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 中島氏の二つ目の誤謬について考えてみたい。
 どうして中島氏の目は「れいわ新選組」の9人の候補に注がれることがないのだろうか。
 不思議でならない。
 中島氏が自認しているリベラル保守主義とはどういうものなのか、まさか自由主義と国家主義との合体ではないだろうとは思うが、わたしの恩師である橋川文三の口癖を拝借すれば「どうもわからない」。
 わたしは「里山主義」を提唱しており、括るとすれば保守主義になるのだろう。が、保守主義という概念自体が意味を失ってしまっていると思うので、自らの思想を保守主義と名乗ることに、わたしは抵抗を覚えている。
 保守主義が意味を失っているのだから、当然に、対立する概念である革新主義も意味を失ってしまっていることになる。
 意味を失っているのは保守主義と革新主義だけにとどまらない。
 これまで当たり前として、自分が生きている世界を理解し、その世界での自分の立ち位置と思想とをはっきりとさせるために、いくつかの対立軸が設定されてきた。
 資本主義と社会主義との対立軸があり、左翼と右翼との対立軸があった。ナショナリズム(=国家主義)とインターナショナリズム(グローバリズム)という対立軸もそうだろう。対立する軸となる概念がどれも意味崩壊しているのではないだろうか。というよりも対立軸と思っていたが、実は表裏の関係でしかなく本質は同じだったのではないだろうか。
 どうしてこれまで自分が生きている世界を理解するために有効であり、意味があったはずの対立軸がどれも意味をなさなくなってしまったのか。
 この問いを発することができる地点に辿り着いたか、それとも未だに辿り着いていないか、では見える風景がまったく違ったものになるのだろう。
 この問いを発することができる地点とは、峠のような地点だからだ。
 峠とは二つの違った世界を見渡せる場所であり空間だ。
 峠に立って辿ってきた曲がりくねった登山道を振り返れば、これまで生きていた世界が見渡せるだろう。身体を反転させて眼下をみれば、世界は一つだと信じて疑わなかったが、これまで生きていた世界とはまったく違った世界の風景が目に飛び込んでくるだろう。世界は一つだと信じ込まされてきたのだ。
 二つの異なった世界の違いに比べれば、これまで生きていた世界の中での対立軸がとるに足らないものだったと気づくだろう。そして、対立しているとばかり思っていたが本質は変わりがないと気づくだろう。同じ世界に生きるとは、その世界を支配する本質的な価値観を共有していることである。世界を形作っている土台は同じだからだ。

 臆面もなくいうと、わたしは作家としての感性に頼って登山道を上り出した。登山道をどこまでも辿って行けば、新しい世界を望むことができる峠に出ると直観が教えてくれたからだ。
 途中でわたしは二つの道標に出逢った。道標とは2011年3月11日と、「大浦湾には龍神様が住んでなさる」という沖縄に生きる人々の魂の祈りだ。この二つの道標によって、わたしは峠に立つことができた。
 だから、わたしにとって峠に立つということは、「3月11日の心」を生きることであり、「沖縄の心」を生きることだった。二つのまったく異なった世界を眺められる峠という空間と場所には、東日本大震災と原発事故が日本人の魂を原風景としての精神的風土へと回帰させた「3月11日の心」と、辺野古新基地建設反対に宿っている「沖縄の心」が息づいているに違いない。
 峠に立って、「どうしてこれまで自分が生きている世界を理解するために有効であり、意味があったはずの対立軸がどれも意味をなさなくなってしまったのか」という問いを発してみればいい。
