「北林あずみ」のblog

2014年12月

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 辺野古の美しい海を眺めている。
 悔しいことに写真だ。
 潮騒の音が、遙かなる太古の森から囁きかけてくる。
 過去と現在と未来を巡ってきた風が、青々と揺らぐ海原から吹き寄せてくる。
 潮騒の音色と風の匂いが、わたしの心に絡まりついて揺すっている。遙かなる太古の森に息づく、命たちが奏でる音と匂いだ。
 日本の美しい原風景である里海だ。そして、日本人の心の原風景でもある。わたしは沖縄生まれではない。沖縄に行ったこともない。が、この辺野古の海がわたしの心の原風景だと、何物かが囁きかけてくるのだ。何物とは何か。遙かなる太古の縄文の森と繋がっている、わたしの魂なのだろう。そうとしか思えない。
 2008年に亡くなった在野の民俗学者、吉野祐子の著作を読んでいるからだろうか、沖縄に日本人の心の原風景が今でも色濃く息づいているような気がしてならない。わたしの文学的直観でもある。
『共産党の私設応援団としての総括と、未来を見据えた提言と展望』と題したブログで、わたしは沖縄の心と、沖縄の保守について論じたが、この論は吉野祐子の民俗学に負うところが大きい。

 この辺野古の海を埋め立てようとする心情が理解できない。
 この辺野古の海を見ても心が痛まないのだろうか。愛国の名で、この美しい辺野古の海をこの世から消し去ろうとする醜い心を断じて許すことはできない。
 その醜い心が愛する国を、誰よりも憎悪する。
 その醜い心が愛する国と、辺野古の美しい海とを秤にかけることがそもそも沖縄の海と、沖縄の心に対する冒涜だ。醜い心が愛する国など滅ぶがいい。沖縄の美しい海と、沖縄の心こそ守るべき宝だ。

 沖縄の心をどう捉えるか。
 Twitterで琉球新報12月27日付けの記事を見かけた。『佐藤優のウチナー評論』という連載があるのだろう、「反知性主義とナルシシズム」という標題の評論が、ツイートで紹介されていた。
 わたしは素人のブロガーであり、評論めいたものを書いているが、文学的な評論であれ、政治的な評論であれ、昨今のプロの評論家の質の悪さを痛切に感じる。
 いやしくもプロである。評論で飯を食っているはずなのだが、テレビの低劣なコメンテーターと変わりが無い。嘆かわしいとしかいいようがない。
 評論家とは畢竟、眼力の鋭さがすべてだ。そうわたしは信じている。その眼力とは心の眼であり、直観的な感性だろう。
 思索はその後の話だ。閃光となって心の眼に突き刺さった直観の意味と、それが何処からやってきたのか辿る道程が思考の旅だ。わたしの師である、『日本浪漫派批判序説』を著した橋川文三から教えられた評論の心である。肉声で教えられたのではない。橋川文三の著作を辿ることで教えられたのだ。
 評論のための評論など誰でもできる。単なる切り口を変えるだけでいいからだ。だから本質を突けない。本質とは無関係のことを言葉巧みに論じているだけなのである。
 いつもなら、大きな溜息を吐いて見なかったことにするのだが、沖縄の心のことだけに見過ごすことができない。何処からやってきたのか、憤りさえ覚える。もう、腹に留めておくことなどできなくなった。
 他人の評論を直接取り上げて批判することは好まないが、沖縄の心とは何か、その心が歴史的な転換点になる原点であると思うだけに、矮小化はされたくないのである。歴史的な転換点とは日本史的な意味は勿論のこと、世界史的な意味があると、わたしは確信している。

 佐藤優は、「反知性主義とは『客観性、実証性を軽視もしくは無視して、自分が望むような形で世界を理解する態度』のこと」と、反知性主義の概念を説明した上で客観的な事実を列挙していく。
 沖縄が全国の0・6%の陸地面積に過ぎず、その猫の額ほどの所に在日米軍基地の74%が集中してるという異常性と、那覇市長選、沖縄県知事選、総選挙で示された沖縄の民意とを、安倍政権は全く無視しており、客観的事実を認めようとしない姿勢は反知性主義であり、国際的孤立と沖縄の分離傾向を加速させることに気付かない、と断じている。そして、沖縄の一部の保守主義者に言及し、「反知性主義とナルシシズム(自己陶酔)を併せ持つ」永田町の政治に「過剰迎合するのが保守だという幻想から離れ、沖縄に根差したほんものの沖縄保守に転換」し、全ての沖縄人が結束すべきだ、と論じているのである。

 反知性主義を評論のキーワードにしているが、反知性主義を持ち出す必要性がどこにあるのだろうか。不思議である。反知性主義が先ずあって、それに無理矢理に沖縄の心をくっつけているとしか思えない。
 あたかも反知性主義が諸悪の根源のような論理なのである。では、知性主義だったら沖縄問題が解決されるとでもいうのだろうか。
 知性主義と反知性主義とで歴史を俯瞰する方法は、嫌と言うほど使い古されてきた。理性と感情も同じである。理性と感情、知性と反知性で歴史をばっさりと切り捨てるなど愚かであり、怠慢である。理性と感情は対立するものではない。背中合わせで成り立つものだ。
 未開の原住民を銃で殺戮し、森から追い出して土地を奪い、そこにプランテーションの農場を作ることは知性主義なのか、反知性主義なのか、どちらなのだろう。原住民には知性がないから、原住民を反知性主義とでもいうのだろうか。
 少なくとも知性があれば戦争が回避でき、理性があれば戦争が回避できるというのは、それこそ幻想でしかない。何故なら、戦争の中でさえ知性が働き、理性が働いているからだ。そうでないと戦略など立てられない。
 理性的に人殺しをし、知性的に人殺しすることがあり得ることを、歴史が証明してくれている。ナチスが収容所に監禁したユダヤ人を虐殺する方法とプロセスには、理性と知性が介在していたのではないのか。如何に効率的に殺すか。そして、医学的実験として活用できるか。そこに知性と理性がなかったとは言わせない。ニヒリズムに毒され切った理性と知性ほどおぞましいものはない。ナチズムの恐ろしさは、人間らしい感情の破壊という側面だろう。
 安倍自民党は佐藤優が列挙した事実など百も承知だろう。その上で無視しているのだ。
 歴史とは勝者によって書かれたものだ、とはよく言われることだ。岸信介がA級戦犯となった戦争を、日本が勝っていたならどうなっていたか。全く違った意味と評価になりはしなかったか。安倍晋三の中の幼稚な知性と理性は、そう問いかけているのだろう。そして、安倍晋三の幼稚な知性と理性で、歴史を書き換えると本気で考えているのかもしれない(笑)。
 客観的事実も視点と立ち位置で変わる。デモを官憲の側でみるのと、デモ隊の方から見るのとでは、見える風景が全く違ったものになる。

 沖縄の心とは、知性と理性で考えても永久に分からないだろう。
 そんなものをはるかに超えたものだからだ。
 写真の老人の姿が厳粛に語ってくれている。
 純粋な日本人としての心で、辺野古の美しい海を眺めてみるがいい。
 潮騒と風に抱かれて、沖縄の心を感じてみることだ。
 この美しい海が埋め立てられて、この世から消え去ろうとしている。祖先が大切に守り育ててくれた里海だ。遙かな時間が海の色となって溶け込み、夥しい祖先の魂と心が息づく海だ。打ち寄せる波は、遙かなる時間と祖先の魂と心を乗せて、ひたひたと白い浜辺へと打ち寄せてくる。
 足に絡まりついた波が、日本人としての心を揺らすだろう。
 この美しい海を失ってはならない。子や孫へと受け継いでいくべき尊い宝だ。この美しい海よりも重い価値など何処にもない。それが、沖縄の心の原点なのだろう。そして、沖縄の心を日本人の心の原点にしなければならないのだろう。
 経済的価値も、政治的価値も、この美しい海を前にして意味を失ったのだ。当然に保守と革新などという垣根はどうでもいいものとなって、意味を失ったのである。
 米軍基地にされてしまうから辺野古の海を守ろうとしたのではないはずだ。辺野古の海がこの世から消されることが許せなかったのだ。米軍基地が初めにあったのではない。消される原因が米軍基地だったということだ。が、原因である米軍基地だけに注目してしまうと、本質が見えてはこないはずだ。
 佐藤優の眼は、米軍基地に吸い寄せられてしまっている。だから本質から外れた評論を書くのだし、沖縄の心が分かっていないのだ。

 わたしは沖縄の心が、歴史的な転換点だと何度となく言っている。
 そして、それまでの価値観と世界観に代わるべき、新しい時代を切り開き、新しい未来へと日本人を導く松明になると言っている。また、沖縄の心は3・11の心としっかりと結びついたものであるとも言っている。
 人間中心主義から自然との共生を高く掲げ、経済至上主義と経済成長神話から自由になって、自然に負荷のかからない循環型の社会を目差し、風土に根差した暮らしと生き方を基本にした文化と伝統を大切に守り育てていく、反戦と平和を基本にした社会へと向かう心が、沖縄の心であり3・11の心だと思っている。
 原発と米軍基地とは根っこが一緒だ。福島の大地を汚し、沖縄の自然を破壊するものだ。そして、どちらも国策である。原発事故は現在進行形で収束とはほど遠い事態であるにも関わらず、あたかも過去の話のように情報操作がなされている。放射性物質で汚染された福島の大地と住民は、国から見捨てられたのだ。そして、沖縄辺野古の海も国から見捨てられようとしている。
 満蒙開拓団と本土の開拓地を考えてみよう。
 この二つも国策であった。が、満蒙開拓団は関東軍と国から見捨てられて、南下するソ連軍の人間の盾にされたのである。国から見捨てられたばかりか、国に人柱になることを強要されたのである。
 内地の開拓地も同じだ。酷寒の大地で生死を彷徨いながら開拓した北海道の開拓史を紐解くまでもない。全国各地の開拓地がそうだったのである。だからこそ血と涙が沁み込んだ、豊穣な大地へと姿を変えた第二の故郷を、誰よりも愛おしむ心を育んだのだろう。その祖先の血と涙と思い出が染み付いた豊穣の大地が、荒れ果てて寂れ、限界集落へと姿を変えつつある。国から見捨てられようとしているのである。
 リニアの問題とは第二の原発だろう。
 すべてが結びついているのである。その核となっているのが、沖縄の心と3・11の心なのではないだろうか。
 沖縄の心と3・11の心を通して見たから、本質が見えてきたのではないだろうか。これまでの価値観と世界観と生き方、そのものが根底から問われ始めたのだ。そして、沖縄の心と3・11の心の地点に立つことで、新しい歴史が動き始めたことを実感し、新しい未来の姿が見えてきたのではないだろうか。

 新しい歴史を歩み出し、新しい未来を切り開こうとするなら、日本人は今こそ沖縄の心と連帯し、沖縄の心を自分の心に変えて結集すべきだろう。
 連帯は日本に限ったことではない。沖縄の心と3・11の心とは、世界にとっても歴史的転換点だと、わたしは確信している。現代社会の土台的な意味での価値観と世界観である西欧近代主義が行き詰まり、それに代わるべき価値観であり世界観だと思うからだ。西欧でも沖縄の心と3・11の心と通じたものが芽生え初めている。そうした流れと合流し、連帯するのは可能だし、積極的に交流すべきだろう。
 歴史の転換点が沖縄から始まっている。
 それは揺るぎようがない真実だ。
 ネオナチ極右政党である安倍自民党の打倒は、沖縄から始まる。辺野古の美しい海をこの世に残すことこそ、安倍政権にとって最大の打撃になるだろう。急所だからだ。その地点から坂道を転がり落ちるようにして、安倍自民党の自壊が始まる。
 真っ赤な花となって咲いた沖縄の心が果実を結ぶとき、3・11の心もまた果実を結ぶだろう。原発が日本から葬り去られる日だ。
 だからこそ、日本人としての心を、沖縄の心へと結集すべきなのだ!

