前回は序章と断りを入れたが、標題とは隔たりがあるままに尻切れトンボになってしまった。序章の弁解をすれば、社民党への提言をする上では、この序章で展開したものが土台になると考えているからである。そして、この土台としての認識こそが社民党に決定的に欠落するものであり、だからこそ閉塞した現代社会を覆っている闇の中に未来へと続く道を照らし出す松明となり得ないと思うからである。
社民党はこの闇を真摯に捉えていることは確かだ。だからこそ党名を変えて、新たな党の理念と掲げ、その理念に沿った形で想い描く理想としての社会へと導いていく具体的な政策を打ち出したのだろう。それは評価している。また理念も個別の政策も共鳴するものがほとんどである。
では、何故に社民党に提言をするのか。絵に描いた餅になるだろうと危惧しているからだ。この危惧はほとんど確信に近い。
現代社会を覆っている闇の本質を見失っているのではないだろうか。大正末期から金融恐慌が起こった昭和初期の時代を覆う空気を石川啄木は評論『時代閉塞の現状』と『硝子窓』に書いているが、文学者だからこそ感じられた時代の空気と匂いなのだろう。文学的直観が啄木に閉塞した時代の本質を垣間見せてくれたのである。田宮虎彦もまた短篇小説『琵琶湖疎水』で、当時の若者の心に忍び寄る退廃的で虚無的な闇を描いている。わたしは以前日記に書いてネット上で公開もしているが、当時の時代を覆っている闇と現代とが奇妙に似通っていると感じているのである。
しかし、現代社会を覆っている闇と戦前の闇とでは、決定的に意味が違うと考えている。わたしの文学的直観がそう囁いているのだ。この決定的な違いこそが重要であり、社民党が闇を捉えている認識とわたしの認識との違いでもある。この認識の違いが、厚顔無恥にも、わたしに社会党への提言をしろと強いるのである。いい迷惑なのであるが、文学を志している端くれとしては、この文学的直観に素直に従わざるを得ない。
そして、この文学的直観が的外れでないことを示す現象が、社会のあちらこちらに散見しているのである。先ずは社民党に問いたい。虚心坦懐に理念と政策とを見渡して、そこに言葉の厳密な意味での「保守主義」的な要素を感じることはできないか。また、どうして「保守主義」的な色彩を帯びてしまったのか、考えていただきたいのである。これは社民党に限ったことではない。共産党も同様である。共産党にいたっては保守地盤といわれていた農村部での躍進が著しい。それに対して前回の冒頭で述べたように、保守を自認している政党が、保守主義とは真逆の政策へと走っている現実がある。
資本主義がグローバル時代へと突入し、一国の経済政策では機能しなくなり、巨大金融資本の投機マネーが一国の経済基盤をも揺るがす由々しき事態になったことに追い打ちをかけるように、生産拠点ばかりか開発拠点をも海外に移転し、部品供給も世界展開し、頭打ちになった国内需要に見切りを付けて、市場を全世界に求めて利潤追求にひた走る超多国籍企業へと経済構造がドラスティックに変貌を遂げた。人・物・金の流れのボーダレス化が加速化してもいる。当然にこうなると、経済構造に合わせて従来の国内の社会構造は変わってくる。また、超巨大多国籍企業の論理の象徴である新自由主義勢力の市場開放と非関税障壁の撤廃の圧力も増してくる。郵政民営化に代表される規制改革とはそうしたものであり、社会構造の急激な変容を強いるものである。この流れは留まる気配はない。TPPによってより決定的な社会構造の破壊がなされるだろう。
社会構造の破壊とは大量の弱者を産み出す。その日暮らしの非正規労働者が街に溢れているのを見れば明らかだ。中間層が駆逐され、極端な格差社会へと突入しているという現実がある。特に地域社会への打撃は大きく、由緒ある地方都市の商店街はシャッターが下ろされ寂れ果てている。
南北に細長く、様々な風土性を反映した伝統行事や文化、そして慣習と民俗行事、風俗は地方に生きる民衆の安定した暮らしに負うところが大きい。豊かな文化の醸成には中間階級の層の厚さが不可欠だろう。
いわゆる保守を自認している自民党を筆頭とする政党の政策は、悉く日本における伝統と文化の破壊を惹起するものでしかない。グローバル化した資本主義を是認し、それに対応した経済構造へと法も含めた社会環境を変えようとしているからだ。安倍晋三の経済政策のブレーンは竹中平蔵をみれば判るとおり新自由主義者で固められている。つまりは、超巨大多国籍企業を偏重した政策なのである。1%の富裕層と99%の貧困層という超格差社会は直ぐ目の先なのだろう。
こうした流れを止めるべき政策を社民党と共産党は打ち出しているのだろうが、だからこそ言葉の厳密な意味での保守主義的な色彩を帯びてくるという奇妙な現象が見え始めたのだと、わたしは考えている。
