「北林あずみ」のblog

2014年03月

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 残雪のなかにあってもひときわ目立つといわれている純白のコブシの花だが、今年は開花が遅い。わたしが散歩をしている里山には葦原があり、その中央に四方に枝をのばした大きな木があるのだが、やっと蕾が綻んだばかりだ。ちょうど傘を広げたような姿をしており、満開になると褐色の葦原の風景が一変してしまうほどの艶やかな姿で匂い立つのである。
 残雪のなかに浮かび上がって咲き乱れるコブシの花の姿が、一瞬だけ車窓を過ぎった光景を、堀辰雄が『大和路、信濃路』に書いていたはずだ(新潮社の文庫本だったと記憶しているが、探したが本がみつからない)。
 残雪のなかに、それも一瞬に過ぎない。しかし、残雪の白に紛れてしまうことがないのだ。残雪の白を吸い取って、より鮮やかな純白へと化粧をしているのかもしれない。そして、よりいっそうの艶やかな姿となって、人の心を捕らえるのだろう。こぶしの花に宿る魔性の力なのだろうか(女の魔性については、後日語ります。女の魔性とは気高く、神々しいものなのです。小説『室生古道』の主人公、鞠子を通して女の魔性を描いております)。
 枝をびっしりと覆い尽くながら、一輪一輪がふんわりとして浮き上がるようにして咲くコブシの花は、白い小鳥に喩えられたりするが、わたしの感性では白い小鳥には結びつくことはない。そんな可憐な花ではない。純白の衣装の下に秘めた柔肌はしっとりと濡れていて、艶めかしくも妖しげな匂いの光を発しているのである。
 バリ島にはチュンパカという花があるが、この花はコブシの花びらとそっくりである。同じ木蓮科だから似ていても不思議ではないのだが、チュンパカの匂いは妖しいほど艶やかである。コブシのように若葉が出る前の冬枯れた姿で、純白の衣装を纏うのと違って、南国のバリにあるこのチュンパカは大きな葉に隠れるようにして咲くのであるが、だからなのだろうか、匂いの糸で絡め取るようにして誘惑するのだ(チュンパカの花の官能性については小説『里山帰行 バリの花』に書いている、とさりげなく宣伝をしておく)。
 わたしのコブシの花のイメージは、チュンパカの花と切っても切れないものだ。そして、イメージは花だけではない。花が終わった後につける妖しげで、艶めかしい実の姿と結びついたものなのである。
 写真を見ていただきたい。この実が純白の花と結びつくだろうか。わたしは、なあーるほどと思ったものだ。驚くべきはこの実は姿を変えていくということだ。ほんのりと紅をさしたような青い林檎の色をしているが、形はなんとも奇妙であり、どことなくひとの男のへんなものを想像してしまう。そればかりか、滑らかに隆起している丘は、皮の下に隠している謎めいたもので誘惑しているのである。わたしは素直な性格だから、直ぐに奇妙な形の実をもぎ取ると、指の腹で丘の輪郭をなぞったりしたものだ。しかし、妖しげな謎は謎のままなのである。が、季節の移ろいとともに、その謎をコブシ自身が解き明かしてくれるのだ。
 皮の下にあって秘めやかに隠していたものの姿を、割れ目から見せてくれるのである。
 男の性のイメージのはずの実が、悩ましい変身を遂げ、女の性のイメージを連れてくるのだから、小鳥の喩えなどに結びつくはずはない。
 割れ目から覗いた紅いマメの姿はグロテスクであり、それでいて何とも形容できないほど艶めかしいのだ。どうもグロテスクと艶めかしさは、背中合わせの関係のように思える。グロテスクと見えるか、それとも震えるほどに艶めかしいと見えるかは、見ているひとの心次第なのであろうか。
 因みに、このこぶしの実から想像を飛翔させて、めくるめく性の世界を描いたのが、小説『桜舞う頃に』である。と、またちゃっかりと宣伝をしてしまうが、いっこうに食いつかないから不思議だ。わたしがプロの作家ではないから、碌な小説ではないと思っているかしれないが、いわゆるプロのくだらない小説などはるかに凌駕しているのである。ただの官能小説ではない。また恋愛小説でもない。このこぶしの花のように変幻自在で奥が深いのである。読むひとの心を写す鏡だからだ。と、自画自賛しておこう。一度読んでみれば虜になることであろう。
 このこぶしの木には美しい虫がくる。アカスジキンカメムシである。虫好きには宝石と見紛うほどの美しさと映るのだろうが、虫嫌いだと、身の毛がよだつ配色と映るのだろうか。
 この虫は標本にしても意味がない。生きていてはじめて、この色彩があるからだ。色彩が生きているのである。虫の死とともに色彩もまた死に絶えるのだ。
 いつの日にか北杜夫の『どくとるマンボウ昆虫記』のようなものを書くつもりだ。さしずめ官能篇となるのだろうか。
 安曇野のこぶしはもう咲き始めたのだろうか……。

