わたしは日本の童謡を愛している
日本の風土が育んだ抒情的な世界が謳われているからだ。
菜の花畑に、入日薄れ
見わたす山の端、霞ふかし
春風そよふく、空を見れば
夕月かかりて、にほひ淡し
里わの火影も、森の色も
田中の小路をたどる人も
蛙のなくねも、かねの音も
さながら霞めるおぼろ月夜
わたしの好きな『おぼろ月夜』の歌詞であるが、わたしはこの『おぼろ月夜』こそ日本における保守主義の心と魂だと確信している。
この詩には風景を見ているはずの人の視点が消え去っている。対象としての風景ではなくなっているからだ。人の心と風景の心とが溶け出して淡いにほひを放っているのだ。風景の心であって、人の心でもある。風景と人の心の境がかき消えてしまっているのだ。
菜の花畑も入り日も、春風も空も夕月も、風景であって人の心なのである。そして、里わの火影も森の色も、蛙の鳴き声もかねの音も、風景であって人の心なのである。その境がない世界を象徴しているのが、すべてを淡いにほひでぼんやりと霞ませているおぼろ月夜なのであろう。
雨の多い日本の湿潤な風土性が『おぼろ月夜』に謳われているような、風景と人との曖昧な関係性を育んできたのだろう。対象としての風景の輪郭と色合いが曖昧であるから、その曖昧な世界に息づく無限の色と匂いを感じられるのだろう。日本人は茶という色に四十八の名前を付けている。鼠色に至っては百の名前があるのだ。微妙な色合いを見出しているのであるが、これは目で見たのではなく、その曖昧な世界へと引き寄せられていった人の心が感得したからこれほどの色の違いを見分けられたのだろう。目ではなく心で感じたのだ。だから色と匂いへの愛着が増したのではないだろうか。
こうした物の見方は感覚的認識といわれている。小泉八雲は「神さびる」という言葉に日本的な感覚的認識をみているが、鋭い指摘だと思う。
日本における感覚的認識は、西欧における認識の仕方とは違っている。西欧においては如何に対象としての風景を客観的に把握するかということに腐心したのだ。客観的に突き詰めることで真理が見えてくるという発想である。
丸山真男は西欧的な意味での徹底したリベラリストである。丸山の学問的方法論は、西欧的民主主義を歪めている日本の中に息づく負の遺産を断罪し、あるべき姿に変えていくことで、日本に西欧的な意味での民主主義を根付かせようとしたものだ。従って、丸山においては日本の感覚的認識は、物事の本質を曖昧にし、うやむやにしてしまう悪しき感性にしか見えなかったのだろう。日本には基軸としての思想がないと言っている。基軸がないから思想的進歩がなく、いつの間にか思想的祖先帰りという破廉恥を平然と犯すことになるとばっさりと切り捨てている。そして、日本的な物事の本質を曖昧にして忘れ去る感覚的認識が超国家主義の台頭を可能とし、ずるずるべったりと現実に引き摺られて戦争という奈落の底に転がり落ちていったと断罪したのだ。
学生時代のわたしは、丸山学派であった橋川文三に教えを受けていたので、丸山の考えに近い立ち位置にあったのだが、橋川文三は丸山学派の中にあって異端的存在だった。その影響を受けたわたしは次第に丸山の考えに疑問を覚え、終には「里山主義」という新しい保守主義を提唱するまでになったのである(笑)。
童謡の『おぼろ月夜』の歌詞をもう一度読んでいただきたい。
ここで謳われている感情は明らかに人間中心主義ではない。蛙と人とを等しく観ている。そして、自然の心と人の心とが共鳴し合いながら呼吸する世界を謳い上げている。自然を対象として見る視点はない。そして、自然を人の思いのままに変えていこうとする視点もない。里の火影と田中を歩いている人に懐かしさを覚えているのだ。人と人の在り方もまた、自然と人の在り方と同じく共鳴し合い、共生していこうとする感情を謳っているのではないだろうか。つまりは、棲み分けと平和を愛する心を謳っているのである。
『おぼろ月夜』と西欧的リベラリズムとの違いは何だろうか。
わたしは根底的な価値観と世界観との違いを感じずにはいられない。この価値観と世界観の違いこそが、わたしの提唱する新しい保守主義である「里山主義」なのである。
では、日本における保守主義とはどういうものなのだろうか。
いわゆる保守主義者に尋ねたい。
あなたは『おぼろ月夜』という童謡を知っていますか?
『おぼろ月夜』という童謡が好きですか?
『おぼろ月夜』で謳われている感覚を生きたことがありますか?
『おぼろ月夜』で謳われている抒情を愛していますか?
