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 参議院選挙が始まってから、わたしはずっと苛立ちにも似たもやもやを抱えていた。 
 参議院選挙を迎えるにあたってのわたしは、大袈裟ではなく、これまでにない危機感の中をさまよっていたといえる。
 映画『新聞記者』を観たのは7月4日だ。参議院選挙の公示日であった。
 安倍晋三の危険性と、安倍晋三という幼児性分裂症であり、天然のファシストを神輿に担ぐ勢力の危険性については、これまでにもブログに何度となく書き、わたしなりに警鐘を鳴らしてきたつもりである。
 わたしは、安倍政権の中枢であり司令塔である官邸と内閣官房という組織が抱える闇の危険性には気づいていた。が、正直に告白すれば、日本という国と社会の深部までを蝕み、破壊に及んでいるとは気づかずにいた。
 わたしがいう深部とは、人の内面のことである。
 映画『新聞記者』の衝撃は、ナチスの全権委任法に当たる緊急事態条項を射程にした憲法の改悪によって、名実共に独裁国家を作り上げ、独裁者とならんがための階段を駆け上がろうとしている安倍晋三と、安倍晋三の手足となり頭脳となって暗躍する官邸と内閣官房という組織の闇を暴いたことにある。
 安倍晋三はカルト紛いの日本会議にかぶれ、自らのおぞましい妄想としての「美しい国、日本」を目指して、戦後日本が築いてきた日本という国のあり方を徹底的に破壊してきた。日本会議とは明治維新政府の伊藤博文が中心になって作り、国民を国家権力に従順な臣民として作り上げるために虚構された、それ以前の日本人の多神教的な精神風土と伝統と文化と異質な一神教的国家神道のおぞましい宗教の復活をたくらむ政治的勢力だ。
 宗教であるから、一神教的国家神道は人の内面にまで踏み込んでくる。憲法として明文化するだけでは止まらない。人の内面までも牛耳り、自由自在に操ろうとする意思がある。一神教的国家神道はその名の通り、国家を神として崇めるものだが、国家は神話である古事記を踏まえて神である天皇と同義になる。国民は国家である天皇に尽くす臣民であり、赤子であるとはそうした意味だ。
 恐るべき宗教である。そして、これほど人間のおぞましさを形にした宗教はないだろう。神話の古事記を日本精神の神髄であり、伝統と文化の神髄であると信じるのはまだしも、西欧近代主義が生み出した国民国家の概念にこれを結びつけるという離れ業をやってのけたのだ。国家=天皇を神として崇めるのだから、曇りなく解釈すれば、この時点で独裁国家であり、人の内面まで踏み込んで好き勝手に破壊しようとする意思を持つものだけにこうなるとファシズムである(笑)。
 一神教的国家神道を虚構した伊藤博文は、この矛盾をはっきりと自覚している。伊藤が作ろうとしたのは西欧近代国家だったからだ。だからそれまでの日本の精神風土と切れた、それ以前にはないでっち上げの宗教であることを自覚している。伊藤が想い描いたのは西欧のキリスト教だった。
 一神教的国家神道は虚構であり、西欧のキリスト教のように精神的基軸になるものがない多神教的な精神風土の日本においては、西欧近代国家として国民に基本的人権と自由と平等など与えたら何処にすっ飛んでいくか分からないから、どうするか悩んだ末に編み出されたものが一神教的国家神道だったのだ。伊藤がはっきりと告白している。
 伊藤の頭にあったのは、百姓一揆をどうしたらなくせるか腐心した、国学を大成した本居宣長に通じるものだったのであり、だから平田篤胤の天皇神学を下敷きにする必然性があったのだろう。
 為政者が虚構を自覚しているうちはいいが、虚構を利用して私利私欲に走ったり、虚構とも知らずに一神教的国家神道というおぞましい宗教を妄信する勢力が台頭して、権力の中枢にまで入り込んだらどうなるか、戦前の歴史が教えてくれている。
 宗教というのは恐ろしいものである。内面を縛るものだけに、目には見えないから責任の所在も曖昧になる。国家が宗教であるから、国家体制自体が無責任になる本質的な病理を抱きかかえるのは頷けよう。
 
