「北林あずみ」のblog

2015年10月

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 わたしは大学では政治経済学部に席を置いていたが、熱心に勉学に勤しんだ記憶がない。だから政治学にも経済学にも疎い。
 わたしの頃はまだどうにかマルクス経済学が生き延びていた。といっても主流は近代経済学になっていたのであるが、わたしの性格はどうも本質へと向かう傾向があるようだ。
 近代経済学の主流は需要と供給とのバランスから市場によって価格が決定されるというものだが(そういえば限界効用逓減の法則という言葉を思い出した―笑)、この需要と供給とのバランスという発想がわたしにはしっくりとこないのである。言い換えると、眉唾ものに思えるのだ。
 どこが眉唾ものなのかというと、需要はマスコミを利用した情報操作によってどうにでも作り出せるからだ。その情報操作によって需要が膨れ上がれば、当然に供給が覚束なくなるから、遮二無二になって生産量を増やすことになる。
 この需要と供給の関係性を視点を変えてみると、供給のために需要が作り出されているという側面が見えてくる。
 おかしいと感じないだろうか。
 何がおかしいかというと、戦争の道具である兵器という商品を考えれば分かるはずだ。軍需産業にとっては、兵器の需要を高めることが死活問題である。需要を高めるにはどうするか。世界のどこかで戦争を始めるか、膨大な軍事予算を勝ち取ることである。
 安倍政権を考えてみれば、この意味が鮮明になってくる。
 安倍晋三は武器輸出を解禁した。そして戦争法の成立を強行した。その際に、国民を洗脳するためにマスコミを利用し、ありもしない安全保障上の緊張を過大宣伝したのだ。戦争法の成立後には当然のこととして、防衛費が独り歩きを始めた。
 アメリカは軍事大国である。膨大な金額の軍事費を計上し、アメリカ経済の動脈ともいうべき軍需産業を抱え、血管をあらゆるところに張り巡らせている。この体制を維持するにはどうするか、限りなく戦争という需要を作り出さなくてはならないというジレンマがある。
 戦争法を強行採決した安倍晋三は、このジレンマの中に嬉々として日本という国と日本人を突き落としたことになる。世界のどこかで戦争が起きていないと立ちゆかないというジレンマは、考えてみればおぞましいものである。CIAの暗躍でクーデターを起こしたり、内戦を勃発させたり、国家を転覆させたりということが、実際に行われてきたのである。

 わたしがおかしいといっているのは、兵器という商品に内在する価値に対してである。需要と供給のバランスで市場によって価格が決定されるというが、そもそもが兵器に価値などあるのだろうか。
 わたしの性格が本質に向かう傾向があるというのはこうした意味である。
 わたしが学生の頃は新左翼の周辺にいたので、マルクス経済学を囓ったりしたのだが、マルクス経済学は商品そのものに内在する価値へと目を向けている。
 使用価値と交換価値という概念を使い、商品とは使えば人の何らかの欲望を満たすという意味での使用価値が必要絶対条件であるが、商品であるためには他の商品と引き替えられる価値、つまり交換価値がなくてはならないとしている。例えば、一般に生活している中での空気などは使用価値はあっても交換価値をもたないから、商品にはならないということになる。
 では異なる商品を交換するときに商品そのものに内在するものさし(本質的な価値)とは何かというと、その商品を作るために社会的に必要な労働時間だというのである。これが労働価値説というものだが、使用価値も交換価値も、そして労働価値説もマルクスの専売特許ではなく、マルクス以前にあったものだが、マルクスはより論理的に体系付けただけでなく、更に剰余価値という概念を導き出して、資本と労働の関係性から、資本主義の赤裸々な姿を暴いたといえるのだろう。
 しかし、わたしはマルクスの労働価値説もおかしいと思う。
 兵器という商品にそもそも価値があるのかという疑問があるからだ。マルクスの理論でも兵器という商品には価値が内在することになる。
 近代経済学はより利潤を得るために生産性の向上と効率化を図り、機械化を目指す。生産性の向上と効率化とは科学の発展と切り離せない。その上で資本主義とは、絶えざる拡大再生産を運命付けられている。このシステムは前へと進歩していく世界観が核にあるのである。循環型の世界観ではない。
 マルクスはどうか。ヘーゲルを批判的に継承したマルクスの哲学の核にある唯物弁証法もまた進歩史観である。経済的基盤である下部構造が変質し、上部構造との乖離矛盾が発生し、社会的軋轢と矛盾が噴出し、その矛盾を止揚する形で上部構造を下部構造に合わせる形で革命が起きる必然性を説いている。したがって社会は、止揚される形で発展し、やがて社会主義体制となり、究極的には共産社会へと止揚されていくという歴史観に貫かれている。その歴史観には、科学的進歩による生産性の向上が前提としてあるのである。
 わたしは「里山主義」という新しい保守主義を唱えているが(『風となれ、里山主義』として電子書籍で出版)、資本主義とマルクス主義は西欧近代主義を母としてもつ二卵性双生児だと思っている。
 西欧の精神的土壌にはキリスト教の世界観が息づいている。キリスト教には布教によって全世界に神の教えがあまねく行き渡ったときに、地上に神の国が実現されるという世界観があるのだろうが、この世界観とは進歩史観そのものである。そして人の姿をした一神教の神とは、ニーチェが看破したように、人の理性の投影なのではないだろうか。
 人の理性の投影であり、その神を絶対化するとすれば、勢い人間中心主義になり、理性信仰と科学信仰は避けられない運命なのではないだろうか。
 マルクスは需要と供給との不均衡を、資本主義は宿命的に抱えており、それが頂点に達したときに恐慌が発生するメカニズムを明らかにしたが、以前のブログで書いたように、見田宗介は『現代社会の理論』(岩波新書)で、情報により無限大に消費を拡大することによって、資本主義が宿命的に抱え込んだ需要と供給の破局的不均衡を回避できると論じている。つまり、マルクスのいう資本主義の内部矛盾は克服されたというのである。
 が、重大な問題が提示された。それは、循環型の社会システムではないだけに、自然環境にかかる一方方向の負荷であり、その負荷が加速化しているという暗澹たる現実であり、破滅へと向かって突き進んでいる人間のおぞましい姿と、暗澹たる未来である。蓋し、人間中心主義と科学万能神話の当然の帰結であろう。