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 バリを訪れたのは25年前になる。
 変貌は激しいようだ。早くから観光地化された南部にはスラム街も出現していると聞く。25年前のウブドは昔を偲ばせる長閑な田園の面影をとどめていた。
 人の暮らし方が大きく変わったのだから、バリに息づく伝統と文化もまた変わらぬはずはない。暮らし方が変わるとは、バリの風土に深く根を下ろした心もまた、知らず知らずに変わるということだ。心とは重要であり、文化と伝統と切っても切れない関係にある。バリは神々の島といわれてきたが、多神教の精神が暮らしの隅々にまで浸透していたのだろう。暮らすことそのものが神々との交感を生きることであったに違いない。
 バリの多神教は厳密にいうと、日本人の心の古層を形成している縄文の精神性とは違うものではあるが、それでも通い合うものがあるからだろうか、わたしはバリの風景に懐かしさを覚えたのだ。
 いつもの書き出しの雰囲気と違ってエロくないと思っておられるだろうが、ここまではプロローグに過ぎない。というか、カモフラージュなのである。いつもエロいことばかり朝っぱらから書いていると、安曇野を愛されている方々に叱られてしまうし、このブログに誰もよりつかなくなるのではなかろうか、などと想いを巡らしたからなのである。しかし、人の心とは欺けないもので、やはり行くつく先はいつのも通りとなってしまうから不思議だ。

 ランプ―タンという果実をご存じだろうか。
 この果実はソシンロウバイの花を凌駕するほど危ない。が、ソシンロウバイの花は女へと想像が向かうのだが、こちらは男へと想像が向くという違いはある。
 何ともグロテスクであり、何とも艶めかしい姿なのだ。
 恋人とバリを旅する女性に、めくるめく官能の夜が訪れることを祈って、貴重なアドバイスをしておこう。
 宿泊するのはウブドにすることをお勧めしておく。
 わたしがウブドの観光業者とつるんでいて、裏金を頂戴しているからではない。小説『里山帰行 バリの花』の舞台がウブドだからである。ついでだから書いておくが、モンキーフォレスト通りにしなさい。ホテルは……、自由にしてよろしい。
 そして、夕暮れをじっと待つのだ。
 ウブドの郊外には田園風景が広がっているが、そこの夕焼けがこれまたロマンチックなのである。バリでは影絵芝居が伝統芸能として息づいているが、薄紅色に染まった夕空を背景にして、影絵となって浮かび上がる森とヤシの木立は、官能の夜の世界へと通じる扉なのである。
 扉を開けただけでは、深い官能の夜の奥深くまで彷徨い込むことはできない。
 そこで活躍するのが、このランプ―タンという妖しげな果実なのである。従って、先ずウブドに着いたら、真っ先にこのランプ―タンを市場で購入しておかなければならないことはいうまでもない。
 扉を開けて、二人で官能の夜の世界へと足を踏み入れたらばだ、ホテルへと直行せずに、恋人にランプ―タンを食べるところを見せつけてやるというのが、重要になってくるのである。媚薬とでもいうのだろうか。いや、そんな生易しいものではない。男の鼻息が火となって燃え上がるほどの効果をもたらすのである。
 が、男にランプ―タンを食べさせてはならない。
 ただ見せつけてやるのだ。
 あなたは指を艶めかしくくねらせて、奇っ怪な突起をもった皮をぺろんと剥く。すると、瑞々しい白い半球が顔を覗かせる。あなたは、はっとすることだろう。どこかでみたような、そして咥えたような……。
 そうした下卑た想像は駆逐しなくてはならない。あくまでも妖しげな姿をして、バリの官能の夜の闇にぶらさがっている果実なのだと、あなたの心にいいきかせなさい。バリの夜の闇にぶら下がった果実だからこそ、めくるめく官能の世界へとあなたを導くのだ。
 男の視線を絡みとり、しっとりと撫で上げるような顔で、ゆっくりと白い半球に口づけしなさい。口紅は白を引き立たせる真っ赤なルージュがいいだろう。そして、舌を這わせ、吸い付いて、果汁をごくごくと飲むのだ。眼は半眼にして、男の欲情を挑発していないといけない。
 直ぐに、男の鼻から炎が燃え上がることだろう。その炎が燃え尽きぬうちにホテルに直行しなさい。それから、ホテルの部屋には夜来香の花の匂いを漂わせておくと、官能の夜のどん詰まりまで達することができるであろう。