 対立軸といっても同じ世界の中にあるのだから、上辺は違ってみえても本質は変わらないものだった、と答えが直ぐにやってくるだろう。そして、それまでは生きている世界を理解するのに有効だった対立軸が意味をなさなくなったのは、これまで生きていた世界自体が未来のない袋小路へと迷い込んでもがいていて、右か左かなどという対立軸などではどうしようもなくなっていると気づくだろう。
 これまで生きてきた世界とは、西欧近代主義という土台としての世界像と価値観に支配された世界だ。その世界像と価値観によって洗脳されてきたから、疑うという理性も感情も奪われていたのだ。感性までが飼い慣らされてきたといえる。

 峠に立つということは歴史的転換点に立つことを意味する。
 歴史的転換点とは、これまで生きていた世界を捨てて峠を下り、新しい世界へと入っていく地点を意味する。
 安倍晋三はどこから仕入れてきたのか、意味も理解せずにことある毎に歴史的転換点といっているが、安倍晋三のいう歴史的転換点とはこれまで生きてきた世界の中にあって、右の道に行くかそれとも左の道に行くかという二つに枝分かれした道の分岐点を指しているに過ぎない。転換点ではなく、分岐点なのだ。安倍晋三が愚かなのは、この分岐点に立ったのは初めてではないと気づけないことだ。だから性懲りもなく、過去に辿ったファシズムという地獄へと転がり落ちて行った道へと突貫しようとしている。安倍晋三には地獄が天国に見えるのかもしれない。カルト宗教の日本会議にとっての天国とは地獄を指しているのだろう。

 山本太郎と「れいわ新選組」は左翼なのか、それとも保守主義なのか、という問いが発せられたりしている。あるいは、山本太郎と「れいわ新選組」が寄って立つ対立軸は、左翼か右翼か、それとも保守か革新かという既存の対立軸を超えて、経済的グローバリズムによって引き起こされた、99%の圧倒的な貧しき人々の群れと、1%の一握りの富める者たちとに二極分化されてしまった社会における、新たな階級闘争だとも言われたりしている。
 が、わたしは「れいわ新選組」は峠に近づいているか、既に峠に辿り着いていると思っている。
 峠に立った時点で、それまでの対立軸がすべて意味を失うことになる。わたしが山本太郎と「れいわ新選組」に新しい未来を切り開く可能性をみているのは、わたしと同じようにして、峠に立つと思っているからだ。
 リニア新幹線にはっきりとNOを突きつけている意味は重要だ。
 どうしてわたしが「れいわ新選組」と日本共産党とが共闘する必然性をみるのか。
 未だに謎なのだが(笑)、純粋にマルクス主義を解釈すれば、峠になど引き寄せられるはずがない日本共産党は、峠に続く登山道を辿っているという事実がある。おそらく、マルクス主義における資本主義批判の方向性が峠へと導いているのだろうが、資本主義批判の方向を更に徹底させて、その方向の先に共産社会を描くとすれば、マルクス主義の土台としての西欧近代主義の克服は不可避であり、そうなると西欧近代主義が抱きかかえる機械論を徹底させた社会主義が全体主義に成らざるを得ない必然性に気づくのだろう。
 わたしは日本共産党が資本主義発達史を乗り越えて否定し、資本主義の内部矛盾を止揚した形の社会主義の先ではなく、西欧近代主義と資本主義を否定して乗り越えた先に共産社会を想い描くのを夢想しているのだが、そうなれば、峠から望むまったく新しい世界が共産社会だとしても何ら不思議ではない。

 話を元に戻そう。
 日本共産党は真っ先に、それもはっきりとリニア新幹線に反対している。わたしは日本共産党が峠へと伸びる登山道を辿っている証しだと思っている。
 リニア新幹線を明確に反対している政党は、日本共産党と「れいわ新選組」の他にいるだろうか。
