辺野古の美しい海を眺めている。
悔しいことに写真だ。
潮騒の音が、遙かなる太古の森から囁きかけてくる。
過去と現在と未来を巡ってきた風が、青々と揺らぐ海原から吹き寄せてくる。
潮騒の音色と風の匂いが、わたしの心に絡まりついて揺すっている。遙かなる太古の森に息づく、命たちが奏でる音と匂いだ。
日本の美しい原風景である里海だ。そして、日本人の心の原風景でもある。わたしは沖縄生まれではない。沖縄に行ったこともない。が、この辺野古の海がわたしの心の原風景だと、何物かが囁きかけてくるのだ。何物とは何か。遙かなる太古の縄文の森と繋がっている、わたしの魂なのだろう。そうとしか思えない。
2008年に亡くなった在野の民俗学者、吉野祐子の著作を読んでいるからだろうか、沖縄に日本人の心の原風景が今でも色濃く息づいているような気がしてならない。わたしの文学的直観でもある。
『共産党の私設応援団としての総括と、未来を見据えた提言と展望』と題したブログで、わたしは沖縄の心と、沖縄の保守について論じたが、この論は吉野祐子の民俗学に負うところが大きい。
この辺野古の海を埋め立てようとする心情が理解できない。
この辺野古の海を見ても心が痛まないのだろうか。愛国の名で、この美しい辺野古の海をこの世から消し去ろうとする醜い心を断じて許すことはできない。
その醜い心が愛する国を、誰よりも憎悪する。
その醜い心が愛する国と、辺野古の美しい海とを秤にかけることがそもそも沖縄の海と、沖縄の心に対する冒涜だ。醜い心が愛する国など滅ぶがいい。沖縄の美しい海と、沖縄の心こそ守るべき宝だ。
沖縄の心をどう捉えるか。
Twitterで琉球新報12月27日付けの記事を見かけた。『佐藤優のウチナー評論』という連載があるのだろう、「反知性主義とナルシシズム」という標題の評論が、ツイートで紹介されていた。
わたしは素人のブロガーであり、評論めいたものを書いているが、文学的な評論であれ、政治的な評論であれ、昨今のプロの評論家の質の悪さを痛切に感じる。
いやしくもプロである。評論で飯を食っているはずなのだが、テレビの低劣なコメンテーターと変わりが無い。嘆かわしいとしかいいようがない。
評論家とは畢竟、眼力の鋭さがすべてだ。そうわたしは信じている。その眼力とは心の眼であり、直観的な感性だろう。
思索はその後の話だ。閃光となって心の眼に突き刺さった直観の意味と、それが何処からやってきたのか辿る道程が思考の旅だ。わたしの師である、『日本浪漫派批判序説』を著した橋川文三から教えられた評論の心である。肉声で教えられたのではない。橋川文三の著作を辿ることで教えられたのだ。
評論のための評論など誰でもできる。単なる切り口を変えるだけでいいからだ。だから本質を突けない。本質とは無関係のことを言葉巧みに論じているだけなのである。
いつもなら、大きな溜息を吐いて見なかったことにするのだが、沖縄の心のことだけに見過ごすことができない。何処からやってきたのか、憤りさえ覚える。もう、腹に留めておくことなどできなくなった。
他人の評論を直接取り上げて批判することは好まないが、沖縄の心とは何か、その心が歴史的な転換点になる原点であると思うだけに、矮小化はされたくないのである。歴史的な転換点とは日本史的な意味は勿論のこと、世界史的な意味があると、わたしは確信している。
佐藤優は、「反知性主義とは『客観性、実証性を軽視もしくは無視して、自分が望むような形で世界を理解する態度』のこと」と、反知性主義の概念を説明した上で客観的な事実を列挙していく。
沖縄が全国の0・6%の陸地面積に過ぎず、その猫の額ほどの所に在日米軍基地の74%が集中してるという異常性と、那覇市長選、沖縄県知事選、総選挙で示された沖縄の民意とを、安倍政権は全く無視しており、客観的事実を認めようとしない姿勢は反知性主義であり、国際的孤立と沖縄の分離傾向を加速させることに気付かない、と断じている。そして、沖縄の一部の保守主義者に言及し、「反知性主義とナルシシズム(自己陶酔)を併せ持つ」永田町の政治に「過剰迎合するのが保守だという幻想から離れ、沖縄に根差したほんものの沖縄保守に転換」し、全ての沖縄人が結束すべきだ、と論じているのである。