 いつものように前置きが長くなってしまったようだ。
 もうウンザリと、早々に読むのを止めてしまった方が続出していると思うが、それでも読むのを止めない方はりっぱである。相当な偏屈か、意地っ張りか、はたまたマゾの気があるかなのだろうが、これからが本題なので今暫く耐えに耐えて読んでいただきたいものである。
 わたしはサディストではない。相手が女ならば、是非ともマゾを演じたい。「元始、実に女性は太陽だった。真心の人だった」という平塚らいてうの教えを頑なに信仰しているからだ。が、愛妻との夜の生活はいたって正常である(ここ数年は夜の生活からは遠ざかっている)。愛妻は夜にサディストになるのではなく、あろうことか真っ昼間に着衣のサディストになるのである。真っ昼間のわたしはマゾヒストならぬ着衣の奴隷になるのだ。断っておくが、性奴隷ではない。「洗濯物干してきなさい」と命令されれば、「かしこまりました、ご主人様」とうやうやしく答える奴隷なのである。
 またまた断っておくが、秋葉原界隈にあると聞くメイド喫茶の店員よろしく、わたしはメイドの衣装を着てはいない。そんな趣味がないことだけは断言しておきたい。
 このまま書き進めると、延々と脇道に逸れてしまいそうなので、本題に突入する。

 商品の価値とは何か。
 わたしごとき者がかような問いを発することが、いかに経済学を侮蔑することになるか、厚顔無恥であるわたしでも分かっているつもりだ。が、人とは不可解な生き物である。分かっていながら、敢えてやってしまう所にどうしようもない愚かさがあるのだろう。植木等が唄った「分かちゃっいるけど止められぬ。あっほれ、スイスイスーダララッタ、スラスラスイスイスイー♪」という『スーダラ節』の歌詞を口ずさみたくなる心境なのである。
 山好きのわたしは縦走の折に、よく石を拾ってきた。過酷な縦走であればあるほど、その証の石を拾わずにはいられないのだ。単独行で南アルプスの北沢峠から甲斐駒ヶ岳を経て鋸岳を縦走し、夕暮れの戸台川を歩いた時に拾った石は懐かしい宝物だ。その石に触れるとその時の光景が鮮やかに甦ってくるのである。思い出だけではない。その石にはその時の感覚が封じ込められているのだ。だから風の匂いと、川の流れの音と、ゆらゆらと光の帯を波立たせながら揺れていた月光の姿が甦ってくるのである。十月半ばの山行だった。
 この石は商品ではない。が、わたしにとっては掛け替えのない宝物である。
 文化を考えてみよう。
 目の前に白い和菓子がある。
 そして渋い深緑りの織部焼きの皿と、使い捨ての紙の皿があるとしよう。
 これは極端な例であるが、需要と供給のバランスによって市場が決める価格には、織部焼きの皿と紙の皿では雲泥の差がある。用途は同じであり使用価値は変わらない。交換価値は明らかに違う。
 では存在価値はどうだろう。
 和菓子を載せて食べるためなら紙の皿で事足りる。それだけのために何千倍の価格の織部焼きの皿を使う意味があるか。
 どうしてもこの和菓子には、この織部焼きの皿で食べたい。そう想う心には、和菓子を愛でる心と、和菓子を引き立ててくれる織部焼きの皿を慈しむ心が融け合っているのだろう。そこに紅く色づいた紅葉の葉を一枚載せる。
 これは和菓子を食べるという行為に留まらない。移りゆく季節を愛でる心であり、移りゆく季節を生きる歓びに浸る心なのだろう。日本に息づく感性と抒情を愛でているのだ。
 資本主義とは、こうした日本的な感性と抒情を生き、日本的な感性と抒情を愛でることを排除する方向へと突き進むものである。
 現代の資本主義は、この方向に加速をつけて爆走しているといえよう。つまり、使い捨ての紙の皿の方が合理的であり、尚且つ効率的であり、そして経済的だという論理が貫いた社会だからだ。織部焼きは存在価値を失ったといえるのかもしれない。

 宇沢弘文が影響を受けた制度学派の中心的存在であったヴェブレンは『有閑階級の理論』(岩波文庫)の中で、こうした織部焼きの皿に載せた和菓子を愛でる精神的な趣味と文化を、金銭的富を独占し余暇ができた有閑階級が、勤労階級と自らを差別化するための金銭的見栄や衒示的閑暇や衒示的消費と結びつけて論じている。平安貴族の遊び心や精神的な趣味、そしてそうした感性と結びつく形で生まれた文化を、有閑階級の制度的なものとして捉えている。
 学生の頃に読んだのでうろ覚えであるが、一昔前まで、嫁入り前のお嬢様が習得した茶道や華道がそうした例である。金銭的余裕と時間的余裕がなければ、習得はできないのであり、逆にいうと茶道と華道を心得ているということは、金銭的余裕と時間的余裕を有する有閑階級であることの証明なのである。
 制度が個人の気質と習慣にどういう作用をしているか、少し長くなるが『有閑階級の理論』から引用してみる。

「人間の諸制度なり、人間の性格なりについて、いままでおこなわれ、また現在おこなわれつつある進歩は、おおまかにいえば、最適の思考習慣の自然淘汰に、帰着せしめることができ、また、人間がそのもとに生活した制度の変化なり、社会の成長とともにしだいに変化した環境なりにたいする、個人のやむをえない適応過程に帰着せしめることができよう。制度は、それ自身が、精神的態度なり傾向なりの、一般的もしくは支配的な類型を形づくるような淘汰的、適応的な過程の結果であるばかりではない。それはまた同時に、生活や人間関係の特殊の方法であり、それゆえにまたつぎには、淘汰の効果的な要因でもある。それゆえに、変化する制度は、つぎつぎに、最適の気質にめぐまれた個人のさらにすすんだ淘汰をつくり出し、また、新しい制度の形成を通じて、個人の気質や習慣がますます環境の変化に適応することを促進する」

