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 無料キャンペーン中のKindle電子書籍として出版している、小説『故郷』の反響がまったくない。覚悟はしていたが落胆が激しい。
 総選挙の結果の落胆と重なって、落胆が増幅し、その落胆が憎悪に姿を変えて爆発し、昨夜はTwitterで、日本共産党が若者を巻き込んで力を入れている気候変動問題の欺瞞姓に襲いかかり、日頃から思っていることを、Twitterで際限なくつぶやいてしまった。酒が入っていたので、本音が出てしまった。
 本気で気候変動問題を考えたら、マルクス主義は捨てざるを得ない。これが、わたしの結論なのだが、そう言ってしまうとJCPサポーターとして立つ瀬がないのだが、致し方ないとも思う。
 今回は、昨夜のしょうもねえ飲んべえ爺さんのツイートを、辿る形で、気候変動問題の運動の何にいらついているのか、気候変動問題の本質は何処にあるのか、またマルクス主義では、その本質には迫れない理由は何か、その本質に真剣に迫ろうとすれば、マルクス主義を捨て去るしかないとはどういう意味か、思いついたままに述懐したい。
 そして、気候変動問題を真剣に考えるならば、無料キャンペーンをしている小説『故郷』が描いている世界観と、真正面から向き合う必要があると思う。ちゃっかり、小説『故郷』を宣伝してしまったが、これは冗談でも、大袈裟でもなく、そういう心づもりで書いた小説だ。
 では、昨夜の連続したツイートを辿ることにする。酔っ払っていたので、そのままではなく、修正して辿ることになる。
 その前に、気候変動問題運動に対する批判の理解を手助けするために、保守主義という定義について論じたい。これも酔っ払ってはいなかったが、Twitterで連続してツイートしたものがあるので、それを辿ることにしたい。もちろん、修正が入る。その後で本題に入るという二段階方式になる。悪しからず。

『わたしなりの保守主義の定義』
 保守主義そのものの定義が曖昧だ。識者によって違う。わたしは保守主義とは西欧近代主義の揺籃期の啓蒙主義批判にあると解釈している。
 カール・マンハイムに有名な『保守主義的思考』(ちくま学芸文庫)がある。詳しくは述べないが、人間が古来からもっている「伝統主義」と区別して、「保守主義」的思考様式について、「近代思考史における一つの統一的潮流としてはじめて語りうるものである。『保守主義』がはっきりと政治的・精神的潮流として刻印されて、現実的に存在するにいたるのは近代以降においてのことであり、それはまさしく近代的起源をもっている」と論じている。
 わたしはマンハイムが『保守主義的思考』で論じていることをそのまま首肯してはいないが、保守主義の起源については、反論の余地がない。
 わたしは、啓蒙主義の衝撃と、啓蒙主義のもつ抽象的で理念的な世界観に対する反発的な心情が、保守主義の起源だと理解している。
 そして、理性を絶対化した価値観と、だからこその機械論的世界観への懐疑が土台としてあったと思っている。当然に、科学至上主義にも懐疑的だったのはいうまでもない。機械論的世界観に対してロマン的色彩の反抗になるのは自然的な成り行きだ。反理性主義と反論理主義への傾斜もまた必然性がある。
 西欧近代社会とそれ以前の社会では、価値観と世界観がひっくり返ったような様相を呈していた。  早い話が労働観だ。現在の労働観とは、西欧近代主義の前の労働観とは逆だった。西欧近代社会になる以前の社会では、労働とは基本的に悪という労働観だった。資本主義が労働観を変えたと言ってもいいのだろう。労働が悪では資本主義はなり立たない。資本主義を否定したマルクス主義はどうか。まったく同じだ。労働を神聖視までした。労働が人間を人間らしくする本源だとしている。だから神聖だという論理だ。