 また、わたしの悪しき性癖が暴走してしまった。
 話があらぬ方向へと飛んでいくのが、わたしの性癖であり、だから絶滅危惧種になった読者が寄りつかなくなるのだろう。ここまで我慢して読んでくれた人がどれほどいるか。よほどの奇人変人でないと無理だろう。
 ついでだから、余談になるが、わたしの恩師である橋川文三はこの性癖に舌打ちして、「あなたは何を言いたいの」と訊いたことがあった。日本政治思想史というゼミでのことだ。「先生、もう少しすれば分かります」と弁解したのだが、どうにか辛抱して聞いてくれた思い出がある。最後には面白い論旨だとお褒めをいただいたのだが、酒宴の席で「四十になったら小説を書け」と言われたのは、わたしの性癖への答えなのだろう。学者としては才能がないということなのだろうか(笑)。

 本題に入る。
 安倍晋三の破壊は、人の内面のレベルまで達したということを映画『新聞記者』は、わたしに教えてくれたのである。
 つまり、一神教的国家神道を国家の柱に据えるのは法的には成就していないが、先取りをする形で内閣官房が秘密裏に行っているという事実に衝撃を受けたのだ。人の内面にまで踏み込んで、国家=安倍晋三のいいように操つろうとし、また破壊し、自分に害を及ぼすとなればマスメディアを使って嘘の情報をばらまいて社会的抹殺を図り、果ては自殺にまで追い込むということが既に行われているという事実から顔を背けることはできないだろう。
 言ってみれば、内閣情報調査室とは一神教的国家神道そのものといえないだろうか。ここにおける一神教的国家神道の国家とは安倍晋三になる。安倍晋三が国家を私物化しているという事実の突き当たりは、憲法を形骸化させて破壊し、税金は私利私欲の赴くままに放蕩し、国民はどん底の暮らしを強いられるというレベルを超えてしまっているのだ。日本人の内面にまで踏み込んで破壊を始めたといえる。
 わたしの危機感が沸点に達したのは、この事実を映画『新聞記者』で突きつけられたからだ。わたしは作家のつもりなので、国家権力が我が物顔で、人の内面にまで土足で踏み込んできて、勝手に内面の自由までを破壊するという行為は断じて許すことは出来ないし、この行為こそがファシズムの牙だろうと思っている。
 冒頭に書いた「苛立ちに似たもやもや」とは、日本という社会と日本人の内面とが断崖絶壁に追い詰められているという危機感に発するものなのだ。
 そして、この断崖絶壁に追い詰められた危機感をさまよっているわたしの目からみると、市民連合と野党共闘の危機感があまりにも生温く、安倍晋三の本当の恐ろしさに気づいていないとしか思えないところから発したものだ。
 参議院選挙は、もう特定の政党が躍進するかどうかを争うレベルのものではない。
 安倍晋三を政権の座から引きずり下ろすか、それとも日本の未来を閉ざすか、というのっぴきならない岐路に立たされていると考えるのが妥当だろう。映画『新聞記者』を観て、そう思わなかったとしたら相当に感性が鈍いとしかいえない。
 作家の本能は、時代の奥深くに蠢くかすかな匂いを誰よりも敏感に嗅ぎ取るものだ。その匂いがこれからの未来を左右してしまうものならば尚更である。
 石川啄木は『時代閉塞の現状』と『硝子窓』という評論の中で、時代の空気の危うさを書いているが、啄木の作家としての嗅覚の鋭さを示すものであり、来たるべき時代の闇を予見したのものだ。
 性急で鬱屈し、その溜まり溜まった感情の出口を求め、働いても働いても楽にならない暮らしに疲れ、先のみえない重苦しい時代の空気に押しつぶされそうになって、「何かいいことはないか」と刹那の感情のはけ口を求めて民衆がさまよい歩いている閉塞した時代状況を看破したのだ。その先に日本人を待ち構えていたのは何か、語るまでもないだろう。
 国家権力によって鬱屈した感情の吐け口を偏狭で差別的なナショナリズムへと巧妙に導かれていって、泥沼の戦争地獄へと転がり落ちていったのだ。
 民衆に理性と知性がなかったからだ。そうした安易な理由で歴史を俯瞰するほど愚かな行為はないだろう。実際に理性と知性は何をなし得たか、虚心坦懐に歴史と真正面から向き合って、歴史を自分のものとして生きてみることだ。名だたる日本を代表する知識人と呼ばれている者たちが、戦争を賛美し、国家権力に加担した歴史をどう合理化するのか。その者たちの理性と知性と論理が中途半端だったからだなどと理由づけるとしたら、あなた何様ですかと言いたい。それに愚かな戦争行為に、知性と理性と論理が入り込んでいないと考えているとしたら、いうべき言葉がみつからない。
 ナチスは戦争に科学を積極的に取り入れたのだ。如何に効率的に大量の人間を殺傷できるか、理性と知性と論理とをフル回転させて追求したのだ。人体実験にまで手を染めたではないか。ナチスと連合国とどちらが先に原子爆弾を開発し実用化できるか、この科学的な競争に理性と知性と論理が関与していないとは言わせない。

