※これは2014年12月20日に書いたものですが、事情があって非公開にしていたものです。期せずして、日本共産党の志位委員長が提案した『国民連合政府』構想に関連するものなので、一部を変えて公開することにしました。
戦前の日本共産党の理論家、福本和夫の分離結合論を思い出して、題名にしてみた。
学生のときに橋川文三の日本政治思想史のゼミに所属していたのだが、テキストは『近代日本思想体系 昭和思想集Ⅰ』(筑摩書房)であり、その中に収められていたのが福本和夫の「『方向転換』はいかなる諸過程をとるか」という論文だった。これが名高い「分離結合論」なのである(笑)。
本棚の奥の方に隠れていた本を引っ張り出して見ているが黴臭い。おまけに変色している。もう何十年もご無沙汰だったから、懐かしさのような感情までが滲み出してきた。
本を開くと至る所に書き込みがあり、何と橋川文三が「方向転換……」という題名に、新感覚派的な匂いがする、と文学的な嗅覚を披瀝したことまで書かれている。およそ政治思想史の学者らしからぬ、文学の魂を持つ橋川文三らしい感想だと思う(笑)。
この論文は思想弾圧の嵐が吹く中で、日本共産党の取るべき戦略論だったのであるが、実践的大衆闘争から理論闘争(理論偏重)への流れを導いた論文なのであろう。そして、「マルクス的原理」に結合する前に、その原理に反する不純物ときっぱりと切れて、分離していく必要性を論じたものであり、戦略的理論である。
わたしが「保守と革新の分離結合論」と題名を付けたのは、戦略的な意味ではない。必然的な意味である。単に共産党からの類推で福本和夫を思い出したから、「分離結合論」としたのである。また、保守と革新とが必然的に、それぞれが二つに分離し、その後で保守と革新の概念から自由になった時に結合が可能となり、必然的に結合へと向かわざるを得ないことを論じたいがためである。更に、福本の理論偏重とは逆に、共産党に結集した国民と、共産党との民衆運動へと発展するだろうことを論じるためである。
わたしは先の総選挙で北陸信越ブロックの日本共産党の藤野保史氏を熱烈に応援した。演説に惚れ込んだからだ。従って、藤野氏の追っかけのようなことをするようになったのだが、そうなると当然に、藤野氏の選挙戦をバックアップしている北陸信越ブロック事務所の活動をも注目するようになったのである。
総選挙に望むにあたって、わたしは護憲と反原発、そして反TPPを選択肢にして支持政党を選んだ。わたしはこの三つは不可分に結びついたものだと確信している。いずれか一つが欠けているとしたら、その政党の魂と心は根無し草だと思えてならないのだ。根無し草とは、何処へ漂い出すか分からない危うさと、未来を見据えた展望という羅針盤を決定的に失っていることを意味する。
その理由を詳しく述べる前に、北陸信越ブロック事務所の活動を見てみよう。
先ずは、写真の農業バナーと反原発バナーに驚いた。
「農業は国の礎」と「美しい故郷の海を未来に残す」というコピーは、わたしのこれまでの共産党のイメージを、驚きとともに根底から覆すものだった。
どうしてこんなバナーとコピーが生み出せたのか、辿り着いたのが写真の記事である。
北陸信越ブロック事務所の選挙運動を支えているのが無党派層と保守層だと知ったときには、驚きを通り越して唖然としたものだ。
そして、無党派と保守の方達と結び着いたから、このバナーとコピーが生み出せたのだと確信したのである。日本農業を象徴する農村の原風景と、故郷の美しい海を愛する心が、このバナーとコピーには息づいている。わたしのイメージとかけ離れた現実の共産党の姿を目にして、心が激しく揺さ振られ引き寄せられていったのである。
更に北陸信越ブロック事務所の活動を追っていると、12月6日に行われた「12・6戦争やだね!長野大集会」と出逢った。
この集会を主催した団体のホームページを起点にして、この集会がどんなものか探ったのである。
直ぐに、文学的直観がやってきた。従来の保守と革新との対立軸が無意味となり、その対立軸を超えた先に沖縄の心と、3・11の心という、日本人の新しい未来を見据えた生き方の原点回帰の姿を、この集会に見出したのである。
「12・6戦争やだね!長野大集会」は秘密保護法反対と反戦平和を核とした集会である。
HP の映像(http://www.himitsuyadane.com/) を観ていただきたい。沖縄の辺野古に行って、基地建設反対運動を戦っている老人たちの生の声を心に刻みつけた宮川恵子さんが、沖縄との連帯を熱い心で訴えている。
