことである。
 ブログで連載していた長編小説『三月十一日の心』が9回で滞っていたので、連載を再開し、書き上げてしまおうと、改めて読み直してみたのだが(少し推敲した)、自画自賛と言われることは承知で書くと良い出来ばえの小説である(笑)。
 これまでにない日本的な感覚的認識を土台にした(わたしは川端康成に私淑しているので、川端的表現をしているが、わたし独自の手法であるつもり)小説であり、思想音痴の川端康成(自覚的な意味での思想音痴という意味で、川端の小説には無自覚の思想性がある)を超えて、自覚的に思想性を持たせた小説であり、その思想性は日本浪漫派の「日本的なるもの」を扱っているが、日本浪漫派と国学が「日本的なるもの」の源流と見なす「古事記」の神代記は、優れて「非日本的なるもの」と否定し、日本の風土性とともに生きた、一万年もの永きに亘って平和な社会を築いてきた縄文人の心と精神と文化に「日本的なるもの」の原点を見出すものである。そして、現代社会を闊歩する西欧近代主義の狂気を克服する道を、「日本的なるもの」に見出して思想的に展開している小説である。
 そんな小説の8回目の連載を読んでいると、ふと標題について想い浮かんだのだ。
 関連したことを会話の中で語らせているからだ。
 小説を好きでない方が多いと思う。Twitterをみていると、文学よりも政治と経済、そして思想に興味を覚えている人が多いことが分かる。が、こうした人よりも政治と経済、そして思想に無関心な人が圧倒的多数であることは事実である。
 そうした人たちが何に関心を抱いているのかというと様々な欲望なのだろう。
 ではそうした欲望とは、その人たちの個性によって能動的に湧き出したものなのかといえばそうではなく、社会によって構造的に生み出されたものである。いわば作り出された欲望を受動的に消費するだけの生を生きさせられているといえる。性も同様である。
 その生と性とはどのようなものであり、社会によって構造的に作り出される欲望とはどのようなものであり、その生と性と欲望とが、安倍晋三の幼児性分裂症とどう関係し、また社会のファシズム化とどう連関しているのか、小説の中で語っている。
 小説を読むのが好きでない方にも是非とも読んでいただきたいので、以下にその箇所を「そのまま」引用したい。
 

「俺は文子さんが二人の香坂文子がいることに拘っている姿は、美しいと思う。そういう姿をみるのは好きだ。そして、文子さんのそうした姿は自我同一性を求めての苦悶ではないと思っている。所謂自分らしさとか自分探しとは違うし、わたしは何ものなのか、というような西欧的な意味での自我への問いかけでもなければ、自我の探究などではなく、青春期にみられるような自我の確立でもない。かといってモラトリアムを彷徨っているというような甘えなんかでは断じてない。文子さんは香坂文子という自我をりっぱに確立しているし、まっとうな社会人でもある」
 話しを切った哲太郎が横に座っている瑤子を見た。「続けて」と瑤子が言うと、今度は文子を見たので、瑤子に同意して「続きを話してください」と文子が言った。
「では何故に文子さんは二人の香坂文子がいると言って苦悶し、その二人の香坂文子を何とか橋渡しをして、自分のなかで結びつけて一体化したいのか。文子さんは変わった自分を、そのままにしておけないからだろうな。変わった理由を突き詰めたい。突き詰めることでしか前に足を踏み出せない。そして、槙野和眞という男への愛を揺るぎないものにできない。和眞とともに生きていきたいからこそ、その理由を突き詰めたいと思っている」
 哲太郎が文子を見ている。その胸に飛び込んでいきたくなるような視線だった。哲太郎が「違うかね」と訊いた。文子が「いいえ、違っていません」と言った。頷いた哲太郎がまた話し出した。
「何故に変わったのか、と突き詰めることは大切だと思う。自分のなかに変わろうとする何かが生まれており、その何かを生み出そうとする陣痛が始まっているのに、その陣痛の痛みと苦悶から安易に逃れてしまうと、その何かとは異質な手っ取り早い宗教に縋ったり、思想に逃げ込んだりするものだ。そしてそんな自分を合理化し、逃げたという心の痛みを麻痺させるために、縋りついた宗教に盲目的に溺れていったり、思想に惑溺していったりするものだ。
 多くの転向とはそうしたものだろう。突き詰めることなく安易に流れてきた藁に縋って、その藁とともに溺れていく。
 しかし、現代社会はそんな転向すら無縁な社会だ。人がデジタル的な生を生きているからだ。生だけではなくセックスそのものがデジタル的だ。資本主義の行きついた果ての人間社会の姿なのだろう。
 資本主義社会とは資本の意志に支配された社会だ。資本の意志は限りなく自己増殖し膨張していこうとする意志を持っている。そのためには拡大再生産が絶対的条件であり、需要の拡大が必要不可欠になる。だから市場が飽和状態にならないように新しい市場を求め、また飽くことなき需要を作り出すために次々と欲望を生み出していく」
 哲太郎がグラスに手を伸ばした。一気に空けてしまった。グラスをテーブルに置くと、ボトルを持った。「空だ」と言った哲太郎が舌打ちをして、席から立ち上がろうとすると、瑤子が制した。「わたしが持ってくるから、あなたは続きを話しなさいな」と言った。
「俺の話を瑤子は聞かなくていいのか」
「忘れてしまったの?」
「何を」
「あなたを追いかけてこの逢生の里に辿り着いたわたしに、あなたは今とまったく同じことを話してくれたはずよ。まさか忘れてしまったのではないでしょうね」
 立ち上がった瑤子を見た哲太郎が、「覚えているよ」と言って瑤子を見つめた。そのときの光景を甦らせているのだろうか、愛しさが熱となって溶け込んだような眼差しだった。哲太郎の目から涙がこぼれ落ちるのが見えた。
「あら、酔ったのあなた」
「思い出したんだ。俺を追ってきた瑤子と、満開の山桜の下で再会したときのことを……」
「わたしは山桜の花影に抱かれて妖しい幻覚を見ていた」
「山桜の花影の下にいた文子さんが、あのときの瑤子に見えた」
「もう一人の瑤子に恋をしたの?」
「俺の瑤子はこの世でたった一人きりだ。俺は生きて呼吸している瑤子とともに生きている。そして生きて呼吸している瑤子を愛している。だから生きている瑤子は抱くが、思い出の瑤子を抱けはしない」
 黙って哲太郎の話に耳を傾けていた善蔵が笑い出して、「わしもこないな会話を婆さんとしたいものじゃで」と言った。そして、「誰憚ることなく真っ直ぐに言えるというのは大したものじゃで」と付け足した。
「わたしたちはまだ、和久井夫妻の境地にまで達していない。お互いの心が以心伝心で繋がっているというか、一つになっていないのですよ。だから絶えず瑤子への愛を言葉とセックスで示さないと、瑤子という女が何処へ行ってしまうかわからないのです」
「わたしの心が何処かへ行ってしまうというの?」と言って瑤子が哲太郎を睨んだ。
「和眞に吸い寄せられていっているのではないのか」
 文子の心臓が飛び跳ねた。瑤子が見ている。笑い出した瑤子が「あなたがそんなことを言うから、文子さんが怖い顔をしている」と言った。
「文子さんも、瑤子の和眞への恋心に気づいたのかな」と冗談ともとれ、本気ともとれる口調で哲太郎が言った。
「賭に文子さんが負けたら、わたしが和眞さんを誘惑すると言ったからよ」
 また文子の心臓が飛び跳ねた。
「誘惑してどうする気だ」
「わたしが和眞さんに抱かれてもいいでしょって訊いたの」
 哲太郎が文子を見ている。「いいですと言ったのかね、文子さん」と訊いた。瑤子を睨みつけながら「はい」と言った。噴き出した哲太郎が「おいおい、物騒な賭だなあ」と声を張り上げた。そして、「賭を承諾したからには、文子さんには勝つ自信があるのだね。それとも、単なる愚かな女の意地ってやつなのかね」と訊いた。
「勝つ自信があります」と、瑤子を睨みつけながら答えた。目に笑みを漂わせた瑤子が、「この続きは、飲みながら話しましょ」と言うと、「そうだな。瑤子、代わりのボトルを持ってきてくれ」と催促した。「その間に、さっきの話しにけりをつけたら」と瑤子が言った。
「何処まで話したっけ」
「飽くことなき需要を作り出すために次々と欲望を生み出していく、までよ」
「そうだった」と哲太郎が言うと、善蔵が「わしもさっきの話しに興味があるでな」と言った。アイスペールを手にした瑤子が背を向けて歩き出すと、哲太郎が話し始めた。
「次々と生み出される欲望には脈絡はない。細切れだ。脈絡があってはまずいのだな。次々と生み出された欲望は次々と消費されていくのだが、直ぐに飽きがくる。飽きがきた欲望に脈絡があっては飽きを引き摺ることになる。だからまったく新しい欲望として作り出される。その欲望を作っているのが、資本の走狗となったマスメディアが発信する情報だ。
 人が一つの欲望に執着し、その欲望が永続するとなるとどうなるか。限りなく膨張する消費としての需要を作り出せなくなる。だからその欲望を陳腐なものに見せて、新しい欲望へと心を向かわせる。新しい欲望としての商品を持っていないことが、この世から取り残されたような錯覚を生み出すような社会になっている。単なる流行ではなく、無言の圧力だな。今や携帯電話を持っていないと、若者の社会では異端視され、仲間はずれになる。
 西欧近代主義は西欧的自我と自覚する市民という概念が重要な要素だ。この西欧的自我と自覚する市民が民主主義と自由主義と平等主義の根幹に関わってくるからだ。が、この西欧的自我と自覚する市民と遊離した社会へと、加速をつけて向かっているのが現代の情報社会であり消費社会なのだと思う。欲望に脈絡がなく細切れで、欲望を作り出す情報もまた脈絡もなく細切れなのだから、欲望の投影である自我もまた脈絡がなく細切れのものになるはずだ。自我の分裂症を通り越して、自我のデジタル化だ。昨日の自分と今日の自分が欲する欲望が違い、明日の自分が欲する欲望も違う。欲望に一貫性はない。欲望を消費して、新しい欲望へと乗り移っていくだけだからだ。そして、昨日と今日と明日の自分の在り方に拘らない。拘れないように社会が仕向けており、社会に飼い慣らされてしまっている。資本の意志に沿った情報に操られているといえるだろうな。
 こうしたデジタル化した自我が、あっちへ行ったりこっちに来たりと浮遊する根無し草の社会にあっては、情報操作によってファシズム化は容易だ。デジタル化とはオンかオフかの二分法的な思考回路を促す。敵か味方かの単純な思考だけに盲目的に熱狂し溺れていく。民主主義と自由主義と平等主義は絵に描いた餅になるだろうし、議会制民主主義そのものの危機だろう。
 文子さんは、こうした社会の在り方に背を向けて、自分のなかの二人の香坂文子に拘っている。オンからオフへと切り替えて生きるのではなく、あくまでも香坂文子という一人の女を生きたいと希求している。だから何が香坂文子を変えたのかトコトン突き詰めなければならなかった。突き詰めることで、槙野和眞という男への愛を揺るぎないものとし、槙野和眞という男とともに瑞々しい生と性とを生きたかった」と話した哲太郎が文子を見て、「そうではないかね」と訊いた。
 頷いた文子が「話しを聞いて、少し見えてきました」と言った。
「見えてしまっては意味がなくなる」と瑤子の声がした。胸の前で抱くようにして二本の『香吟のささやき』を抱えながら戻ってきた、瑤子が椅子に腰掛けた。そして、「文子さん自身でつかみ取らなくては意味がなくなるでしょ」と言った。
「心配しなくてもそれはわきまえている」と応じた哲太郎が、「瑤子に、自分でつかみ取れと言ったのは、この俺だ」と言った。
「よかった、覚えていてくれて」と独り言のようにして言った瑤子が、ボトルの栓を開けて、哲太郎のグラスに焼酎を注いだ。氷を入れてかき回し、「今夜はトコトン飲みましょうね」と言って哲太郎の前にグラスを置いた。
「善蔵お爺さんも作りましょう」と手を差し出すと、「今夜の酒は格別に美味いのお」と言ってグラスを手渡した。
 黙って聞いていた文子だったが、哲太郎にどうしても確認したいことがあった。少し逡巡したが、「瑤子さんもわたしと同じように、二人の女がいたのですか」と訊いた。
「余りの酷似に驚くかもしれないが、十年前の瑤子はそう俺に言ったのだ」
「それで、瑤子さんは自分でつかみ取れたのですか。哲太郎さんの胸に雪崩れ込んでいって、変わる前の瑤子さんから、変わった瑤子さんへとオンからオフにスイッチを切り替えてデジタル式に乗り換えることを回避できたのですか」と言って哲太郎の顔を見てから、瑤子に視線を向けた。二人に訊いたのだった。
「女だもの死ぬほど愛しい男にやっと再会できたのだから、愛する男の胸に雪崩れていってしまうものよね」と瑤子が言って、グラスに口をつけた。一口飲むと、「でもこの男(ひと)は、わたしに自分でつかみ取らせたかったのでしょうね。オンからオフに安易に切り替わったわたしではなく、わたしが変わっていった道程を辿り、そのなかでもがき苦しみながら、わたし自身で答えをつかみとるように仕向けたの。わたしという女をより高みへと登らせたかったそうよ」と言った。
「それでどう仕向けたのですか」
「青白い月の光に浮かび上がった山桜の花影の下で抱かれたの。この男(ひと)は三日間で一気に、『花影の女』という題の油絵を描き上げた。そして和久井夫妻にわたしを託して、その絵と手紙を残して姿を消してしまった。一年後に山桜の花影の下で再会し、また新しい世界を生きる瑤子を抱きたい。そう手紙に書いてあった」
 瑤子の姿が滲んで揺れ出した。文子の目から涙が溢れ出した。
「文子さんて泣き上戸なの」と瑤子が訊いた。
 一つ深呼吸をしてから、「感動してしまって」と言った。
「瑤子という女をより高みへと登らせたかったと俺は言ったが、それは同時に俺自身が男としての高みへと駈け上がることでもあった。瑤子が苦悶する姿が、俺自身をより高みへと引き上げてくれる予感がした。それが二人にとっての一年だった。予感どおり、瑤子の苦悶する姿を遠くから見ることで、俺は男の高みへと登っていけた」
「もしかしたらあなた、姿を消してからこっそりと逢生の里に舞い戻ってきて、わたしの苦悶する姿を盗み見していたのね」
「瑤子は気づいていたはずだ」
 クスッと笑い声を上げた瑤子が舌を出した。山桜の紅い若葉の色をした艶めかしい舌だった。
「山桜の花影の下で瑤子を抱いた後で話したことがあった。それは文子さんに話してもいいのだろ」と哲太郎が瑤子に訊いた。「重要なヒントだけれど、あなたが姿を消す前にわたしも聞いたのだから仕方ないわね」と瑤子が言うと、「二人の香坂文子がいるという捉え方があるが、二つの世界を生きる香坂文子という捉え方もある。どっちなのかは文子さんが考えることだが、和眞は二つの世界を見ているのは確かだ。俺もそうだった」と哲太郎が話してくれた。
「ねえ、さっき、賭に勝つ自信があると言ったわよね、文子さん」と瑤子が話題を戻すと、「そうだった。俺も気になる」と哲太郎が言った。二人の目が、文子に賭に勝つ自信がある訳を話すように催促していた。隣の善蔵をみると、目元に皺を寄せて笑って頷いた。無意識に文子は頷き返していた。そして語り出した。
「筋湯温泉の夜に二人で辿り着いた、めくるめく世界を生きた和眞のなかの男と、わたしのなかの女を信じられるからです。わたしのなかの女が、和眞のなかの男を信じろと言っているのです」
 ポンと手を打った哲太郎が、「善蔵お爺さん。逢生の里にまた素晴らしい若者がやってきましたね」と言った。
「哲太郎さんは、この逢生の里は未来へと繋がっている希望の里だと言ったが、本当じゃで」
「我々は、これまでの土台としての価値観が根底から変わろうとする時代を生きている。その気配をいち早く感じ取った若者たちが、この逢生の里へとやってくるのですよ」
 善蔵がグラスを文子の前に突き出して、「乾杯じゃ」と言った。文子のグラスと善蔵のグラスが触れ合う音がした。グラスのなかの氷が輝いている。
「ようこそ、逢生の里へ」と善蔵が声を張り上げた。
「ようこそ、文子さん」と言って、哲太郎と瑤子がグラスを差し出した。グラスが触れ合う二つの音にビー玉を連想した。ビー玉が文子の心の水面にぽちゃりと落ちた。山桜の枝の間から覗いていた薄水色の春の空の色をしたビー玉だった。波紋がゆっくりと広がっていった。
「明日はね、この里の子どもたちのレンゲ祭りの日なの」と瑤子が言った。
「田植えをする前に、レンゲを植えてそれを鋤き込んで肥料にするのだが、毎年鋤き込む前にレンゲ祭りをするのだよ」と哲太郎が教えてくれた。
 そういえば瑤子と小高い山の上から盆地を見下ろしたときに、薄紅色の布を敷き詰めたような帯があった。レンゲ畑だったのだ。
 文子は一面のレンゲのなかで仰向けになって、和眞と手を繋ぎながら春の柔らかな空を眺めたかった。


