「北林あずみ」のblog

2014年05月

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 わたしは「大飯原発運転差し止め判決」とは、3・11の心の反映だとブログに書いた。そして、3・11の心とは平和憲法に通じるものだと書いている。
 欧州では極右政党の躍進が著しい。憂慮すべき現象であり、偏狭な排外主義と自国の伝統と文化の優位性を前面に押し立てて国家主義へと雪崩れていく危険性は歴史が繰り返し教えてくれている。極右政党とはファシズムに親近感を抱くものだ。欧州を再び戦禍へと歴史は導いていくのだろうか。わたしはその可能性を否定しない。
 欧州の右傾化は、欧州版グローバリズムであるEUが引き起こした歪みの反動だろう。だから、反グローバリズムという混沌としたパッションが原動力のはずだ。問題は、この反グローバリズムのパッションが何故に極右政党へと雪崩れていくかということであろう。
 では、極右政党を裏返したらどうなるか。EUなのではないだろうか。だから、反EUのパッションが極右政党へと吸い寄せられていったのである。
 これは、「フランス極右政党台頭の光と影……欧州の悲劇と本質」というブログに書いたが、重複して申し訳ないが、表題と関係するのでもう一度、違った角度から眺めてみたい。
 欧州連合(EU)条約では、自由、平等、民主主義、法の支配、人権の尊重を謳い上げ、多元的共存、無差別、寛容、正義、結束、女性と男性との間での平等を価値観とする統合された社会を目指すとあるが、これは極右政党の掲げる理念と真逆だろう。
 ここで疑問が湧いてくる。どうして、反EUが極右政党ではない他のリベラルな政党への支持に繋がらなかったのかという疑問である。
 大量に押し寄せてきた移民の安い労働力によって職を失い、賃金自体が移民の安い賃金へと地均しされていけば、生活の劣化を引き起こすのは頷ける。生活の劣化はすべて移民の所為だという被害者意識が働けば、移民の排斥へと心が向かうのも道理だ。また、移民の増加によって社会の慣習や文化、また伝統的な暮らし方が変わり、社会構造そのものが変化することを危惧する保守的な心が芽生えたりもするのだろう。こうした心が極右政党へと引き寄せられたからだと納得できないこともない。
 が、わたしはもっと根源的な理由があるように思う。
「フランス極右政党台頭の光と影……欧州の悲劇と本質」というブログにも書いたが、この根源的な理由が欧州の悲劇なのだと思う。いや、今や全世界の悲劇といっても過言ではない。何故ならば、全世界が欧州的な悲劇の精神的土壌を共有するようになってしまったからである。
 極右の反対は極左であるが、マルキズムとはインターナショナリズムである。つまりはグローバリズムなのである。極右との違いは何か。「インター」という形容詞がつくか、「ウルトラ」という形容詞がつくかの違いである。「インター」とは、万国の労働者階級は利害を等しくしており、また虐げられた階級であるから、この万国の労働者階級が団結して開放を勝ち取り、万国の労働者階級の独裁が成就すれば、恒久的な世界平和が訪れ、差別のない自由と平等の社会が実現するという意味であろう。
 一方の「ウルトラ」とは、国家を絶対的なものとし、国民はこの国家に服従し奉仕するものであり、国家の繁栄こそが国民の幸福に繋がるとするもので、国家の生命である自国の歴史と伝統と文化の絶対的な優位性を前面に掲げるという意味なのだろう。しかし、「ウルトラ」とは一国に留まってはいない。絶対的な優位性があるからこそ全世界に向けて、自国の歴史と伝統と文化とを啓蒙し、拡げていく使命があるのである。啓蒙し拡げていくとは領土の拡大であり、その方法は武力なのである。
 もうお気づきだろう。「インター」と「ウルトラ」との違いは、労働者階級か一国かの違いでしかないのだ。
 更にもう一つ、世界を席巻しているグローバリズムそのものである新自由主義はどうだろうか。
 EU自体も、アメリカほど露骨ではないが新自由主義なのだろう。
 新自由主義とは全世界に開かれた自由で平等な単一の市場こそが、人類の進歩と発展をもたらし、人類に富と幸福とを約束するものだという考えが根底にあるのだろう。自由で平等な単一の市場とは、関税はもちろんのこと、国や民族に固有の歴史と伝統と文化を反映した社会構造の違いである非関税障壁が撤廃され、経済的な意味で全世界に開かれた国境のない唯一にして絶対的な市場のことである。そして、この市場においては敗れたものは悪であり、勝ったものが善なのである。価値基準のすべてを市場の意志に委ねるのであり、その市場の意志こそが絶対的価値なのだ。
 この新自由主義とは資本、とりわけ多国籍企業の論理なのである。単一化された市場の意志を絶対化するのであるから、「インター」と「ウルトラ」と同じく、外へと向かって単一化するために市場を拡げて行くことになるのだ。その方法は様々であるが、アメリカをみればわかるように軍備が後ろ盾になっていることは明白である。防衛と正義の旗を掲げて侵攻し、自由と平等の市場へと無理矢理に地均ししていくのである。
 こうしてみてくると、極右政党までもが本質的には「グローバリズム」なのである。
 国家を絶対化するために、国民のパッションを吸引し国家の生命としての核を意図的に作るために、一端は統治装置として再編成した歴史と伝統と文化へと収斂していくが、その核が強固なものとなるや、今度は外に向かって膨張していくのである。ファシズムとは覇権主義でもあるのだ。
 そして重要なのは、極左も、もちろん本家本元の新自由主義もまたグローバリズムなのである。
 極右も極左も新自由主義も西欧近代主義が産み落としたものである。土台は一緒なのだ。つまりは、西欧近代主義とは本質的にグローバリズムを内包したものなのではないだろうか。
 ニーチェが「神は死んだ」と高らかに宣言した。
 わたしはニーチェは、欧州の本質を暴いて見せたのだと思っている。ニーチェが見た神とは西欧的な意味での理性そのものだったのではないだろうか。「神は死んだ」とは「神は理性そのものだった」と置き換えられないだろうか。デカルトは理性を絶対化したが、その理性をも超えた神は捉えようがないと、神の存在を保留の形で一先ず脇に押しやったのだろう。それをニーチェは「神は理性の産物だ」と神にトドメを刺したのではないだろうか。
 神とは唯一絶対であり森羅万象の創造主だとすれば、どうして布教が必要なのかとわたしは考えてしまう。日本においては「神さびる」という言葉があるが、これは感覚的につかむものであり、布教によって神という存在を知ることではない。布教の前に神を感じているのである。一神教とは布教という認識の過程がなければ、神の存在はないということなのではないだろうか。つまりは、神とは認識するものであり、認識とは人の特質だとすれば、神とは人の認識が作り出したものとなる。
 多神教にも古代の農耕社会などにみられる認識的なものがある。御利益多神教ともいうべきものであり、御利益があるから神を祀るという宗教である。しかし、縄文時代の自然的宗教には認識を超えた感覚的な要素が濃かったはずだ。日本人における認識方法は感覚的認識の要素があったことが指摘されている。わたしは日本の風土と自然が感覚的認識を育んだと思っているのだが、西欧における主観と客観、主体と客体というような二元論的な認識とは違ったものなのだろう。
