「北林あずみ」のblog

2015年01月

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 石川啄木の詩に『ココアのひと匙』がある。

 われは知る、テロリストの
 かなしき心を―
 言葉とおこなひとを分ちがたき
 ただひとつの心を、
 奪はれたる言葉のかはりに
 おこなひをもて語らむとする心を、
 われとわがからだを敵に擲げつくる心を―
 しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。

 はてしなき議論の後の
 冷さめたるココアのひと匙を啜りて、
 そのうすにがき舌触りに、
 われは知る、テロリストの
 かなしき、かなしき心を。

 大逆事件で処刑された幸徳秋水と管野須賀子を含む12名の心に想いを馳せた詩なのだろうが、奪われる側の命と、奪う側である自分の命と厳しく、そして真摯に向き合う悲哀を詩っている。
 二つの命の尊さと重さを量りにかけているのではない。同じ尊さと重さをもつ命を奪い、そして奪わなければならない哀しみを詩っているのだ。重く尊い命を奪う代わりに、自分の命を捧げる厳粛な覚悟が、啄木の心と共鳴し合っているのだろうか。テロリストをこうした行為に走らせ、社会の背後でせせら笑っているおぞましい影を、啄木の目は憤りをもって捉えている。
 わたしはテロリズムを否定する。
 が、石川啄木の『ココアのひと匙』の詩を、わたしは愛している。テロリストをばっさりと切り捨てることなく、テロリストの心を鏡にして、自分の心を映し出してみようとする姿勢が、この詩に魂として宿っているからだ。そして、ばっさりと切り捨ててしまうことで見えなくなる、テロリストを生み出す社会の奥深くに潜んでいるおぞましい化け物を見据えようとする姿勢に共感しているからだ。
 しかし、現代のテロリズムは、この啄木が『ココアのひと匙』の詩にしたテロリストの心から大きくかけ離れたものである。現代のテロリズムには、命の遣り取りをしなければならない悲哀はない。奪われる側の命と、奪う側の命の尊さと重さを等しくみる、生きとし生ける命そのものに等しく注ぐ温かな眼差しはない。敵を憎むことが、その敵の命への憎悪へと単純に結びついているのだ。だから命を奪うという罪悪感はないし、心の葛藤もない。敵の命を奪うことが正当化されるばかりか、敵の命を多く奪えば奪うほど快楽を覚え、味方から賞賛されるのである。

 日蓮宗僧侶であった井上日召が組織した「血盟団」のテロリズムは、「一人一殺」に貫かれたものであるが、命と命の厳粛な遣り取りという視点があったからだろう。
 我が師である橋川文三は、明治時代の実業家であった安田善次郎を暗殺した朝日平吾を、日本政治思想史から捉えようとしている。
 朝日平吾のテロリズムを、朝日平吾という個人史という側面とは別に、政治思想という側面から社会的背景を探ったのである。つまり、朝日平吾を生み出した時代的土壌を問題視したということである。朝日平吾は社会から隔絶した狂人でもなければ、世捨て人でもなく、ましてやモンスターでもない。社会が生み出したテロリストであり、誰もが朝日平吾になり得る時代的、そして社会的な雰囲気と土壌があったということだ。朝日平吾というテロリストに、時代と社会に蔓延していた民衆の漠とした精神的、思想的な反映をみることこそ重要なのだろう。逆にいうと、朝日平吾というテロリストを通してみることで、奥に隠れて目にすることができない、当時の時代状況が抱えていた真実の姿を、浮かび上がらせることができるのだろう。

 現代社会の中のテロリストとテロリズムはどうだろうか。
 わたしは朝日平吾の意味で、政治思想史としての意味はないと思っている。
 テロリズムとは、日常の社会において行われるものを想定している。「戦場」において行われる行為は、テロリズムではない。また敵の兵士を殺す者をテロリストとはいわない。つまり、戦争の中では殺人行為が目的化しているのであり、その殺人行為そのものに思想的な意味はない。開戦する思想的意味はあるだろうし、開戦した戦争に思想的意味はあることは否定しない。
 が、戦争の中で行われる殺人行為に思想的意味はないはずだ。意味などあったら殺人が行えない。殺人することに葛藤と疑問があってはならないのだ。敵兵を殺すことは絶対的に回避できないものであり、正しい行為だ、という意識に貫かれており、人殺しが日常化した世界なのである。
 日本の国家主義者は、特攻隊を散華になぞらえて美化する。
 一方では、中東世界で常態化している自爆テロを悪し様に罵倒する。
 どこに差異があるのだろうか。中東世界では女、子どもまでが自爆テロを行うのである。厳かに別れの水盃をかわし、凜々しい姿でゼロ戦に乗り込んで、「日本国、万歳!」といって敵艦に体当たりする姿を、散りゆく桜の花の儚さと華やかさに無理矢理に重ね合わせて、日本的美意識としての死として讃美するのであろうが、わたしからみると国家によって無理強いされ洗脳された、おぞましくも惨い自爆死としか思えない。
 特攻隊に思想的な意味はない。日常化した「戦場」での死でしかないからだ。武士道とは無縁であり、ましてや散りゆく桜の花の美とも無縁だ。武士道とは優れて日本的だと思われているが、西欧にも騎士道がある。西欧社会で、武士道が日本文化の特質のような印象が蔓延しているのは、騎士道を通してみているからだろう。
 壇ノ浦の源平の合戦をみれば明らかだろう。現代における戦場とは別世界だ。誤解を恐れずにいえば、優雅ささえ感じられる。海に浮かんだ舟の扇を矢で射貫く儀式的な遊びまでがある。
 敵の武将と戦場で相まみえ、一騎打ちする前には口上まで交わすのだ。そこにあるのは、敵の武将の命と、己の命との厳粛な遣り取りという発想だろう。テロリストの心に通じているともいえよう。
 江戸時代には敵討ちと仇討ちが認められていた。そして、親の敵を討つ子の姿に、ある種の倫理性と美意識のようなものを見出していたのである。この観点からみれば、特攻隊よりも戦争で親を殺されたアラブ世界の子どもの自爆テロの方が、どれほど武士道に近いかしれない。特攻隊は単なる自動誘導される爆弾の代わりでしかないのではないだろうか。

 わたしは「イスラム国」を、イスラーム主義とは認めていない。
 理由は簡単である。「戦場」の世界の論理であり、「戦場」の世界の申し子だからだ。「戦場」にあっては敵を殺すことが目的化したものであり、その人殺しに意味はないし、当然に思想もない。そして、敵と味方という二分法の世界である。敵は絶対的な悪であり、味方は絶対的な正義なのである。
 したがってテロリズムという側面からみれば、「イスラム国」の行うテロとは、言葉の厳密な意味でのテロリズムとは違い、「戦場」における殺人行為の延長なのである。
 欧米諸国と日本、そして経済成長著しいアジアの諸国にとって、日常の世界を「戦場」とはみなさないが、「イスラム国」にとっては「戦場」なのである。「日常の世界」と「戦場の世界」とのギャップが、「イスラム国」の行為を野蛮で無慈悲で、そして残酷で醜悪なものとして「日常の世界」に生きている人々の目に映るのだろう。
 が、「イスラム国」の行為が「戦場」のものとしたら違った様相に見えてくるはずだ。戦場とは爆撃で胴体から吹き飛んだ首が転がっている世界である。子どもも女も無差別だ。イスラエルが行った空爆で死んだ子ども達の死体を写した写真があるが、「イスラム国」が人質の切り落とした首を弄んでいるのと、大して変わりはない。第二次世界大戦における歴史的な事実が、戦場における狂気としての兵士の残虐な行為を余すところなく突きつけている。日本軍の将校が軍刀で、どちらが多くの中国人の首を切り落とせるか笑い顔で競い合っている写真は衝撃的であるが、こうした「日常の世界」では狂気でしかない行為が、「戦場の世界」では正常なのである。敵兵に温情を覚え密かに逃がしたりすることが、「戦場の世界」では異常な行為なのであり、軍法会議にかけられて処刑されるのだ。

 紛争の絶えない中東は、「日常の世界」が「戦場の世界」なのである。人口が爆発的に増加しているアフリカは、中東を凌ぐほどの生活基盤の破壊の惨状がある。アフリカもまた「日常の世界」が「戦場の世界」なのだろう。
 市場開放による換金作物(プランテーションなど)への切り替えなどで、土地を失った農民が作物を作るには適さず、自然災害を誘発する土地をも農地に変えている現実がある。その土地は1年か2年しかもたずに不毛の大地となり砂漠化していく。悪循環なのであるが、生きながらえるための絶望的な選択である。そして最終的には、生きる術を失って大都市のスラムへと流れていく。
 こうした惨状が反体制の過激派を生み出す温床となり、紛争の常態化へと加速させている。紛争が起きれば戦争孤児が増える。親を殺された戦争孤児は、食うや食わずのどん底の生活に突き落とされて、黒々としたニヒリズムの色に染め上げられた憎悪と絶望とを抱いて、過激派集団の兵士へと変えられていく。そして、憎悪の矛先を何処に向けるべきか誘導されていく。洗脳された兵士は、欧米への血の復讐を誓い、欧米の手先である国家権力とその仲間への無差別な復讐の心を燃え上がらせていくのだ。

 朝日平吾のような、言葉の厳密な意味でのテロリズムとテロリストが、「日常の世界」に成立するものならば、現代社会における「戦場の世界」を延長させただけの「テロリズム」と「テロリスト」を、「テロリズム」と「テロリスト」と呼ぶことは適切ではないはずだ。
 2001・9・11アメリカ同時多発的「テロ」の際に、ブッシュ大統領が叫んだ言葉が印象的である。「これはテロではない。戦争だ!」と叫んだのだが、核心を突いた言葉だったのだろう。
「イスラム国」は「世界の戦場化」と、「戦場の日常化」を推し進めているのかもしれない。
 そうだろうか。わたしは違うと思う。「イスラム国」は図らずも、現代世界の本質が「戦場」だという真実を浮き上がらせてしまったのだと考えている。
「日常の世界」とは平和な世界であり、自由と平等と民主主義が息づく世界だとばかり思っているが、実はそれは見せかけの世界であり、マスメディアを使った情報操作によってそう信じ込まされている洗脳世界であって、真実は「戦場」の世界であり、「戦場の日常化」の世界だったのではないだろうか。
 内山節は『戦争という仕事』(信濃毎日新聞社)を著しているが、現代社会の仕事の核心にあるものを、戦争に通じたものとしてみている。現代社会の労働観にも関わるものだと思うが、新自由主義という経済思想は、正しく「戦場」の世界を経済に応用した理論なのではないだろうか。
 新自由主義は市場を絶対化し、その市場の意志こそが神の意志であるとするものだ。優れて一神教的な論理なのであるが、前回のブログで紹介した大塚和夫が『イスラーム主義とは何か』(岩波新書)で論じている、ナショナリズムに宿る「本質主義」に通じた論理なのである。
 新自由主義の市場においては勝者と敗者しかいない。勝者は絶対的な善であり、敗者は絶対的な悪なのである。何故ならば、勝者は神によって選ばれた者だからだ。市場においては何をしようとも勝者でありさえすれば、神の意志の後ろ盾がある正義なのである。新自由主義の「市場」を「戦場」に置き換えられはしないだろうか。勝つか負けるか、殺すか殺されるかの「戦場」なのである。何をしても構わない。「戦場」においては敵を殺すことが目的のすべてであり、敵を殺すことでしか生き残れないからだ。そして、新自由主義の「市場」とは究極のニヒリズムの世界でもある。何故ならば、神の意志を「市場」に求めているが、その「市場」における行為には倫理性の欠片もないからだ。神とは名ばかりである。