 今年のブログの最後を、沖縄の心で締めくくりたいと思います。
 沖縄の心が歴史の夜明けを語ってくれています。新しい歴史が始まるのです。その声がはっきりと聞こえます。
 これまで拙いブログを読んでいただき、心より御礼申し上げます。ありがとうございました。
 来年も引き続き、よろしくお願いいたします。
 来る年が皆様にとって、そして沖縄と日本人にとって、素晴らしいものであることを願わずにはいられません。
 よいお年をお迎え下さい。


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 共産党の前議長、不破哲三の京都での演説は歴史的な重みがあった。
 12月24日付けの毎日新聞に載っている不破哲三のインタビュー記事を読んで、改めて実感させられた。
 かつての自民党の重鎮である野中広務の言葉を引用して、安倍晋三を代表とするネオナチ極右勢力に乗っ取られた自民党の本質は、ネオナチ政党だ、と正体を暴いたのだが、これは安倍自民党を打倒する上で、戦略的にみて重要な意味を持つものだろう。打倒する対象の本質を掴んでいなければ、有効な戦略を立てることはできないからだ。
 この件に関しては前にブログで言及している。
 今回はこれとは別に、インタビューで不破哲三が述べた次のことに注目したい。

「そもそも2大政党制は歴史が生み出すもの。アメリカの共和党と民主党も、イギリスの労働党と保守党もそう。日本は違う。人為的に2大政党制をつくるなんて無理ですよ」というものだ。(http://mainichi.jp/select/news/20141225k0000m010013000c.html …)

 日本における二大政党制を考える場合、その実質的な産みの親である小沢一郎を避けて通ることはできない。小沢一郎はまだ二大政党制に固執している。妄執といった方が適切だろう。
 わたしは二大政党制を考えるとは、そのまま小沢一郎を考えることだと思っている。二大政党制が小沢一郎の功罪と限界そのものだからだ。二大政党制が小沢一郎の本質を炙り出してしまうのである。

「そもそも2大政党制は歴史が生み出すもの」との不破哲三の指摘は何を意味するのだろうか。
 不破哲三の意図するものと、わたしが考えるものとはおそらく違っているのだろう。それを前提にして、二大政党制の歴史的意味を述べてみたい。
 わたしはブログで、二大政党制は本質的には変わらない二つの政党を背中合わせにして、裏と表を交互に変えることで、国民の目を欺き、国民の心を牢獄に幽閉することだと書いた。
 アメリカ国民には、これほど不幸なことはない。が、歴史的な意味と必然性があったのである。それは社会主義大国ソ連の存在である。
 社会主義革命によって、世界に初めて共産党の一党独裁によるソビエト連邦が誕生した。自由と平等を掲げる資本主義諸国にとっては脅威そのものでしかない。世界規模での社会主義の流れをどうにかして食い止めねばならない。その先頭に立ったのが建国から僅かの間に大国にまでのし上がったアメリカである。
 アメリカには歴史と伝統と文化がない。新大陸へと移民が大量に渡り、そこで暮らしていた先住民を歴史と伝統と文化ごと、銃によって抹殺して建国されたのがアメリカだからだ。
 アメリカの原点と本質とは、ここにあるといっても過言ではないだろう。そして、西欧近代主義の本質と、また自由と平等の負の側面もここに見出すことができないだろうか。
 アメリカの建国とは、西欧近代主義そのものの理念である、自由、平等、博愛を掲げてなったからだ。西欧近代主義の純粋な理念を体現した国家なのである。思えばアメリカが前面に出て、ソ連に対抗したのは歴史的必然性があったのだろう。
 ソ連は共産党独裁の一枚岩の政治体制である。それに立ち向かうとしたらどうすればいいだろうか。
 ライバルとは、ある意味では鏡に映った自分という存在である。ライバルと見なすとは、相手の能力を最大限に評価していることを意味する。どうでもいい相手はライバルにはなり得ない。また、圧倒的に力と能力が相手の方が優れていれば、これもライバルとはなり得ない。真の意味での敵とは、鏡に映った自分なのではないだろうか。知らず知らずにお互いが、自分を敵に似せてしまうのである(笑)。

 ソ連は共産党独裁の一枚岩である。それに対してこちらがめまぐるしく政権が変わっていたのでは不味い。しかし、露骨な一党独裁では自由主義と民主主義の看板を掲げられない。
 苦肉の政体が二大政党制なのである。実質は一つなのだが、二つの顔を持たせているのだ。そんな妄想を、わたしはしている。レッドパージの歴史とは、この二大政党制を盤石にするためだったのではないだろうか。
 敵に似せるとは、相手の強み(利点)を巧妙に取り入れて補強するという意味でもある。国民の心を繋ぎ止めながら、敵の強み(利点)を削ぐためである。ケインズ経済学を経済政策に持ち込んだのは、こうした効果を狙ったからではないだろうか。

 ソ連は自壊した。
 敵はいない。そして、アメリカには二大政党制がそのまま残ったのである。
 敵がいなくなるとは、自分の姿を写す鏡がなくなるということである。自分の姿を客観的に眺められないということになる。つまりは、自分の悪しき本性を戒める歯止めが利かなくなり、欲望の赴くまま暴走を始めるということになるのだろう。その暴走が新自由主義なのではないだろうか。
 二大政党制は国民を牢獄へと幽閉するものであった。偽りの議会制民主主義とでも呼ぶべきものである。従って、暴走を阻止するという機能は持ち得ていないのだろう。純粋な意味での独裁ではないが、広い意味での独裁なのかもしれない。二つの顔を持つことで国民を巧みに欺き、マスメディアを使って国民の心を自由自在に操るのである。
 二大政党制とは一枚岩となって内側に閉じこもり、それを絶対化する方向に向かう意志が常に働くので、時代が吹かす新しい風を呼び込むことはできないし、地下深くで蠢く新しい時代を告げる胎動に気付くこともできないのだろう。逆に、そうした流れを阻止しようとする反動的な防波堤になるのではないだろうか。

 フランシス・フクヤマは、ソ連の崩壊に対して『歴史の終わり』(1992年出版)を宣言した。
 わたしは、アメリカの終わりの始まりだと見ている。
 いや、アメリカの終わりでもなく、資本主義の終わりでもなく、西欧近代主義の終焉へと歴史が動き出したのではないだろうか。
 ソ連という敵がいたから、アメリカも資本主義も自壊するのをどうにか免れていたが、ソ連という敵がいなくなり、アメリカと資本主義の自壊が加速したのだと、わたしは思っている。アメリカと資本主義の自壊とは、その土台をなす西欧近代主義の自壊なのである。
 ソ連、つまり社会主義も西欧近代主義という土台の上にあったものだ。社会主義と資本主義とは西欧近代主義を土台にした二卵性双生児だ、とわたしは捉えている。
 前回のブログで、これに関することを二つの円で説明している。そして、西欧近代主義という円から、違う円への橋渡しをするのが、沖縄の心であり、3・11の心だと書いた。

 長くなってしまったが、以上を踏まえて、小沢一郎という政治家を眺めてみたい。
 小沢一郎は二大政党制に妄執し、ライフワークにしているようだ。
 小沢は自民党を離党し、新しい政党を次々と作って、次々に壊していった。小沢の夢が叶ったのは民主党単独で自民党に圧勝し、政権を奪取したときだろう。この民主党と自民党という二つの政党で政権を賭けて政策を競い合うことが、あるべき日本の未来の姿だという政治的理念をもっていたのだろう。
 が、その民主党を自ら離党し、衆議院で二人という弱小政党を率いるまでに落ちぶれ果てている。それでも、まだ二大政党制に妄執し、野党再編を画策し、自民党に対抗し得るべき新たな政党を夢見ているようだ。
 安倍自民党は独裁的色彩を強めている。圧倒的な議席数を持っているからだ。が、こうした状況を作ったのは、二大政党制を前提に改悪された小選挙区制にある。そして、圧倒的支持を受けて政権与党となった民主党政治が国民を裏切り、民主党への幻滅が政治不信を招き、投票率の極端な低下をもたらして、自民党と公明党を利したからである。
 不破哲三が看破したように、安倍自民党はネオナチ極右政党へと変質を遂げている。そして、マスメディアを使った情報操作と世論誘導という戦前の大本営報道と同様なことを行い、言論弾圧と改憲によって、またふたたびの戦争の道へと突き進もうとしている。由々しき事態だといえるだろう。
 小沢一郎はこうした方向性を持つ安倍政権を批判しているが、こうした事態を作り上げてしまった自分を自己批判することはない。性懲りもなく、二大政党制という醜悪な夢を見続けているのである。

 二大政党制は百害あって一利もないだろう。
 歴史が大きく動き出す激動期にあっては尚更である。見てきたように、反動にしかなり得ないからだ。
 それにしても、不思議なことに小沢信者が多い。ネットなどでも熱烈な信者がいる。
 このように露骨な小沢批判をしたりすれば、総攻撃を受けることだろう(笑)。
 硬直した自民党政治に風穴を開けたという事実が、小沢一郎という政治家を過大評価させているのだろうか。小沢一郎に、政治を変えたい、変えてくれるという夢を託しているのかもしれない。その夢が大きければ大きいほど、小沢一郎へと向かう感情が熱く燃え上がるのだろうか。
 わたしは護憲、反原発、反TPPを支持政党を選ぶ基本的な核に据えているが、小沢一郎ほどこの三つの間を揺れ動いた政治家はいないのではないだろうか。風見鶏とまではいわないが、変わり身の早さには舌を巻く。そうでないと、大同小異という美辞麗句で、新自由主義を掲げる政治家と極右思想に染まった政治家と同じ船には乗れはしない。
 呉越同舟だとして、打倒自民がなった後で、何をしようとするのか、何をしたいのか、皆目分からないのである。単なる自民打倒が目的だとしたら、本末転倒である。政治的混乱と、国民の間に政治不信と政治蔑視と深い政治的ニヒリズムを蔓延させるだけである。
 仮に安倍晋三を倒すことができたとして、こうした政治状況は、第二、第三のファシストの登場を促す土壌でしかない。もしかしたら小沢一郎は、本物のファシストを自らの手で生み出したいのだろうか。
 かつての自民党には野中広務や加藤紘一、そして古賀誠がいたが、小沢一郎とは肌が合わないようである。この三人がわたしと同じ意味での純粋な保守主義者とはいわないが、近い心情を感じもする。そうだとすると、小沢一郎の政治的心情は何なのだろう、と考えてしまう。

 共産党は謎である(笑)。
 上述したように、わたしは資本主義と社会主義を西欧近代主義の二卵性双生児と見ている。
 土台としての西欧近代主義の終わりは、その土台に乗っかった資本主義と社会主義の終焉を意味する。
 西欧近代主義に代わるべき新しい価値観と世界観が息づく世界の幕開けを、わたしは沖縄の心と3・11の心に見ているのであるが、その地点にあろうことか共産党が立っていたのである。驚きを通り越して、まばゆい光に全身を打たれた時のように茫然自失したのである。
 わたしは沖縄の心と3・11の心から、あるべき新しい未来の世界像をもった政党が、新たに生まれるのではないかと思っていたのだ。
 その政党が共産党だった?
 否、そんなはずはない!
 頭を左右に振って否定してみたが、現実として共産党は、わたしが想い描く未来へと開かれた世界の架け橋である、沖縄の心と3・11の心の原点に立っているのである。
 これは信じがたい謎でしかない。
 謎であるが、仮にこれが幻でなかったら、日本の未来を切り開く可能性であり、希望の光である。
 日本共産党よ、あなたは一体何者なのですか!


