「北林あずみ」のblog

2015年09月

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※これは2014年12月20日に書いたものですが、事情があって非公開にしていたものです。期せずして、日本共産党の志位委員長が提案した『国民連合政府』構想に関連するものなので、一部を変えて公開することにしました。

 戦前の日本共産党の理論家、福本和夫の分離結合論を思い出して、題名にしてみた。
 学生のときに橋川文三の日本政治思想史のゼミに所属していたのだが、テキストは『近代日本思想体系 昭和思想集Ⅰ』(筑摩書房)であり、その中に収められていたのが福本和夫の「『方向転換』はいかなる諸過程をとるか」という論文だった。これが名高い「分離結合論」なのである(笑)。

 本棚の奥の方に隠れていた本を引っ張り出して見ているが黴臭い。おまけに変色している。もう何十年もご無沙汰だったから、懐かしさのような感情までが滲み出してきた。
 本を開くと至る所に書き込みがあり、何と橋川文三が「方向転換……」という題名に、新感覚派的な匂いがする、と文学的な嗅覚を披瀝したことまで書かれている。およそ政治思想史の学者らしからぬ、文学の魂を持つ橋川文三らしい感想だと思う(笑)。

 この論文は思想弾圧の嵐が吹く中で、日本共産党の取るべき戦略論だったのであるが、実践的大衆闘争から理論闘争(理論偏重)への流れを導いた論文なのであろう。そして、「マルクス的原理」に結合する前に、その原理に反する不純物ときっぱりと切れて、分離していく必要性を論じたものであり、戦略的理論である。
 わたしが「保守と革新の分離結合論」と題名を付けたのは、戦略的な意味ではない。必然的な意味である。単に共産党からの類推で福本和夫を思い出したから、「分離結合論」としたのである。また、保守と革新とが必然的に、それぞれが二つに分離し、その後で保守と革新の概念から自由になった時に結合が可能となり、必然的に結合へと向かわざるを得ないことを論じたいがためである。更に、福本の理論偏重とは逆に、共産党に結集した国民と、共産党との民衆運動へと発展するだろうことを論じるためである。

 わたしは先の総選挙で北陸信越ブロックの日本共産党の藤野保史氏を熱烈に応援した演説に惚れ込んだからだ。従って、藤野氏の追っかけのようなことをするようになったのだが、そうなると当然に、藤野氏の選挙戦をバックアップしている北陸信越ブロック事務所の活動をも注目するようになったのである。
 
 総選挙に望むにあたって、わたしは護憲と反原発、そして反TPPを選択肢にして支持政党を選んだ。わたしはこの三つは不可分に結びついたものだと確信している。いずれか一つが欠けているとしたら、その政党の魂と心は根無し草だと思えてならないのだ。根無し草とは、何処へ漂い出すか分からない危うさと、未来を見据えた展望という羅針盤を決定的に失っていることを意味する。
 その理由を詳しく述べる前に、北陸信越ブロック事務所の活動を見てみよう。

 先ずは、写真の農業バナーと反原発バナーに驚いた。
「農業は国の礎」と「美しい故郷の海を未来に残す」というコピーは、わたしのこれまでの共産党のイメージを、驚きとともに根底から覆すものだった。
 どうしてこんなバナーとコピーが生み出せたのか、辿り着いたのが写真の記事である。
 北陸信越ブロック事務所の選挙運動を支えているのが無党派層と保守層だと知ったときには、驚きを通り越して唖然としたものだ。
 そして、無党派と保守の方達と結び着いたから、このバナーとコピーが生み出せたのだと確信したのである。日本農業を象徴する農村の原風景と、故郷の美しい海を愛する心が、このバナーとコピーには息づいている。わたしのイメージとかけ離れた現実の共産党の姿を目にして、心が激しく揺さ振られ引き寄せられていったのである。

 更に北陸信越ブロック事務所の活動を追っていると、12月6日に行われた「12・6戦争やだね!長野大集会」と出逢った。
 この集会を主催した団体のホームページを起点にして、この集会がどんなものか探ったのである。
 直ぐに、文学的直観がやってきた。従来の保守と革新との対立軸が無意味となり、その対立軸を超えた先に沖縄の心と、3・11の心という、日本人の新しい未来を見据えた生き方の原点回帰の姿を、この集会に見出したのである。
「12・6戦争やだね!長野大集会」は秘密保護法反対と反戦平和を核とした集会である。
 HP の映像(http://www.himitsuyadane.com/) を観ていただきたい。沖縄の辺野古に行って、基地建設反対運動を戦っている老人たちの生の声を心に刻みつけた宮川恵子さんが、沖縄との連帯を熱い心で訴えている。
 戦前に各地から満蒙開拓団が組織されて入植したが、長野県でも阿智村から満蒙開拓団として入植している。当然に入植地の子供の教育も必要となるわけだが、内地から入植地に赴任させられた阿智村の一教員とその家族の姿を描いた映画、「望郷の鐘」との連帯も集会の骨格になっている。
 そして、福島との連帯も呼びかけている。
 この12・6集会は、わたしがブログに書いた沖縄の心と3・11の心とが結びついているということを、如実に語ってくれている。注目すべき事実である。
 選挙戦の終盤で、共産党の戦いが沖縄の心と繋がっていた、と直観したことを前のブログに書いたが、間違いでなかったことを証明してくれている。

 少し脇道に逸れるが、満蒙開拓団と福島の原発事故とは根源的な意味で繋がっていると思う。原発も満蒙開拓団も国策であった。しかし、どちらも国に見捨てられたのである。国が地獄へと突き落としたとしか言えないのではないだろうか。
 映画「望郷の鐘」の映像が写し出した、阿智村に貼られた紙に書かれた文字が印象的だった。「国を信仰するな、騙したのは誰だ!」という文字である。
(映画「望郷の鐘」のホームページhttp://www.gendaipro.com/bokyo_new/index_top.html