 わたしはヴェブレンの『有閑階級の理論』をストレートに受け入れるつもりはない。が、制度が人の思考や知性、そして気質や習慣に及ぼすという指摘を重要視している。
 わたしはヴェブレンの『有閑階級の理論』を、今村仁司の『近代の労働観』(岩波新書)を潜らせて理解したい。そして更に、バタイユのいう本来のあるべき消費の姿から批判的に理解するつもりだ。
 それを語る前に、また寄り道をしたい(笑)。

 昨日Twitterで、知性を万能視する昨今の風潮に対して危惧を表明し、ちょっとした論争になった。「知性か、反知性か」などという陳腐で使い古された問題提議で、現状のファシズムへと雪崩れて行こうとしている危機的な政治的状況を説明でき、尚且つ阻止できると思っているお目出度さに呆れかえっている。
 いわゆる一般人が「知性か、反知性か」と言っているのなら許せる。知性という言葉の響きが何となく良いイメージを連れてくるから、容易に知性信仰に陥ってしまうのだろう。しかし、「知性か、反知性か」と本気で叫んでいるのが名のある知識人と呼ばれている人達なのである。中には思想を研究対象にしている学者までもいる。むしろ日本の知性の劣化を、「知性信仰者」が証明しているようなものである。
 安倍政権の反動化を「反知性主義」として一括りにして事足れりとする神経が理解できない。
 確かに安倍晋三の知性はお粗末である。知性と密接に関係する知識もまたお粗末である。知性に不可欠の論理的思考能力に至っては致命的である。
 それだけではない。安倍晋三は超国家主義者にして新自由主義者という、幼児性分裂症を生きている。何故に幼児性なのかというと、超国家主義と新自由主義とは対立するものであり、政治的目的のために、意図的に二つを利用する形で融合していなければ、分裂的な論理矛盾が、思考と人格の両方に影を落とすことになる。分裂的な論理矛盾なのだから、当然に言うことに整合性はなくなるし、平然と真反対のことを言うことになる。嘘という意識がなく、日常的に嘘を吐くことになるが、本人は無自覚なのである。不誠実と嘘を無自覚に生きているから幼児性としか形容ができないのである。
 これほど質が悪い男はいない。嘘を吐いているという自覚がなく、不誠実を生きているという自覚がないから、心の痛みも羞恥心もないのである。その上、他人を思い遣るという心もなく、想像力に至っては哀れになるほど欠落している。いかに我が儘放題に育てられ、自己中心的に育ったか分かろうというものだ。
 しかし、ファシズムへと体制を変容させるために祭り上げる操り人形として、この男ほど相応しい存在はないのである。ヒトラーは自覚的で能動的なファシストだった。政治的目的のためなら、嘘も不誠実も脅迫も買収も躊躇しなかった。国会議事堂に放火させることも躊躇わず実行に移す、能動的な力を絶対化する政治的ニヒリストである。
 安倍晋三は資質的にはファシストとして充分なものを持っている。嘘と不誠実と脅迫と買収と弾圧は専売特許だからだ。が、無自覚的な操り人形としてのファシストなのである。祭り上げて自尊心をくすぐれば、どこまでも暴走する異常な自己愛の男だ。おまけに政治的胆力がない。脅せば震え上がって、求めぬことまでやってしまう小心者だ。
 この安倍晋三という男の資質を指して「反知性主義」というなら、それは間違いである。
 元々が知性と無縁の男だというだけであり、意識して知性に反逆しているのではない。安倍政権には安倍晋三的な資質を持った閣僚がおり、安倍チルドレンと呼ばれる自民党議員がいるが、これも同様である。しかし彼らは、知性を否定してはいないだろう。逆に俺こそは知性的な男だと思っているのではないだろうか。安倍晋三が決定的に破壊されているのは人間的な感情の方である。だから知性を否定して感情主義には絶対に走ることはないと断言できる。温かく柔らかな瑞々しい感情と抒情とは無縁の男だからだ。戦闘機の操縦席に座って無邪気にはしゃぎ、アメリカの空母に乗りたがる男である。
 ついでだから言っておくが、ネトウヨと在特会と商売右翼も知性とは無縁である。そして安倍晋三と同様に人間的な感情が希薄なのである。が、この勢力は「反知性主義」と結び着く傾向はあるだろう。つまり知性と知識人への侮蔑であり、その感情は暴力と不可分のものなのだろう。
 では安倍政権が反知性的かというとそれはあり得ない。安倍政権を陰で操っている勢力は知性的であり、政権の中枢にあって体制をファシズムへと導いていくための戦略と戦術を練っている勢力は知性的集団である。知性がなければマスコミを自由自在に操って情報操作をし、国民を洗脳していくなどできない相談だ。
 重要なのは、知性的であるからこそ、政治的な意図で、「反知性主義」の雰囲気を社会に蔓延させる戦術をとるということだ。そしてナショナリズムと合体させて煽りに煽るのである。
 知性は常に真理へと向かい、倫理的で道徳的であるというのは間違った思い込みである。
「知性か、反知性か」という問題提議が何故に無意味であり、短絡的な、それこそ知的堕落かというと、知性は反動と結びつかないというお目出度い誤った思い込みがあるからだ。
 明治維新以降の日本の思想史を遡れば、知性が反動と容易に結びつくことに気付くだろう。
 宮川透は『日本精神史の課題』(紀伊國屋書店)で、「日本及び日本人の西欧文化に対する基本的な姿勢となった《和魂洋才》方式は、(中略)一方で、伝統的心情世界を西欧文化の受容主体として実体的に固定するとともに、他方、西欧文化を受容の客体としてこれまた実体的に固定するという弊を生んだ。受容主体として実体的に固定された伝統的な心情世界は、みずからを対象化する眼をもたなかったが故に、つねに盲目的な非合理物に転化する傾動を孕み、受容の客体としてこれまた実体的固定された西欧文化は、ある局面では盲目的な崇拝・心酔の客体となり、ある局面ではこれまた盲目的な憎悪・反撥の客体となるという役割を演じた。要するに、《和魂洋才》方式の弊は、日本文化と西欧文化をともども対象化する視点を欠如していた」と日本の精神史に横たわる核としての弊害を指摘している。そしてこの弊害がどういう形で表出したかを、『日本精神史の序章』(紀伊國屋書店)で、「《西欧・世界への傾斜》と《日本への回帰》の波動運動」(=《非連続の連続》)として捉えている。日本への回帰とは、受容主体として心情的に「日本的なるもの」へと溺れていくことである。この「日本的なるもの」への心情的な雪崩れ込みが、容易にナショナリズムと結び着くことは理解できよう。つまりファナティックな反動勢力の形成である。
 問題は、この現象は日本の知性と呼ぶべき知識人の中で起こっているということだ。この現象を捉えて「反知性主義」などと呼ぶのは愚かであり、この現象は「反知性主義」ではない。知性による日本への回帰であり、ファナティックな反動的姿勢なのである。
 知性が足りなかったからだなどという批判は当たらない。日本の知性を代表する知識人たちだからだ。もちろん例外はいる。その例外こそが本来の知性だと祭り上げることに、どれほどの意味があるのだろうか。むしろ知性の問題性を矮小化するばかりか、問題の本質を見失うことになる。「反知性主義」とは本来、こうしたお目出度い知性信仰にしがみついてる醜い知識人たちを揶揄するものだろう。
 宮川透に決定的な影響を与えているのは丸山真男である。丸山真男が『日本の思想』(岩波新書)の中で指摘している「あらゆる時代の観念や思想に否応なく相互関連性を与え、すべての思想的立場がそれとの関係で―否定を通じても―自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当たる思想的伝統」の不在と、非連続の連続を結びつけているようだ。宮川透自身がこの丸山真男の問題意識を継承していることを述べているし、わたしが引用した箇所を引用している。
 わたしは丸山真男を丸山の弟子である橋川文三を通して吸収したのであるが、橋川文三が丸山学派の異端児であるように、わたしは丸山真男の問題意識を批判的に受け入れている、
 この件については個別性と普遍性に絡めて、電子書籍『風となれ、里山主義』で詳しく論じているので割愛したい。
 ただ一点だけ述べておくと、宮川透のいう「日本への回帰」とは、言葉の厳密な意味での日本の心情と抒情へと回帰したのではなく、西欧近代主義を裏返した形での「日本への回帰」だと思っている。高山樗牛はニーチェに絶対的な影響を受けているが、高山樗牛はこの好例だろう。わたしは言葉の厳密な意味で「日本への回帰」が起こっていたとすれば、ナショナリズムと結び着くことはあり得ないと確信しているからだ。
 つまり「日本への回帰」というが、どこに回帰したかを問題にしたいのである。天皇を頂点とした律令国家体制を正当化するイデオロギーである古事記の神代記が回帰すべき日本人の魂の故郷ではなく、「日本的なるもの」ではないと信じている。日本人が帰るべきは縄文人の心と魂なのだ。
 一昨日、安倍チャンネルNHKの特集番組があり、カンボジアのアンコールワットの遺跡の謎を解明していたが、憎き敵であるNHKの番組であるにも関わらず、不覚にも感銘を受けてしまった(笑)。
 どうしてクメール王朝は平和な文明を長い間に渡って維持できたのか、その謎解きをしていたのだが、知性信仰者には是非とも観てほしい番組である。西欧的意味での知性ではない。多神教的な寛容の心と、多様性を受け入れ、その個別的多様性を尊重し、棲み分けと循環を基本とした社会だからだ。
 この4回に渡る特集番組の最後は、一万年もの永きに亘って平和な社会と瑞々しい感性が迸る文化を築いた縄文時代のシンボル、三内丸山遺跡を取り上げるようだ。