 こうしてみてくると、新自由主義と「イスラム国」は瓜二つではないだろうか。
 わたしが「イスラム国」は、新自由主義が自ら仮面を剥ぎ取って、そのおぞましい限りの素顔のままを鏡に映したものだといった意味である。
「イスラム国」は、「市場の意志」を「アッラーの意志」に置き換えただけなのである。そして、「アッラーの意志」で自らを絶対化したものである。新自由主義が一元的な「市場の意志」を全世界に拡大していこうとするように、「イスラム国」は「アッラーの意志」を全世界へと拡大していこうとしているのだ。それは全世界の「戦場」化である。「イスラム国」をイスラーム主義とみなさないのは、欧米「近代化」に抗う葛藤の中で、イスラームによる欧米「近代化」の乗り越えという思想的営為の結果としての急進的暴力主義ではなく、最初にニヒリズムに彩られた欧米への破滅的な憎悪と敵愾心があり、それを軍事力と暴力によって実行に移す段階で、武装集団を構成する兵士の心を強固なものに結集させ、尚且つ正当化するためにイスラームの絶対的な権威を「借りた」という側面を重視するからである。

「イスラム国」を壊滅させようと、アメリカに主導された「有志連合」が連日のように空爆を行っているが、わたしは仮に「イスラム国」が壊滅し、分裂することがあったとしても、第二、第三の「イスラム国」が雨後の竹の子のように生まれると確信している。
 何故ならば、空爆によって憎悪と復讐心と絶望とを増殖させているからだ。憎悪と復讐心と絶望とがいっそう激しさを増し、またニヒリズムによって黒々と彩られたおぞましい姿を現すのだろう。この世に生きてきたことを呪い、この世に生まれてきた意味と歓びを欧米という敵を抹殺することにしか見出せなくなって、憎悪と復讐心と怨念と、そして絶望とを、手榴弾にして投げつけることだろう。それをニヒリズムといわずして何と呼べばいいのだろうか。
 中東世界とアフリカ世界の話しに限定することはできない。新自由主義のおぞましい姿こそが、「イスラム国」の本質だからだ。
 したがって、新自由主義に毒されている欧米世界と日本、そしてアジアや中南米にも、新種の「イスラム国」が誕生することだろう。
 新自由主義とは「本質主義」的な発想を蔓延させる。もう一度「本質主義」な発想を、大塚和夫の『イスラーム主義とは何か』(岩波新書)から引用してみよう。

「急進的イスラーム主義者の場合も、信仰者と不信仰者(異教徒)という友・敵二分法を採用する。さらに、ブッシュ大統領の説く『文明とテロの戦争』もまったく同型のイデオロギーである。中立的もしくは仲介者的立場を認めず、世界を素朴に友と敵とに二分する論理、それは単純であればあるほど、もっとも効果的に政治的動員を実現するものである。その点でアル=カイーダとアメリカ政府のイデオロギーは、双生児のように似ている」

 ネット右翼や在特会などの思考方法は、完全にこの二分法だろう。同じ発想をする安倍晋三を熱烈に支持するのは、マスメディアを利用したイデオローグによって洗脳され、安倍晋三が熱狂的に敵と見なす勢力を、同じく熱狂的に敵と見なしているからだろう。
 今やネットの時代である。「イスラム国」はネットを使った情報戦術によって、全世界にプロパガンダを行い、全世界から戦闘員を募っている。実際に、日本を含めた全世界から戦闘員を集めている。そのほとんどが若者である。中国政府でさえ、300人の中国人が「イスラム国」に戦闘員として参加していることを公表している。
 こうした現象はどうして起こるのだろうか。
 新自由主義によって「市場」が「戦場」となり、その「戦場」が生み出した、やり場のない憎悪と呪いが絶えず増幅されて、社会の内部へと吐き出されているからではないだろうか。
 日本の超格差社会は、6人に1人の子どもを食うや食わずの貧困生活へと突き落としている。生活苦から自殺する親が後を絶たず、子どもを見捨てる親も珍しくはない。社会の内部に蠢く、そうした子どもの絶望と憎悪と呪いは何処に向けられるのだろうか。
 何処に向けていいか分からないから、自暴自棄の暴力になったり、犯罪へと走ったりするのだろうが、ある日突然、「イスラム国」のプロパガンダを観て、何処に向ければいいか、自分にとっての敵は何か、閃光となって啓示されたらどうなるのだろうか。
 紛争地域の親を殺されたストリートチルドレンだけではない。いわゆる先進国の社会でも同じような事態が起こっているのだ。そうした超格差社会を生み出しているのは新自由主義であり、「戦場」のニヒリズムと憎悪と絶望と怨念と、二分法的な発想を生み出し続けているのである。
 二分法の発想に毒され切ったネット右翼と在特会が、敵を韓国と中国からいつ欧米に切り替え、「イスラム国」の戦士になるやも知れぬのである(笑)。
 何も遠く中東の「イスラム国」に戦闘員として出向いていくことはない。日本で「イスラム国」の賛同者と名乗って自爆攻撃も有り得るのである。原発は恰好の標的になるだろう。

「イスラム国」のような蛮行は、理性が決定的に欠如しているからなされるのであり、西欧近代的な理性がないからだ、と嘯く西欧近代主義的な理性信仰論者がいるが、歴史的事実をまったく無視した発想だと思う。
 ロボットで考えてみよう。
 ロボットはプログラミングされているが、ロボットの下す判断は理性的であり論理的なはずだ。が、その判断はプログラムの方向へしかいかないものである。プログラムを価値観と世界観に置き換えられないだろうか。
 つまり、理性は価値観と世界観によって制約を受けているのである。わたしは、理性と感情は補完関係にあり、理性が暴走するのを感情が阻止し、感情が暴走するのを理性が阻止するのだと思うが、洗脳とは感情と理性の補完関係を破壊し、ある一定の方向でしか理性が働かないようにして、理性が働いていく方向を欲望するように感情を仕向けているように思う。ニヒリズムにとっては、感情の方が厄介な存在であり、コントロールし難いのではないだろうか。
 アメリカでは戦場からの帰還兵の自殺が問題になっているが、わたしは無理矢理に働かなくされていた感情の一部が甦ったからだと思う。甦った感情が、「戦場」でしてきた自分の行為を責めるからではないだろうか。その自責と悔恨と深い絶望と、そして「戦場」の狂気と恐怖の日常体験が、自分の存在と心の均衡を失わせてしまうのだ。
 ナチスを出すまでもなく、身の毛がよだつほどの虐殺と蛮行を、理性は嬉々として行ってきた歴史があることを忘れてはならないだろう。

 報道ステーションで、ゲストの同志社大学大学院、内藤正典教授が、「イスラム国」をモンスターだと評して、通常の論理が通じなければ、一般人の感情と感覚とは隔絶しているような意味のことを語っていたが、こうした見解は短絡的だと思う。
「イスラム国」の本質を覆い隠し、「イスラム国」が現代社会の抱える闇であり、この闇は中東世界に限定されるものではなく、全世界の問題であり、破局へと向かいつつある人類世界の問題を突きつけているということに、永遠に気づくことができなくなることだろう。
 そして、「テロに屈せず、断固としてテロと戦う」という言葉が、如何に欺瞞的であり、本質から逸れたトンチンカンな言葉か気づけずに、人類が奈落の底へと転がり落ちていくことだろう。本来戦うべきは、「イスラム国」を生み出し、また日常的に「イスラム国」へと吸引されていくニヒリズムに彩られた憎悪と怨嗟と絶望の連鎖を断ち切ることなのだろう。つまり、新自由主義こそこの世から抹殺しなければならないのであり、新自由主義と戦わなくてはならないのである。
 そして、紛争と戦争の撲滅だろう。対立を暴力によって解決しようとする方向性を排除していくしかない。日本の平和憲法が世界的な意味で、重要性を増してくることだろう。

 新自由主義は「イスラム国」なのである。
 新自由主義に人質にされた何百、何千万という無辜の民衆がいるのだ。心ある政治家ならば、この無辜の民衆を救出する使命に燃えるのが本来の姿だろう。
 この人質になった無辜の民衆を如何に救い出すか、それが最大の問題であり、緊急の問題なのである。その問題をアベノミクスで解決するなどと虚言を弄する安倍晋三に任せておけないのは当然である。安倍晋三こそが新自由主義にして「イスラム国」の手先だからだ。
 安倍晋三の救出策を批判せずに、何を批判するのか。安倍晋三の救出策を批判することを自重するように迫ったり、批判そのものを否定するのは愚の骨頂だろう。

 次回はこのテーマの最後として、「イスラム国」とタリバーンの相違についてと、イスラーム主義の可能性と限界を、わたしの提唱する新しい保守主義である「里山主義」を通してみてみたい。

 
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 中東におけるイスラーム世界には、言語と習慣が異なる、アラブ、トルコ、イランの三つの民族がある。
 が、イスラームとは「本来、国や人種、民族、経済的格差を超えたムスリムの相互扶助や団結を教える宗教」(宮田律著『現代イスラムの潮流』集英社新書)という側面がある。実際に、民族の相違を乗り越えて、イスラーム世界が統一し団結して、イスラーム世界全体の繁栄を目差す「汎イスラーム主義」という思想が存在している。
 イスラーム世界に、民族への強い帰属意識と、国家の概念を持ち込んだのは、西欧による植民地政策によってであった。それはつまり、イスラーム世界の中に民族、及び国家の競合と対立とを生み出す種を蒔いたということである。
 オスマン帝国の解体過程で、イギリスとフランスが、アラブ地域を植民地統治するために分割して誕生したのが、定規で引いたような奇妙な国境線を持つ、イラク、ヨルダン、シリア、レバノンである。民族と宗派の違いはお構いなしであり、民族と宗派の分断など考慮の外だった。要は、イギリスとフランスの強欲な経済的損得勘定と、駆け引きの末に押しつけられた屈辱的な境界線だったのである。
 皮肉なことに、西欧から持ち込まれたナショナリズムと民族自決主義の思想が、イスラーム世界に、反植民地主義(イギリスとフランスへの抵抗運動)の機運を昂揚させ、民族独立国家の樹立を渇望させる引き金になったのである。が、一方ではイスラーム世界に、民族と宗派の違いによる反目と憎悪という色で染め上げられた、複雑なモザイク模様を作り上げたのである。