 わたしは『故郷』という電子書籍の小説を出版しているが、原発事故で故郷を失ったヒロインが、第二の故郷を求めて限界集落へと引き寄せられていく姿を描いている。
 わたしは原発事故と満蒙開拓団の問題が繋がっていると同じように、限界集落の問題とも深く結びついていると考えている。
 全国各地には遠い過去に開拓された故郷がある。歴史は開拓事業が国策だったことを教えている。酷寒の大地、北海道の開拓史を紐解くまでもない。不毛の大地を切り開く辛苦は筆舌に尽くしがたい。開墾地には祖先の血と涙が沁み込んでいるはずだ。そして、嘆きと苦しみと悲哀がこびりつき、思い出と悦びが沁み込んでいるのだろう。そこが新しい故郷となった。
 現在の北海道の惨状はどうだろう。借金を抱え夜逃げをする酪農家が後を絶たない。祖先が切り開いた大地はまた荒れ果てた不毛の土地へと帰っていった。全国各地の開拓地は限界集落の危機を抱えている。国に見捨てられたのだ。

 共産党の北陸信越ブロック事務所は、反リニア運動を展開している長野県の大鹿村とも連帯していた。
 リニアは東京と名古屋との距離を時間的に短縮し、一体化へと結びつけるものだろう。
 新感覚派の旗手、横光利一の短篇小説『頭ならびに腹』の有名な冒頭がある。「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された」という文だが、リニアは東京と名古屋の間を黙殺ではなく抹殺するものだろう。抹殺とは、限界集落と結びついたものではないだろうか。

 さて、保守と革新の境界線が無意味になったという意味を、掘り下げて述べたいと思う。
 前々回のブログ『共産党の私設応援団としての総括と、未来を見据えた提言と展望』で、沖縄の保守と本土の保守の違いを書いたが、望郷とは保守の心だろう。故郷を求め、故郷の大地を再び踏みしめようと、満州から故郷へ逃避行を企て地獄を彷徨い歩いたのだ。それを強いたのは国である。
 祖先の血と涙が沁み込んだ新しい故郷は荒れ果てて限界集落へと姿を変えつつある。それでも祖先の血と涙が沁み込んだ地を愛して住み続ける人たちの心も保守だろう。祖先が開拓した豊穣の大地を、再び不毛の大地にしようとしているのは国である。
 映画、「望郷の鐘」にあった張り紙の文字を思い出して欲しい。「国を信仰するな、騙したのは誰だ!」という文字である。

 保守の心は二つに分かれる。
 一つ目は故郷を愛する心である。
 この心には最早、「国を信仰するな」という魂が沁み込んでいるのではないだろうか。国がそう仕向けたからだ。
 故郷の海と大地を愛し、故郷の自然と共に生きていく暮らしと文化と伝統を貴ぶ心である。この心を踏みにじっている元凶が安倍政権であり、自民党と公明党である。
 この心は、沖縄の心に通じている。そして、この心は無自覚であるが、護憲と反原発と反TPPに通じている。

 二つ目は国を愛する心だ。
 愛国、国益、国防という言葉を好んで使う勢力だ。
 故郷よりも国を上におくか、国を絶対化するものであり、国家主義と言い換えてもいいだろう。平和憲法、原発、TPPの三つに対しては、立場がまちまちである。

 では、革新を見てみよう。
 民主党はリベラルの範疇に入るのだろうか。
 前原誠司のような極右的な思想の持ち主がいるかと思えば、社会党崩れのリベラル左派もいる。小沢一郎が促成に作り上げ数を揃えただけの政党であるから、寄り合い所帯である。
 護憲、原発、TPPへの対応も二つ目の保守と同じくばらばらな様相だ。脱原発を表明し、TPPの推進を言ってみたり、護憲、脱原発なのにTPPに積極的に賛成する立場のものもいる。
 社民党と共産党だけが、護憲、反原発、反TPPなのであるが、社民党は反安倍政権で野党協力は可能としている。つまり、護憲と反原発、そして反TPPが、安倍政権打倒の目的よりも下位のものだと認識しているのだろう。

 オール沖縄を、わたしは沖縄の心といった。そして、大飯原発稼働差し止めに関する訴訟の福井地裁の判決文を3・11の心と言った。
 この二つを貫くものは、経済至上主義と経済成長神話、そして科学万能主義と人間中心主義に代わる自然との共存と、環境に過剰な負荷をかけない循環型社会へと向かう心であり、反戦平和の心である。
 この沖縄の心と3・11の心を下位において、野党共闘をして果たして安倍政権打倒はなるのだろうか。大いに疑問である。次世代の党は論外として、維新の党は橋下徹代表の立ち位置はほとんど自民党と一緒である。経済政策においては急進的な新自由主義を掲げているので、先に分けた一つ目の保守の心とは真っ向から対立する政党であることは間違いない。
 実際に橋下徹は安倍晋三に心情的にも、政策的にも傾いている。こうした政党と結びついて打倒安倍政権がなるものなのだろうか。民主党も全く同じである。
 戦前のように安倍政権の暴走による既成事実にずるずるべったりと引き摺られていって、歯止めにはならないのではないだろうか。戦前の歴史が語ってくれている。

 従来の革新の範疇には国民もいる。
 この国民が3・11を生きた中で、3・11の心に目覚めた人たちが数多くいるはずだ。わたしもその一人である。そして、3・11の心が沖縄の心と通じていることに気付いたのだ。更にわたしの場合は、新しい保守主義である「里山主義」へと結実したのであるが、3・11と沖縄の心の原点に回帰したことには変わりはない。
 
 保守が二つに分離した。
 革新も二つに分離した。

 護憲、反原発、反TPPで団結できるのは、一つ目の保守の心と、革新の側の3・11の心に原点回帰した層である。そして、政党は共産党だけしかないといえるのではないだろうか。
 戦前の反ファシズム闘争において、特に西欧においては重要な意味を持ったのは中道勢力だろう。日本においては議会制民主主義と西欧的意味での社会的な自我を確立した市民の形成が脆弱だっただけに、中道勢力の形成が未熟だった。それだけに反ファシズム闘争の限界もあったのだろう。
 しかし、時代状況は大きく違っている。グローバル経済であり、新自由主義勢力に国家は乗っ取られ、軍事独裁という政治体制のファシズムへと変質しようとしているのである。単なる覇権主義ではない。戦前の植民地主義でもない。国家を隠れ蓑にして国家の強大な軍事力を背景に、市場の一元化を強引に推し進め、貪欲に最大利潤を求める巨大資本のおぞましい姿が浮かび上がってくるのではないだろうか。
 わたしは、保守と革新の境界線が意味を持たなくなったのは日本ばかりとは思っていない。だからこそ、世界規模で揺れているのである。元凶は世界を闊歩している新自由主義と、社会構造を破壊していくドラスティックな経済のグローバル化だ。
 こうした状況にあって中道は成り立たないのではないだろうか。保守と革新の境界線が意味を失い、中道という立ち位置はなくなり、別の対立軸に中道が吸収されていくからだ。
 反ファシズム闘争で重要になるのは、グローバル経済の歪みが社会構造を破壊し揺さ振っているのは一国にとどまらないのだから、国境を越えた反グローバル勢力との連帯ではないだろうか。特に韓国との連帯は重要になるだろう。