何故にこうした質問をするかというと、日本を愛するという感情がどういう種類のもので、その感情は何処からやってきているのかを知りたいからだ。わたしはいわゆる保守主義者とは、『おぼろ月夜』の抒情の世界とは無縁の人たちだと看破している。こうした細やかで柔らかな抒情を生きたことがない人たちだと断言できる。
その言動をみれば、『おぼろ月夜』とは真逆のものだからだ。感情的な言動ではあるが、その感情は言葉の厳密な意味での日本の抒情ではない。粗野であり、暴力的であり、排他的である。『おぼろ月夜』の抒情と無縁であり、『おぼろ月夜』の世界を愛することはおろか、そうした世界を足蹴にする感情を生きている。それなのに愛国をいうのである。わたしは不思議でならない。
愛国の「国」とは何か。『おぼろ月夜』の抒情とは無縁であり、つまりは日本的な抒情とは無縁の「国」である。伝統と文化を愛しているというが、言葉の厳密な意味での日本の伝統と文化とは、『おぼろ月夜』の世界に息づく抒情と感覚が土台にあるものだ。いわゆる保守主義者のいう伝統と文化とは、そうした抒情と感覚とは無縁の国体であったり、武士道であったり、散華の精神であったり、つまりは菊と刀なのだ。国家神道と教育勅語の世界観で塗り潰されたものだ。
海外に目を向けてみよう。
世界を闊歩している新自由主義は、皮肉なことに右翼勢力を生み出している。危惧すべきことに、その傾向が著しくなってきた観がある。ドイツではネオナチの台頭が問題になったりもしている。こうした勢力が掲げる合い言葉は「愛国」と「民族」である。韓国にもこうした勢力はいるし、中国にもいる。「イスラム国」も新自由主義が産み落としたという意味では同じようなものだ。
日本にもネオナチ紛いの勢力があり、ネトウヨや在特会のような勢力があり、「愛国」を叫んでいる。
これらの勢力と、先に挙げた外国の勢力との違いはあるのだろうか。
わたしはまったく同じだと思う。伝統と文化と言っているが、それはただの看板(実際の奥深い伝統と文化とは無縁)であって、心情的には同じで、粗野で暴力的で排外的である。どれも『おぼろ月夜』の世界に息づく感情と情緒とは対極にあるものである。
こうした勢力が、支配層に取り込まれたり、自らすり寄っていくのも同じならば、支配層に巧妙に操られているのも一緒である。
鏡に映った己の顔を己とは認識できずに、仮想敵国の顔だと言って侮蔑し合い、罵り合っているだけだ。そして、鏡に映った自分を相手に本気になって戦争を始めようとするのである。滑稽でしかないのだが、こうした輩を蔭で操り、国民を悲惨な戦争へと駆り立てていくのだから害悪でしかない。
日本においてはこうした勢力が保守を名乗っているのだ。だから、保守=愛国と認識されているのである。言葉の厳密な意味での保守主義とは、わたしは『おぼろ月夜』の抒情の世界を愛する心だと思っている。それが基本にあるから、日本を愛するのだ。日本という国を愛しているのではない。日本という風土と風景と、その風土と風景が育んだ抒情と心に彩られた文化と伝統を愛するのである。
いわゆる保守とは、そうしたものとは無縁であり、愛国の名の下に『おぼろ月夜』の世界に息づく情感と平和を求める心と、自然と共に生きようとする心とを、土足で踏みにじるものである。
原発再稼働を企て、TPPを推進する保守があろうはずはない。『おぼろ月夜』の世界を平然と破壊しようとする保守の仮面を被った醜悪な超国家主義でしかない。
『おぼろ月夜』の抒情の世界に懐かしさを覚える保守という心が、愛国という卑しい醜悪な牢獄に幽閉されているのだ。これは日本の悲劇でしかない。何故ならば『おぼろ月夜』の抒情の世界を愛するが故に、保守を騙る安倍晋三のような超国家主義にして新自由主義という分裂症を生きている政治屋の巣窟である自民党に投票するという愚行を怪しまないからだ。洗脳といってもいいだろう。
世界は激動期に入った。これまでの価値観と世界観が根底から揺らぎだしたからだ。その象徴が市場という唯一にして絶対の神を崇めるニヒリズムの権化である新自由主義である。イスラム国を産み落としたのは新自由主義である。新自由主義が世界的規模での激動を産み落としているといっても過言ではない。市場を神と崇めるニヒリズムの権化である新自由主義とは、西欧的近代主義が行き着いた末期的な病巣なのではないだろうか。これまでの価値観と世界観が揺らいでいるというのは、そうした意味である。
超格差社会がやり場のない憤懣で満ちあふれ、粗野で暴力的な勢力に吸収された憤怒が排外的な仮想敵へと向けられていく。