 大塚和夫は、イスラーム社会に影響を及ぼしたナショナリズムの深層的な意味を、「本質主義」という用語を使って考察している。
 わたしは前回のブログで、ナショナリズムは近代になって国民国家が形成されるに付随したものとして誕生したと述べたが、大塚は「ナショナリストの思想は、ネイションという『想像の共同体』を『本質主義的』に把握している」(『イスラーム主義とは何か』岩波新書)と論じた後で、「『本質主義』に基づく集団把握の最小限の定義」として「時代に左右されない本質的特徴を昔から変わらずに保持してきたという信念をもっている」ことだとしている。
 そして、この最小限の定義から派生して、「国民=民族の本質的な特性の維持をスローガンに掲げ、明確な国籍によって定められた有資格者のみを対象に、国民の一致団結に基づいて外部からの脅威に立ち向かおうとするナショナリズム・イデオロギー」には、「自己と他者との集団帰属は排他的に決定」され、「一枚岩的な国民の創出」という特性を持っているとしている。
 更に極端になると、「外部から浸食してくる『異物』を徹底的に排除し、内部における『純化』」をはかり、「異物をもたらす外部者がいたならば集団から排斥し、また内通者の場合には『裏切り者』(非国民)として抹殺する」としている。
 大塚和夫は、このナショナリズム・イデオロギーにおける本質主義的な集団把握が、急進的イスラーム主義に、より硬直化し排他性を強めた姿で影を落としているとしている。つまり、急進的ナショナリズムと急進的イスラーム主義とは、「世俗的か宗教的かという思想内容面では異なっていても、形式論理面ではかなり類似している」(同上)と指摘しているのだ。
 大塚和夫は本質主義的な集団把握の政治的意味を「敵=他集団とは明確に区別された友=自集団の不変の本質的特徴を確定し、友と敵との境界線を鮮明化し、内部の一枚岩的団結を鼓吹し、時にはそれを阻害する内部の敵を排除する。近代以前のような専門戦士、傭兵や騎士・武士などに頼ることなく、愛国心をかきたてて国民を総動員して外国の敵にあたらせるためには、本質主義の硬いヴァージョンに基づくナショナリズムは、きわめて有効な戦闘的イデオロギーとなる」(同上)としている。
 興味深い指摘であり、示唆的な指摘である。
 急進的になればなるほど、つまり極端になればなるほど、思想の核心が浮き彫りになってしまうのである。ナショナリズムとは西欧近代主義のイデオロギーである。急進的イスラーム主義とは、西欧近代主義のイデオロギーである急進的ナショナリズムの姿を、鏡に映し出したものだといえないだろうか。極左暴力主義と極右暴力主義とが、ほとんど紙一重で区別ができないが、どちらも西欧近代主義の産物だからではないだろうか。
 イスラーム主義とは、イスラーム世界が西欧的「近代化」を強要される過程で、西欧的「近代化」への反作用(反発・抵抗)として生まれたものだという側面は優れて重要な問題である。その反作用とは、西欧的「近代化」をイスラームという鏡に映したものであったという側面を忘れてはならないだろう。したがってイスラーム主義は、西欧近代主義の鬼子であるナショナリズムの影を引き摺っているのだ。

 大塚和夫は、エジプトのムスリム同胞団を論じる中で鋭い指摘をしている。
「同胞団は、イギリスの植民地主義の支配体制がもっとも濃厚に見られたイスマ―イーリーヤ市でそれに反発する形で誕生した。そしてその主張の中には、強い『反帝国主義』の傾向もあった。その意味において、同胞団は外国支配勢力のエジプトからの撤退を求めるナショナリズムに類似した思想をもつ運動であったといえよう。
 実際、同胞団のイデオロギーによれば、ある種のナショナリズムは肯定的に評価されている。それは、『ムスリムの住む土地』としてのエジプト、そして『イスラームの民』としてのアラブ、これらを愛しこれらに忠誠を誓うという種類のナショナリズムである。したがって、それらが外部勢力からの攻撃にさらされた場合、その防衛にあたることは『宗教的義務』となる。すなわち、肯定されるべきは、イスラームを重視したナショナリズムということになる。
 しかし、二〇世紀前半において、エジプトをはじめとするアラブ世界で広く普及していたのは、このような宗教色を濃厚に持ったナショナリズムではなかった。(略)西洋モデルに従ったものである。すなわち、宗教色を否定するか、それを後景に退け、非宗教的ネイション構成原理(共通の郷土、言語・文化、『先祖』とそれに連なる歴史意識など)を基盤にした、『世俗的』ナショナリズムであった。(中略)
 ムスリム同胞団は、このような宗教的要素を軽視したナショナリズムを否定する。それというのも、世俗的ナショナリストは非宗教的要素によって定義されたネイションの実在を認め、それへの忠誠を誓うからである。その結果、彼らはネイションという新たな『偶像』を作ってそれを崇拝するようになる。つまりムスリム同胞団によれば、ナショナリズムはアッラー以外の存在を崇拝することになり、イスラームが厳禁する『多神教』に匹敵するものになる」(『イスラーム主義とは何か』岩波新書)という指摘であるが、イスラーム主義の一つであるムスリム同胞団の思想にナショナリズムの影をみている。
 それだけではない。唯一にして絶対的なアッラーの神に代わる国家という神を崇める偶像崇拝がナショナリズムであり、つまりはアッラーと国家という二つの神が存在する多神教になる、というムスリム同胞団の批判を強調しているのである。
 唯一にして絶対的な神であるアッラーを信じるムスリム同胞団だからこそ見えた、ナショナリズムの本質なのではないだろうか。
 わたしは西欧近代主義の鬼子であるナショナリズムに、一神教であるキリスト教の本質をみているのだ。
 明治維新政府が民心を掌握するための国家の統治装置の核として国家神道を据えたが、その国家神道には平田篤胤の神学が下敷きになっているとされている。が、明らかに変質されている。変質というよりは革命的転換なのだ。それは国家を神とする一神教としての神道への革命的作為なのである。神道革命といわれる所以である。
 この神道革命は、一神教であるキリスト教の反映とされている。縄文時代の古代神道が、律令国家体制によって政権を正当化する国家神道に作り替えられた(一回目の神道革命)歴史があるが、それでも多神教的神道であった。
 安倍晋三に代表される国家主義者は、あたかも国家神道が日本の歴史と伝統と文化に起源をもち、その精神そのもののような勝手な解釈をしているが、明治維新政府が作り出したおぞましい姿の国家神道とは、西欧近代化の産物であったのである。
 ナショナリズムの核にある「本質主義」の醜悪な姿が投影されているのである。
 余談になるが、大塚和夫はナショナリズムにおける「本質主義」と関連して、「急進的イスラーム主義者の場合も、信仰者と不信仰者(異教徒)という友・敵二分法を採用する。さらに、ブッシュ大統領の説く『文明とテロの戦争』もまったく同型のイデオロギーである。中立的もしくは仲介者的立場を認めず、世界を素朴に友と敵とに二分する論理、それは単純であればあるほど、もっとも効果的に政治的動員を実現するものである。その点でアル=カイーダとアメリカ政府のイデオロギーは、双生児のように似ている」と断じている。核心を突いた面白い指摘である。
 安倍晋三の政治的発想と発言は、「世界を素朴に友と敵とに二分する論理」そのものだといえないだろうか。
 この「本質主義」については、標題のテーマである「イスラム国」の本質を語るときに、改めて論じることにする。

 忘れてはならないのは、ナショナリズムには二面性があるということだ。
 反植民地運動であり民族解放闘争の原動力としてのナショナリズムと、国家権力による統治装置としてのナショナリズムという二面性である。いわゆる「下からの」ナショナリズムと、「上からの」ナショナリズムと言われるものだが、「下からの」ナショナリズムは、処女的ナショナリズムとも表現され、わたしの師である橋川文三と竹内好は、ナショナリズムの可能性として積極的に肯定している。驚くことに丸山真男も好意的である。わたしはナショナリズムそのものを否定している。
 日本の明治維新革命は、支配階級である武士階級によるものであり、「上からの」ナショナリズムであり、そのまま国家権力が統治装置として利用したものであるが、アジアやイスラーム世界においては、ナショナリズムは反植民地運動と民族解放運動、そして独立運動の様相をみせている。
 しかし、植民地から解放されて独立が達成された後に、ナショナリズムはどうなるだろうか。体制内に抱きかかえられて、国家権力の統治装置として機能させられるのではないだろうか。そして、反体制派を排除する方向に働き始めるのである。
 イスラーム世界におけるナショナリズムも例外でない。
 反英愛国の自由将校団を組織したナセルは、クーデターを起こして政権を奪取し、汎アラブ主義(アラブ・ナショナリズム)を唱えてアラブ民族の統一を掲げたが、イスラエルとの第三次中東戦争の敗北によって壊滅的な打撃を受けると、汎アラブ主義は急激に衰退して、一国ナショナリズムへと方向転換し、1970年にナセルが死亡すると、後継者であるサダト政権におけるナショナリズムは、体制を維持していくための統治装置でしかなくなった。
 ナショナリズムは反植民地運動と民族解放運動の局面では、外に向かっては西欧支配体制への抵抗運動となり、内に向かっては傀儡政権の打倒転覆に働くが、独立が成って政権を奪取すると、逆に内部的な変革を志向する勢力を抑圧する意志を示すようになる。
 外への対応も当然に変わってくる。権力者にとってメリットがあれば、かつての植民地支配国であったイギリスとフランスとも友好関係を結ぶし、アラブの共通の敵であるはずのイスラエルとも取引をするし、アメリカとも連携するのである。
 国家体制は世俗的な西欧近代法による統治を行い、イスラームを公的領域から排除して私的領域へと追いやって、政教分離政策を推し進めていく。こうした方向に抵抗すべき伝統的な宗教的権威者が、あろうことか、体制内に抱きかかえられて癒着している現実までがある。上からの西欧モデルによる普遍的「近代化」であり、「脱イスラーム」といえるのだろう。
 この現象は西欧的近代化が資本主義ではなく、社会主義によって行われたとしても変わりはない。軍事クーデターに成功したナセルは民族主義的な社会主義の国家体制を敷いたが、上からの西欧モデルによる普遍的「近代化」であり、「脱イスラーム」であることに変わりはない。