 脇道に逸れてばかりで、まだ本題の入り口に立ったばかりであるが、だらだらと長くなってしまった。今日は肉体労働が休みの日ではある(わたしは日曜と月曜が休み)が、国会議事堂正門前のデモに参加するし、その前に貸し農園の畑にも行きたいので、この辺りで終わりにし、続きは次回としたい。

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 最愛の妻が、悪性リンパ腫と診断された。
 右足の付け根にしこりを見つけ、病院で切除して調べた結果、悪性リンパ腫であることが分かったのである。進行がゆっくりとしたものだということだが、本人のショックは相当なものだったはずだ。さすがに取り乱すことはなかったが、端からみていても精神的な動揺は隠しようがない。痛々しいほどだった。わたしと娘も愕然とした。
 かれこれ一月になる。
 悪性リンパ腫について妻はネットで調べたようだ。完治するのだろうか。どんな治療方法があるのだろうか。最悪、何年くらい生きることができるのだろうか。そんなことをあれこれと調べたに違いない。
 娘が来年結婚する。孫の出産に立ち会いたいし、孫の成長も見届けたいと思うのが母親としての人情だろう。「10年、いや15年は生きたい」と、妻はわたしに言った。
 妻は52才になる。61才のわたしとは9才離れている。
 治療はまだ始まっていない。転移がないか全身の精密検査を受けたりしているからだ。それが判明してから、具体的な治療が始まるのだろう。
 妻の家系は長寿である。91才の父親も持病は抱えているが存命であるし、83才の母親も元気である。福島原発事故による放射性物質の影響だろうか、などと考えたりしているが、原発が爆発した直後に自転車に乗った妻は雨に打たれている。わたしが住んでいるのは茨城県と千葉県の県境だが、汚染が酷い地域に当たる。
 前回ブログで「ドラマ『青い鳥』よ、再び……愛についての考察№1」を書いたが、今回はその続きを書くつもりである。
 妻が悪性リンパ腫になって、わたしは改めて、妻との愛の在り方とその変容を振り返ってみたりした。だから当然に、ドラマ『青い鳥』における恋愛を語る中でも、妻との恋愛を書くことになるだろう。