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 偽りの熱狂とは直ぐに冷めるものだ。
 ここ一週間ほど、このブログのアクセス数が千を越え、驚くことに三千を越えて4千に近づいた日もあった。洞察力が甘く、自惚れの症状がないとは言えない流石のわたしも、これは偽りの現象だと思った。
 純粋に自分の力ではなく、総選挙で躍進した共産党効果に便乗したものだろう。とりわけ、東京12区の共産党候補、池内沙織氏と、北陸信越ブロックの比例代表候補である藤野保史氏の人気と勢いのお零れに預かったというのが真実なのであろう。
 案の定、今日辺りからは平常運転に戻りつつある。それでもまだ完全な平常運転ではない。通常なら50そこそこのアクセス数に過ぎないのであるが、今現在200ほどのアクセス数になっている。
 完全な平常運転に戻ってしまう前に、わたしの提唱する「里山主義」という新しい保守主義を宣伝しておこうというずるい考えが頭をもたげてきた。
 それに、わたしを共産党の熱烈な信者か、果ては工作員だという疑いの目で見られているという危惧もないではない(笑)。
 わたしはこれまで、たまに共産党に投票することはあっても、社会党とその末裔である社民党に投票していた。戦略的投票という愚かな行為も実行したことがある(笑)。自民党議員を蹴落そうと民主党に投票したのであるが、やはり烏合の衆であった。意図はどうあれ、結果的には自民党擬きでしかないということを痛感させられたのである。そして、二大政党制というものの絡繰りとその危険性を嫌というほど思い知らされたのである。それにも関わらず、性懲りもなくまた同じ過ちを繰り返そうとしている姿は、驚きを通り越して、政治的理念と理想、そして信念と情熱などは露ほどもなく、権力と金に魂を売り渡した浅ましいまでの餓鬼の姿としか思えない。

 マルクス主義と「里山主義」は対立する思想だ。
 本来なら、共産党を熱烈に支持するはずはない。
 わたしは保守と革新の境界線は意味をなさなくなったと言った。そして、これまでのようにこの二つに概念分けして対立軸と見なすことは不毛であり、実相としての政治状況を見えなくし、政治的な混乱だけを助長する。経済政策では新自由主義、政治的政策は超国家主義という分裂症を生きているネオナチ極右政党へと脱皮した安倍晋三政権と自民党を利するだけだ。何よりも国民が不幸であり、政治が民意と大きくかけ離れて、政治不信と政治蔑視とやり場の無い憤怒とを増幅させて、黒々としたニヒリズムと閉塞感を溶かし込んだ時代の空気を膨らませるだけだ。その空気はファシズムの温床でしかない、と言った。
 だからだろう、意味をなさなくなった保守と革新とがそれぞれに分解し、新たな枠組みを作る際の「政党的」再編、または「政党的」分裂と政党を越えた結合と共闘へと、わたしの関心がいっているように映ったようだ。ブログのコメントにそうした内容のものがあり、感想を求めてきたのである。
 わたしは返信したのであるが、詳しくは述べなかった。従って誤解を生じさせる恐れもある。そこで、保守と革新の境界線が意味をなさなくなったということはどういうことなのか、これから少し詳しく書いていくことにする。当然にそれは「里山主義」とは何かを語ることでもある。

 保守と革新、そして右翼と左翼という対立軸では最早、あるべき政治の姿が見えなくなっているのではないだろうか。この前のブログに書いたように、保守と革新という枠で括れない政治的状況へと変質してしまっているからだ。これは上辺だけの現象ではない。社会の土台である価値観と世界観が揺らいでいることに本質的な原因があると、わたしは考えている。
 現代社会は西欧近代主義が歩んできた先に出現した社会である。が、土台としての価値観と世界観は西欧近代主義のままである。この土台としての価値観と世界観が壁に突き当たり、社会的な矛盾と歪みが露わになってきたのではないだろうか。
 その象徴を新自由主義とイスラム国の出現に見ている。
 新自由主義は、巨大資本のおぞましいまでの意志を隠そうとはせずに、剥き出しにしている。経済的な意味での国境をなくし、単一の市場形成へと突き進み、関税は勿論のこと、非関税障壁をも破壊の対象にしている。非関税障壁とは文化と伝統と歴史、そして風俗と慣習と一体となったものだ。つまりは風土が育んできた暮らしのスタイルが土台になった固有の社会構造とでもいうべきものである。
 それを自由と平等な市場を阻害する既得権益として全否定し、それまでの社会構造を破壊しながらグローバルスタンダードの画一化した社会構造へと作り変えようというものである。
 社会構造とは多様な暮らしが重層的に折り重なり、関係し合い、結びつくことによって成り立つものである。言い換えれば、多様な暮らしを抱きかかえ、守ってきたともいえる。文化と伝統とは暮らしと密接に関係するものだ。暮らし方が多様であればあるほど、文化と伝統の多様性を生み出す。
 日本は南北に細長い島国であり、気候も地形も変化に富んでいる。そして、春夏秋冬の四季がある。食文化一つとってみても奥深さと豊かさに驚くほどだ。
 その多様性をもち相互に関連し結びついた暮らしの一部を破壊したらどうなるか。全体の暮らしに歪みが出てくる。それほどまでに社会構造とはデリケートなものなのである。生態系と同じである。そして、歪みは大きくなり、やがて全体の暮らしの破壊へと広がって行く。
 いつものように脱線するが、アンドリュー・J・サター『経済成長神話の終わり』(講談社現代新書)に、今述べたことと関連した含蓄のある文章がある。長くなるが、その箇所を抜粋してみよう。経済とは如何に社会構造と深く関わっているか、分かろうというものである。逆にいうと、新自由主義が如何に単純で粗暴な経済学であるかが分かるというものである。

 日本では生の食材が日々の食卓を飾ります。わたしがはじめて日本を訪れたとき、ある夕食の席で鶏の刺身が供されました。米国では、鶏の刺身など食べられるところはありません。そんなものを食べたら、死ぬほど具合が悪くなってしまいます。でも日本では、鶏の刺身を食べて具合が悪くなったなどという話を耳にすることは稀です。生卵も同様です。米国では、生卵を食べるなんて自殺行為です。
 この生の食材の安全性こそ、長年受け継がれてきた強力な日本社会の信頼の輪を象徴するものです。考えても見てください。それらの食材は、漁師や農家の人々を皮切りに、トラックの運転手、卸売業者、小売店、スパーマーケット、レストランの従業員など、たくさんの人の手を経てあなたのもとへ運ばれるのです。(中略)
 この信頼の輪は、食品業界だけに限らず日本人の生活の多くに共通する特徴です。(中略)
 そもそも経済とは「経済」そのもののみを基盤とするのではなく、社会、倫理、政治、そして法律と文化の上に築かれるものであり、人がお互いにどう助け合うか、人々の夢を国家単位でまとめた場合どんなものになるか、ということをベースに作られるべきものだからです。