 一神教とは布教によって外へと広がっていく意志を秘めている。布教することで全世界の人々が神の存在の前にひれ伏したときこそが、人類に平和が訪れ、神の慈悲と加護があまねく人類の上に光となって降り注ぐというような世界観が土台にあるのではないだろうか。そして、その輝かしい神の国という未来に向かって人類の歴史は歩んでいるのであり、それがまた人類の歴史の必然性なのだという考えが根底にあるのではないのか。
 ニーチェの「神が死んだ」という宣告は、こうした土台としての思想にどう影響したのだろう。「神は死んだ」のではなく、「神は人間の理性だった」というニーチェの宣告は、ニヒリズムであるとともに、神となった理性の暴走なのではないだろうか。理性が神にとって変わったのである。
 理性が神となったからといって、ただ一つではない。極右政党が掲げる神とは国家の意志であり、マルキズムが掲げる神は歴史的必然性であり、新自由主義が掲げる神は市場の意志なのである。そしてどれもが己の絶対的な正しさを主張し、自らが夢想する神の国を目指して世界を一つにすべく歩いていくのだ。それが人類の進歩なのである。
 掲げる神は違っているが、何と似ているのだろう。
 どれも宗教的であり、でれも独善的で攻撃的なのだ。土台に西欧近代主義があり、もっと本質的には西欧の風土性と一神教という歴史的な精神性があるからではないのだろうか。
 この精神的な土壌には、ある定められた未来(一神教の神の国)へと向って歩いているという進歩史観があり、理性という神を絶対化する人間中心主義があり、理性信仰と一体化した科学万能主義があるのではないだろうか。この土壌の基本にあるのは自然淘汰の思想であり、棲み分けの思想ではない。倫理とは神の意志なのだ。神の意志の前には法もなければ、人間性などというものはないのである。
 しかし、考えてみると恐ろしい。神の意志というが、現実的には権力者が神の意志の体現者になるということである。
 こうした本質的な危険性を内に孕んでいるから、憲法で歯止めにするのだろう。立憲主義とはこうした機能をもたせているはずだ。
 日本にはわずか二千年前に、一万年もの間、豊かな情感が息づく平和な社会が続いていた。縄文時代である。日本という風土と美しい自然が育んだ日本人の心の原点とは、この縄文文化であり、縄文人の心と精神だとわたしは信じている。岡本太郎は縄文土器の紋様に、崇高な精神性と迸る命の息吹と芸術性をみているが、三内丸山遺跡にみられるように高い文化であったことは間違いない。
 一万年もの間、平和な社会を築いていたということは驚異的なことだ。これは精神的な土壌が関係しているのだろう。つまり、循環型の社会であり、時間が真っ直ぐと前に進んでいく進歩史観ではなく、生と死とが循環する時間軸で捉えていたからではないだろうか。そして、自然を崇拝する多神教であったから、人間中心主義に陥ることもなかったのだろう。日本の豊穣な自然の恵みをいただきながら、自然と共に生きるということが基本だったはずだ。
 循環型の社会とは、欲望が限りなく肥大化していく社会ではない。「足るを知る」社会なのだ。だから、経済成長神話など生まれようがないのである。
 西欧近代主義の社会は「足るを知る」のは悪なのである。何故なら、飽くなき欲望を求めるから、科学の発展があり、市場の拡大があり、富が増大し人の幸福もまた増していくという考えが芯となっているからだ。幸福感がまったく違っている社会なのだろう。
 現代の日本の社会とは、西欧近代主義が歩んできた先に出現した社会である。
 政治的分裂症である安倍晋三は、新自由主義者であり、国家主義者なのである。欧州の極右政党の仮面を被ったかと思えば、アメリカの新自由主義の仮面を被り、支離滅裂な政策を行っているのである。そればかりか、保守主義の仮面も被るという厚顔無恥さだ。仮面をとっかえひっかえして、国民の目を欺こうとしているが、一体どこへいこうとしているのか、どの仮面を被っても戦争という地獄へ国民を導いていくことだけは確かなようだ。
 仮面をとった素顔は果たしてどんな顔なのか、おそらくのっぺりとした顔なのではないだろうか。安倍晋三という政治家もただの仮面なのかもしれない。素顔の安倍晋三はどこにもいないのだ。つまりは確固とした自分という人格を失っているのであり、元々ないのである。
 こうした西欧近代主義の歩いて行く方向に懐疑的な潮流の台頭が世界中に見られる。
 スローライフの提唱もそうだろうし、緑の党などもこの潮流だろう。日本においては限界集落化の一方で、都会暮らしに疲れた若者達が田舎へと回帰していく流れが細々とではあるができている。また、「となりのトトロ」に象徴されるように日本人の心が里山へと回帰していっているようにも思える。
 3・11とは、西欧近代主義に懐疑的な潮流をはっきりとした姿で、日本人の心の目に浮かび上がらせたのだと思っている。
 反グローバリズムという範疇では括れない、もっと本源的なものを3・11は日本人の心に突きつけたのではないだろうか。日本人の心の革命を準備したのではないかと、わたしは密かに信じているのだ。
 3・11の心とは、西欧近代主義の歩んで行く方向への懐疑なのだろう。このまま歩んで行く先に、未来はあるのだろうか。その歩んで行く先に本当の幸せはあるのだろうか。人間らしい生と死を生きられるのだろうか。環境は破壊し尽くされ、地球そのものが壊れていってしまうのではないか。経済至上主義と経済効率が、価値基準のすべてであっていいのだろうか。子供の未来はあるのだろうか。そんな素朴な疑問を3・11は投げかけてくれたのだ。
 この懐疑とは日本だからこそ、わたしは重要だと考えている。
 何故ならば、ほんの二千年前に、一万年もの間、豊かな情感が息づく平和な縄文社会が日本にあったからだ。そして、その縄文人の心と精神を体現した平和憲法があるからである。
 欧州においては回帰していく原点がないのだ。原点に回帰しても、また振り出しに戻るだけなのである。本質的には同じ価値観と精神が支配する世界だからだ。
 日本は帰るべき原点があるのである。
 その原点とは縄文人の心と精神であり、文化なのだ。
 いわゆる日本の保守主義者は、日本人の原点を古事記の神代記にしようとしているが、それは大きな間違いだと思う。古事記の神代記は、二千年前に半島から異文化を携えて大量に移住してきた弥生人を核とした物語である。そして、律令国家体制を絶対化すべく書かれた物語であるから、そもそもが国家主義的なのである。安倍晋三が保守主義を名乗っているのは、古事記の神代記を日本の原点としているからだ。
 それよりも以前に一万年もの間続いた縄文時代を歴史的に抹殺することは許されるはずはない。
 平和憲法を押しつけだというのなら、古事記の神代記こそが押しつけだといわざるをえないだろう。平和憲法こそが、縄文人の心と精神そのものであり、日本人の心の原点なのである。
 わたしは「里山主義」を掲げているが、里山とは弥生人が日本に根付かせた農業と、縄文人の心と精神とが融合したものだと捉えているのである。農業とはアメリカ農業をみれば一目瞭然だが基本的には自然破壊以外の何物でもない。が、日本の農業が生み出した里山とは、自然と共存するばかりか、人の手を加えることで豊穣な生態系を生み出すという素晴らしいものなのである。わたしは里山に、弥生人と縄文人のあるべき共存と融合の姿をみているのだ。