 前回のブログでドラマ『青い鳥』には、「第一部 北へ」と「第二部 南へ」のそれぞれに、三角関係の恋愛模様があると書いた。そして更に、「第一部 北へ」と「第二部 南へ」を貫くドラマの本質に関わる三角関係の恋愛が巧みに設定されていることを指摘した。
「第一部 北へ」は、柴田理森と町村かおりと綿貫広務との三角関係の恋愛が描かれ、「第二部 南へ」は柴田理森と綿貫詩織と秋本美紀子との三角関係の恋愛が描かれているのであるが、その「第一部 北へ」と「第二部 南へ」を貫くドラマに秘められた本質的な恋愛の姿として、柴田理森と綿貫詩織と町村かおりの三角関係の恋愛模様が描かれていると思っている。
 前回のブログでも、それぞれの愛の特徴を述べたが、より詳しく愛の姿を解剖してみたい。

 綿貫広務の町村かおりへと向かう愛とはどういうものなのだろうか。
 柴田理森と町村かおりが乙女が原で結ばれる夜に、宿直だった柴田理森のいる元へと、町村かおりを探しにやってきた綿貫広務が、自嘲的に吐露している。
 町村かおりを奪い取るためには前夫に離婚を承諾させなくてはならなかった。そのための手付け金を工面しようと、綿貫広務は父親に土下座して無心したことを、柴田理森に説明している。その後で、物陰に潜んだ町村かおりが聴いているという設定で、野沢尚は綿貫広務に語らせている。

 広務「親父はかおりのことを、ちょっと高くついた息子のオモチャ……その程度にしか考えていないんだ。いつ飽きて捨てるのか、待ってるんだ」
 理森「それじゃ……奥さんが可愛そうですよ」
 広務「俺も、何故だろうね……時々あの親子がオモチャに思えてくるんだ。命がけで愛して自分の田舎に連れてきたはずなのに、何でこの女はここにいるんだろう。何のためにこの女を連れてきんだろう……て、考えちまう」
 理森「(かおりに聞かせたくなくて)よしましょう。そんな話」
 扉の陰のかおり、眼差しが震えている。
 広務「でも離しはしないよ。絶対離さない」
 理森「……」
 広務「俺の女だ」
 (中略)
 理森「信じてあげたら、どうですか」
 広務「(その強い口調に)……?」
 理森「前に言ってたじゃないですか。心底惚れた女は初めてだって。だったら……」
 広務「君に何が分かる」
 理森「奥さんはあなたを信じて知らない土地まで付いて来たんでしょ? 頼りにできるのはあなたしかいないんです。あなたが信じてあげないと、奥さんはどんどん孤独になるじゃないですか」
 さっきのかおりの言葉を代弁した。
 扉の陰で聞いているかおり、理森の優しさが胸に沁みる。
 広務「詳しいんだね、女の気持ちに(とトゲがある)」
 理森「いえ、俺はただ……」
 広務「そこが、君と俺の違いって訳か? え?」
 広務に怒りの気配を見て、理森は黙る。
 扉の陰のかおりも緊迫する。
 すると広務は……ふうっと力が抜けて、
 広務「……よく分かったよ(と内省的に)」
 理森「?……」
 広務「俺は、一人の女を初めて愛せたことが嬉しいんじゃないんだ。初めて欲しいものを手に入れたのが嬉しかっただけだ……」

 綿貫広務の町村かおりへと向かう愛の始まりは、独占し所有する愛なのだろう。そして町村かおりという女が、この世に生を受けて初めて心底から欲しいと思った「物」なのである。人格を持っている生きた女ではなく、飽くまでも所有し独占したい物としての対象なのである。
 オモチャとはそうした喩えなのだろうが、どんなに欲しいと思ったオモチャでもいつかは飽きがくるものだ。綿貫広務自身が誰よりもそれを知っているから、「親父はかおりのことを、ちょっと高くついた息子のオモチャ……その程度にしか考えていないんだ。いつ飽きて捨てるのか、待ってるんだ」と父親の気持ちが分かるのである。と同時に、あれほど欲しかった物としての町村かおりの存在が、綿貫広務の中で段々と色褪せていくのを薄々と気づき始めていたのだろう。その心と抗っているのは、物としての町村かおりに対する愛情ではなく、執着でもなく、父親に対する意地なのではないだろうか。
 女を物として愛するとはどういうことなのだろうか。
 女を愛しているつもりが、実は自分の欲望の対象である物を愛していることなのではないだろうか。自分の欲望を満足させる物なのだから、その愛は自己愛の変形だといえないだろうか。
 こうした冷めかけた綿貫広務の町村かおりへの愛を、前よりも激しい炎となって燃え上がらせたのは、物として独占し所有していたはずの町村かおりの裏切りである。
 物は心を持たない。逆らうという意志もないはずだ。当然に裏切りなどがあろうはずはない。独占し所有していたはずの物である町村かおりが、所有主である綿貫広務を裏切ったのである。綿貫広務は否が応にも町村かおりが物ではなく、生きて呼吸する女だったことを突きつけられたのだ。
 自己愛の変形だった町村かおりへの愛に泥をかけられたのだから、自己愛を傷つけられた綿貫広務の憤りと、町村かおりという女に対する憎悪がどれほど凄まじいものか想像ができようというものである。綿貫広務にとっての町村かおりとは、初めて「心底惚れた女」という物だったのだから尚更である。初めて「心底惚れた女」とは、心底から初めて欲しいと思った物を意味する。そして、その物を手に入れたのだ。綿貫広務が、「俺は、一人の女を初めて愛せたことが嬉しいんじゃないんだ。初めて欲しいものを手に入れたのが嬉しかっただけだ……」と述懐している。
 しかし、町村かおりの裏切りは、綿貫広務の町村かおりという女への執着心に火を点けたのである。物に対する執着心ではあり得ない。綿貫広務を裏切った町村かおりは、綿貫広務の中で、心と意志がない物のままでいられるはずはないからだ。生きて呼吸する女である町村かおりへの執着心なのである。
 この執着心を、わたしは愛と置き換えることに躊躇はしない。そしてこの愛とは、憎悪と背中合わせの愛でもある。
 愛とは不思議なものだ。
 わたしは愛とは憎悪と背中合わせのものだと思っている。愛が激しければ、ひっくり返ったときの憎悪も激しさを増す。電子書籍として出版している小説『風よ、安曇野に吹け』において、わたしは愛が憎悪と背中合わせであることを描いている。
 綿貫広務は無意識に、そして無自覚に、物としての町村かおりへと向かう愛を脱して、生きて呼吸する女としての町村かおりへと向かう愛へと階段を登ったのだ。愛が本質的に変わったといっていいだろう。この愛の変質によって、綿貫広務の心が変わらないはずはない。
 が、町村かおりへの愛の本質的な変化をもたらしたのは、綿貫広務の意志によるものではない。またその変化を自覚しているのでもない。だからこそ町村かおりへの愛の変質は、綿貫広務の中で心の葛藤を伴って、無意識に、そして無自覚に、ゆっくりと始まるのである。
 物としての町村かおりへの愛と、どろどろとした生と性を生きる女としての町村かおりへの愛とは、全く異質なものであろう。所有し独占でき、心と意志がなく逆らうことがない物に対する愛とは、その物を欲する一方方向の自己愛だといえるだろうが、呼吸して生きている女は心と意志とを持っており、逆らいもすれば、欲求は一方方向ではなく、女の側からもやってくる。そして女は心と意志をもって生きているから、こちらの思いに逆らって行動をもする。
 女の側からやってくる欲求と行動は様々だ。こちらの欲求と合致したり、愛くるしいと思ったりするものもあれば、受け入れがたいものがあったり、憎々しげなものがあったりする。行動も同じである。だから言い争いになったり喧嘩になったりするのだ。
 綿貫広務の中で、町村かおりへの愛がどう変わっていったかについては後回しにして、次に町村かおりと秋本美紀子の愛について語りたい。