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「イスラム国」による同時多発テロの衝撃がフランス社会を震撼させている。
 激しく揺れ動いているのはフランス社会だけに留まらない。欧米社会を大きく揺さ振っている。
「イスラム国」はタリバーンとアルカイーダを代表とする『イスラム原理主義』として括られ、唯一神であるアッラーを絶対化し、そのアッラーの教えに背く者を敵とみなし、敵の殲滅こそアッラーの神への忠誠だとして、そのためなら手段を選ばず、テロリズムをも正当化する急進的な過激的武装集団として認識されている。
 わたしはこれまでに、『イスラム原理主義』とは欧米社会において作られた概念であり、イスラーム社会に新しい潮流として立ち現れた「イスラーム復興」のうねりを『イスラム原理主義』として一括りにしてしまうことは、イスラーム社会を動かしつつある新しい歴史のダイナミズムが見えなくなってしまう、とブログで警鐘を鳴らしている。
 西欧近代主義とは政教分離を基本として政治の世俗化を推し進めるものだ。宗教は政治と切り離されて個人の中へ封じ込められていった。政治と経済とは表裏一体の関係にある。そして政治と経済とが社会の構造的なものを作っている。
 政治の世俗化とは経済の世俗化を意味する。つまり政治活動と経済活動が宗教的な倫理観と拘束から解放されることを意味している。政治と経済を縛るものが、宗教的な倫理観と戒律ではなく、世俗的な法律になるのだ。
『イスラム原理主義』という言葉の響きからは、原初のイスラームへの回帰のような印象を受けるが、大きな間違いである。わたしは『イスラム原理主義』ではなく、大塚和夫著『イスラーム主義とは何か』(岩波新書)に従って『イスラーム主義』という概念を使いたい。

 では『イスラーム主義』とはどのような思想なのだろうか。
 西欧近代主義の借り物の思想による反国家体制運動がある一方で、西欧的「近代化」が諸悪の根源であり、イスラームに回帰することこそが、社会秩序と社会の平安と繁栄を約束してくれるものだという意識が芽生え、イスラームに救いを求めるのは、イスラームを信じる敬虔なムスリムの社会であれば自然なことである。その象徴が、社会的そして文化的な現象である「イスラーム復興」なのであるが、この「イスラーム復興」という社会的土壌に花開いた政治的思想が、『イスラーム主義』なのである。
 最大の特徴は宗教と政治の一体化であり、西欧諸国による植民地政策と、独立後の支配層による上からの西欧的「近代化」政策による政教分離を裏返したものである。
 裏返したというのは、「近代化」以前のイスラーム社会の姿を反映したものであることは確かだが、政治的な意味での反西欧的「近代化」に「対抗する」思想として生まれたという意味を重視しているからだ。純粋な意味での原初のイスラーム社会への回帰ではないという意味であり、西欧的「近代化」がなかったならば生まれてはこなかっただろう思想だという意味である。
 つまり、イスラーム世界が西欧的「近代化」を遂げる過程で露呈してきた、貧富の格差のなどの社会的矛盾と社会的不安と混乱の中から、それを是正しようとして生まれた思想なのである。その意味では、イスラーム世界における「近代化」を母胎とした思想だといえる。
『イスラーム主義』は、伝統的なイスラーム社会へと回帰しようとする、単なる復古運動ではない。反欧米の思想であり、西欧的「近代化」をイスラームによって克服しようとする思想であり、同時に、反体制運動という内部変革を目差す思想なのである。
 しかし、『イスラーム主義』は一括りに単純化することはできない。何故ならば、西欧諸国が植民地政策によって、イスラーム世界に民族への強い帰属意識と、国家の概念を持ち込んだからだ。それはつまり、イスラーム世界の中に民族、及び国家の競合と対立とを生み出す種を蒔いたということになる。当然に『イスラーム主義』にそうした影を色濃く落とし、『イスラーム主義』を複雑化しているのである。

「イスラム国」とタリバーンとアルカイーダもまた西欧的「近代化」が産み落とした化け物である。
 が、わたしは「イスラム国」とタリバーンとアルカイーダを『イスラーム主義』とは見なしていない。欧米の中東政策によって出現した日常的な「戦場」の申し子だからだ。
 戦場の論理は単純であり、そして感情は破壊されている。正常な感情が働いては戦場では気が狂ってしまう。胴体から吹き飛んだ首が転がっているのが戦場であり、殺人が正義とされる世界である。敵とは絶対悪であり、自分を含めた味方は絶対的な善なのである。
 急進的になればなるほど、つまり極端になればなるほど、核心が浮き彫りになってしまうものだ。わたしは「イスラム国」は、西欧近代主義の病である急進的ナショナリズムを裏返したものと考えている。
 ナショナリズムとは西欧近代主義のイデオロギーである。「イスラム国」とは、西欧近代主義のイデオロギーである急進的ナショナリズムの姿を、鏡に映し出したものだといえないだろうか。