 午前中にTwitterの世界で次のようなツイートを見かけた。

 共産党支持者の全てとは言わないけれど、一部に存在する、民主党すらも排斥する非常に排他的な硬直的な考えの人々は、ワイマール期ドイツの「社会民主主義要打撃論」についてよく学んで欲しい。
 社会民主主義要打撃論(社会ファシズム論) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0%E8%AB%96

 暗にわたしを批判しているのだろうが、説明したように、わたしは中道を否定しているのではなく、従来の保守と革新の境界線と対立軸が意味を失い、別の意味ある対立軸へと移ったときに、従来の境界線と対立軸の上に立つ中道という範疇も当然に意味を失うだろうと言っているだけだ。
 保守と革新、そして中道と範疇分けして反ファシズム闘争を考えることが有効であるためには、保守と革新とをはっきりと分けられる基盤があってはじめて中道の意味があるのだが、基盤自体が壊れ、保守と革新をそれぞれに一つに括れないとなれば、当然に中道も意味をなさなくなるのは当たり前である。それにも関わらず過去の反ファシズム理論を振りかざすとしたら、何と形容すればいいのだろうか。馬鹿の一つ覚えか、さもなくば共産党を揶揄するときの常套句である教条主義、もしくは独善的とでも形容すればいいのだろうか。

 しかし、共産党を揶揄するこの常套句も最早、効力を失った。この前のブログで写真を紹介したように、氏子総代として筑西市・樋口雷神社を守った鈴木さとし県議と共産党が、協力しているという驚くべき事実がある。
 長野県の共産党の得票率は全国で4番目だ。そのなかで得票率が高いのはリニア問題の大鹿村、満蒙開拓平和記念館の阿智村だというデータに注目すべきだろう。
 これは先の選挙データを分析した結果だが、一つ目の保守の心が共産党へと雪崩れていっている証だろう。
 沖縄の心が、長野県の大鹿村や阿智村でも熱く燃え上がっているのである。
 脱原発、反原発を叫んでも、リニア推進派の政治家は多い。反原発が3・11の心によって発せられたものならば、反リニアでしかあり得ない。人間中心主義で自然破壊を顧みず、自然との共存の心を忘れて経済至上主義という目先の金を貪欲に追い求め、科学を過信して安全性を蔑ろにして、人と虫と蛙と、ありとあらゆる命を奪う行為を是としてきたのが原発ではないのか。リニアと何処が違うのだろうか
 わたしは過去に原発の本質的なものを否定しないで、単なる原発だけを否定するのでは、名前を変えた第二、第三の原発事故が起きるとブログに書いている。リニアとは第二の原発なのである。本質が同じだからだ。

 この本質的なものを否定するのが、沖縄の心であり、3・11の心なのである。
 従ってわたしは、この本質的なものを否定していない反原発と脱原発を信用していない。当然に、原発再稼働反対で共闘はできるし、それは必要だと思うが、本質的な意味での共闘は無理だと思う。
 例えば脱原発を唱えながら、経済成長に不可欠だから故郷の海と自然を破壊することに何の疑問もなく、地方の社会が疲弊し、文化と伝統と、故郷の原風景を失うことに何の疑問も抱かないということが大いにあり得るからだ。
 地方の災害が起こる度に、経済的な面から見れば無いに等しい過疎の村に、復興のために税金を無駄遣いするのは馬鹿げている。全員、都会に移住させればいい、といった発言に目を瞑ることができるだろうか。また、零細農家などに税金をつぎ込んで無理に存続させないで、経済原理に任せて消滅させてしまえばいい。食糧を安く輸入した方が、経済効率から見たら理に適っている、という発言に異議を差し挟まずにいられるだろうか。
 反リニア闘争は、沖縄の辺野古埋め立て反対闘争と連帯できるし、しなければならないと思う。根っこが全く一緒だからだ。

 日本の各地で繰り広げられている闘争が、沖縄の心と3・11の心と通底しているのではないのだろうか。安倍政権と自民党は「国を信仰するな、騙したのは誰だ!」という心を生み出し続けているのだ。
 全国的な闘争が結びつけば、沖縄の心と3・11の心がより強固なものとなり、それだけ沖縄辺野古の反基地闘争と、反原発闘争が全国規模で燃え上がることだろう。

 先ず、共産党があったのではない。
「里山主義」という保守主義を提唱しているわたしは、沖縄の心と3・11の心で、保守と革新という意味を失った境界線を超えて、日本人の生きる原点に立って未来を見据えようとしたら、驚くことにその地点に共産党の姿があったのだ。そして、沖縄の心と3・11の心を共産党が生きているという事実を知ったのだ。
 安倍政権打倒とファシズムへの道を阻止できるのは、沖縄の心と3・11の心を、その二つの心を共有している、現状での唯一の政党である共産党に結集なくしてはない。そう確信したのである。

「国民連合政府」構想は、安倍政権を打倒し、ファシズム化を阻止するための暫定政権構想である。立憲主義と国民主権と骨抜きにされた平和憲法を取り戻し、国会を正常に機能させるための暫定政権であり、戦争法と閣議決定を廃止するための暫定政権である。
 目的は明確にこの一点に絞られている。ファシズムを阻止する統一戦線政府ともいえるものなのだろう。どんな政治的課題と政治的問題よりも優先すべき喫緊のものだ。猶予はない。既成事実が積み重ねられてしまうからだ。
 上述した内容と、『国民連合政府』構想の喫緊性と矛盾はするが、『国民連合政府』構想のなかに上述した歴史的うねりが既に内包されていると思っている。
 そして、『国民連合政府』が成って、目的を達成した後で、この歴史的うねりは政治を語る上で重要な意味を持っていると、わたしは確信している。