 この際だからはっきりと書くが、市民連合と野党共闘の最大の弱点であり問題点は、あまりにも無邪気に、理性と知性と論理にすがりついていることだ。理性と知性と論理が万能薬と思って信じ切っている節がある。わたしからみれば、一神教的国家神道と同じく奇っ怪な宗教にみえてしまう。一神教的国家神道は日本の専売特許だが、理性と知性と論理を絶対視するのは西欧近代主義という宗教に洗脳されていることの証左でしかない。
 理性主義者と知性主義の不思議なところは、知性をひけらかすのなら、理性をとことん突き詰めていくとニヒリズムに行き着くことは自明だろうに、そこがまったく分かっていないからわたしには理解できない。
 わたしは理性と知性と論理が絶対だという宗教にかぶれていないし、かといってそれを裏返した感情至上主義にもかぶれてもいない。
 そもそもが、理性と感情とを二元論的にみるのは西欧近代主義の根底にある自我論に起因するものだ。主観か客観かの二元論に通じるものだが、西欧近代主義には二元論的な世界観があるから、どうしても発想と思考方法が白か黒かになってしまう。
 未だに保守か、革新かという対立図式でしか考えられなかったり、リベラルか、それとも反リベラルかという対立図式が思考を縛り付けて身動きがとれずにいる、いわゆる知性的で理性的で論理的な人たちがいるが、その知性と理性と論理は相当にさび付いて使い物にならなくなっているのではないだろうか。
 リベラルなどと言っているが、リベラルの概念からして疑ったことがないのだろう。新自由主義も広義のリベラリズムだ。構造改革と規制改革を口やかましく叫んでいたリベラルが数多いたが、リベラルという摩訶不思議な概念をものさしにして、現実を図っているとしたらよほどの愚か者か、お目出度い人だろう。
 左翼だ、右翼だという色分けも、現実を捉えるものさしになどなりはしない。国家主義か、それとも反国家主義かという色分けならまだ分かる。

 さて、ここまでが山本太郎が旗揚げした『れいわ新選組』を論じる序章だと言ったら、怒り出す人が続出することだろう(笑)。
 これまでに何回かにわたってブログで、民衆の実感がどうしてストレートに安倍政権打倒へと向かわずに、鬱屈したままで出口を塞がれ、世論調査の安倍政権支持が過半数に達する摩訶不思議な現象になるのか書いてきたつもりだ。
 わたしは石川啄木の『時代閉塞の現状』と『硝子窓』を通して、啄木と同じ嗅覚と目で時代をみているつもりだ。
 鬱屈して沈殿した民衆の感情は危険である。戦前を彷彿とさせる時代の空気なのだ。
 この危険な民衆の感情をどういう方向へと導いていって、パンパンに膨らんで破裂しそうな風船の口を解き放つか。国家権力によって偏狭的で差別的なナショナリズムの方向へと導かれて、風船の口を仮想敵国に向けて解き放たれれば待っているのはいつか来た道だ。
 市民連合と野党共闘はどうすべきか。
 市民連合と野党共闘は、日本という国と日本人がこの岐路に立たされていると把握しているのだろうか。そののっぴきならない危機感を共有しているのだろうか。
 しかし、驚くべきことにこの時に及んでも、理性と知性と論理を振りかざして、政策を国民に、理性的に、知性的に、そして論理的に訴えることで活路が開けると本気で考えているのだ。
 ツイッターでそのもどかしさと愚かさを指摘すると、自称リベラルが感情では何も変わらないと言うに及んでは開いた口が塞がらない。わたしは理性と感情を二元論的にみていないし、理性を絶対視することも愚かだと思うし、感情を絶対視することも愚の骨頂だと思う。二つは背中合わせの関係であり、表と裏の関係でしかない。