戦前に各地から満蒙開拓団が組織されて入植したが、長野県でも阿智村から満蒙開拓団として入植している。当然に入植地の子供の教育も必要となるわけだが、内地から入植地に赴任させられた阿智村の一教員とその家族の姿を描いた映画、「望郷の鐘」との連帯も集会の骨格になっている。
そして、福島との連帯も呼びかけている。
この12・6集会は、わたしがブログに書いた沖縄の心と3・11の心とが結びついているということを、如実に語ってくれている。注目すべき事実である。
選挙戦の終盤で、共産党の戦いが沖縄の心と繋がっていた、と直観したことを前のブログに書いたが、間違いでなかったことを証明してくれている。
少し脇道に逸れるが、満蒙開拓団と福島の原発事故とは根源的な意味で繋がっていると思う。原発も満蒙開拓団も国策であった。しかし、どちらも国に見捨てられたのである。国が地獄へと突き落としたとしか言えないのではないだろうか。
映画「望郷の鐘」の映像が写し出した、阿智村に貼られた紙に書かれた文字が印象的だった。「国を信仰するな、騙したのは誰だ!」という文字である。
(映画「望郷の鐘」のホームページhttp://www.gendaipro.com/bokyo_new/index_top.html)
わたしは『故郷』という電子書籍の小説を出版しているが、原発事故で故郷を失ったヒロインが、第二の故郷を求めて限界集落へと引き寄せられていく姿を描いている。
わたしは原発事故と満蒙開拓団の問題が繋がっていると同じように、限界集落の問題とも深く結びついていると考えている。
全国各地には遠い過去に開拓された故郷がある。歴史は開拓事業が国策だったことを教えている。酷寒の大地、北海道の開拓史を紐解くまでもない。不毛の大地を切り開く辛苦は筆舌に尽くしがたい。開墾地には祖先の血と涙が沁み込んでいるはずだ。そして、嘆きと苦しみと悲哀がこびりつき、思い出と悦びが沁み込んでいるのだろう。そこが新しい故郷となった。
現在の北海道の惨状はどうだろう。借金を抱え夜逃げをする酪農家が後を絶たない。祖先が切り開いた大地はまた荒れ果てた不毛の土地へと帰っていった。全国各地の開拓地は限界集落の危機を抱えている。国に見捨てられたのだ。
共産党の北陸信越ブロック事務所は、反リニア運動を展開している長野県の大鹿村とも連帯していた。
リニアは東京と名古屋との距離を時間的に短縮し、一体化へと結びつけるものだろう。
新感覚派の旗手、横光利一の短篇小説『頭ならびに腹』の有名な冒頭がある。「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された」という文だが、リニアは東京と名古屋の間を黙殺ではなく抹殺するものだろう。抹殺とは、限界集落と結びついたものではないだろうか。
さて、保守と革新の境界線が無意味になったという意味を、掘り下げて述べたいと思う。
前々回のブログ『共産党の私設応援団としての総括と、未来を見据えた提言と展望』で、沖縄の保守と本土の保守の違いを書いたが、望郷とは保守の心だろう。故郷を求め、故郷の大地を再び踏みしめようと、満州から故郷へ逃避行を企て地獄を彷徨い歩いたのだ。それを強いたのは国である。
祖先の血と涙が沁み込んだ新しい故郷は荒れ果てて限界集落へと姿を変えつつある。それでも祖先の血と涙が沁み込んだ地を愛して住み続ける人たちの心も保守だろう。祖先が開拓した豊穣の大地を、再び不毛の大地にしようとしているのは国である。
映画、「望郷の鐘」にあった張り紙の文字を思い出して欲しい。「国を信仰するな、騙したのは誰だ!」という文字である。
保守の心は二つに分かれる。
一つ目は故郷を愛する心である。
この心には最早、「国を信仰するな」という魂が沁み込んでいるのではないだろうか。国がそう仕向けたからだ。
故郷の海と大地を愛し、故郷の自然と共に生きていく暮らしと文化と伝統を貴ぶ心である。この心を踏みにじっている元凶が安倍政権であり、自民党と公明党である。
この心は、沖縄の心に通じている。そして、この心は無自覚であるが、護憲と反原発と反TPPに通じている。
二つ目は国を愛する心だ。
愛国、国益、国防という言葉を好んで使う勢力だ。
故郷よりも国を上におくか、国を絶対化するものであり、国家主義と言い換えてもいいだろう。平和憲法、原発、TPPの三つに対しては、立場がまちまちである。
では、革新を見てみよう。
民主党はリベラルの範疇に入るのだろうか。
前原誠司のような極右的な思想の持ち主がいるかと思えば、社会党崩れのリベラル左派もいる。小沢一郎が促成に作り上げ数を揃えただけの政党であるから、寄り合い所帯である。
護憲、原発、TPPへの対応も二つ目の保守と同じくばらばらな様相だ。脱原発を表明し、TPPの推進を言ってみたり、護憲、脱原発なのにTPPに積極的に賛成する立場のものもいる。
