昨日は川端康成と三島由紀夫の小説の冒頭の違いから日本における認識論に繋げて大法螺を吹いたが、今日はそれと関連したことを書こうと思う。
しかし、こんな話しばかりでは味気ないし、色気もないので、竹久夢二の『宵待草』の詩になぞらえて語ることにしよう。
待てど暮らせど来ぬ人を
宵待草のやるせなさ
今宵は月も出ぬさうな
どうも竹久夢二もわたしと同じく多情多感であり、一目惚れの達人であったようである。詳しくは知らぬが、旅先で出逢った女に恋してしまったようだ。竹久夢二とわたしの違いは、性的妄想が妄想のままで留まるか、妄想が肉体関係となってくんずほぐれつして実を結ぶかの違いである。夢二は妄想狂にして、現実的にも柔肌に触れ、唇を濡れ合わせ、女の炎の鬼灯の舌を捲って現れた赤い実を咥えて、しゃぶりつくという何とも羨ましい限りのことをするのだ。
わたしといえば、いつまでたっても檀ふみ様との関係は妄想の世界でしかない。檀ふみ様の鬼灯の舌を捲っていって、出てきた赤い実を舌で転がして濡らしたのは、みんな夢の中……、ではなく妄想の中なのである。
このまま檀ふみ様との妄想の中での交情を語っていってもいいのだが、いやそうしたい欲求に突き動かされているのだが、それではせっかく掴んだブログの女性読者に愛想を尽かされてしまいそうなので、断腸の思いで止めることにするが、何を隠そうわたしの大腸にはエノキタケほどのポリープが生えているのだ。
三年前に5本ほど内視鏡で取ったのだが、あれからそのままにほったらかしにしている。医者によるとどうもわたしのポリープは世にも珍しい珍品とのことだ。時価にすると数百万はするだろうということだが、ブログの読者であるから、出血大サービスで50万円ほどでわけてあげる用意がある。女性の場合は写真同封の上、住所、氏名、年齢を明記して応募していただければ、特別に無料という可能性もある。写真は全身の他に唇のアップをお願いしたい。どうしてかというと、妄想したいからである。何を妄想したいかというと、わたしの松茸……ではなく、エノキタケ……でもなく、ポリープの先端を赤く濡れた唇で触れているところを妄想したいからなのだ。
どうも、今日はいけない。檀ふみ様の所為だ。
話しを戻すと……(どこまで戻すか、帰り道がわからなくなってきた)。
そう、竹久夢二の『宵待草』だった。
夢二と旅先で出逢った女とがどうなったのか、わたしは知らない。鬼灯を捲って赤い実にしゃぶりついたかどうかもしらない。恋が実らなかったことだけは確かなようだ。
この『宵待草』とは女の心境を妄想したものである。籠の鳥である女が、愛しい男が籠から出して奪いに来てくれることを待っている切ない恋心を歌ったものだろう。
わたしにおける小説とは、愛する読者である女を籠から自由に出してやり、身体と心を絡まり合わせながら、新しい世界へと飛翔させることだと考えているのである。
籠とは何か。
社会的価値であり、政治的価値であり、経済的価値であり、社会的な道徳と倫理なのだろう。契沖は文学的価値を絶対化したが、わたしは文学的価値がそれだけで独立したものとは思ってはいない。それでも敢えて文学的な価値を重視したい。
現代社会は人間中心主義である。それは西欧近代主義が土台にあり、もっと掘り下げれば西欧的な風土的、精神的な土壌を土台としたものだ。
人間の大腸には細菌がうじょうじょいる。細菌がいるから消化できるのだが、人間中心主義と科学万能主義と経済至上主義は、そうした当たり前のことを忘れさせ、すべてを商品化することに繋がる社会なのである。だから感覚的なものがすべて商品化される。例えば匂いを例にしよう。嫌な匂いを消し去った無臭の世界が商品化され、さらに心地よい匂いが商品化される。これは何を意味するかというと、匂いの均一化である。知らず知らずの内に、その匂いに慣らされることなのであるが、それはとりもなおさず嗅覚の鈍化に繋がるのである。
わたしが子供の頃は、春先になると池に産み落とされた蛙の卵を手でこねくり回して遊んだものだが、そうした感覚は現代社会の中では成立しなくなったのだ。味覚も、聴覚も同様であり、視覚もまた同様である。