 こうした西欧モデルによる「近代化」と「脱イスラーム」化の進行の過程で、権力の中枢にいる政治家と官僚と軍部、そして王族が利権に塗れ、汚職に手を染めて、徐々に腐敗を強めていったとしたらどうだろうか。また、市場開放的(新自由主義的な市場開放)な経済政策によって貧富の格差が極端に広がり、都市にはスラム街が出現して、職につけない若者たちが街に溢れているとしたらどうだろうか。治安の悪化はいうまでもない。
 反国家体制の気運が高まるのは当然だろう。

 イスラーム世界における反体制運動を考える上で、重要な歴史的分岐点になるのは、汎アラブ主義を掲げ、第三世界の希望の星であったエジプトのナセルが主導してイスラエルとの間で戦われた、1967年の第三次中東戦争の敗北だろう。エジプトとシリア、そしてヨルダンからなる連合軍が、イスラエルにたった6日間で撃破されるという信じられないような事実が、イスラーム世界に与えた衝撃は計り知れない。
 それまでのイスラーム世界の在り方が根底から否定されたに等しい衝撃であるが、汎アラブ主義が急激に衰えてナショナリズムが一国へと収斂していくことと相まって、急激な反体制運動へと発展していったのだろう。
 反体制運動を支えた思想は混沌としている。その混沌こそが、西欧的「近代化」がイスラーム世界にもたらした複雑なモザイク状をした悲劇なのかもしれない。
 先ずは、西欧近代主義の思想である自由主義と民主主義による抵抗運動が考えられる。いわゆる民主化運動であり、下からの西欧モデルによる普遍的「近代化」という現象であが、上からの普遍的「近代化」が不徹底であるから、社会的な矛盾が噴出したのだという認識が根底にあるのだろう。

 次に、これも西欧的近代主義の思想になるが、社会主義による反体制運動である。
 ナセルはエジプト独自の民族主義的社会主義の国家体制をとっていたが、社会主義による反体制運動は、ナセルの社会主義体制が不完全だった結果が、第三次中東戦争の敗北だという認識を出発点にしている。軍事クーデター(革命)で掌握した国家権力は、プチ・ブルジョワジーのものであり、プロレタリアート独裁には至っていなかったという批判的分析によって、徹底的な社会主義革命を標榜する思想運動という性格がある。
 急進的であるのは当然であるが、アラブ世界における社会主義思想を急進化させたのは、イスラエルによって不当に占拠されたパレスチナの解放闘争と結びついた経緯が考えられる。パレスチナの解放闘争を、世界同時革命とリンクさせた戦略をもっていた、日本の連合赤軍まで合流したことからみても明らかだろう。
 こうしたアラブ世界の社会主義化を最も恐れたのはアメリカである。またアメリカはユダヤ社会の影響を無視できない国家でもある。権力中枢部までユダヤ社会の意志が入り込んでいる。当然に、イスラエルへの全面的な支援になることは論じるまでもない。
 アラブ世界を植民地支配したのはイギリスとフランスであり、反植民地闘争は主としてこの二カ国に対してだったのであるが、第二次世界大戦後は、ソ連との冷戦体制にあったアメリカが、中東での社会主義化を阻止するためと、原油利権とを求めて、CIAを使った謀略によって反体制派の弾圧に露骨に関与したり、国家体制をアメリカの傀儡政権化へと画策したりしたのである。そしてアメリカが、アラブ世界の共通の敵であるイスラエルを軍事的にも経済的にも全面的に支援していたことから、反米感情が反欧感情を凌ぐまでになっていったのだ。

 西欧近代主義の借り物の思想による反国家体制運動がある一方で、西欧的「近代化」が諸悪の根源であり、イスラームに回帰することこそが、社会秩序と社会の平安と繁栄を約束してくれるものだという意識が芽生え、イスラームに救いを求めるのは、イスラームを信じる敬虔なムスリムの社会であれば自然なことだ。その象徴が社会的、そして文化的な現象である「イスラーム復興」なのだろう。
 この「イスラーム復興」という社会的土壌に花開いた政治的思想が、イスラーム主義なのである。
 前回のブログで述べたように、最大の特徴は宗教と政治の一体化である。上からの西欧「近代化」における政教分離を裏返したものであり、「近代化」以前のイスラーム社会の姿を反映したものであるが、政治的な意味での反西欧的「近代化」に「対抗する」思想という位置づけが重要だろう。つまり、イスラーム世界が西欧的「近代化」を遂げる過程で露呈してきた、貧富の格差のなどの社会的矛盾と社会的不安と混乱の中から、それを是正しようとして表出してきた思想なのである。その意味では、イスラーム世界における「近代化」が生み出した思想だといえるだろう。
 より具体的に、宮田律が『現代イスラムの潮流』(集英社新書)で論じている。長くなるが、イスラーム主義(宮田はイスラム政治運動と呼んでいる)を知る手がかりとして当該する箇所を抜粋する。

「イスラム政治運動は一様にイスラム法であるシャーリアを法体系とするイスラム国家の樹立を訴える。コーランや預言者ムハンマドに関わる伝承(ハディース)を基に成立したイスラム法は、政治、社会、経済などあらゆる人間生活の分野に及び、それが人間社会を支配している限り、この世に正義や平等がもたらされるというのが、イスラム政治運動家たちの考えだ。
 すなわち、人間はイスラム法に従って生きていけば、正義の道からはずれることはなく、現在あるムスリム社会の[病弊]を改善し、ムスリムが社会的・経済的な幸福や、宗教的満足感を得られるものとイスラム政治運動家たちは思っている。
 特に、イスラム政治運動家たちのイスラム法に関する認識は重要だ。イスラム世界では近代化の過程で、イスラム法に代わってヨーロッパ法が導入された。そしてヨーロッパの世俗的法律がもたらされた結果、イスラムによる政治や社会の倫理基準が希薄となり、イスラム世界の弱体化がもたらされたと彼らは考えている。つまりムスリムたちが生きていく指針を喪失し、イスラム世界はまさに[背骨]を失った状態になった。イスラム世界がその輝きを失ったのは、イスラム法を喪失するなどイスラムの真の信仰からの逸脱であり、また欧米の物質主義のイデオロギーや価値を模倣した結果なのだ。
 イスラム政治運動家たちは、ムスリムが正しい信仰に立ち帰るならば、彼らの社会は安寧や秩序をとり戻すことができると思っている。イスラム法はムスリムにとって包括的な規範であり、イスラム法を守って生きるということは、神の教えに従うことなのだ。イスラム政治運動にあるのは、イスラムという宗教に対する揺るぎない信頼や確信といえ、イスラムの倫理や価値に準じた生き方をすれば、ムスリムは精神的にも物質的にも満ち足りた生活が送れると考えるようになった」

 何度もいうが、イスラーム主義は、伝統的なイスラーム社会へと回帰しようとする、単なる復古運動ではない。反欧米の思想であり、西欧的「近代化」をイスラームによって克服しようとする思想であり、同時に、反体制運動という内部変革を目差す思想なのである。
 イスラーム主義を担う社会的階層を見てみると、はっきりとしてくる。
 大塚和夫は、エジプトのムスリム同胞団の構成階層を分析して、「「二〇世紀前半のエジプトにおいて、エフェンディと呼ばれる社会階層が存在していた。それは比較的高学歴で官僚や専門職(教師も含む)についた者であり、西欧近代的な価値観や生活様式にある程度の共感を示す人びとであった。(中略)
 ムスリム同胞団の運動は、下層階層の人びとを大量動員したとはいえ、その中核的なメンバーにはエフェンディ層がかなりの割合を占めていたのである。そしてその事実は、この運動が伝統的イスラームを担った人びと、すなわちアズハル人に代表されるウラマーとは異なった社会的基盤から生まれてきたことを示唆している」と論じている。
 伝統的な宗教的権威者によるイスラームの解釈という檻から、イスラームを開放したのであり、西欧的「近代化」に対抗する思想の可能性と精神と、腐敗した政治体制を内部から変革するための思想の核となるものをイスラームに求めたのである。それが可能だったのは、伝統的な宗教者とは違った近代的な教育を受けた、西欧近代主義に精通したモダニストだったからだろう。
 そして、欧米の資本主義に市場を開放する経済政策によって、イスラームの社会に貧富の格差が広がっていくが、一番に打撃を受けた階層がエフェンディなどの中間層であったということも重要である。社会が高学歴化すればするほど問題は深刻となる。イスラーム主義が徐々に急進的な思想へと傾斜していくのは、社会的な矛盾の深まりと無関係ではないだろう。

 イスラームには、内部変革的な考えと運動があった。
 18世紀から19世紀にかけてのワッハーブ運動であるが、その運動の原動力となった不信仰者宣告思想(タクフィール)というものがある。この急進性は、「それまでのムスリム/非ムスリムの境界線を無効にし、新たに設定された基準のもとでそれを引き直すことにある。それによって『真正な』イスラームが定義し直され、それに従わない者の処刑も許可される。その意味でこれは『革新性』を持つイデオロギーなのである」と、大塚和夫は『イスラーム主義とは何か』(岩波新書)で語っている。
 腐敗したムスリムの国家体制を打倒する正当性を与える思想ではあるが、歯止めが利かなくなれば無限に拡大解釈される暴力主義でしかなくなる。
 イスラームにはこの不信仰者宣告思想(タクフィール)の他にも、「剣のジハード」という思想もある。この思想も諸刃の剣である。
 大塚和夫は良心的なイスラーム主義者の苦悩を共有している。おそらく大塚和夫の良心は、苦悩するイスラーム主義者の良心と共鳴し合っているのだろう。そうでなければ、次のような文章を生み出し得ない。

「イスラームをあえて意識的に『政治化』しなければならない事態にまで追いつめられているところに、イスラーム主義者が直面している危機の深刻さが映し出されている。彼らは好むと好まざるとに関わらず、『近代』の言葉づかいを一部採用しながら、西洋に代表される『近代的なるもの』にあらがうという、逆説的ではあるが、決して自己矛盾していない微妙なバランスを保ち続けなければならないのである。その意味において、イスラーム主義はすぐれて近代的現象であり、ムスリムの『近代』に対する対応の仕方のひとつなのである」