 マルクス主義も資本主義もその土台には、西欧近代主義の価値観と世界観がある。西欧近代主義が生み落とした双生児といえるのだろう。どちらも西欧近代主義の申し子なのだ。そして、根っこに機械論的世界観があるから、どちらも全体主義になり易くなる。資本主義が「国家」を主張して全体主義になるのに対して、マルクス主義は「社会」を主張して全体主義になる。根っこに機械論的世界観があるのだから、どちらも全体主義になる資質が充分にある。それを避けるには民主主義の徹底しかない。
 北一輝は「国家社会主義」革命を目指したが、「国家」と「社会」の二つの看板を掲げた全体主義を目指したことになるのだろう。如何に西欧近代主義が全体主義になる危険性をもっているか、象徴的なネーミングだといえないか。詐欺師集団のナチスだと看板に何でもくっつけて飾り付けてしまう。大阪で乱暴狼藉をしている狂気の集団の維新そのままだ。ナチスの正式名称は、国家社会主義ドイツ労働者党だ。革命前夜のドイツにあって、労働者を解放する救世主の仮面をかぶって登場したのだ。
 わたしは小川淳也に、自分に溺れるナルシストの涙をみたが、小川淳也がファシストとは言わないが、ファシストになる資質が充分にある。小川淳也は、わたしの身体は、わたしだけのものではない、と言ったらしいが、こうしたことを臆面もなく言える資質は危険だろう。
 もう既に総理大臣にでもなったつもりなのだろうか。そのつもりがなくとも、少なくとも総理大臣になって日本国民を救うために生まれてきた、くらいの自己陶酔状態に陥っているに違いない。
 話しが逸れた。
 労働観に戻ると、
現代の労働観がどううやって完成したかというと、初期段階は街にあふれた浮浪者たちを矯正するための手段だった、と言ったら驚くだろうか。宗教施設でも労働による矯正が行われていたようだ。規則正しい生活をさせることで矯正が可能だと考えたのだろう。
 資本主義は、労働者を規則正しい時間的縛りで働かせなくてはならない。その前提がないとそもそもが成立しない。
 人間は本来は自然的時間感覚をもって生きている。起きたいときに起き、寝たいときに寝る。が、これでは資本主義はなり立たない。だから、機械的時間感覚へと変えなくてはならなかった。そうでないと工場で働けない。
 学校教育には目的がいろいろあるが、自然的時間感覚をもって生まれた子供に、機械的時間感覚を身につけさせるのと、時間に縛られた規則的生き方を身体に叩き込むためだ。だから、わたしのような自然児は、それを本能的に回避しようとするからずる休みの常習犯になるのだろう(笑)  そうして、労働の神聖化が始まる。労働それ自体に歓びも幸福もないのに、あるかのように洗脳されてきたのだ。マルクス主義の労働価値説も、こうした労働観と無縁ではないのだろう。もっとも、識者によっては、マルクスはそう思っていなかったという人もいる。マルクスとマルクス主義は当然に違う。わたしと、わたしが書いた『小説』が違うように……。  西欧近代主義とはそれ以前の社会の価値観が転倒されてしまったから、当然に反発はあった。その反発が保守主義なのだ、とわたしは理解している。だからマルキストは、保守主義を歴史の歯車を逆回転させようとする保守=反動と捉え、罵るのだろう(笑)  そうなると理性バンザイ、科学バンザイ、論理バンザイになる。おまけに労働は人間に特有の人間を人間たらしめる根源的もので、神聖にして絶対なものだとなる。わたしのような怠け者は、直ぐに嘘吐け、と見破ってしまったりする。わたしは市営の貸し農園で野菜を作っているが、これは労働かというと、レクレーションでもある。労働かレクレーションかは判然とはしない。茸狩りや蕨取りも同じだろう。労働なのかレクレーションか、境が曖昧だ。西欧近代主義以前の労働はこうした姿をしていた。
 奴隷として働かされるのは悪としての労働だし、年貢を収めるために百姓が朝から晩まで働かされる労働も悪でしかない。仕方ないからやりたくない労働をやっているだけだ。その労働が神聖などであろうはずがない。
 わたしの提唱する「里山主義」は、強いて区分けすれば「保守主義」になるのだろが、わたしの場合のアプローチは東洋的な発想なので、厳密にいうと、カール・マンハイムのいう「保守主義的思考」には当たらないのだろうと思う。