 連合の紐付き政党である国民民主党はいうに及ばず、立憲民主党がリニア新幹線に対して明確に反対を打ち出せるはずはない。何故ならば、経済成長こそが幸福の源泉だという資本主義の呪縛にがんじがらめになっているからだ。だから容易に、構造改革と規制改革の罠にはまってしまうのだろうし、効率と生産性という言葉に洗脳されてしまっているのだろう。そして経済的グローバリズムの誘惑にがんじがらめになっているのだろう。
 ここで、「れいわ新選組」と日本共産党の共通点をみてみよう。
 共通点をみれば、逆に、立憲民主党との違いが浮き彫りになってくるはずだ。誤解を恐れずにいえば、この違いは、立憲民主党とかつての自民党との違いよりも決定的だと思う。どうして決定的かというと、「れいわ新選組」と日本共産党が峠への登山道を辿っているから、これまで生きてきた世界とはまったく違う価値観が息づく世界があることに気づき始めているからだ。
 国民民主党は原発に対してNOと言い切ることができない。連合の紐付き政党であれば当たり前であり、連合は基本的には、経団連と向いている方向が同じだからだ。立憲民主党は原発ゼロを打ち出しているが、ここまで来るのでさえ紆余曲折があった。
 TPPへの姿勢をみれば立憲民主党の本質が剥き出しになるのではないだろうか。
 TPPに関していえば、立憲民主党と国民民主党に違いはない。むしろ、党としての違いよりも議員によって対応がまちまちになるのだろう。都市部を選挙区にするか、農山村部を選挙区にするかでは、TPPと向き合う議員の政治的意思表示は違ってくる。当選するために選挙区の有権者の意識に合わせるからだ。
 かといって、基本的には自由貿易を信じて疑っていない。自由貿易という意味が、剥き出しのグローバリズムである新自由主義までを包含するものかどうかという境界線で、かつての自民党と立憲民主党とが分かれるのだろう。
 しかし、境界線といっても曖昧だ。
 国民民主党の党首である玉木雄一郎はカジノ推進派であることをみただけでも、自由貿易という意味が如何にあいまいなものであり、怪しいものであるか分かろうというものだ。自由貿易の意味が曖昧であり、かつての自民党との境界線が曖昧なのだから、TPPへの姿勢もまた曖昧といった方が適切だろう。
 家族農業と沿岸漁業と林業の保護を日本共産党は訴えている。食糧自給率の問題も強く訴えている。
 山本太郎と「れいわ新選組」は、食糧自給率を100%にする必要性を主張している。
 日本共産党と「れいわ新選組」のこの視点は重要である。他の政党との違いを浮き彫りにするものだからだ。
 第一次産業を守るためには単純に自由貿易万歳ではあり得なくなり、保護主義の要素がどうしても入ってくる。
 どうして第一次産業を守らなければならないのだろうか。
 生きていくための暮らしの基盤であり、その基盤そのものでもある自然を守るために必要不可欠だからであり、家族農業と沿岸漁業と地場産業である林業は、国土の環境保全にとっても必要不可欠なものだからだ。
 そればかりではない。生きていくための暮らしの基盤と日本という風土が育んできた自然との係わりの中に息づいているものこそが、日本に固有の文化であり伝統であり、多様性なのだろう。
 「れいわ新選組」の辻村ちひろ氏は地産地消が核となった経済圏を提唱している。国と国の貿易という視点さえも飛び越えて、経済的に独立した地産地消を核とした地域単位の生活圏を見据えているのだ。わたしはこの生活圏を共産社会と呼ぶことに抵抗はない(笑)。
 自由貿易か、それとも保護貿易かという対立軸でしかみれなくなっているが、不毛であり不幸だと思う。自由貿易は絶対的に正しくて、保護主義は絶対的に悪だという発想からそろそろ自由になった方がいいのではないだろうか。
 この発想には、誰のための自由貿易であり、誰のための保護主義なのか、という視点が抜け落ちている。