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 ※この絵の作者は 
  さんです。使わせていただきました。有り難うございます。


 日本共産党の志位和夫委員長が、戦争法を廃止するための暫定的な『国民連合政府』の構想を提唱した。
 わたしは歴史的英断だと思っている。この『国民連合政府』の実現なくして、ファシズム化の歩みを強めている安倍政権の打倒はないだろう。そして、自民党と公明党を権力の座から引きずり下ろすことも不可能だ。
 安倍政権を批判するための単なる飾りの言葉として「ファシズム」と言っているのではない。
 安倍政権の打ち出す政治的政策と経済的政策が日増しにファシズムの色合いを強め、安倍政権のとる政治的手段と手続きがファシズム的だと言っているのである。
 明らかに違憲立法である戦争法案の成立過程を見れば、安倍政権のファシズム化は明白である。
 立憲主義と民主主義を踏みにじり、詐欺的な解釈によって平和憲法を骨抜きにしようという魂胆が見え見えである。立法事実もなく、法的安定性を昭和47年の政府見解と最高裁の砂川判決に求めたが、憲法学者や弁護士が法的論理性からは証明不可能であり詭弁であると断じているのだから、安倍政権の国会での答弁が、嘘と不誠実と詐欺的文言で塗り固められたのは当然である。強行採決をするための単なる時間稼ぎと国会審議を経たというアリバイ工作に過ぎない。
 連日、国会議事堂の周辺を埋め尽くした民衆が、国会議事堂に届けとばかりに戦争法案反対の声を上げていた。安倍晋三と自民党、公明党の議員にその声が聞こえぬはずはない。8・30には車道にまで溢れた12万の民衆が国会議事堂前を占拠したのである。
 漏れ伝わった情報によれば、安倍晋三は8・30の光景に震え上がったそうだ。祖父である岸信介を退陣にまで追い込んだ60年安保闘争を彷彿とさせるエネルギーと破壊力を感じたからだろう。安倍晋三はこの光景を許した警察関係者に激怒したらしい。
 8・30を境にして、国会正門前の警備は戒厳令が発動されたのではないかと錯覚するほどの異様なものになった。過剰警備などというレベルではない。警察が保有しているカマボコ(警察車両)を総動員したかのような台数と三重四重と隊列した夥しい数の官憲によって、国会正門前の車道が文字通り占拠されたのだ。鉄柵にも改良が施されていた。並べられた隣合う鉄柵が互いにジョイントされ、その上に鉄柵の足が太いパイプで連結されているという徹底さだ。歩道に溢れたデモの参加者が鉄柵の側に押し寄せたら、頑丈な鉄柵だけに惨事になることは素人目にも解る。デモの参加者の安全よりも、8・30の光景の再現を阻止することを優先したのだ。官邸の圧力である。それほど安倍晋三が8・30の光景を恐れた証左である。
 戦争法案に反対する世論は60%にもなり、審議が尽くされていないという世論は80%にもなっている現実に目を瞑ることは、国民主権を否定するに等しい行為だ。安倍政権と自民党は総選挙で国民から選ばれたのだから多数決で採決するのは民主主義のルールだというが、民主主義とは何かを理解していないだけではなく、総選挙での比例区での得票率が、全有権者の17%に過ぎないという事実を蹴飛ばして、見かけの多数に胡座を掻いた数の暴力でしかない。
 この異様な警備は憲法で保証する集会の自由と言論の自由を阻害する不当なものであり、民衆の声を強権と暴力によって封殺しようとする安倍晋三の政治姿勢を如実に反映したものだ。
 報道の自由が保証され、権力の番人としてのジャーナリズムが健全に機能していたならば、こうした憲法を無視し、国会を愚弄し、世論に背を向けて暴走する安倍政権に、烈火となった批判が襲いかかるはずなのだが、マスメディアが安倍政権との癒着を深めただけではなく、安倍政権に隷属化し、安倍政権の意のままに国民を洗脳するための情報操作機関に成り果てていては望むべくもない。
 後述するが、安倍政権は自らの力でファシズム化を推し進めているわけではない。安倍晋三が操り人形であるように、安倍政権自体も操り人形なのである。マスメディアの安倍政権への癒着と隷属とは、厳密に言えば安倍晋三と安倍政権を陰で操る勢力への癒着と隷属ということになる。

 ファシズムというと直ぐに想い浮かべるのはナチス・ドイツだろう。
 戦前の日本もファシズム国家体制であった。ではナチス・ドイツと同じかというと著しい違いがある。
 ナチスが政権を掌握したのは暴力革命によってではない。ヒトラーは選挙で多数派を占めて連立政権を樹立し、合法的に総理となったのである。しかし、類い希なる悪魔的な政治的戦略で「国民と国家の防衛のための」緊急令の発動に漕ぎつけ、更に実質的に国会を消滅させる「全権賦与法」を手中に収めるプロセスは、正しくファシズム革命である。ヒトラーが用意周到に練りに練った政治的戦略なのである。魔王でありニヒリズムの権化であるヒトラーの政治的戦略とは、虚偽とデマと詐欺と煽動といったものから、圧倒的強権を濫用した暴力と弾圧と脅しと懐柔と買収とによる。
 総理になったヒトラーは絶対多数を獲得するため国会を解散することに成功するが、その選挙戦がヒトラーの政治的戦略を物語っている。連立する政党を出し抜くなど屁でもない。口先だけの約束をしたり、嘘を吐くなど当たり前なのである。
 街頭では戦闘部隊であるナチ突撃隊(SA)がテロ活動を行い、それに対抗する共産主義者の戦闘的なデモとの衝突と流血を、共産主義者の仕業に印象操作したのであるが、大衆の意志を一定の方向へと誘導するためには、大衆の注意を危険な敵に集中させることが最も効果的であることを知っているからに他ならない。大衆心理の操作方法である。そのために宣伝による情報操作と大衆洗脳を徹底化したのだ(H・マウ・H クラウスニック 内山徹訳『ナチスの時代』岩波新書)。
 敵か味方かの単純な二分法的な思考回路へと大衆を突き落とす戦略であるが、この二分法の思考回路はナショナリズムの高揚にとっては有効である。戦前の日本においても、愛国か、さもなくば非国民か、の単純な二分法的な洗脳が行われていた。
 ニヒリストであるヒトラーの選挙戦略は手段を選ばない。国会議事堂を放火させて、その火災の責任を共産主義者になすりつけたのだ。共産党の幹部400名が逮捕され、共産党の新聞は発禁になり、更に社会民主党へも飛び火させて、社会民主党の新聞までも一定期間発禁にしたのである。
 ヒトラーによる徹底した言論弾圧と情報操作である。そして、燃え上がる国会議事堂の光景を、国家を混乱に巻き込む共産党のイメージとして大衆の意識の中へ植え付けたのだ。
 選挙に勝利したヒトラーだったが、それでも単独では「全権賦与法」の成立に必要な三分の二には至らなかったので、ここでも他党を賛成させるために、脅しと切り崩しと買収をしたのだ。その結果がどうなったか、「全権賦与法」を手にしたニヒリスト・ヒトラーの絶対的権力掌握と独裁を可能としたのである。
 こうして書いてくると、ナチス・ドイツはえげつない政治戦略で権力を掌握したような印象を持つかもしれないが、ファシズム革命というからには、大衆の熱狂的な支持が必要不可欠だったことは忘れてはならない。大衆の支持があったから、ヒトラーの政治戦略が可能だったといえるのだろう。