社民党と共産党だけが、護憲、反原発、反TPPなのであるが、社民党は反安倍政権で野党協力は可能としている。つまり、護憲と反原発、そして反TPPが、安倍政権打倒の目的よりも下位のものだと認識しているのだろう。
オール沖縄を、わたしは沖縄の心といった。そして、大飯原発稼働差し止めに関する訴訟の福井地裁の判決文を3・11の心と言った。
この二つを貫くものは、経済至上主義と経済成長神話、そして科学万能主義と人間中心主義に代わる自然との共存と、環境に過剰な負荷をかけない循環型社会へと向かう心であり、反戦平和の心である。
この沖縄の心と3・11の心を下位において、野党共闘をして果たして安倍政権打倒はなるのだろうか。大いに疑問である。次世代の党は論外として、維新の党は橋下徹代表の立ち位置はほとんど自民党と一緒である。経済政策においては急進的な新自由主義を掲げているので、先に分けた一つ目の保守の心とは真っ向から対立する政党であることは間違いない。
実際に橋下徹は安倍晋三に心情的にも、政策的にも傾いている。こうした政党と結びついて打倒安倍政権がなるものなのだろうか。民主党も全く同じである。
戦前のように安倍政権の暴走による既成事実にずるずるべったりと引き摺られていって、歯止めにはならないのではないだろうか。戦前の歴史が語ってくれている。
従来の革新の範疇には国民もいる。
この国民が3・11を生きた中で、3・11の心に目覚めた人たちが数多くいるはずだ。わたしもその一人である。そして、3・11の心が沖縄の心と通じていることに気付いたのだ。更にわたしの場合は、新しい保守主義である「里山主義」へと結実したのであるが、3・11と沖縄の心の原点に回帰したことには変わりはない。
保守が二つに分離した。
革新も二つに分離した。
護憲、反原発、反TPPで団結できるのは、一つ目の保守の心と、革新の側の3・11の心に原点回帰した層である。そして、政党は共産党だけしかないといえるのではないだろうか。
戦前の反ファシズム闘争において、特に西欧においては重要な意味を持ったのは中道勢力だろう。日本においては議会制民主主義と西欧的意味での社会的な自我を確立した市民の形成が脆弱だっただけに、中道勢力の形成が未熟だった。それだけに反ファシズム闘争の限界もあったのだろう。
しかし、時代状況は大きく違っている。グローバル経済であり、新自由主義勢力に国家は乗っ取られ、軍事独裁という政治体制のファシズムへと変質しようとしているのである。単なる覇権主義ではない。戦前の植民地主義でもない。国家を隠れ蓑にして国家の強大な軍事力を背景に、市場の一元化を強引に推し進め、貪欲に最大利潤を求める巨大資本のおぞましい姿が浮かび上がってくるのではないだろうか。
わたしは、保守と革新の境界線が意味を持たなくなったのは日本ばかりとは思っていない。だからこそ、世界規模で揺れているのである。元凶は世界を闊歩している新自由主義と、社会構造を破壊していくドラスティックな経済のグローバル化だ。
こうした状況にあって中道は成り立たないのではないだろうか。保守と革新の境界線が意味を失い、中道という立ち位置はなくなり、別の対立軸に中道が吸収されていくからだ。
反ファシズム闘争で重要になるのは、グローバル経済の歪みが社会構造を破壊し揺さ振っているのは一国にとどまらないのだから、国境を越えた反グローバル勢力との連帯ではないだろうか。特に韓国との連帯は重要になるだろう。
午前中にTwitterの世界で次のようなツイートを見かけた。
共産党支持者の全てとは言わないけれど、一部に存在する、民主党すらも排斥する非常に排他的な硬直的な考えの人々は、ワイマール期ドイツの「社会民主主義要打撃論」についてよく学んで欲しい。
社会民主主義要打撃論(社会ファシズム論) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0%E8%AB%96 …
暗にわたしを批判しているのだろうが、説明したように、わたしは中道を否定しているのではなく、従来の保守と革新の境界線と対立軸が意味を失い、別の意味ある対立軸へと移ったときに、従来の境界線と対立軸の上に立つ中道という範疇も当然に意味を失うだろうと言っているだけだ。
保守と革新、そして中道と範疇分けして反ファシズム闘争を考えることが有効であるためには、保守と革新とをはっきりと分けられる基盤があってはじめて中道の意味があるのだが、基盤自体が壊れ、保守と革新をそれぞれに一つに括れないとなれば、当然に中道も意味をなさなくなるのは当たり前である。それにも関わらず過去の反ファシズム理論を振りかざすとしたら、何と形容すればいいのだろうか。馬鹿の一つ覚えか、さもなくば共産党を揶揄するときの常套句である教条主義、もしくは独善的とでも形容すればいいのだろうか。