 トランプ大統領のアメリカ第一主義は保護主義のようにみえるが、誰のための保護主義かといえば自国の巨大企業のためであり、軍需産業のためだろう。トランプ大統領の保護主義を批判している中国を筆頭とする諸国は誰のためかといえば、こちらも自国の巨大企業のためなのだろう。
 一方でトランプ大統領は、未来を閉ざす環境破壊の最たるものであるアメリカの大規模農業を守るために、日本に農産物の輸入自由化を迫っている。農薬と化学肥料を大量に消費するアメリカの大規模農業は地球環境にとってはあってはならないものだ。が、その地球環境を破壊する化け物を守るために、地球環境と国土保全に役立っている日本の家族農業と沿岸漁業と林業とを消滅させようとする愚行を止める論理が、自由貿易か、保護主義かという二分法の中に存在するのだろうか。
 先入観なしに考えてみてほしい。
 最近では、日本共産党が真の保守主義だと言われたりしているが、保護主義か、それとも自由貿易か、という二分法の発想によって巧妙に隠されてきたものを、日本共産党が知っているとしたら、日本共産党こそが保守主義にみえたとしても何ら怪しむことではない。
 誰のために自由貿易が叫ばれ、誰のために保護主義が叫ばれているのか、どちらも多国籍企業のためであり、それによって地球環境は破壊され、生きていく基盤が失われ、そこで生きてきた人々の暮らしが根こそぎ破壊されてはいないか、という視点が日本共産党にはあるのだろう。そして、保護主義と自由貿易という恣意的な言葉を超えて、多国籍企業から人々が生きていくための暮らしの基盤を守ることを最優先にしているのだから、「結果的」に保守主義にみえるのは当たり前である。
 日本共産党の党是であり歴史である、虐げられている人々と、貧しき人々へと寄り添う心の必然的な帰結なのだろうが、マルクスのいう「プロレタリアート」は、労働者と解釈する必要性はなく、社会構造によって虐げられている貧しき人々と解釈すべき段階に達しているのではないだろうか。
 連合は労働貴族の範疇に入るのだろうが、そもそもが資本主義における労働のあり方そのものが超えられなければならないものなのだろう。資本主義の労働観の本質には機械論がある。機械論があるから人間性が破壊される必然性があるのだし、機械論を極限化した先に夢想したのが社会主義社会なのであるから、社会主義が全体主義になるのは当たり前だろう。
 日本共産党が捉えている労働と労働観がこれからどうなるか、超えられるのか、それとも従来の労働観にしがみつくのか、わたしは注目して観察していきたい(笑)。
 山本太郎と「れいわ新選組」の心が寄り添おうとしているのも、社会構造によって虐げられた貧しき人々だという点では、日本共産党と一緒なのだ。

 考えてみると面白いものだ。
 安倍晋三は偏狭的で差別的なナショナリズムを煽りに煽っているが、やっている政策は新自由主義を前面に出した経済的グローバリズムだ。そして、保守主義を自認し、日本の伝統と文化を声高に口にして、「美しい国、日本」万歳と叫んでいる。が、実際にやっているのは、日本人の暮らしの基盤を破壊し、沖縄の辺野古新基地建設の強行やリニア新幹線にみられるように、美しい日本の自然を破壊し、日本の伝統と文化の源泉である農業と漁業と林業とを、アメリカの大規模農業と巨大企業に捧げて、破壊し尽くそうとしている。ナショナリズムとは、国を破壊することと同義だといえないだろうか。
 一方で、第一次産業においては保護主義のような姿勢をみせ、新自由主義的なグローバリズムを批判している日本共産党は、どうしてナショナリズムから自由なのだろうか。
 マルクス主義には、国境のない労働者の団結の象徴であるインターナショナリズムがあるからなのだろうか。
 インターナショナリズムは、新自由主義のグローバリズムと何が違うのか。
 わたしは本質は変わらないと思う。