 3・11の心を、福井地裁の樋口英明裁判長が「大飯原発運転差し止め」の判決文として高らかに謳い上げた。これは歴史的な記念碑だと思っている。
 反グローバリズムが辺境なナショナリズムへと吸い寄せられないためにも、わたしは3・11の心は重要だと思えてならないのである。

 わたしは3・11の心をテーマに小説を書いている。
 詩織という女が祖母の故郷へと旅をする中で、3・11の心と真摯に向き合わされ、それまでの価値観が大きく揺らいでいく姿を描いたものだ。そして、祖母の故郷が新しい希望の世界に見えてくる心の道程を描いたものである。
 日本の近代小説とは西欧近代小説を模したものだが、私小説という日本的リアリズム小説を生んだが、その私小説も含めて、小説世界は西欧的自我を解剖学的に、そして心理学的に分析した反映であり、社会もまた近代的自我を通して描かれたものであろう。そこにあるのはやはり西欧的な主体と客体という認識論なのではないだろうか。現代文学とはこの延長にあるものだ。
 わたしは西欧近代主義を否定しているので、小説世界もまた近代文学とは違った描き方をしようという野心がある。感覚的認識を基本としたものだが、西欧的自我から描き出した小説世界は意味を無くしてしまったという想いがあるからだ。人と人との結びつきと絆が断ち切られ、バラバラに解体されて、西欧的自我が社会によって飽くことなく作り出され肥大化する、欲望を映した単なる鏡でしかなくなったのではないか、と思えるのだ。そして、その自我を通して描き出した社会に文学的な可能性を見出せないからだ。解体された自我自体に芯があろうはずはない。
 わたしは、「交感の場」というものを考えている。「神さびる」という言葉に言い表されているように、これは一方方向の感覚ではない。自然が漂わせる感覚と、こちらの感覚とが絡み合った世界に結ぶ感覚的認識である。この場には、そもそもが主体も客体もない。この「交感の場」とは、自然と人ばかりではなく、人と人の感覚が絡み合う場でもある。この場を通して見たときに、西欧的自我の目を通してみた社会とは違った社会の姿が浮かび上がってくるのではないだろうか。
 わたしは契沖のように絶対化はしないが、文学的価値を重要視している。社会的価値と経済的価値、また政治的価値では見ることも、捉えることも、また感じることもできないものが文学的価値だと思うからだ。わたしにおける文学の意味と可能性はここにある。「交感の場」とはまた、この文学的価値が息づく場であり、文学的な目と心だからこそ浮かび上がらせられる場なのである。
 長くなったが、わたしは文学自らが規範を作り、その枠の中に閉じ篭もることは自殺行為であり、文学の可能性を失うことだと考えている。大手の出版社が主宰する新人賞とはそうしたものだと思えてならない。わたしの小説はそうした規範と枠など無視したものだ。
 この小説『故郷』は、これまで出版された3・11をテーマとした小説とは異質な小説世界を創っている。3・11の心を「交感の場」から描いたり、3・11の心という発想から描かれた小説はこれまでにはなかったと思う。
 本来なら紙の本として出版したかったが致し方ない。
 が、Kindle版電子書籍がなかったならば、永久に世に問うことはなかっただろう。その意味では、有り難いことだと思う。
 この小説『故郷』を3・11の心に捧げます。どうにかして日本人が3・11の心を取り戻せないものか、どんな形であれこの小説がその手助けにならないものか模索していくつもりです。

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 欧州議会選挙の開票が25日夜に行われ、フランスでは極右政党の国民戦線の首位が確定した。
 極右政党の台頭はフランスに限ったことではない。こうした極右政党の台頭とはどうして起こったのか、またどういう意味があり、今後の政治的な動向はどうなるのか、わたしなりに考えてみたい。

 一言でいえば欧州統合の歪みが極右政党の台頭をもたらしたと言えるのだろうが、ではその歪みとは何だろうか。
 EUといっても当然のことに統合以前の国家間における経済的な格差がある。その格差は国境というもので囲い込まれ守られていたのであろう。国境とは何かというと、経済的には関税であり、歴史と伝統と文化に根差した社会構造の違いを反映した非関税障壁なのだろう。
 EUへと統合するということは、経済的には関税ばかりか、非関税障壁をも取り払い、EU域内での人・もの・金の自由な移動を可能とするということなのである。グローバル経済の欧州版ということなのだろうが、統一通貨とはこの端的な現れであろう。
 するとどうなるか。悪貨は良貨を駆逐するという諺を出すまでもなく、資本とはより安い労働力と生産コストとを求めて移動を始める。企業の生産拠点が他国へと移転するということであり、国内の空洞化を招くということだ。そして、次第に安い賃金と過酷な労働環境と劣悪な公害規制へと向かって地均しされていくということである。
 安い人と物が国内の市場に自由に入ってくれば、それによって弾かれる階層が出てくるのは必定である。以前の生活レベルが極端に下がるだろうことは容易に想像がつく。
 EU統合はヨーロッパ全体の経済成長を促し、人々に豊かさと富とをもたらすはずだった。しかし、富を得たのは多国籍企業と金融資本であり、極端な格差社会を導いたとなれば、とりわけ豊かさから貧しさへと突き落とされたと感じている階層から憤懣が湧き出してくるのは当然だろう。こうした憤懣が爆発しやすいのは、下層の階級でさえもそれまではある程度満ち足りた生活を送ってこられた国だろう。こうした国にあってはとりわけ中産階級層に歪みが直撃したはずだ。階層の二極分化である。アメリカにみられる格差社会への転落である。
 