 では戦前の日本のファシズムはどうだろうか。
 丸山真男は『現実主義の陥穽』で、軍部の独断専行による既成事実化に引き摺られる形でずるずるべったりと戦争へと雪崩れていって国家主義的な色彩を強め、更に軍部主導の軍国主義的な独裁国家へと突き進んだことを解明しているが、我が師である橋川文三は、丸山真男のファシズム理論の不備を突いている。既成事実にずるずるべったりと引き摺られていったことは認めた上で、大日本帝国憲法が内包している国家主義的な性格がそのままの形で強化されただけでは、「超=ウルトラ」国家主義にはならないと指摘している。国家主義と超国家主義との間には質的な変化があると指摘し、その質的な変化の解明と超国家主義のメルクマールを探ったのである。
 橋川文三の論旨は割愛するとして、わたしが言いたいのは日本のファシズムはナチス・ドイツのような明確なファシズム革命はなかったのであり、ファシズムへと移行したメルクマールも明確なものではなかったということである。
 ナチス・ドイツにおいては大衆運動、つまり下からのファシズムとしての側面が顕著にみられたが、日本においては大衆運動の側面は薄く、つまり上からのなし崩し的な側面があった。なし崩し的であったから、民衆の目にファシズムの姿が見えないままに、いつの間にかファシズム国家体制になっていたという、戦前を生きたいわゆる知識人の回想に繋がるのだろう。変わらぬ日常のつもりが、その日常をファシズムという化け物が徐々に蝕んでいった歴史が戦前の日本の姿だったのではないだろうか。
 こうしたずるずるべったりの日本ファシズムの性格が、戦争責任の曖昧さにも繋がっている側面は見逃してはならない。ナチス・ドイツにおけるヒトラーは、我こそが主犯者だというファシストとしての矜恃があったはずだ。我なくして第三帝国の誕生はあり得ない。第三帝国こそ我が芸術作品だ、とでも誇らしく口にする男に違いない。魔王であるニヒリスト、ヒトラーの神髄である。
 が、日本はどうか。ヒトラーは存在しない。誰もが責任を取ろうとしないのである。だから安倍晋三のような愚かな男が現れて、祖父である岸信介の無罪を主張するのである。

 わたしは安倍政権をファシズムと言った。
 では安倍政権のファシズムとは、どういうものであろうか。戦前の日本のファシズムと似ているのではないだろうか。明確な大衆運動を伴わない、上からのなし崩し的なファシズム化だ。戦争法案に賛成するデモの動員数は多くて200人規模である。一時期ネットウヨが過大評価されたりしたが、どうもネットウヨとは自然発生的なものではなく、世論形成と情報操作と言論潰しのために雇われているようである。
 戦前の日本においては右翼によるテロリズムがみられたが、センセーショナルなものだけに、暴力的な社会的な空気を醸成させ、無自覚な言論と自由の封殺に効果的だったと思う。こううした役割をネットウヨや在特会に担わせるつもりなののだろうか。
 安倍政権をファシズムだと言ったが、わたしは安倍晋三を真正ファシストだとは思っていない。安倍晋三は操り人形だからだ。そして、安倍晋三ほどファシスト勢力にとって恰好の操り人形はいないのである。何故ならファシストとしての政治戦略をとる上で、安倍晋三ほど違和感なくこなせる者はいないからだ。
 誤解しないでいただきたいのは、安倍晋三は魔王であるヒトラーの髪の毛ほどの能力も持っていない。自分自らで政治戦略を練ることもできなければ、政治的環境を整える術も能力もない。陰で操る勢力が作り出した政治的環境の中で、これまた陰で操る勢力が準備した政治的戦略に従って動くだけの操り人形である。
 ではどこに安倍晋三にファシズムへと誘導していく操り人形としての資質があるのか。
 先に述べたヒトラーがとった政治的戦略を想い浮かべていただきたい。虚偽と不誠実と嘘と陰謀と恫喝と脅しで塗り固められたものである。安倍晋三の持って生まれた性格そのものなのだ。おまけに幼児性分裂症を患い、異常な自己愛者だ。安倍晋三を溺愛する母親はファザコンである。安倍晋三に岸信介教を洗脳した張本人だ。そして安倍晋三は、極度のマザコンなのである。