どうしてこうなるかというと、世界を席巻している新自由主義を考えてみれば明らかだ。風土性と歴史性と文化と伝統を否定し、単一化したグローバル市場こそが人類に富と幸福をもたらすとしているからだ。単一化したグローバル市場とは、限りなく単一化された商品が支配する市場である。五感(感情)ばかりか、思考も単一化される世界なのである。そうでないと本質的な意味での単一化したグローバル市場にはなりえないからだ。
その端的な現れが、地域の歴史と伝統と文化と密接に結びついた日本古来の作物の種子の消滅の危機である。これは日本だけのことではない。世界各地で見られる現象である。種子がなくなるということは、伝統的な食文化がなくなることである。これはほんの一例にすぎない。
若いと感性が豊かだというのを、わたしは信用していない。
何故ならば、時代と共に感覚が劣化しているからだ。それは若者の問題ではなく、そうした方向に向かっている社会の問題なのである。
最近のテレビドラマを観ると、どれも刑事物でありミステリである。ミステリが売れているからなのだろうが、出版界においてもミステリの花盛りである。
わたしはミステリを否定はしない。が、そのミステリの前に、小説とは、そして文学とは何なのかと思いたいのである。
『宵待草』を考えてほしい。愛しい女は籠の中にいる。自由を求め、空高く羽ばたくことを夢見ている。
小説とは籠から女を自由にしてやり、新しい世界へと羽ばたかせてやることではないのか。たとえそれが小説世界の中だけだとしても、そういう世界があるのだと女の心に刻みつけることはできる。
が、小説が籠の世界に留まっていたらどうなるか。いわば鳥籠の中で女と逢瀬を重ね、一時の欲情を燃やすだけではないのか。そこに本当の恋愛が成立するだろうか。風俗店の中に息づく擬似恋愛の世界であり、商品としての快楽と遊びだけでしかないのではないだろうか。
優れたミステリとは、鳥籠の外の世界を扱ったものだと思う。ではステロタイプの現代のミステリはどうか。判断を委ねたい。
売れればいいと、安易にそうした方向へと突っ走るということは、別な方向へと帰って行く退路をなくすということに等しい。市場を狭めていっているといえるだろう。そして、籠の中で待っている女を永遠に外へと自由にしてやることなどできないのだ。
流行は直ぐに飽きられる。鳥籠の世界は底が浅く、次の刺激を求めるからだ。
こうした姿勢は、女を鳥籠の世界に幽閉し、その世界を受け入れることを強要することにも等しい行為なのだろう。現実をただ追認し、引き摺られていくだけなのである。そして、最後に現実にこっぴどく裏切られる。そのときは終わりでしかない。
昨日書いた、作家が小説世界を限定し内へと読者の心を向かわせるか、それとも小説世界を外へと開かれたものにするかの違いは、鳥籠の中に読者を幽閉しその鳥籠の世界で読者を遊ばせるか、鳥籠の世界ではない自由な世界へと読者の心を飛翔させるかの本質的な違いにも通じているのだろう。
三島由紀夫を弁護するわけではないが、三島は説明的ではあるが、鳥籠を腕ずくでへし曲げる熱と力は三島文学にあったことだけは確かだ。三島は鳥籠の扉を開けたりはしない。熱と力で鋼鉄の鳥籠の枠をへし曲げ、へし折るのである。そこが三島の類い希な作家としての才能だろう。三島における熱と力は、川端における感性ではなく、川端にはない思想性なのではないだろうか。
形式論とか文体論を言う前に、作家は鳥籠を先ずは意識すべきだろう。
純文学か、ただのエンタメかの境界線をいうならば、形式論や文体論(表現)ではなく、鳥籠の中か、鳥籠の外かの違いであるべきだろう。
わたしは今夜も、檀ふみ様を鳥籠から自由にしてやろう。
そして、身体と心を蛇となってぐるぐる巻きに絡ませ合い、注連縄となって濡れ合いながら一つにして、奪い合い奪われ合うのである。いつしか身体を離れた魂と心とが、めくるめく夜の闇を炎となって漂うのだ。
わたしの妄想には元より鳥籠はない。
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『むらさきの匂いへる』5月1日~5日
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ブログはこの他に、「里山主義」と、「里山主義文学」を開設しております。合わせて読んでいただければ幸いです。
「風となれ、里山主義」(思想・政治関係)
「里山主義文学」(文学関係)