 経済的グローバリズムが資本の本能であり論理だとすれば、インターナショナリズムはマルクスの歴史観から導き出された論理であるが、どちらも西欧近代主義の土台を引きずっているから、個別的な世界は、普遍的な世界(西欧近代化)へと向かって収斂していくという傲慢な世界観と歴史観があるのだろう。
 多様性と画一化という視点からみると、グローバリズムとインターナショナリズムは明らかに画一化への意思を持っている。だったらナショナリズムが多様性かといえば、こちらも画一化の変種であるに過ぎない。ナショナリズムは国の内においては、多様性を徹底的に排除して一枚岩にする意思があり、外に向かっても偏狭的で差別的な排除の論理が働き覇権主義になる。戦前の歴史をみれば明らかだろう。
 西欧近代主義の土台に一神教であるキリスト教の精神風土があるのだから、画一化へと向かう必然性があると思う。
 わたしは西欧近代主義が産み落とした資本主義の本質には、破壊と画一化へと向かう強い意思があると思っている。ハンナ・アレントの『人間の条件』を引用するまでもないだろう。資本主義には多様性を許容する寛容さはない。
 資本主義の破壊と画一化への意思との綱引きをし、歯止めの役割を担わせられているのが、資本主義を産み落とした西欧近代主義を母とする民主主義と自由主義と立憲主義になるのだろうか。
 しかし、果たして民主主義と自由主義と立憲主義で、資本主義が本能として持っている破壊の暴力に太刀打ちできるのだろうか。どちらも西欧近代主義を母とするだけにあまりにも人間中心主義だ。そして、神から人間だけに与えられた理性を絶対視することによって、生産ばかりか、自然と身体にまで機械論を持ち込んで世界を眺めているのだから、行き着く未来社会に希望など見い出せはしないだろう。全体主義のどぎつい色で塗り潰された殺伐とした社会になるのだろう。
 峠に立つとは、これまで生きてきた西欧近代主義と資本主義の世界を突き放してみるということだ。そして、資本主義の本能には破壊性と破滅性とがあり、このまま突き進めば人間と地球の未来はないのを知ることになるだろう。資本主義とは永遠に拡大再生産しなければならないと運命づけられており、そのためには破壊が必要不可欠なのだ。破壊は建設に結びつき、成長の源泉だからだ。世界恐慌が戦争の引き金になるのはそうした理由だ。
 峠に立って、これまで生きてきた世界とまったく違った世界を視界に捉えれば、これまでの人間中心主義が核にある民主主義と自由主義と立憲主義が違った姿のものになることだろう。
 
 脱線しないようにと戒めているのだが、最近Twitterで目にした、国民民主党の原口一博衆院議員のツイートについて触れておきたい。というのは、中島氏のいうリベラル保守というものと関係するかもしれないからだ。
 どうも松下政経塾出身の国会議員は胡散臭くていけない。
 TPP反対を叫ぶときの原口氏には賛同する部分があるのだが、いわゆる保守を自認する人の思考回路の劣悪さには目を覆いたくなる。
 原口氏は臆面もなく、天皇の写真を燃やすことと、コーランと聖書を燃やすことを同じだと主張する。そして、日本人として到底許容できるものではないと言う。
 古事記の神代期は神話の世界だ。
 神話である古事記の神代期が、世界宗教のキリスト教とイスラーム教と同列に扱って平然としている神経を疑いたくなる。明治維新政府によって一神教的国家神道が強制的に押しつけられるまでは、日本人は一つの宗教を信じたこともなければ、一つの宗教の世界観を生きたこともない。
 日本人の精神の古層にあるのは、日本の風土と自然に根ざした多神教だろう。
 古事記が編纂される以前には、地方の豪族たちにも自分たちの出自を神聖化する神話を持っていたという事実を忘れてはならないだろう。天皇もその豪族の一人に過ぎなかったのだが、国を統一するに及んで、神話に序列をつけて、天皇家を国の創世者である神だとしたもので、古事記とはそもそもが朝鮮半島から移住してきた天皇の祖先である弥生人が、先住民である縄文人を武力で制圧した歴史を正当化したものだ。
