第二部 青時雨
第三章 宵待の里
1
四年前に常念岳から蝶ヶ岳へと至る稜線で女と再会してから、上高地温泉のめくるめく夜までを、ありのままに、文造が物語にして女に晒(さら)した。
ありのままに晒すことでしか、女に山野辺佐由理だと白状させられはしないと思えたからだ。
深い霧の密室に、文造と女は二人きりで閉じ込められていた。
その密室で、男と女の生々しい性の物語をされたとしたら、普通の女ならどう思うだろうか。女は山野辺佐由理ではないと否定した。
そうであるなら、文造は初めて出逢った男になる。そしてその男は、女が物語のヒロインの山野辺百合子だと信じて疑っていない。密室であり、二人きりなのだから、女が佐由理でなかったら、恐怖に怯えるのではないのか。そう文造は思った。
文造が横を向いた。
女の横顔がそこにあった。
霧に紛れた女の横顔は白くぼやけて、女の心は読み取れなかった。
じっと見つめている文造に気づいたのだろう。女が顔を向けると、「寒う、おへんか」と訊いた。
「寒いのか」
「少し」
どうしようか迷った。が、文造は女を抱き寄せずにはいられなかった。女は素直になすがままにまかせた。
女にあるがままを物語ってよかった、としみじみと実感した。女の心が揺れ動いたのは明らかだった。
寒いと言ったはずなのに、女の身体が火照っているのが、濡れた白いシャツを通して伝わってきた。天空の天の川をみた蝶ヶ岳の夜と同じだった。寒いといって誘ってきたのは女だった。
女を抱き寄せた文造の手と腕とが、女が山野辺佐由理だと教えてくれていた。
「さっき話してくれはった、蝶ヶ岳の夜みたいに、うちらもなってしまいましたな」
そう言うと、女が文造の胸の中に顔を埋めてきた。上高地温泉の夜の闇に息づいていた女の匂いがよみがえってきた。確かに女は、山野辺佐由理に違いなかった。
「こうして君を抱いていると、君が間違いなく佐由理さんだと分かる。上高地温泉の夜に抱いた佐由理さんの身体だし、佐由理さんの匂いだ」
「そうやろか……」
女は否定もしなければ、肯定もしなかった。
「あんはんの心は今でも、槍ヶ岳に誓ったまんまで、変わらへんのでっか」
「変わらないから、佐由理さんが俺に夢をみてせてくれた。俺はその夢で告げられた通りに、佐由理さんに逢いにこの里にきた。
四年前に、槍ヶ岳に向かっていた俺を、佐由理さんが呼んだ。その声に導かれて、俺は槍ヶ岳に行かずに常念岳に向かった。そして、佐由理さんと九年ぶりに再会した。その時と一緒だ。俺の心は変わりようがない。佐由理さんと生きて行く」
女のすすり泣く声が聞こえてきた。女の背中の震えを掌で感じていた。女が山野辺佐由理だと認めてくれていた。
しばらくして、女が泣き止んだ。
「四年間、ずっと探し続けた。逢いたかった」
「うちも、文造はんに逢いとうて、逢いとうて、気が変になりそうやった」
上高地温泉の宿を出たふたりは、京都まで同行するはずだった。文造は京都の下宿に帰るつもりだったし、佐由理は祖母の家に帰るつもりだった。それなのに、松本駅で佐由理が姿を消してしまったのだった。
が、佐由理の心から自死への思いが消えていると、文造は確信していた。上高地温泉の夜に、佐由理とびっしょりと濡れ合いながら、互いの心と心とを絡まり合わせたから感じられたのだ。だから、自死などしないと分かっていたのが、せめてもの救いだった。絶対に探し出すと、文造は決心した。
どうして松本駅で姿を消したのか訊きたかった。が、それよりも、四年の時を隔てて佐由理と再会できた歓びの方がはるかに勝っていた。
「なっ、顔をみせてくれ」
佐由理が胸に埋めていた顔を上げた。むせび泣いた余韻を留めた目元と唇が、潤むようにして文造を誘っていた。愛しくてならなかった。
「綺麗だ……佐由理さん」
「佐由理、と呼んでおくれやす」と、女の唇が動いた。涙の色を盗んだ唇が震えるほどに艶めかしかった。
「佐由理……」と、愛しい女(ひと)の名を呼んだ。