左派リベラルが保守主義的な色彩を帯びる意味をどう捉えるのだろうか。社会主義とは究極的にはボーダレス化が基本だ。国境の消滅による階級のない自由と平等な世界市民の創出である。そして、その社会とは経済的生産の科学的な発展の先にある。経済至上主義と経済成長神話と科学神話が根底にあるのだ。新自由主義と似ているとみるのは、わたしだけなのだろうか。違いと言えば、世界市民の創出過程が、下部構造の変質に伴う上部構造と乖離矛盾が生じ、それを止揚しながら社会主義社会へと向かっていくという科学的、かつ歴史的必然性と、単一化した世界市場の意志の違いであり、富の分配の違いなのではないだろうか。経済至上主義であることも、経済成長を重視していることも、科学万能主義的であることも一緒なのである。これは人が生きていく上での富の観念と、幸福の観念とも深く関わる重要な問題を秘めたものである。
だとしたら、社会主義に関係している社民党と共産党の保守主義的政策とは、本質的なところで矛盾したものなのではないだろうか。言葉を換えると、どうしてこうした矛盾が起こるのか、という疑問である。前回に指摘したようにこの矛盾には重要な意味がありはしないか、とわたしの文学的直観が訴えているのである。
資本主義がグローバル化するまでは、左と右の対立軸が機能していたと、わたしは考えている。が、資本主義のグローバル化がここまで深化すると、左と右の対立軸では機能出来なくなったからだと確信している。これは何を意味するかというと、従来の価値観、世界観そのものの行き詰まりということだ。従来の価値観、世界観とは西欧近代主義である。行き詰まりの象徴が、左派リベラルが保守主義的な姿をしてきたという現象なのである。つまり、それまでの価値観、世界観が揺らいでいるからこうした奇妙な現象が起きているのではないだろうか。一国社会主義を掲げているからという理由だけでは説明はできない。
4月からTwitterを始めたが、膨大なつぶやきの中から考えのヒントになることをよく見つけたりしている。昨日は、報道ステーションに出演した姜尚中の脱原発発言に賛辞を与えている方に、わたしは反論をしている。
この遣り取りは、わたしが社民党に提言する理由と通じたものなのだ。
「日本は、人間の命を軽くみている」と発言した姜尚中が、「資本主義社会では経済性が優先されるのだから、脱原発が妥当」と発言したというのだ。大政翼賛的な報道体制になっている中でよくぞ勇気ある発言をしたと賛辞を贈っているのだが、わたしは姜尚中が論理的自己矛盾に気づいていないとしたら政治学者としての資質を疑いたくなる。そればかりか悪質な意図さえ感じ、巧妙な大政翼賛的な報道に与している姿を見出してしまうのである。
どういうことかというと、3・11の本質を故意に隠蔽し、矮小化して風化させようという悪意を感じるからだ。人間の命を軽く見ているのは日本に限ったことではない。日本以外にも原発はある。武器輸出三原則を撤廃し、安倍晋三は武器輸出を解禁したが、軍需産業は世界各国にあり、相互的に結びついている。どこかで紛争が起きて人殺しが始まれば、軍需産業は儲かる仕組みである。敵も味方もない。金儲けが目的である。敵味方は表面上の方便なのだ。これのどこに人の命を重くみているというのだ。綿毛よりも軽いではないか。そして、これは姜尚中がいう資本主義社会における経済性が優先された結果なのである。経済至上主義とはこうしたものである。武器輸出も原発も同じ論理であり、遺伝子組み換え作物も、大量の農薬の散布も自然破壊も、すべて経済至上主義の論理なのである。その論理を用いて原発を否定しても、姿を変えた第二第三の原発が作られ、また破滅的な事故を起こすだろうことは容易に想像がつく。地球温暖化に伴う異常気象一つとってみても、経済成長神話に魂を蝕まれた人間が、飽くなき無駄という欲望の拡大再生産を続け、それが人間の幸福に繋がるという経済至上主義という宗教に洗脳されてきた結果なのである。このまま突き進めばどうなるか、地球の破滅だろう。
3・11とは、人間に現代社会が抱えた闇を突きつけたのである。その闇とは社会を覆っているどす黒く腐臭を放っている価値観と世界観である。このままこの価値観と世界観をごり押しすればどうなるか、人類に警鐘を鳴らしたのだ。わたしはブログに大飯原発再稼働差し止め判決文の意味を、3・11の心と結びつけて書いたが、この判決文の持つ意味は人類の歴史が重要な岐路にあることを高らかに宣言したものと捉えている。それだけに画期的なのである。そして、この判決文が平和憲法の精神を反映したものだけに、これから人類が歩んで行くべき未来へと導いていく松明こそが平和憲法だと立証したのだと想う。それだけに画期的なのである。平和憲法にノーベル平和賞を与えよという運動にわたしも賛同するが、そればかりでなく平和憲法を人類の道標にすべきだと確信しているのだ。
判決文は原発を経済的価値と社会的価値から眺め、経済価値という視点から原発の利点がどんなに指摘されたとしても、社会的価値からみたら、人の命を奪い社会生活と社会環境と社会構造を破壊する元凶として全否定したのである。つまり経済的価値よりも人間の生存権を上に置いたのであり、経済的富と社会的富を区別し、故郷を破壊し、故郷の地を奪った原発は社会的富の破壊者であり、どんなに経済的富を有していようとその富は社会的富の下にあるものだとしてこれまた全否定したのである。