 安倍晋三を陰で操る勢力とは何か。
 経団連が武器輸出を国家戦略の根幹に据えるように提言したが、この提言こそ戦争法案の正体を暴いてみせてくれている。安倍晋三は武器輸出を解禁し、軍需産業を引き連れて営業外交を精力的に行っている。武器輸出に税金を投じて保険をかけることまで考えているのだ。
 東芝の粉飾決算は、資本主義がおかれている状況を象徴する出来事だと、わたしは考えている。東芝は日本を代表する超巨大企業だ。東芝が利益を出しにくい体質であることは、そのまま資本主義の経済成長至上主義がこのままでは二進も三進もいかなくなったことの証左ではないのだろうか。資本主義の終焉の始まりだといったら失笑を買うだろうか。
 わたしは資本主義の終焉の始まりを告げたのが、武器輸出の解禁であり、武器輸出を国家戦略の根幹に据えることであり、違憲である戦争法案を形振り構わず成立させた理由だと思っている。
 安倍晋三と安倍政権を陰で操る勢力とは軍産複合体を中核とした多国籍企業と巨大金融資本なのではないだろうか。上からのファシズムといったが、上とはこうした勢力を指す。マスメディアがどうして安倍政権に隷属化しているかといえば、こうした勢力がマスメディアのスポンサーだからである。
 陰で操る勢力とは日本ばかりではない。
 安倍晋三が戦争法案が成立する前に米国において期日まで指定して法案の成立を確約したことをみれば明らかだろう。米国の軍産複合体であり、米国の多国籍企業と巨大金融資本だ。

 日本共産党の志位和夫委員長が提案した『国民連合政府』の構想はどうして出てきたのか。
 わたしは国会議事堂前のデモに何度か参加したが、国会議事堂前を埋め尽くした民衆に向かって熱く語る志位和夫委員長の姿を何度となく目にしている。おそらく志位和夫委員長ほど国会議事堂前の民衆の下に足繁く通った政治家はいないのではないだろうか(社民党の吉田党首もよく目にした)。
 わたしは民衆に熱い言葉で語りかける志位委員長の心と民衆の心が一体となっていることを感じた。
 ブログで書いたが、国会議事堂周辺を埋め尽くした民衆の心は、政治的立場と政治的思想を超えた、もっと本源的な地点に立って戦争法案の廃案を叫んでいたのである。民衆の心と一体となった志位委員長だからこそ共産党の党利党略を超えて、真っ直ぐに民衆の心と向き合えたのだと確信している。そして、真っ直ぐに真摯に向き合った中から導き出された答えが戦争法の廃止と閣議決定を葬り去るための『国民連合政府』構想なのである。
 それだけではない。志位委員長の政治的感性が、戦争法の成立の重大性と、日本の未来を閉ざし暗黒の世を連れてくるファシズム政権の台頭に誰よりも危機感を覚えたのだろう。ファシズム政権を打倒するための猶予はない。時が経てば既成事実が積み重ねられて手遅れになるからだ。だから今こそ党利党略をかなぐり捨てて、ファシズム政権を打倒し、立憲主義と民主主義と平和憲法を取り戻す一点で『国民連合政府』の構想が生まれたのだと確信している。
『国民連合政府』の構想に対して、「共産党が勝手に候補を降ろすだけなら歓迎する」と民主党議員が発言したそうだ。この議員は、降りしきる雨に濡れながら国会議事堂周辺を埋め尽くした、民衆の心と真摯に向き合ってはいない。民主党議員である前にこの民衆の心と向き合うべきなのだ。共産党は向き合った。その答えが『国民連合政府』だ。民衆の心に党派などないことを解っていない。政治的感性が貧弱だから感じられないのである。国会議事堂の周辺を埋め尽くした民衆の心を裏切ろうとしていることに気づけないのだ。
「勘違いするな!」と言いたい。
『国民連合政府』の構想の是非を決めるのは民主党でも他の野党でもない。国民である。
 民主党は安倍政権を陰で操る勢力との結びつきがある。支持団体である連合は巨大企業の組合だ。当然に東電も入っている。御用組合といえば語弊があるだろうが、会社の成長が組合員の幸福追求に直結するという基本的なスタンスがある。要は利潤の分配をより組合員に厚くするという姿勢である。こうした組合にファシズム化と真正面から向き合えるか、わたしは疑問である。その現れが民主党の『国民連合政府』構想への足並みの乱れなのだろう。

 最後に、ナチス・ドイツの話しに戻る。
 ナチス・ドイツの暴走を食い止めることは可能だったことを忘れてはならない。
 統一戦線ができれば可能だったと言っておこう。
 そして、目先の党利党略にしがみついている卑しさをヒトラーに利用させて、権力欲しさに連立を組んだり、買収されたり、懐柔策に踊らされたりした、腐りきった政治屋がいなければ可能だったのである。
 ファシズムの影など何処にもない、などと嘯いているお目出度い政治屋と、欲の皮が突っ張った政治屋が、ファシズムを連れてくるのだ!

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※筵旗の右側が藤野保史氏

 今日の信濃毎日新聞第一社会面にも大きくムシロ旗が出ています



 16日に国会議事堂前のデモに参加し最終電車で帰宅したが、雨に打たれたのと過剰警備の官憲と押し合いをして汗をかいたからだろうか熱があり喉が痛い。風邪だろう。
 外での肉体労働なので、昨日と今日は雨で休みになった。また国会議事堂前に行こうかと思ったが、明日は肉体労働が待っている。風邪をこじらせても嫌なので、今日は自重することにした。明日、仕事から帰ったら国会議事堂前に行くつもりだ。

 一昨日に画期的な出来事があった。
 歴史的な出来事だと、わたしは捉えている。画期的というのは、歴史を分かつエポックメイキングという意味である。

 歴史的な出来事とは何か。
 国会議事堂正門前に筵旗が掲げられたことだ。
「9・16戦争法案反対!信州国会前行動。一揆の伝統を引き継ごう!」と、わたしの愛する信州から国会議事堂前に来られた方達が、強行採決が行われようとしている国会議事堂に向かって抗議の声をあげたのである。そして、筵旗が翻ったのだ!
 以上は、「憲法かえるのやだネット長野 @himitsuteppai 」さんが、 9月16日に紹介して下さったツイートから抜粋したものである。