しかし、共産党を揶揄するこの常套句も最早、効力を失った。この前のブログで写真を紹介したように、氏子総代として筑西市・樋口雷神社を守った鈴木さとし県議と共産党が、協力しているという驚くべき事実がある。
長野県の共産党の得票率は全国で4番目だ。そのなかで得票率が高いのはリニア問題の大鹿村、満蒙開拓平和記念館の阿智村だというデータに注目すべきだろう。
これは先の選挙データを分析した結果だが、一つ目の保守の心が共産党へと雪崩れていっている証だろう。
沖縄の心が、長野県の大鹿村や阿智村でも熱く燃え上がっているのである。
脱原発、反原発を叫んでも、リニア推進派の政治家は多い。反原発が3・11の心によって発せられたものならば、反リニアでしかあり得ない。人間中心主義で自然破壊を顧みず、自然との共存の心を忘れて経済至上主義という目先の金を貪欲に追い求め、科学を過信して安全性を蔑ろにして、人と虫と蛙と、ありとあらゆる命を奪う行為を是としてきたのが原発ではないのか。リニアと何処が違うのだろうか。
わたしは過去に原発の本質的なものを否定しないで、単なる原発だけを否定するのでは、名前を変えた第二、第三の原発事故が起きるとブログに書いている。リニアとは第二の原発なのである。本質が同じだからだ。
この本質的なものを否定するのが、沖縄の心であり、3・11の心なのである。
従ってわたしは、この本質的なものを否定していない反原発と脱原発を信用していない。当然に、原発再稼働反対で共闘はできるし、それは必要だと思うが、本質的な意味での共闘は無理だと思う。
例えば脱原発を唱えながら、経済成長に不可欠だから故郷の海と自然を破壊することに何の疑問もなく、地方の社会が疲弊し、文化と伝統と、故郷の原風景を失うことに何の疑問も抱かないということが大いにあり得るからだ。
地方の災害が起こる度に、経済的な面から見れば無いに等しい過疎の村に、復興のために税金を無駄遣いするのは馬鹿げている。全員、都会に移住させればいい、といった発言に目を瞑ることができるだろうか。また、零細農家などに税金をつぎ込んで無理に存続させないで、経済原理に任せて消滅させてしまえばいい。食糧を安く輸入した方が、経済効率から見たら理に適っている、という発言に異議を差し挟まずにいられるだろうか。
反リニア闘争は、沖縄の辺野古埋め立て反対闘争と連帯できるし、しなければならないと思う。根っこが全く一緒だからだ。
日本の各地で繰り広げられている闘争が、沖縄の心と3・11の心と通底しているのではないのだろうか。安倍政権と自民党は「国を信仰するな、騙したのは誰だ!」という心を生み出し続けているのだ。
全国的な闘争が結びつけば、沖縄の心と3・11の心がより強固なものとなり、それだけ沖縄辺野古の反基地闘争と、反原発闘争が全国規模で燃え上がることだろう。
先ず、共産党があったのではない。
「里山主義」という保守主義を提唱しているわたしは、沖縄の心と3・11の心で、保守と革新という意味を失った境界線を超えて、日本人の生きる原点に立って未来を見据えようとしたら、驚くことにその地点に共産党の姿があったのだ。そして、沖縄の心と3・11の心を共産党が生きているという事実を知ったのだ。
安倍政権打倒とファシズムへの道を阻止できるのは、沖縄の心と3・11の心を、その二つの心を共有している、現状での唯一の政党である共産党に結集なくしてはない。そう確信したのである。
※
「国民連合政府」構想は、安倍政権を打倒し、ファシズム化を阻止するための暫定政権構想である。立憲主義と国民主権と骨抜きにされた平和憲法を取り戻し、国会を正常に機能させるための暫定政権であり、戦争法と閣議決定を廃止するための暫定政権である。
目的は明確にこの一点に絞られている。ファシズムを阻止する統一戦線政府ともいえるものなのだろう。どんな政治的課題と政治的問題よりも優先すべき喫緊のものだ。猶予はない。既成事実が積み重ねられてしまうからだ。
上述した内容と、『国民連合政府』構想の喫緊性と矛盾はするが、『国民連合政府』構想のなかに上述した歴史的うねりが既に内包されていると思っている。
そして、『国民連合政府』が成って、目的を達成した後で、この歴史的うねりは政治を語る上で重要な意味を持っていると、わたしは確信している。
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