わたしは「大飯原発運転差し止め判決」とは、3・11の心の反映だとブログに書いた。そして、3・11の心とは平和憲法に通じるものだと書いている。
欧州では極右政党の躍進が著しい。憂慮すべき現象であり、偏狭な排外主義と自国の伝統と文化の優位性を前面に押し立てて国家主義へと雪崩れていく危険性は歴史が繰り返し教えてくれている。極右政党とはファシズムに親近感を抱くものだ。欧州を再び戦禍へと歴史は導いていくのだろうか。わたしはその可能性を否定しない。
欧州の右傾化は、欧州版グローバリズムであるEUが引き起こした歪みの反動だろう。だから、反グローバリズムという混沌としたパッションが原動力のはずだ。問題は、この反グローバリズムのパッションが何故に極右政党へと雪崩れていくかということであろう。
では、極右政党を裏返したらどうなるか。EUなのではないだろうか。だから、反EUのパッションが極右政党へと吸い寄せられていったのである。
これは、「フランス極右政党台頭の光と影……欧州の悲劇と本質」というブログに書いたが、重複して申し訳ないが、表題と関係するのでもう一度、違った角度から眺めてみたい。
欧州連合(EU)条約では、自由、平等、民主主義、法の支配、人権の尊重を謳い上げ、多元的共存、無差別、寛容、正義、結束、女性と男性との間での平等を価値観とする統合された社会を目指すとあるが、これは極右政党の掲げる理念と真逆だろう。
ここで疑問が湧いてくる。どうして、反EUが極右政党ではない他のリベラルな政党への支持に繋がらなかったのかという疑問である。
大量に押し寄せてきた移民の安い労働力によって職を失い、賃金自体が移民の安い賃金へと地均しされていけば、生活の劣化を引き起こすのは頷ける。生活の劣化はすべて移民の所為だという被害者意識が働けば、移民の排斥へと心が向かうのも道理だ。また、移民の増加によって社会の慣習や文化、また伝統的な暮らし方が変わり、社会構造そのものが変化することを危惧する保守的な心が芽生えたりもするのだろう。こうした心が極右政党へと引き寄せられたからだと納得できないこともない。
が、わたしはもっと根源的な理由があるように思う。
「フランス極右政党台頭の光と影……欧州の悲劇と本質」というブログにも書いたが、この根源的な理由が欧州の悲劇なのだと思う。いや、今や全世界の悲劇といっても過言ではない。何故ならば、全世界が欧州的な悲劇の精神的土壌を共有するようになってしまったからである。
極右の反対は極左であるが、マルキズムとはインターナショナリズムである。つまりはグローバリズムなのである。極右との違いは何か。「インター」という形容詞がつくか、「ウルトラ」という形容詞がつくかの違いである。「インター」とは、万国の労働者階級は利害を等しくしており、また虐げられた階級であるから、この万国の労働者階級が団結して開放を勝ち取り、万国の労働者階級の独裁が成就すれば、恒久的な世界平和が訪れ、差別のない自由と平等の社会が実現するという意味であろう。
一方の「ウルトラ」とは、国家を絶対的なものとし、国民はこの国家に服従し奉仕するものであり、国家の繁栄こそが国民の幸福に繋がるとするもので、国家の生命である自国の歴史と伝統と文化の絶対的な優位性を前面に掲げるという意味なのだろう。しかし、「ウルトラ」とは一国に留まってはいない。絶対的な優位性があるからこそ全世界に向けて、自国の歴史と伝統と文化とを啓蒙し、拡げていく使命があるのである。啓蒙し拡げていくとは領土の拡大であり、その方法は武力なのである。
もうお気づきだろう。「インター」と「ウルトラ」との違いは、労働者階級か一国かの違いでしかないのだ。
更にもう一つ、世界を席巻しているグローバリズムそのものである新自由主義はどうだろうか。
EU自体も、アメリカほど露骨ではないが新自由主義なのだろう。
新自由主義とは全世界に開かれた自由で平等な単一の市場こそが、人類の進歩と発展をもたらし、人類に富と幸福とを約束するものだという考えが根底にあるのだろう。自由で平等な単一の市場とは、関税はもちろんのこと、国や民族に固有の歴史と伝統と文化を反映した社会構造の違いである非関税障壁が撤廃され、経済的な意味で全世界に開かれた国境のない唯一にして絶対的な市場のことである。そして、この市場においては敗れたものは悪であり、勝ったものが善なのである。価値基準のすべてを市場の意志に委ねるのであり、その市場の意志こそが絶対的価値なのだ。