 1%の富裕層と99%の貧困層へと二極分化していく超格差社会とは、多様な暮らしを抱きかかえ、守り育てていた社会構造を、ドラスティックに破壊する過程で進行する必然的な帰結なのではないだろうか。
 社会構造が極端な格差と富の偏在を抑える機能を果たしていたといえないであろうか。例えば、経済学者の宇沢弘文が重視する溜め池や入会権などの社会共通資本などは、こうした作用をしてきたはずだ。
 文化の多様性と深みは、わたしは独自の雇用を生み出す力があると確信している。西欧近代主義の深化の過程で、どれほどの文化が消滅し、どれほどの独自の仕事が失われたのだろうか。単なる利便性や効率には置き換えられない価値があったのではないだろうか。利便性と効率だけを重視すれば暮らしから潤いは失われる。
 それらを破壊して、単一化した弱肉強食の市場に突き落とされれば、一握りの勝者と圧倒的多数の敗者に別れるのは道理である。単一化した市場は自由で平等とは名ばかりで、巨大資本が圧倒的に有利である。そして、資本主義の血塗られた歴史の中で、巨大資本の暴走に歯止めをかけるためのルールを勝ち取ってきたはずが、そのルール(法律)までが既得権益とされて取り払われてしまえば、剥き出しの資本の意志が暴走を始めるのは言わずもがなである。
 この新自由主義は経済的な意味では国境の破壊を企てるのだが、政治的には国家を後ろ盾にして強大な軍事力を背景に市場開放を強引に迫るという側面がある。従って、政治的には軍事独裁色の濃い国家主義ということになる。経済面と政治面とは矛盾するものであるが、分裂症を巧みに操っているのだろう。が、分裂症だけに国家主義へと傾斜すれば軍需産業を重視した超国家主義へと雪崩れて行く危険性を常に抱えているのだろう。ネオナチ極右政党へと変質を完了した安倍晋三が率いる自民党がそうである。
 この分裂症は思えば面妖である。愛国と国防と国益を叫び、自称保守と名乗りながら、日本に固有の伝統と文化と歴史と、そして風土に根差した多様な暮らしを抱きかかえた社会構造を破壊するからだ。悪しき社会的な慣習と利権はあるだろう。が、そうしたものとは無関係に、すべてを市場の自由と平等を阻害する既得権益として容赦なく破壊するのだ。
 資本主義とは拡大再生産を基本とするのであるから、経済成長至上主義に陥らざるを得ない。経済成長なくして、拡大再生産は不可能だからだ。そして、経済成長を続けるためには市場を外へと拡大するか、マスメディアを使って飽くなき欲望を消費者の中に拡大再生産し続けなくてはならない。さもなくば、意図的に消費を作り出さなければならないのである。財政投融資とは雇用と有効需要とを生み出すものだが、戦争は膨大な消費を生み出すことも事実だ。恐慌の調節弁として戦争が機能していたことは歴史的事実だ。巨大資本にとっては、戦争とは経済成長と最大利潤を簡単に達成できるという意味では、甘い誘惑なのである。
 しかし、このまま経済成長を続けていくことは不可能だ。これは動かしようがない真実だ。その真実から目を背け、科学の進歩が全てを解決してくれるという邪宗の教えで世界中の人々を洗脳し、人類を破滅の淵へと誘い込もうとしている、おぞましい巨大資本の剥き出しの意志が、新自由主義なのではないだろうか。新自由主義とは西欧近代主義の負の遺産をすべて背負っているのだと思う。負の遺産が未来のない西欧近代主義のどん詰まりへと導き、それを打開しようとなりふり構わずに隠していた牙を剥いたのが、新自由主義であり、西欧近代主義の末期的症状なのだと、わたしは捉えている。
 西欧近代主義の負の遺産とは何だろうか。
 人間中心主義が核としてある。これは西欧的な認識論に関わるものなのであろう。人間中心主義だから、自然は人間にとって都合がいいように変えていくべき対象であり、資源だという発想に至る。そればかりか人間中心主義だから、人間にしかない理性の絶対化に繋がり、科学を神と崇める神話が生まれる。しかし、科学の前に人間の姿に似せた神があった。この神は万物の創造主であり唯一にして絶対的なものである。唯一にして絶対であり万物の創造主であるにも関わらず、不思議なことにこの神は布教によってしか認識できない。そして、神が預言者の口を借りて説いた教え(教義)がある。「神さびる」という日本的な感覚的認識を核とした神の在り方との決定的な違いだ。教えも布教もない。感覚が基本にあるからだ。
 つまり、西欧の神とは人間の理性そのものなのではないだろうか。ニーチェは「神が死んだ」と言ったが、それは神とは人間の理性でしかない、と宣言したのではないだろうか。本質を暴いてしまったのだ。神の仮面と衣装を纏って姿を欺いていた理性が、神にとって代わったのである。理性信仰はこうして始まったのだろう。理性が絶対なのである。だから科学は万能なのだ。
 そうなるとどうなるか、神へと向かう倫理は崩壊し、人の理性の産物である法律が全てとなる。人が過ちを犯すことを防ぐ防波堤は、法律が唯一の歯止めということになる。
 一神教とは布教によって神の教えが全世界にあまねく行き渡ったときに神の国になるという世界観が根底にある。その神の国へと向かって歴史は必然性をもって歩んでいくのであり、それは神の国へと至るまでの進歩の過程なのである。西欧近代主義を貫く進歩史観、または発達史観とはこうしたものだろう。
 神を理性と置き換えたらどうなるだろうか。
 理性の未発達な野蛮な国に西欧流の理性を広めることが、人類の発展であり、理想世界へと至るための必然的な歴史なのである、とならないだろうか。
 理性を自由と平等に置き換えてもいい。アメリカが強大な軍事力を背景にして行っていることは、人々を理想世界に導くために、アメリカ流の自由と平等を全世界に布教している、と見えないだろうか。
 自由と平等を市場に置き換えたらどうなるか。新自由主義が必至になって全世界に布教活動をしている、世界共通の唯一にして絶対的な市場となるのだろう。新自由主義の発祥の地はアメリカである。布教活動には当然に野蛮国の抵抗がある。だから、アメリカの強大な軍事力が必要なのだろう。
 新自由主義とは市場が神である。市場の意志が神の意志であり裁きなのだ。そして、その市場には完全なる自由と平等があらねばならないとする。何故に規制緩和をいうのか。神である市場が自由に、そして平等に意志を発露するのを阻害するからだ。法律も例外ではない。「神が死んだ」世界では、法律こそが唯一の倫理のよりどころであるはずが、神が市場になれば法律は神の意志に背くものでしかない。
 日本で規制改革という名で行われているのは、巨大資本の暴走を食い止める歯止めのはずの法律の改悪であったり撤廃である。その先頭にいるのが安倍晋三のブレーン、竹中平蔵だ。「神が死んだ」後のニヒリズムの社会にあって、唯一の倫理の灯火ともいえる法律をも破壊しているのだ。社会に蔓延するニヒリズムを更に深化させて、社会の空気をどす黒く澱んだニヒリズムで染め上げているのである。だからたがが外れた暴力が社会にはびこり、我が物顔で闊歩するまでになっているのだろう。この社会の空気はファシズムの醜悪な心を宿してもいる。

 新自由主義は剥き出しの凶暴な巨大資本の意志である。社会構造から法律まで破壊していくのであるが、見てきたように社会構造とは、雇用と暮らしを抱きかかえたものであるだけに、社会構造のドラスティックな破壊は雇用と暮らしの破壊を招くものだ。緩やかな社会構造の変化ならば歪みも極端な形では現れないが、短期間に、それも社会構造の土台までも破壊するとなると歪みもより大きく深くなる。
 日本の高度経済成長期を思い出して頂きたい。地方から都会へと人が集中し、都市インフラの問題、住環境の問題などが噴出した。地方には過疎化の波が押し寄せ、水俣病をはじめとする公害が深刻となった。
 高度経済成長期の日本の場合はまだ緩やかな変化だった。これが驚くほどの短期間で、それも法律までが破壊されて行われるのだから、その破壊力とは凄まじいものである。
 高度経済成長で所得は伸び、消費力も伸びて、生活が豊かになったように見えるが、失ったものとその反動と副作用は計り知れないものがある。が、高度経済成長期の日本の場合は新自由主義による破壊ではない。
 途上国で現在行われているのは、新自由主義による破壊なのである。それも短期間の破壊だ。一見すれば所得が増え、生活が豊かになったような印象があるが、それはマスメディアの印象操作だろう。そうした側面とは別に、社会構造の破壊による歪みは眼を覆うほどの惨状である。自然破壊はいうに及ばず、人心破壊までが浸透している。文化と伝統、そして風俗と慣習が短期間に破壊されて、欧米風に画一化されたからだ。所得の地域格差も問題であるし、貧民層が膨れ上がり都市ではスラム化が問題になっている。
 こうした状況がテロを生み出す揺り篭になっている。新自由主義と手を結んだ国家権力への抵抗運動も世界各地で起きている。中国の大気汚染を例にだすまでもなく、公害は想像を絶するものだろう。まだ表面化されずに隠されたままだが、早晩その惨状が明らかになるだろう。新自由主義が法律をも破壊していることを思えば、惨状がどういう種類のものかは想像ができるというものだ。

 西欧近代主義の末期症状の象徴が、新自由主義とイスラム国だと、わたしは言った。
 では、イスラム国がどうして西欧近代主義の末期症状の象徴なのか書いていこう。
 これまで見てきたように、イスラム国は新自由主義が破壊した社会構造の歪みから生まれたものだ。だから反新自由主義なのであるが、その具体的な現れが反欧米なのである。そして、イスラム国という名前から解るように、イスラム圏での反欧米闘争なのであり、国として掲げるものがイスラム原理主義なのである。
 イスラム圏以外の国の若者などが戦闘員としてイスラム国に参加するということが問題にされているが、新自由主義が生み出した歪みを生きる若者の目に、その新自由主義と真っ向から戦っているのがイスラム国に映っているのだろう。
 わたしはイスラム国とは、新自由主義が自らを鏡に写した姿だと思っている。
 どういうことかと言えば、イスラム原理主義を市場に置き換えて見てほしい。どちらも唯一絶対の神なのである。その神の前では法律は不要だ。神の意志こそが善悪を決めるすべてなのである。
 一神教とは不思議である。唯一絶対の神であり、万物の創造主であるはずが、宗派が数限りなくある。そして、それぞれの宗派が正統を主張し、他の宗派を異端とし、イスラム教においては異端の邪宗を抹殺することが正義だとする宗派までがある。
 何故に宗派に分かれるかというと、一神教は人間の認識が生み出した宗教だからだろう。唯一の神のはずが、人の認識によってしか見えない神だから、認識の違いが生じるのは何ら不思議ではない。問題はその認識を絶対化し、他の認識を許容せずに排除しようとする意志が働くことだ。一神教であるから、そうした方向に意志が作用するのは頷ける。正統はただ一つでしかないからだ。常に自分を正統とし、他者を異端とする発想である。
 イスラム国は邪宗の地域を暴力で侵略し、男と子供たちを容赦なく殺戮し、女たちを性奴隷として連れ去っていく。驚くべき蛮行である。が、彼らは悪行をしているとは微塵も思っていないのではないか。神の意志だと思っているからだ。正義は常に神の意志に従っているこちらにあり、悪はその神の意志に背く邪宗を信じるあちら側にあり、神を冒涜し邪宗を信仰する者達を殲滅することこそがジハードなのである。
 新自由主義はこれほどまでにあからさまではない(笑)。しかし、煌びやかな仮面と衣装を剥ぎ取れば、イスラム国の醜悪な姿が現れてくるのではないだろうか。
 新自由主義とは国家権力を乗っ取り、強大な軍事力によって神である市場の一元的な拡大という布教活動をする。法律は破壊し、固有の社会構造は神の意志に反する邪宗の温床なのである。徹底的に破壊し、破壊の後に神の貢ぎ物として膨大な利潤を吸い上げていく。どこがイスラム国と違うのだろうか。瓜二つなのである。イスラム国が素顔を晒しているのに対して、新自由主義が美しい仮面を被っているだけの違いでしかないのではないか。

 わたしの提唱する「里山主義」に言及しよう。
 二つの円を思い浮かべて欲しい。
 一つの円は西欧近代主義という円である。もう一つの円が里山主義という円である。この二つの円は一部が重なり合っている。重なり合う部分が、西欧近代主義の円から里山主義の円へと通じている架け橋なのである。
 沖縄の心と3・11の心が、この架け橋だと捉えている。
 西欧近代主義の円は行き詰まり、未来が見えず、新自由主義とイスラム国というおぞましい末期症状の姿を露わにしている。未来はない。
 西欧近代主義の円の中で対立軸を設定し、その対立軸が有効であるためには、円が未来を約束していなければならない。新自由主義とイスラム国は西欧近代主義に未来がないことをいみじくも語ってくれている。そのときに、円の中に対立軸を求めても無意味であり、そもそもが未来を見据えた対立軸ではあり得ない。
 保守と革新、右翼と左翼、という概念が曖昧になり、意味を失いつつあるということは、西欧近代主義の円そのものが土台から揺らぎ出したからではないだろうか。西欧近代主義の円の土台にある価値観と世界観が根底から崩れ出したからだ、とわたしは捉えている。
 そして、新たに沖縄の心と3・11の心が歴史の表面に出てきたのである。
 人間中心主義、経済成長至上主義、そして理性神話と科学万能主義と進歩史観、そうした価値観と世界観が揺らぎ出し、3・11を生きたことで3・11の心が芽生え、そして祖先の魂と血そのものである、沖縄の美しい海を汚すという愚かな人間の行為を前にして甦った沖縄の心が、新しい世界へと導いていく架け橋となっているのだと、わたしは信じたい。3・11の心と沖縄の心とは、日本人がこれからの未来を見据えたときに見えてきた、あるべき生き方の原点だと思う。
 人間中心主義ではなく、自然と共存していく生き方。人間の理性への過信と科学万能主義の過ちを、原発事故が教えてくれた。経済成長をすべてに優先してきたことが、生きる尊厳と暮らしの基盤そのものを破壊し、伝統と文化と歴史とを蔑ろにしてきた。市場という意志による弱肉強食の自然淘汰から、棲み分けを基本とした、平和共存こそがあるべき生きる姿だ。そうした生き方の原点へと回帰できたのではないだろうか。