「へえ」
「接吻していいか」
「ええよ」
上高地温泉のめくるめく夜へと帰って行く接吻ではなかった。たちこめる霧となってしっとりと濡れ合い、二人の世界へと帰ってきたのを確かめ合う接吻だった。静かな接吻だった。それでいて濃密な接吻だった。
それぞれに四年を生きた二人が、それぞれの思いを絡め合わせて一つにした世界は、深い霧に抱かれた世界そのものだった。
絡め合った唇を解いてから、どれほど経ったのだろう。
佐由理が、「霧が薄くなってきはりましたな」と言った。
「薄くなってきた」
「霧の世界って、あらゆる色を奪い去って白一色に塗りつぶしてしまいはると思うていたら、違(ち)ごうてました」
そういうと女が「ほら、みておくれやす」と言って指さした。
薄れかけた霧の合間に、おぼろげに色が浮かび上がっていた。微かだが色がよみがえっていた。が、色がよみがえってきただけで、形はおぼろげに消えたままだった。
「うちは草木染めをしてます」と言った女が、「文造はんは草木染めを知ってはりますか」と訊いた。
佐由理の口から草木染めという言葉を聞くとは思いもしなかった。
草木染めとは古くから行われていた伝統的な染色の技法だ。自然の草木から色を抽出する技法は、自然との対話を積み重ねる中で産み出されたものなのだろう。
文造は広島と長崎に原子爆弾が投下されてから、理性と科学を疑い始めていた。
その文造が医者になろうとしている。京都帝大の医学部に入学して四年になる。三年目の昭和二十四年の五月には新制大学になり、京都大学の医学部となったが、学んでいるのは西洋医学であり、科学を基本とした医学だ。が、文造は古くからの東洋の医学に興味を持つようになり、身体の神秘に触れるようになった。そして、身体の神秘に触れるにつれて無意識の闇を考えるようにもなっていた。
無意識の闇を考えていた過程で、古(いにしえ)の日本人がどんな色を愛でてきたのか興味が湧いてきた。文造は、日本の伝統的な色に関する書物を読むようになっていた。そうして、日本人が愛でてきた色が日本の風土と深く結びついたものだと教えられたのだった。
佐由理が草木染めをしている。そう思うと、身体の底から熱いものがこみ上げてきた。
「日本の伝統的な色に興味を覚えて色に関する本を読んだりしたから、草木染めも知っている」
「ほうでっか」
文造の心と共鳴したからだろうか、佐由理の声が明るく弾んでいた。
「うちが草木染めを始めたんは、文造はんと上高地温泉の夜を生きてからです。草木染めを始めて四年になります」と言って、綻びかけてきた霧をみながら佐由理が、「日本人て古くから微妙な風合いの色を愛でてきはった」と言った。そして、「あそこをみておくれやす」と指さして、「何色にみえはりまっか」と訊いた。
物の形はない。ふんわりとした色だけが浮き出ていた。
が、その色を一つの色に限定できそうになかった。
鼠色にもみえ、どこまでも淡い青色にみえ、ぼんやりと滲んだ緑色にもみえた。漂っている霧の粒子の濃度が瞬時に変化しているのだろう。微妙な濃度の変化で、鼠色にみえたり、青色にみえたり、緑色にみえたりしているのだろうか。
「一つの色に絞れない。鼠色にみえたり、青色にみえたり、緑色にみえたり。霧の濃淡が変わっていく毎に、刻々と色が変わっていくように、俺にはみえる」
「うちの目にもそないにみえます。日本の伝統的な色を調べると、色と色との境目に行き着きます。ほんで、その境目が限りのう曖昧なんです。よう分からんようになる。今、うちと文造はんがみているのが、その限りのう曖昧な色と色との境目やと思います」
日本の気候は湿潤であり、大気中の湿度がめまぐるしく変化する。その上に四季があるから、なおさら変化が複雑になるのだろう。一時も同じ姿をとどめないその複雑な変化が、様々な色を生み出す源なのだろうか。そうしたことは頭では分かっていたが、色と色との境目に辿り着いた佐由理の色に対する感性が、文造は愛おしくてならなかった。そして、色と色との境目を佐由理によって教えられ、その姿を佐由理と二人でみていることが、たまらなく嬉しかった。