 大塚和夫は『イスラーム主義とは何か』(岩波新書)の中で、急進的イスラーム主義と急進的ナショナリズムとの類似性を指摘している。
 わたしはナショナリズムとは近代になって、国民国家が形成されるに付随したものとして誕生したと解釈している。
 大塚和夫は「ナショナリストの思想は、ネイションという『想像の共同体』を『本質主義的』に把握している」(『イスラーム主義とは何か』岩波新書)と論じた後で、「『本質主義』に基づく集団把握の最小限の定義」として「時代に左右されない本質的特徴を昔から変わらずに保持してきたという信念をもっている」ことだとしている。
 そして、この最小限の定義から派生して、「国民=民族の本質的な特性の維持をスローガンに掲げ、明確な国籍によって定められた有資格者のみを対象に、国民の一致団結に基づいて外部からの脅威に立ち向かおうとするナショナリズム・イデオロギー」には、「自己と他者との集団帰属は排他的に決定」され、「一枚岩的な国民の創出」という特性を持っているとしている。
 更に極端になると、「外部から浸食してくる『異物』を徹底的に排除し、内部における『純化』」をはかり、「異物をもたらす外部者がいたならば集団から排斥し、また内通者の場合には『裏切り者』(非国民)として抹殺する」としている。
 大塚和夫は、このナショナリズム・イデオロギーにおける本質主義的な集団把握が、急進的イスラーム主義に、より硬直化し排他性を強めた姿で影を落としているとしている。つまり、急進的ナショナリズムと急進的イスラーム主義とは、「世俗的か宗教的かという思想内容面では異なっていても、形式論理面ではかなり類似している」(同上)と指摘しているのだ。
 大塚和夫は本質主義的な集団把握の政治的意味を「敵=他集団とは明確に区別された友=自集団の不変の本質的特徴を確定し、友と敵との境界線を鮮明化し、内部の一枚岩的団結を鼓吹し、時にはそれを阻害する内部の敵を排除する。近代以前のような専門戦士、傭兵や騎士・武士などに頼ることなく、愛国心をかきたてて国民を総動員して外国の敵にあたらせるためには、本質主義の硬いヴァージョンに基づくナショナリズムは、きわめて有効な戦闘的イデオロギーとなる」(同上)としているが、的を射ていると思える。
 ナショナリズムが民族の優位性の虚構を創り上げたり、偏狭的な文化と伝統と歴史性で飾り立てたりするのと同じで、「イスラム国」は唯一にして絶対の神であるアッラーの権威を借りて正当化し、自らを絶対化しただけなのではないだろうか。アッラーとは己自身でしかないから、どうとでも解釈できるのである。わたしが「イスラム国」を『イスラーム主義』から弾く理由である。

「イスラム国」による無差別テロの衝撃は、欧米社会にどういう反作用をもたらしたのだろうか。
 一見するとイスラーム社会と欧米社会の異なる価値観の衝突のように見える。が、上述したように「イスラム国」の論理が西欧近代主義が産み落としたナショナリズムの極端化したものだとすれば、見方が変わってくることだろう。
 わたしは欧米社会の反作用は、「イスラム国」という鏡に自らのおぞましい姿を映したものだと捉えている。フランス政府は宣戦布告をし、無差別空爆を行い、原子力空母を派遣するという狂気に出ている。有志連合は元より、EU各国はフランス政府を全面的に支持している。ロシアとて例外ではない。
 摩訶不思議であり、おぞましくもあり、そして醜悪な光景といえないだろうか。
 肝心のイスラームの社会に生きる民衆への眼差しがまったくないのだ。「イスラム国」という狂気は、西欧近代主義が産み落とした狂気であり、親である西欧近代主義に宿る狂気と、子である「イスラム国」そのものである狂気とが、イスラームの社会に生きる無辜の民衆を巻き込みながら、骨肉の醜い争いを繰り広げている、と見えないだろうか。

 わたしは先に、西欧的「近代化」が諸悪の根源であり、イスラームに回帰することこそが、社会秩序と社会の平安と繁栄を約束してくれるものだという意識がムスリム社会に醸成されたと書いた。そしてイスラームに救いを求めるのは、イスラームを信じる敬虔なムスリム社会であれば自然なことであり、その表出が、社会的、文化的な現象である「イスラーム復興」だと書いた。
 つまり「イスラーム復興」とは、西欧近代主義が宿命的に宿している社会的矛盾と弊害を、本来のイスラームの社会に息づく価値観によって乗り越えようとする深遠な思想なのである。
「イスラム国」にはこうした深遠な理想はない。あるはずはないのである。西欧近代主義のおぞましい矛盾と弊害を極端化させたものだからだ。その化け物と戦う欧米社会もまた、醜悪で凶暴な貌をもつ化け物を裡に抱えているのである。軍産複合体とはそうした貌の一つだろう。欧米社会は、醜悪で凶暴な貌を持つ軍産複合体によって蝕まれ、巧妙に支配されている社会だといえないだろうか。

 こうして考えて見ると、無差別テロさえもが本質的にみれば、自作自演のおぞましい芝居に思えてくるではないか。
 欧米社会に生きている人々が、これを芝居と見破らずに、芝居の中で重要な役回りを演じさせられているとしたら、これほど滑稽な芝居はないし、これほど悲惨な芝居はない。そして、これほど愚かな芝居はないだろう。
 わたしは西欧的理性に懐疑的であるが、日本の知識人に多い西欧的理性と知性を頑なに信仰している人たちに、どうしてこうした本質的な意味での芝居に、西欧的理性と知性は気づかないのか伺いたいものである。
 西欧的理性と知性が進化の方向でより高みへと登って行くものであるなら、どうして20世紀がおぞましい戦争の世紀になってしまったのか、その理由も伺いたいものである。

 沖縄辺野古の新基地建設反対闘争が重要な局面へとさしかかってきた。
 沖縄の人々の抵抗は揺るぐことはない。そしてどこまでも非暴力を貫いている。
 その沖縄の人々の意志を無理矢理にねじ曲げようと弾圧している安倍政権は、どこまでも卑劣であり、どこまでも不誠実であり、どこまでも暴力的である。
 安倍晋三は超国家主義者だ。
 安倍晋三の心の故郷は、上からの革命によって成立した明治維新国家の統治装置である国家神道と教育勅語であり、明治憲法のようだ。そして安倍晋三の心は、あろうことか、明治維新国家が抱える内部矛盾が操縦不能となって表に噴き出し、戦前の日本が奈落の底へと転がり落ちていく元凶であった、排他的で偏狭的なナショナリズムに吸い寄せられているのである。
 明治維新国家が抱える内部矛盾とは、天皇を神聖にして不可侵の絶対的な存在として位置づけ、国家神道と教育勅語によって臣民が崇めるべき神として祭り上げていることに起因している。欧米による外圧に対して、促成的に成し遂げられた上からの近代化革命によって打ち立てられた近代的国家だっただけに、経済的基盤が脆弱であり、民衆は未だに封建的な共同体秩序を生きていた。こうした政治的、そして下部構造としての経済的状況の中で、如何に国家体制を盤石なものとし、短期間の内に富国強兵政策を推し進め、欧米列強に肩を並べていくか、そのためには民衆の心を、近代的国家へと強固な形で収斂させる必要に迫られていたのである。辿り着いた答えが、天皇を国家元首とする国家主義を色濃く打ち出した明治憲法であり、国家神道と教育勅語(天皇制国家体制)だったのである。
 こうした歴史的側面を、丸山真男は重視している。天皇制国家体制が、外なる敵と内なる敵との狭間にあって、悩み抜いた果てに編み出された苦肉の策であり方便だという捉え方だ。だから天皇制国家体制は奇っ怪な面妖をしているのである。曲がり間違えれば、破滅へと繋がる綱渡りをしていたともいえる。
 従ってこの国家を統治していくのは至難の業であり、政治家なら誰でもこの綱渡りの芸当ができるというものではない。苦肉の策であり方便だということをよくわきまえた上で、左右に揺れる綱の上をバランスをとりつつ理性的に、かつしたたかに、冷徹な政治的リアリズムを駆使しながら、歩いていかなくてはならないのはいうまでもない。
 丸山真男はこうした認識に立って、伊藤博文と大久保利通を過度に評価している。
 西欧近代主義に精通し、西欧的理性によって、政治的リアリズムを体現した彼らがいたから綱渡りができたという解釈なのであり、この綱渡りにあっては天皇機関説は当然の憲法解釈なのである。この暗黙の了解を意図的に蹴飛ばして天皇を現人神だと絶対化し、方便を己の政治的野心と政治的目的に利用しようとする政治家が出てきたとすれば、隠れていた内部矛盾を噴出させ、操縦不能を引き起こして、国家を奈落へと転がり落とす大馬鹿者だということになる。
 明治憲法の危うさは、北一輝が教えてくれてもいる。読み方によっては天皇という絶対的にして超越した存在を利用する形で、国家社会主義革命を画策することも可能だったのである。
 丸山真男が過大評価する伊藤博文なら安倍晋三をどうみるだろう。
 伊藤博文は安倍晋三が崇拝する長州藩の志士であった。安倍晋三には幕末の歴史的ダイナミズムなど読み取る力は無い。手前勝手に都合良く上辺だけをなぞっているに違いない。
 伊藤博文も、安倍晋三が崇拝する高杉晋作も、安倍晋三を日本を亡国へと導いていく、無分別で、私利私欲に塗れた歴史的大馬鹿者だと叱責するはずだ(笑)。
 何故ならば、昭和初期の排他的で偏狭的なナショナリズムこそが、明治国家が内部矛盾として抱えていた負の遺産だからだ。
 安倍晋三の幼児性は、歴史を厳粛に、そして真摯に読み解くという姿勢を徹底的に阻んでいる。
 では単に情緒的にに歴史を観ているのかというとそうではない。わたしは岸信介の娘である母親の影響が大きかったのではないかと想像している。ファザコンの娘が、我が子に父親の偉大さをとくとくと教え洗脳したのだろう。いわば岸信介教を、母親によって安倍晋三は信じさせられたのである。幼児的であり、オツムの構造がよろしくないが、母親にとっての自己愛の投影である岸信介教に熱烈に染まった我が子安倍晋三は、だからこそ岸信介の娘である母親にとっては溺愛すべき対象だったはずだ。そんな愚かな母親によって、安倍晋三は我が儘放題に育て上げられたのではないだろうか。
 安倍晋三には人格的本質としての虚言癖がある。
 オツムの構造はよろしくないが、言い訳と詭弁術には驚くべき才能がある。そして嘘をつき詭弁を弄し、歪んだ自己を正当化することに微塵の羞恥心も自責の念もない。不誠実と非倫理性を絵に描いたような男である。その上に異常な自己愛と英雄願望があり、岸信介教を熱烈に信じさせられた安倍晋三である。その心が昭和初期の排他的で偏狭なナショナリズムに染まっていくのは自然であるのかもしれない。排他的で偏狭なナショナリズムに安倍晋三の異常な自己愛を投影することは容易いからだ。異常な自己愛は、自分にとって敵か味方かの単純な二分法の思考回路を持っている。アッラーの神に自己愛を投影させて絶対化している「イスラム国」に通じる心情であり、思考回路なのである。二分法的な思考は、偏狭的で排他的なナショナリズムに顕著にみられる特質である。