 イスラーム世界の悲劇と、それを象徴的に体現した良心的イスラーム主義者の悲哀を、遠い世界の出来事と傍観していることは許されないだろう。
 何故ならば、終焉を迎えつつあるだろう西欧近代主義の本質的な矛盾と破局性が、凝縮された形でイスラーム世界に噴出しているからだ。欧米社会と日本社会が抱えた矛盾と破局性をイスラーム世界が、犠牲となって教えてくれているといっても過言ではないだろう。
 そして健気にも、西欧近代主義を超えた未来社会の可能性を探っているといえるのだろう。
 民族対立の問題。国家間の対立の問題。ナショナリズムの問題。宗教対立の問題。資本主義と社会主義の問題。暴力と非暴力の問題。環境と自然破壊の問題……等々。最大の問題は、ニヒリズムを体現した新自由主義の矛盾なのだろう。それらすべが、西欧近代主義の矛盾であり破局性である。
 断固としてテロに屈しない、と安倍晋三はいうが、イスラエルに従えていった軍需産業とは、世界の火薬庫といわれている中東世界という舞台があるから生業が成立するのである。軍需産業にとっては、イスラーム世界の悲劇は成長の源であり歓喜なのである。
 安倍晋三が引き連れていったと表現するのは適切ではないだろう。幼稚な超国家主義という玩具で遊んでいる安倍晋三という操り人形を使って、死の商談と死の外交をやってきたのだ。
 次のブログでは、「イスラム国」の本質を書くつもりだが、わたしの目からみれば、「イスラム国」のやっていることと、安倍晋三という操り人形を使って軍需産業がやっていることは同じにみえる。軍需産業だけではない、新自由主義そのものが「イスラム国」と本質的には同じなのである。
 わたしは「イスラム国」をイスラーム主義とは思っていない。その理由は次回のブログで論じることにする。
 そして、イスラーム主義の可能性と限界を、「里山主義」の観点からみていきたい。

※妻の父親の介護に出掛けなければならなくなったので、ブログの更新が遅れてしまいました。申し訳ありません。

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 大塚和夫は『イスラーム主義とは何か』(岩波新書)の中で、「近代化」をキイ・ワードにして、イスラーム主義を多角的に分析しようとしている。
 宮田律の『現代イスラムの潮流』(集英社文庫)もほぼ同様である。
 鶴見和子は論文『国際比較における個別性と普遍性』(1971年11月号『思想の科学』)の中で、「近代化」には普遍的な西欧モデルだけがあるのではなく、伝統と文化と歴史、そして風土性を反映した個別的「近代化」の姿があるとして、柳田國男の民俗学の方法論に個別的モデルを導き出す可能性をみていたが、柳田民俗学の方法的可能性はさておいて、今やこの考え方は一般的なようだ。
 因みに鶴見は、丸山真男の学問的方法論が、普遍的近代化のモデルを絶対的なものさしとして、日本の政治思想を歴史的に分析評価し、断罪していることを遠回しに批判している。
 大塚和夫のイスラーム主義へのアプローチの方法は、この個別的「近代化」という方法論によるものである。大塚は独自な造語で、普遍的西欧モデルを『単線的近代化』とし、個別的モデルを『複線的近代化』としている。

 わたしは新しい保守主義である「里山主義」を提唱し、Kindle版電子書籍として『風となれ、里山主義』を出版している。この中で、進歩史観と非進歩史観という観点から、この普遍的「近代化」と個別的「近代化」における、本質的な意味での「近代化」そのものを批判している。
 普遍的「近代化」に、個別的「近代化」という対立的な概念を設定することで、より重層的でダイナミックに「近代化」のあり方と流れとを分析できるばかりか、特質と特異性、そして問題性などを浮き彫りにできる利点は否定しない。
 が、普遍的にせよ個別的にせよ「近代化」することには変わりはない。「近代化」が歴史的必然だという前提があり、歴史が「近代化」を深化させる方向で進んでいくという前提があるとすれば、これは進歩史観でしかない。わたしは進歩史観を否定しており、また西欧近代主義を否定している。進歩史観が根底にある個別的「近代化」とは、やがて普遍的「近代化」へと接近していって、最終的には普遍的「近代化」へと収斂していくという暗黙の前提がありはしないのだろうか。この意味における個別的「近代化」をも、わたしは否定する。
 実際に、丸山真男が断罪した日本的(個別的)「近代化」を例にすると、欧米と日本の現代社会とは根底に西欧近代主義の価値観と世界観を抱え込みながら「近代化」の先に出現した、情報社会であり大量消費社会なのであるが、欧米社会と日本社会が同質になっているような印象を、わたしは持っている。
 欧米の民主主義と自由主義と比較したら、日本の民主主義と自由主義はまだまだ不完全だ、と批判されそうであるが、では欧米の社会が、丸山真男が理想とした、民主主義と自由主義が徹底された社会だといえるのだろうか。超格差社会であり、移民排斥運動が燻り、人種的な差別意識と宗教的排他主義が蔓延している社会ではないのだろうか。
 環境破壊と自然破壊は留まるところを知らず、ベトナム戦争で使用された猛毒の枯れ葉剤に匹敵する農薬とセットになった、遺伝子組み換え作物を製造販売し、それを全世界に広げていくことを戦略としているモンサント社を、アメリカは国家戦略として支援している。また凄まじい環境破壊をもたらすアメリカ型の大規模農業を、全世界に強要しようとしている。こうした政府の存在を許し、また阻止することができない社会を、言葉の厳密な意味での民主主義と自由主義が貫徹している社会といえるのだろうか。そればかりか、正義の名の下に、紛争を解決する手段を安易に戦争に求めていく姿と、民主主義と自由主義とをどう結びつけて解釈すればいいのだろうか。
 アメリカだけの話しではない。欧州とて大差はない。
 普遍的「近代化」と、個別的「近代化」とを分けて考えることにやぶさかではないが、個別的「近代化」の分析が、普遍的「近代化」を是としたものであり、いつかは普遍的な「近代化」へと接近し同質化するという暗黙の前提があるとしたら、わたしは単なる学問的な分析に過ぎず不毛だと思う。
 個別的「近代化」を突き詰めて分析する中で、「近代化」を超える可能性を見出すことを、わたしは重視している。何故ならば、西欧近代主義の価値観と世界観に未来はないからだ。未来がないことを、仮面を剥ぎ取った新自由主義のおぞましい顔である、「イスラム国家」が教えてくれている(この件に関しては、後述する)。

 永遠に、普遍的「近代化」に同化することなく、個別的「近代化」がいつしか普遍的「近代化」とは、まったく異質なものになり得るのだろうか。そうだとしたら、個別的「近代化」が、普遍的「近代化」を止揚したものといえるのだろうか。それとも、個別的「近代化」が、普遍的「近代化」を超えたまったく別の社会へと変貌を遂げたことになるのだろうか。
 わたしのこうした問題意識からみると、大塚和夫著『イスラーム主義とは何か』(岩波新書)は、重層的でダイナミックに、個別的「近代化」としてのイスラーム主義を申し分なく分析しており不服はないが、ではイスラーム主義が普遍的「近代化」を超える可能性としてみているのか、或いは止揚という意味で捉えているのか、という観点からみると、その辺りが明確ではない。
 宮田律の『現代イスラムの潮流』(集英社新書)は、個別的「近代化」が生み出したイスラーム主義に、普遍的「近代化」を超える可能性をみているように思える。
 ついでだから、池内恵の『現代アラブの社会思想』(講談社現代新書)について言及すると、池内恵は普遍的「近代化」、つまり欧米的「近代化」の色眼鏡でみており、欧米的「近代化」をものさしとして、イスラーム主義を断罪している印象を受ける。
 一見すると丸山真男の方法論に通じていると思うかもしれないが、決定的な違いは、丸山真男における普遍的「近代化」とは、現実としての欧米的「近代化」ではなく、丸山真男の理想主義を反映した普遍的「近代化」なのである。
 それに対して池内恵は、現実としての欧米的「近代化」であり、それをそのまま是としたものである。現実としての欧米的「近代化」とは揺れ動き変容していくものである。その揺れ動くものをものさしにはできないはずだ。そして、揺れ動き変容していく姿に、欧米という体制の意志を見ているとすればどうだろうか。池内恵が権力に癒着していると批判されるが、こうした根本的な方法論と立ち位置に起因しているのではないだろうか。
 
 大塚和夫には面白い仮説がある。
 研究者としての独自性と、良い意味での学問的な奇抜さというか、学問的直観の鋭さを証明する仮説である。優れて面白いのだが、わたしがイスラーム主義に期待する普遍的「近代化」を超える可能性を、ある意味では薄めてしまいかねない仮説でもある。
 大塚和夫は、「『中世的』カトリックに『抗議(プロテスト)』して登場したプロテスタンティズムは、『近代的』キリスト教の幕開けを告げた運動であったと一般的に考えられている。それではその議論をイスラームに適用して、『近代』になって顕著になってきたイスラーム主義などの潮流は、『近代的』イスラームを模索する動きと捉えることができるのだろうか。もしそのような議論が可能ならば、イスラームはヨーロッパ・キリスト教から数世紀遅れたとはいえ、ほぼ同じような道筋を通って『近代化』を進めているということができるのだろうか」と問題提起している。
 大塚和夫は問題提起するだけでなく、E・ゲルナーの「宗教に関する二つの特性(症候)群」という理論を使って自説を論じているが割愛する。
 興味がある読者は、『イスラーム主義とは何か』(岩波新書)を読んでいただきたい。が、問題提起(仮説)という色合いが濃いので、この著作の後に書かれた文献を合わせて読んだ方がいいだろう。正直に告白すると、興味はあるのだが、根が不精者で読書嫌いなものだから、そうした大塚和夫の文献を未だに読んではいない。どなたかお勧めの文献があったら紹介してほしい(笑)。
 しかし、この仮説が正しいとしたら、宗教としてのイスラームは、現代の西欧キリスト教の姿へとなるということなのだろうか。この点については、標題のテーマを数回に分けて書いていくつもりのブログの最後で、総論的に改めて考えてみたい。

 ともあれ、大塚和夫はイスラーム主義を個別的な「近代化」=「複線的近代化」として分析しているのだが、「複線的近代化」といっても、イスラーム世界を一括りにして「近代化」を分析するのは間違いだとしている。イスラーム世界の中で、更に歴史的、そして地域的な差異が「近代化」に反映しているからだ。イスラーム世界の「近代化」の多様性とは、イスラーム主義の多様性ということでもある。
「イスラム原理主義」とは「前近代的」なアナクロニズムの思想であり、柔軟性のないごりごりの教条主義的な思想であって、暴力とテロリズムと結びついた超過激思想だ、というイメージがあるが、それは欧米による情報操作によって作られたイメージであって、「イスラム国」やアル=カイーダ、そしてタリバーンに、意図的にオーバーラップされたものである。