四年の時を経て再開したというのに、深い霧の中に浮き上がってきた色について話しているのが、おかしくもあり、嬉しくもあり、なぜかそれぞれの四年を生きたふたりの再会に、これ以上相応しい会話はないと思えたりもした。こうした会話を作ってくれた深い霧に、文造は感謝した。
「鼠色に浅黄鼠(あさぎねず)いうんがあります。ほんのりと青緑色を帯びた鼠色なんやけど、うっすらとした青にもみえ、緑にもみえる。空色鼠(そらいろねず)に至ってはもうほとんど水色に近い」
「佐由理が指さした色は、浅葱鼠の色ということになるのか。それとも空色鼠になるの」
「どちらでもあって、どちらでもあらへん。そないにしか、うちにはよう言えまへん」
「あそこには、もっと違った色が隠れているのかもしれないな」と文造が言った直後だった。霧の中に浮かび上がった色をみていたはずの女の視線が、ゆっくりと移動するのを感じた。熱く貫き通すような視線だったから気づいたのだろうか。文造を抱きしめるようにしてみている。
「どうかした」と、掠れる声で文造が訊いた。
「もっと違った色が隠れている、と文造はんは言わはった。その表現が嬉しくて……」
何気なく言ったつもりが、女の心の琴線を鳴らしたのだろう。佐由理もまたそう思って、霧の中にぼんやりと浮かび上がった色をみていなければ、佐由理の心の琴線が鳴ったりはしない。
「文造はんが言わはるように、霧の世界はあらゆる色を裡(うち)に隠してはるのや、いうんが初めて分かりました」
佐由理が言った言葉が、文造の胸を刺し貫いた。「あらゆる色を……」と文造がその言葉を繰り返して、「佐由理にはあらゆる色がみえるのか」と訊いた。
うなずいた女が語り出した。
「青系統の色には、白縹(しろはなだ)いうんがあって、白なのか水色なのかよう見分けがつかへん曖昧な色です。藍染めの中にも白藍(しらあい)いう色があって、ほんのりと黄色味がかった白っぽい水色なんやけど、白にも水色にもみえ、限りのう白い鼠色にもみえる、そないな色がありますのや。
緑系統の色にもな、沈香茶(とのちや)いう色があって、鼠色がかった青緑色なんやけど、見方によっては、鼠色にも青色にも緑色にもみえますのや。
うちはさっきまで霧の世界に浮かび上がってきた色を観察していたのやけど、最初は、今言うたような鼠色と青色と緑色の境目にある色ばかりやったのに、霧が薄れてくる毎に、鼠色は鼠色の中で、青は青色の中で、緑は緑色の中で、それぞれに濃淡をつけて変化してきはった。
するとな、ぎょうさんの色がみえてきたのや。霧の世界にはあらゆる色が隠れてはるのやなあ、と教えられました」
佐由理の色への拘りと、色を見分ける感性は驚くばかりだった。
「黒も茶色もみえたのか」
「へえ。鼠色を濃くしていけば黒になります。茶色にはドングリで染めた白橡(しろつりばみ)いうんがあって、これも鼠色か茶色かよう分からん色合いです。
霧の世界は物の色と形とを溶かしてしまってはるのやないやろか。霧が薄れてくると最初に現れるのはぼんやりとした色で、その色は、色と色との境目にある限りのう淡いもんやさかい、どの色に当てはまるんかよう分からんようになってなはる。
ほんで、霧の世界に形が浮かび上がるとともに、色と色との境目をさまよいはっていたあやふやな色が、はっきりとした色となって浮き出てきはるのやと思います」
色を語り出した佐由理は、驚くほど饒舌だった。佐由理の色への思いがどれほど強いものなのかの証だと思えた。