 バリの夜の闇に浮かぶランプ―タンに、あなたは口づけをし、舌を這わせることになるのだが、その前に、「ねえ、バリの官能の夜にランプ―タンが揺れている」と男に向かって呟くことを忘れてはならない。そして、指先で果実を揺らしてやりながら、「ほら、ランプ―タンが揺れている」とささやいてやるのだ。

 わたしは『里山帰行 バリの花』では、深い官能の夜を呼び寄せるために、竹の風鈴とアマランダの花という小道具を用意している。バリの官能の夜に咽び泣きたい方は、『里山帰行 バリの花』を読むことをお勧めする。

小説はすべて、近日中にキンドルから電子書籍として出版します。 

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 わたしは虫の生まれ変わりだといったが、虫の心は花にだけに吸い寄せられていくのではない。果実も妖しげな姿と匂いで虫の心を誘惑するのである。そして、虫の心を自由自在に操ってしまうのだ。
 北村透谷が石榴の入れ墨をしていたのは有名であるが、石榴の固い果皮が割れて覗いた紅い果肉は、ぞっとするほど艶めかしい。紅く透き通った粒がもぞもぞと妖しげに蠢く姿が、割れ目から覗いているのだ。
 無花果も負けてはいない。果皮の割れ目から覗いた白い果肉が、匂いの言葉でささやきかけるのである。無花果は熟していくと割れ目から見せる姿をも変えていく。白から赤へと変わり、黒いつぶつぶの種がみえ、やがてどろりと融け出して割れ目ごと崩れていくのである。
 そうした姿をみていると、つくづく芋虫になりたいと夢想してしまうのだ。芋虫になって、あの割れ目をこじ開けて、頭から潜っていきたい衝動に捕らわれるのだ。果肉の中を身体をくねらせながら泳いでいったら、どんな神秘な世界が広がっているのかと想像が飛んでいくのだ。おそらく、色と匂いだけではないめくるめく感覚が息づく世界なのだろう。そして、その世界の姿は変幻自在で、芋虫となったわたしが身体をくねらせるごとに妖しさを増し、色と匂いを深めて、葛湯となってどろどろとうねるのだろう。
 夢想が、当然のことに小説世界へと入っていかないわけはない。何故ならば、わたしは虫の生まれ変わりだからだ。朝っぱらからと、お叱りと苦情とが殺到する懸念はないとはいえないが、そこは寛大なるお心で見逃して頂くことにしよう。試みに小説「はるかなる物語」での、「ああ、芋虫になりたい」の夢の成就である描写を抜粋してみよう。この「はるかなる物語」はまだ最終的な推敲を終えていないのでまだ出版していない。


 生き物は、里子の情念そのもののようだった。優しくて温かで、包み込むような包容力があった。それでいて邪険で冷たかった。そして、弄び、いたぶるのを愉しんでいる妖しげな魔性を秘めていた。生き物の形と感触は、漆黒の闇に揺らめく狐火のようにあやふやなものだった。海草の肌となってぬらぬらと滑ったり、針となって鋭く尖ったり、牛皮となって平たく柔らかになったり、棒となって丸く硬くなったりした。自由自在に変わる形と感触は、淫らそのものとしかいいようがなかった。
 里子の細い指でTシャツが脱がされた。
 里子の魂が乗り移った生き物が、焦らすようにして胸を這いずっていく。
 生き物に舐められている肌の一点に、操のすべての感覚が吸い寄せられていった。締め上げ、緩め、撫で、刺し貫き、抓り、擽り、噛み付き、ありとあらゆる方法で、生き物が操の感覚を刺激し、揺さ振った。操の感覚が悶えて震えるのを、生き物は酔い痴れながら愉しんでいた。そして、いっそう淫らになっていった。
 赤く割れ熟した果肉を覗かせた無花果となって、ぐしょぐしょに濡れた里子の女の情念が、生き物に乗り移っているようだった。割れた傷口から滴る密が、甘く鋭い匂いのナイフとなって、痺れた理性の皮を剥ぎ取っていった。
 剥き出しにさせた操の感覚が、意識の頚木から解き放たれた。
 一匹の白い虫の幼虫となった感覚が肉体を離れ、もぞもぞと這い出してきた。縦に割れた里子の果皮をこじ開けると、熟した果肉に頭から潜り込んでいった。血しぶきとなって溢れ出した果汁で、白い幼虫の身体が真っ赤に染まった。
 操の感覚が炎となって揺らめき出した。

