三月十一日の心(上)

 ウクライナ戦争は、日本人が「祖国」という言葉に如何に感情移入し易いか、驚きをもって教えてくれている。
 国会議員も同様だ。リベラルと左翼までが、「祖国」という言葉にがんじがらめになっている。知識人までがそうなのだから、驚きを通り越して、滑稽ですらある。
 これまで自分たちが主張してきたことと自家撞着し、これまでの主張が根底から崩れ去ってしまうことに思いが至らないのだから、日頃から人間の言葉を覚えさせられたオウムのように、来る日も来る日の「理性だ、知性だ」と言っていたのに、その理性と知性のあまりのお粗末さに呆れかえる。
 れいわ新選組以外の野党議員と、いわゆる知識人は、どうも「祖国」という言葉に絶対的な思い入れがあるとしか思えなくなってきた。結局は、最後は「祖国」への宗教のような思い入れから、国家の視点と論理を優先する意志決定が、何のためらいも疑念ももたず行われることが、ウクライナ戦争を通じて明らかにされた。
 最終的には「祖国」への思い入れから、国家の視点と論理を最優先するなら、国家の視点と論理で強行されている沖縄の辺野古新基地建設への批判も成り立たなくなる。極論すれば、原発建設反対も、リニア建設反対も成り立たなくなる。これは極論だが、そうした論駁の根拠を国家権力に与えてしまったといえないか。侵略を受けてのやむにやまれぬ最終手段としての「祖国防衛」だから仕方がない、という理屈は通らないと思う。
 なぜなら、この最終段階で浮かび上がってくる二つの決断の道は、自由と平等と基本的人権としての国民主権と、国家主権と、どちらを優先するかとになるからだ。「祖国防衛」を優先させ、ゼレンスキーのように総力戦体制で徹底抗戦するのを「正義」とみなし、その戦争を「正義」とするということはそうした意味になる。
 不思議なのは、わたしがこれまで抱いてきた「リベラル」と「左翼」のイメージが、根底から崩れ去ったことだ。この二つの決断の道で、自由と平等と基本的人権としての国民主権を優先するのが、いわゆるリベラルであり、左翼だとイメージしてきたからだ。これでは形を変えた「国家主義」でしかない。
 左翼が「祖国防衛」の道に突き進むなど信じられない。特に、マルクス主義を掲げる日本共産党にいたっては矛盾でしかないし、自殺行為だろう。なぜなら、国家という見方を否定し、国家を階級闘争としてみているはずだからだ。国家の姿とは不変でないし、下部構造を作り上げている階級によって、法律とか行政とか政体とか、広くいえば社会の姿が作られているという思想のはずだからだ。
 労働力以外に売るものがない労働者階級が支配する社会になれば、西洋近代主義が掲げる人類の普遍的価値である自由と平等と基本的人権が、真に息づく社会になるという思想ではなかったのか。
 フランスのレジスタンス運動にしても、根底にあるのは「祖国防衛」ではなく、自由と平等と基本的人権の死守だったはずだ。
 そういうと、日本共産党はこう反論するはずだ。ウクライナ戦争におけるゼレンスキーの決断を支持するのは、ウクライナ国民の自由と平等と基本的人権を死守するためだと。
 わたしはこの反論に言葉ではなく「沖縄戦」の地獄絵図を突きつけたい。ゼレンスキーがやっているのは、国民に「沖縄戦」の地獄を生きろと言っているに等しいのではないのか。戦場になったウクライナの都市の変わり果てた姿と、至る所に散乱している腐乱して死臭を放っている死体を見るがいい。この戦場に、そもそもが、人類の普遍的価値である自由と平等と基本的人権があり得るのか。
 言いたくはないが、日本共産党がウクライナ戦争で垣間見せた「国家主義」の匂いに、日本共産党が憎悪し敵対する旧ソ連と中国共産党に通じたものを嗅ぎ取ってしまう。その匂いとは全体主義の匂いだ。
 日本会議が背後にいる政府自民党が雪崩れ込もうと必死になっているのは、戦前の日本ファシズムの体制であり、この体制は超国家主義であり全体主義だ。
 わたしがウクライナ戦争を切っ掛けにして日本共産党に幻滅し、失望し、決別したのは、この匂いを嗅ぎ取ってしまったからだ。西欧近代主義を母にもつ双子の資本主義と社会主義だから、土台には機械論があるので、特に理性と科学とを絶対視して、機械論に特有のオンかオフかの二分法的な思考回路に陥れば、容易に全体主義になる。ハンナ・アレントの指摘を持ち出すまでもない。

 中東の地図をみてほしい。国境線を辿っていくと、違和感に突き動かされないか。
 定規で線を引いたような奇妙な国境線に気づくだろう。これが西欧近代主義と一体となった国民国家というものの正体であり、おぞましい本質だ。
 この国境線を引いたのは誰だ?