 では、イスラーム社会における個別的「近代化」によって生み出された、イスラーム主義の特徴を概観してみよう。
 大塚和夫が指摘しているように、イスラーム主義といっても多様性があり一括りにはできないのだが、それを前提にした上でいうと、政治における「反世俗化」(=政治と宗教の一体化)が核になるのだろう。
 普遍的「近代化」とは、政教分離に象徴されるように政治の「世俗化」が基本にある。普遍的「近代化」は資本主義と不可分に結びついたものだが、資本主義とは宗教的な意味での「来世」ではなく、「現世」における物質的繁栄に至上の価値を見出すもので、その物質的繁栄とは欲望によって生み出され、その欲望を消費することに幸福を見出す社会ということになるのだろう。
 資本主義とは常に、「来世」を意識から排除する方向に働き「現世」中心主義へと導いていくのである。そして、新たなる欲望を生み出し続け、欲望を無限に肥大化させていく社会でもある。そうでないと、拡大再生産はできないし、また経済成長もできないからだ。したがって、資本主義とは貪欲に市場を膨張させていく意志を運命づけられた社会なのである。
「反世俗化」だとしたらイスラーム社会は資本主義ではないのだろうか。
 個別的であれ「近代化」されたのであるから、資本主義化された社会であることは間違いないのだが、宗教的「来世」と宗教的戒律によって、欲望が抑制された資本主義といえるのだろう。また市場における野放図な競争に宗教的な制約が課させることになるのだろう。イスラーム主義が描く社会とは、そうした社会だということになるのであろう。が、当然にイスラーム主義として括られているが、それぞれの思想毎に宗教的な規制の強弱はあるだろうし、社会主義的な装いをして国家権力による管理的経済を想定する思想もあり得るだろう。
 では、イスラーム主義は「反世俗化」で塗り固められているのかというとそうではない。
 宗教における「世俗化」という側面があるのである。
 イスラーム社会における「反世俗化」にして「世俗化」という矛盾と混沌と、歴史的ダイナミズムが、イスラーム主義に反映されているといえると思う。イスラーム主義を理解する上で重要な核と考えるので長くなるが、大塚和夫著『イスラーム主義とは何か』(岩波新書)から抜粋しておこう。

「ある面では、今日のイスラーム世界は明らかに『反世俗的』の兆候をみせている。イスラーム主義者は基本的に『政教分離』を認めず、イスラーム復興現象は宗教の『私化』とは逆の方向に動いている。近年のマスコミで報じられる、パレスチナやイラクなどにおける『自爆攻撃』は、『殉教者』には来世における天国での至福の生が約束されている、といった来世志向的な世界観に基づいて実行されている部分もある。
 だが、イスラーム主義運動には『世俗的』要素もみられる。なによりもそれは、伝統的宗教指導者=ウラマーではなく、脱宗教的な高等教育を受けた『俗人』を主たる担い手としている。世俗化理論に暗黙のうちに含まれていた俗人=反宗教的人物という前提が、必ずしも常に成り立つとは限らないことがイスラーム主義の例から明らかになった。
 さらに彼らのイデオロギーには、伝統的なイスラームの辞書にはなかった用語が散りばめられている。ナショナリスト、世俗主義者、社会主義者などといった政治的対立者はもとより、モダニストであるイスラーム主義者の手持ち語彙の中には『民主主義』、『人権』などといった西洋起源ののものが含まれ、それらが肯定的に使われることがある」

 イスラーム主義が、欧米の植民地支配によって無理矢理に「近代化」された、イスラーム社会の胎内から産み落とされたものであるという歴史的事実が、イスラーム主義が「反世俗化」と「世俗化」というダイナミズム的な矛盾を宿すことになったのである。
 欧米列強による植民地支配への抵抗は世界各地に湧き上がったが、イスラーム社会においても例外ではない。
 国民国家とは、西欧近代主義と一体となって生まれた政治体制である。そしてナショナリズムとは、国民国家の誕生なくしてはあり得ないものである。旧来の共同体的社会秩序から解き放たれて、ばらばらになった民心を国民国家へと収斂させるものがナショナリズムだからだ。
 今年の大河ドラマは『花燃ゆ』であるが、ナショナリズムに関する歴史的認識が驚くばかりにでたらめである。尊皇攘夷思想をそのままナショナリズムに結びつけて平然としているのは、歴史認識としては許されることではない。幕末において「国」とは藩を意味していた。尊皇攘夷思想とは藩という牢獄に幽閉された思想レベルなのである。尊皇攘夷思想を超えた思想こそが、ナショナリズムなのであり、尊皇攘夷思想を否定した先で掴んだ思想が、ナショナリズムなのである。
 幕末明治維新史とは、国家の歴史レベルと個人史レベルでの尊皇攘夷思想を超えてナショナリズムへと向かう葛藤と、混沌としたダイナミズムに彩られた歴史なのである。『花燃ゆ』は、長州藩という「国」という牢獄を跳び越えて、国民国家としての「国」に結びつけたナショナリズムを前提に語っているのだから、原作者とドラマの制作者がよほどの馬鹿でなかったら、意図的だとしかいえない。百田尚樹の『永遠のゼロ』に匹敵する、悪質な歴史的捏造である。
 選挙地盤であり、高杉晋作の墓を詣でるくらいだから、安倍晋三には長州藩の「尊皇の志士」に対する異常なほどの思い入れがあるのだろうが、安倍晋三の歴史認識と頭脳では、とても混沌とした幕末政治思想の矛盾とダイナミズムを的確に理解できるとは、到底考えられない。尊皇攘夷思想=超国家主義とでも考えているのではないだろうか。高杉晋作にとってはこれ以上の迷惑はないだろう(笑)。
 本来ならNHKの『花燃ゆ』など断固として観たくないのだが、檀ふみ様の熱烈なファンであるので、仕方なく観ているのである。NHKの『花燃ゆ』の最大の欠陥は、檀ふみ様の出番があまりにも少ないことである。最低でも檀ふみ様を、一回の放送の中で15分は写すべきだ。

 話しが逸れてしまったが、わたしがいいたいのは、日本社会にもイスラーム社会にも、そしてアジアとアフリカの社会にも最初から、西欧近代主義と一体となった国民国家の意識はなかったのであり、ましてやナショナリズムなどなかったということである。国民国家の形成以前から、原初としての本源的な意味でのナショナリズムが存在するという考えは、国家主義者の戯れ言だと思う。
 圧倒的な軍事力を持った欧米列強の植民地支配という脅威の前に立たされたから、日本においてはナショナリズムの萌芽が起こり得たのであり、イスラーム社会においては、欧米列強の直接的な植民地支配によって、国民国家という概念とナショナリズムが醸成されたのである。
 敵に姿を似せることで、敵に抵抗したのが反欧米を前面に掲げた、植民地からの開放闘争としてのナショナリズムなのである。しかし、敵に姿を似せる弊害は当然にある。イスラーム社会を分断する国家主義という弊害である。この弊害は植民地支配が終わった後のイスラーム社会に深い影を落とし、イスラーム主義にも影響を及ぼすことになる。

 わたしのこのブログの目的は、欧米の造語である「イスラム原理主義」という概念では捉えられないイスラーム主義という姿を描くことにあるが、最大の目的は「イスラム国」の本質を暴くことにある。
 が、最大の目的を語るときがいつくるのか、こうして書いている自分でももどかしく、嫌気がさしてきたくらいだから、読者はもううんざりといった心境であるのは言わずもがなである。
 中途半端ではあるが、今日はこの辺りでお開きにしたい。わたし自身が耐えられなくなった(笑)。
 わたしが読者の立場ならば、「この馬鹿、いつまでだらだらとやってるんだ!」と怒鳴ることは間違いない。幸いなことにネットだから怒鳴り声は聞こえないからいいが、苦情のコメントがあるやもしれぬ。
 それを思うと憂鬱であり、こんなくだらないことを書いてしまったことを今更ながら悔やんだりするのだが、ではこれで終わりにするのか、というとそれはない。書きたくて書きたくてどうにもならないという、哀しい性を抱えているからだ。
 最近はブログに専念し、肝心の小説を書いていないが、小説の方も書きたくて書きたくてどうしようもなくなってきた今日この頃……。皆様は、いかがお過ごしでしょうか。
 そういうわけで、明日にでもこの続きを書きますので、必ず読んでください。
 それでは、ごきげんよう。

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「イスラム原理主義」という概念に何の疑念も抱かずに、その概念を前提とした視点から論理を展開しても、現代のイスラーム社会における思想的なダイナミズムは決して見ることはできないだろう。
「イスラム原理主義」とは、欧米の社会という目を通して、欧米の価値観から見ようとする視点だからだ。
「イスラム国」とは新自由主義を鏡に映した姿だ。そして、仮面をしていた新自由主義がおぞましい素顔を晒した姿だと、わたしはこれまでに何度かブログの中で書いてきた。新自由主義は欧米を中心に、全世界の隅々まで拡散しつつある。日本も完全にその支配下に入った。
 欧米が日常的にテロの脅威に晒されている。その欧米が、テロの脅しに屈することなく、断固としてテロと戦い抜くことを宣言している。欧米にとってのテロの脅威とは、「イスラム原理主義=イスラム過激派」に絞られた観がある。逆にいうと、「イスラム原理主義=イスラム過激派」の勢力がそれだけ増したといえるのかもしれない。わたしの論理では、新自由主義が世界に浸透する度合いが増したから、それに比例して「イスラム原理主義=イスラム過激派」の勢力が増したという意味になる。
 わたしの論理からみれば、断固としてテロと戦うという欧米の姿勢は自己矛盾でしかない。本来、欧米が戦うべきは新自由主義であるべきなのである。そうでないと「イスラム原理主義=イスラム過激派」の勢力は衰えることがないからだ。何故ならば、新自由主義が鏡に映った姿が「イスラム国」だからだ。
 新自由主義が自ら仮面を剥ぎ取り、市場という神を絶対化した、醜悪な経済的ニヒリズムの末期症状としての素顔を鏡に映した結果が、唯一神アッラーと、その預言者ムハンマドの絶対的な権威で我欲を飾り立てた、宗教的ニヒリズムというおぞましい姿を浮かび上がらせたのである。その姿が、「イスラム国」でありタリバーンなのである。

 安倍晋三は新自由主義者であり、超国家主義者であるという分裂症を生きているが、安倍政権は新自由主義の経済政策を矢継ぎ早に繰り出している。武器輸出を解禁し、露骨に国策として軍需産業を支援する姿勢を見せてきた上に、イスラエルとの友好的外交姿勢を前面に打ち出している。いつかは「イスラム原理主義=イスラム過激派」の標的になると危惧していたが、危惧が現実のものになってしまった。
 これから、「『イスラム国』とは新自由主義を鏡に映した姿だ。そして、仮面をしていた新自由主義がおぞましい素顔を晒している姿だ」という、わたしの論理を詳しく述べていきたい。更に、「わたしの論理からみれば、断固としてテロと戦うという欧米の姿勢は自己矛盾でしかない」という意味を述べていくつもりだ。