 町村かおりの愛と秋本美紀子の愛は、似て非なるようにみえるが、実は似通っている。どちらも受身の愛である。男が奪いに来るのを待っているのだ。待っている愛とは、わたしは自己愛の変形だと思っている。
 しかし、町村かおりと秋本美紀子との男を待つ姿勢には違いがある。
 町村かおりは、男が奪いに来るようにこちらから仕掛けるのである。男が自分を愛し、奪いに来ないではいられないように仕向けるのだ。その意味では能動的であるが、この能動性は町村かおりが意図的に言葉や仕草で仕掛けるのではなく、持って生まれた女としての色気なのだろう。だから色仕掛けではない。町村かおりという女の身体から発せられる色と匂いで男を魅惑し、手繰り寄せられるようにして、男の方からゆらゆらと町村かおりの身体へと吸い寄せられてくるのだ。
 こう書くと町村かおりは魔性の女のように思うかもしれないが、町村かおりはいわゆる魔性の女ではない。魔性の女とは、男を色と匂いの糸で絡め取り、色と匂いの檻に幽閉し、色と匂いの糸で自由自在に操り、男の身体と心をドロドロに溶かしてそのエキスを啜る女のことだと思っているが、町村かおりは、男に愛されることで、男自らの心の葛藤の中で、男の心と生き様とを変えてしまっている。少なくとも柴田理森と綿貫広務はそうだった。
 わたしは町村かおり自身の心と生き様が、柴田理森と綿貫広務との三角関係の愛の縺れの中で変わったから、柴田理森と綿貫広務の心と生き様をかえられたのだと理解している。この三角関係がなかったならば、町村かおり自身の心と生き様は変わらなかっただろうし、また柴田理森と綿貫広務の心と生き様を変える力はなかったに違いない。綿貫広務の所有物になる前の夫と町村かおりは、ただの爛れた愛欲と所有の関係に過ぎなかったのではないだろうか。
 母親のすみ子の牧場での柴田理森と町村かおりの会話がある。

 理森「……俺、初めて生きたいように生きてる気がする。一生、そんなことはないと思っていた」
 かおり「生きたいように生きて。たとえ住む場所が見つからなかったとしても、私はいいの」
 理森「……」
 かおり「少なくとも心の住む場所は見つかったんだもん」
 馬上から二人に手を振る詩織、遠ざかる。かおりが振り返る。
 理森「まだ言ってなかったな」
 かおり「……?」
 理森「俺と一緒になってほしい」
 かおり「……(ふわりと笑む)」

 詩織を抱きかかえ町村かおりの乗る電車に飛び乗った柴田理森に、「俺、初めて生きたいように生きてる気がする」と述懐させたのは、町村かおりの心と身体だろう。そして、町村かおりの「少なくとも心の住む場所は見つかったんだもん」という言葉は、町村かおりの心の吐露なのだろう。それまでの町村かおりは、娘の詩織と一緒に暮らすための「住む場所」を探していたに違いない。その「住む場所」は綿貫広務が与えてくれた。が、柴田理森への愛は、単なる「住む場所」ではなく、より高みにある「心が住む場所」へと町村かおりを押し上げたのだろう。
 北海道の湖のほとりに建つロッジに辿り着き、冬の間のロッジの管理人の仕事を得た柴田理森と町村かおりが、満天の星が瞬く夜の湖畔で印象的な会話を交わしている。

 かおり「眠れないの?」
 理森「何だかね」
 かおりが近くに来ると、理森はその肩を優しく抱き寄せる。
 かおり「(理森の胸に顔を寄せ)……ありがとう」
 理森「何が?」
 かおり「ありがとう。私と詩織に、こんな幸せをプレゼントしてくれて」
 理森「何だよ改まって」
 かおり「だって……あなた、いろんな物、なくしちゃったでしょ」
 理森「なくした物より、君たちから貰った物の方が多いよ」
 かおり「本当?」
 理森「家族ができた。それも一度にできた。俺の方こそ、ありがとう」
 かおり「傷ついている人がいても、私たちが幸せになれば、いつか分かってくれると思う(と言った後に、自信なさそうに)駄目かな、分かってくれないかな……」
 理森「俺、覚悟してるんだ」
 かおり「?……」
 理森「いつか、ここも見つかると思う」
 かおり「……(そう思う)」
 理森「だけど、旅はここで終わりだ」
 かおり「……」
 理森「心配しなくていい。俺は命がけで守るよ、この生活を」
 自分の心に刻みつけるように言う。
 顔を向け合う。不安や恐れを消そうと、引かれ合うようにキスをする。
 静かに慈しみ合うような、キス。