 そこに生きていたムスリムではない。欧米(正確には欧州)だ。植民地を分割統治するために、「そこは俺のもんだ、絶対に譲れない。その代わりにこっちをやるから妥協しろ」とあーだこーだの欲と欲との突っ張り合いの産物が、中東の奇妙な国境線の理由だ。
 勝手に欧米によって決められ、国民国家として分断さて線引きされたから、そこで暮らしていたムスリムにしたらとんでもない話しだ。同じ民族が線引きで、違う国民国家にされ、言語も文化も習俗も違う社会が、一つの国民国家と無理矢理にされてしまったのだ。こうして欧米は傀儡国家を作り上げたのだ。
 こうした歴史を踏まえれば、どうして中東が火薬庫と言われるのか分かろうというのもだ。紛争になる火種を常に抱えていることになる。ちょっと薪をくべれば火となって燃え上がる火種がそこにあるのだから、欧米の軍産複合体が黙って見ているはずがない。紛争の火種とは奴らにとって黄金を生み出す打ち出の小槌だからだ。
 奴らは狡猾だ。自分達で薪をくべることはしない。自分達の拠点がある欧米の国家を操って、国家の仮面をかぶり、人類の普遍的価値である自由と平等と基本的人権の錦の御旗を高々と掲げて、薪をこれでもかとくべて赤々とした黄金を生み出す紅蓮の炎を作り上げる。この紅蓮の炎が、おぞましい戦争であり、戦争の絡繰りなのだろう。
 こうしてみてくると、西欧近代主義と一体となた国民国家というものが、戦争を生み出す要因になっていると思えないか。
 ウクライナ戦争も、一方的に侵略したロシアが絶対的に悪玉であり、「ロシアとプーチンへの憎悪を燃え上がらせて、ロシアとプーチンを叩き潰せ、ウクライナの正義の戦争に連帯し、武器を送れ!」と熱狂的に叫んでばかりいると、ウクライナという国民国家がモザイク状の国家であるという事実に気づかないでしまう。言語も違う。文化と習俗が違う。暮らし方と価値観も違うモザイク模様の国家なのだ。それを一つの国民国家という鋳型に無理矢理はめ込んでいるという現実が先ずある。
 その危うい国家に、ウルトラスという化け物が台頭したらどうなるか。
 ウルトラスはヨーロッパ各地に雨後の竹の子のように勃興してきたならず者の集団だ。驚くべきは、サッカーのサポーターを装っているが、フーリガンをはるかに超えて、サッカー観戦が目的ではなく、敵のサポーターと乱闘するのが目的であり、その乱闘を生き甲斐とし、歓びとしているという信じられない集団だ。その首領格の者が「サッカーは好きではない」と言っているのだから、眉をしかめたくなる。
 乱闘を戦場と置き換えられないか。つまり、人を殺し、殺される戦場に生きがいを見出し、歓びを感じている集団なのだ。アメリカの帰還兵が人間性を失い、元の日常に戻れなくなって、戦場のおぞましいもう一人の自分を忘れようと酒浸りになり、ドラッグに走り、そして廃人同様になってのたうち回っているというのに、奴らはその戦場を生き甲斐にし、歓びを感じているのだから化け物としかいえない。
 奴らを作り上げているのは、底なしのニヒリズムと、暴力礼賛(力への信仰)と、差別主義と、刹那主義と、破壊願望なのだろう。だから奴らは、そうした感情の象徴であるナチズムへの憧憬がある。確固とした思想としてのナチズムではない。感情的憧憬としてのナチズムだ。
 奴らを産み落としたのは、間違いなく欧州を席巻しているグローバリズムであり、グローバリズムが生み出した超格差社会と、出口が見えず、明日が見えず、今日を生きることだけしか考えられない、社会を覆い尽くした黒々とした闇のような閉塞感なのだろう。
 ウクライナのウルトラスは特異だ。