 映画『新聞記者』は、内閣情報調査室の闇を暴いてくれたではないか。
 安倍政権は参議院選挙が国民的なレベルで沸騰することを一番に恐れているのだ。だからマスメディアに参議院選挙を盛り上げるような報道をするなと報道管制を敷き、それだけではなく逆に、国民の目と関心を選挙から遠ざけるような情報操作を行わしているのだ。だから議会制民主主義を標榜する国の若者が、未来を左右する選挙の投票日を知らない割合が8割に上るという信じられない惨状になるのだ。
 ここに至っても、市民連合と野党共闘は、理性と知性と論理で立ち向かい、政策を粘り強く訴えれば活路が見いだせると思っているのだ。
 が、選挙の盛り上がりは一向にみえず、このままでは投票率が50%にいくかとまでささやかれる危機的な状況にある。
 低い投票率ではその時点で野党共闘の敗北は決まりだ。
 それを棚上げして、何を始めるかと思えば、小さなパイの中での野党共闘の票の奪い合いと、情けないことに、野党共闘の支持者同士の罵り合いまでが始まったではないか。言いたくはないが、京都選挙区では松下政経塾のおぞましい魂をたたき込まれた福山哲郎が、共産党への偏見を隠そうともせずにマイクで叫んだというのだから呆れるばかりだ。
 こうした現実をみれば、わたしの断崖絶壁に立っているという危機感を、市民連合と野党共闘が共有しているとはとても思えない。
 今やるべきことは如何に選挙戦を盛り上げて、眠らされている国民の尻を引っぱたいて目覚めさせるかということだろう。投票率を上げなければ勝機はないのだ。
 そんなことは選挙が蓋を開けてから考えるものではない。ましてや、断崖絶壁に立たされているという認識があれば当たり前だ。
 日本共産党という衆議院議員のバッチを外して、退路を断って、大阪12区の衆議院補欠選挙に無所属で立ち上がった宮本たけしが、どうして「祭り」を提唱したのか、その意味を市民連合と野党共闘は真摯に考えたのだろうか。
 象徴的なのは、山本太郎が宮本たけしの応援に駆けつけたことだ。後ほど語るが、宮本たけしの意思を正しく受け継いだのは山本太郎だろう。だから、選挙戦に「祭り」を持ち込んだに違いない。
 昨日の品川での『れいわ新選組まつり』は、宮本たけしの提唱が正しかったことを証明してくれている。

 やっと山本太郎と『れいわ新選組』を語るところまでこぎ着けた(笑)。
 昨日、ネットではあるがライブで品川の『れいわ新選組まつり』を初めから終わりまで観た。
 おかげで家事が疎かになり、仕事から帰ってきた妻に叱られたが、歴史的瞬間をこの目でみるという固い意志の方が妻の小言の恐怖よりも遙かに勝っていたということだ。正直に告白すると、釘付けになって目が離せなくなったからだ。
 日本共産党の熱烈な支持者であり、JCPサポーターであるわたしが、それまで意識的にみないようにしていた『れいわ新選組』に注目したのは、野党統一候補である熊本選挙区の阿倍候補の応援に駆けつけた山本太郎の演説風景をみたときだ。目から鱗だった。そして、市民連合と野党共闘の選挙の闘い方に疑問ともどかしさと、そして焦りを感じていたわたしの中に、稲妻となって閃いた直観が舞い降りてきたのだ。
 どういう直観かというと、もう山本太郎の『れいわ新選組』の勢いに賭けるしかないという直観であり、奇跡は起こせるという直観だった。
 その直観は大阪での日本共産党の辰巳コータローの応援演説で確信となり、昨日の品川の『れいわ新選組まつり』で「歴史が動き出した」とツイッターで、わたしをして叫ばせたのだ。
 鬱屈して沈殿し、今にも破裂しそうな時代の感情はどこに行くか分からない危険性をはらんでいる。だからこそ、正しい方向へとその時代の感情を導いていって、解放してやるしかないのだ。それをせずに指をくわえてみていれば、国家権力によって操られ「いつか来た道」へと誘導されてどす黒いナショナリズムとして解放されてしまう。
 時代の感情を解放してやるには、その感情に理性と知性と論理でもって訴えても無駄であり、有効ではない。ましてや、マスメディアによって情報が操作されているのだ。
 理性と知性と論理は、鬱屈した時代の感情を変えることに働かせるのではなく、正しい働かせ方とは、どうやったら鬱屈した時代の感情を国家権力によってあらぬ方向へと導かれていく前に、あるべき方向へと導いていくのか、その方法と戦術と戦略を練ることに使われるべきなのだ。