 わたしの前に、大塚和夫著『イスラーム主義とは何か』(岩波書店)と、宮田律著『現代イスラムの潮流』(集英社文庫)、そして池内恵著『現代アラブの社会思想』(講談社現代新書)がある。
 イスラエルを中心に中東を歴訪した安倍晋三がエジプトで演説した内容が発端で、「イスラム国」に拘束されていた日本人ジャーナリストと民間人の処刑予告が、ネットを介して全世界を駆け巡った。「イスラム国」は処刑までに72時間の猶予を与えるという。人質を解放する条件として、2億ドルの身代金を要求している。その2億ドルとは、「イスラム国」と戦う中東の国々に、安倍晋三が演説の中で援助の約束をした金額を指している。同額を要求しているのだ。
「イスラム国」は、安倍晋三だけではなく、日本の国民に向けたメッセージだとしている。「イスラム国」は、欧米と同じく、日本と日本人を、イスラームの敵だと表明したことになるのだろう。今後は、日本と日本人がテロの標的になるという宣言でもある。
 国家権力に近い立ち位置にいるとされている、イスラーム社会とアラブ社会の思想研究者である池内恵は、『現代アラブの社会思想』の中で、「現代のアラブ思想には、『イスラームと反イスラーム』という認識の枠組みが定着してしまっている。『イスラエルとそれに支配されたアメリカの陰謀の発見とそれへの対抗』についての関心が突出して高まりつつある」としているが、そうした状況認識であれば、安倍晋三の不用意な演説内容と、テレビに写し出された、イスラエル重視の印象が拭えない歴訪の光景は優れて問題だろう。「イスラム国」だけに限定したものではない。わたしは、広くムスリムとイスラーム社会に与えた印象を言っているのである。
 ジャーナリストの後藤健二さんが「イスラム国」に拘束され、身代金を要求されていた事実を、遅くとも昨年の12月の時点で政府は確認していたはずだ。「イスラム国」の関係者から後藤さんの妻宛にあったメールを、後藤さんの妻が外務省に知らせている。
 またこのメールに先立つ9月に安倍晋三は、明確に「イスラム国」と向き合う自らの政治姿勢を表明している。日本経済新聞社がwebニュースとして報じている。「安倍晋三首相は23日午後(日本時間24日朝)、エジプトのシシ大統領と会談し、米軍による過激派『イスラム国』掃討を目的としたシリア領内での空爆について『国際秩序全体の脅威であるイスラム国が弱体化し、壊滅につながることを期待する』と述べた」とある。明らかにアメリカと同じ立ち位置にあることの表明だろう。
 後藤さんの妻に「イスラム国」の関係者からメールが来たのが11月。そして、中東歴訪の最中でのエジプトの演説へと繋がる。安倍晋三は2億ドルの支援は人道的なものであり、軍事的なものではないと、マスメディアを駆使して執拗に強調しているが、「イスラム国」としてみれば、安倍晋三の演説を9月の政治的表明の延長として捉えるのは自然な流れだ。その上に、人質になっている日本人がおり、身代金の要求までなされている現実がある。2億ドルの支援がどういう事態を招く恐れがあるか、考えるまでもないだろう。

 後述するが、「イスラム原理主義」という概念を刷り込まれているから見えては来ない、中東世界の複雑な政治状況がある。中東の国々は国内的な政治基盤が決して一枚岩ではない。大揺れに揺れ動いているのである。反欧米的な政治的潮流が、反政府的な政治的潮流と重なっている面が顕著にみられるのである。
 そうした流れの中で、2億ドルの支援が人道的だと言い逃れしても、政府への支援であることは動かしようがない。その政府が2億ドルを何に使うか、明確な規定はないはずだ。政府の腹積もり一つで決まる。
 これも後述するが、貧富の格差が拡大しているイスラーム社会において、政府の福祉政策は貧弱であり、貧困に喘ぐ民衆の救済という人道的活動を専ら引き受けているのが、イスラーム教と一体となった反欧米的な政治団体である。人道的な支援をするならば、むしろそうした宗教的にして政治的な団体にこそすべきだろう。
 反欧米的な政治的潮流と反政府的な政治的潮流と、「イスラム原理主義」とは密接な関連がある。当然にそうした潮流がすべて一括りにできるはずはない。一括りにできないはずが、欧米の視点は「イスラム原理主義」と一括りにしているのである。これは意図的だとしかいえないのではないだろうか。
 何故ならば、イスラームの社会で起きている反欧米的な政治的思想と、反政府的な政治思想とを、欧米の人々の目には見えないものへと覆い隠し、そうした思想がどうしてムハンマドを預言者とするイスラームの宗教と一体化しているのか、その意味と必然性を覆い隠せるからだ。覆い隠して、「イスラム原理主義=テロ」とイメージ操作を行い、国民の意識に刷り込むことが、欧米の巨大資本と国家権力にとっては必要なのである。そうでないと、自分たちの権力基盤までも揺るがし兼ねないからだ。
 どうして欧米の巨大資本と国家権力が恐れるのか。その理由は、欧米の社会に黒々として渦巻く社会的な歪みと矛盾と閉塞感に繋がるものだからだ。その本質的な問題が何であり、どうしてそうなったのか、イスラーム社会で起きている、イスラームの宗教と一体化した反欧米的な政治思想と、反政府的な政治思想とが、欧米の人々の心の眼に鮮やかな姿で浮かび上がらせるからだ。そして、その謎を解く手がかりを導いてしまうからだ。
 つまり、欧米の社会に黒々として渦巻く社会的な歪みと矛盾と閉塞感は、イスラームの社会的な歪みと矛盾に結びついたものなのである。重要なのは、その歪みと矛盾は欧米による西欧近代化とその本源的な価値観によってもたらされたという本質だろう。
 本家本元であるから欧米社会が右往左往して悲観に暮れ、未来の展望が開けない閉塞感に陥っているのであるが、欧米とは異質な価値観が息づいているイスラーム社会だからこそ、未来の可能性を貪欲に模索しているのであり、その可能性がイスラームの宗教と一体化した、反欧米的な政治思想であり、反政府的な政治思想なのである。
 この意味においては、わたしが唱える新しい保守主義の思想である「里山主義」と共通性があるということになるのだろう。

 どんなに言い逃れしようとも、安倍晋三は今回の「イスラム国」による日本人人質事件の責任から逃れることは、政治的にも道義的にも許されるものではないだろう。

 次回から数回に分けて、わたしの考えを述べていきたい。
 わたしの論理は基本的に、大塚和夫著『イスラーム主義とは何か』(岩波書店)と、宮田律著『現代イスラムの潮流』(集英社文庫)を下敷きにしたものである。
 大塚和夫は「イスラム原理主義」の代わりに、「イスラーム主義」としている。そして、宮田律は「イスラム政治運動」としている。
 大塚と宮田は、「イスラーム主義」と「イスラム政治運動」とを、西欧的近代化以降に形成された、イスラーム社会における政治思想と政治運動と捉えている。二人とも、政治思想と政治運動とは切り離した形で、「イスラーム復興」を重要視している。
 次回から述べることの前提として、大塚和夫の「イスラーム復興」と「イスラーム主義」の定義を引用しておこう。

「イスラーム復興」
「一九七0年代頃から、それほど注目されなかったが、ムスリムの間にある変化の兆しがみえはじめた。近代化によって衰退傾向をみせていたイスラーム的なものと認識される象徴や行動が公共の場で以前よりも顕在化し、彼らの生き方のさまざまな側面に影響を及ぼすようになってきたのである。それは彼らがみずからのアイデンティティの根拠として、イスラームを再び重視しはじめた結果であると考えることができよう。そのような現象をここでは『イスラーム復興』と呼ぶ。イスラーム復興は、あくまで社会的・文化的な現象である」

「イスラーム主義」
「イスラーム主義は、社会のイスラーム的変革を求める政治的イデオロギーや運動をさす。なお、ここで注意しなければならない点は、みずからのムスリムとしてのアイデンティティを強調するようになった人びとが、急進的なイスラーム主義運動を支持するとは必ずしも限らないということである。熱心にモスク(イスラーム礼拝所)に通う者の中には、政治的目的を実現するために殺人を犯す過激派の行為はイスラームの教えに反する、と主張する者も多い」

 最後に、わたしは「イスラム国」とタリバーンを、純粋な意味で、「イスラーム主義」とは見ていない。前述したように、「新自由主義が自ら仮面を剥ぎ取り、市場という神を絶対化した、醜悪な経済的ニヒリズムの末期症状としての素顔を鏡に映した結果が、唯一神アッラーと、その預言者ムハンマドの絶対的な権威で我欲を飾り立てた、宗教的ニヒリズムというおぞましい姿を浮かび上がらせたのである。その姿が、『イスラム国』でありタリバーンなのである」と捉えているからだ。その意味と背景を、次回から詳しく述べていくつもりだ。

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 沖縄の心を土足で踏みにじり、辺野古で新基地工事が強行再開されている。
 それも闇討ち的な卑劣な手段によってである。
 沖縄の民意は、知事選挙と総選挙、そして那覇市長選挙ではっきりと示されている。民主主義的な方法によって示された厳粛な民意であり、この民意を踏みにじることは、民主主義を踏みにじることと同義である。
 憲法とは暴走しようとする国家権力を縛るためのものであるが、高く理想を掲げた平和憲法こそ暴走しようとする国家権力にとって、最大の障害になるのだろう。だから、超国家主義的な色合いを増していく安倍ネオナチ政権が、必至になって平和憲法を闇に葬ろうとしているのだ。
 平和憲法は、沖縄の民意にこそ正義があることを明確に謳っている。
 極右勢力に乗っ取られた国家の意志よりも、沖縄の民意に正義があるのだ。何故ならば、極右勢力によって乗っ取られた国家の暴走を阻止するためのものが、平和憲法だからだ。平和憲法は、沖縄の民意を国家権力の意志よりも上に置いているのである。