 理性か感情か。知性か反知性か、という対立軸も愚かだと思う。
 理性だけでは戦争は防げない。例えば、竹中平蔵は反理性なのだろうか。そして、反知性なのだろうか。そうだと言ったら、竹中平蔵は顔を真っ赤にして怒ることだろう。僕ほど理性的で、知性的な学者はいない、と反論するだろう。では安倍晋三と櫻井よしこはどうだろうか。どんなに稚拙で醜悪であろうと理性と知性の欠片はあるはずだ。
 むしろ、この三人に決定的に欠けているのは、人としての感情だろう。
 しかし、わたしは感情を理性の上におくつもりもない。理性と感情を対立したものと見なすことが、そもそもの間違いなのではないだろうか。理性と感情とは対になり背中合わせの関係だと思っている。時代の状況によっては、理性と感情が戦前のように、戦争へと向かうものなのだ。理性と感情を発露させる方向性がそう仕向けるからだ。
 縄文文化とは、一万年もの間自然と共にあって、人と虫と蛙が共存しながら平和に生きてきた中で花開いたものである。人類の歴史は戦争の歴史だと言われている。が、日本の縄文時代には戦争はなかったのである。三内丸山遺跡や芸術性に優れた土器や土偶にみられるように、瑞々しく豊かな感情が息づいていた文化であった。拙いものであったとしても理性もりっぱに生きていたのである。そうでないと三内丸山遺跡はあり得ない。その理性と感情が、戦争を回避する方向へ作用していたのではないだろうか。
 更なる富と利潤を求めて、膨張していく意志が社会に内在している限り、戦争は避けられないのかもしれない。20世紀が戦争の世紀といわれているが、西欧近代主義の土台としての価値観と世界観が、理性と感情とを戦争の方向へと導いていたと言ったら、失笑を買うだろうか。拡大再生産と経済成長を宿命とした資本主義は、一神教的な市場の拡大を求める限り、文化と伝統と歴史の異なる他国との争いへと向かう必然性がありはしないのだろうか。
 棲み分けを基本とした循環型の社会とは、膨張していく意志を内在していないからこそ、争いを遠ざける方向へと理性と感情を導くのではないだろうか。
 平和憲法が押しつけのものであり、日本人の心に合わないものだ、と戯言を叫んでいる国家主義者たちがいるが、日本の歴史の何を見てきたのかと言いたい。日本人の歴史の初めに平和憲法の精神が息づいていたのだ。数多の尊い命の犠牲を無駄にしないという願いと誓いが、日本人の生きるべき原点である平和憲法の精神へと回帰できたのだ、とわたしは確信している。

 神が死んだ現代社会をニヒリズムが覆い尽くしている。一神教的な意味での倫理観は死んだのではないだろうか。みてきたように新自由主義とイスラム国がそれを証明している。
 政府の御用宣伝機関となったNHKに『キッチンは走る』という番組があるのだが、地域の農民と漁民の暮らしぶりに惹かれて、毎週愉しみに観ている。先週は長崎県が舞台であり、じゃがいも農家の初老夫婦が取り上げられた。畑からは雲仙普賢岳の姿が大きく見える。普賢岳の火砕流の大災害はまだ記憶に新しい。この夫婦の畑も被害に合って全滅だったそうだ。3年は作物が作れなかったという。番組のスタッフが「普賢岳を恨みましたでしょう」と訊くと、「普賢さまを恨んだりはしません。普賢さまは恵みを与えてもくれる。普賢さまと共に生きている」と答えたのだ。わたしは胸を打たれた。そして、これが縄文の多神教の心なのだと思ったのである。
 多神教にも二種類ある。
 農耕に関わる神は多いが、御利益があるから祀られている神がほとんどである。御利益多神教などと言われるが、これは一神教と同じく人の認識が生み出した神であろう。御利益がないと分かると、その神は捨て去られるという何とも哀れな神である。
 もう一つは前述した「神さびる」という言葉が的確に言い表している感覚的認識によって結ぶ神である。この「普賢さま」とは感覚的認識による神だと思う。容赦なく命を奪う神であり、命の糧である田畑をも破壊する。が、肥沃な大地へと再生させて、より多くの恵みを与えてくれる。この初老夫婦は毎日普賢さまに手を合わせるそうだ。あれほどの災害に合ったのに、驚くほど明るく前向きである。そして、自分が作るじゃがいもに誇りを持っている。誰にも負けないじゃがいもは普賢さまの恵みがあったからだというのだ。一見すると御利益多神教のようであるが、命を奪う神でもあるということに注目してほしい。
 倫理観という面から考えてみよう。この初老夫婦は毎日普賢岳に手を合わせることで、生きている悦びを実感し、生きている悦びを普賢岳に感謝することで、倫理の再生を行っているのではないだろうか。普賢さまと共に生きているから可能な倫理性なのではないだろうか。
 九州は至る所に火山がある。火の国と言ってもいいだろう。その火の山と共存共生してきたのが九州人であり、火の山を畏敬し、そして愛し、日々手を合わせて生きてきたのが九州人であったはずだ。その九州人が原発を受け入れるとは火の山への冒涜であり、祖先の血と生き方に泥を塗ることだろう。普賢さまへ手を合わせる生き方と真逆である。
 原発は生きとし生けるものの命を奪うだけである。二度と住めない大地に変えるのだ。肥沃な大地へと再生させる火の山の慈悲はない。

 わたしの提唱する「里山主義」では里山に象徴させて倫理性をみている。自然に人の手を加えることで、より豊かな生態系を作り出しているのが里山である。そして、その生態系から人は恵みを頂いている。共存共生である。だから、命へと向かう眼差しが温かい。間伐をしたり、用水路の掃除をしたり、草刈りをしたり、そうしたことが新しい命の循環を作り出している。それを感覚で掴みとり、生命の循環の中に入り込むことで、倫理の再生があるのだと思う。
 里山と同じく、里海もそうだろう。美しい沖縄の海とは里海といっていいと思う。人と自然とが共存共生しているから、豊かな生態系を育み、美しい景観を保っていられるのだろう。
 宇沢弘文は社会的共通資本を重要視する。例えば四国の溜め池などの社会的共通資本も倫理の再生という面では里山と同じだろう。入会地などもそうである、こうしたものを破壊してきたのが西欧近代主義であり、その極限にまで達したのが新自由主義なのである。

「里山主義」についての詳細は電子書籍『風となれ、里山主義』を読んでいただきたい。リクエストがあれば無料キャンペーンを行いたい。但し、規定で5日間である。
 縄文時代と縄文文化が日本人の魂の故郷だというと、縄文時代に戻るのか、という批判を受けるが、戻りたくても戻れないし、わたし自身が西欧近代主義にどっぷりと浸かって生きてきたのだから、今更縄文人になって竪穴式住居に住めるはずはない。真っ先に逃げ出すことだろう(笑)。
 わたしは自由人であり、自由主義と民主主義を愛している。
 しかし、西欧近代主義の自由主義と民主主義は、やはり人間中心主義が基本にあるのだろう。わたしの自由主義と民主主義は、虫と蛙も含めたものである。選挙では虫と蛙は投票権がない。が、投票権がない虫と蛙の命の重さを背負っている自覚を持つ民主主義なのである。この民主主義を縄文民主主義と名付けている。
 わたしが縄文人の魂と心に日本人の生き方の原点をみるのは、行き詰まった西欧近代主義の土台としての価値観と世界観に代わるべき、未来の希望が見えるからだ。そして現実に、沖縄の心と3・11の心が、その原点に立っているのである。
 わたしが総選挙を歴史の転換点というのは、西欧近代主義の円の世界と、新しい可能性を秘めた未来である、もう一つの円の世界へ導く架け橋との戦いであったという意味である。そして、歴史的な瀬戸際というのは、それでも西欧近代主義の円にしがみつき、新しい歴史の胎動を言論弾圧と暴力と戦争によって阻止しようと暴走する、安倍ネオナチ極右政権との対決という図式を踏まえてである。
 新しい歴史の胎動が沖縄の心から始まるのは、必然性があるのかもしれない。前のブログに書いたように、沖縄人の血には縄文人の魂が宿っている。だから本土の価値観とは微妙に違っているように感じるのだ。全国でも貧しい部類の県であるのに、一番出生率が高い。それは経済的な価値尺度では決してみえない、子供を育てる環境が沖縄にはまだ息づいているからではないだろうか。宇沢弘文がいう社会的共通資本もそうだろうし、共同体的な社会的風土が根強く残っているからではないだろうか。

 沖縄の心と3・11の心の地点に共産党が立っていたというのは、信じがたいほどの驚きであった。
 マルキズムとは西欧近代主義を色濃く引き摺っているものだ。ヘーゲル哲学の影響の下に生まれたのだし、階級闘争の理論がユダヤ教に似ているとも言われたりしている。がちがちの進歩史観であり、理性信仰も根深いものがあるはずだ。それが何故に、沖縄の心と3・11の心の地点に立てたのか、未だに謎である(笑)。
 今日、Twitterで興味深いツイートをみつけた。先の総選挙で佐賀県から立候補した、共産党の御厨さとみ候補を応援する勝手連のツイートである。わたしは選挙期間中に、御厨さんに火の国の女の、政治へと向かって燃え上がる情熱と信念を感じたので、応援していたのだが惜敗してしまった。火の国の巫女と、御厨さんを形容したのだが、共産党の候補には相応しからぬ形容であった。しかし、そういう形容が相応しいとしか思えなかったのである。得意の文学的直観である(笑)。
 今日のツイートはこうである。

  御厨さとみJCP応援勝手連 @ogi_mikazuki1  ·  12月22日
 @hsggg こういう根強い反共への答えとして御厨さとみの存在は大きいと思っています。保守「大国」佐賀で共産党の看板背負い知事や前議員と論戦し郷土を愛すると言い切る彼女の勇気は実る筈。神棚に水上げ、毎日仏壇に手を合わせる共産党員が佐賀の希望になるでしょう。

 郷土を誰よりも愛しているのである。これぞ正しく言葉の厳密な意味での保守主義者であり、わたしの「里山主義」に近い。
 日本共産党はマルクス主義を掲げるが、独自性を強調している。日本固有の共産主義とはもしかしたら……。妄想したりしているが、答えを出すのは「日本」共産党であろう。本気で政権を奪う気ならば、答えを出さずに逃げることはできないはずだ。大いに期待したい(笑)。