 西欧近代主義は出口の見えない袋小路に陥っているのではないだろうか。
 現代社会を出口のみえない閉塞感が覆い、おぞましい姿をしたニヒリズムが蝕んでいるが、西欧近代主義そのものであるともいえる資本主義に、その黒々とした影を落としているのではないだろうか。
 日本の製造業を代表する巨大企業であり、超多国籍企業である東芝の粉飾決算は象徴的な出来事だ。際限なき利潤を求めての資本主義的な拡大再生産と経済成長が不可能になった証左だろう。東芝は原子力事業(原子力発電)に手を染め、武器を製造する軍需産業である。人類史上最悪の原発事故である3・11を体験し、今なお事故の終息もままならず現在進行形で放射性物質を大気中と海に吐き出し続けているという現実を無視して、性懲りも無く原発再稼働を企み、武器輸出を解禁しなければならなかった理由が見えてくるというものだろう。
 巨大金融資本が世界を股にかけて、半か丁かのカジノ経済にどっぷりと浸かっている現実を含めて、生きとし生けるものの命を蔑ろにして目先の薄汚い利潤を追い求めて原発再稼働を行い、武器輸出を行う行為を経済的ニヒリズムと言わずして何と言えばいいのだろうか。
 経済的ニヒリズムを体現しているのが新自由主義であり、市場の一元化を推し進めようとするグローバリズムである。断末魔を上げている資本主義が、生き残りを賭けた形振り構わぬ狂気だと、わたしは考えている。
 その狂気が産み落としたのが、安倍晋三であり、「イスラム国」なのである。どちらも狂気に毒された世界だからこそ、表舞台へと立ち現れることができたと、わたしは思っている。社会的な構造的狂気が、安倍晋三と「イスラム国」を産み落とし、操っているのではないだろうか。
 その証拠を、安倍晋三の政治的政策と経済的政策との分裂症にみることができる。
 政治的には強権をもって立憲主義を破壊しながら超国家主義的な政策を断行し、経済的には新自由主義的な政策を矢継ぎ早に行っている。本来は国家主義と新自由主義とは相容れない思想であるはずが、安倍晋三においては何ら矛盾無く共存しているのである。
 いや共存ではない。並列的に、そして無秩序に、脈絡無く分裂状態で存在しているのである。従って、政治的政策と経済政策は分裂状態であり、整合性が失われ、場当たり的だといえる。共通しているのは、貪欲に目先の金を追い求める醜悪な姿だ。虚言癖があり、異常な自己愛者であり、不誠実と非倫理性とを日常的に生きている安倍晋三だから可能なのだろう。分裂症的な矛盾を意に介さないのだ。
 安倍晋三はその筆頭だが、櫻井よしこのような安倍晋三の取り巻きも同様である。自省心のない異常な自己愛(金と欲)と二分法の思考が、自己矛盾的な分裂に無自覚なのである。
「美しい国、日本」と口にしながら、TPPを熱烈に推進し、日本の原風景と日本の文化と伝統を破壊している分裂的矛盾に不感症であり、寸毫も心の痛みがないとは、考えてみれば狂気の沙汰だ。
 社会が正気ならば、こうした狂気は許されはしない。況してや国の舵取りをする総理大臣である。指弾されて追い落とされるだろう。が、巨大資本に操られた中央のマスコミは安倍政権を持ち上げることはしても、致命傷となる批判はしない。公共放送であるはずのNHKは、あろうことか安倍政権の宣伝機関にまで堕落した体たらくである。社会が構造的に狂気に陥っているから、安倍晋三が安泰でいられるのだ。

 安倍晋三の分裂症的な自己矛盾は、社会を作っている構造的狂気が反映したものだと述べたが、構造的狂気とは資本主義の断末魔としての新自由主義が、国家主義を巧妙に利用しているということに繋がっている。巨大資本が国家権力の中枢部を掌握し、マスコミを使って国民を洗脳し、政治をいいように操りながら、国家主義的な政策で国民の権利を奪い取り、強権によって自由と民主主義に制限をかけ、軍事力によって市場の一元化をはかり、手っ取り早い方法で利潤を得るためのニヒリズムそのものである戦争という手段で、貪欲に目先の利潤追求を企てているのである。逆にいうと、そうまでしないと資本主義そのものが生きていけないという末期的な症状なのではないだろうか。
 安倍政権は600兆円のGDP目標を掲げたが、戦争が勃発すればあながち無理な数値ではないだろう。無差別大量殺人であり、無差別破壊である戦争は、驚くべき経済効果を生み出す破滅的な浪費という消費を生み出す。ミサイル一発の値段を考えるまでもない。
 そればかりではない。戦争による破壊は復興特需を産み落とす。戦争とは経済にとって無尽蔵の消費を生み出す金のなる木なのである。歴史は恐慌が戦争を引き起こしたことを物語っている。GDP至上主義のまやかしは、これだけをみても明らかだろう。GDPの成長が幸福と結び着いているというのは錯覚であり洗脳でしかないのだ。生きていくための物々交換はGDPには反映されないし、無償の相互扶助は反映されない。自給自足的な生活スタイルはGDP至上主義にとっては敵でしかないのである。

 この安倍晋三が、沖縄の心を踏みにじっているのである。
 沖縄の心が、安倍晋三の狂気と分裂症と闘っているのだ。
 安倍晋三の狂気とは、偏狭で排他的なナショナリズムの心情と論理に毒されたものであり、超国家主義にして新自由主義という分裂症を反映したものである。忘れてはならないのは、安倍晋三の存在と「イスラム国」の存在を産み落としたのは、西欧近代主義が内包している社会の構造的狂気だという側面だろう。
 フランスの同時多発テロという凄惨な犯行を決行した「イスラム国」に対してフランスは、無差別空爆という死の報復を行っているが、これまで述べてきたようにその行為は、「イスラム国」と同じ根を持つものであるだけでなく、「イスラム国」の狂気を産み落とした元凶でもある。西欧近代主義が宿命的に抱えている構造的狂気だと、わたしは捉えているからだ。「イスラム国」と欧米列強の戦争は、内輪の戦争、つまり醜悪な骨肉の争いであり、この戦争が根本的な解決にはなるはずがない、と確信している。
 沖縄の心が安倍晋三の狂気と闘っているという事実を、視点を変えてみると、沖縄の心は「イスラム国」の狂気と闘っているといえないだろうか。更に言葉を換えると、西欧近代主義が宿命的に抱きかかえている狂気と闘っているといえないだろうか。
 わたしは沖縄の心が、「イスラーム主義」に通じる歴史的な意味を担っていると直観しているのである。
 どういうことかというと、西欧近代主義の末期症状である構造的狂気を乗り越える可能性が沖縄の心は持っていると、わたしは直観しているのである。
 どうして沖縄の心が西欧近代主義の構造的狂気と闘っているといえるのかというと、安倍晋三が体現している西欧近代主義の狂気と、真逆の論理で対抗しているからだ。論理というのは適切ではないだろう。論理ではなく異質な価値観と言い換えたい。
 異質な価値観の大地に立ったから、西欧近代主義の概念である保守と革新、そして左翼と右翼という従来の立ち位置を無意味にしてしまったのだろう。
 安倍晋三は超国家主義者にして、幸福の源泉は経済成長であると頑なに信じる経済至上主義者にして、一元的な市場を求めその市場を神と崇める新自由主義者である。安倍晋三の「美しい国」とは、経済大国にして軍事大国と同義語なのである。そのためには日本の原風景と伝統と文化を破壊することに躊躇することはなく、豊穣な生態系を育んでいる沖縄の美しい海になど価値を認めないのだ。安倍晋三は異常な自己愛者であるが、西欧近代主義の人間中心主義に通じてはいないだろうか。生きとし生けるものへと等しく注ぐ温かな眼差しはない。だから原発再稼働も躊躇うことはないのだ。

 西欧近代主義は自由と平等と博愛の精神を掲げている。
 わたしは誰よりも自由を愛している。だから自由と平等と博愛の精神を否定はしない。フランスの三色旗とはこの自由と平等と博愛の精神の象徴だろう。西欧近代主義の申し子であるアメリカは、新大陸に自由と平等と博愛の精神を国家理念として建国された国家である。
 が、西欧近代主義の自由と平等と博愛をそのまま信じていいのだろうか。アメリカの建国は、先住民族を銃で抹殺し先住民の生きる糧である大地を略奪することによってなったのだ。先住民には自由と平等と博愛の精神を向けることはないのである。
「イスラム国」が犯した同時多発テロに対してとったフランスのシリアへの無差別空爆はどうだろうか。
「イスラム国」の拠点だけを狙った空爆だと言い訳をするのだろうが、無辜の民衆の命を奪う事実を覆い隠すことはできない。フランスに同調した欧米諸国も同じである。欧米人には自由と平等と博愛の精神を向けることはあっても、シリアやイラクの民衆に自由と平等と博愛の精神を向けることはないのである。命の重さが欧米人とシリアとイラクに暮らす人々では違うのである。フランスの同時多発テロで奪われた129名の命と、欧米の空爆によってシリアで日常的に奪われる「イスラム国」と無関係の無辜の民衆の命との重さが違っているのだ。
 西欧近代主義の自由と平等と博愛の欺瞞性はここにある。人の命に重さの違いがあるのだから、動植物に対しては言わずもがなである。動植物は欧米人が豊かに生きるための単なる物であり資源でしかないのだ。

 沖縄の心とは、生きとし生けるものへと等しく注ぐ眼差しを宿している。だからジュゴンが生きるかけがえのない豊穣の海を守ろうとしているのだ。そして、豊穣の海と共存していく道を選ぼうとする願いが宿ってもいる。この願いに、西欧近代主義の人間中心主義の影はないし、経済至上主義の影もなく、経済成長神話の影もない。
 多様性の社会が言われて久しいが、西欧近代主義は多様性を喪失する方向性を持っている。キリスト教の世界観が根底にあり、進歩史観に彩られているからだ。生物の多様性を口にし、文化と伝統の多様性を口にすることはあっても、西欧近代主義の歩みは多様性を破壊し、一元化する方向へと歩いてきたのである。西欧的価値観こそが絶対であり、この価値観の先に人類の在るべき社会の姿と幸福をみているからだ。そして人類はこの方向へと進歩の歩みをしているという歴史観を引き摺っているのである。個別性は西欧的普遍性へと吸収されていくという歴史認識である。西欧的理性もこの普遍性を引き摺っているのである。
 TPPとは正しく多様性の否定である。非関税障壁とは多様性を生み出す揺り篭でもある。社会構造とは歴史と伝統と文化によって作られてきたものだからだ。市場の一元化とはこの社会構造の否定である。巨大資本が貪欲に、そして効率的に、かつ詐欺的に、手っ取り早く利潤追求を達成できるようにと、社会構造を破壊して一元的市場=一元的社会を作るのが目的である。
 絶滅した生物の数は夥しい。朽ち果てて消えていった伝統と文化の数も夥しい。伝統と文化の消滅とは、伝統と文化に根差した感性の消滅も意味する。味覚や色を見分ける色彩感覚や触覚、聴覚までが失われているのだ。伝統的食文化が失われるということは、その食文化に宿る味覚をも失うことを意味する。ファストフードの味に慣れさせられた子ども達が、微妙な味を識別する味覚を失った現実がある。
 いくら多様性を口にしても、多様性は生み出し得ない。多様性を生み出す社会的な構造が息づいていなければできない相談だ。進化論的な世界観ではなく、棲み分けの生き方が根付いた世界観がなければ無理だろうし、前方へと伸びていく進歩史観が息づく世界観ではなく、循環する時間感覚が息づく循環的世界観がなくてはならないだろう。
 沖縄の心とは、わたしは棲み分けの生き方を模索する心であり、循環的世界観を宿した心だと直観している。わたしの得意な文学的直観であるが、この直観は日本人の心の故郷である縄文人の心に通じたものだと信じてもいる。

 縄文人とは日本列島に根を下ろし、一万年もの永きにわたって平和な社会を生きた人々である。一万年もの永きにわたって独自の文化を継承してきた例は人類史上では特異なものだ。これを可能としたのは生きとし生けるものを敬う心と、争いを回避し、棲み分けの生き方を基本とした自然と一体となって共存していく循環的世界観が生きていたから可能だったのではないだろうか。
 文化的にみても豊穣である。土偶や土器は芸術性において特筆すべきものであり、迸る命のいぶきに満ち溢れている。
 考古学と遺伝子学によれば、沖縄人は縄文人の血を色濃く受け継いでいることが証明されている。日本人の原点をいうならば、2000年前に朝鮮半島から異質な文化を携えて大量に移住してきた弥生人を起源にすることは誤りであるはずだ。弥生人は異文化だけでなく、律令国家体制へと通じる国家観までも携えてきたという考古学者もいる。