この新自由主義とは資本、とりわけ多国籍企業の論理なのである。単一化された市場の意志を絶対化するのであるから、「インター」と「ウルトラ」と同じく、外へと向かって単一化するために市場を拡げて行くことになるのだ。その方法は様々であるが、アメリカをみればわかるように軍備が後ろ盾になっていることは明白である。防衛と正義の旗を掲げて侵攻し、自由と平等の市場へと無理矢理に地均ししていくのである。
こうしてみてくると、極右政党までもが本質的には「グローバリズム」なのである。
国家を絶対化するために、国民のパッションを吸引し国家の生命としての核を意図的に作るために、一端は統治装置として再編成した歴史と伝統と文化へと収斂していくが、その核が強固なものとなるや、今度は外に向かって膨張していくのである。ファシズムとは覇権主義でもあるのだ。
そして重要なのは、極左も、もちろん本家本元の新自由主義もまたグローバリズムなのである。
極右も極左も新自由主義も西欧近代主義が産み落としたものである。土台は一緒なのだ。つまりは、西欧近代主義とは本質的にグローバリズムを内包したものなのではないだろうか。
ニーチェが「神は死んだ」と高らかに宣言した。
わたしはニーチェは、欧州の本質を暴いて見せたのだと思っている。ニーチェが見た神とは西欧的な意味での理性そのものだったのではないだろうか。「神は死んだ」とは「神は理性そのものだった」と置き換えられないだろうか。デカルトは理性を絶対化したが、その理性をも超えた神は捉えようがないと、神の存在を保留の形で一先ず脇に押しやったのだろう。それをニーチェは「神は理性の産物だ」と神にトドメを刺したのではないだろうか。
神とは唯一絶対であり森羅万象の創造主だとすれば、どうして布教が必要なのかとわたしは考えてしまう。日本においては「神さびる」という言葉があるが、これは感覚的につかむものであり、布教によって神という存在を知ることではない。布教の前に神を感じているのである。一神教とは布教という認識の過程がなければ、神の存在はないということなのではないだろうか。つまりは、神とは認識するものであり、認識とは人の特質だとすれば、神とは人の認識が作り出したものとなる。
多神教にも古代の農耕社会などにみられる認識的なものがある。御利益多神教ともいうべきものであり、御利益があるから神を祀るという宗教である。しかし、縄文時代の自然的宗教には認識を超えた感覚的な要素が濃かったはずだ。日本人における認識方法は感覚的認識の要素があったことが指摘されている。わたしは日本の風土と自然が感覚的認識を育んだと思っているのだが、西欧における主観と客観、主体と客体というような二元論的な認識とは違ったものなのだろう。
一神教とは布教によって外へと広がっていく意志を秘めている。布教することで全世界の人々が神の存在の前にひれ伏したときこそが、人類に平和が訪れ、神の慈悲と加護があまねく人類の上に光となって降り注ぐというような世界観が土台にあるのではないだろうか。そして、その輝かしい神の国という未来に向かって人類の歴史は歩んでいるのであり、それがまた人類の歴史の必然性なのだという考えが根底にあるのではないのか。
ニーチェの「神が死んだ」という宣告は、こうした土台としての思想にどう影響したのだろう。「神は死んだ」のではなく、「神は人間の理性だった」というニーチェの宣告は、ニヒリズムであるとともに、神となった理性の暴走なのではないだろうか。理性が神にとって変わったのである。
理性が神となったからといって、ただ一つではない。極右政党が掲げる神とは国家の意志であり、マルキズムが掲げる神は歴史的必然性であり、新自由主義が掲げる神は市場の意志なのである。そしてどれもが己の絶対的な正しさを主張し、自らが夢想する神の国を目指して世界を一つにすべく歩いていくのだ。それが人類の進歩なのである。
掲げる神は違っているが、何と似ているのだろう。
どれも宗教的であり、でれも独善的で攻撃的なのだ。土台に西欧近代主義があり、もっと本質的には西欧の風土性と一神教という歴史的な精神性があるからではないのだろうか。
この精神的な土壌には、ある定められた未来(一神教の神の国)へと向って歩いているという進歩史観があり、理性という神を絶対化する人間中心主義があり、理性信仰と一体化した科学万能主義があるのではないだろうか。この土壌の基本にあるのは自然淘汰の思想であり、棲み分けの思想ではない。倫理とは神の意志なのだ。神の意志の前には法もなければ、人間性などというものはないのである。
しかし、考えてみると恐ろしい。神の意志というが、現実的には権力者が神の意志の体現者になるということである。
こうした本質的な危険性を内に孕んでいるから、憲法で歯止めにするのだろう。立憲主義とはこうした機能をもたせているはずだ。