 最後に蛇足になるが、本職である文学について書いて置きたい。
 日本の場合は原則として作家になるためには、大手出版社が主宰する新人賞を授賞されないとなれない。わたしは14年ほど投稿を続けたが受賞は叶わず、新人賞に失望してAmazon版の電子書籍として小説を出版しているのであるが、昨今の文学の衰退は目に余るものがある。ほとんど風前の灯火のような状態である。
 文学が完全に民衆から見捨てられてしまったのであろうか。
 こういう時代だからこそ文学は復権するべきだと思うのだが、だからこそ色々と考えたりした。
 もう一度文学が民衆の心を惹き付けるとしたら、文学の方から民衆の心と寄り添っていかなくてはならないのではないだろうか。
 例えば沖縄の心と3・11の心、そしてより具体的に反原発と反リニア闘争、限界集落の問題とかで、文学が連帯できないものだろうか、と考えたのである。そうすると直ぐに、「文学と政治」の問題を持ち出し、文学的価値は政治的価値観から独立するべきだとなるのであるが、そんなことは言われるまでもなく自覚している。が、現状の文学はあまりにも狭隘な世界に閉じこもり、人が生きていく生々しい実相から、どんどんと遠ざかっているのではないか。沖縄の心も、3・11の心も何処吹く風なのである。
 勿論、心ある作家は積極的に発言している。が、それが文学の主流となり得ていないのではないのか。
 わたしには野心がある。
 わたしの小説が、例えば沖縄の心と3・11の心とか、地域おこしとかと、どうにか結びつかないかという野心である(笑)。
『風よ、安曇野に吹け』『故郷』などは、そうしたものと充分に結びつくし、またそうしたテーマである。このほかにもまだある。わたしは印税の全てがこうした支援にならないか(例えば、3・11で親を亡くした子供)などと妄想しているのである。
 そのためには紙の本でないと難しいだろう。コメントでも紙の本がないかとの問い合わせを受けている。
 そうした出版社を探そうとしたのだが、今のところ全て駄目である。そこでこの場を借りて、わたしの主旨に賛同してくれる出版社を熱烈募集する。
 売名行為と言われるかもしれない。反論はできない。ただ、多くの方に読んで頂きたいという野望があることは確かだ。狂気ではないつもりだ。いたって真面目である(笑)。但し、わたしの小説がそれに値するものかどうかは、読者が判断し、また出版社の編集者が判断することなのだろう。
『僕の夏よさようなら』『故郷』は、無料キャンペーン中です。

 写真は沖縄辺野古と福島県・飯館村

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 総選挙の余韻が残っている。
 大義なき選挙といわれ、盛り上がりに欠けた選挙といわれたが、終わってみれば、時代の地下深くで胎動していた歴史を突き動かすマグマが地表に噴き出してきた、とわたしは感じている。
 新しい時代の到来を告げる選挙だった、とわたしの文学的直観が語ってくれているのである(笑)。新しい歴史を動かす歯車がゆっくりと動き出したのが、わたしにははっきりと見えるのだ。
 最終議席数と最終得票数が確定した。
 先ず獲得議席数を見てみよう。

 自民党  290(-3)小選挙区222 比例区68
 民主党  73(+11) 小選挙区38   比例区35
 維新   41(-1) 小選挙区11   比例区30
 公明党  35(+4)  小選挙区9    比例区26
 次世代   2(-17)  小選挙区2   比例区0
 共産党  21(+13)  小選挙区1   比例区20
 生活党   2(-3)   小選挙区2   比例区0
 社民党   2(±0)  小選挙区1   比例区1
 無所属   9(-8)  小選挙区9   比例区0

 一つ前のブログで、共産党の一人勝ちと書いたが、民主党も改選前から11議席増やしている。13議席増やした共産党と2議席の違いだが、やはり共産党の一人勝ちという事実は変わらないだろう。民主党の幹部自らが惨敗を口にしているのだし、党首の海江田万里は小選挙区で敗れ、比例でも復活当選はならなかったのが象徴的だろう。そして、勝っていたとしたら、余韻が明け切らない選挙後早々に、野党再編に向けた動きはなかったはずだ。海江田万里が落選したから党首選挙の必要性があるということよりも、再編に前向きな細野豪志が真っ先に名乗りを上げたことが、野党再編へと歩み出すことを如実に物語っている。
 野党再編の動きとは、小選挙区を前提とした二大政党制を睨んだものだが、この件については後で述べたい。

 次に得票数をみてみたい。
 今回の総選挙(投票率52.66%)と比較するために、2012年総選挙(59.32%)と2009年総選挙(69.28%)の得票数を記すことにする。( )内が2012年、[ ]内が2009年である。

 自民党 1770万票 (1660万票) [1880万票]
 公明党 730万票   (710万票) [810万票]
 民主党 980万票     (960万票) [2980万票]
 共産党 610万票     (370万票) 「490万票]

 共産党が全小選挙区に候補を立てているから単純には比較できないが、注目して頂きたいのは得票数の推移だ。69.28%の投票率があった2009年のときよりも増えているのは共産党だけなのである。それも、120万票であり、2012年と比べると、実に240万票増えているのだ。
 比例選挙区で見てみよう。ほぼ同じ投票率だった昨年の参院選(投票率52.61%)と、今回(52.66%)を比較したものだ。( )内が参院選の数値である。
  
   自民党 1766万(1846万)
   公明党  731万 (757万)
   民主党  978万 (713万)
   共産党  606万 (515万)

 民主党は有権者への裏切りと失望からどん底にまで落ちた支持を取り戻しつつあるのだろう。自民党と公明党は減らしている。自民党の比例における絶対得票率(有権者全体から見た割合)は、たった17.0%だという驚異的な数値である。前々回、政権を失ったときの18.1%よりも少ないのである。頭打ちどころか減り続けているというのが現実だろう。
 こうした数値を見てくると、自民党は小選挙区のマジックと低投票率によって辛うじて政権を維持していられることが分かろうというものである。

 自民党にとっては、もっと由々しきデータがある。
 東京の比例投票において、無党派層の投票先が一番多かったのはなんと共産党だったのである。共産党が22.5%、自民党が20.6%、民主党が20.3%という驚くべき数値だ。

 これ以上に恐ろしいデータがあるといったら、安倍晋三は青ざめることだろう。
 大阪の毎日放送(MBS)のラジオ番組『2014総選挙開票特番 センセイこれからどうするの? 今夜、聞きまくります』の冒頭で、「投票に行かなかった方にお聞きします。もし投票するなら比例は何党ですか?」とリスナーに尋ねた衝撃的な結果だ。結果は次の通りである。

 共産党  47%
 自民党  26%
 維新の党 21%
 民主党   5%
 公明党   0%
 次世代の党 0%
 社民党   0%
 新党改革  0%

「調査は『テレゴング』という名の携帯電話を使ったラジオ独特のもので、番組がリスナーに呼びかけた。呼びかけから集計まで早いものでは、数分間しか時間をかけず、たっぷり時間をかけて無作為のサンプルを調査する『世論調査』とはまったくの別物だ。早い話が、MBSラジオの開票特番のリスナーに対象が特定されているので、偏りがないとは言えない」と断りを入れた後で、「しかし、そうした前提を差し引いても、この調査の結果は驚きに満ちていた」と衝撃の凄さを隠さない。
 このデータに接したのは、一つ前のブログに寄せられたmoさんのコメントなのであるが、それに対してわたしが感想を述べている。

 コメント有り難うございます。
 興味深い内容の記事です。
 この47%の数値をどう読むかですね。
 私は安倍政権と自民党に対する有権者の憤りという「感情」の数値だと思います。自民vs共産という構図だから「感情」が共産党に向かったのではないでしょうか。
 但し、この「感情」が共産党に入れるという「意志」にまで昇華しなかった。だから投票しなかったのではないのか、と思います。
 この「感情」は政治不信と背中合わせです。政治不信と憤りの「感情」とは方向性がありません。何処に行くか分からない。巧みに煽り、誘導すれば排外的なナショナリズムにもなり得る。政治不信と閉塞感と行き場のない憤怒という「感情」は、ファシズムの温床です。
 共産党が更に躍進し政権を狙うとしたら、この47%の「感情」を共産党しかないという「意志」に変えるものが必要でしょう。私のブログの内容とも関わりますが、現実の共産党の姿をはっきりと示すべきだと思います。保守と革新の対立軸という従来のイメージではなく、自民党が破壊しているものと、共産党が守ろうとしているもの、自民党の描く未来(あるのか?)と、共産党が描く未来をはっきりと示すべきではないでしょうか。
 共産社会とはがちがちの資本主義発達史という進歩史観通りに見なくてもいいのではないかと思います。早い話が、同志社大学の浜矩子教授の提唱する里山資本主義とは、経済成長神話から開放されて、人々が自由と平等を基本として、経済成長をするためにマスメディアを使って煽られ、無理矢理に膨れ上がらせられている無意味な欲望を抑制して、環境に過剰な負荷をかけない循環型社会像であり、社会的富を皆で分かち合い、助け合う暮らしの中に生きる悦びと幸福を見つけ出そうというものだと理解しています。瑞々しい文化とはそうした社会に息づくのでしょうね。
 ギスギスした経済効率と最大利潤を求める経済成長至上主義の競争と格差の社会では生まれません。市場が一元化するので感性までもが多様性を失うからです。
 第一、このまま経済成長を続けていったら地球の破滅です。
 私は自分の保守主義を「里山主義」と名付けているのですが、人の暮らしと関わりながら、循環的な生物の多様性を生み出す社会を里山に象徴させました。
「共産」の意味とイメージを、反共教育で作られたイメージとしての武力革命と資本主義発達史の延長の姿から開放すべきだとも思っています。が、そうするとマルクス主義ではなくなる恐れがあるから難しいのかなあ(笑)。
 ともあれ、保守と革新を超えて、この無意味なイメージを払拭し、沖縄と3・11の心の原点に立って、あるべき未来を指し示す中で共産社会のイメージと展望と、そしてその内実とを国民にはっきりと見せることでしょうね。
 そうすれば、もう共産党しかない、という必然的な「意志」にまで昇華します。
 私は西欧近代主義の歴史的転換点だと思っているのです。だから歴史的激動期なのです。その証左の一つを、従来の保守と革新の対立軸が無意味になったことに見ています。(一部加筆しました)

 わたしは47%を純粋な意味での共産党の支持票だとは考えていない。曲がり間違えれば、偏狭なナショナリズムへと変質する可能性を秘めたものとして見ている。歴史が教えてくれてもいる。
 しかし、この数値は共産党が政権を奪えるという可能性をも示すものだ。誰もが考えもしなかったことが、現実になるかもしれないという厳粛な事実である。だから、権力側にとっては無視できない恐怖を伴った数値だということなのだろう(笑)。

 共産党への恐怖は既に現れている。
 麻生財務大臣が、大企業の内部留保を活用し内需を拡大すると発言したのだ。これは総選挙中に共産党が訴えてきた政策だ。他の野党がアベノミクスの対案を示せないばかりか、アベノミクスを全否定できずに部分否定に終始した野党をしりめに、共産党のみが示した対案なのである。
 総選挙の余韻がまだ残っているこのときに、何故に電撃で共産党の政策を横取り(笑)したのか。恐怖が仕向けたからだ、としか思えないではないか。それほどまでに、今回の総選挙における共産党の躍進の持つ本質的な意味にたじろいだのである。
 この発言は当然に自民党単独のものではない。自民党のバックにいる蔭の支配者である大資本の意志であり、恐怖なのである(笑)。
 共産党の1議席が持つ重みと力を誰よりも身に沁みて知っているのは、自民党と経済界(大資本)なのである。

 たかだか21議席で何ができる、と嘯いている野党には、永久に分かるはずのない深層に隠れた本質的な意味なのである。その証拠に、相も変わらず野党再編という野合に走ろうとしているのだ。小選挙区制を温存したままの二大政党制を妄信しているのである。これまでのデータをみれば、小選挙区制が自民党にとって命綱であることが分かる。そして、可能な限り投票率を低く抑えることが必須になる。その端的な現れが、大手マスメディアを使っての政治不信と政治的諦念の捻出に他ならないのだろう。小選挙区制を温存したまま、小選挙区制の前提に立って、これから野党が繰り広げる野合劇は、凋落が必死の自民を利する行為でしかないだろう。
 こうした野党の動きなど、自民党と大資本にとっては痛くも痒くもないのではないだろうか。これまでの小沢一郎がしてきたことの延長の政治的喜劇であり、政治的悲劇であり、政治的堕落なのである。こうした離合集散が生み出したのは政治不信と政治侮蔑と政治的諦念と、そしてやり場のない憤怒と絶望の感情を社会の中に膨れ上がらせ、時代の閉塞感を充満させただけなのである。
 こうした社会的な空気は、危険なファシズムの温床でもある。実際に安倍晋三のような軽薄なネオナチの心情を生きる政治家によって、社会的雰囲気を極右へと導いているではないか。