 なぜなら、ステパン・バンデラの思想であるウクライナ民族至上主義を、2014年のユーロマイダンを先頭に立って生きることで身にまとってしまったからだ。バンデラはナチスに協力したウクライナでの凄惨なホロコーストを体験として潜っている。ウクライナ民族至上主義は、白人主義であり、反スラブ主義=反ロシア主義でもある。
 戦場を生き甲斐とし、歓びとし、軍隊組織のような様相をしていたウクライナのウルトラスだから、ウクライナの民族自決、真の独立国家を掲げて政権転覆へと雪崩れて行ったユーロマイダンの戦闘において、獅子奮迅の活躍をするのには必然性があったというべきなのだろう。
 ユーロマイダンを経て、ホロコーストに手を染めた
ステパン・バンデラの名誉回復が行われ、ウクライナという祖国の英雄に祭り上げられた事実に注目すべきだろう。そして、ウルトラスを英雄視する社会的雰囲気も出来上がってしまったといえるのだろう。ウルトラスは、この後、東部の親ロシア派勢力との紛争地へと移り、アゾフ大隊へと姿を変えていくことになる。そして、やがて正規軍に組み込まれ、軍部と政権への影響力を持つまでになるのだ。
 こうした社会的、そして政治的流れの中で、ゼレンスキー政権は、軍事同盟であるNATOへの参加の姿勢を鮮明にしたことになる。
 ウクライナと欧米が仕掛ける情報戦と、ロシアが仕掛ける情報戦を避けて、わたしなりに、ウクライナ戦争より前に書かれたものや、欧米の報道機関のニュースなどを辿って描いた、ウクライナ戦争までの背景だ。

 もちろん、ウクライナに侵略したプーチンとロシアに非があるのは当然であり、プーチンとロシアの行為は断じて正当化できないし、許せるはずはない。
 が、ロシア悪玉と絶叫し、ロシア憎悪を沸騰させ、ウクライナの徹底抗戦は「正義の戦争」だと、なりふり構わず感情移入している姿に、わたしは狂気を覚える。そして、欧米の武器輸出を批判せずに黙認している、れいわ新選組以外の野党の見識のなさと、欺瞞性に反吐が出る。
 アメリカはウクライナに戦車を供与することを認め、第二次世界大戦時に作られた法律まで復活させた。ウクライナへの武器供与のエスカレート振りは異常だ。明らかに停戦を働きかける意志はない。この行為は参戦とみられかねない暴走だ。
 ひょんなことから、アメリカがいつ参戦してしまうかも分からない危機的な状況だ。そうなれば日本もウクライナ戦争へと参戦しなければならなくなるのは必至だ。アメリカによって自衛隊は最前線に送り出されるだろう。忘れてはならないのは、ロシアは日本の隣国だということだ。北方領土にはロシアのミサイル基地があり、54基の原発がある日本本土を向いている。
 れいわ新選組以外の野党は、こうした危機的な状況が頭に入っているのだろうか。不思議でならない。そればかりか、ウクライナの「正義の戦争」に感情移入して、ロシア憎悪を煽りに煽り、ロシアの侵略行為を罵倒すればするほど、「祖国」と「祖国防衛」への国民の思い入れが激しくなり、ナショナリズムへと心をかき立て、いつ何時ロシアと中国が侵略してくるか分からないから、強大な軍備を持ち、核を保有し、自衛隊を軍隊にする憲法改正をしようという社会的空気を、野党自らが作り上げているマヌケさと、犯罪的行為に少しは気づいたらどうなのか。これでどうやったら参議院選を戦えるのか。れいわ新選組だけが正気だ。はっきりと、日本が置かれたこの危機的状況を見据えている。

 国民国家とは何か?
 この国民国家とは死を顧みずに死守すべき「祖国」なのか?
 民族という視点でみれば、国民国家は死守すべき「祖国」とはいえないはずだ。スペインとフランスをまたがってバスク族が生きている。かれらにとっての「祖国」とはスペインなのか、それともフランスなのか?
 イランとトルコとイラクに分断されたクルド民族にとって「祖国」とは、イランなのか、トルコなのか、イラクなのか?