 男が奪いに来るようにこちらから仕掛けながら、男が奪いに来ることを待つ女だった町村かおりは、奪った男がなくしたいろんな物を思い遣る心を、柴田理森との逃避行を経るまでに持っていたのだろうか。自分と娘の詩織の幸せのみを追いかけていたはずだ。その町村かおりが、柴田理森との逃避行の中で、「私たちが幸せになれば」と、柴田理森の幸せが町村かおりと詩織の幸せであることに気づいたののではないだろうか。柴田理森への愛が、町村かおりにとって掛け替えのないものにまで昇華したのだろう。
 では、町村かおりの柴田理森への掛け替えのない愛とは、どういう姿をしているものなのだろうか。
 ロッジを突き止めた綿貫広務と町村かおりの再会のシーンを辿ってみよう。

 かおり「……どうして、ここが」
 広務「詩織のお陰だよ」
 かおり「……(意味が分からない)」
 広務「さあ(と手を差し伸べて)帰ろう、かおり」
 かおり「(きっぱり首を振る)」
 広務「さあ」
 かおり「(後ずさる)」
 薪割りの音がやんだ。
 広務「……終わったみたいだな」
 かおり「……」
 広務「あいつが来る前に、ここを出よう。お前さえ戻れば、俺は満足なんだ」
 かおり「嘘よ」
 広務「今一緒に付いてくれば、あいつには指一本触れない」
 かおり「信じない」
 広務「来い」
 かおり「イヤです」
 広務「殺すぞ、あいつを」
 かおり「……」
 広務「殺してやる。本気だ」
 かおり「(恐怖が走るが、落ち着いて話し合おうと)……私を拾ってくれたこと、感謝しています」
 広務「……(聞いてやる)」
 かおり「でも、もう戻れないんです。私は、あなたと暮らしていた時は死んでいた。今は生きているって気がします」
 広務「……(その言葉、応える)」
 かおり「私はあなたのオモチャじゃないの……ツ」

 この会話の中にわたしは、町村かおりの柴田理森への掛け替えのない愛を見出している。どの箇所かというと、「私は、あなたと暮らしていた時は死んでいた。今は生きているって気がします」という箇所だ。この町村かおりの言葉の裏に、「ああ、わたしは生きている。生きる歓びを噛みしめている。生きるとは、こういうものだったのね!」という町村かおりの心の叫び声が聞こえるのだ。
 最後に、その町村かおりが断崖絶壁から身を投げるシーンを振り返ってみよう。

 理森「……かおり」
 崖の淵、何かに取り憑かれたような眼差しで奈落の底を見つめているかおり……がいた。
 理森「何してるんだ……」
 かおり「(足のすぐ先は、断崖」
 理森「動くな……動くなよ」
 と慎重に近寄り、手を伸ばし、かおりの手を掴んだ。
 理森「(引き寄せる)」
 かおり「(理森の胸に抱かれた)」
 ひゅん、と風が二人の身体にまとわりつく。
 強く、強く、かおりを抱きしめる理森。
 理森「俺が、必ず、守るから」
 かおり「(希望の宿らない目)」
 理森「離すもんか……いつまでも、俺たち、一緒だろ」
 かおり「……」
 理森「行こう、詩織を連れて、どこまでも行こう……」
 渇ききっていたかおりの目から、涙。
 かおりの垂れ下がっていた腕が、理森の背中へと動いた。
 かおりにも微か、生への希望が芽生えた。
 その時だった。
 理森の背後、森の切れ目に広務がヌッと出現した。
 かおり「!……」
 鬼のような形相の広務が火かき棒を手にしている。理森は気付かない。
 広務は今にも理森めがけて襲いかかろうとしているように―かおりの目には見えた。
 かおり「(理森に)ありがとう」
 理森、その言葉の意味を考える間もなかった。
 かおりは自ら理森の体を突き放した。
 かおりの体が、崖のふちから弾かれて行った。

 皮肉である。「俺が、必ず、守るから」と強くかおりを抱きしめた理森は、かおりを守ってやることができずに、自死によって理森を守ったのはかおりだった。
 愛する男を守るために自らの命を捧げたといえる。かおりの柴田理森への愛はその絶頂で、花となって散ったのだろう。散りはしたが、満開の花のままで散ったのだから、その愛は美しい姿のままで変わることはない。
 町村かおりの愛の変遷は、歪な形の自己愛の姿から、自己犠牲をも厭わぬ他者への愛へと姿を変えたのであろう。
 野沢尚は狡猾である。
 町村かおりの愛を美しい姿の絶頂で、見事に散らしてみせたからだ。これでこの物語が終わったならば、視聴者は涙を流し、感動に打ち震えるに違いないのだが、小説を書いているわたしにとっては、野沢尚もここまでの作家だったのか、と勝ち誇った笑みを浮かべるところなのだが、野沢尚の描きたい愛とは、この町村かおりへの愛を超えた更なる高みにある、綿貫詩織への愛の姿なのである。

 では次に、秋本美紀子の愛をみていこう。
 秋本美紀子の愛は、奪われるのを待つ愛だが、相手に注ぐ無償の愛が先ずある。相手を熱烈に愛するが故に、相手が奪ってくれるときをじっと耐えて待つのだ。そして見返りのない無償の愛を、愛する男に注ぐのである。
 いつか奪ってくれることだけを信じるから耐えて待っているのだろうか。
 耐えて待つ自分の姿が愛しいから、じっと耐えて待っている要素がないのだろうか。秋本美紀子の愛の姿を、自己愛の変形というのはこうした意味である。また母が子に注ぐ無償の愛との決定的な違いもここにあるのだろう。
 刑務所から仮出所した柴田理森は、就職先の下関へと向かう前に、郷里の清澄へと帰っていく。町村かおりの墓参りと、死んだ父親の墓参り、そして実家の片付けをして売却するためだ。町村かおりの墓前で綿貫詩織と出逢い、二人で思い出の地である乙女が原へと足を運んだ柴田理森が、綿貫詩織と別れて家に戻ると、秋本美紀子が玄関先に立っていた。そのときの会話を辿りたい。