反知性主義を評論のキーワードにしているが、反知性主義を持ち出す必要性がどこにあるのだろうか。不思議である。反知性主義が先ずあって、それに無理矢理に沖縄の心をくっつけているとしか思えない。
あたかも反知性主義が諸悪の根源のような論理なのである。では、知性主義だったら沖縄問題が解決されるとでもいうのだろうか。
知性主義と反知性主義とで歴史を俯瞰する方法は、嫌と言うほど使い古されてきた。理性と感情も同じである。理性と感情、知性と反知性で歴史をばっさりと切り捨てるなど愚かであり、怠慢である。理性と感情は対立するものではない。背中合わせで成り立つものだ。
未開の原住民を銃で殺戮し、森から追い出して土地を奪い、そこにプランテーションの農場を作ることは知性主義なのか、反知性主義なのか、どちらなのだろう。原住民には知性がないから、原住民を反知性主義とでもいうのだろうか。
少なくとも知性があれば戦争が回避でき、理性があれば戦争が回避できるというのは、それこそ幻想でしかない。何故なら、戦争の中でさえ知性が働き、理性が働いているからだ。そうでないと戦略など立てられない。
理性的に人殺しをし、知性的に人殺しすることがあり得ることを、歴史が証明してくれている。ナチスが収容所に監禁したユダヤ人を虐殺する方法とプロセスには、理性と知性が介在していたのではないのか。如何に効率的に殺すか。そして、医学的実験として活用できるか。そこに知性と理性がなかったとは言わせない。ニヒリズムに毒され切った理性と知性ほどおぞましいものはない。ナチズムの恐ろしさは、人間らしい感情の破壊という側面だろう。
安倍自民党は佐藤優が列挙した事実など百も承知だろう。その上で無視しているのだ。
歴史とは勝者によって書かれたものだ、とはよく言われることだ。岸信介がA級戦犯となった戦争を、日本が勝っていたならどうなっていたか。全く違った意味と評価になりはしなかったか。安倍晋三の中の幼稚な知性と理性は、そう問いかけているのだろう。そして、安倍晋三の幼稚な知性と理性で、歴史を書き換えると本気で考えているのかもしれない(笑)。
客観的事実も視点と立ち位置で変わる。デモを官憲の側でみるのと、デモ隊の方から見るのとでは、見える風景が全く違ったものになる。
沖縄の心とは、知性と理性で考えても永久に分からないだろう。
そんなものをはるかに超えたものだからだ。
写真の老人の姿が厳粛に語ってくれている。
純粋な日本人としての心で、辺野古の美しい海を眺めてみるがいい。
潮騒と風に抱かれて、沖縄の心を感じてみることだ。
この美しい海が埋め立てられて、この世から消え去ろうとしている。祖先が大切に守り育ててくれた里海だ。遙かな時間が海の色となって溶け込み、夥しい祖先の魂と心が息づく海だ。打ち寄せる波は、遙かなる時間と祖先の魂と心を乗せて、ひたひたと白い浜辺へと打ち寄せてくる。
足に絡まりついた波が、日本人としての心を揺らすだろう。
この美しい海を失ってはならない。子や孫へと受け継いでいくべき尊い宝だ。この美しい海よりも重い価値など何処にもない。それが、沖縄の心の原点なのだろう。そして、沖縄の心を日本人の心の原点にしなければならないのだろう。
経済的価値も、政治的価値も、この美しい海を前にして意味を失ったのだ。当然に保守と革新などという垣根はどうでもいいものとなって、意味を失ったのである。
米軍基地にされてしまうから辺野古の海を守ろうとしたのではないはずだ。辺野古の海がこの世から消されることが許せなかったのだ。米軍基地が初めにあったのではない。消される原因が米軍基地だったということだ。が、原因である米軍基地だけに注目してしまうと、本質が見えてはこないはずだ。
佐藤優の眼は、米軍基地に吸い寄せられてしまっている。だから本質から外れた評論を書くのだし、沖縄の心が分かっていないのだ。
わたしは沖縄の心が、歴史的な転換点だと何度となく言っている。