 支配階級ならまだしも、民衆には天皇信仰などありはしなかった。天皇が神とされて民衆の頭に刷り込まれた歴史は浅い。明治維新政府の作為によるものだからだ。一神教的国家神道とは一神教であるキリスト教を真似たもので、多神教的な精神風土の日本の伝統と文化とは真逆のものである。
 原口氏は日本会議に所属していたから、日本会議の一神教的国家神道の世界観で発言しているのかもしれないが、選挙目的ならともかく、本気で信奉しているとすれば明治維新政府によって作られた虚構としてのおぞましい宗教を信じていることになるのだろう。
 そうだとすると、保守主義を自認している原口氏のいう保守主義とは何なのだろう。
 一神教的国家神道に原口氏の心が縛られているのだから、原口氏のいう保守主義とは一神教的国家神道の世界観と無関係ではあり得ない。一神教的国家神道の世界観を守っていくことが、原口氏にとっての保守主義なのだろうか(笑)。
 一神教的国家神道という名称からしてが、国家主義の最たるものだ。国家を神として崇めるものであり、その神が天皇なのであるから、国家は天皇と同義になる。
 自称保守主義者とは奇っ怪な生き物だ。
 原口氏のような自称保守主義者は、国家という言葉で直ぐに足を掬われる恐れがある。歯止めはない。何故なら国家を神として盲信している心があるからだ。
 申し訳ないが、こういう政治家を信じるのは危険だ。。
 わたしは国家というものを信じないことに決めている。国家とは妄想の中に結ぶものだからだ。
 その代わり故郷への愛着を大切にしたい。故郷は妄想の世界にあるのではない。幼い頃から慣れ親しんだ山があり、森があり、川があり、大気に紛れ込んだ懐かしい匂いがあって、実際に五感で触れることができる。
 妄想といっても、国家主義という妄想を作り上げているのは理性と知性と論理だろう。そして、その妄想としての国家へと溺れていこうとする感情がある。理性と感情は同じ方向を向いているといえないだろうか。それもバラバラになってアトム化した自我が作り出した幻想としての国家だ。原口氏はおそらく、神と崇める国家のためならば故郷を破壊することも厭わないだろう。そして、国家のために命を捧げることを美化するだろう。
 歴史は、国家が愛国と国益と国防の名で故郷を破壊してきたことを教えてくれている。沖縄戦とは国家が沖縄を盾にしたおぞましい歴史だ。
 中島氏の保守とはどういうものなのだろうか。原口氏と同じとは思えないが、かといって国家主義と無縁だとも思えない。国家主義と民主主義との均衡の中で成り立つものなのだろうか。
 しかし、わたしには中島氏のいうリベラル保守になど興味はない。峠に立ってしまえば、保守主義という概念が無意味になってしまうからだ。
 そうだとすれば、日本共産党が真の保守主義だというのもどうでもいいことなのかもしれない。日本共産党は、これまで生きてきた世界から、まったく異なる世界が見える峠にまで辿り着こうとしているからだ。山本太郎と「れいわ新選組」も同様だ、とわたしはみている。
 立憲民主党と国民民主党と自民党は、これまで生きてきた世界を疑うことなく、その世界にどっぷりと浸ってこれからも生きていけると信じているのだ。一方の日本共産党と「れいわ新選組」はこれまで生きてきた世界に疑いを持ち、だからこそ違った世界を求めて峠への道を辿り始めたのだろう。「れいわ新選組」が峠に立っていると思うのは、辻村ちひろ氏と安富歩氏を通してである。

 では、中島氏の三つ目の誤謬に移りたい。
 わたしは山本太郎が小沢一郎衆院議員と袂を分かったことは、日本の政治にとってよかったと思っている。