霧の世界は、佐由理が言ったままの光景をみせていた。色と色とが溶け合って、色があって色のない、色の境目という世界から抜け出して、色自らの主張を始めていた。そして霧の中に物の形がうすぼやりとした影となって浮かび上がっていた。霧の粒子を透かしてみているからだろうか、粒子の一つ一つが色をもった点描派の絵をみているかのようだった。霧が薄れていく毎に、色が濃くなっていくのが分かった。が、霧の世界は一様ではなかった。薄れて綻びをみせている箇所があるかと思えば、白一色に塗りつぶされた箇所があった。その姿すらもめまぐるしく変化していた。綻んだり、濃くなったりと、霧の世界が生きて呼吸をしながら漂っている証拠だった。
鼠色に染まった霧の粒子と、青色に染まった霧の粒子と、黒色に染まった霧の粒子が点となって描き出した、ぼんやりとした縦に長い影は、林立するブナの幹なのだろう。漂う霧の流れと霧の濃淡の変化に合わせて、鼠色になったり、青色になったり、黒になったりしていた。緑系統の色に染まった粒子が描き出しているのは、新緑のブナの葉とクマザサに違いない。
佐由理の言ったことに間違いはなかった。鼠色にみえていた影が、霧が薄れてくると茶系統の色へと変わってみえたり、黄色系統の色にみえたりした。ブナと灌木の枝なのだろうか。
「文造はんは、日本の伝統の色に関する本を読んだと言わはりましたな」
「うん」
「せやったら、黒と赤がどないな意味を持ってはる色か、知ってますのやろ」
「生きとし生けるものの生命(いのち)を生み出し育んでくれる、生きる根源のような存在である太陽が昇ってくるときの色を、夜が明けるのアケルから転じて赤とした。
黒は、太陽の光を奪い去って物をみえなくする夜の闇であり、古代の人は死の世界に重ね合わせて恐れていた。黒という語源は、日が暮れるのクレルから転じた」と話した文造が、「そう理解しているが、間違っているか」と尋ねた。
「違うてまへん」と言ってうなずいた佐由理が、「黒という色を人は何から作り出しはったかも、文造はんは知ってなはりますのやろ」と言った。
「人が火を使うようになって、炎からでる煙で天井に煤(すす)がつく。その煤から墨をとった。その墨が人が最初に作り出した黒の色になったと書いてあった」
顔に笑みを浮かべて頷いた佐由理が、「人にとって火も、太陽と同じように生きる上でなくてはならへん生命の源です。ほんで、太陽が昇りはるときの色と同(おんな)じ赤」と言って、「残念ながら、新緑の季節やからこの霧の世界には赤はありまへんな」と付け足した。
「いや、あるよ」
「どこにでっか」と言って女が辺りを見回した。
「佐由理にはみえない。俺にしかみえない」
「何ででっか」
「佐由理の唇の色だから」
ほんのりと佐由理の頬が赤く染まったようにみえた。
「もう一つ赤い色を、さっき見つけた」
「……」
「接吻したときに絡め合った……、佐由理の舌の色」
女の頬にはっきりと赤い色が浮き上がっていた。
「もう、文造はんはいけずやなあ」
夜の闇が死の世界なら、日が昇って生まれる光の世界は生の世界になるのだろう。そして、死と生とを結びつけて循環させているものは性になるのだろうか。文造はこれまで無意識の世界を夜の闇に重ねてみていた。が、考えてみれば矛盾していた。夜の闇は死の世界だからだ。無意識の闇は生の中になければならなかった。生の世界にあって、白昼の光の世界である意識の世界と異質な世界が、無意識の世界でなくてはならないはずだ。それを教えてくれたのは佐由理だ、と文造は確信した。佐由理への愛おしさはつのるばかりだった
夜の闇の黒が死の世界で、白い霧が無意識の世界なら、性は何色になるのだろう、と思った。
文造が佐由理の肉厚の唇をみた。佐由理の唇の色でなければならなかった。
文造は、性は死と生との輪廻を結びつける神聖なものであり、古代の祭りとはそうした意味があったと理解していた。火炎の模様をした縄文土器も祭りと深く関わるものだったという。火炎の色が赤ならば、性は赤でなくてはならなかった。だから、佐由理の唇の色でなければならなかった。
佐由理は天の川の中に、もうひとつの真っ赤に濡れた妖しげな唇を隠していた。
みつけたのは上高地温泉のめくるめく夜だった。