 わたしは国民国家と戦争の関係を考えるときに、パレスチナの地にシオニズムによって建国された、ユダヤ人のイスラエル国家を想い浮かべる。
 イスラエルという国民国家が建国される前には、パレスチナの地で、パレスチナ人とユダヤ人とアラブ人が仲良く暮らしていたのだ。それがどうだ。イスラエルという国民国家ができるやいなや、パレスチナ人とユダヤ人とアラブ人が、憎悪の火を燃え上がらせ、殺し合いを始めるのだ。
 イスラエルという国民国家とは何か?
 パレスチナという空間としての国家ではない。パレスチナという空間で生きていた人たちの暮らしと文化と習俗としての国家ではない。
 では、何のための国民国家なのか?
 人間の意識が作りあげた「シオニズム」こそが国家なのだ。この「シオニズム」そのものの国家が分断を生み、戦争という人殺しを生んだといえないか。
 国家とは、国民国家とは、何と罪作りなものか、そして何と実体のないものか。
 国家とは、そこに在って手に触れ、呼吸し、匂いを嗅ぎ、みることも耳で聴くこともできないものなのだ。なぜならば、人の意識が作り上げた幻想でしかないからだ。
 戦前の日本ファシズム国家が、降伏をせずに最後まで拘り抜いたのが、あろうことか「国体」なのだ。つまり、戦前の大日本帝国日本という国家は、「国体」こそがすべてであり、「国体」そのものが国家だといえるのだろう。
 この「国体」という国家=「祖国」を死守せんがために、特攻隊という美名で正当化し、あたら若い命を奪ったのだ。そして、沖縄人は沖縄戦という地獄絵図を生きることを強いられ、東京には雨あられとなって焼夷弾が落とされ、業火の中を逃げ惑い、焼かれ、死んでいった夥しい数の民衆がいる。トドメは、広島と長崎に落とされた原子爆弾だ。国家そのものである「国体」を死守するために、すべての極悪非道の犯罪行為が、「祖国防衛」という美名でご破算にされ、有耶無耶にされ、正当化さえされたのではないのか?
 国家そのものである「国体」とは何ぞや?
 幕末の後期水戸学が作り上げた思想でしかない。そんな思想が国家なのだ。そうではないのか?
 国家とは、愛する故郷でもなければ、原風景でもなく、子供の頃に遊んだ小川や雑木林ではなく、幕末の茨城県の水戸藩で作られた思想という妄想ではないのか?
 わたしは誰よりも日本の風土を愛し、日本の原風景を愛し、日本の伝統と文化を愛している。伝統と文化といっても、日本会議のいう明治維新政府がでっちあげた一神教的国家神道ではない。
  そうしたわたしの愛する日本的なるものを守るには、戦争では絶対に守れはしない。なぜならば、戦争とはそうしたものを徹底的に破壊するものだからだ。わたしの愛する日本の原風景とは、風景に日本人の暮らしと文化と命とが染み込んだものであり、風景と人との関係性と、人と人との関係性が目にはみえないが、息吹として風景の中に溶け込んでいるのものことだ。だから懐かしいのだ。そうしたかけがえのないものは、戦争とは真逆だ。
 戦争で守れるものは、おぞましい「国体」という妄想だけだ。誰のための「国体」であり、妄想なのか。民衆のためではないはずだ。国家権力のためのものではないのか?
 野党の偉い国会議員に問いたい。
 自民党と公明党と維新と国民民主党の議員に訊いても、訊くだけ無駄であり、答えはみえている。わたしが訊きたいのは、れいわ新選組以外の偉い議員先生であり、日頃、自由と平等と基本的人権を口にし、リベラルを標榜したり、左翼を謳ったりしている偉い議員先生たちだ。
 「祖国防衛」を是とし、「祖国防衛」の戦争を「正義」といっているが、あなたちの「祖国」ってなんですか?
 国家主権なんて口にするのは、答えになっていませんよ。国家=「祖国」は何かと訊いているのだ。
 国民の自由と平等と基本的人権は、国家なくして存続できない、というのも答えになっていない。なぜなら、「祖国防衛」の「正義の戦争」が強いるのは人殺しですよ。人殺しをし、殺されて守る自由と平等と基本的人権ってあり得ますか?