 ここまで書いてくると、沖縄の心が何によって西欧近代主義の末期的症状を乗り越えようとしているのか、お気づきになったことだろう。
 わたしは沖縄の心に縄文の心をみているのである。そして、西欧近代主義とはまったく異質な価値観と世界観に未来の可能性をみているのだ。
 沖縄の心とは3・11の心にも通じている。そして安保法反対運動にも通じていると思っている。
 人間中心主義に彩られた西欧的価値観に普遍性をみている西欧近代主義の自由と平等と博愛を疑問視したが、縄文社会に息づく心にも、わたしは自由と平等をみている。生きとし生けるものすべてに注がれる自由と平等であり、棲み分けの生き方を核としたものだ。人間中心主義ではなく、言葉の厳密な意味であらゆる多様性を許容し、多様性を生み出す社会構造に根差した思想なのである。
 里山に息づく世界とは、こうした生物の多様性を抱きかかえ、生物の豊穣な多様性を生み出す世界であるが、四季の変化を上手く取り入れた世界であり、人と自然との共存と調和が息づく世界である。里山の世界を観察すると、四季によって植物の勢力が循環するように作られ、植物の多様性を生み出している。だから虫や動物の多様性を生み出せているのである。棲み分けと四季という循環する時間軸が息づく世界なのである。里山の心に縄文の心と通じるものを感じてならない。

 縄文の世界とは、縄文的自由と縄文的平等が息づく世界だったのではないだろうか。
 縄文民主主義とでも呼ぶべきものなのであるが、わたしは平和憲法の精神にこの縄文人の心が注ぎ込まれていると信じている。日本人の魂の故郷であり、縄文の心を生み出した日本という風土性なればこそ、平和憲法が奇跡的に産み落とされたと解釈しているのである。
「イスラム国」をこの世から絶滅させるには、わたしは縄文の心そのものである平和憲法の精神と、生き方としての縄文の心を全世界へと発信し、世界に生き方としての縄文の心を浸透される以外にないと妄想している。
 その意味で、沖縄の辺野古の闘争は、人類史からみても分岐点となる重要な意味があると思っている。沖縄の心とは日本の未来の希望であるだけでなく、人類の希望なのである。
 日本人ならば、沖縄の心に結集し、沖縄の辺野古新基地建設反対運動を我がものとすべきだ!
 そうでないと日本の未来は拓けない!

 最後に沖縄の心と同じように、西欧近代主義の末期症状を乗り越えようとしている「イスラーム主義」の可能性について記しておきたい。
 わたしは懐疑的である。一神教的な世界観だからだ。
 一神教を否定しているのではない。限界があるといいたいのだ。一神教とは解釈(理性的認識)の宗教だと思っているからだ。解釈の宗教だから解釈の違いによって異なる宗派が生まれるのだろう。神は全能にして絶対的存在であり、唯一の存在であれば、異なる宗派など生まれようがない。神は人に自らの存在と教えを等しく、かつ広く啓示できるはずだ。が、そうはならずに選ばれた者にしか神の声は聞こえないのである。預言者という者だが、その預言者は複数存在し、預言者によって神の声は違っているという摩訶不思議な現象がある。更に預言者の教えが弟子によって違って解釈され、果ては預言者の言葉を記した経典が、聖職者によって違って解釈されるとしたら、何のための一神教なのかわからなくなってくるではないか。
 わたしからみたら神とは認識の産物でしかないと思えてくる。西欧的認識とは理性と置き換えられる。そうだとしたら一神教の神とは理性の産物だということになりはしないか。
 神は唯一にして絶対的な存在なのであるから、神の教えは唯一のものでなければならないはずだ。だから我こそが正しい神の教えに基づく宗派だと正当性を主張し、他の宗派を邪宗、もしくは異端として抹殺しようとするのだろう。
 これもわたしの特異な文学的直観であるが、油田による豊富な資金を惜しみなくつぎ込んで生み出されている、湾岸諸国の超高層ビルが林立する現代的都市の風景に、西欧近代主義に通じる根っこをみている。
 西欧近代主義の影響と価値観にどっぷりと浸った現代社会なのだから仕方ないと反論するかもしれないが、わたしは砂漠という風土に生きる人々の心の風景を垣間見てしまったような気がしてならないのだ。
 電子書籍として出版している『風となれ、里山主義』(思想的評論)に書いているが、わたしは和辻哲郎の『風土』に強い影響を受けている。砂漠で生きる人々に自然との共存などという根っことしての思想というか、生きる姿勢が芽生えるものなのだろうか、と疑問に思うのである。砂漠における自然とは、人の命を無慈悲に奪おうとする憎むべき対象でしかないのではないだろうか。
 多神教にも御利益多神教がある。利益があるから祀る神であり、崇める神であるが、これも人の認識の産物なのだろう。農耕と深く関わる多神教の神とは、こうした御利益多神教なのだろう。
 この御利益多神教とは違って理性的認識ではなく、感覚的認識としての多神教がある。「神さびる」という言葉に言い表されている感覚的認識である。言挙げできない神であり、感じて崇める神なのである。認識を超えて共感し、共鳴し合う神なのである。この感覚的な場としての神の領域は、神と人との交感の神聖な領域であるとともに、人と人とが共感し共鳴し合う倫理的な領域でもある。倫理的というのは、邪な人の我欲が領域に宿る神と交感し合うことで浄化されるという意味である。邪な我欲を虚しくしてしまう作用があると思うのである。
 こうした交感としての場があり、人と人とを共感させ共鳴させていた領域があったから、縄文の世界は争いを回避できたのであり、一万年もの永きにわたって平和な社会を築くことができたのではないのか。そんなことを妄想しているのである。

※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます。

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 11月13日にフランスのパリで痛ましくも悲惨な「テロ」事件が起きた。
 IS(イスラム国)が犯行声明を出している。フランスが参加している有志連合によるISの拠点を目標としたシリアへの空爆を批難しての犯行のようだ。
 こうした卑劣を極める無差別殺人は決して許すことはできない。否定すべきものである。犠牲者の御霊に謹んで哀悼の意を捧げたい。

 ニュースによれば、フランス国民の中に報復を叫び、武器を取って立ち上がれという感情的なうねりも起きているようだ。実際に難民のキャンプのテントが燃やされるという憂うべき的外れな報復事件も起きている。
 9・11のときにブッシュは「これは戦争だ」と叫んで報復を誓ったが、フランスの民衆の中にも「これは戦争だ」という声が上がっているようである。
 わたしはテロを「」で括ったが、それには意味がある。わたしは「テロ」とは見なしていないからだ。「戦争」だと認識している。
 が、誤解してもらいたくないのは、敵はISだという単純なものではない。真の敵とは、日常を「戦場化」させている欧米の体制を貫く論理とシステムにあると思っているのである。
 報復するとすれば、日常を「戦場化」させている欧米の体制を貫く論理とシステムに対してでなければならない。
 中東の日常は「戦場」だといえないだろうか。
 いつ殺されてもおかしくはないし、いつ人を殺してもおかしくはない、人を非倫理的でおぞましい殺人鬼という化け物に作り変える「戦場」という日常を生きているのである。自爆テロは日常化しているし、どこから狙撃されるかわからないし、空からはいつミサイルが飛んでくるかわからないのである。
 中東では大量の人が日常的に殺されている。が、欧米でそれがニュースになることは稀になった。何故ならば中東の日常が「戦場」だからだ。戦場で人が殺されるのは当たり前なのである。
 その日常化した「戦場」を生きている中東の人からみたら、パリの「テロ」はどう映るだろうか。
 中東の日常を「戦場」としたのは欧米である。歴史を真摯に紐解けばわかることである。
 中東における日常の「戦場化」が無くならない限り、「テロ」は根絶されることはないだろう。中東の日常を「戦場化」しているのはISだけではない。そもそもISを生み出したのはアメリカによるイラクへの理不尽な攻撃と破壊なのである。
 
 わたしはブログで『イスラム原理主義では見えないイスラム国の本質』という標題で4回にわたり、イスラーム主義について歴史的な流れを踏まえて考察している。
 その中から一部を抜粋してみよう。

「イスラム原理主義」という概念に何の疑念も抱かずに、その概念を前提とした視点から論理を展開しても、現代のイスラーム社会における思想的なダイナミズムは決して捉えることはできないだろう。
「イスラム原理主義」とは、欧米の社会という目を通して、欧米の価値観から見ようとする視点だからだ。
「イスラム国」とは新自由主義を鏡に映した姿だ。そして、仮面をしていた新自由主義がおぞましい素顔を晒した姿だと、わたしはこれまでに何度かブログの中で書いてきた。新自由主義は欧米を中心に、全世界の隅々まで拡散しつつある。日本も完全にその支配下に入った。
 欧米が日常的にテロの脅威に晒されている。その欧米が、テロの脅しに屈することなく、断固としてテロと戦い抜くことを宣言している。欧米にとってのテロの脅威とは、「イスラム原理主義=イスラム過激派」に絞られた観がある。逆にいうと、「イスラム原理主義=イスラム過激派」の勢力がそれだけ増したといえるのかもしれない。わたしの論理では、新自由主義が世界に浸透する度合いが増したから、それに比例して「イスラム原理主義=イスラム過激派」の勢力が増したという意味になる。
 わたしの論理からみれば、断固としてテロと戦うという欧米の姿勢は自己矛盾でしかない。本来、欧米が戦うべきは新自由主義であるべきなのである。そうでないと「イスラム原理主義=イスラム過激派」の勢力は衰えることがないからだ。何故ならば、新自由主義が鏡に映った姿が「イスラム国」だからだ。
 新自由主義が自ら仮面を剥ぎ取り、市場という神を絶対化した、醜悪な経済的ニヒリズムの末期症状としての素顔を鏡に映した結果が、唯一神アッラーと、その預言者ムハンマドの絶対的な権威で我欲を飾り立てた、宗教的ニヒリズムというおぞましい姿を浮かび上がらせたのである。その姿が、「イスラム国」でありタリバーンなのである。(中略)
 後述するが、「イスラム原理主義」という概念を刷り込まれているから見えては来ない、中東世界の複雑な政治状況がある。中東の国々は国内的な政治基盤が決して一枚岩ではない。大揺れに揺れ動いているのである。反欧米的な政治的潮流が、反政府的な政治的潮流と重なっている面が顕著にみられるのである。(中略)
 反欧米的な政治的潮流と反政府的な政治的潮流と、「イスラム原理主義」とは密接な関連がある。当然にそうした潮流がすべて一括りにできるはずはない。一括りにできないはずが、欧米の視点は「イスラム原理主義」と一括りにしているのである。これは意図的だとしかいえないのではないだろうか。
 何故ならば、イスラームの社会で起きている反欧米的な政治的思想と、反政府的な政治思想とを、欧米の人々の目には見えないものへと覆い隠し、そうした思想がどうしてムハンマドを預言者とするイスラームの宗教と一体化しているのか、その意味と必然性を覆い隠せるからだ。覆い隠して、「イスラム原理主義=テロ」とイメージ操作を行い、国民の意識に刷り込むことが、欧米の巨大資本と国家権力にとっては必要なのである。そうでないと、自分たちの権力基盤までも揺るがし兼ねないからだ。
 どうして欧米の巨大資本と国家権力が恐れるのか。その理由は、欧米の社会に黒々として渦巻く社会的な歪みと矛盾と閉塞感に繋がるものだからだ。その本質的な問題が何であり、どうしてそうなったのか、イスラーム社会で起きている、イスラームの宗教と一体化した反欧米的な政治思想と、反政府的な政治思想とが、欧米の人々の心の眼に鮮やかな姿で浮かび上がらせるからだ。そして、その謎を解く手がかりを導いてしまうからだ。
 つまり、欧米の社会に黒々として渦巻く社会的な歪みと矛盾と閉塞感は、イスラームの社会的な歪みと矛盾に結びついたものなのである。重要なのは、その歪みと矛盾は欧米による西欧近代化とその本源的な価値観によってもたらされたという本質だろう。
 本家本元であるから欧米社会が右往左往して悲観に暮れ、未来の展望が開けない閉塞感に陥っているのであるが、欧米とは異質な価値観が息づいているイスラーム社会だからこそ、未来の可能性を貪欲に模索しているのであり、その可能性がイスラームの宗教と一体化した、反欧米的な政治思想であり、反政府的な政治思想なのである。

