石川啄木の詩に『ココアのひと匙』がある。
われは知る、テロリストの
かなしき心を―
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心を―
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。
はてしなき議論の後の
冷さめたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。
大逆事件で処刑された幸徳秋水と管野須賀子を含む12名の心に想いを馳せた詩なのだろうが、奪われる側の命と、奪う側である自分の命と厳しく、そして真摯に向き合う悲哀を詩っている。
二つの命の尊さと重さを量りにかけているのではない。同じ尊さと重さをもつ命を奪い、そして奪わなければならない哀しみを詩っているのだ。重く尊い命を奪う代わりに、自分の命を捧げる厳粛な覚悟が、啄木の心と共鳴し合っているのだろうか。テロリストをこうした行為に走らせ、社会の背後でせせら笑っているおぞましい影を、啄木の目は憤りをもって捉えている。
わたしはテロリズムを否定する。
が、石川啄木の『ココアのひと匙』の詩を、わたしは愛している。テロリストをばっさりと切り捨てることなく、テロリストの心を鏡にして、自分の心を映し出してみようとする姿勢が、この詩に魂として宿っているからだ。そして、ばっさりと切り捨ててしまうことで見えなくなる、テロリストを生み出す社会の奥深くに潜んでいるおぞましい化け物を見据えようとする姿勢に共感しているからだ。
しかし、現代のテロリズムは、この啄木が『ココアのひと匙』の詩にしたテロリストの心から大きくかけ離れたものである。現代のテロリズムには、命の遣り取りをしなければならない悲哀はない。奪われる側の命と、奪う側の命の尊さと重さを等しくみる、生きとし生ける命そのものに等しく注ぐ温かな眼差しはない。敵を憎むことが、その敵の命への憎悪へと単純に結びついているのだ。だから命を奪うという罪悪感はないし、心の葛藤もない。敵の命を奪うことが正当化されるばかりか、敵の命を多く奪えば奪うほど快楽を覚え、味方から賞賛されるのである。
日蓮宗僧侶であった井上日召が組織した「血盟団」のテロリズムは、「一人一殺」に貫かれたものであるが、命と命の厳粛な遣り取りという視点があったからだろう。
我が師である橋川文三は、明治時代の実業家であった安田善次郎を暗殺した朝日平吾を、日本政治思想史から捉えようとしている。
朝日平吾のテロリズムを、朝日平吾という個人史という側面とは別に、政治思想という側面から社会的背景を探ったのである。つまり、朝日平吾を生み出した時代的土壌を問題視したということである。朝日平吾は社会から隔絶した狂人でもなければ、世捨て人でもなく、ましてやモンスターでもない。社会が生み出したテロリストであり、誰もが朝日平吾になり得る時代的、そして社会的な雰囲気と土壌があったということだ。朝日平吾というテロリストに、時代と社会に蔓延していた民衆の漠とした精神的、思想的な反映をみることこそ重要なのだろう。逆にいうと、朝日平吾というテロリストを通してみることで、奥に隠れて目にすることができない、当時の時代状況が抱えていた真実の姿を、浮かび上がらせることができるのだろう。
現代社会の中のテロリストとテロリズムはどうだろうか。
わたしは朝日平吾の意味で、政治思想史としての意味はないと思っている。
テロリズムとは、日常の社会において行われるものを想定している。「戦場」において行われる行為は、テロリズムではない。また敵の兵士を殺す者をテロリストとはいわない。つまり、戦争の中では殺人行為が目的化しているのであり、その殺人行為そのものに思想的な意味はない。開戦する思想的意味はあるだろうし、開戦した戦争に思想的意味はあることは否定しない。