姜尚中の論理と比較していただきたい。3・11の持つ意味が全く違ってくるだろう。何故に権力層は3・11を風化させたいのか。また単なる自然災害と同列に扱いたいのか。それは、3・11が突きつけた従来の価値観、世界観というどす黒い闇の醜悪な姿を晒したくはないからだ。従来のままの価値観、世界観が息づく世界をどうにかして持続しようという自己保身という本能が働いているのだろう。
仮に原発が否定されることがあっても、従来の世界が維持できれば御の字なのである。姜尚中の論理とは、御の字のための巧妙な論理なのである。
姜尚中の論理を暴いてきたが、社民党の政策が絵に描いた餅に終わるのではという危惧は、姜尚中の論理のような匂いを感じるからである。従来の価値観、世界観が行き詰まっているのだ。もうこのままでは地球自体が耐えられないだろう。戦前の世界大戦は世界恐慌が引き金になっているが、それは膨張の限界に達した資本主義体制自体の行き詰まりだったのであり、御破算で願いましてはというリセットの意味があったのだろうが、現在ネット上では第三次世界大戦などという言葉が飛びかっている。世界が閉塞感に窒息しそうなほど行き詰まっているのは確かだろう。しかし、この行き詰まりは戦前とは違いもっと本質的なものを孕んだものである。これまでの価値観、世界観自体の行き詰まりなのだ。この土台自体の行き詰まりの認識の上に立って未来を展望しない限り、絵に描いた餅になると苦言を呈したい。姜尚中と同じ過ちである。原発という部分的な病巣を取り除いたところで、根本的には何も変わらないし、病巣はより深刻となり終には破滅へと転がり落ちていくのだろう。部分的な病巣を取り除く政策を掲げても、根本的な病巣への視点とそれを取り除く展望がなければ、政策自体に効果はなく無意味となり、果ては党自体が民衆から見捨てられていくのかもしれない。
価値観と世界観とはそれほど重要なものなのである。何故ならば人が生きていく土台だからだ。人の理性は真理へと向かうと思うのは空想である。科学は常に真理へと向かうというのもまた空想である。空想から科学へとは、空想から別の空想へと移行したに過ぎない。理性が真理へと向かうものならば、論理的対立は解消するるはずだし、戦争など起こりえない。科学が常に真理へと向かうものならば、核廃棄物の処理方法さえ確立していない原発など開発はされないし、遺伝子組み換え作物なども産み出されなかっただろう。爆薬の製法に通じていたから容易に農薬が作られるようになったのである。枯れ葉剤で有名なモンサント社は、農薬とセットになった遺伝子組み換え作物によって、食糧による世界制覇を企んでいると囁かれている。理性と科学とが、価値観と世界観に沿って発展していく証拠だ。原発も遺伝子組み換えも戦争で使用する大量人殺しの武器も経済至上主義が産み出したものなのである。
感情と理性は対立したもののように言われるが、感情もまた価値観、世界観に沿って発露するものである。無臭剤とか芳香剤とかが商品となっているが、これは宣伝による嗅覚の飼い慣らしであり、単一化であり、嗅覚の退化につながるだろう。不快な匂いは悪として取り除き、心地よい匂いが善として意識に刷り込まれるからだ。つまりは自然からの乖離である。感情も理性も価値観と世界観に深く関わっているのだ。
この価値観、世界観が行き詰まり社会的な不具合が噴出したとして、行き詰まりの本質である価値観・世界観をそのままにいくら対策を講じても本質が変わらないのだから、長期的にみれば絵に描いた餅になるのは道理であろう。
今回も序章の続きになってしまった。推敲なしの殴り書きである。
草刈りと馬鹿にしていたが、起伏に富んだ湿地あり崖ありの広大な面積だけに、想っていた以上の重労働である。刈りっぱなしならそれでもたいしたことは無いが、人力で刈り取った草を集めるのはやっかいなのである。その上、猛暑である。4リットルの水を飲んでいるが、昼飯が食えなくなり、体力は奪われ疲労が蓄積するばかり。と、筆が進まない弁解をしたりするのだが、小説を書きたいという思いだけは泉と成ってこんこんと湧き上がってくる。それから妻と旅がしたい。11月で草刈りの仕事が終わるので、その後に旅をしたい。小説の題材にしたい地を訪ねたいのだが、妻の了解が得られるかはわからない(笑)。
次回は、いよいよ序章ではなく本題に移ります。乞うご期待!
といっても期待する人はほとんどいないでしょう。それでも書こうとするこの意欲はどこから湧いてくるのか、単なる自己満足ではないことだけは信じたい。
※写真は石川啄木・田宮虎彦・琵琶湖疎水
小説はキンドル版の電子書籍として出版しています。
小説の中で社民党で欲しいというのがあれば、著作権以外はすべて捧げます。と書いても、欲しがるわけはありませんよね(笑……のち涙)。
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