 小沢氏は永田町の論理を生きている。永田町の論理こそが政治だと信じ込んで疑っていない。
 中島氏の三つの誤謬について書いているのだが、小沢氏にも永田町の論理に関する二つの誤謬がある。この二つの誤謬は日本の政治を停滞させるだけでなく、日本の未来を閉ざすものだけに看過はできない。
 自民党は安倍晋三とその一味によって乗っ取られた極右政党であり、小沢氏が所属し、小沢氏が理解しているかつての自民党ではない。看板は以前のままだが極右政党なのであり、小沢氏がどっぷりと浸ってきた永田町の論理で貫かれた政治を超えてしまっている。つまり、永田町の論理を振りかざしても無駄であり、永田町の論理では、安倍晋三とその一味は打倒できない。
 小沢氏はこの現実から逃避している。
 そして、過去の成功体験に未だに酔いしれている。過去の成功体験とは、小沢氏が作った民主党が小選挙区制を利用して政権奪取に成功したことだ。
 バラバラの野党が一つの政党になるか、さもなくばオリーブの木構想に結集して野党が統一名簿で選挙戦を闘えば、自民党と公明党との連立政権を倒せると信じているのだ。小沢氏は徹底している。日本維新の会との共闘も辞さない。永田町での政治劇と数合わせこそがすべてなのだ。数合わせするためなら決定的な政策の違いなどお構いなしだ。二大政党制を夢見た小沢氏であるから、二大政党制を生み出す小選挙区制を日本に導入したのであるが、自ら作った小選挙区制に振り回され、踊らされているのかもしれない。
 それだけではない。小沢氏は過去の成功体験に酔いしれるあまり、重要なことを見落としている。
 民主党の勝利を後押ししたのは、二大政党制による政権交代を待望して国民を煽ったマスコミだという事実だ。安倍晋三と安倍を神輿に担ぐ勢力は、マスコミが世論形成に与える影響を苦々しい思いで記憶に刻みつけたはずだ。
 現状はどうか。
 悲惨なまでに、マスコミは安倍晋三と官邸によって牛耳られてしまっている。終わったばかりの参議院選を振り返れば明らかだろう。
 野党共闘で一本化できた一人区では低投票率にもかかわらず、野党が善戦したといえるのだろうが、一本化できれば直ぐにでも政権奪取ができると考えるのは幻想である、という現実を突きつけられたのではないだろうか。
 安倍晋三と安倍を神輿に担ぐ勢力は、野党共闘で候補者を一本化できたとしても、マスコミを使って情報操作をすれば充分に勝算があると胸を撫で下ろしたのではないだろうか。
 が、安倍晋三と官邸には重大な誤算があった。
 山本太郎と「れいわ新選組」の無党派層と政治的無関心層を巻き込んでの躍進だ。安倍晋三と官邸にとっては野党共闘よりも、未知数であるだけに、山本太郎と「れいわ新選組」の方がはるかに脅威だろう。だから、内閣情報調査室を使って山本太郎のスキャンダルを漁り、山本太郎の社会的抹殺を企んでいるのだろう。
 山本太郎の脅威はこれだけではない。選挙戦略の卓越性だ。公明党と自民党の集票マシンである創価学会に楔を打ち込んだことだ。参議院選挙では創価学会員の動揺は最小限にとどめられたが、楔が効いてくるのはこれからだろう。

 小沢氏の永田町の論理に関する二つ目の誤謬は、山本太郎と「れいわ新選組」の躍進の原動力と威力と可能性とを見誤っていることだ。
 小沢氏は、山本太郎が野党を本気にさせてくれたと言っているようだが、都合がいい解釈であり的外れだ。
 山本太郎と「れいわ新選組」が教えてくれているのは、野党共闘が候補者を一本化した「だけ」では勝てないという現実であり、敵に牛耳られたマスコミの情報操作によって囲われた壁を破壊し、中に隔離された民衆を解放して、政治の舞台へと引っ張り出すのには、永田町の三文芝居と数合わせの論理では無力であり、マスコミに対抗し得る戦略と戦術が不可欠だという厳粛な事実だ。