 詳しくは4回のブログを読んでいただきたい。
 が、パリでの憎むべき「テロ」事件があり、報復を叫ぶランス市民の姿をニュースで観たので、4回目に書いたブログを再度公開したい。
 何故ならば、現代世界における「テロリズム」について書いているからだ。
 報復を叫ぶフランス市民に言いたいのは、現代社会における「戦争」とは、従来の国家対国家という図式では捉えられないものになっているということだ。
 国家ではなく、「テロリズム」というニヒリズムの闇を彷徨える個人なのである。そしてより突っ込めば、「テロリズム」というニヒリズムの闇を彷徨える個人を大量に生み出しているのは、現代社会のシステムであり、欧米と日本を席巻している新自由主義なのであろう。
 その元凶こそが倒すべき敵であり、それを見誤っては「テロ」の連鎖を無限に引き摺っていくことになるだろう。
 安倍晋三は中国脅威論で国民を煽っているが、真の脅威とは、国外ではなくシステム的に生み出している国内の「テロリズム」というニヒリズムの闇を彷徨える個人なのである。その個人には国家理性というような歯止めはない。何でもやる。原発は恰好の標的(自爆テロ)なのである。皮肉なことに、その個人を生み出しているのは、大資本の操り人形である安倍晋三のおぞましい政治なのである。
 以下は、2015年1月30日のブログ記事である。


 石川啄木の詩に『ココアのひと匙』がある。

 われは知る、テロリストの
 かなしき心を―
 言葉とおこなひとを分ちがたき
 ただひとつの心を、
 奪はれたる言葉のかはりに
 おこなひをもて語らむとする心を、
 われとわがからだを敵に擲げつくる心を―
 しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。

 はてしなき議論の後の
 冷さめたるココアのひと匙を啜りて、
 そのうすにがき舌触りに、
 われは知る、テロリストの
 かなしき、かなしき心を。

 大逆事件で処刑された幸徳秋水と管野須賀子を含む12名の心に想いを馳せた詩なのだろうが、奪われる側の命と、奪う側である自分の命と厳しく、そして真摯に向き合う悲哀を詩っている。
 二つの命の尊さと重さを量りにかけているのではない。同じ尊さと重さをもつ命を奪い、そして奪わなければならない哀しみを詩っているのだ。重く尊い命を奪う代わりに、自分の命を捧げる厳粛な覚悟が、啄木の心と共鳴し合っているのだろうか。テロリストをこうした行為に走らせ、社会の背後でせせら笑っているおぞましい影を、啄木の目は憤りをもって捉えている。
 わたしはテロリズムを否定する。
 が、石川啄木の『ココアのひと匙』の詩を、わたしは愛している。テロリストをばっさりと切り捨てることなく、テロリストの心を鏡にして、自分の心を映し出してみようとする姿勢が、この詩に魂として宿っているからだ。そして、ばっさりと切り捨ててしまうことで見えなくなる、テロリストを生み出す社会の奥深くに潜んでいるおぞましい化け物を見据えようとする姿勢に共感しているからだ。
 しかし、現代のテロリズムは、この啄木が『ココアのひと匙』の詩にしたテロリストの心から大きくかけ離れたものである。現代のテロリズムには、命の遣り取りをしなければならない悲哀はない。奪われる側の命と、奪う側の命の尊さと重さを等しくみる、生きとし生ける命そのものに等しく注ぐ温かな眼差しはない。敵を憎むことが、その敵の命への憎悪へと単純に結びついているのだ。だから命を奪うという罪悪感はないし、心の葛藤もない。敵の命を奪うことが正当化されるばかりか、敵の命を多く奪えば奪うほど快楽を覚え、味方から賞賛されるのである。

 日蓮宗僧侶であった井上日召が組織した「血盟団」のテロリズムは、「一人一殺」に貫かれたものであるが、命と命の厳粛な遣り取りという視点があったからだろう。
 我が師である橋川文三は、明治時代の実業家であった安田善次郎を暗殺した朝日平吾を、日本政治思想史から捉えようとしている。
 朝日平吾のテロリズムを、朝日平吾という個人史という側面とは別に、政治思想という側面から社会的背景を探ったのである。つまり、朝日平吾を生み出した時代的土壌を問題視したということである。朝日平吾は社会から隔絶した狂人でもなければ、世捨て人でもなく、ましてやモンスターでもない。社会が生み出したテロリストであり、誰もが朝日平吾になり得る時代的、そして社会的な雰囲気と土壌があったということだ。朝日平吾というテロリストに、時代と社会に蔓延していた民衆の漠とした精神的、思想的な反映をみることこそ重要なのだろう。逆にいうと、朝日平吾というテロリストを通してみることで、奥に隠れて目にすることができない、当時の時代状況が抱えていた真実の姿を、浮かび上がらせることができるのだろう。

 現代社会の中のテロリストとテロリズムはどうだろうか。
 わたしは朝日平吾の意味で、政治思想史としての意味はないと思っている。
 テロリズムとは、日常の社会において行われるものを想定している。「戦場」において行われる行為は、テロリズムではない。また敵の兵士を殺す者をテロリストとはいわない。つまり、戦争の中では殺人行為が目的化しているのであり、その殺人行為そのものに思想的な意味はない。開戦する思想的意味はあるだろうし、開戦した戦争に思想的意味はあることは否定しない。
 が、戦争の中で行われる殺人行為に思想的意味はないはずだ。意味などあったら殺人が行えない。殺人することに葛藤と疑問があってはならないのだ。敵兵を殺すことは絶対的に回避できないものであり、正しい行為だ、という意識に貫かれており、人殺しが日常化した世界なのである。
 日本の国家主義者は、特攻隊を散華になぞらえて美化する。
 一方では、中東世界で常態化している自爆テロを悪し様に罵倒する。
 どこに差異があるのだろうか。中東世界では女、子どもまでが自爆テロを行うのである。厳かに別れの水盃をかわし、凜々しい姿でゼロ戦に乗り込んで、「日本国、万歳!」といって敵艦に体当たりする姿を、散りゆく桜の花の儚さと華やかさに無理矢理に重ね合わせて、日本的美意識としての死として讃美するのであろうが、わたしからみると国家によって無理強いされ洗脳された、おぞましくも惨い自爆死としか思えない。
 特攻隊に思想的な意味はない。日常化した「戦場」での死でしかないからだ。武士道とは無縁であり、ましてや散りゆく桜の花の美とも無縁だ。武士道とは優れて日本的だと思われているが、西欧にも騎士道がある。西欧社会で、武士道が日本文化の特質のような印象が蔓延しているのは、騎士道を通してみているからだろう。
 壇ノ浦の源平の合戦をみれば明らかだろう。現代における戦場とは別世界だ。誤解を恐れずにいえば、優雅ささえ感じられる。海に浮かんだ舟の扇を矢で射貫く儀式的な遊びまでがある。
 敵の武将と戦場で相まみえ、一騎打ちする前には口上まで交わすのだ。そこにあるのは、敵の武将の命と、己の命との厳粛な遣り取りという発想だろう。テロリストの心に通じているともいえよう。
 江戸時代には敵討ちと仇討ちが認められていた。そして、親の敵を討つ子の姿に、ある種の倫理性と美意識のようなものを見出していたのである。この観点からみれば、特攻隊よりも戦争で親を殺されたアラブ世界の子どもの自爆テロの方が、どれほど武士道に近いかしれない。特攻隊は単なる自動誘導される爆弾の代わりでしかないのではないだろうか。

 わたしは「イスラム国」を、イスラーム主義とは認めていない。
 理由は簡単である。「戦場」の世界の論理であり、「戦場」の世界の申し子だからだ。「戦場」にあっては敵を殺すことが目的化したものであり、その人殺しに意味はないし、当然に思想もない。そして、敵と味方という二分法の世界である。敵は絶対的な悪であり、味方は絶対的な正義なのである。
 したがってテロリズムという側面からみれば、「イスラム国」の行うテロとは、言葉の厳密な意味でのテロリズムとは違い、「戦場」における殺人行為の延長なのである。
 欧米諸国と日本、そして経済成長著しいアジアの諸国にとって、日常の世界を「戦場」とはみなさないが、「イスラム国」にとっては「戦場」なのである。「日常の世界」と「戦場の世界」とのギャップが、「イスラム国」の行為を野蛮で無慈悲で、そして残酷で醜悪なものとして「日常の世界」に生きている人々の目に映るのだろう。
 が、「イスラム国」の行為が「戦場」のものとしたら違った様相に見えてくるはずだ。戦場とは爆撃で胴体から吹き飛んだ首が転がっている世界である。子どもも女も無差別だ。イスラエルが行った空爆で死んだ子ども達の死体を写した写真があるが、「イスラム国」が人質の切り落とした首を弄んでいるのと、大して変わりはない。第二次世界大戦における歴史的な事実が、戦場における狂気としての兵士の残虐な行為を余すところなく突きつけている。日本軍の将校が軍刀で、どちらが多くの中国人の首を切り落とせるか笑い顔で競い合っている写真は衝撃的であるが、こうした「日常の世界」では狂気でしかない行為が、「戦場の世界」では正常なのである。敵兵に温情を覚え密かに逃がしたりすることが、「戦場の世界」では異常な行為なのであり、軍法会議にかけられて処刑されるのだ。

 紛争の絶えない中東は、「日常の世界」が「戦場の世界」なのである。人口が爆発的に増加しているアフリカは、中東を凌ぐほどの生活基盤の破壊の惨状がある。アフリカもまた「日常の世界」が「戦場の世界」なのだろう。
 市場開放による換金作物(プランテーションなど)への切り替えなどで、土地を失った農民が作物を作るには適さず、自然災害を誘発する土地をも農地に変えている現実がある。その土地は1年か2年しかもたずに不毛の大地となり砂漠化していく。悪循環なのであるが、生きながらえるための絶望的な選択である。そして最終的には、生きる術を失って大都市のスラムへと流れていく。
 こうした惨状が反体制の過激派を生み出す温床となり、紛争の常態化へと加速させている。紛争が起きれば戦争孤児が増える。親を殺された戦争孤児は、食うや食わずのどん底の生活に突き落とされて、黒々としたニヒリズムの色に染め上げられた憎悪と絶望とを抱いて、過激派集団の兵士へと変えられていく。そして、憎悪の矛先を何処に向けるべきか誘導されていく。洗脳された兵士は、欧米への血の復讐を誓い、欧米の手先である国家権力とその仲間への無差別な復讐の心を燃え上がらせていくのだ。