 花びらが舞っている。山桜の白い花びらだった。泳ぐようにして、虚空を漂いながら落ちていく。だんだんと花びらの数が増えていった。空間が無数の花びらで埋め尽くされた。山桜の花の匂いと色の世界に、いつしか操は紛れ込んでいた。
 びっしりと白い花で埋め尽くされた山桜の枝が揺れている。
 若葉の赤と、花びらの白のコントラストがあまりにも鮮やかだった。そして、恐ろしいくらいに艶やかだった。
 花びらが、無数の小さな白い蝶となって蠢き出した。妖しげに羽を震わせている。


 これからが、芋虫が活躍する季節を迎える。若者よ、感覚を開放し、遙かなる神秘の世界へと飛翔せよ!
 若者よ、身体を鍛えておけ、とはどこぞの三流作家のお言葉だったような気が……。
 若者よ、身体などどうでもいい。若者よ、感覚に羽根をはやせ!
 感覚が瑞々しく息づく、はるかなる世界へと羽ばたいて行け!
 安曇野は瑞々しい感覚が息づく世界であり続けてほしい。

小説はすべて、近日中にキンドルから電子書籍として出版いたします。

 
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 冬を忍と書いて、「すいかずら」と読む。
 この花もまた妖しげな花である。わたしは何度たぶらかされたかしれやしない。
 最近の若者はかわいそうだと思わずにはいられない。
 わたしは中学の頃に、この花を咥えて妄想に耽ったものだ。

 柔肌の熱き血潮に触れもみで 寂しからずや道を説く君

 与謝野晶子の歌であるが、わたしは間違っても柔肌に触れずに道など説くことはしない。が、いくら柔肌に触れたくても、初恋とはままならないものである。
 また、心のどこかでは触れてはならないと思ったりもするのだから、初恋とは摩訶不思議なものでもある。それでも血気盛んな中学生であるから、その初恋のひとを思って夢想に耽るわけである。しつこいようだが、血気盛んなお年頃なものだから、夢想がどこへ飛んで行くかは決まっている。
 初恋のひとの花園を妄想したりするのであるが、決して像として結ぶことはない。触れもみでどころか、見たこともないからだ。どんな花が咲いているのか想像すらできない。どんな匂いをだたよわせるのだろうか。頭を痺れさせるほどの匂いなのだろうか。それともほんのりと甘酸っぱい匂いなのだろうか。舌に絡まりついてくる蜜の味はどうか。蕩けるほどの甘美な味なのだろうか。
 そうしたことを夢想するのであるが、いっこうに謎のままなのである。
 そうして行き着いたのがこの忍冬の花なのである。花の姿からしてが、摩訶不思議であり妖しげである。形があるようでもありないようでもある。そしてこの忍冬の花はなんとも甘ったるい密を穴の奥深くに、秘めやかに隠し持っているのだ。ラッパ状になった花を引っこ抜いて、ラッパの先端を咥えて吸い付くと、その秘めやかな蜜を滴らせるのだから、清らかな白い衣装の下に隠されている女の妖しさを思わずにはいられないではないか。
 忍冬を咥えながら初恋のひとの花園を夢想していると、何故か謎が解き明かされて行くような気がしたのだ。
 わたしにとっての忍冬の花の蜜は、禁断の初恋の味なのである。

 今の若者がかわいそうだというのは、謎がないからだ。ネットの怪しげなサイトを覗くと、すべてがモロ出しなのである。その上あっけらかんとしていて、羞恥心など微塵もない。秘めやかな謎などあろうはずはないのである。謎の花園ではなく、単なるグロテスクな身体の部位でしかないのである。わたしが中学の頃は、友達がどこからか持って来たエロ雑誌にバターを塗って黒く塗り潰されている箇所が露わになりはしないかと、奮闘努力したものなのである。そして、奮闘努力の甲斐もなく、謎は謎のままで、涙にくれたものなのだ。
 謎が謎のままであるということの有り難さを今になって噛みしめている。
 この忍冬の蜜は昔から舐められていたらしい。昔は砂糖は貴重品だったのだろう。

 この忍冬だが、当然に小説でも書いている。「ゆさぶれ青い梢を もぎとれ青い木の実を」という小説であるが、この題名は立原道造の詩から拝借したものである。この小説では忍冬だけでなく、藍染めの原料である蓼藍も絡めている。愛する女の柔肌に蓼藍の葉っぱを擦りつけて、藍の色を染めるというものだが、詩情性あふれる美しい作品である。
 安曇野では、忍冬の花を咥えて夢想したりすることが今もあるのだろうか。