が、戦争の中で行われる殺人行為に思想的意味はないはずだ。意味などあったら殺人が行えない。殺人することに葛藤と疑問があってはならないのだ。敵兵を殺すことは絶対的に回避できないものであり、正しい行為だ、という意識に貫かれており、人殺しが日常化した世界なのである。
日本の国家主義者は、特攻隊を散華になぞらえて美化する。
一方では、中東世界で常態化している自爆テロを悪し様に罵倒する。
どこに差異があるのだろうか。中東世界では女、子どもまでが自爆テロを行うのである。厳かに別れの水盃をかわし、凜々しい姿でゼロ戦に乗り込んで、「日本国、万歳!」といって敵艦に体当たりする姿を、散りゆく桜の花の儚さと華やかさに無理矢理に重ね合わせて、日本的美意識としての死として讃美するのであろうが、わたしからみると国家によって無理強いされ洗脳された、おぞましくも惨い自爆死としか思えない。
特攻隊に思想的な意味はない。日常化した「戦場」での死でしかないからだ。武士道とは無縁であり、ましてや散りゆく桜の花の美とも無縁だ。武士道とは優れて日本的だと思われているが、西欧にも騎士道がある。西欧社会で、武士道が日本文化の特質のような印象が蔓延しているのは、騎士道を通してみているからだろう。
壇ノ浦の源平の合戦をみれば明らかだろう。現代における戦場とは別世界だ。誤解を恐れずにいえば、優雅ささえ感じられる。海に浮かんだ舟の扇を矢で射貫く儀式的な遊びまでがある。
敵の武将と戦場で相まみえ、一騎打ちする前には口上まで交わすのだ。そこにあるのは、敵の武将の命と、己の命との厳粛な遣り取りという発想だろう。テロリストの心に通じているともいえよう。
江戸時代には敵討ちと仇討ちが認められていた。そして、親の敵を討つ子の姿に、ある種の倫理性と美意識のようなものを見出していたのである。この観点からみれば、特攻隊よりも戦争で親を殺されたアラブ世界の子どもの自爆テロの方が、どれほど武士道に近いかしれない。特攻隊は単なる自動誘導される爆弾の代わりでしかないのではないだろうか。
わたしは「イスラム国」を、イスラーム主義とは認めていない。
理由は簡単である。「戦場」の世界の論理であり、「戦場」の世界の申し子だからだ。「戦場」にあっては敵を殺すことが目的化したものであり、その人殺しに意味はないし、当然に思想もない。そして、敵と味方という二分法の世界である。敵は絶対的な悪であり、味方は絶対的な正義なのである。
したがってテロリズムという側面からみれば、「イスラム国」の行うテロとは、言葉の厳密な意味でのテロリズムとは違い、「戦場」における殺人行為の延長なのである。
欧米諸国と日本、そして経済成長著しいアジアの諸国にとって、日常の世界を「戦場」とはみなさないが、「イスラム国」にとっては「戦場」なのである。「日常の世界」と「戦場の世界」とのギャップが、「イスラム国」の行為を野蛮で無慈悲で、そして残酷で醜悪なものとして「日常の世界」に生きている人々の目に映るのだろう。
が、「イスラム国」の行為が「戦場」のものとしたら違った様相に見えてくるはずだ。戦場とは爆撃で胴体から吹き飛んだ首が転がっている世界である。子どもも女も無差別だ。イスラエルが行った空爆で死んだ子ども達の死体を写した写真があるが、「イスラム国」が人質の切り落とした首を弄んでいるのと、大して変わりはない。第二次世界大戦における歴史的な事実が、戦場における狂気としての兵士の残虐な行為を余すところなく突きつけている。日本軍の将校が軍刀で、どちらが多くの中国人の首を切り落とせるか笑い顔で競い合っている写真は衝撃的であるが、こうした「日常の世界」では狂気でしかない行為が、「戦場の世界」では正常なのである。敵兵に温情を覚え密かに逃がしたりすることが、「戦場の世界」では異常な行為なのであり、軍法会議にかけられて処刑されるのだ。
紛争の絶えない中東は、「日常の世界」が「戦場の世界」なのである。人口が爆発的に増加しているアフリカは、中東を凌ぐほどの生活基盤の破壊の惨状がある。アフリカもまた「日常の世界」が「戦場の世界」なのだろう。