 朝日平吾のような、言葉の厳密な意味でのテロリズムとテロリストが、「日常の世界」に成立するものならば、現代社会における「戦場の世界」を延長させただけの「テロリズム」と「テロリスト」を、「テロリズム」と「テロリスト」と呼ぶことは適切ではないはずだ。
 2001・9・11アメリカ同時多発的「テロ」の際に、ブッシュ大統領が叫んだ言葉が印象的である。「これはテロではない。戦争だ!」と叫んだのだが、核心を突いた言葉だったのだろう。
「イスラム国」は「世界の戦場化」と、「戦場の日常化」を推し進めているのかもしれない。
 そうだろうか。わたしは違うと思う。「イスラム国」は図らずも、現代世界の本質が「戦場」だという真実を浮き上がらせてしまったのだと考えている。
「日常の世界」とは平和な世界であり、自由と平等と民主主義が息づく世界だとばかり思っているが、実はそれは見せかけの世界であり、マスメディアを使った情報操作によってそう信じ込まされている洗脳世界であって、真実は「戦場」の世界であり、「戦場の日常化」の世界だったのではないだろうか。
 内山節は『戦争という仕事』(信濃毎日新聞社)を著しているが、現代社会の仕事の核心にあるものを、戦争に通じたものとしてみている。現代社会の労働観にも関わるものだと思うが、新自由主義という経済思想は、正しく「戦場」の世界を経済に応用した理論なのではないだろうか。
 新自由主義は市場を絶対化し、その市場の意志こそが神の意志であるとするものだ。優れて一神教的な論理なのであるが、前回のブログで紹介した大塚和夫が『イスラーム主義とは何か』(岩波新書)で論じている、ナショナリズムに宿る「本質主義」に通じた論理なのである。
 新自由主義の市場においては勝者と敗者しかいない。勝者は絶対的な善であり、敗者は絶対的な悪なのである。何故ならば、勝者は神によって選ばれた者だからだ。市場においては何をしようとも勝者でありさえすれば、神の意志の後ろ盾がある正義なのである。新自由主義の「市場」を「戦場」に置き換えられはしないだろうか。勝つか負けるか、殺すか殺されるかの「戦場」なのである。何をしても構わない。「戦場」においては敵を殺すことが目的のすべてであり、敵を殺すことでしか生き残れないからだ。そして、新自由主義の「市場」とは究極のニヒリズムの世界でもある。何故ならば、神の意志を「市場」に求めているが、その「市場」における行為には倫理性の欠片もないからだ。神とは名ばかりである。

 こうしてみてくると、新自由主義と「イスラム国」は瓜二つではないだろうか。
 わたしが「イスラム国」は、新自由主義が自ら仮面を剥ぎ取って、そのおぞましい限りの素顔のままを鏡に映したものだといった意味である。
「イスラム国」は、「市場の意志」を「アッラーの意志」に置き換えただけなのである。そして、「アッラーの意志」で自らを絶対化したものである。新自由主義が一元的な「市場の意志」を全世界に拡大していこうとするように、「イスラム国」は「アッラーの意志」を全世界へと拡大していこうとしているのだ。それは全世界の「戦場」化である。「イスラム国」をイスラーム主義とみなさないのは、欧米「近代化」に抗う葛藤の中で、イスラームによる欧米「近代化」の乗り越えという思想的営為の結果としての急進的暴力主義ではなく、最初にニヒリズムに彩られた欧米への破滅的な憎悪と敵愾心があり、それを軍事力と暴力によって実行に移す段階で、武装集団を構成する兵士の心を強固なものに結集させ、尚且つ正当化するためにイスラームの絶対的な権威を「借りた」という側面を重視するからである。

「イスラム国」を壊滅させようと、アメリカに主導された「有志連合」が連日のように空爆を行っているが、わたしは仮に「イスラム国」が壊滅し、分裂することがあったとしても、第二、第三の「イスラム国」が雨後の竹の子のように生まれると確信している。
 何故ならば、空爆によって憎悪と復讐心と絶望とを増殖させているからだ。憎悪と復讐心と絶望とがいっそう激しさを増し、またニヒリズムによって黒々と彩られたおぞましい姿を現すのだろう。この世に生きてきたことを呪い、この世に生まれてきた意味と歓びを欧米という敵を抹殺することにしか見出せなくなって、憎悪と復讐心と怨念と、そして絶望とを、手榴弾にして投げつけることだろう。それをニヒリズムといわずして何と呼べばいいのだろうか。
 中東世界とアフリカ世界の話しに限定することはできない。新自由主義のおぞましい姿こそが、「イスラム国」の本質だからだ。
 したがって、新自由主義に毒されている欧米世界と日本、そしてアジアや中南米にも、新種の「イスラム国」が誕生することだろう。
 新自由主義とは「本質主義」的な発想を蔓延させる。もう一度「本質主義」な発想を、大塚和夫の『イスラーム主義とは何か』(岩波新書)から引用してみよう。

「急進的イスラーム主義者の場合も、信仰者と不信仰者(異教徒)という友・敵二分法を採用する。さらに、ブッシュ大統領の説く『文明とテロの戦争』もまったく同型のイデオロギーである。中立的もしくは仲介者的立場を認めず、世界を素朴に友と敵とに二分する論理、それは単純であればあるほど、もっとも効果的に政治的動員を実現するものである。その点でアル=カイーダとアメリカ政府のイデオロギーは、双生児のように似ている」

 ネット右翼や在特会などの思考方法は、完全にこの二分法だろう。同じ発想をする安倍晋三を熱烈に支持するのは、マスメディアを利用したイデオローグによって洗脳され、安倍晋三が熱狂的に敵と見なす勢力を、同じく熱狂的に敵と見なしているからだろう。
 今やネットの時代である。「イスラム国」はネットを使った情報戦術によって、全世界にプロパガンダを行い、全世界から戦闘員を募っている。実際に、日本を含めた全世界から戦闘員を集めている。そのほとんどが若者である。中国政府でさえ、300人の中国人が「イスラム国」に戦闘員として参加していることを公表している。
 こうした現象はどうして起こるのだろうか。
 新自由主義によって「市場」が「戦場」となり、その「戦場」が生み出した、やり場のない憎悪と呪いが絶えず増幅されて、社会の内部へと吐き出されているからではないだろうか。
 日本の超格差社会は、6人に1人の子どもを食うや食わずの貧困生活へと突き落としている。生活苦から自殺する親が後を絶たず、子どもを見捨てる親も珍しくはない。社会の内部に蠢く、そうした子どもの絶望と憎悪と呪いは何処に向けられるのだろうか。
 何処に向けていいか分からないから、自暴自棄の暴力になったり、犯罪へと走ったりするのだろうが、ある日突然、「イスラム国」のプロパガンダを観て、何処に向ければいいか、自分にとっての敵は何か、閃光となって啓示されたらどうなるのだろうか。
 紛争地域の親を殺されたストリートチルドレンだけではない。いわゆる先進国の社会でも同じような事態が起こっているのだ。そうした超格差社会を生み出しているのは新自由主義であり、「戦場」のニヒリズムと憎悪と絶望と怨念と、二分法的な発想を生み出し続けているのである。
 二分法の発想に毒され切ったネット右翼と在特会が、敵を韓国と中国からいつ欧米に切り替え、「イスラム国」の戦士になるやも知れぬのである(笑)。
 何も遠く中東の「イスラム国」に戦闘員として出向いていくことはない。日本で「イスラム国」の賛同者と名乗って自爆攻撃も有り得るのである。原発は恰好の標的になるだろう。

「イスラム国」のような蛮行は、理性が決定的に欠如しているからなされるのであり、西欧近代的な理性がないからだ、と嘯く西欧近代主義的な理性信仰論者がいるが、歴史的事実をまったく無視した発想だと思う。
 ロボットで考えてみよう。
 ロボットはプログラミングされているが、ロボットの下す判断は理性的であり論理的なはずだ。が、その判断はプログラムの方向へしかいかないものである。プログラムを価値観と世界観に置き換えられないだろうか。
 つまり、理性は価値観と世界観によって制約を受けているのである。わたしは、理性と感情は補完関係にあり、理性が暴走するのを感情が阻止し、感情が暴走するのを理性が阻止するのだと思うが、洗脳とは感情と理性の補完関係を破壊し、ある一定の方向でしか理性が働かないようにして、理性が働いていく方向を欲望するように感情を仕向けているように思う。ニヒリズムにとっては、感情の方が厄介な存在であり、コントロールし難いのではないだろうか。
 アメリカでは戦場からの帰還兵の自殺が問題になっているが、わたしは無理矢理に働かなくされていた感情の一部が甦ったからだと思う。甦った感情が、「戦場」でしてきた自分の行為を責めるからではないだろうか。その自責と悔恨と深い絶望と、そして「戦場」の狂気と恐怖の日常体験が、自分の存在と心の均衡を失わせてしまうのだ。
 ナチスを出すまでもなく、身の毛がよだつほどの虐殺と蛮行を、理性は嬉々として行ってきた歴史があることを忘れてはならないだろう。

「イスラム国」はモンスターなのだろうか。モンスターとは、通常の論理が通じなないばかりか、一般人の感情と感覚とは隔絶しているという意味なのだろうが、こうした見解は短絡的だと思う。
「イスラム国」の本質を覆い隠し、「イスラム国」が現代社会の抱える闇であり、この闇は中東世界に限定されるものではなく、全世界の問題であり、破局へと向かいつつある人類世界の問題を突きつけているということに、永遠に気づくことができなくなることだろう。
 そして、「テロに屈せず、断固としてテロと戦う」という言葉が、如何に欺瞞的であり、本質から逸れたトンチンカンな言葉か気づけずに、人類が奈落の底へと転がり落ちていくことだろう。本来戦うべきは、「イスラム国」を生み出し、また日常的に「イスラム国」へと吸引されていくニヒリズムに彩られた憎悪と怨嗟と絶望の連鎖を断ち切ることなのだろう。つまり、新自由主義こそこの世から抹殺しなければならないのであり、新自由主義と戦わなくてはならないのである。
 そして、紛争と戦争の撲滅だろう。対立を暴力によって解決しようとする方向性を排除していくしかない。日本の平和憲法が世界的な意味で、重要性を増してくることだろう。

 新自由主義は「イスラム国」なのである。
 新自由主義に人質にされた何百、何千万という無辜の民衆がいるのだ。心ある政治家ならば、この無辜の民衆を救出する使命に燃えるのが本来の姿だろう。
 この人質になった無辜の民衆を如何に救い出すか、それが最大の問題であり、緊急の問題なのである。その問題をアベノミクスで解決するなどと虚言を弄する安倍晋三に任せておけないのは当然である。安倍晋三こそが新自由主義にして「イスラム国」の手先だからだ。
 安倍晋三の救出策を批判せずに、何を批判するのか。安倍晋三の救出策を批判することを自重するように迫ったり、批判そのものを否定するのは愚の骨頂だろう。

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 共産党が提唱した『国民連合政府』構想を、どうしても従来型の「選挙協力」にまで貶めたい勢力がいる。
 従来型の「選挙協力」とは、選挙に勝つことが目的である。
 従来型の野党の「選挙協力」とは、選挙において候補者を絞って相互に応援し合う自民党と公明党との戦術に対抗したものだ。つまり、選挙戦を有利に戦うための戦術が「選挙協力」なのである。
 しかし、自民党と公明党との「選挙協力」と野党の「選挙協力」には明確な違いがある。
 自民党と公明党の「選挙協力」は選挙後の連立政権を見据えたものだ。それに対して野党の「選挙協力」は選挙後の展望はないに等しい。展望がないというと批判を受けそうだが、確かに展望らしきものはある。が、その展望とは蜃気楼とでもいうべきものだ。反自公政権、もしくは反安倍政権という旗を掲げてはいるが、その旗は見方によって七変化する奇っ怪な代物なのである。
 例えば、極右思想の持ち主であり、改憲派であり、原発推進派であり、そしてTPP推進派である維新の党の候補者を、あろうことか護憲・反原発・反TPPを党是とする社民党が応援するということが、何の疑問もなく行われる。仮にこの候補が当選して、果たして選挙後の国会でどういう立ち振る舞いをするのであろうか。考えるまでもない。
 これまでの日本共産党はこうした野党間の「選挙協力」を否定し、頑ななまでに独自候補を擁立してきた。野党陣営からは自公政権を利するものであり、利敵行為だと非難されてきたが、わたしは日本共産党の選挙姿勢を支持してきた。野合的な「選挙協力」でしかないからだ。その証が、民主党の分裂騒動であり、維新の党の離合集散と分裂騒動である。
 民主党は二大政党制を前提として促成的に設立された党だけに、いわゆる極右主義者から、いわゆる左翼的リベラル派までの雑多な寄り合い所帯である。何をして、これほどの雑多な思想の持ち主たちを民主党という一つの党に収斂させているのだろうか。わたしは悩んでしまうのである(笑)。論理的に突き詰めれば、突き詰めるほど分からなくなってくるからだ。そればかりではない。論理的に突き詰めれば突き詰めるほどに、民主党と自民党との本質的な違いが分からなくなってくるのである。
 そしてわたしは論理的に突き詰めて民主党を考えることを止めたのである。論理的に突き詰めて考えても無駄だと悟ったからだ。いや、論理的に突き詰めて考えては、民主党の本質を捉えられないと気づいたのである。
 どうして気づいたのかというと、離合集散劇を観察したからだ。
 離れてはくっつき、くっついたかと思うとまた分裂する。これでは「選挙協力」の意味などないに等しい。選挙戦に勝ったところで、どう転ぶかわからないのでは、政治的方向性と政治的意味とが曖昧模糊としたものになり失望感だけが膨らむばかりだ。そして容易に、政治不信と政治的諦念に結び着くようになり、政治的無関心という虚無の穴へと国民を突き落としていくことになる。これこそが、最大の自公政権への貢献になるのだろう。