 その憤懣はどこに向かうのか。言わずもがなである。反EUである。
 では反EUへと雪崩れて行った憤懣とはどれも同じ性質のもので、どれも同じ方向性をもったものかというと、わたしは違うと思っている。反EUとは、反グローバリズムでもあるからだ。
 が、多様性をもっているはずのものが、極右政党へといとも容易く吸い寄せられていくのが、わたしは西欧の悲劇であり、また西欧の醜悪な本質なのではないかと思っている。
 極右政党とは、自国の歴史と伝統と文化の優位性を掲げた排外的なナショナリズムを核としたものである。EUの理念を裏返したものなのだろう。裏返すだけだから簡単なのであり、民衆の心もまた簡単にひっくり返すことが可能なのだ。
 この極右政党の危険性は、膨張型のナショナリズムだということである。覇権主義的なのである。自国の歴史と伝統と文化の優位性を主張するだけでなく、他国にそれを強要し、自国の国益と防衛と繁栄のために国境線を拡げていく意志を国是とすることにあるのだろう。西欧の戦争の歴史とはそうしたものだったはずだ。

 わたしは表題を「フランス極右政党の台頭の光と影」としたが、影ばかりでどこに光があるのかと疑問に思われることだろう。
 わたしの目を射貫いた光とは、反グローバリズムである。そして、グローバリズムでは未来は拓かれないという厳粛な事実である。格差社会と紛争の火種を作り、破滅的な戦争へと導いていくという事実が、光となって示唆しているのだ。
 わたしは西欧の悲劇と言った。そしてまた、西欧の醜悪な本質と言った。
 では、その悲劇と醜悪な本質とは何か。
 裏返ししかできないことである。ヨーロッパにおけるEU化と極右化とは、裏表の関係なのではないだろうか。
 欧州連合(EU)条約では、自由、平等、民主主義、法の支配、人権の尊重を謳い上げ、多元的共存、無差別、寛容、正義、結束、女性と男性との間での平等を価値観とする統合された社会を目指すとあるが、これは正しく西欧近代主義の理念である。
 極右政党とはこれを裏返したものであると言ったが、裏返したという意味は全くの正反対だというにではない。土台は一緒だと、わたしは考えているのである。土台が一緒だから、せっかくの光が醜悪な姿を連れてくるという逆説が起こるのだ。
 右翼政党の国家主義もまた西欧近代主義の産物である。欧州連合の理念も西欧近代主義そのものである。土台は西欧近代主義なのだ。一見するとまるっきり正反対のように思えるが、人間中心主義と経済至上主義と進歩史観は共通しているのである。進歩史観とは一神教的な世界観である。西欧社会を覆う宿命的な世界観であり時間感覚なのだろう。進歩史観が土台となるから、経済成長神話が生まれるのであり、発展史観が生まれるのであり、膨張主義的な思考が生まれるのではないだろうか。
 極右政党の危険性とは、一端は内へと収斂させた熱を、やがて外へと膨張していく力に変えることである。排他的であるから当然に戦争は回避できない。何故に外へと向かうかというと、時間は前へと向かって発展的に進んでいくものであり、優位的な自国の歴史と伝統と文化とをあまねく世界に行き渡らせることが正義であり、人類の恒久的な平和と平等と富と豊かさをもたらすものだという意志が働くからだろう。
 EUと似てはいないだろうか。
 違いは資本の自由を前面に押し出すか、一国の自由を前面に押し出すかの違いではないのだろうか。
 アメリカとは移民国家であり、建国の初めに歴史と伝統と文化がなかっただけに、西欧のような裏表の関係性はなく、一体となっているように思える。またヨーロッパのように、紛争の火種であった複雑な国境線の歴史がないだけに一体となり易かったのだろう。アメリカにおいては新自由主義と国家主義と、そして「保守主義」とが奇妙にも一体化しているように思えてならない。
 安倍晋三と櫻井よしこは、アメリカの新自由主義と国家主義と保守主義が一体となったものを真似ているのだろう。が、アメリカは建国の初めに当たって歴史と伝統と文化が無かったから一体化できているのだが、都合良く曲解して日本の歴史と伝統と文化を口にする安倍晋三と櫻井よしこは、政治的分裂症としかいえないだろう。どこへいくかわからないだけに危険なのである。歴史と伝統と文化を口にするのだから、ヨーロッパの極右政党にも通じているといえるだろう。

 歴史は繰り返されるというが、西欧においては、裏になったり表になったりを繰り返してきたという意味ではないだろうか。愚かだと思うが、これが西欧の悲劇なのであり宿命なのだ。
 これを脱するにはどうするか、土台を蹴飛ばす以外にはない。そうわたしは確信している。
 時間は真っ直ぐに発展しながら進んでいくという進歩史観を捨て去り、時間は循環するものであり、人の命も自然の命も、生と死を巡っているという循環する生死の世界観を持つべきではないだろうか。
 経済成長神話を捨て去り、循環型の持続可能な社会をこそ目指すべきだ。経済成長とは欲望を肥大化させていくことで可能となるものであるが、このまま人類の欲望を無限に肥大化させていった先に待っているのは地球そのものの崩壊でしかない。進歩史観とは科学的楽観論に通じているが、科学の発展がいつかは解決してくれると信じ込まされてきたのだが、地球環境は日々加速度的に悪化の一途を辿っていることをみても、虚しい幻想でしかないとわかるはずだ。
 そして、もっとも重要なことは、欧州連合の条約をみればわかる通り、人間中心主義だということである。虫と蛙への眼差しはどこにもないのだ。虫と蛙への眼差しがあったら、経済成長神話などあるはずはないのである。
 平和共存をいうが、人と人との平和共存だけではなく、その前に虫と蛙と人との平和共存の理念があれば、そもそもが戦争そのものがあってはならないのである。何故ならば、戦争とは人と人との殺し合いだけではなく、物言わぬ数限りない虫と蛙の命を奪うことだからだ。
 循環型の社会とは充足を知る社会である。富と豊かさの意味と価値観が、経済成長神話を絶対的な価値とする社会とは根本的に違っているのだろう。充足を知るとは、棲み分けの思想が根底にあるということでもある。

 ヨーロッパにも緑の党というような新しい胎動もある。
 しかし、こうした胎動が西欧近代主義と同じ土壌に花開いたものだとしたら、わたしは本質的な変革にはならないと思う。土壌を蹴飛ばさない限り、人間が保護し、愛情を施すという意味での動物愛護の域を脱することはできないだろう。そうではなく、虫と蛙と人とが平等であり、同じ生きる権利をもっているのであり、命の重さは等しいという思想が根底になければならないと思う。
 アイヌやマタギの人々は動物の命を狩ることで自らの生を繋いでいるが、命を奪った動物の魂へと向かう姿勢と眼差しと、欧米の捕鯨反対運動が動物の命へと向かう姿勢と眼差しとは、わたしは違っているように思えてならない。人間中心主義的な視点だと感じられるのだ。人が自然とともに生きるとは、罪深いものであり、だからこそ自然の命が尊いのであり、愛しいのである。