市場開放による換金作物(プランテーションなど)への切り替えなどで、土地を失った農民が作物を作るには適さず、自然災害を誘発する土地をも農地に変えている現実がある。その土地は1年か2年しかもたずに不毛の大地となり砂漠化していく。悪循環なのであるが、生きながらえるための絶望的な選択である。そして最終的には、生きる術を失って大都市のスラムへと流れていく。
こうした惨状が反体制の過激派を生み出す温床となり、紛争の常態化へと加速させている。紛争が起きれば戦争孤児が増える。親を殺された戦争孤児は、食うや食わずのどん底の生活に突き落とされて、黒々としたニヒリズムの色に染め上げられた憎悪と絶望とを抱いて、過激派集団の兵士へと変えられていく。そして、憎悪の矛先を何処に向けるべきか誘導されていく。洗脳された兵士は、欧米への血の復讐を誓い、欧米の手先である国家権力とその仲間への無差別な復讐の心を燃え上がらせていくのだ。
朝日平吾のような、言葉の厳密な意味でのテロリズムとテロリストが、「日常の世界」に成立するものならば、現代社会における「戦場の世界」を延長させただけの「テロリズム」と「テロリスト」を、「テロリズム」と「テロリスト」と呼ぶことは適切ではないはずだ。
2001・9・11アメリカ同時多発的「テロ」の際に、ブッシュ大統領が叫んだ言葉が印象的である。「これはテロではない。戦争だ!」と叫んだのだが、核心を突いた言葉だったのだろう。
「イスラム国」は「世界の戦場化」と、「戦場の日常化」を推し進めているのかもしれない。
そうだろうか。わたしは違うと思う。「イスラム国」は図らずも、現代世界の本質が「戦場」だという真実を浮き上がらせてしまったのだと考えている。
「日常の世界」とは平和な世界であり、自由と平等と民主主義が息づく世界だとばかり思っているが、実はそれは見せかけの世界であり、マスメディアを使った情報操作によってそう信じ込まされている洗脳世界であって、真実は「戦場」の世界であり、「戦場の日常化」の世界だったのではないだろうか。
内山節は『戦争という仕事』(信濃毎日新聞社)を著しているが、現代社会の仕事の核心にあるものを、戦争に通じたものとしてみている。現代社会の労働観にも関わるものだと思うが、新自由主義という経済思想は、正しく「戦場」の世界を経済に応用した理論なのではないだろうか。
新自由主義は市場を絶対化し、その市場の意志こそが神の意志であるとするものだ。優れて一神教的な論理なのであるが、前回のブログで紹介した大塚和夫が『イスラーム主義とは何か』(岩波新書)で論じている、ナショナリズムに宿る「本質主義」に通じた論理なのである。
新自由主義の市場においては勝者と敗者しかいない。勝者は絶対的な善であり、敗者は絶対的な悪なのである。何故ならば、勝者は神によって選ばれた者だからだ。市場においては何をしようとも勝者でありさえすれば、神の意志の後ろ盾がある正義なのである。新自由主義の「市場」を「戦場」に置き換えられはしないだろうか。勝つか負けるか、殺すか殺されるかの「戦場」なのである。何をしても構わない。「戦場」においては敵を殺すことが目的のすべてであり、敵を殺すことでしか生き残れないからだ。そして、新自由主義の「市場」とは究極のニヒリズムの世界でもある。何故ならば、神の意志を「市場」に求めているが、その「市場」における行為には倫理性の欠片もないからだ。神とは名ばかりである。
こうしてみてくると、新自由主義と「イスラム国」は瓜二つではないだろうか。
わたしが「イスラム国」は、新自由主義が自ら仮面を剥ぎ取って、そのおぞましい限りの素顔のままを鏡に映したものだといった意味である。