 マスメディアの情報操作によって出来た壁を突き破るのは簡単ではない。
 が、考えてもみてほしい。
 鬱屈した時代の感情は、暮らしが破壊されて今日を生きて行くのが精一杯で、明日のことなど考えられず、ましてや未来など望むべくもないという切羽詰まった感情なのである。自殺者と自殺を企てた者と、自殺予備軍が鬱屈した時代の感情の荒海の中で溺れかけているのだ。
 この時代の感情が何の障壁もなければ、安倍政権打倒へと雪崩れて行くはずのものなのである。それを押しとどめているのが、内閣官房と内閣情報調査室によって操られているマスメディアが作る強固な壁なのである。
 しかし、正しく働きかけて解放してやれば、嘘で塗り固められた壁であるだけに、巨大な時代の感情は一気に押し流してしまうことだろう。
 山本太郎とその陣営は、それを冷静に理解している。そして今、優先すべきことは何かか、どうしたら鬱屈した感情を解放してやり、安倍政権打倒のうねりへと変換していけるか、その方法と戦術と戦略を練りに練ったのだろう。
 山本太郎と『れいわ新選組』をもってポピュリズムと罵ったり、危険な大衆迎合だなどと揶揄している、いわゆるリベラルがいるが、鬱屈した時代の感情が諸刃の剣であり、どうとでも転び、それだけではなく圧倒的なエネルギーを秘めているのを分かっているのだろうか。
 危険でもあるが、正しい方向へと導いていけば変革のエネルギーにもなるのだ。
 煽動と、鬱屈した時代の感情を正しき方向に導いていって解放してやるのでは根本的に違う。
 煽動は大衆の無軌道に飲み込まれて何処に行くか分からないが、山本太郎とその陣営はどの方向へと導いていくかを戦略として持っており、どう収束させていくかの未来の展望まで、昨日の『れいわ新選組まつり』で示している。優れて理性的であり、知性的であり、論理的なのだ。が、理性と知性と論理にあぐらをかいてはいないし、盲目的に信仰などしていないから、鬱屈した時代の感情の解放を「まつり」という戦略に求めたのだろう。

 山本太郎と『れいわ新選組』が時代の歯車を動かしたのだ。
 わたしの文学的直観がそう叫んでいる。
 安倍晋三と安倍晋三を神輿に担ぐ勢力にとっては恐怖だろう。
 マスメディアに作らせた情報の壁が決壊し、押しとどめてきた時代の感情が安倍政権打倒へと津波となって押し寄せてくるからだ。

 わたしの直観は「時代の歯車が動き出した」と教えてくれたが、直観はまた、安倍政権打倒の先に、あるべきまったく新しい政党の姿を垣間みせてくれている。
 昨日の『れいわ新選組まつり』で、初めて立候補している全員の演説を聴いたが、一人一人が驚くほど個性的であり、一人の人としてのしっかりとした軸を持っているのが身にしみて分かった。蓮池氏は公言して憚らない。山本太郎を祭り上げることはしないし、間違っていると思えばはっきりと指摘する、と演説している。多様性という言葉が一人歩きしている昨今だが、『れいわ新選組』のコンセプトこそ多様性なのだろう。
 多様性などといってバラバラでは党として機能しないだろうし、早晩分裂するだろうという批判があるだろうが、そうした考えは永田町の論理であり、既存の政党の形から自由になれていない証だろう。

