杏子

 来年で68才になる。
 ここまで生きられるとは、正直思いもしなかった。父が46才で他界していたから、そんな思いにとりつかれていたのかもしれない。父は骨肉腫だった。
 人間とは強欲な生き物だ。ここまでくると75才まで生きたくなった。このブログで連載している小説『三月十一日の心』がまだ完結していない。文造の私小説の形をとって、入れ子の構造にした小説『青時雨』の途中で停滞したままだ。
 書き始めると筆が勝手に走り出すのだが、わたしの場合は、書き出すまでが苦労する。書きたくて、書きたくてどうしようもなくならないと、書く気がしないからだ。無理に書いても碌なものにならないのが分かっている。
 そこで準備運動と、わたしの過ぎ去りし青春への挽歌をこめて、小説『杏子』を連載することにした。この『杏子』と『三月十一日の心』とを気分次第で書き分けていくつもりだ。
 小説『杏子』は、電子書籍として出版している『矢ぐるまそう恋歌』の前編として書いてあったものだ。電子書籍にするには、あまりにも乙女チックだったから、後編だけにしたのだが、年をとったからか青春へのレクイエムとして残したくなった。以前にも、そうした試みで手直しを入れてブログにアップしたことがあったが、途中で赤面のあまり挫折してしまった。
 今回は、更に手を入れて完成させるつもりだ。
 断っておくが、わたしの学生時代には「杏子」の存在はなかった。いつも杏子のような存在を妄想していたといえる。だから必然的に乙女チックにならざるを得ない(笑)
 青春への挽歌といっても、現実にあった青春への挽歌ではない。青春に夢見たものへの挽歌といえるのだろう。
 わたしが通った明治大学も変わった。一二年次は京王線の明大前にある和泉校舎が学び舎だったが、校舎も建て替えられた。卒業してからは行っていない。
 神田駿河台にある本校も建て替えられた。こちらは歩道から変わり果てた姿を眺めたことが何度かあるが、中へ入ったことはない。
 乙女チックだから、そうした物語が好きな者には好評かもしれない。どこまで手直しするか、思案のしどころだ。では、第一回目です。


杏子

 第一章 和泉の春

   1

 桜の花の記憶は、どこへいってしまったのだろう。
 風に絡み合うようにして身を投げた、うすべに色をした桜の花びらが、虚空を乱舞していたのは、つい一月(ひとつき)前のことだ。
 あれほどまでに艶(あで)やかに
 妖しげに
 季節を染め上げていたのに
 空も
 風も
 光までもが
 桜の面影を連れてきてはくれなかった。
 桜の花の記憶は青白い液体となって、忘却の土に吸い取られてしまったのだろうか。桜の花の面影も、桜の花の記憶も、和泉校舎のどこにも見当たらない。五月の群青の空をバックにして、若葉が風に揺れているばかりだった。
 桜の花の面影と断絶し、桜の花の記憶を断ち切って、若葉は今という刹那を無邪気に謳歌していた。そして、雲母(きらら)となった初夏の光を餓鬼となって貪り食っていた。
 青春も桜の花びらと一緒なのかもしれない。青春という春を染め上げ、あっという間に舞い散っていくのだろうか。そして跡形もなく消え去って、記憶にすらとどめなくなるのだろうか。
 さっきから周平は、なぜか苛立ちのような、違和感のようなものにとらわれていた。
 何に苛立っているのか、何に違和感を感じているのか、石のベンチに腰掛けながらぼんやりと考えていた。濁った感情がどこからやってきたのか、周平はさまようようにして、想いを巡らせていたのだった。が、その正体がつかめそうで、つかめそうになかった。
 ただ単に足早に過ぎ去ってゆく季節に苛立ち、違和感を覚えているというのではなさそうだった。それでいて、桜の花の記憶をきれいさっぱりと切り捨て、忘却しながら移ろってゆく季節に、抗おうとしているのだけは確かだった。
「よお、里村じゃねえか」という声がした。
 聞き覚えのある声だった。
 顔を上げると、高校で同じクラスだった中井祐二が立っていた。周平が知っている黒の学ラン姿ではない。新鮮な気持ちで祐二をまじまじとみた。
 半袖のボタンダウンの綿シャツに赤いベスト。ベージュ色のコットンパンツは短めで、茶色のウイングチップの革靴が目立っていた。一目でアイビースタイルを意識しているのが分かった。が、垢抜けない祐二の顔と滑稽なくらいアンバランスだった。色褪せたベルボトムのGパンに白の綿シャツ姿の周平とは対象的だった。
 周平と同じように、一浪していた祐二が明治に入学したのは人伝に聞いていた。だから、中井に声をかけられても驚きはなかった。が、大学に入学してから馴れ馴れしく名前を呼ばれたのは初めてだった。懐かしさのような感情を湧き上がらせた心に、周平は戸惑いにも似た驚きを覚えた。
「久しぶりだな」と周平が言うと、「早稲田じゃなかったのかよ、里村」と訊いてきた。
「また落ちた」
「そっか、俺も落ちた」と言ってから、溜息のようなものを吐き出した祐二の顔に歪んだ笑みが浮かび上がった。祐二が皮肉を言う前に見せる癖だったのを思い出していた。
「里村も、明治かよ。しょうがねえな。もっとも浪人の分際で、性懲りもなく山村と山なんかやってたんじゃ、自業自得ってもんだよなあ」
「俺が浪人中に山やってたのなんて、よく知ってたな」
「地獄耳だからな、俺は。里村が山やってるって聞いたときは、あいつもこれで脱落だな、とほくそえんでいたのさ」と声を出して笑った。そして、「どうでもいいけど、山村もほんとにバカなセンコウだよなあ」と付け足した。
 山にうつつを抜かしていた自分が責められるのはまだ許せた。が、恩師の山村までが悪し様に言われるのには腹が立った。
 祐二は人の顔色を窺(うかが)う術に長けていた。周平の機嫌を損ねたのに気づいたのだろう、祐二がへらへらと愛想笑いをして、「俺、商学部。お前は」と訊いてきた。
 不機嫌さをあからさまに声にして、周平は「政経」とぶっきらぼうに答えてやった。
「なんだ、佐々木と一緒じゃねえか」
 祐二は、周平の不機嫌さなどどこ吹く風だった。
 佐々木も高校のクラスメートだった。祐二にしても佐々木にしても、周平にとってはクラスメートだというだけで、親しい付き合いはなかった。が、どちらかというと佐々木には親近感を抱いていた。浮ついた感じでつかみ所のない性格の祐二を余り好きではなかった。
「佐々木と、昨日ばったり鉢合せしちゃってよ。参ったぜ、あいつ。髭は伸ばし放題にして、下駄なんか履いてやんの。ジーパンは、破れて膝が出てたしな」と言って、祐二が舌を鳴らした。
 久しぶりの祐二との会話だったが、相変わらず祐二の話はどこへ飛んでいくか分からなかった。高校の時に話についていくのに苦労したのを思い出した。
 そう思った矢先に、「里村、暇か」と話があらぬ方向へすっ飛んで行った。そして、周平が答える前に、「訊くだけ野暮だよな。暇って顔に書いてある」と言って笑ったかと思うと、「これから、喫茶店(さてん)に行こう」と、背中を向けて歩き出した。
 周平の気持ちなどお構いなしだった。
 祐二の感情のすっ飛び方は、山村先生に教えてもらったドイツロマン派のロマンティック・イロニーのようだった。
 歩き出した祐二が、周平が着いてこないのに気づいたのだろう。振り返ると「おい、何してるんだよ。行くぞ」と声を張り上げた。
 高校時代の二人の関係からすれば、こうして祐二の方から喫茶店に誘うことなど、考えられなかった。もちろん二人で喫茶店に入ったこともなかった。
 周平がベンチに腰掛けたままで立ち上がろうとしないのをみて、駆け寄ってきた。
「なっ、里村。いかっぺな。茶店に行くべよ」と茨城弁で誘ってきた。
 周平を喫茶店に誘いたくなった祐二の感情がどこからやって来たものなのか、茨城弁で分かった気がした。
 さすがの祐二も、茨城のド田舎から都会に出てきた心細さのようなものを引きずっていたのだろう。一時的な寂しさの避難場所を求める心が、周平へと向かう懐かしさという感情になって噴き出したのだろうか。
「仕方なかっぺな。んだら、行くべか」と言って周平が立ち上がった。
 顔を見合わせて二人して笑った。
  大学に入学してから、一月近くが経とうとしていた。
 うるさいくらいだったサークル勧誘も、ここに来てやっと鳴りを潜めていた。
 拡声器を持ったヘルメット姿の学生のアジテーションが聞こえてきた。狭山事件の被告である石川一雄が、一審で死刑判決を下した東京高裁に控訴していた。判決は十月だった。被差別部落出身者という境遇故に背負わされた冤(えん)罪(ざい)への抗議と、無罪判決を勝取るためのデモ参加を、独特の節回しで呼びかけていた。入学してから周平はデモに二度行っていた。