 美紀子、勇気を振り起こすようにして、
 美紀子「清澄に帰ってきて、傷跡が沢山あるのが分かったって、理森、言ったよね」
 理森「ああ……」
 美紀子「広務さんや詩織ちゃんだけじゃない。わたしだって……」
 理森「分かってる。本当に迷惑かけた」
 美紀子「(遮るように)分かってない、理森は」
 理森「(その語気に)……」
 美紀子「六年、どんな思いで理森を待ってたか、分かる?」
 理森「……」
 美紀子「この家を掃除してると、いろんな物が出てくるの。畳の間から理森の征服のボタンが出てきた。下駄箱には、理森が履き潰した革靴があった。ホームをいつも行ったり来たりしているせいで、すぐ踵がすり減っちゃう靴……」
 そして柱の傷に触れる。理森の背丈を記した傷がいくつもついている。
 美紀子「(低い傷から)このくらいだったよね、理森と乙女が原で遊び始めたのは……で、このぐらいで理森におんぶされて……このぐらいで理森は声変わり……このぐらいの頃、理森の顔はニキビでいっぱいだった(と少し微笑み)」
 理森とのこれまでの歴史を思い出すと、辛さがまた押し寄せ、
 美紀子「どうして一人で行っちゃうの」
 理森「……(答えられない)」
 美紀子「見送るのは、わたし、もうイヤ……」
 窓が強い風でビリビリと鳴った。
 理森は窓辺に立ち、風が強くなった外を見る。
 美紀子「(ぽつりと)もうイヤだよ……」
 理森は美紀子を振り返る。
 感情を懸命に押し込めているような美紀子に、むしょうに何か言ってやりたい。
 美紀子「……(言ってほしい)」
 理森「……(だが、何も言えない)」
 無言の夜に、何かの前触れのような風が吹きつけてくる。

 切なくなるほどの秋本美紀子の女心である。
 心に秘めていた恋心を口にせずに、じっと耐えて待っていた秋本美紀子が初めて好きな男に投げつけた想いだけに、一つ一つの言葉に重みと深みがある。
 柴田理森は秋本美紀子の恋心を気づいていたはずだ。秋本美紀子に寄りかかり惹かれていた感情を生きていたと思う。ただその感情が男と女としてのものなのか確信がなかったのだろう。柴田理森の罪は、その感情と真正面から向き合うことなく、秋本美紀子のじっと耐えて待つ恋心に胡座を掻いて保留にしていたことだ。
 が、その保留を以て、柴田理森を責めることもできない。先に引用した柴田理森と町村かおりとの会話を思い出していただきたい。「俺、初めて生きたいように生きてる気がする。一生、そんなことはないと思っていた」という柴田理森の述懐だ。幼馴染みの秋本美紀子と結ばれるということは、決められたレールの上を歩くことだと言えなくもないからだ。
 仮に町村かおりと出逢っていなかったなら、柴田理森はじっと耐えて待っている秋本美紀子の恋心へと帰っていったのかもしれない。
 町村かおりと出逢ってしまった。そして、決められたレールを外れて、初めて生きたいように生きたのである。
 その町村かおりは自死した。秋本美紀子が六年をじっと耐え、柴田理森の心が帰って来てくれると信じて待てたのは、もう町村かおりがいないからではないだろうか。が、秋本美紀子は柴田理森の心に棲んでいる綿貫詩織と硬く結ばれた感情に気づいたのだ。気づかせたのは綿貫詩織の柴田理森への恋心である。
 前回のブログに書いたがもう一度引用しよう。町村かおりの墓前で鉢合わせした秋本美紀子と綿貫詩織の会話だ。

 詩織「好きなの、あいつのこと」
 美紀子「幼なじみだから、心配なのよ」
 詩織「好きなんでしょ(と突きつけるように)」
 美紀子「……」
 詩織「答えたら」
 美紀子の眼差しにも強い光が宿った。
 女二人の対峙、という空気が漂ってしまう。
 美紀子「好きよ(きっぱり答えた)」
 詩織「やっぱり(小馬鹿にしたように)」
 美紀子「あなたは?」
 詩織「……(答えられない)」
 美紀子「子どもだもんね、まだ。いくつだっけ」
 詩織「……表情が変わり」
 美紀子「からかわないでね、大人を」
 詩織「……(睨みつける)」

 何故に、じっと耐えて待っていた秋本美紀子が恋心を打ち明けたのか。綿貫詩織を女として強く意識したからだろう。そして、柴田理森の心に棲んでいる理森自身も気づいていない綿貫詩織への愛に気づいたからだろう。誰よりも柴田理森を知り尽くし、誰よりも柴田理森を愛していたから気づけたのではないだろうか。

 感情を懸命に押し込めているような美紀子に、むしょうに何か言ってやりたい。
 美紀子「……(言ってほしい)」
 理森「……(だが、何も言えない)」

 どうして柴田理森は何も言えなかったのか。
 町村かおりへの愛が赤々とした炎となってまだ燃え続けていたからだろうか。
 わたしは柴田理森の心に棲んでいる綿貫詩織が言わせなかったと解釈している。
 今回はこの辺りで終わりにしたい。次回は柴田理森と綿貫詩織の愛について語りたい。そして、わたしの妻への愛の変遷も語りたいと思う。
 最後に、下関に旅立つ柴田理森と秋本美紀子との秋本食堂での会話を引用したい。

 美紀子「駄目かな、下関にわたしも行っちゃ」
 理森「……」
 美紀子「……(言葉を待つ)」
 理森「……この町で、幸せになってくれ」
 美紀子「……」
 理森「それを祈ることしか、俺、できそうにないんだ」
 美紀子、心に蓄えてきたものが噴き出す。
 美紀子「……六年、ただ待っていただけじゃないのよ」
 理森「……」
 美紀子「理森ははぐらかしてきた。わたしも自分の気持ちをはぐらかしてきた。わたしは……言わしてほしかった。理森を愛してるって」
 理森「!……」
 美紀子「言わせて。わたし、理森を愛してる」
 理森「……」
 美紀子「受け止めてよ、最後くらい。幼なじみとしてじゃなく、一人の女として、わたしのこと……」
 理森「……」
 美紀子「答えてくれなくていいの。ほんといいの。答えがなくても、わたし、一人で生きてゆけるから」
 理森「……」
 美紀子「ずっと、ずっと、このこと言いたかった」

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