そして、それまでの価値観と世界観に代わるべき、新しい時代を切り開き、新しい未来へと日本人を導く松明になると言っている。また、沖縄の心は3・11の心としっかりと結びついたものであるとも言っている。
人間中心主義から自然との共生を高く掲げ、経済至上主義と経済成長神話から自由になって、自然に負荷のかからない循環型の社会を目差し、風土に根差した暮らしと生き方を基本にした文化と伝統を大切に守り育てていく、反戦と平和を基本にした社会へと向かう心が、沖縄の心であり3・11の心だと思っている。
原発と米軍基地とは根っこが一緒だ。福島の大地を汚し、沖縄の自然を破壊するものだ。そして、どちらも国策である。原発事故は現在進行形で収束とはほど遠い事態であるにも関わらず、あたかも過去の話のように情報操作がなされている。放射性物質で汚染された福島の大地と住民は、国から見捨てられたのだ。そして、沖縄辺野古の海も国から見捨てられようとしている。
満蒙開拓団と本土の開拓地を考えてみよう。
この二つも国策であった。が、満蒙開拓団は関東軍と国から見捨てられて、南下するソ連軍の人間の盾にされたのである。国から見捨てられたばかりか、国に人柱になることを強要されたのである。
内地の開拓地も同じだ。酷寒の大地で生死を彷徨いながら開拓した北海道の開拓史を紐解くまでもない。全国各地の開拓地がそうだったのである。だからこそ血と涙が沁み込んだ、豊穣な大地へと姿を変えた第二の故郷を、誰よりも愛おしむ心を育んだのだろう。その祖先の血と涙と思い出が染み付いた豊穣の大地が、荒れ果てて寂れ、限界集落へと姿を変えつつある。国から見捨てられようとしているのである。
リニアの問題とは第二の原発だろう。
すべてが結びついているのである。その核となっているのが、沖縄の心と3・11の心なのではないだろうか。
沖縄の心と3・11の心を通して見たから、本質が見えてきたのではないだろうか。これまでの価値観と世界観と生き方、そのものが根底から問われ始めたのだ。そして、沖縄の心と3・11の心の地点に立つことで、新しい歴史が動き始めたことを実感し、新しい未来の姿が見えてきたのではないだろうか。
新しい歴史を歩み出し、新しい未来を切り開こうとするなら、日本人は今こそ沖縄の心と連帯し、沖縄の心を自分の心に変えて結集すべきだろう。
連帯は日本に限ったことではない。沖縄の心と3・11の心とは、世界にとっても歴史的転換点だと、わたしは確信している。現代社会の土台的な意味での価値観と世界観である西欧近代主義が行き詰まり、それに代わるべき価値観であり世界観だと思うからだ。西欧でも沖縄の心と3・11の心と通じたものが芽生え初めている。そうした流れと合流し、連帯するのは可能だし、積極的に交流すべきだろう。
歴史の転換点が沖縄から始まっている。
それは揺るぎようがない真実だ。
ネオナチ極右政党である安倍自民党の打倒は、沖縄から始まる。辺野古の美しい海をこの世に残すことこそ、安倍政権にとって最大の打撃になるだろう。急所だからだ。その地点から坂道を転がり落ちるようにして、安倍自民党の自壊が始まる。
真っ赤な花となって咲いた沖縄の心が果実を結ぶとき、3・11の心もまた果実を結ぶだろう。原発が日本から葬り去られる日だ。
だからこそ、日本人としての心を、沖縄の心へと結集すべきなのだ!
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今年のブログの最後を、沖縄の心で締めくくりたいと思います。
沖縄の心が歴史の夜明けを語ってくれています。新しい歴史が始まるのです。その声がはっきりと聞こえます。
これまで拙いブログを読んでいただき、心より御礼申し上げます。ありがとうございました。
来年も引き続き、よろしくお願いいたします。
来る年が皆様にとって、そして沖縄と日本人にとって、素晴らしいものであることを願わずにはいられません。
よいお年をお迎え下さい。
小説はキンドル版の電子書籍として出版しています。