 無党派層と政治的無関心層の心を揺り動かすのは並大抵のことでは不可能だ。マスコミの情報の壁の内側の世界で飼い慣らされた民衆であり、絶えずマスコミの情報操作によって思考停止させられ、いいように洗脳されている民衆だからだ。
 山本太郎と「れいわ新選組」は、民衆を覚醒させるだけでなく、覚醒した民衆が積極的に参加して関わっていく「祭り」としての政治を戦略として全面に打ち出している。
 中島氏の三つ目の誤謬は、小沢氏と同じく、永田町の論理の視点で、これからの野党共闘のあり方と、これからの日本の政治をみていることに尽きる。

 日本共産党と山本太郎と「れいわ新選組」との共闘が具体的に進んだなら、安倍晋三と官邸にとってこれ以上の恐怖はないだろう。そして、否が応でも野党共闘の牽引車となるだろう。
 これまでの野党共闘は日本共産党の犠牲の上に成り立ってきたといえないだろうか。
 参議院選挙での京都選挙区における立憲民主党の姿は傲慢とさえいえるものだった。日本共産党を野党共闘に加えてやっているのだから、犠牲を甘んじて受け入れろとでも言いたいのだろうか。
 山本太郎の大阪選挙区での日本共産党の辰巳コータロー候補の応援演説は胸を打つものだった。
 山本太郎は演説の中で一言も「比例はれいわ新選組」と言っていない。辰巳候補は事前に許可していたという。京都選挙区の立憲民主党の姿とは雲泥の差ではないか。
 わたしは野党共闘を貶めるつもりはない。
 安倍政権を倒すには必要不可欠だからだ。が、野党共闘といっても、どうしても立憲民主党と国民民主党には共産党アレルギーがある。どちらも資本主義万歳の政党だからだ(笑)。
 一方の山本太郎には日本共産党アレルギーはない。
 どういう共闘になるのか、楽しみではある。
 重要なのは、山本太郎と「れいわ新選組」の戦略と戦術なしには野党共闘に勝利はないのを参議院選挙でみせつけたことだ。
 立憲民主党と国民民主党は参議院選挙で嫌というほど学んだのだから、よもや無視はできないはずだ。市民連合も同様だろう。
 しかし、山本太郎と「れいわ新選組」にも課題はある。
 参議院選で巻き込んだ民衆の熱をどうやったら持続でき、どうしたら更に拡大できるかだ。そして、これから繰り広げられるマスコミの負のキャンペーンにどう対処するかだろう。卓越した戦略家である山本太郎だから、マスコミの負のキャンペーンを逆手にとって、全国津々浦々まで「れいわ新選組」の名を浸透させることも不可能ではないだろう。
 山本太郎と「れいわ新選組」に弱点があるとすれば、都市部以外の地域でどう闘うかの戦術と戦略がみえないことだろう。
 日本共産党はじわじわと都市部以外の地域で支持を拡大している。
 第一次産業と日本の原風景と一体となった地方の暮らしの基盤を守ろうとする姿勢が、目に見える形で浸透してきたからだろうが、わたしからみるとここにきても、まだ「労働者の党」という看板にがんじがらめになっていると思う。
 何度もいっているが、大漁旗とムシロ旗を全面に掲げて、日本農業と日本漁業を死守するのは日本共産党をおいてない、と高らかに宣言すべきだ。そして、農村と漁村から世直しの狼煙を上げて、全国へと拡散していくべきだ。それには宮本岳志が提唱した「祭り」は不可欠だろう。
 わたしは日本共産党が躍進するためには、都市部以外で日本共産党が思い切った選挙戦での戦略転換を行うべきだと思っている。それはひとり日本共産党だけのためではなく、「れいわ新選組」の弱点を補う戦略でもあるからだ。だからこそ、日本共産党と「れいわ新選組」の共闘が威力を増すのだ。

 まとまりがなく、またしても冗長になってしまった。
 峠に立つとはどういうものか。
 そして峠からみえる、これまで生きてきた世界とは異なる世界がどういうものか。
 詳しくは、停滞してしまっているが、連載している小説『三月十一日の心』で描くつもりだ。