 わたしは「里山主義」という新しい保守主義を唱えているが、この「里山主義」とは縄文人の文化と生き方を土台としたものである。一万年もの間、豊かな情感が息づく平和な社会を築いてきたのである。わずか二千年前まで日本に現存した社会なのだ。
 わたしは縄文人の心と精神こそが、平和憲法に反映したのだと思っている。
 西欧近代主義の西欧リベラリズムではなく、縄文リベラリズムだと考えている。人の平等の前に、虫と蛙と人との平等があった。だから一万年もの間、平和な循環型の社会を維持できたのではないだろうか。その縄文人の心と精神を育んできたのが、日本という風土と美しい自然なのである。

 ヨーロッパに極右政党が台頭してきたという憂慮すべき危機的状況から抜け出すには、わたしは西欧の土台としての思想と世界観を蹴飛ばさない限り不可能だと直観しているのである。
 そのためには、原発を輸出するなどという破廉恥なことをするのではなく、縄文人の心であり精神である日本の平和憲法をヨーロッパに輸出すべきだろう。そして、一万年もの間、平和な循環型の社会を築いていた縄文文化を広く知らしめるべきだと思う。これからの限りある地球環境と人と自然との共存を想えば、縄文人の生き方を参考にすべきだろう。縄文文化とは野蛮な狩猟採集文化ではない。豊かな情感が息づく芸術性に優れた、高度な文化だったのである。岡本太郎は縄文土器の紋様に迸る命の息吹と熱と芸術と、気高い精神性をみていたのだ。

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 twitterでドイツに在住している日本人女性の新聞投稿が紹介されていた。
「汚染水に厳しい世界の視線」という題名の投稿なのだが、「原発再稼働、推進、諸外国への売り込みなど、被害に苦しむ国民を抱え、同原発周辺を放射能で汚染している国とは思えない無責任な決断をしている日本政府とそれを許している国民はドイツでは理解されません。日本が地球と人間、生物を放射能で汚染していることに世界中が注視し、恐怖を抱いています」という内容なのだが、色々と考えさせられた。
 自分がドイツ人になって考えて見れば至極もっともなことだ。ドイツ人でなくとも一般の民衆のレベルで考えれば当たり前の反応だろう。
 当然にドイツのマスメディアが取り上げないはずはない。日本のマスメディアが、チェルノブイリ原発事故で連日大騒ぎしていたことを振り返れば自ずとわかることだ。放射能汚染とは地球環境にとっては決定的なダメージを与える深刻な問題なのである。汚染は一国の範囲に留まることはない。地球規模で汚染が拡散されていくのをわかっているから、日本のマスメディアが連日にわたって報道したのだろう。
 それが福島原発事故になると、日本のマスメディアは掌を返したのだ。上に紹介したような海外メディアの反応と海外の世論を全くというほど遮断しているのである。
 これは何を意味しているのだろうか。
 先の日本人女性の新聞投稿が教えてくれている。つまりは「原発再稼働、推進、諸外国への売り込み」をしたいからだ。そのためには「被害に苦しむ国民」がいることを忘れさせ、あたかも事故が収束し、放射能汚染はなくなったかのような情報操作までを行っているのである。そればかりか、3・11以前の日常を取り戻したかのごとく世論を誘導し、その揺るがぬ証拠として汚染地域への帰還をさせているのである。安全だという保証はどこにもない。何故ならば人類が初めて経験する放射能汚染だからだ。人類史上最悪だとされたチェルノブイリ原発事故を超えてしまったのである。過去の医学的、また科学的な事例とデータに則してというが、人類にとって未知な領域に足を踏み入れてしまったのだから、そんなものが絶対的な信憑性があるはずはないのである。
 事故は収束はしていない。日常的に放射能を排出している。その証拠が昨日の茨城県のひたち海浜公園の異常数値である。収束したのであればこんな放射線を観測するはずはない。
 そして重要なのは、福島原発事故は日常的に事故を惹起しているということだ。汚染水洩れ、放射能除去プラントの停止、機械のトラブルなど枚挙に暇がない。これは紛れもない事故である。こうした日常的な事故がいつ最悪の事故へと繋がるかもしれないのである。
 が、そうした事実は覆い隠されてしまっている。少なくともマスメディアの情報だけを鵜呑みにし、その情報源だけにしか接していないとしたら、事故は収束したような印象を持つはずだ。
 マスメディアの情報源だけに接している国民と、インターネットなどから広く世界の情報に接したり、マスメディア以外の良心的なジャーナリストの声に耳を傾けている国民との間には、見えない壁ができてしまっているに違いないのである。日本という国に二つの世界が出現してしまったのである。
 情報操作の最大の問題点は、原発事故からの復興を3・11以前の日常に戻すことだと意図的に矮小化していることだ。だからマスメディア総出で、福島で暮らす人たちが3・11以前の日常を取り戻していると宣伝しているのであり、食べて支援する復興キャンペーンまでも行っているのだ。こうした動きに反する言論はすべて風評となるのである。

 この現象を二つの世界という視点から眺めてみると、本質がみえてくる。
 マスメディアによって情報操作された世界では、3・11以前の日常を着々と取り戻しているということになっているのである。真実には蓋をされた世界であり、嘘で塗り固められた世界なのである。この世界に反するものはすべて風評であり、虚偽であり、社会悪とされているのだ。
 考えてみると恐ろしい世界である。
 何が恐ろしいかと言えば、虚偽と真実が逆転していることもそうだが、福島原発事故があってもなお、3・11以前の日常を疑う目を奪われたことではないだろうか。
 つまりは、福島原発事故が単なる自然災害と同列に扱われているのである。だから、外国の一般人には奇怪としか思えない「原発再稼働、推進、諸外国への売り込み」に異議を言えなくなるのである。異議をいう視点を奪われてしまったと言う方が正しいのかもしれない。
 この世界の本質的な目的は、ここにあるのである。このために情報操作を行い日本に二つの世界を意図的に作り上げているのである。誰のためかは明らかである。「原発再稼働、推進、諸外国への売り込み」で利を得る勢力のためである。
 この二つの世界を隔てる壁は強固である。
 マスメディアはこの壁を強固にするための情報を垂れ流し続け、逆に真実の情報を遮断しているのである。
 twitterをしていて感じるのだが、twitterも二つの世界に分断されているのではないだろうか。見えない壁があって、こちらの世界の真実と壁の向こう側の世界の真実とが逆になっているのである。そして、あちらの世界ではお笑い芸人に拍手喝采する嬌声で溢れ、国益と愛国と防衛というけばけばしい色の言葉で塗り潰されているのだろう。真実ばかりか文化までが操作されているのだろうか。だから、百田直樹のような私利私欲に塗れた虚言を労する作家の小説がベストセラーになるのだろう。その世界が正に百田直樹そのもののような世界だからだ。