日本にはわずか二千年前に、一万年もの間、豊かな情感が息づく平和な社会が続いていた。縄文時代である。日本という風土と美しい自然が育んだ日本人の心の原点とは、この縄文文化であり、縄文人の心と精神だとわたしは信じている。岡本太郎は縄文土器の紋様に、崇高な精神性と迸る命の息吹と芸術性をみているが、三内丸山遺跡にみられるように高い文化であったことは間違いない。
一万年もの間、平和な社会を築いていたということは驚異的なことだ。これは精神的な土壌が関係しているのだろう。つまり、循環型の社会であり、時間が真っ直ぐと前に進んでいく進歩史観ではなく、生と死とが循環する時間軸で捉えていたからではないだろうか。そして、自然を崇拝する多神教であったから、人間中心主義に陥ることもなかったのだろう。日本の豊穣な自然の恵みをいただきながら、自然と共に生きるということが基本だったはずだ。
循環型の社会とは、欲望が限りなく肥大化していく社会ではない。「足るを知る」社会なのだ。だから、経済成長神話など生まれようがないのである。
西欧近代主義の社会は「足るを知る」のは悪なのである。何故なら、飽くなき欲望を求めるから、科学の発展があり、市場の拡大があり、富が増大し人の幸福もまた増していくという考えが芯となっているからだ。幸福感がまったく違っている社会なのだろう。
現代の日本の社会とは、西欧近代主義が歩んできた先に出現した社会である。
政治的分裂症である安倍晋三は、新自由主義者であり、国家主義者なのである。欧州の極右政党の仮面を被ったかと思えば、アメリカの新自由主義の仮面を被り、支離滅裂な政策を行っているのである。そればかりか、保守主義の仮面も被るという厚顔無恥さだ。仮面をとっかえひっかえして、国民の目を欺こうとしているが、一体どこへいこうとしているのか、どの仮面を被っても戦争という地獄へ国民を導いていくことだけは確かなようだ。
仮面をとった素顔は果たしてどんな顔なのか、おそらくのっぺりとした顔なのではないだろうか。安倍晋三という政治家もただの仮面なのかもしれない。素顔の安倍晋三はどこにもいないのだ。つまりは確固とした自分という人格を失っているのであり、元々ないのである。
こうした西欧近代主義の歩いて行く方向に懐疑的な潮流の台頭が世界中に見られる。
スローライフの提唱もそうだろうし、緑の党などもこの潮流だろう。日本においては限界集落化の一方で、都会暮らしに疲れた若者達が田舎へと回帰していく流れが細々とではあるができている。また、「となりのトトロ」に象徴されるように日本人の心が里山へと回帰していっているようにも思える。
3・11とは、西欧近代主義に懐疑的な潮流をはっきりとした姿で、日本人の心の目に浮かび上がらせたのだと思っている。
反グローバリズムという範疇では括れない、もっと本源的なものを3・11は日本人の心に突きつけたのではないだろうか。日本人の心の革命を準備したのではないかと、わたしは密かに信じているのだ。
3・11の心とは、西欧近代主義の歩んで行く方向への懐疑なのだろう。このまま歩んで行く先に、未来はあるのだろうか。その歩んで行く先に本当の幸せはあるのだろうか。人間らしい生と死を生きられるのだろうか。環境は破壊し尽くされ、地球そのものが壊れていってしまうのではないか。経済至上主義と経済効率が、価値基準のすべてであっていいのだろうか。子供の未来はあるのだろうか。そんな素朴な疑問を3・11は投げかけてくれたのだ。
この懐疑とは日本だからこそ、わたしは重要だと考えている。
何故ならば、ほんの二千年前に、一万年もの間、豊かな情感が息づく平和な縄文社会が日本にあったからだ。そして、その縄文人の心と精神を体現した平和憲法があるからである。
欧州においては回帰していく原点がないのだ。原点に回帰しても、また振り出しに戻るだけなのである。本質的には同じ価値観と精神が支配する世界だからだ。
日本は帰るべき原点があるのである。
その原点とは縄文人の心と精神であり、文化なのだ。
いわゆる日本の保守主義者は、日本人の原点を古事記の神代記にしようとしているが、それは大きな間違いだと思う。古事記の神代記は、二千年前に半島から異文化を携えて大量に移住してきた弥生人を核とした物語である。そして、律令国家体制を絶対化すべく書かれた物語であるから、そもそもが国家主義的なのである。安倍晋三が保守主義を名乗っているのは、古事記の神代記を日本の原点としているからだ。
それよりも以前に一万年もの間続いた縄文時代を歴史的に抹殺することは許されるはずはない。