これは反知性だからではない。理性が働かないからでもない。日本だけの現象ではなく世界的な傾向なのである。
それは何を意味するか。
日本的な感覚的認識が悪いのではない。『おぼろ月夜』の抒情の世界に懐かしさを覚える日本人の心情だからこうした現象が起きているのでもない。いや、むしろ逆であろう。『おぼろ月夜』の情感がないから、全世界にこうした勢力がいともたやすく台頭したのではないだろうか。
記憶に定かではないが、日本の童謡の中に超国家主義的な心情の萌芽を見出した評論家が過去にいたように記憶しているが、わたしは少なくとも『おぼろ月夜』の抒情の世界はそうしたものと無縁だと信じている。
世界が激動期だからこそ、これからの日本の歩みを決定づけてしまう今度の総選挙が重要だと思う。重要であればこそ、『おぼろ月夜』の抒情の世界に懐かしさを覚える保守主義者が、愛国を掲げたエセ保守党の自民党の洗脳から解き放たれなくてはならない。保守を騙る党は自民党だけではない。維新の党、次世代の党、そして民主党の中にもいる。
護憲、反原発、反TPPを掲げていなければ、エセ保守である。世界が激動期であり、従来の価値観と世界観が揺らいでいるだけに、従来の保守と革新の色分けも無意味である。社民党と共産党の政策は言葉の厳密な意味での保守に近い。だから、新しい保守主義の可能性を提唱しているわたしは、社民党と共産党に投票するつもりだ(笑)。
今朝のTwitterに見逃せないものがあった。
「まともな国の国民は『輝く国』だの『美しい国』だのと聞いた時点で、笑い転げ、相手にしなくなる。寝言は寝てからにしろよ、と。こういう稚拙な言葉を吐いて首相の座を得たのが日本。自分の生活が如何に改善されるかが永遠のテーマで、美しいだの、輝くだのへったくりもない。給料、休暇、自由時間だ」
一理はある。が、こうした思考と発想が、エセ保守の政党に真の保守主義者の票が絡め取られることになるのだ。『おぼろ月夜』の抒情の世界を愛するが故に、「美しい国」に心が引き寄せられていくのである。オレオレ詐欺の手口と同じである。どうして引き寄せられるかというと、愛国という薄汚い牢獄に閉じこめられて洗脳されているからだ。その洗脳されている者を切り捨ててしまったとしたら、エセ保守党の思う壺である。
それだけではない。わたしは上記の呟きに、ネトウヨと在特会とネオナチと同じ匂いを嗅いでいるのだ。言っていることは違うが、感情は同じ匂いがする。裏と表の違いでしかないのではないだろうか。「給料、休暇、自由時間」という甘い政策にころっと騙されて絡め取られる危険性である。その危険性の源は何かというと、感情なのである。『おぼろ月夜』の情感を生きているとすれば「給料、休暇、自由時間」に、生きているという実感と悦びを見出し得ないからだ。
大袈裟にいうと価値観と世界観の違いとでもいうのだろうか。わたしはこれこそが新しい保守主義の可能性だと信じているのである。
長くなったが、最後に猪野健治著『日本の右翼』(ちくま文庫)からそのまま抜粋して終わりにしたい。猪野も保守と右翼との概念的な曖昧さがあるが、それはさておいて、現状の右派勢力を言い当てている面白い文章があった。戦後まもなく、国体学界機関誌『国体』(昭和二十八年六月号)で、右翼が自己批判した文章である。
こうした自己批判を性懲りもなくまた破滅の後でやるつもりなのだろうか。
またいつか来た道を歩き始めているのである。
日本の右翼は、思想的には「尊皇絶対の至情に安住」し、「非科学的で天皇大権絶対の誤謬に陥」った。そして「天皇の本質を権力の保有者という観点から眺めて天皇主権を叫び、天皇中心の国家絶対主義、民族主義」に走り、「無批判な日本独尊の信念に燃え、尊内卑外を事とし」て、表むきは「天皇の権力的絶対親政を求め」、事実上は「官僚専制政治、一部支配階級の独裁」を助ける結果になった。
また、「愛国」を叫びながら、「支配階級の走狗となって、議会政治を否定」した。経済問題は、「矛盾をはらめる経済社会の内部に解剖のメスを入れること」もなく、「事実困却しきっている幾多同胞の惨状にも眼を覆い」「ひたすら一部支配階級の温存利益のために、命とひきかえに愛国を売物に奮闘し、行動的には法を冒して暴力行為をも敢て辞せず」「その言動・態度もいかにも浅薄粗暴なるもの」。
わたしの提唱する新しい保守主義についての詳細は『風となれ、里山主義』をお読みください。
小説はキンドル版の電子書籍として出版しています。
ブログはこの他に、「里山主義」と、「里山主義文学」を開設しております。合わせて読んでいただければ幸いです。
「風となれ、里山主義」(思想・政治関係)
「里山主義文学」(文学関係)