 欺瞞と自己矛盾はいい加減にしろ、と言いたい。

 戦争をなくすには、わたしはグローバリズムではなく、徹底的なローカリズムなくしては不可能だと思っている。そして、多神教的な精神土壌がなくては不可能だと思っている。最近、多様性などといわれているが、言葉だけで、欺瞞性も甚だしい。
 徹底的なローカリズムを追求していけば、自ずと国民国家の枠組みは崩れ去ると思う。そして、徹底的なローカリズムを追究するとすれば、去年亡くなった内橋克人が提唱した「FEC自給圏」になるのだろうし、宇沢弘文のいう「社会的共通資本」が重要な要素となるに違いない。
 内橋克人のいう「FEC自給圏」は共生を基本とした社会であり、循環型の社会だ。膨張する意志もなければ、拡大再生産し無限に成長する資本主義社会の資本の本能もない。だから、無限に成長するために必要な欲望の拡大再生産もない。充足を知る社会であり、だからこそ自然との共生ができる社会でもある。
 わたしがブログで連載している長編小説『三月十一日の心』は、そうした社会を小説の中で実験的に創り上げるという野心をもつものだ。
 そして、西欧近代主義の乗り越えという基本的なテーマが核にある。西欧近代主義の乗り越えを考える上で、3・11のもつ意味は重要だと思っている。人間の理性と科学信仰の行き着いた破滅として捉えているからだ。
 西欧近代主義の心身二元論の乗り越えとしての東洋思想の「身体論」も当然に、小説の中で展開する。
 10才の少女だった文子が、逢生山で少年とめぐり逢い、3・11を生きることで、少年の姿が文子の中に浮かび上がり、文子の心を揺さぶり、少年への想いが文子の中で不動となってしまう。文子が少年とめぐり逢ってから20年のときが過ぎた。20年後に、少年と再会するために、文子は旅に出る決心をするのだが、その愛を訪ね歩く旅路の中で、文子にとっての3・11とは何か、3・11のもつ意味とは何か、どうして3・11を生きたことで忘れていた少年への愛が甦ったのか、考え始めるのだ。そして、それまでの生き方と価値観を疑いだすのだ。文子にとっての少年を追い求める旅路とは、文子のこれまでの生き方と価値観とを乗り越え、新しい生き方と価値観へと辿り着くためのものに思えてくるのだ。
 ブログで連載している長編小説『三月十一日の心』はまだ途中だが、上巻だけKindle電子書籍として出版している。出版と同時に、無料キャンペーンをしたのだが、また無料キャンペーンをすることにした。
 4月12日の14時頃まで、Kindle電子書籍として出版している長編小説『三月十一日の心 上』の無料キャンペーンを行う。
 是非とも読んでいただきたい。渾身の野心作だ。
 AmazonのURL

https://www.amazon.co.jp/Kindle%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2/s?rh=n%3A2250738051%2Cp_27%3A%E5%8C%97%E6%9E%97%E3%81%82%E3%81%9A%E3%81%BF%2F


 そろそろ夏野菜の準備をしなければならず、畑作業が忙しくなった。
 新しく借りた畑は無料なのだが、放置されていたところなので、開墾しなければならない。スコップで掘るのだが、ドクダミの根が半端ではない。悪戦苦闘でほぼ終了した。現在も借りている有料の市営の貸し農園と二カ所になるので、忙しさも二倍だ。大量に植え付けたジャガイモの芽が伸び始めた。育苗箱に撒いた3種類のトマトも順調に発芽した。今年は50本以上植えるつもりだ(笑)
 そのうちに、新しく開墾した畑の写真をツイートするつもりだ。
 畑仕事の合間にスマホでTwitterを覗いたりしているが、どうもスマホではツイートする気になれない。連続ツイートが多いからだろう。リツイートといいねくらししかしない。
 やっと、この記事を書き終えたので、これから弁当を持って、二カ所の畑に出かける。よって、このまま更新してしまう。誤字、脱字がもの凄いだろうが、どうせバカだから、どう思われようが気にしない。そうした意味では、作家失格なのだろう。が、自称作家なので、それも気にしない(笑)
 それでも、作家としての心意気と覚悟と信念と矜持だけは、誰にも負けないと自負している……つもりだ。