 安倍晋三はこの世界をよりいっそう堅牢なものにしようと画策している。この世界に向けて政策を発信して煽動し、この世界に渦巻くどす黒い虚偽と不実と社会悪の論理で、日本を強引に戦争へと導いて行こうとしているのだ。
 もう一方の世界は完全に無視であり、いかにその世界を押し潰すか、それだけを考えているのだろう。
 が、忘れてはならないのは、安倍晋三が潰そうとしている世界は、世界の民衆へと広がりながら繋がっているということだ。安倍晋三が向いている世界は日本の中だけに存在する閉鎖的な世界なのである。この閉鎖的な世界の論理を押し通せばどうなるか。歴史が教えてくれているだろう。
 マスメディアが操作して創り出し、安倍晋三の嘘と欺瞞と破綻的な論理が、正義と真実だとされている世界は、独りよがりな独善的な世界でしかない。そうした世界に真の意味での外交もなければ、隣国との友好関係を維持していこうという考えも理念もない。あるのは戦争という文字だけである。
 この世界が「集団的自衛権」を手にしたらどうなるか、言わずもがなである。危険極まりない。

 日本はこの世界だけではない。
 もう一つの世界があるのだが、見えない壁が遮断している。
 この壁をどうにかして切り崩さなくては、安倍晋三の暴走は防げないだろう。そして、人類史上未曾有の放射能汚染を経験し、地球規模で放射能をまき散らしている国が、「原発再稼働、推進、諸外国への売り込み」をするという蛮行を阻止することもまたできないのだろう。
 この壁に風穴を開けるにはどうするか?


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「風となれ、里山主義」(思想・政治関係)
「里山主義文学」(文学関係)

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 わたしは小説を書いている。Kindle版の電子書籍で出版しているのであるが、一応は作家の端くれのつもりである。
 小説を書く上でいつも思うのは、如何にしたら読者の心を揺さ振れる小説を書くことができるかということだ。小説は言葉の集合体である文章で成り立っているので、文章にその力があると思われがちであり、実際に小説を書き始めた当初は、わたし自身がそう思っていたのである。
 が、数年ほど前に、『風よ、安曇野に吹け』という小説を生み出す陣痛を生きる中で、それは違うと感じられたのだ。文章それ自体は単なる言葉の集合体であり、言葉自体で読者の心を揺さ振る力はないことに気づかされたのである。言葉とはそれ自体では生命がない。生命がない言葉で生きている読者の心を揺さ振ることは出来るはずがない。読者の心を揺さ振るには、言葉の集合体である文章に生命を吹き込まなければならないはずだ。その生命こそが作家の心であり、魂だと思えたのである。
 先ずは作家の心と魂が激しく揺さ振られたものがあって、その言葉を超えたものをそれでも言葉にしたいという作家の本能があり、熱く迸る心と魂を言葉に置き換えたときに、言葉と文章に命が宿るのだと気づいたのだ。そして、それがつまりは小説に命を注ぎ込むということなのだろう。
 しかし、熱く迸る心と魂をそのまま言葉に置き換えればいいという単純なものではない。言葉に命を注ぎ込むとはそう容易いものではないからだ。だから作家としての陣痛があるのである。熱く滾る心と魂だからこそ、抑制があったり、熱を削ぎ落として氷のように研ぎ澄ましたりという逆説が必要なのである。だからといって、その逆説によって熱く迸る作家の心と魂が削ぎ落とされたのかというとそうではない。鋭く尖った針となって研ぎ澄まされるのだろう。
 読者が小説を読み進む中で、その針が読者の心を刺し貫いて真っ赤な血飛沫を上げると同時に、読者の心と魂とが熱く、激しく揺り動かされるのである。

 前置きが長くなったが、福井地裁の樋口英明裁判長が読み上げた判決文は、正しく今述べた命が吹き込まれた文章であり、読む者の心と魂とを揺さ振る生きた言葉なのである。この判決文は歴史に刻み込まれることだろう。そして、この判決文には重要な歴史的な意味がある。
 3・11の心を透き通った言葉で綴っているという点だ。
 3・11が日本人に突きつけた本質的な問題を、これほど鮮やかに国民の目と心に映し出したものはこれまでになかったと思う。この判決文が突きつけた3・11の心ともいうべき本質的な問題に日本人が真摯に向き合い、3・11の心を自らの心へと変えたときに、わたしのいう心の革命が成就されるのだろう。
 もしそれが成ったら、それまでの価値観と生き方が根底から覆るということに繋がるのである。
 では、この判決文に表出した3・11の心とは何かみていこう。
 その箇所を抜粋する。抜粋するのは三カ所である。

「国民の生存を基礎とする人格権を、放射性物質の危険から守るという観点からみると、本件原発に係る安全技術及び設備は、万全ではないのではないかという疑いが残るというにとどまらず、むしろ、確たる根拠のない楽観的な見通しのもとに、初めて成り立ち得る脆弱なものであると認めざるを得ない」

 これは現代社会を覆っている科学万能主義と科学的楽観論の否定である。
 原発とはその象徴的な存在である。核廃棄物の処理方法が確立されてはいない。また原発が暴走を始めたらそれを止める手立てもないという事実が3・11の事故で明らかになった。専門家は知っていたはずである。
 にも関わらず原発は国是として作られ、絶対に安全だと国民に信じ込ませていたのである。暴走は起こりえないという科学的な過信(科学万能主義)と、日進月歩で発展していく科学がいつかは解決してくれるという科学的楽観論が基本にあったからだ。この基本を判決文は覆したといえるだろう。

 二つ目の文章を抜粋する。

「コストの問題に関連して、国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって、多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土と、そこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが、国富の喪失である」