 わたしは里山主義という思想を提唱している。これまで論じてきたように、理性か感情かなどという陳腐な対立軸など蹴飛ばしている。
 だったら何を重要視するのかといえば、「共感」と「共鳴」だ。
 何だ、結局は感覚と感情じゃないかと言うかもしれないが、それは浅薄な見方だろう。
 安倍晋三に決定的に欠けているのは、この「共感」と「共鳴」だろう。理性と知性と論理がお粗末なのは否定しない。かといって、ここまで安倍晋三が戦後の日本という国のあり方と、国民の暮らしと、わたしが懐かしがる原風景と、伝統と文化を壊してきた本質的な原因は理性と知性と論理があまりにもお粗末だからではない。安倍晋三の感情もまたお粗末だが、安倍晋三の論理的思考回路と感情はそっくりだ。二分法でできているのだ。自分にとって敵か味方かである。善か悪かではない。
 安倍晋三の人格の基底に「共感」と「共鳴」があったらどうか。内閣情報調査室など存在はしないだろう。
「共感」と「共鳴」というと西欧近代主義から自由になっていないと、そのまま感情に結びつけてしまうが、それは誤りだろう。西欧近代主義の自我論からごっそりと抜け落ちているものだからだ。
「共感」と「共鳴」とは、自分と他人の感情が交感し結び合う空間に成り立つものではないのか。日本的認識方法である感覚的認識とも通じ合うものだが、西欧近代主義の自我論の垣根を超えたものだろう。
 客観でもなく主観でもない。今は深入りしないし、西田幾多郎の哲学の拝借ではないかなどとつっこまれると余計にややこしくなるのでやめるが、西田の受け売りではない。違うものだ。
「共感」と「共鳴」は人と人との間にだけ結ぶものではない。人と自然との間にも「共感」と「共鳴」が成り立つ。人間中心主義ではないのだ。
 何故に「共感」と「共鳴」とを持ち出したかというと昨日の『れいわ新選組まつり』で、十人の立候補者の演説を聴いていて、共通していたものが「共感」と「共鳴」だと思ったからだ。
 たとえば、辻村ちひろ氏であるが、自然と人とが「共感」し合い、「共鳴」し合う空間と場所にこそ、あるべき人の生き方としての可能性をみているのではないだろうか。わたしは強く感銘を受けた。
 辻村ちひろ氏だけではない。東大の教授である安冨歩氏の演説を聴いていて、わたしの心にストンと落ちてきたのも「共感」と「共鳴」だった。人間の言葉をもっていないからこそ、幼い子供と馬への眼差しを重視し、その言葉を話せない幼子と馬と「共感」し合い、「共鳴」し合う目には見えない交感の可能性を語ってくれていたように思えた。
 蓮池氏の原発事故で被災した人々への想いも「共感」と「共鳴」だろう。
「大浦湾には龍神様が住んでなさる」という沖縄の心は、正しく自然と人との「共感」であり、「共鳴」だろう。

 長くなってしまった。
 最後にこれからの市民連合と野党共闘のあるべき闘い方を、わたしの独断と偏見で論じたい。そして、今なお熱烈に支持し、熱烈に応援している日本共産党について手短に語って終わりにしたい。

 市民連合と野党共闘が勝つには投票率を上げるしかない。
 問題は市民連合と野党共闘には、安倍政権によって報道管制を敷かれたマスメディアを動かすことはできないし、意図的に国民の目と関心とを選挙から逸らし、国民を情報操作によって囲っている壁を打ち壊す、有効な戦術も方法も持ち合わせてはいない。
 山本太郎と『れいわ新選組』が、果敢に突っ込んで壁にぶち当たって、壁を壊しにかかっている。
 山本太郎と『れいわ新選組』は、風車に突進するドンキホーテではない。山本太郎と『れいわ新選組』に呼応する形で、壁に囲われている内側からも破壊が始まったのだ。ひとたび壁に穴が開けばひとたまりもないだろう。
 市民連合と野党共闘は山本太郎と『れいわ新選組』と一緒になって闘う以外に勝機はないと、先ずは謙虚に自覚すべきだ。つべこべ言っている時間はない。足の引っ張り合いなんかしていないで、山本太郎と『れいわ新選組』が作った穴を大きくして、囲いの中へと突貫する以外にないのだ。
 山本太郎と『れいわ新選組』がこれほどの勢いをもつまでに膨れ上がったのは、無関心層と無党派層を巻き込んだ「祭り」の熱気とエネルギーである。
 市民連合と野党共闘も『れいわ新選組まつり』と呼応して、新たな令和の世直し「祭り」を始めるべきではないのか。