 現在の日本共産党は、保守主義を思わせる政策を打ち出している。純粋なマルクス主義ではないはずだ。が、理性と科学と論理にはうるさいくらいに拘っている。理性信仰と科学信仰と論理信仰までは酷くないのだろうが、ひねくれ者のわたしからみると無邪気な所が多々ある。

『気候変動問題の本質とは何か』

  気候変動ばかり目が行きがちだが、レーチェル・カーソンの『沈黙の春』問題には目をつぶっている。根っこは同じだ。気候変動問題がファッションになっていないか。そんな気がしてならない。
 若者が声を上げるのはいいことだ。が、本質を見誤ると意味がないばかりか、永久に本質に気づけなくなる。いつまで経っても、気候変動と「沈黙の春」が同じ根っこだと分からなくなってしまう。そうなると、本質的問題はより深刻化してしまう。このまま行けば、間違いなく手遅れになるだろう。
 JCPサポーターだから黙っていた(笑)
 この際だから言ってしまおう。日本共産党の都市政党化の印象が顕著になっているからだ。北海道で議席がとれず、北陸信越ブロックでも日本の宝ともいうべき、藤野保史の重要な議席を落とし、北関東ブロックでも、またもや一議席しかとれなかった。何が問題なのか、わたしがいうべきことでもないのだろう。
 日本共産党が気候変動の問題を積極的に取り上げている。が、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」と根っこで通じているという認識があるのか。はなはだ疑問だ。  突っ込んで言うと、科学の問題にもなるし、経済成長神話とも関わってくる。最終的には「生き方」と
価値観にまで行き着くはずだ。本気で考え、真剣に気候変動の問題を考えると、そこまで行き着かなければ嘘であり、まやかしだと思う。ほんの上っ面を撫でただけで、本質的な問題解決にはならない。単に石炭火力を減らせばいい、CO2を減らせばいい、というような単純な問題ではあり得ない。それが分からないとしたら、あまりにもお粗末だし、脳天気だ  問題の発端は、産業革命にまで遡る。つまり資本主義の黎明期であり、資本主義を生んだ西欧近代主義にまで行き着く。資本主義の問題だから、社会主義も共産主義は無関係だとは言えない。どれもが西欧近代主義の産物でしかないからだ。西欧近代主義の土台としての価値観と世界観は共有している。
 地球破壊の歴史は人類が道具を使い、火を使ってから始まったのだろうが、産業革命以降は、破壊スピードと深刻さがそれ以前とまったくといっていいほど様相が違う。
 ハンナ・アレントがいうように、資本主義そのものが地球破壊をする意思を明確に打ち出しているのだ。破壊なしに資本主義は存続できないのだ。だったら、マルクス主義の社会主義と共産主義で、資本主義の地球破壊から逃れられるかといえば、それも不可能だ。土台としての価値観と世界観が一緒だからだ。マルクス主義で資本主義が乗り越えられるというのは神話だ。幸福観と労働観と機械的世界観を共有しているのだから不可能だと分からないとしたら致命的だろう。神話だというのはそうした意味だ。
 資本主義もマルクス主義も生産主義であり、資本主義は経済成長至上主義でもある。マルクス主義のいう、資本主義が発展的に止揚されるのは、生産主義の考えが土台にあるからだ。生産を高度化し、その生産品を消費することが幸福の源泉とする考えだ。
 そうした価値観と幸福観と紐付いた「生き方」を求め、その「生き方」で突っ走ってきた先に、地球環境問題が必然的に現れたに過ぎない。そうした「生き方」をしてきた当然の報いだ。
 こうした地点にまで降りてこなかったら嘘だろう。欺瞞であり、いい加減だ。
 この地点にまで降りてきて、この地点に立ったなら、
このままこうした「生き方」を人間は続けるのか、それとも「生き方」を変えるのか、という根本的な問題の立て方に成らざるを得ない。