 何故に民主党は信じられないような雑多な寄り合い所帯でありながら、一つの党として曲がりなりにも存続し得ているのか。それは政治屋という商売にしがみつくためである。これがわたしが行き着いた答えである。論理的に突き詰めたから得られた答えではなく、離合集散劇を観察したから導き出された答えなのである。離合集散劇とは正しく政治屋という商売にしがみつくための方策だったからだ。
 政治的思想と政治的信念と政治的志と、そして政治的誠実さがあれば、極右主義者からリベラル左派までがごった煮状態でいられるはずはないのである。そのごった煮状態の本質を、政治的思想と政治的信念と政治的志から探ろうとするのが土台無理があるのだ。要は、そんなものは二の次なのである。如何にしたら政治屋商売にしがみつけるか、これが問題の全てなのだ。そのためには離合集散は当たり前だし、安倍政権と裏取引することも辞さず、喜んでしっぽを振って安倍政権に擦り寄ることもすれば、大資本の操り人形にも徹することができるのである。

 現実の日本の政治を深く見つめるならば、こうした腐敗し切った政治の本質的姿が浮かび上がってくるのではないだろうか。おぞましい安倍政権を生み出した元凶とは、この醜悪な政治的本質だとわたしは確信している。

 従来型の「選挙協力」を、わたしは断固として否定する。
 醜悪な政治的状況をより深刻にし、政治不信と政治的諦念と政治的無関心という闇に社会が覆い尽くされるからだ。従来型の「選挙協力」は単なる野合でしかない。そして重要なのは、「選挙協力」が政治屋商売にしがみつくためだけの「方便」でしかないという事実だ。政治屋商売にしがみつくための単なる選挙戦術であり、取引なのである。
 国民は「選挙協力」という表向きの看板に騙されているといえる。国民を欺き、政治屋商売にしがみつくために編み出されたのが従来型の「選挙協力」なのである。従って、日本共産党が従来型の「選挙協力」を否定するのは当然だろう。国民を巧妙に欺くための看板であり、民意などそっちのけで、政治屋家業にしがみつくための方便としての戦術が「選挙協力」だ、というのが真相ではないだろうか。

 では『国民連合政府』はどうか。
 日本共産党の志位和夫委員長が『国民連合政府』構想を提唱したからこそ、わたしは『国民連合政府』の歴史的な、そして政治的な意味を捉えることができると思っている。
 日本共産党は従来型の「選挙協力」を頑ななまでに否定してきた経緯がある。そして従来型の「選挙協力」を一貫して野合と批判してきた。その日本共産党が『国民連合政府』構想を提唱したのだから、一見すると矛盾しているかにみえるが、本質的にみれば従来型の「選挙協力」そのものを革命的に破壊するものである。
 どういうことかというと、国民の目を欺き、政治屋家業にしがみつくための政治的な方便でしかなかった従来型の「選挙協力」を乗り越えたということである。乗り越えたとは止揚という意味ではなく、政治屋のためだけの政治的いかさまでしかなかった「選挙協力」を木っ端微塵に吹き飛ばし、言葉の厳密な意味で国民主導の「政治的共闘」を実現させるという意味である。
 わたしはこれまでにブログで日本共産党の謎について書いてきたが、日本共産党は大胆に変身しつつあると直観している。変身とは変節ではない。モンシロチョウの変態のようなものである。卵と芋虫とさなぎと蝶は、姿は違うがモンシロチョウであることには変わりはない。本質的には一緒だ。

 従来型の「選挙協力」に政治的リアリズムを持ち出す論者がいるが大間違いだ。
 従来型の「選挙協力」が単なる野合であると同様に、政治的リアリズムも似非でしかない。
 丸山真男が指摘しているように、政治的リアリズムとは理想と切り離すことはできない。理想という羅針盤と目的地があるから、現実の自分の立ち位置がわかり、厳粛に現実と向き合いながら如何にしたら現実を理想へと近づけていけるか、そのために戦略的に、そして戦術的に現実へと関っていく中で作用するのが政治的リアリズムなのである。だから常に現実に飲み込まれてしまわないような、現実との緊張と対立があり、時には現実との戦略的な妥協もあれば、政治的敵対者への譲歩と取引もあるのだ。
 が、政治的理想がなく、ただ目先の政治的目的だけがあり、その目的たるや政治的思想と政治的信念と政治的志とは無関係な、単なる欲と金だとしたら、その政治的目的のために繰り出される政治的リアリズムなど醜悪な処世術でしかない。
 政治的リアリズムとは、あるがままの現実を受動的に受け入れて、その現実を前提にして政治的行動をとることではないのである。現実と対決しながら、その現実を理想へと変えて行くために、能動的に、現実と格闘する中で生まれるものなのだ。

 日本共産党の提唱する『国民連合政府』構想こそ、丸山真男のいう政治的リアリズムなのである。
 丸山真男は『現実主義の陥穽』の中で、戦前の歴史が現実にずるずるべったりと引き摺られ(現実容認)ファシズム国家体制へと雪崩れていったことを解明しているが、『国民連合政府』構想は、丸山真男が警告した歴史的体験を踏まえた上で、如何に安倍政権が作り出した醜悪な現実と対決し、ファシズム国家体制へと雪崩れていこうとしている政治的状況を阻止できるか、そうした切実な、そして切迫した危機感に彩られた政治的リアリズムの結晶なのである。
 政治的リアリズムだからこそ、「選挙協力」ではなく『国民連合政府』なのである。目的が明確であり、この目的の前には党派の垣根は元より、保守と革新との境も無意味にし、政治的立場と立ち位置を無意味化してしまう魔力があるのである。
 当然に無党派層ばかりか、政治的無関心層にまで吸引力が及ぶことになる。そして何よりも結集すべき大義の旗を高く掲げられるということに注目すべきだろう。
 この政治的大義の旗は絶大な魔力を持つ。1+1=2という論理を超えてしまうのだ。1+1が5にも10にもなるのである。それが政治的大義の旗というものだ。単なる選挙に勝つための選挙協力にはこの大義がない。

 志位和夫委員長は政治的感性が突出している。これはわたしの文学的な直観だ。志位和夫委員長は論理的思考に長けているが、それだけでは歴史を動かしていくような政治家にはなれないし、政治的リアリズムを研ぎ澄ませることもできないだろう。政治的感性を、わたしは重視している。
 わたしは何回か国会議事堂前のデモに参加しているが、志位和夫委員長の演説をその度に聞いた印象がある。拳を振り上げて熱弁する志位和夫委員長の姿が目に焼き付いて離れないのだ。
 志位和夫委員長の類い希な政治的感性が、国会議事堂の周辺を埋め尽くした民衆の心と激しく共鳴し、民衆の心の中心に渦を巻く熱いエネルギーの正体に政治的感性で触れたのだろう。そのエネルギーに日本の未来の希望をみたに違いない。そして、その希望を裏切ってはならないと、政治家志位和夫の魂を燃え上がらせたのだろう。
 このときの志位和夫の政治家としての魂は日本共産党だけのものではない。日本の国民のものであり、日本の未来を切り拓くための貴い魂なのである。そうわたしは確信している。
 そうでないと、『国民連合政府』構想など提唱できるはずはないからだ。日本共産党委員長として保身的に発想し行動していては、『国民連合政府』構想などという発想は生まれようもない。日本共産党を超えているのである。日本の未来のために今何をなすべきか、その一点に立っての政治的決断であり、正真正銘の政治的リアリズムの発露なのだ。
 忘れてはならないのは、政治家志位和夫の魂は、国会議事堂周辺を埋め尽くした民衆の心と激しく共鳴したという事実だ。だから『国民連合政府』構想に民衆の心が強く惹き付けられているのだろう。『国民連合政府』こそ民衆の願いであり、希望なのである。

 わたしはこの危機的な政治状況を打開する道は、『国民連合政府』しかないと信じている。
 その思いは日増しに強まっている。何故ならば、『国民連合政府』の影に怯える勢力の薄汚い罵声が喧しくなっているからだ。
 安倍政権にとっては致命傷となるだろうし、自民党と公明党にとっても破壊的な脅威になるのは間違いない。そればかりではない。政治屋家業にしがみついて離合集散劇に現を抜かしている勢力にとっても脅威であるはずだ。政治が、政治屋のものから国民主導へと大変革を遂げてしまうからだ。『国民連合政府』は、篩(ふるい)の役割を果たす。政治屋家業にしがみつこうとする似非政治家は弾かれてしまうだろう。そして、国民にとってそうした似非政治家は不要のゴミでしかなくなるのである。
 篩の役割を果たすといったが、篩の前では党利党略は無意味になる。党派の前に国民の心と真摯に向き合う一人の政治家になるのである。

 オール沖縄は、『国民連合政府』構想と本質的に通じているだろう。
 オール沖縄の心は、保守も革新も党派の違いも無意味化した。祖先が大切に守り育ててくれた、沖縄の心であり魂である美しい辺野古の海を、子や孫へと受け繋いでいこうという願いが核にある。その美しい海を守り育てることと反戦平和とは切っても切れない関係がある。平和だからこそ美しい海が生きていけるのだ。
 『国民連合政府』構想は、平和憲法を取り戻し(立憲主義)、自由と平等な社会を守るために、戦争法を廃止し、閣議決定を取り消すための連合政府である。そして、それはファシズム国家体制へと突き進む安倍政権を打倒することでもある。目的が明確であり、この目的の前には保守もなければ革新も無く、党派の垣根はないはずなのである。
 わたしは『国民連合政府』が成立したら、日本の政治的土壌は大きく様変わりするように思えてならない。従来の保守と革新という境界線が無意味になると思うからだ。政治的土壌というよりは、価値観の転換が徐々に起こるのではないかと直観しているのである。価値観が転換するから、その価値観の上に乗っかった政治的土壌も変わるということなのである。
 わたしは『里山主義』を唱えている保守主義者であるが、護憲・反原発・反TPPで一貫している日本共産党を支持している。『国民連合政府』が成ったあとで、日本共産党はどう姿を変えるか。これからも日本共産党の謎に注目していきたい。

 最後に一言。
 『国民連合政府』構想にいちゃもんをつけるものは、日本の未来を閉ざす大罪人である!

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