平和憲法を押しつけだというのなら、古事記の神代記こそが押しつけだといわざるをえないだろう。平和憲法こそが、縄文人の心と精神そのものであり、日本人の心の原点なのである。
わたしは「里山主義」を掲げているが、里山とは弥生人が日本に根付かせた農業と、縄文人の心と精神とが融合したものだと捉えているのである。農業とはアメリカ農業をみれば一目瞭然だが基本的には自然破壊以外の何物でもない。が、日本の農業が生み出した里山とは、自然と共存するばかりか、人の手を加えることで豊穣な生態系を生み出すという素晴らしいものなのである。わたしは里山に、弥生人と縄文人のあるべき共存と融合の姿をみているのだ。
3・11の心を、福井地裁の樋口英明裁判長が「大飯原発運転差し止め」の判決文として高らかに謳い上げた。これは歴史的な記念碑だと思っている。
反グローバリズムが辺境なナショナリズムへと吸い寄せられないためにも、わたしは3・11の心は重要だと思えてならないのである。
わたしは3・11の心をテーマに小説を書いている。
詩織という女が祖母の故郷へと旅をする中で、3・11の心と真摯に向き合わされ、それまでの価値観が大きく揺らいでいく姿を描いたものだ。そして、祖母の故郷が新しい希望の世界に見えてくる心の道程を描いたものである。
日本の近代小説とは西欧近代小説を模したものだが、私小説という日本的リアリズム小説を生んだが、その私小説も含めて、小説世界は西欧的自我を解剖学的に、そして心理学的に分析した反映であり、社会もまた近代的自我を通して描かれたものであろう。そこにあるのはやはり西欧的な主体と客体という認識論なのではないだろうか。現代文学とはこの延長にあるものだ。
わたしは西欧近代主義を否定しているので、小説世界もまた近代文学とは違った描き方をしようという野心がある。感覚的認識を基本としたものだが、西欧的自我から描き出した小説世界は意味を無くしてしまったという想いがあるからだ。人と人との結びつきと絆が断ち切られ、バラバラに解体されて、西欧的自我が社会によって飽くことなく作り出され肥大化する、欲望を映した単なる鏡でしかなくなったのではないか、と思えるのだ。そして、その自我を通して描き出した社会に文学的な可能性を見出せないからだ。解体された自我自体に芯があろうはずはない。
わたしは、「交感の場」というものを考えている。「神さびる」という言葉に言い表されているように、これは一方方向の感覚ではない。自然が漂わせる感覚と、こちらの感覚とが絡み合った世界に結ぶ感覚的認識である。この場には、そもそもが主体も客体もない。この「交感の場」とは、自然と人ばかりではなく、人と人の感覚が絡み合う場でもある。この場を通して見たときに、西欧的自我の目を通してみた社会とは違った社会の姿が浮かび上がってくるのではないだろうか。
わたしは契沖のように絶対化はしないが、文学的価値を重要視している。社会的価値と経済的価値、また政治的価値では見ることも、捉えることも、また感じることもできないものが文学的価値だと思うからだ。わたしにおける文学の意味と可能性はここにある。「交感の場」とはまた、この文学的価値が息づく場であり、文学的な目と心だからこそ浮かび上がらせられる場なのである。
長くなったが、わたしは文学自らが規範を作り、その枠の中に閉じ篭もることは自殺行為であり、文学の可能性を失うことだと考えている。大手の出版社が主宰する新人賞とはそうしたものだと思えてならない。わたしの小説はそうした規範と枠など無視したものだ。
この小説『故郷』は、これまで出版された3・11をテーマとした小説とは異質な小説世界を創っている。3・11の心を「交感の場」から描いたり、3・11の心という発想から描かれた小説はこれまでにはなかったと思う。
本来なら紙の本として出版したかったが致し方ない。
が、Kindle版電子書籍がなかったならば、永久に世に問うことはなかっただろう。その意味では、有り難いことだと思う。
この小説『故郷』を3・11の心に捧げます。どうにかして日本人が3・11の心を取り戻せないものか、どんな形であれこの小説がその手助けにならないものか模索していくつもりです。
Kindle版電子書籍では5日間しか無料にできませんが、無料キャンペーン中に読んでいただければ、これ以上の喜びはありません。
広く認知されていませんが、Kindle版電子書籍はスマホでも読めます。
小説『故郷』はキンドル版の電子書籍として出版しています。
ブログはこの他に、「里山主義」と、「里山主義文学」を開設しております。合わせて読んでいただければ幸いです。
「風となれ、里山主義」(思想・政治関係)
「里山主義文学」(文学関係)