 日本共産党であるが、「祭り」のエネルギーとなる要素を生み出していたといえる。
 カクサン部が作った三種類のダンスソングだ。これを全面に出して「祭り」を行えば、わたしは世直しのエネルギーに転化できたのではないかと想像している。
 もちろんリスクはあるだろう。既存の支持者がどう思うか。が、そこに止まっていては、無党派層と無関心層の票は望めない。
 また、日本共産党の負のイメージは、政党としての日本共産党が政権を奪取するための真の国民政党へと脱皮させる上で足枷になるものだが、実は、日本共産党自体が自らのイメージを知らず知らずに守ろうとする意思が働いているのではないだろうか。どんなイメージかというと、知的で理性的で論理的というイメージだ(笑)。
 紙智子議員の魂と涙で沿岸漁業の死守を訴えた姿をみるにつけ、また家族農業の死守を訴える姿をみるにつけ、どうして街宣で大漁旗を掲げ、筵旗を掲げて演説できないのかと不思議でならないのだ。
 大漁旗を掲げ、筵旗を掲げるだけで、漁民と農民へのインパクトは計り知れないだろう。が、そうするとどうしたって労働者の党としてのイメージが壊れる。そんな懸念があるのではないだろうか。
 知性と理性が並外れて、論理の切れ味が図抜けている小池晃氏は、全国を飛び回り、敢えてバカになって、一人祭りを繰り広げてくれていると思うのは間違いだろうか。
 しかし、JCPサポーターができたことで、選挙戦をもり立てる小道具は他の政党と比較したらずば抜けていると思う。わたしはJCPサポーターだが、申し訳ないが何もしていない。そんなわたしからみたら、お世辞ではなく、ポスターからバナーから、演説の舞台設定からして素晴らしい。
 が、「祭り」にはできていない。「祭り」を敢えて自重しているのか、何故かわたしには金縛りにあっているような気がしてならない。
 マルクスの理論をわたしは完全に否定している。資本主義批判の側面だけを受け継いでいるに過ぎない。そんなわたしが日本共産党を熱烈に応援するのは、ありのままの今の日本共産党に可能性を見いだし、未来を託せると思っているからだ。
 日本共産党が政権を奪取するには、自らのジレンマとどう向き合い、どう克服できるかなのだろうか。
 わたしの直観では、山本太郎と『れいわ新選組』ともっとも近い政党は日本共産党だと教えてくれている。
 三月十一日の心と沖縄の心に寄り添い、「共感」と「共鳴」を生きているからだ。
 ともあれ、日本の未来が閉ざされてしまうかどうかの瀬戸際の選挙だから、遮二無二なって前へ進むしかないのだろう。

 もう一度言おう。
 山本太郎と『れいわ新選組』が、歴史の歯車を動かしたのだ。
 後に続かない者はそれでも構わない。
 が、足を引っ張るような惨めな姿をさらさないことだ。

 歴史の歯車が動き出した。
 7月12日の『れいわ新選組まつり』
 これが歴史の歯車が動き出した記念日になるだろう。

 共に、歴史の歯車を動かそうではないか!


 ※
 ここまで長くなるとは思ってもみなかった。
 それほどまでに品川での『れいわ新選組まつり』に興奮しているのだろう。悲観と絶望の闇をさまよっていたわたしに手を差し伸べてくれた一条の光のようだった。
 朝から書いていたので疲れてしまった。いつものように推敲の気力がない。明日までには推敲したい。
 作家の端くれならば、誤字脱字に満ちあふれた文章を他人様の目に晒すなど言語道断だというお叱りをうけるのだろうが、故あって、わたしは出版社から隔離されている作家なので、そんなこたあ、ぜーんぜん気にしまへん!
 転載したいという物好き……ではなく奇特な人がいたら、遠慮なく転載してください。但し、誤字脱字があるので、それを避けたいという人は明日がいいでしょう。でも、誤字脱字が完璧になくなるという保証はありまへん(笑)