 何度かブログに書いたが、長野県では注目的な現象が起きている。満蒙開拓団の悲惨な歴史に今なお拘り続け、満蒙開拓団の無念を語り継いでいる下伊那郡の阿智村が火を点けた戦争法案反対の運動が、燎原の火となって広がっているのだ。軽トラを連ねたデモ行進があるかと思えば、600人に充たない山村の売木村では老人用の電動スクーターに乗った老婆を先頭に、村を流れるゆったりとした時間そのままに、行進する美しい光景までが出現したのである。そして筵旗は、木島平村で掲げられたものだ。

 デモの規模はどれも小さい。
 しかし、わたしにはこの小さなデモが歴史を揺るがす大きなエネルギーと可能性を秘めていることを信じて疑っていない。このデモのなかに息づく精神と方向性の先にしか、日本のあるべき希望の未来はないのではないかと思っている。

 SEALDsが脚光を浴びているが、SEALDsの誕生とSEALDsが作り出した新しい時代のうねりもまた歴史の歯車を動かす大きな意味があるが、わたしは信州で起こっているデモにより本源的な時代の歯車を動かす本質的なものを観てる。いや、観ているのではなく文学的な直観である。何故に本質的かというと、農村と山村、そして過疎の村で日々生きて呼吸している暮らしとデモとが一体となっているからだ。頭でひねり出した思想が先ずあるのではない。頑固なまでに貫く生き方としての暮らしがあるのだ。その暮らしとは、当たり前としての自然との共存である。大地にしっかりと根を張った暮らしのなかからデモのうねりが起こったことを、わたしは重視しているのだ。
 SEALDsはまだしっかりとして根を下ろす大地を持たない。暮らしとしての大地ではなく、思想に寄りかかっている側面が多いと思う。信州の農村と山村、そして過疎の村々で産声を上げたデモは、頑固に貫き通した暮らしと生き方そのものなのだ。だから一貫しており、どんな嵐にも負けない強靭性を秘めているのである。

 昨日、民放のニュースで国会議事堂前のデモの性質ついて解説者が分析していたが、細川政権を誕生させたときの無党派層の類推で説明していたのには、正直失笑してしまった。何処に目をつけているのだろうか。いや、目では本質は見えないのである。心の目で感じないと永久に見えてはこないものなのである。心の目とは感性と直観に通じたものだ。

 国会議事堂前のデモには多様性がある。
 従来の政治的な枠組みと思想的な枠組みとが取り払われてしまった観がある。そして、政治的立ち位置と思想的立ち位置とを無意味なものにしてしまったのだ。だからといって、誰もが無党派になったのではない。無党派を含めて誰もが、もっと根源的なる立ち位置へと下りていったのだ。だから共闘と連帯が可能となったのである。
 もっと根源的な立ち位置へ下りていったと述べたが、その根源的な立ち位置こそ信州の農村と山村、そして過疎の村々に広がっているデモが内包しているものだと感じてならない。

 わたしたちは3・11を生きた。そして、沖縄辺野古の新基地反対運動を生きている。
 わたしは3・11の心と言い、沖縄の心と言っている。以前のブログに何度となく書いているが、信州で起こっているデモは、3・11の心と沖縄の心と根が一緒だと思っている。その証が、信州のデモの火を点けた阿智村は国策であった満蒙開拓団の歴史を生きた村だという事実である。
 3・11もまた国策であった原発によって、はるかな時の流れのなかで祖先が生きて愛してきた故郷の大地と自然と暮らしを根こそぎ破壊され、奪われたのである。国策であったはずがソ連の南下の情報を掴んでいたのにもかかわらず、関東軍と国家から人間の盾とされた満蒙開拓団と同じである。そして、沖縄もまた国家によって本土防衛のための犠牲を強いられた歴史が、語るも悲惨な地獄絵としての沖縄戦である。

 信州の農村と山村、そして過疎の村々で起こっているデモに息づくものを、わたしは信州の心と呼びたい。
 この信州の心は、3・11の心と沖縄の心と根は同じなのではないだろうか。
 3・11との心と沖縄の心には、新しい価値観が息づいていると直観している。
 大飯原発再稼働差し止め判決が高らかに謳っているように、経済至上主義を戒め、国富の源泉が経済的富ではないとまで言い切っている。故郷の大地と自然と、美しい山と川と海と日本の風土こそが富の源泉なのであり、それを破壊することは許されるものではないとも言っている。
 これまでの幸福観とは、経済成長と密接に関わるものだったのではないだろうか。経済成長なくして幸福はないと洗脳されてきたのだ。洗脳したのは社会的なシステムによってである。その社会的システムを資本主義と置き換えてもいい。
 沖縄の心は、はるかなる悠久の時間を生きた祖先の魂が息づく、辺野古の美しい海を子や孫へと残すことを、すべての価値よりも上に置いたのである。

 信州の心はどうか。
 戦争法案に反対の狼煙を上げたことをみれば、平和こそが故郷の大地にしっかりと根を張って生きていく暮らしの基盤であると考えていることが解る。
 頭だけで考えているのではなく、心で感じているのだ。そして平和な暮らしにおける幸福とは、筵旗の裏面に書かれた「武器より米を! アスパラを!」の文字が如実に語ってくれている。破廉恥にも経団連は、武器輸出を国家戦略の根幹に据えることを求める声明を出したが、これは最大利潤をひたすら求め、手っ取り早く経済成長を維持するためなら人殺しをすることも辞さないというおぞましい宣言である。
 経団連が形振り構わず非人道的な声明を出さざるを得なかった理由を、わたしは資本主義そのものの末路だと思っている。賭博によって暴利を貪る金融資本の非倫理的な行為と合わせて、武器輸出でしか資本主義のシステムが維持できなくなっているのだ。

 筵旗の表面には「農民は戦を拒否する 家族と稲を育て、集落を豊かにしたい」と書いてあるが、この慎ましやかな願いは、拡大再生産と経済成長を貪欲に追い求めて行く姿勢とは真逆である。慎ましやかな暮らしに幸福観を見出しているのではないだろうか。貪欲に欲望を追い求め、その欲望を満足させる消費に幸福を見出す価値観とは真逆である。
 この信州の心とは、3・11の心と通じたものだといえるだろう。どちらも飽くなき経済成長を追い求め、故郷の大地と自然と暮らしを破壊することも厭わない経済至上主義の価値観を否定しているといえるだろう。
 自然との共存と共生の暮らしこそに価値を見出しているのだ。暮らしとは伝統と文化とを包含したものでもある。つまり、祖先の血と魂が息づく故郷の大地にしっかりと根を下ろして、平和を生きて、伝統と文化を大切に暮らしたいという想いが、信州の心なのではないだろうか。
 沖縄の心とは故郷の美しい海と文化と伝統と暮らしを何よりも大切にしたいという願いが宿ったものだ。信州の心と通じ合っているのである。