 祐二が連れていったのは、明大前駅の近くにある喫茶店だった。
 地下への階段を下りていく穴蔵のような造りの店だった。
 ドアを開けると、初めて目にする異様な世界が目に飛び込んできた。
 照明が暗い上にたばこの煙が霧となって立ちこめていた。たばこの煙でものの輪郭がぼやけていた。
 祐二は何度か来ているのだろう。慣れた足取りで、黄昏(たそがれ)のような世界の奥へと潜って行った。
「ちぇっ、空いてねえじゃねえか」と舌打ちした祐二が、「あれっ、竹田さんじゃない」と素っ頓狂な声を張り上げた。いっせいに、矢となって客の視線が飛んできた。周平はとっさにうつむいて、矢をかわした。
「中井君……」という女の声がした。
 引き寄せられるようにして、周平が顔を上げた。
 思わず「あっ」と声を上げてしまった。
 声を上げた瞬間に、喫茶店の世界を流れる時間が完全に止まってしまった。
 女の黒い瞳だけが、停止していた時間の壁を乗り越えていた。
 顔は祐二の方に向けられたまま、女の黒い瞳がゆっくりと横に動き始めた。スローモーションの映像をみているかのようだった。女の目だけがクローズアップされた映像だった。
 スライドしていく瞳に、女の揺れ動く心が乗り移っているとしか思えなかった。
 女の心がどこへ向かってゆくのか、周平はそのゆき先を震える心で追いかけるしかなかった。
 女の黒い瞳が
 向かおうとする終着駅を
 早く知りたい焦れったさと
 知る怖さとに
 引き裂かれた心が
 震え出した。
 瞳の動きが止まった。
 黒い瞳が
 終着駅で
 誘いかけるような仕種で
 佇んでいた。
 その瞳が鏡となって、周平の心を映し出していた。
 女の瞳が妖しげな光を発した。そして、吸い寄せられるようにして見つめている周平の視線に絡まりついてきた。
 絡まり合った女の視線がストローとなった。周平の魂が、女の瞳の奥深くへと、吸い取られていくのが分かった。
 その直後だった。
 身体から抜け出した魂が、空中をふわふわと漂っているかのような、奇妙な浮遊感が襲ってきた。