 沖縄には、「沖縄人(うちなんちゅー)」に対して「日本人(やまとんちゅー)」という言葉がある。
 伝統と文化の違いに根差した言葉であり、独自の伝統と文化に対する愛着と誇りと、その伝統と文化を大切に守り育ててきた矜恃に彩られた言葉なのだろう。そして、日本人から幾度となく迫害され、虐げられてきた歴史の中で形成された敵対心と疎外感とが、言葉の地下深くに流れているはずだ。
 太平洋戦争における沖縄の悲惨な玉砕の姿は、日本人が沖縄人に強いてきた差別と迫害と、そして非人道的な過去の歴史を凝縮させて見せてくれている。敗戦後にも、日本人は当然のようにして、沖縄人に犠牲を強いたのである。アメリカへの従属の証として、沖縄の人々の心を顧みることなく、祖先が守り育て、祖先の魂が瑞々しく息づいている、沖縄人が愛して止まない尊い海と森とを米軍に献上したのである。
 戦後日本の復興は、沖縄の犠牲の上に成ったといっても過言ではないだろう。が、この事実を日本人は当たり前のように忘れてしまったのだ。いや、沖縄が犠牲となったという認識すらなかったのである。そればかりか、沖縄の経済は、米軍基地があったから立ち直れたのだという意識まで、国家権力によって巧妙に、日本人の中に刷り込まれてきたのである。
 太平洋戦争における沖縄の玉砕は、日本人の心に深く刻みつけられるべきものである。非戦闘員であるはずの女と幼い子供の命が、言語を絶する無惨な姿で奪われたのだ。
 日本人の心に深く刻みつけられることがなくして、倫理的な意味での日本の復興はあり得なかったはずだ。何故なら、沖縄に玉砕を強いたのが日本人だからだ。沖縄人が日本人のために、人間の盾にされたのである。沖縄の悲劇とは、二重の意味での悲劇である。戦争という悲劇と、日本人と日本国に裏切られた悲劇である。
 その裏切りは戦争中だけではなく、敗戦後にも行われたという事実を忘れてはならないだろう。
 しかし日本人は、沖縄を裏切ったという傷を寸毫も心に負っていない。この日本人の心が、戦後の日本の復興から倫理性を奪ったのだと、わたしは見ている。
 水俣病に代表される公害病と自然破壊、そして行き着いた果てに原発事故があった。この流れは倫理性の不在の証左だろう。倫理性の欠片もないから、福島原発事故は収束とほど遠く、現在進行形であるにも関わらず、原発の再稼働が画策され、あろうことか安倍晋三に至っては原発を海外へ輸出しようとしているのである。倫理性の欠片でもあれば、こうした蛮行ができるはずはない。

 沖縄の人々が、美しい辺野古の海を守ろうと、心を一つに結び合って立ち上がった。
 一方の日本人はどうか。
 未曾有の福島の原発事故という惨事を体験したというのに、原発を再稼働し、新たに原発を造ろうとしている現実がある。祖先が大切に守り育んできた故郷の海と大地を、放射能という目には見えない物質で二度と甦ることのない姿に変えてしまったという、おぞましい現実を目の当たりにしても尚、原発に縋り付こうとしているのだ。地域経済と雇用を守り、エネルギー資源が乏しい日本経済が成長をしていく上で欠くことができない発電手段だという理由だ。そして、安全性を徹底したから二度と福島の惨事は起こらないというのである。
 昨日、日本の活断層に関するNHKのスペシャル番組を観たが、活断層が何処に走っているか特定することは現状では難しいし、知られていない活断層が縦横に走っているのが日本列島の現実だと、専門家が口を揃えて語っていた。つまり、原発の真下を活断層が走っている可能性もあるのである。その上、火山国である。火山噴火の予知は不可能だ、と火山研究者が断言している。

 日本人として真摯に考えるべきだ。
 沖縄の心と、如何に日本人の心とに乖離があるかという点についてである。
 なんと日本人の心は浅ましいのだろうか。そして経済、つまり金にしか心が向いていないのであろうか。沖縄を裏切り、犠牲にして築いた経済大国日本に宿る、おぞましくも醜悪などす黒い心なのである。倫理性の欠片も息づいてはいない。

 こうしてみてくると、沖縄の辺野古の海を守ろうとする心が、単なる新しい米軍基地の建設を阻止するだけのものではないことが分かるはずだ。浅ましい日本人の心と姿と、そして日本人を貫く価値観と、沖縄の心とは真逆のものなのである。
 経済至上主義ではなく、経済成長至上主義でもなく、経済よりも、祖先が大切に守り育て、祖先の魂が今でも息づいている、美しい沖縄の海と森を子供と孫のために残していくことが、何よりも価値があり宝なのだと、沖縄の心が語ってくれている。そして、この尊い思いを土台にしてしか、沖縄の未来は拓かれることはないと、語っているのである。
 美しい辺野古の海は、ジュゴンが泳ぎ、珊瑚が群生し、多種多様な生き物の命を育んでいる。そうした生きとし生けるものすべての命は、人の命と同じであり、その生きとし生けるものの命を大切にすることでしか、人の命を大切にすることにはならないことを、沖縄の心は教えてくれているのだ。戦争の中で虫けらのように殺された歴史を生きたから、虫の命の尊さを知り得たのだろうか。
 西欧近代主義の土台としての価値観である人間中心主義は、沖縄の心にはない。生きとし生けるものすべてが平等であり、同じ生きる権利と自由とを持っているのである。想えば、沖縄の心にこそ平和憲法の精神が純粋な形で息づいているのだろう。

 沖縄は独立宣言をすべきだと、わたしは思う。
 日本人はまたしても沖縄人に犠牲を強い、またしても裏切ろうとしているからだ。
 政権与党である自民党と公明党だけではない。党首選挙があった野党第一党の民主党も同様である。立候補した三人がニュアンスの違いはあれ、辺野古に新基地を建設することに首肯しているのである。反対をしているのは、共産党と社民党と生活の党しかない。
 日本人が沖縄の心と一つになって、新基地建設を阻止できないとするならば、沖縄は日本人を見限るべきだろう。これ以上堪え忍ぶ必要も義理もない。義理があるとすれば日本人の方だ。が、その日本人の心は経済至上主義に毒され切って、倫理性の欠片もなければ、思いやりの心もなく、生きとし生けるものの命へと注ぐ温かな眼差しもない。あれば原発の再稼働などするはずがない。
 それでも、大飯原発運転差止め請求に対する福井地裁の判決文に象徴されるような、沖縄の心と通じた息吹が、日本人の心にも芽生え始めている。わたしはこの心を3・11の心と呼んでいるのだが、可能性があるとすれば、この3・11の心と、沖縄の心とが硬く結び合うことだろう。
 沖縄が独立の意志を示さない限り、日本人の浅ましくもおぞましい心を揺り動かすことはできないのではないだろうか。
 中央のマスメディアは、一部を除いて辺野古の現実を無視している。安倍政権は、上京した翁長沖縄県知事と会おうともしない。沖縄の民意で選ばれた知事を無視するとは、沖縄の民意を端から無視しているということである。

 沖縄が独立宣言することは、世界史的な意味があると、わたしは確信している。
 先ず、沖縄が独立宣言することで、全世界が注目することだろう。そのときこそが、沖縄の心というものの意味に、世界の人々が刮目し、心を激しく揺さ振られる機会なのである。世界にとって新しい未来を切り開く可能性を見出すに違いないと思うのである。単なる基地建設に反対しているのではないことに気づくことだろう。
 現代社会の土台としての価値観である、西欧近代主義には未来はない。現代社会を覆っている閉塞感は、そこに本源的な原因があると、わたしは考えている。新自由主義とは西欧近代主義の末期的な症状であり、経済的ニヒリズムを体現したものである。
 イスラム原理主義勢力によるテロが世界的に問題になっているが、わたしはイスラム原理主義の過激派とイスラム国とは、鏡に映った新自由主義の姿だとみている。新自由主義がそれらの勢力を生み出したのであり、それらの凶暴な姿とは、仮面を剥ぎ取った新自由主義のおぞましい素顔なのではないだろうか。
 そうでなかったら、子供の六人に一人が貧困のどん底に喘ぎ、ホームレスになって車中で暮らしたり、公園で水を飲んでトイレをすまし、コンビニの弁当の廃棄物がないかと、ゴミ箱を漁ったりする姿を、国家が放置しておくことなど許されはしないだろう。余所の国の話しではない。経済大国だと豪語する日本国の話しである。
 その一方で為政者は、高級料亭で舌鼓を打ち、一晩に数百万の蕩尽をしているのだ。それもすべて国民の税金である。新自由主義の素顔がどんなものか、少し考えてみればわかるだろう。
 その新自由主義が世界を闊歩しているから、鏡に映った自分の分身を世界中にせっせと生み出しているのだ。その分身と戦争をすることが、貪欲な経済成長に結びついているとしたら、ある意味では、自演としかいえないのではないだろうか。
 陳腐な宗教戯画を掲載して、表現の自由などともっともなことを言う前に、ジャーナリズムならば、新自由主義の闇をこそ暴くべきだろう。それこそがテロリズムの温床だからだ。新自由主義とイスラム原理主義を標榜する過激派とイスラム国は、鏡に映った自分の姿、もしくは双子である。
 その事実を隅に追いやって、あたかも宗教に問題があるかのごとく煽り立てる隠れた意図を、あれこれと詮索したくなるではないか。

 沖縄の心に、世界の人々の心が激しく揺さ振られ、沖縄の心を世界の人々が共有するときこそ、世界からテロが消えるときだと思う。
 沖縄の心こそが、純粋な意味での平和憲法の心であり、棲み分けと平和の精神が息づいているからだ。
 沖縄人は東北人とともに、縄文人の血を色濃く留めていることが、考古学的に立証されている。つまりは、沖縄人こそが日本列島に生きていた原初としての日本人を祖先にしているのである。弥生人とは半島から異文化を携えて大量に移住してきた人々であり、その後の日本の歴史とは弥生人の歴史だといえないこともないのだろう。
 が、弥生人が移り住んだのは二千年前であり、縄文人は一万年もの間、日本の風土とともに生きてきたのである。そして、輪の文化といわれるように、平和な社会を営んできたのである。縄文土器と土偶は芸術性にも富んでいる。一方の弥生文化は溝の文化であり、社会だと言われている。
 沖縄の心とは、縄文の森と海を生きた、血と文化の記憶に繋がっているのではないかと、わたしは妄想している。沖縄人こそ言葉の厳密な意味での日本人であり、沖縄の心こそ言葉の厳密な意味での日本人の心なのではないだろうか。

 沖縄が独立宣言をすることで、仮に独立が成就できなかったとしても、日本人の心に衝撃が走ることだろう。そして、沖縄が独立することもあり得るという危機感を共有することだろう。
 沖縄は独立宣言したからには、その方向で未来社会を模索すべきだと思う。内橋克人の「EFC自給圏」こそ、沖縄の未来社会に相応しいと、わたしは考える。そうした社会が沖縄に出現することで、日本の社会もまた変わってくるのだろう。日本の社会だけではない。世界の社会が、沖縄の社会の在り方と、その社会に息づく価値観と、沖縄人の生き方と暮らしぶりを手本とするのだ。

 未来の社会は沖縄にある!
 それが世界の人々の合い言葉になるはずだ。
 清らかに透き通った新しい風が、沖縄に向かって吹いている。
 美しい沖縄の海と森と大地よ
 沖縄の文化と伝統よ
 そして、沖縄の未来よ
 永遠なれ!


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