 気候変動に限定などして済ますなどもっての外だ。喫緊の対応が必要だから優先するというのならまだ分かるが、それは最終的な目的ではなし、応急処置でしかない。その認識が欠けているとしたら、呆れ果てる。わたしがファッションだという意味だ。  産業革命以降に、この地球上から姿を消した夥しい数の種がいる。
 人間中心主義の「生き方」が招いたものだ。そして遂に、愚かにも人間自身が生きるか死ぬかの瀬戸際にまで
追い詰められた。気候変動はその一つの現象に過ぎない。気候変動問題に矮小化してはならないはずだ。もっと事は深刻だ。このままでは間違いなく人類は破滅だ。地球は終わらない。愚かな人間に破壊され尽くした無惨な姿で残るだろう。  理性と科学で問題が解決されると思っていたら大間違いで、解決出来たら既にこうはなっていない。 科学は「真理」とやらに向かって暴走するが、元々が科学には倫理はない。倫理から独立した「真理」を追求することで、自己正当化し、何物の干渉も受け付けない姿になったからだ。
 だから科学が地球滅亡へと繋がろうが
知ったこっちゃないのが本質だ。
 この事実から目を背け、科学が人類を幸福にするという神話に生きているからお目出度いのであり、どうしようもないアホだ。「真理」の追求が、人類の幸福へとつながるという思い込みを生きている。「真理」が人類の幸福になるという補償などない。曲り間違えれば破滅をすら導く。理性を神と崇めるに至ってしまったから、理性が生み出した科学の導く先には夢のような未来が待っていると信じている。理性バカと科学バカの破滅的姿だ。ニーチェはこうした理性を神の地位に上げた先にあるのはニヒリズムだと看破したが、理性信仰と科学信仰は、正しくニヒリズムだろう。  科学というものの怖ろしい側面をみせたのが、広島と長崎の原爆投下であり、3・11の原発事故だ。科学が生み出したものだが、人類を一瞬で滅亡へと導くこともする証左だ。  誤解を怖れずに言うと、ヨーロッパ発祥の自然環境関連の思想は駄目だ。  意識の世界の発想であり、人間中心主義の発想だからだ。動物愛護とか、緑の党とか、上っ面を
なぞったに過ぎない。これは西洋の精神土壌には身心二元論が基本にあり、心=意識を絶対化するから、意識の世界に閉じられているからだ。
 意識の中心的な悟性=理性・論理の世界なのであり、意識とは人間特有で、その意識=悟性は人間が神から与えられた、と傲慢をかましているが、人間以外の生命からの視点でみたら、とんでもねえ話しになる。
 人間にも動物と共通のものがある。身体だ。この身体は地球上の他の生命と繋がっている。その繋がりを教えてくれているのが無意識の世界だ。  東洋の考え方には西洋の身心二元論はない。元々が身体と心は一体と捉えていた。そして身体を重視する方向性があった。
 ユングの深層心理学は、優れて東洋的だ。
深層心理の奥深くには集合的無意識があり、これは地球上の他の生命と繋がっているという。  地球環境とか、気候変動とか、本気になって考えるなら、この地点まで降りてこないと嘘だと確信する。基本的人権よりももっと本質的な次元の視点だ。
 わたしは平塚らいてうの
元始女性は太陽だったを素朴に信じている。
 ジェンダー平等が叫ばれているが、この地点にまで降りてこないジェンダー平等なんて、敢えて言うと胡散臭い。  何故なら、人間の女と男の平等は、その底に地球上の生命の平等がなかったら、その考え自体が差別になる。人間至上主義による地球上の生命への冒涜であり、差別だ。差別の本源はここにないのか?  差別の本源は
人間中心主義にあると思っている。
 人間とは何か、という定義で、五体満足じゃないものは人間じゃない、となる。ナチスの民族主義もそうだ。平家にあらざるもの人にあらずと同じ発想だ。  ジェンダー平等を否定しているのではない。わたしの持論は、人間社会は女中心にならないと破滅すると信じている。生物学的にいうと、基本的に男は未完成品であり、どうでもいい生き物なのだ。男を必要としないで、生殖する生物は多いし、女が基本だが、生殖が必要になれば男に変態できたりもする。スズメバチなど、晩秋になると生殖のためにオスを作る。が、翌年の女王バチと交尾すると、それで一生を終える。女王バチはひとりで越冬する。オスなどそんな存在だ。そんな存在のオスでしかないのに、人間社会はオスが威張り腐っているから、不要な戦争が起きるのだ。不完全な生物だからだ。