布団に仰向けになった文造に、みせつけるかのように浴衣を脱いだ佐由理の天の川を下からのぞいた時だった。
佐由理の天の川はびっしょりと濡れていたのだろう。
スタンドの明かりを吸って光りを放っていた。
天の川の
割れ目は
花びらとなって
少し開きかけていた。
その割れ目の奥に、文造は佐由理が隠していたもうひとつの唇をみてしまったのだった。
雨のしずくを吸って艶やかに赤の色を増した佐由理の唇の色が、死と生とを結びつける性の色であり、佐由理と上高地温泉の夜に分け入っためくるめく性の色だった。
「四年前に常念岳と蝶ヶ岳の稜線で、佐由理と再会した時も、こんな深くて果てがない霧の世界をさまよったのだと思う」
「深くて果てのない霧の世界でっか?」
「佐由理の心を蔽っていたのは、深くて果てのない霧の世界だった」
溜息をついた佐由理が、「うちの心の深くて果てがない霧の世界はどないでした?」と訊いた。
「行けども行けども果てがない樹海のようだった……。色をみつけたと思ったら、直ぐに違う色が浮かび上がってきた。どれが佐由理の心の色なのか、樹海は教えてはくれなかった」
「霧の世界をさまよい歩きはったんか」
「佐由理の真心を求めて、さまよい歩いた」
すこし間を置いて佐由理が、「真心はみつけはったんでっか」と訊いた。
「さっきの接吻で、やっと佐由理の真心に辿り着いた」
「ほうか、みつけてくれはったんでっか」と言った後で、佐由理が「おおきに」と頭を下げた。
「文造はん」
「うん?」と返事すると、「登山道がうっすらとみえてきはったから、里へ戻りまひょか」と言った。
霧は薄れていた。雲間から日が射してきたからなのだろう。霧の中を這っていく登山道がうっすらと浮かび上がっていた。
「里に下りたら、うちが暮らしているお婆ちゃんの家(うち)にきてくれはりますか」
「連れて行ってくれ」
「逢わしたい人がおります」
「逢わしたい人……?」
「うちを生きさせはった、大切な人です。うちの宝物です」
誰だろうと思った。が、直ぐに文造は思い当たった。直観だった。
「文造はん」と女がまた名を呼んだ。
「うん?」と言って女をみると、「先に歩いておくれやす」
「どうして」
「後ろから文造はんにみられながら歩くの叶わんさかいに」
うなずくと、文造が先になって歩き出した。
今更ながらに、四年前の佐由理と印象が違っているのに気づいた。京都弁を使っているから、穏やかで優しげな感じがするのかもしれない。が、京都弁だけが佐由理の印象を変えているとは思えなかった。
四年前の佐由理は、生と死の境をさまよい歩いていた。心に余裕などあるはずがない。死に誘惑されながら、生にしがみつこうともがいていた。それが、佐由理の切羽詰まった言葉と行動に乗り移っていたのだろう。
そして、もう一つ。佐由理にかけがえのない宝物ができたからに違いなかった。佐由理にとっての宝物は、文造にとっても宝物のはずだ。
文造は歩きながら声に出さずに、背中で、「ありがとう」と佐由理に礼を言った。
※
今日で、3・11から12年になる。
テレビと新聞の報道は、通り過ぎていった過去の回顧でしかない。それも紋切り型だ。
3・11が単なる思い出として消費されようとしている。
わたしにとっての3・11は思い出にはならない。何故ならば、3・11が新しい未来を切り拓くための「出発点」であり、「原点」だからだ。
3・11は、わたしに、西欧近代主義のパラダイムの崩壊をみせてくれた。
西欧近代主義のパラダイムは、地球と人類とを破滅へと導くものだ、と教えてくれた。
今日は、「三月十一日」だ。だから、逆に、わたしは3・11について多くを語ろうとは思わない。3・11とは何か、この連載長編小説で語るつもりだ。今年中には何としても脱稿したい。
今回アップした箇所は、自画自賛かもしれないが、良い出来映えだと思う。わたしが目指す描写に近づいてもいる。「三月十一日の心」そのままだ。今日に相応しいと思っている。