 では何故に信州の心を、歴史を分かつエポックメイキングというのか。
 3・11の心は反原発の運動のなかに息づいている。沖縄の心はオール沖縄の連帯という形で、3・11の心と戦争法案反対の運動と結び着いている。
 しかし、3・11の心と沖縄の心だけでは、わたしは都会と農村・山村、そして漁村との対立的図式は解消できていないと思っている。
 どういうことかというと、資本主義とは都会と農村との対立を生み出す宿命をシステム的に背負っていると考えるからだ。
 資本主義の生産活動を担う労働者は、資本主義の誕生期には農村部から補充しなければならなかった。如何に都会の生活が魅力的なものか、絶えず民衆に対して宣伝をしていかなくては絶えざる経済成長は不可能である。都会は魅惑的な刺激に満ち溢れ、あらゆる欲望を満たしてくれる。退屈極まりない田舎の枯れ果てた生活を捨てて、煌びやかな生活と幸せを求めてネオン瞬く都会へと出て行こう、と雑誌やラジオ、そしてテレビを介して煽りに煽られた歴史があったのである。
 歌謡曲の歴史をふりかえってみるだけでも明らかである。初期の歌謡曲には東京を華やかに謳い上げたものが多い。

 わたしが信州の心を重視するのは、この対立的な図式を解消させ、日本のなかでエアーポケット的な地域である農村と山村と漁村へと、戦争法案反対の運動を浸透させていく歴史的な役割を担っていると思っているからである。
 上述したように、信州の心とは3・11の心と沖縄の心と通じている。そうだとすれば、こうした地域にその心をも浸透させる効果がある。浸透させるとは、心の奥深くに隠れていたものをはっきりとした形で意識させるという意味である。

 信州の心とは農村と山村と過疎の村だけにTPPと密接に関連している。TPPとは日本の農業と漁業だけの問題でなく、経済的な問題であるが、食糧の自給という側面をみると、旧態依然として都会と田舎の利害対立で捉えられている側面がある。信州の心と3・11の心と沖縄の心がしっかりと結合すれば、利害対立の視点も意味がなさなくなるのではないだろうか。
 わたしは冒頭で戦争法案の多様性を述べたが、多様性とは既存の枠組みが意味をなさなくなったことであるが、言い換えれば既存の価値観が崩れ去ったことを意味しているのではないだろうか。が、多様性とはそのままであるのではなく、新しい価値観へと収斂していくとみている。その価値観とは、3・11の心と沖縄の心と信州の心に共通に息づく価値観なのであると思っている。

 各種メディアの世論調査によれば信じられないことに、安倍政権の支持率が40%もあるという。勿論そのまま受け取れはしないが、それでもまだ安倍政権を支持する人々がいるのは確かだ。その人々とは、わたしは日本のなかのエアーポケット的な地域と重なると思っている。何故ならば、そうした地域は情報がテレビ(特にNHK)と新聞に限られており、その情報源のマスメディアが安倍政権への隷属的癒着が進み洗脳機関的な働きをしているからだ。
 信州の心を重要視するのは、こうした状況を切り崩す可能性を秘めているからである。信州の心の拡散がなければ、安倍政権に決定的なダメージを与えられないだろう。

 過疎の村へと心が引き寄せられていく若者達の姿がある。既存の価値観の崩落と、新しい価値観を求めての旅路だと、わたしはこの現象を捉えている。
 信州の心はその意味で日本の未来を切り拓く希望の光だといえないだろうか。
 だからこそ、信州の心を戦争法案反対の運動のなかで共有し、戦略的に拡散しなければならないと強く思うのである。
 信州で起こった小規模のデモでなどないのである。
 日本の未来を左右するといっても過言ではない希望のデモなのだ。
 国会議事堂正門前に、日本の未来を照らす希望の筵旗が翻った!
 全国の農村と山村と漁村と
 そして過疎の村に生きる人々よ
 希望の筵旗の下に集え!
 
「日本一の一揆の伝統を引き継ごう」というのは社会科の副読本の「長野いろいろ日本一」の欄に、百姓一揆が起こった回数が全国1位とあることからとっています、と信州のデモを逐一ツイートという形で紹介されている『憲法かえるのやだネット長野 @himitsuteppai』さんが説明されている。
 そして国会議事堂正門前で『信濃の国』を歌ったそうだ。安保闘争でもこの『信濃の国』を歌ったそうだ。『信濃の国』を国会議事堂は覚えていたことだろう。わたしの好きな歌である。
 しかし、信州とは特異な風土性を有している。わたしの師である橋川文三を介して知った尊敬する竹内好もまた信州の人だ。

 国会議事堂正門前の筵旗の下に馳せ参じた衆議院議員がいる。
 日本共産党の藤野保史氏である。藤野氏は反原発運動に深く関わり、沖縄の新基地建設反対運動にも関与している。選挙区は北信越であり、信州は地元である。つまり3・11の心と、沖縄の心と、信州の心を体現された人なのではないだろうか。
 わたしは保守主義者であり、マルキズムには否定的立ち位置にいる。が、護憲と反原発と反TPPで一貫している唯一の党である日本共産党を支持している。

 日本共産党とは不思議な党である。
 自由民主党は保守を騙っているが、日本の伝統と文化と故郷の原風景を国益の名の下に率先して破壊している政党だ。保守であるはずはなく、超がつく国家主義政党である。
 日本の伝統と文化と故郷の原風景を守っているのが、日本共産党なのだ。
 嘘だと思ったら、藤野氏が撮った写真をみればいい。日本の原風景と文化と伝統に注ぐ優しい眼差しを見出すはずだ。写真に藤野氏の心が息づいているのだ。心が息づいているから写真が生きて語ってくれているのだ。
 信州の心を日本全土に拡散し浸透させるためにはなくてはならない人だと思う

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