 この判決文は経済至上主義の否定であろう。
 そして、この経済至上主義とは輸出至上主義とでもいうべきものである。
 以前にも書いたことがあるが、わたしは小学校の頃から日本は資源の乏しい国であるから、資源を輸入してそれを高い技術で加工し付加価値を付けて輸出する以外に繁栄はない、というように学校教育で教えられてきた。それが登山を始めて、これほど豊かな国はないと心底思い知らされたのだ。豊穣な自然の恵みと力に圧倒されたのである。
 人として生きて行く上での絶対的な生命の基盤を、日本の風土と豊穣な自然が与えてくれているのである。
 だから日本の風土と自然が、一万年もの永きに亘って、情感が豊かに息づく平和な社会の存続を可能としたのだ。その社会とは縄文の社会である。縄文の社会とは芸術性に優れ、三内丸山遺跡にみられるように高度な文化を育んだ社会である。ほんの二千年前のことである。
 しかし、この豊穣な自然の恵みと、生きていく上での絶対的な生命の基盤を蔑ろにして、輸出立国へと邁進したのである。そして、輸出の発展とGDPの伸びが国富を増やす源であり、国民の生活向上と幸福を生み出す唯一の方策だと頑なに信じてきたのである。経済成長こそが何よりも優先されることになったのだ。
 その過程で発生したのが水俣病に代表される公害病であり、足尾銅山の自然破壊と鉱毒事件である。枚挙に暇がない。
 そして忘れてはならないのは、都市集中による過疎化と限界集落化であろう。過疎化と限界集落化とは国是であり、国策だったのである。

 この歩みの先に起こったのが3・11の原発事故なのだ。
 3・11とは単なる原発の事故ではないのである。
 こうした歩みの集大成であり、象徴的な出来事だったのであり、日本という国そのものの存続さえも危うくさせるほどの未曾有の大事故だったから、国民に与えた衝撃はとてつもなく大きかったのだ。
 これを単なる事故と思うとしたら、このまま今まで歩いて来た方向に向かってまた歩いていくということになる。
 そうなれば、また姿を変えた原発事故が起こるだろう。原発事故が予測できなかったように、原発ではない別のもので、それこそ日本という国に生きていけなくなるような大惨事が起こることだろう。この大惨事とは自然災害をいっているのではない。一つ目に上げた科学万能主義と科学的楽観論と、そして二つ目の経済至上主義と輸出至上主義の方向に歩いていった先に起こる大惨事のことだ。これは人為的な大惨事なのである。
 3・11の原発事故とは、この方向に歩いていった先は破滅しかないことを教えてくれ、警鐘を鳴らしたのである。
 二つ目に抜粋した判決文が、そのことを明確に示してくれている。
 経済的富よりも「豊かな国土と、そこに国民が根を下ろして生活していることが国富」だと明言したのだ。これほど画期的な表明はないだろう。だから、歴史的な意味を持っているのである。

 では最後の文章を抜粋する。

「原子力発電所の稼動が、CO2排出削減に資するもので、環境面で優れている旨主張するが、原子力発電所で、ひとたび深刻事故が起こった場合の環境汚染は、すさまじいものであって、福島原発事故は、我が国始まって以来、最大の公害、環境汚染であることに照らすと、環境問題を、原子力発電所の運転継続の根拠とすることは、甚だしい筋違いである」

 この文章は、原発の意味と原発神話を根底から否定するものである。
 原発ほど安全で環境に優しくクリーンなエネルギーはないと信じ込まされてきたのだが、原発事故は史上最悪の環境汚染だと断定し、原発が環境に優しくクリーンなエネルギーなどと宣伝し、それを原発存続の根拠とするのは間違いだと断定したのである。つまりは、原発が存在する意味が失われたということだ。存在自体が社会悪であり、間違いなのである。
 原発に対して、これほど画期的な宣告はないであろう。

 以上、3・11の心を判決文に見てきたが、判決文を読めばわかると思うが、判決文には平和憲法の精神が生きているのである。だから、これほど格調が高い澄み切った言葉で宣言できたのだろう。格調高く澄み切っているのに、内に秘めた正義へと向かう理想と熱い情熱とが迸っている。
 つまりは、3・11の心とは平和憲法の精神と心なのである。
 
 この判決文は、広く世界に知らしめるべきだろう。そして、共有すべきだ。世界中に広がりつつある反原発運動が歩むべき道を照らす松明となるであろう。
 この判決を世界遺産にすべきだ。
 福井地裁の樋口英明裁判長の真実へと真っ直ぐに向かう姿勢と勇気と情熱に敬意を表したい。
 ありがとうございます。