 二大政党制とは国民にとっては不幸である。
 小沢一郎は、安心して任せられる責任ある野党の育成による政権の移譲可能な二大政党制を説いたが、「安心して任せられる責任ある」という言葉は誰に向けて言われたものなのだろうか。わたしは国民ではなく、経済界(大資本)だと思っている。自民党と自民党亜種の政党だけが存在を許され、その二つの政党でたらい回しができればそれこそ願ったり叶ったりであろう。
 アメリカ社会がどうしてこれほど極端な格差社会になったのか、どうして巨大金融資本と超多国籍企業を野放しにしていられるのか、諸悪の根源は二大政党制にあると思っている。ほとんど同じ二つの政党の選択肢しか与えられていない牢獄に、国民が幽閉されているからだ。あたかも変わったような錯覚に陥るが、違いはバックで操る巨大資本の顔ぶれの違いだけである。巨大資本の姿によって性格は多少変わる。戦争を生業とする巨大資本と、国民生活に関連する巨大資本とは当然に性格が違うものである。が、本質は一緒だ。
 だから、民主党と共和党で政権をたらい回した結果が、超格差社会の出現なのである。
 アメリカの場合はレッドパージがあったことを忘れてはならないだろう。
 そして、二大政党制とはマスメディアによって世論操作を行えば、容易に独裁的な政治状況を作り出せるという危うさがある。安倍政権が見せてくれている。

 護憲、反原発、反TPPを明確に党是とした政党が野党にあるだろうか。社民党と共産党だが、社民党はあろうことか、橋下徹代表が自ら自民党の補完勢力だと明言した維新の党と選挙協力したのである。維新の党は護憲派ではなく、竹中平蔵をブレーンとしていることからも分かるように、新自由主義を党是に掲げている。自民党よりもドラスティックな規制緩和と市場開放を求めているのである。何を血迷ったか、と言わざるを得ない(笑)。
 わたしはどんどん野党再編をやればいいと思う。どうでもいいことだからだ(笑)。
 自民党と、そして特に経済界にとってもどうでもいいはずだ。敵をはっきりと共産党に絞り、日増しに大きくなる敵の姿に恐怖を覚えているからだ。
 わたしは既存の保守と革新は意味をなさなくなった。そして、自民党が日本の文化と伝統と、日本人の心の故郷である原風景を破壊している元凶だと言った。共産党こそが日本の文化と伝統と、日本人の心の故郷である原風景を守っている唯一の政党だとも言った。それが現在の政治状況としての真実であり、その真実の前に躊躇することなく、新しい対立軸と価値基準を共産党の主導の下に作るべきだと言った。
 沖縄の心と3・11の心の原点に立つことで、日本人のあるべき生きる姿を見据えて、未来の社会を描いて欲しいとも言った。その社会が共産社会なのだろうが、マルクスは共産社会を語ってはいないのである。マルクスが語っているのは社会主義社会に至る必然性であり、その先に共産社会があると言っているにすぎない。
 日本のあるべき未来として具体的に語るべきは、共産党だろう。そのあるべき未来の前には、既存の保守と革新の価値観は無意味なものになっているはずだ。既存の保守と革新の境界線が無意味になったとは、中道という概念も無意味になることである。従って、「社会民主主義」も無意味になることだと、わたしは断言できる。酷であるが、もう社民党の役割は終わったのかもしれない。既存の土台としての価値観が激しく揺れ動いている時代の転換期ならば尚更である。

 自民党と経済界(大資本)の恐怖はこれだけではない。
 わたしが上述した動きが既に起こっているからだ。
 わたしも認識が甘かった(笑)。既に共産党は実践しているのである。
 Twitterで共産党の重鎮、小池晃共産党副委員長がこんなことを呟いている。

 筑西市・樋口雷神社前で茨城県議選出陣式。氏子総代として神社を守った鈴木さとし県議、新中核病院建設のためにもなくてはならない議席、党派こえて守り抜こうと訴えました。神社前での選挙第一声は初体験。保守の皆さんとの共同の広がりを実感します。 

 写真がその出陣式である。
 この写真を見て正直びっくりした。想像もしなかったからだ。共産党の北陸信越ブロック事務所の手になった農業バナーのコピー「農業は国の礎」とともに、沖縄の心と3・11の心を生きる保守の人たちの心を、共産党が引き寄せているのは間違いない事実である。それをどこまで加速させるかが課題なのだろうか。
 北陸信越ブロック事務所の方のツイートでも、盤石なはずの保守地盤である石川でも共産党に賛同する保守の人たちが大勢現れ始めたようである。

 自民党が地方の地場産業と農業を破壊すればするほど、保守の心は共産党へと吸い寄せられていくのだろう。が、今の自民党にはそれを食い止める力はない。ネオナチ極右政党でしかないからだ。そして、経済政策は新自由主義そのものになってしまっている。TPPへと暴走するだろう。できるとすれば、金を地方にばらまくことだろうが、過去のようにそれで地方全体の経済が潤うという構造は崩れてしまっている。部分的な一次しのぎであるばかりか、地方の歪みをより大きくするだろうし、財政赤字がねずみ算式に増えていくことだろう。性懲りもなく、また大増税をするとしたら、永遠のイタチごっこである。いや、イタチごっこを通り越して破滅であろう。

 超国家主義は国家を絶対化し、新自由主義は国境を無くして市場の一元化を目差す。共存できそうにないように思えるが、国家を隠れ蓑にして強大な軍事力で市場の一元化を図るのである。経済は新自由主義、政治は超国家主義という分裂症をネオナチ安倍自民党は生きている。ネオナチの色彩を強くすればするほど、軍需産業への傾斜は強くなるだろう。ベトナム戦争で使われた非倫理的な枯れ葉剤を作ったモンサント社が、農薬などを作る化学会社であることを見れば分かるように、戦争とは様々な産業が関わっている。化学肥料は行程を少し変えるだけで爆薬にもなる。

 良質な保守の心が反自民へと変わり、共産党へと雪崩れていくことを、最早止めることは不可能なのではないだろうか。
 こうなると、共産党への風当たりは強くなるだろう。
 自民党だけではないはずだ(笑)。露骨な反共キャンペーンが繰り広げられるのだろうか。アベノミクスの破滅的な破綻は早晩やってくるはずだ。国民生活の惨状も深刻となるだろう。自民党と経済界(大資本)にとってはのっぴきならない危機的状況だ。だからこそ共産党への恐怖は増幅されるだろう。
 共産党への恐怖心が、戦前のような極右独裁軍事政権の道へと加速させて、奈落へと続く坂道を転がり落ちていくという危険性も考えられる。反原発と護憲は国民の大多数を占めている。沖縄の圧勝も共産党を決して孤立させることはないはずだ。戦前とは違い明らかに状勢は明るい。
 共産党へと結集した国民と、ネオナチ安倍政権との本当の戦いはこれからが正念場なのだろう。

 
 仕事は来春一月からになった。
 妻から12月は時間を貰えることになった。有り難い(笑)。
 書きかけの豊後竹田を舞台とした小説を書き上げようと思う。
 信じられないことに、このブログの訪問者がここ数日千人を越えている。これも共産党効果なのだろうか。怖いくらいだ。わたしの力ではないと、謙虚さは忘れないつもりだ(笑)。
 これに便乗して(もう謙虚さを忘れている)、本職(?)の小説を読んでいただこうか、などと虫のいいことを企んでいる。
 明日(19日)の夜から長編小説『僕の夏よさようなら』と、3・11を題材にした中編小説『故郷』を無料キャンペーンにするつもりだ。規定により5日間しか無料にできない。よろしければ、読んで下さい。お願い致します。

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 総選挙が終わった。
 わたしは共産党の私設応援団としてTwitterの世界で勝手に応援していたのだが、共産党の目標だった衆議院の議員立法に必要な20議席よりも一つ多い21議席を獲得した。改選前が8議席だから大躍進といっていいだろう。
 有権者の二人に一人しか投票していない戦後最低の投票率からみると、反自民の浮動票を一手に呼び寄せたのではないだろうか。
 自民党と公明党は宗教関係の盤石な組織票がある。この組織票は不動だということを、この選挙は証明してみせたのだろう。今後、この組織票を切り崩すというのは余程のことがない限り難しいのではないだろうか。上意下達的な命令系統が信仰の形で出来上がっているのだから、思考停止状態に陥り、マインドコントロールされた閉じられた信仰空間に幽閉されている世界を打ち破るのは容易なことではないだろう。
 一時期勢いがあった維新の党は、現状維持であり、はっきりと勢いが衰えたことが証明された。そして、橋下徹代表が自民党の補完勢力であることを明言したのだから、消滅したみんなの党の後を追いかけるのではないだろうか。
 次世代の党は壊滅的な打撃を受けた。18議席から2議席へ減り最早、風前の灯火である。
 考えれば必然的なことだ。安倍晋三を代表とする自民党が、かつての自民党ではなくなり、ネオナチ極右政党に変質を完了したからだ。極右政党である次世代の党が存続する意味を失ったのである。ネオナチ極右政党である自民党に飲み込まれたのである。
 特筆すべきは、次世代の党を飲み込んだのであるから、16議席を自民党が改選前の議席に上乗せできたはずなのであるが、圧勝したはずの自民党は改選前の議席数を減らしているのである。
 民主党は現状維持であったが、生活の党と、消滅したみんなの党から移った議員がいたのであるから、実質的には惨敗といえると思う。
 小選挙区制という悪しき選挙制度の産みの親である小沢一郎を代表とする生活の党は2議席を確保したが、小沢一郎の政治的生命は実質的に終わったと、わたしは思う。小沢一郎を核とした野党再編による新党の誕生はないだろう。小沢一郎の政治的吸引力とフィクサーとしての力は完全に衰退したといえる。
 こうして見てくると、勝ったのは共産党ただ一党だけなのである。詳しいデータはまだ見ていないが、恐らく共産党の得票数は驚異的に伸びたのではないだろうか。共産党の志位委員長が盛んに強調していた自民vs共産の構図そのものだったのだ。
 わたしは北陸信越ブロックの比例候補である藤野保史さんと、東京12区の候補、池内沙織さんを熱烈に応援していたのだが、嬉しいことにお二人とも当選した。昨夜は独りで祝杯を挙げたのである。実に美味い酒だった。