「イスラム国」は、「市場の意志」を「アッラーの意志」に置き換えただけなのである。そして、「アッラーの意志」で自らを絶対化したものである。新自由主義が一元的な「市場の意志」を全世界に拡大していこうとするように、「イスラム国」は「アッラーの意志」を全世界へと拡大していこうとしているのだ。それは全世界の「戦場」化である。「イスラム国」をイスラーム主義とみなさないのは、欧米「近代化」に抗う葛藤の中で、イスラームによる欧米「近代化」の乗り越えという思想的営為の結果としての急進的暴力主義ではなく、最初にニヒリズムに彩られた欧米への破滅的な憎悪と敵愾心があり、それを軍事力と暴力によって実行に移す段階で、武装集団を構成する兵士の心を強固なものに結集させ、尚且つ正当化するためにイスラームの絶対的な権威を「借りた」という側面を重視するからである。
「イスラム国」を壊滅させようと、アメリカに主導された「有志連合」が連日のように空爆を行っているが、わたしは仮に「イスラム国」が壊滅し、分裂することがあったとしても、第二、第三の「イスラム国」が雨後の竹の子のように生まれると確信している。
何故ならば、空爆によって憎悪と復讐心と絶望とを増殖させているからだ。憎悪と復讐心と絶望とがいっそう激しさを増し、またニヒリズムによって黒々と彩られたおぞましい姿を現すのだろう。この世に生きてきたことを呪い、この世に生まれてきた意味と歓びを欧米という敵を抹殺することにしか見出せなくなって、憎悪と復讐心と怨念と、そして絶望とを、手榴弾にして投げつけることだろう。それをニヒリズムといわずして何と呼べばいいのだろうか。
中東世界とアフリカ世界の話しに限定することはできない。新自由主義のおぞましい姿こそが、「イスラム国」の本質だからだ。
したがって、新自由主義に毒されている欧米世界と日本、そしてアジアや中南米にも、新種の「イスラム国」が誕生することだろう。
新自由主義とは「本質主義」的な発想を蔓延させる。もう一度「本質主義」な発想を、大塚和夫の『イスラーム主義とは何か』(岩波新書)から引用してみよう。
「急進的イスラーム主義者の場合も、信仰者と不信仰者(異教徒)という友・敵二分法を採用する。さらに、ブッシュ大統領の説く『文明とテロの戦争』もまったく同型のイデオロギーである。中立的もしくは仲介者的立場を認めず、世界を素朴に友と敵とに二分する論理、それは単純であればあるほど、もっとも効果的に政治的動員を実現するものである。その点でアル=カイーダとアメリカ政府のイデオロギーは、双生児のように似ている」
ネット右翼や在特会などの思考方法は、完全にこの二分法だろう。同じ発想をする安倍晋三を熱烈に支持するのは、マスメディアを利用したイデオローグによって洗脳され、安倍晋三が熱狂的に敵と見なす勢力を、同じく熱狂的に敵と見なしているからだろう。
今やネットの時代である。「イスラム国」はネットを使った情報戦術によって、全世界にプロパガンダを行い、全世界から戦闘員を募っている。実際に、日本を含めた全世界から戦闘員を集めている。そのほとんどが若者である。中国政府でさえ、300人の中国人が「イスラム国」に戦闘員として参加していることを公表している。
こうした現象はどうして起こるのだろうか。
新自由主義によって「市場」が「戦場」となり、その「戦場」が生み出した、やり場のない憎悪と呪いが絶えず増幅されて、社会の内部へと吐き出されているからではないだろうか。
日本の超格差社会は、6人に1人の子どもを食うや食わずの貧困生活へと突き落としている。生活苦から自殺する親が後を絶たず、子どもを見捨てる親も珍しくはない。社会の内部に蠢く、そうした子どもの絶望と憎悪と呪いは何処に向けられるのだろうか。
何処に向けていいか分からないから、自暴自棄の暴力になったり、犯罪へと走ったりするのだろうが、ある日突然、「イスラム国」のプロパガンダを観て、何処に向ければいいか、自分にとっての敵は何か、閃光となって啓示されたらどうなるのだろうか。
紛争地域の親を殺されたストリートチルドレンだけではない。いわゆる先進国の社会でも同じような事態が起こっているのだ。そうした超格差社会を生み出しているのは新自由主義であり、「戦場」のニヒリズムと憎悪と絶望と怨念と、二分法的な発想を生み出し続けているのである。