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 わたしは言葉としての戦争と、生きた一人の人間として戦場で人殺しを行うという意味での戦争との間には見えない境界線があると思っている。
 言葉としての戦争とは、この境界線のこちら側の世界であり、境界線の向こう側の世界は切り捨ててしまっている。何故に切り捨ててしまうかというと、こちら側の世界の論理の欺瞞性が浮き彫りになってしまうからだ。
 こちら側の言葉としての戦争の世界を操っているのは誰か。
 戦争が利益に繋がる勢力なのだろう。軍需産業がそうだろうし、膨大な軍備と軍事力に群がって生きている勢力であろうし、新自由主義のニヒリズムを体現した多国籍企業が軍事力を盾にして市場開放と、市場の一元化を推し進めていく上でも戦争とはなくてはならないものなのだろう。
 そうした勢力と手を繋いでいるのがいわゆる政治屋であり、官僚であり、御用学者であり、マスメディアの中に巣くう御用言論人というものなのだろう。
 これ以外にもいる。国家主義者と右翼である。
 わたしは保守主義者であるが、言葉としての戦争の世界を全否定している。日本における真の保守主義者であるからであり、今から二千年ほど前まで一万年もの間、豊かな情感が息づく平和な循環型の社会を続けてきた縄文文化と縄文人の心が、日本人の魂の故郷だと思っているからである。平和憲法こそは日本人の魂の故郷なのである。
 日本におけるいわゆる保守主義とは、国家主義の意味に近い。さもなくば、二千年前に半島から弥生文化を携えて大量に移り住んだ弥生文化から日本の歴史を語ろうとする者のことである。彼らの思想の核には「国体」がある。この国体とは弥生文化と切っても切れないものだ。核に「国体」がありこれを最重要視するのだから、先ずは国家ありきなのである。
 本来の保守主義とは、国家の前に故郷の自然と人の暮らしと営みがあるはずだ。西欧における保守主義とは、近代国家の誕生がメルクマールになってる。近代国家誕生の揺籃期である啓蒙思想に対抗して芽生えた思想なのである。つまり、近代国家よりもそれ以前の共同体社会の慣習や秩序、倫理観などへの郷愁が優先されるということなのである。その郷愁へと向かう心が保守主義の生命なのだろう。
 従って真の保守主義者であるわたしは、国家よりも故郷の自然とともに生きる人の暮らしと営みを優先するのだ。
 日本の場合は、西欧ほど単純ではない。何故ならば、上からの革命によって近代国家が誕生したからだ。そして、政治的統治装置として、「保守主義」的な要素を巧みに取り入れたからだ。天皇神学は国学ばかりか一神教までもが雑居的に入り込んだものだ。国民に対する洗脳教育をする上で多大な力となった教育勅語は、後期水戸学の影響が指摘されている。
 保守主義的なものを恣意的にピックアップしてきて、国家主義を飾り立てたといえるのかもしれない。だから、日本においては国家主義者が臆面もなく保守主義者を名乗るのである。
 アメリカの保守主義とは特異的なものだ。何故ならば、移民国家であり国家に先立つ歴史と伝統と文化がないからだ。先住民を殺戮することで建国と自由を手に入れたのである。従ってアメリカの保守主義とは銃に象徴される自由と、星条旗に象徴される国家なのだろう。奇妙にも保守主義が国家主義と一体化しているのである。そして自由であるが、この自由とは国内には留まらない。世界規模での自由を求めていく。それが当然の人間が生きていくための権利であり、人類の進歩であり、人類の富と繁栄の源だと信じているのである。あまねく世界に自由を行き渡らせることが絶対的な善なのだ。この一神教ともいえる信仰が新自由主義なのだろう。
 抵抗する国家は悪である。悪を排除するのは、先住民を殺戮して建国と自由を勝ち取ったように軍事力でしかないのである。
 こうしてみると、アメリカの保守主義とは、国家主義であり、新自由主義でもあるというなんとも奇怪な姿をしているのである。近代国家が誕生する前の歴史と伝統と文化がないから、近代国家そのものである建国の理念が歴史と伝統と文化の始まりだからだろう。
 安倍晋三と櫻井よしこは、紛れもない新自由主義者である。自らは保守主義者を名乗っている。そして、二人の言動をみれば国家主義者であることは明白だ。
 新自由主義と保守主義と国家主義とが分裂症的に雑居しているのである。アメリカの保守主義とそっくりではないか。が、アメリカには歴史と伝統と文化はない。安倍晋三と櫻井よしこは恣意的に歪曲して理解した歴史と伝統と文化とを、臆面もなく口にするのである。自分の分裂症的頭に無自覚なのである。こうなるとどうなるか。政治的分裂症である。やることに脈絡はなく、関連性と一貫性がないのである。こういう政治的分裂症が一国の舵取りをしていると思うと、背筋が寒くなるではないか。
 表題から話しが逸れてしまったが、保守主義と安倍晋三と櫻井よしこの政治的分裂症の詳細は、Kindle版電子書籍『風となれ、里山主義』を読んでいただきたい。
 話しを戻すと、これまで書いてきたことから、言葉としての戦争の世界を操っている勢力とはどのようなものかわかったと思う。
 こうした勢力が操っている言葉としての戦争の世界の論理は、国益と愛国と防衛である。国益と愛国というが、では国とは何なのだろうかと思えてくる。言葉としての戦争の世界を操っている勢力の自己愛でしかないのではないだろうか。
 自己愛でしかないのに、何故に国益と愛国と防衛を口にするのだろうか。自己愛をこうした言葉で正当化し、こうした言葉の仮面をつけることで醜悪な素顔を隠すということもあるが、もう一つ重要な意味があるのだろう。
 それは国益と愛国と防衛という言葉で、国民の心を吸い寄せようという魂胆である。吸い寄せられていくといったが、国益と愛国と防衛という言葉に酔いしれて抱いた幻想でしかない。そして、日常のストレスや憤懣や憎悪を仮想の敵国へと向かって投げつけることで、心のはけ口となっているのだろう。また、目先の自分の利益や会社の利益を、国益と愛国と防衛とに安易に結びつけてしまうのだ。これもまた自己愛でしかない。
言葉としての戦争の世界には二つの自己愛が渦を巻いているのである。
 さて、この二つの自己愛はどうなるのだろうか。
 実際の戦場に赴くのは、二つの自己愛ではない。国民の自己愛だけである。操っている勢力の自己愛は依然として言葉としての戦争の世界に留まっているのだ。こちらの世界は安全である。言葉の世界だからだ。
 が、人殺しの地獄でしかない戦場に駆り出された自己愛に待っているのは、極度の恐怖とストレスと緊張とを強いる世界であり、その世界は言葉を先ずは捨て去ることを強要するだろう。そして、人間性と感情と感覚とを捨て去ることを強要するのだろう。それが出来なければ発狂するか、自死するかしなければならないのだ。自分であり、人間であることを捨て去るということなのである。言葉としての戦争という世界の向こう側にあるのは、そうした世界なのだ。つまりは自己愛に裏切られたことを痛感させられる世界なのである。が、知ったときには手遅れの世界である。
 一度この世界に足を踏み入れたならば、たとえ無事に言葉としての戦争の世界へと帰ってこれたとしても、既に人間性と自分であることさえも捨て去ったのだから、以前のように人間として生きていくことは不可能になるのである。
 イラクに派遣された自衛隊員は戦闘をしていないが、それでも帰ってきてから自殺をした者が多い。アメリカの帰還兵に至っては深刻な社会問題となっている。
 マスメディアとは、本来は言葉としての戦争の世界と、その向こう側の世界とを対比して見せて、言葉としての戦争の世界を操っている論理の虚偽性を暴くことだと思うが、現状は言葉としての戦争の世界に留まっているばかりか、国民の自己愛を増殖させようと、国益と愛国と防衛とを語るのである。
 上述したように、アメリカが求める自由とは、世界にあまねく行き渡らせる自由なのである。そのアメリカを援護する目的の集団的自衛権とは、世界規模での展開になることは必定である。
 そして、国益と防衛とは常に拡大解釈される危険性がある。
 国の生命線を守るために太平洋戦争は行われたのである。侵略ではなく生命線を守る防衛なのだ。そして、その防衛とは欧米列強の植民地として虐げられたアジアの自由と開放のための戦いだと美化されたのである。
 防衛と国の生命線という国益は拡大解釈されていく危険性を孕んだものなのだ。
それを食い止める唯一の手段が平和憲法なのだが、その平和憲法を卑劣な手段で骨抜きにしようというのだから、政治的分裂症は恐ろしい限りである。
 ゲームや漫画やアニメに描かれる戦闘シーンは、言葉としての戦争の世界の視点でしかない。向こう側の世界は、心と感情のある人間である自分を捨て去ることを強要する世界なのだ。その地獄絵図の世界を感情と心とを失った殺人鬼となって、泥と血に塗れながら彷徨い歩くのだ。殺す相手は敵兵とは限らない。写真のような女子供だ。
 その地獄絵図の世界のどこに国益があり、愛国があり、防衛があるのだ。
 国民を殺人鬼と廃人になることを強いる国家とは犯罪者でしかない。戦争に大義も正義もない。国家の名で行われる大量殺人でしかない。
 平和憲法がそう語りかけている。
 日本国民よ、醜い自己愛に逃げることなく、言葉としての戦争の世界の向こうに想いを馳せよ!


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