 沖縄は歴史的な選挙結果だった。
 オール沖縄の完勝であり、沖縄の小選挙区での自民党の議席をゼロにまで追いやった。知事選での圧勝で芽生えた沖縄の心が誠であったことの証左だろう。
 沖縄でできた野党協力がどうして本土でできないのか。共産党は全選挙区に候補を立てて野党協力の足並みを乱し、自民党を利しているという的外れな意見があるが、どこに目をつけているのかと批判したい。目が節穴だとしかいえない。
 わたしは護憲と反原発、そして反TPPの三つで支持する政党を決めていたが、選挙の公示前には社民党と共産党との二つを応援していた。しかし、社民党が維新の党と選挙協力するという暴挙を知って幻滅したのである。
 前のブログで何度も書いたが、この総選挙が歴史的な分岐点の選挙であり、歴史的な瀬戸際の選挙であるという根本的な認識が欠けているとしか言えない。そして、オール沖縄の本質的な意味を分かっていなかったのではないか。単なる従来の選挙協力としか認識できていなかったと断言できる。そんな社民党が民心を掴めるはずはない。野党協力という虚実に飲み込まれて、いやがおうにも蔭が薄くなるからだ。それでなくとも共産党と民主党の間にあって蔭が薄いのに、自殺行為としかいえないだろう。
 
 オール沖縄と本土の野党協力との根本的な違いは何か。
 それを論じる前に、わたしはオール沖縄の心は、本土の選挙でも生きていたと直観した。まだはっきりとしたものではないが、共産党の大躍進こそが沖縄の心に通じていると、わたしの文学的直観が叫んでいるのだ。
 わたしはこの一つ前のブログでも触れたのだが、共産党がこれから本気になって政権を狙うとすれば、沖縄の心の方向性でしかあり得ないと考えている。
 では、オール沖縄とは何か。沖縄の心とは何か。本土の野党協力と何処がどう違うのか述べていきたい。
 オール沖縄とは保守と革新とを超えている。つまりは、従来の保守の価値基準と革新の価値基準を超えているのだ。保守と革新を超えて違った価値基準を共有できたから、沖縄の心にまで昇華できたのである。従来の保守と革新のそれぞれの価値基準よりも、より根底にある価値基準にまで降りてきて、虚心坦懐にその地点に立ち、在るべき未来の沖縄の姿を真摯に想い描いたから見えてきた、新しい未来を生きる価値基準なのである。ここに、従来の保守と革新のしがらみや利害関係、そして薄汚れた金に塗れた利権が入り込む余地はない。沖縄人の生きる原点に回帰したのだと、わたしは思っている。この心を沖縄の心と名付けたのである。
 この沖縄の心に回帰できたのは、沖縄だからこそだと、わたしは思っている。沖縄の歴史がそうさせたのだ。
 本土の盾にされた地獄絵となった戦争体験を経たからだと短絡的に考えがちだが、当然に戦前の戦争体験もあるが、わたしはもっと奥深いところにある沖縄の歴史を貫く魂のようなものが、沖縄の心へと回帰させたのだと思う。
 沖縄における保守と、本土におけるいわゆる保守とは、本質的に違うのではないだろうか。
 いわゆる本土の保守は国家主義者なのである。これはどうしてかというと、上からの近代化革命で成立した明治維新国家が、統治装置として社会の中に巧妙に組み込んだ国家神道と教育勅語が影響している。国家神道とは近代的国家主義そのままの世界観だ。この国家主義の操縦を誤って、超の形容詞がつく超国家主義へと雪崩れていき、侵略戦争の破滅の道に転がり落ちたのであるが、日本の国家主義の思想的核である国家神道の起源は、古事記の神代記にまで遡るものである。そして、この神代記に記されていることが国体であり、国の始まりだとするのだ。いわゆる右翼は国家神道を信奉するものである。いわゆる保守も古事記の神代記を国の始まりとし、国体とするのである。この共通性があるから、国家主義というもので右翼と保守とが一体となり、右翼と保守の概念が曖昧となっているのが本土の政治的状況なのではないだろうか。
 古事記は律令国家体制を正当化するために、権力奪取に成功した勢力によって意図的に編纂されたイデオロギーである(上山春平『神々の体系』中公新書)。神道自体がそれまでの古代神道から全く異質の国家主義的な色彩に塗り固められて(神道革命)、最初の国家神道へと意図的に歪められたのだ。禊ぎという神道に固有だと思われていた思想も、このときに生まれたものである。
 しかし、この律令国家主義と、近代化革命によって樹立した明治維新国家主義とはそもそも異なるものである。同じ国家神道でも全く違うのである。どこが違うかというと、「近代主義的」国家主義だという事実だ。

 話しが脇に逸れてしまったが、本土のいわゆる保守を自認する者は、古事記の神代記を国の始まりであり国体とするのであるが、律令国家体制とは二千年前に半島から異文化を携えて大量に移住してきた弥生人によって打ち建てられたものだ。古事記が律令国家体制を正当化するイデオロギーだとすると、弥生人が日本に移住する前の歴史を抹殺したということになるだろう。つまり、日本人の源流である縄文時代と縄文文化を抹殺したということなのである。だから、いわゆる保守を自認する者は、日本の歴史の始まりを弥生時代から語るのだ。
 わたしは保守主義者だが、わたしは縄文文化が日本の歴史の始まりであり、縄文人の心が日本人の魂の故郷だと思っている。つまり、古事記の神代記から自由であり、国家主義からも自由である。国家よりも前に、日本という大地と風土にしっかりと根を張って、自然と共に生きて、平和を貴ぶ暮らしを頑なに守ってきた縄文人の心を懐かしがる者である。そして、日本の風土が育んだ暮らしそのものである文化と伝統と、何よりも故郷の自然と、日本の原風景を愛する者である。

 さて、やっと沖縄の保守を語れる地点にまで辿り着いた(笑)。
 沖縄の保守とは、わたしの唱える保守主義と近いのではないだろうか。沖縄と東北は縄文人の面影を色濃く宿していることが科学的に証明されている。新モンゴロイドの弥生人に対して、縄文人は古モンゴロイドなのだが、沖縄の保守は古事記の神代記から自由なのである。だから国家主義者ではなく、国の前に、祖先の魂そのものである沖縄の海と自然と、暮らしと文化と伝統を何よりも愛するのである。国家というものから自由なのである。愛国と国防と国益が大好きな本土のいわゆる保守との決定的な違いだ。
 保守と革新を超えて沖縄の心という原点に回帰できたのは、思えば不思議ではない。党利党略でしかない本土における上辺の野党協力との根本的な違いだ。
 忘れてはならないのは、沖縄の心とは3・11の心でもあるということだ。大飯原発稼働差し止め訴訟に対する福井地裁の判決文は、紛れもなく沖縄の心に通じたものだ。政治的、そして経済的価値を超えた日本人のあるべき生き方の原点に立って、発せられた尊い願いだからだ。
 人間中心主義ではない自然との共存と、経済至上主義と科学万能主義に対する警告、そして命を貴ぶ精神と自然破壊を許さない循環型社会を謳い上げている。これは正しく沖縄の心であろう。
 
 共産党の大躍進は沖縄の心に通じていると書いた。
 共産党はがちがちの教条主義的な社会主義を柱とするという通念と思い込みと、反共教育の名残がまだ根強く生きている。だからTPPで自民党に騙されても、まだ懲りずに自民党に投票するのだ。地方の農村の惨状は都会で想像するよりも悲惨なものである。安倍自民党政権の最大の被害者だと言えよう。それでも自民党に投票するという事実は何を語っているのか。
 農民が馬鹿だからだと切り捨てたとしたら、自民党を見限った農民は政治不信に陥り絶望の縁を彷徨い歩くことだろう。都会の中小零細企業の経営者と労働者も同じである。これを現状の日本における政治的悲劇といわずに何というのだろうか。
 保守党とは故郷の風景と暮らしと伝統と文化を守り、大地にしっかりと根を張って生きる農民の暮らしと長閑な農村の風景を守ってくれる、という思い込みと偏見から開放してやる以外にないのではないだろうか。
 不破哲三前議長を招いての京都での共産党の演説会があったが、西陣織に携わる来賓の方の話しを聞いて、わたしは確信したのだ。いわゆる現状の保守党が、農民や中小零細企業の経営者の頭に刷り込まれている共産党であり、現実の共産党こそがいわゆる保守党の役割をしっかりと行っているという事実は今や揺るぎないものだ。農業政策においても、自民党は破綻が証明されているアメリカ型の大規模農業を強引に取り入れようとしているのに対して、共産党は日本の風土と自然環境に適した農業を目差している。
 保守と革新という従来の対立軸をこのまま存続させていては、自民党を利するだけだと思えてならない。偽りの保守の仮面に守られて、民衆を欺いているからだ。自民党は過去の反共教育と明治維新以来の保守と革新という虚しい言葉に未だに守られているのである。
 不破哲三は自民党はかつての自民党ではなく、ネオナチ極右勢力に乗っ取られた自民党の仮面を付けた政党だといった。自民党の重鎮であり、かつての自民党の申し子だった野中広務も同じ想いを口にしている。そして、変質した自民党に対抗できる政党は共産党しかいないと断言している。この言葉を共産党は厳粛に受け止めるべきだ。わたしは野中広務が共産党に訴えているとしか思えない。何を訴えているのかというと、かつての自民党に生きていた保守的な心を救い上げてくれと哀願しているのではないだろうか。
 共産党は、故郷とか祖先とか魂とか、そして原風景とか鎮守の森とかの言葉を、意識的に避けているのではないだろうか。民俗学的な日本人の心と風景と暮らしと文化と伝統と慣習にまつわる言葉である。こうした言葉を破壊している元凶は偽りの保守の仮面を被った自民党であり、必死に守ろうとしているのは共産党である。それが真実だ。その真実の前に躊躇っていては、永久に政権奪取は叶わないのではないだろうか。
 従来の保守と革新の対立軸と価値基準に代わるべき、日本の未来を見据えた新たな対立軸と価値基準とを、共産党が主導して作り上げるべきではないのか。そうでないと、保守と革新という意味がなくなった言葉の牢獄に閉じこめられた、日本人を救い出すことはできないのではないだろうか。現在の政治的状況を踏まえると、共産党しか救い出すことはできないだろう。

 最後にこれからの展望を記しておきたい。
 安倍自民党が推し進める経済政策は破綻しているのが明白だ。海外では当たり前に認識されている事実だが、大本営報道機関にまで堕落したマスメディアが荷担して、国民の目と耳を塞ぎ隠している。が、狂気とも言える金融緩和による円安誘導と、税金と年金基金を湯水のごとく注ぎ込んで株価をつり上げている政策は、実体経済との乖離矛盾に押し潰されて、破滅的な調整期がやってくることは間違いないと思う。そうなれば、いやがおうにもアベノミクスの化けの皮が剥がれずにはいない。国民生活と地方経済の疲弊は頂点に達するのだろう。
 それは自民党と、そのバックにいる経済界にとっては危機的状況なのだろう。一番に恐れるのは無視できない共産党という存在だ。人心がそちらに雪崩れて行くことを避けようとするのではないだろうか。内憂を外に向けるのは常套手段だ。議員定数の過半数を占める絶対的な安倍政権だ。特定秘密保護法と集団的自衛権で暴走する可能性は否定できない。
 それを阻止できるとすれば、共産党に結集した国民の力だろう。そんな近未来を妄想している。

 藤野保史さん、池内沙織さん、当選おめでとうございます。
 国会での勇姿を見るのを愉しみにしています。
 ということで、共産党の私設応援団を当分は続けなくてはならないのだ(笑)。

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