 人間社会の女にも戦争好きがいる。櫻井よしことか、高市早苗とか、稲田朋美とか、杉田水脈とかだが、どうみたって不完全な女だと思う。平塚らいてうがいう「元始女性は太陽だった」と真逆だ。
 それほど女性は尊い。だから女性は元始、神だったのだ。縄文土偶の神々しさには心が引き寄られて、無我にされてしまう。わたしの神だと言ってもいい。
 また脱線した。
 そういうことで、ジェンダー平等をいうなら、もっと根源的な、地球上の生命の平等を言ってほしい。 
 ついでだから言うと、動物保護も人間至上主義の発想だ。動物世界では食物連鎖がある。
 本当の動物への愛をいうのなら、アイヌとマタギの命に向き合う姿勢だろう。この姿勢こそが、薄っぺらな動物愛護など寄せ付けず、超越している。命の尊厳を知っている。だから血の一滴も無駄にしない。アイヌとマタギの精神は、地球の生きとし生けるものの生命と自らを等しくみているからだ。  とまあ、
酔いの勢いで、今まで心にため込んでいたことをぶちまけてみた。
 最後にこれだけは言って置きたい。耳の穴をかっぽじって、よく聞くように!
 無料キャンペーン中のKindle電子書籍の小説『故郷』とは、3・11を扱っているが、今まで述べてきた世界観の中を旅する物語なのだ。
 明治以降の日本の文学は、西欧近代文学だ。わたしはこれに反逆を試みている。西欧近代文学ではなく、里山主義文学で対抗しようという野心がある。
 この小説『故郷』とはそうした小説だ。
 日本文学は衰退を越えて消滅寸前だ。純文学というものは、明治以降の遺産を食い潰していたが、もう食い潰せなくなった。
 大口を叩くと、出版社から出版される純文学小説の99%はゴミだ(笑)
 SNSの時代になった。出版社の奴隷になって書物を出版しなくても、いい時代が到来したのだ。
 名前と権威で判断する時代が終わったのだ。大学教授の肩書きで崇めたてられていたが、「何、言ってんだこいつ、アホか」という時代なのだ。
 まったくの無名であり、飲んだくれてTwitterで喚いている糞じじいの書いた小説が、世紀の名作だってあり得る時代なのだ。
 大口を叩くと、この小説『故郷』は人類に向けて書いている、エヘン!
 こいつ大丈夫か、正気じゃねえな、と思われてもへっちゃら。
 狂人の書いた小説『故郷』を読んでみてほしい。
 9日までしか、世紀の名作を無料では読めないぞ!
 急いで、ポチッとしてダウンロードするように!
 URLは下記の通り。
 https://www.amazon.co.jp/%E6%95%85%E9%83%B7-%EF%BC%93%E3%83%BB11%E3%81%AE%E5%BF%83%E3%81%8C%E5%B0%8E%E3%81%8F%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E4%B8%96%E7%95%8C-%E5%8C%97%E6%9E%97%E3%81%82%E3%81%9A%E3%81%BF-ebook/dp/B00JCN2VD0/ref=sr_1_8?qid=1636247765&s=digital-text&sr=1-8

 Twitterとは面白いものだ。
 昨日、ブログで連載している小説『三月十一日の心』の下巻の舞台になる、大分県の紫草の里に当たる人と知り合いになれた。写真をアップされているので覗いたのだが、わたしの想い描く風景そのままの写真に感動した。小説を描くときの参考にさせてもらおうと決めた。
 こうした出逢いもあるのだ。
https://twitter.com/AHori16

※ 疲れたし、面倒なので、読み返さないでこのままアップしてしまう。どうせ、Twitterで誤字脱字、「てにをは」の間違いをこれでもかとやってるので、怖い物なし。


故郷