 是非とも忍冬の花を咥えながら、愛しいひとを想って夢想することを勧める。女だから忍冬の花を咥えてはいけないなどとは言わない。忍冬の花の意味が逆になるだけのことである。逆とは何かは、ご想像にお任せする。

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 わたしはどうも虫の生まれ変わりのようだ。
 花に心ごとゆらゆらと吸い寄せられていくのだ。 
気づいたときには穴となった花の中を彷徨い歩いていたりする。もちろんわたしの身体がすっぽりと花の穴に咥えこまれて、穴の奥深くへと誘われるようにして彷徨い歩いているのではない。そうしたくても、それはわたしがどんなに変態であろうと不可能である。想像という羽根で、花の穴の中を飛び回り、歩き回っているのである。
 先ずは、花の色と匂いでたぶらかされる。色と匂いは、蚕が口から吐き出す糸となって、わたしの心に絡まりつくのだが、その絡まりつき方が、なんとも表現できないほどエロいのである。しっとりと撫で上げるようにして吸い付き、甘く揺すって締め上げてくるのだ。そして、花の中心に開いた艶めかしい穴へと手繰り寄せられていくのである。
 色と匂いの次は花びらである。
 花びらは形があってないのである。わたしの心を映す鏡なのかもしれない。わたしの想像によってどうとでも姿を変えられるのだ。そして、想像の肌をぬらぬらとした舌となった花びらが撫で上げてくるのである。
 そうなるともう遅い。逃げることはできなくなっている。穴の奥で艶めかしく身体をくねらせているめしべに抱きつきながら、めくるめく花との性の世界を彷徨い歩いているのである。
 はっと気づいたときには、下半身をどろどろとした液体が……、というまでにはまだ至ってはいない。おそらく年の所為だからなのだろう。もう少し若かったら、間違いなくどろどろとした葛湯のような液体で下半身がぐっしょりと濡れていただろう。

 安曇野は今、どんな花が咲いているのだろうか。
 安曇野の春は遅いのだろう。春に真っ先に咲き出すのは、こぶしの花なのだろうか。そして、藪椿と梅の花がその後を追いかけるのだろう。
 が、日だまりにはこぶしよりも早く、オオイヌノフグリが水色の可憐な花を揺らすのだろう。今年は例年よりも雪が多く寒かったというから、いつもよりも春が遅いのかもしれない。春はまだ名のみなのだろうか。

 わたしは虫の生まれ変わりらしいので、小説にも花がエロスをまとった姿で登場してくる。「風よ、安曇野に吹け」では、ウワミズザクラの花がなんとも淫らな姿で揺れるのである。やはり安曇野が舞台の「僕の夏よさようなら」では、百合と葛の花である。
 しかし、圧巻は「里山帰行 バリの花」であろうか。各章が花の名になっているのだが、いやはや南国の花だけに、虫となったわたしの想像はエロス塗れになるのである。
 チュンパカの花、アマランダ、プルメリア、真っ赤なダダップの花、そして夜来香であるが、びしょ濡れになった感覚と感覚とが絡まり合うめくるめく花との性の世界なのである。従来の小説では描いていない世界である。虫の生まれ変わりであるわたしなればこそ、描ける性の世界なのである。色と匂いと感触と味と音が艶めかしく息づく世界なのだ。

 もう少しで桜の季節であるが、わたしはソメイヨシノよりも山桜が好きだ。それも真っ赤な若葉をつける山桜が好きである。葉の赤と花の白とのコントラストが妖しげなほど艶やかなのである。女の気高い魔性を感じるのだ(女の魔性については後日語ります)。
 この山桜との絡み合いも小説に書いている。「はるかなる物語」である(これはまだ無料です)。妖しくも美しい山桜の性の世界だ。そしてこの「はるかなる物語」では、ソシンロウバイの花の性の世界も描いているのである。しかし、このソシンロウバイという花は、もう危ないとしか形容ができないほど妖しげで淫らであり、それでいて清らかな印象さえも連れてくるという、何とも不可思議な花なのである。
 この花と出逢ったのは曹洞宗の寺の境内だった。こんな妖しげな花が、何故に寺に……、と思ったりしたものだ。
 そういえば、ソシンロウバイの花は春の浅い時期に咲くのだった。
 もう安曇野では咲いているのだろうか。

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※写真はアマランダの花とソシンロウバイの花

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