二分法の発想に毒され切ったネット右翼と在特会が、敵を韓国と中国からいつ欧米に切り替え、「イスラム国」の戦士になるやも知れぬのである(笑)。
何も遠く中東の「イスラム国」に戦闘員として出向いていくことはない。日本で「イスラム国」の賛同者と名乗って自爆攻撃も有り得るのである。原発は恰好の標的になるだろう。
「イスラム国」のような蛮行は、理性が決定的に欠如しているからなされるのであり、西欧近代的な理性がないからだ、と嘯く西欧近代主義的な理性信仰論者がいるが、歴史的事実をまったく無視した発想だと思う。
ロボットで考えてみよう。
ロボットはプログラミングされているが、ロボットの下す判断は理性的であり論理的なはずだ。が、その判断はプログラムの方向へしかいかないものである。プログラムを価値観と世界観に置き換えられないだろうか。
つまり、理性は価値観と世界観によって制約を受けているのである。わたしは、理性と感情は補完関係にあり、理性が暴走するのを感情が阻止し、感情が暴走するのを理性が阻止するのだと思うが、洗脳とは感情と理性の補完関係を破壊し、ある一定の方向でしか理性が働かないようにして、理性が働いていく方向を欲望するように感情を仕向けているように思う。ニヒリズムにとっては、感情の方が厄介な存在であり、コントロールし難いのではないだろうか。
アメリカでは戦場からの帰還兵の自殺が問題になっているが、わたしは無理矢理に働かなくされていた感情の一部が甦ったからだと思う。甦った感情が、「戦場」でしてきた自分の行為を責めるからではないだろうか。その自責と悔恨と深い絶望と、そして「戦場」の狂気と恐怖の日常体験が、自分の存在と心の均衡を失わせてしまうのだ。
ナチスを出すまでもなく、身の毛がよだつほどの虐殺と蛮行を、理性は嬉々として行ってきた歴史があることを忘れてはならないだろう。
報道ステーションで、ゲストの同志社大学大学院、内藤正典教授が、「イスラム国」をモンスターだと評して、通常の論理が通じなければ、一般人の感情と感覚とは隔絶しているような意味のことを語っていたが、こうした見解は短絡的だと思う。
「イスラム国」の本質を覆い隠し、「イスラム国」が現代社会の抱える闇であり、この闇は中東世界に限定されるものではなく、全世界の問題であり、破局へと向かいつつある人類世界の問題を突きつけているということに、永遠に気づくことができなくなることだろう。
そして、「テロに屈せず、断固としてテロと戦う」という言葉が、如何に欺瞞的であり、本質から逸れたトンチンカンな言葉か気づけずに、人類が奈落の底へと転がり落ちていくことだろう。本来戦うべきは、「イスラム国」を生み出し、また日常的に「イスラム国」へと吸引されていくニヒリズムに彩られた憎悪と怨嗟と絶望の連鎖を断ち切ることなのだろう。つまり、新自由主義こそこの世から抹殺しなければならないのであり、新自由主義と戦わなくてはならないのである。
そして、紛争と戦争の撲滅だろう。対立を暴力によって解決しようとする方向性を排除していくしかない。日本の平和憲法が世界的な意味で、重要性を増してくることだろう。
新自由主義は「イスラム国」なのである。
新自由主義に人質にされた何百、何千万という無辜の民衆がいるのだ。心ある政治家ならば、この無辜の民衆を救出する使命に燃えるのが本来の姿だろう。
この人質になった無辜の民衆を如何に救い出すか、それが最大の問題であり、緊急の問題なのである。その問題をアベノミクスで解決するなどと虚言を弄する安倍晋三に任せておけないのは当然である。安倍晋三こそが新自由主義にして「イスラム国」の手先だからだ。
安倍晋三の救出策を批判せずに、何を批判するのか。安倍晋三の救出策を批判することを自重するように迫ったり、批判そのものを否定するのは愚の骨頂だろう。
次回はこのテーマの最後として、「イスラム国」とタリバーンの相違についてと、イスラーム主義の可能性と限界を、わたしの提唱する新しい保守主義である「里山主義」を通してみてみたい。